山の辺の道 A日目

    No.2.....2002年10月 5日(土曜)


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前回は海柘榴市(つばいち)→三輪サン(大神神社)→桧原神社(ひばら)の4500mを歩いたが、今日はその続き。

今日のコースは、桧原神社(ひばら)→穴師(あなし)→景行天皇陵(けいこう)→崇神天皇陵(すじん)。図の青線が今日の「山の辺の道」であるが、実は今日の全行程のうち、山の辺の道を外れて歩いたのが半分以上あり、これは緑色で示している。

山の辺の道がある桜井・天理は古墳だらけといってよいが、特に今日のコースには、この地域の古墳を代表する2つの天皇陵がある。景行天皇陵と崇神天皇陵である。

よい機会であるので、今日は「古墳めぐり」をすることにした。結果、「てくてくまっぷ」の山の辺の道コース以外のところを多く歩くということになった。「まっぷ」に打った点のAは箸墓、Bは景行天皇陵、Cは崇神天皇陵、Dは黒塚。この順に歩く。



今日巡る古墳は、@前方後円墳で、A巨大古墳、ばかりである。 古墳時代は西暦250年〜300年くらいに始まり、500年代末葉までの300年〜350年間ほど続いたらしいが、この時代に日本が国家としてまとまってくる。日本誕生の時期であるらしい。

人が死ねばこれを埋め・祭るのは自然のことだから、古墳時代以前にも古墳や墳丘は当然あった。墓の形状は円墳・方墳などさまざまで、大きさもそう大きくはなかったが、古墳時代に入るや一気に巨大化し、形状も前方後円墳になってしまう。 全国の古墳がいっせいにそうなったのだから、この時期に日本全土(とはいっても東北までは広がらない)に影響力をもつ有力な王が現れたに違いない。

箸墓(はしはか)は古墳時代がはじまった時期で最大の古墳である。(逆に箸墓が出