山の辺の道  @日目

    No.1.....2002年 9月22日(日曜)


行く先の目次... 前頁... 次頁... 奈良盆地の地図... ...てくてくまっぷNo.10


近鉄電車(急行)に乗って約25分で桜井駅に到着。さっそく「てくてくまっぷ」を調達しようと駅をうろうろするが、アレ、「山の辺の道コース」が置いてない。「No.50 大和三山回遊コース」と「No.39 多武峰・飛鳥の里コース」だけが積んである。

まあここでもよいかと「まっぷ」をながめていたら、駅員さんが「No.10 山の辺の道」を持ってきてくれた。やっぱり「山の辺」にする。道がラクそうだから。


「No.10 山の辺の道コース」の「てくてくまっぷ」は右のもの。(同じものは、近鉄電車のHPの てくてくまっぷ から手に入れることができます。)

山の辺の道コースは、桜井駅→海柘榴市(つばいち)→石上神宮(いそのかみ)→天理駅までの15900mとある。16Kmも歩けるとは思えないので、図の赤いところだけを歩くことにした。

今日の終点は桧原神社(ひばら)。桜井駅から4500mとある。これでも寄り道をしたり、別コースを通って桜井駅までもどれば、約10Kmほど歩くことになるか。


出発。駅前の歩道に「山の辺の道へ」の標石がある。まだこの道は山の辺の道ではない。しまいに「へ」がついている。この道を進めば「山の辺の道」へ行けるらしい。




真東を向いて進む。向こうの山々を越えると名張。




東行きから左に折れて北進。正面に三輪山が見える。(神宿る)神南備山としては一番有名な山。

ふもと(写真の左側)には大神神社(おおみわじんじゃ)がある。ご神体は三輪山。ここも山の辺の道コースに入っている。

手前のガードレールにそって初瀬川(はつせ)が流れている。



橋を渡りつつ右手(東)の川上を見る。川をさかのぼれば長谷寺にたどり着くき、さらに奥へ進めば室生寺へ。さらにさらに山を越えれば名張である。

河川敷はきれいに整備されている。



橋を渡り、すぐに右折して、反対側の土手道を東進する。日曜日なのに散策者はない。

川上に橋がかかっているが、そのあたりが海柘榴市(つばいち)。ここにはいったい何があるのか。




めざす橋に到着。橋の欄干には、右側に「やまとがわ」、左側に「うまいでばし」とある。

奈良盆地には四方八方の山から川が流れ込んでくる(地図を参照)が、これがどこから海に流れ出るかというと、盆地の西側の信貴山と二上山の間に1か所だけ山が切れているところがあって、ここに全ての川が集まり、大和川(やまとがわ)となって大阪湾へ出ていく。

いま辿っている川は初瀬川だが、しまいには大和川になるので、橋に「やまとがわ」と書いてあるのはそういうことだろう。

「うまいでばし」とはどういうことなか。まさか大阪のたこ焼きは「うまいで」ではないだろう。




土手道をはさんで「うまいで橋」の反対側(北)に、「仏教伝来之地」の碑がある。横に説明があるので、どれどれ読んでみると、
    @ここ泊瀬川(初瀬川)一帯には、難波津から大和川を遡行してきた舟運の終点であった。

    A大和朝廷と交渉をもつ国の使節はここへ到着した。

    B欽明天皇の13年に、百済の聖明王の命による仏教伝来の使節もここに上陸したとされる。
ということのようだ。さらに読むと、
    C遣隋使の小野妹子が隋の使者を伴って帰国し、この場所に到着したが、このとき飾り馬75頭を遣わして、阿部比羅夫に迎えさせた。

とも書いてある。なるほどわかった。「うまいで橋」は「馬出橋」なのだろう。勉強になりますなあ。




仏教伝来の碑の右横の小道を通って土手を下る。土手には彼岸花が。






海柘榴市(つばいち)に到着。ここは日本最古の市であるそうな。

北の奈良・天理には山の辺の道。南へは山田磐余(いわれ)の道。東には伊勢へ通じる初瀬道、そして西へは初瀬川が大和川となって難波へ通じる。その難波は瀬戸内海から玄界灘を通って朝鮮へ、さらには中国へ通じるという四通八達の地であったと説明にある。

賑わいのなかで、人が集い、歌い、踊るという海柘榴市の「歌垣」が日本書記や万葉集に記されているとか。日本ではすでに失われた歌垣だが、司馬さんは「街道をゆく・2」の「韓のくに紀行」の中で、韓国でこれを見たと書いておられた。



しかしそれは今は昔のこと。賑わった市のかけらさえ残っていない。かすかに街道があったのかという風情があるだけである。



道を進めば、とたんに小路に変り、車は通れない。



崇神天皇の住居跡である「磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)跡」があると道標があったので、山の辺の道をはずれて行ってみることに。


あった。今は「志貴御県坐神社」(しきみあがたにます)になっている。敷地は狭い。あまり訪れる人はなさそう。

県(あがた)とは古代朝廷の直轄地のことである、と歴史の本には書いてある。交通の要である海柘榴市(つばいち)を押さえていたわけですな。江戸幕府が大阪・堺や長崎を直轄地としたのと同じことか。




海の柘榴と書いて「つば」と読むのも妙だが、海の文字がつくのは朝鮮や中国から渡航した終点がこの地であったためだろうか。磯城瑞籬宮にも「磯」の文字がついているし、石上神宮(いそのかみ)のいそも「磯」であったのかも。

と、いいかげんなことを考えながら、再び山の辺の道へ戻る。(写真はまだ山の辺ではない)


山の辺の道へ戻る。やっと山の中の感じがでてくる。

桜井駅から海柘榴市(つばいち)までは1900m。写真は2500mくらいのところ。「まっぷ」によれば、そろそろ小林秀雄が揮毫した「山辺道」の石標があるはず。

あった。達者な文字ですなあ。石標の裏側に回ると、小林秀雄と彫ってあって、どうでもよいことを確認する。

山の辺の道に限らず、奈良の道々には石標や歌碑が多く残っていたり、新しく整備したりしてある。海柘榴市(つばいち)にも今東光、佐藤春夫の書になる万葉の歌碑があったが、歌や書には縁がないので省略。


小林秀雄は「モォツアルト」の冒頭で、無頼な生活をおくっていた若いころ、心斎橋(あとで調べたら道頓堀だった)を歩いていたら突然に、頭の中をモーツアルトの第40番交響曲の第4楽章が鳴り響いた。と書いている。私も真似して「クラリネット協奏曲」を頭のなかで奏でよう。寂しいというか、諦観したというか、第2楽章の雰囲気はこの道に似合っているようだし。

ところが、ああ、最近はモーツアルトはご無沙汰してしまっていて、いつのまにか今ハマっているブルックナーの8番交響曲になってしまう。すみません小林さん。

山道のようであるが、実はたいしたことはない。このあたりの道はよい。


じきに「平等寺」につく。もとは大神神社(おおみわ)の神宮寺である。聖徳太子の創建と伝えられると「まっぷ」にある。


平等寺前の道は舗装されていて、坊さんが車を運転してどこぞへ出て行く。法衣姿だったから法事でもあるのか。


北進している。この道も車が通れる。タクシーが行った。


崩れ落ちた土塀。道にかぶさる木々の枝。しかし行く手には明るい日がさしているぞ。


日が差すところまでやってきて、左折(西へ)したら、なんとコンクリート造りの会館風の建物がある。道も立派にアスファルト舗装がしてある。大神神社(おおみわ)の附属建物であった。

向こうから、おばさんが子供を乗せてスクーターでやってきているが、その先にも同様の会館風の建物があった。横を通り過ぎるとカラオケの歌声が聞こえる。どうやら結婚式の披露宴をしているみたいだ。

大神神社で結婚式を挙げて、披露宴はなんとか会館で、というコースがあるのでしょうな。そのために道も立派だったわけか。



しばらく道を下って右折(北)すれば、大神神社(おおみわ)の鳥居前に出る。(普通は大神神社と呼ぶ人は少なく、三輪サンと親しみを持って呼ばれている。)

三輪サンは三輪明神であり、三輪山でもある。


三輪サンには初詣で3度訪れたことがある。参道はご覧のようにまっすぐ。伊勢神宮にせよ橿原神宮にせよ、こんなにまっすぐな参道はあまりないのではなかろうか。

まっすぐ先に拝殿が見えている。


石段も低いぞ。お年寄りも参詣できる。

三輪サンは大和の国の一の宮でもある。 武蔵の国の一宮は埼玉県(旧大宮市)の氷川神社である。愛知県一宮の市の名は、尾張の国の一宮(真清田神社。ますみだじんじゃ)があるためらしい。広辞苑に書いてある。

それでは大阪・摂津の国の一の宮はどこだろう。住吉大社か?河内の国の一宮は?私は何も知らない。

大神神社の拝殿である。本殿はない。拝殿の奥に三ツ鳥居があって、これを通してご神体である三輪山を拝する。とガイドに書いてある。

三ツ鳥居は見えません。三ツ鳥居とは普通の鳥居の左右に少し小さな鳥居がくっついているという造形だが、これは今日の終点の桧原神社で見ることができる。

拝殿の右には「勅使殿」があるが、今はご覧のとおり修理中。

その前には、「巳の神杉(みのかみすぎ)」がある。この杉に蛇が棲んでいるそうで、お供え物の棚には、ゆで卵と清酒の1合瓶が何本か供えてある。卵はミイさんの好物。以前は拝殿左にある休憩所でゆで卵を売っていた記憶があるが、いってみるとコーヒーの自動販売機があるきりで、売っていなかった。

関西人は蛇(ミイさん。巳さん)が好きらしい。(大阪の住吉大社でも白蛇を飼っていた。海の神さんなのに。)私は気持ち悪いだけである。

大神神社の拝殿を左に折れて進めば、「くすり道」と名づけられた小道がある。この道を進めば、身体健康・病気平癒のご利益がある「狭井神社(さい)」に着く。

「くすり道」の両脇には木製灯籠が並んでいる。寄進者はことごとく製薬会社。エーザイとか塩野義とかタケダとか、まず大阪・道修町(どしょうまち)にある製薬会社の主だったところは全部寄進しているようだ。(独バイエルとか海外の製薬メーカーはなかった。神さんが違うものなあ。)


じきに狭井神社(さい)に到着。大神神社からほんの200mほど。

ここには「荒魂(あらみたま)」をお祀りしてあるとガイドにある。

大神神社は「和魂(にぎみたま)」をお祀りしてあるそうで、この和魂(にぎみたま)はかっこ書きで、「幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)」と表記されているが、いったい何のことやら、茫漠としている。(それほど古い神社であるということである。)

大神神社のご神体は三輪山だが、ここは禁足地であり一般には入山することはできない。しかしこの狭井神社(さい)でお願いすれば入山できる。

「禁足地」というのはすごい。誰も入れない。拝殿の右(南側)に禁足地への入り口がある。通常の鳥居ではなく、注連縄が張られているのが、ここより向こうは神域であるの結界を表しており、なかなか神秘的である。

入山中は写真撮影は禁止なので入山はしなかったが、三輪山のその肝心の場所へ行くには、みそぎを受けた後、片道1時間の登山をするらしい。入山料は300円。と立て札に書いてあった。

狭井神社の前には茶店がある。三輪とくれば「三輪そうめん」。ちょっと涼しかったので「きつねにゅうめん」を食べる。650円。

おばあさんが一人で茶店をやっている。それがわかるともう味には文句がいえない。三輪そうめんはよいのだが、ダシが。まあ腹の足しにはなった。

山の辺の道からちょっと外れるが、茶店から西へ少し下ると「大美和の杜(おおみわのもり)」があって、ここから南部奈良盆地が一望できるとのこと。これは行かなくては。写真は「大美和の杜」への道。

ううーっ。すごい。写真は真西よりやや南寄りの風景。奥にうっすらと盛り上がっている山々の中心が葛城山(かつらぎ)。手前のぽっこりした山が大和三山(やまとさんざん)。

「大和三山」という文字を思うだけで、気持ちがゆったりとなる。写真中央の2つの黒っぽい山は、左が畝傍山、右が耳成山。画面左端の切れかかった丘のような山が天の香久山。





視点を真西に向けると、向こうの霞んだ山々のうちに二上山(にじょうざん)がある。 手前左の黒い小山は上図の耳成山。奥の山々の連なりの中で、左端の最も高い山が葛城山。

葛城山から右側(北)の稜線はしだいに右下がりとなり、最も低くなったところが司馬遼太郎さんが大好きだった竹之内峠。 そこから稜線は上向き、低いながらもピークとなった山が二上山。



二上山はこれまた古くから親しまれた山で、折口信夫(おりぐちしのぶ)の「死者の書」は二上山の山頂にある大津皇子の墓内の描写から始まり、ふもとにある当麻寺が舞台となる。いずれはここも訪れることになるはず。




ああよかった。景色を見るだけで心が解放されることもある。

「大美和の杜(おおみわのもり)」を下って、再び山の辺の道へ復帰する。






道は狭くなる。まるで庭内を巡るために造られた道のようである。

山の辺の道は石上神宮(いそのかみ)に通じている。石上神宮はもとは初期大和朝廷の武器庫であった。武器庫に集めたのは、おのれの武器ではなく、大和各地(例えば葛城とか)の豪族が所有する武器を没収したらしい。これは、太閤秀吉が行った「刀狩り」と同じ。いまの米国とイラクの関係と同じ。武器を取り上げれば、相手は歯向かえない。

いまの山の辺の道は、田舎道になってはいるけれど、1600年前あるいは1500年前に、武器を荷なってこの道を北へ(石上神宮)向かった古代人たちがいた。


「玄賓庵(げんぴんあん)」を通過。平安期に玄賓僧都が隠棲したところ。謡曲「三輪」の舞台である、と「まっぷ」にある。しかし玄賓も知らねば、能も知らぬので、ここは私にとって猫に小判の場所。

檀家のあるお寺の様子ではなかったので、入り口にあったお賽銭箱には100円を。ここまでの距離は4200m。もうじき今日の終点だ



300mほどで、桧原神社(ひばら)へ到着。 桧原神社は別称で「元伊勢神社」と呼ばれる。元の伊勢とは、伊勢神宮の前の社であるということである。

ものの本によれば、元々のヤマトの先住民は三輪地区に住み、三輪山を信仰していた。三輪山周辺を治めたのは大物主(おおものぬし)、その養子?の大国主(おおくにぬし)の系統だった。

ここへ崇神天皇の一族がやってきて支配を始めるが、うまく治まらない。崇神天皇は大国主の子孫である大直禰子(おおたたねこ)を捜し出し、大神神社の神主に迎え、ようやくヤマトを統べることができた。

つまり崇神天皇は自分の信仰する神を祭らず、地元の古来の神を大神神社に祭ったわけである。




それでは崇神天皇一族が信仰していた神はなにかというと、天照大神(アマテラスオオミカミ)で、これを祀ったのが桧原神社の初めである。とガイドに書いてあった。

桧原神社のご祭神の天照大神は、その後造られた伊勢神宮に移り、大々的に祀られることになる。伊勢神宮は大神神社や桧原神社よりも新しい。

桧原神社は大神神社と同じく@三輪山がご神体で、A本殿がない。B鳥居は同じ三ツ鳥居である。というのは、土着の神(三輪サン)と崇神天皇一族の神(天照大神)を同列・同格に並べたということか。



桧原神社をまっすぐに下って(西進)いくと、隣りあった2つの池がある。写真は西側のほうの池。この右側(東)にもうひとつ池がある。

池にはもう水が少ない。秋だから灌漑のための水はいらない。そのわずかな溜まり水の水辺に白い鳥がいる。(写真の中央下に岩があってそのすぐ右にいる)白鷺だと思うが、こんなところに鷺がいるのか。

この池は、後で知ったが、井寺池(いでら)という。2つの池の間には土手があり、ここに川端康成の書による万葉歌碑がある。と「まっぷ」にある。


あった。ほとんど路傍の草に埋もれていた。草を薙ぎ倒して写真を撮る。

「大和は 国のまほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和し 美し」

倭建命(やまとたける)の有名な歌を、川端康成の文字で彫りこんである。このことについては、書家の榊莫山(さかき ばくざん)さんの本で読んだことがある。

川端はその年の1月に依頼された歌碑の設置場所をどこにするかを捜して、この場所がよいと決めた。子供が遠足に来て、腰掛けられるようなものがよいともいったらしい。

それから「大和は 国の...」を清書するはずであったが、その年の春に亡くなった(自殺)。この歌碑の文字は、いろいろな原稿から字を集めてきたものだと、莫山さんは書いている。 確かに腰掛けられる高さの歌碑であった。


土手の奥にもうひとつ歌碑がある。これは天智天皇の歌。画家の東山魁夷の書によるもの。万葉仮名で書いてあるのでよく読めないが、この碑の脇にはちゃんと読めるようにひらかなで書いた黒御影石(くろみかげ)の石碑がある。これを写すと、
香久山は 畝火を をしと
耳成と 相あらそひき
神代より かくなるらし
いにしへも しかなれこそ
うつせみも つまを
あらそふらしき
ここでは、畝傍山は女性で、香久山と耳成山は男性。香久山と耳成山が畝傍山を奪い合ったという言い伝えを出し、今も昔も変らないという有名な歌。 「たたなずく青垣」とか「香久山、畝傍山、耳成山」の歌碑が、どうしてこの場所にあるのか。それは西を振り返ればわかる。 これが北部奈良の平城京に遷都する前の大和の景色である。



写真の上下の中央を左からみていくと、鳥居があって、これが三輪サンの大鳥居。平野部の桜井市街にある。鳥居のすぐ上にある小山が天の香久山。 視線を中央部に移すと畝傍山があり、すぐ右には耳成山がある。

写真を撮った位置の関係から、香久山が他の2つの山から離れているように見えるが、上空から眺めれば、北にある耳成山を頂点にし、そこから南西方向に畝傍山、東南方向に香久山があって、ほぼ正三角形の配置(地図を参照)になっている。この三角形の中央にあったのが藤原京。

藤原京の南には、あの明日香村がある。まことに「大和は国のまほろば」である。


今日のテクテクは終りにきた。山の辺の道を離れて平野部に降り、めざすのは三輪サンの大鳥居。

「三輪サンに参ったら、「みむろ」を買うて帰らないかんよ。」と死んだ家内が、初詣に来るたびに言っていた。

「みむろ」は白玉屋栄寿という三輪サンの近くの和菓子屋が作る最中(もなか)です。10個入り800円をもとめて帰る。

ずいぶんのんびりと歩いたつもりだったが、万歩計は20300歩を示していた。



行く先の目次... 前頁... 次頁... 奈良盆地の地図...            執筆:坂本 正治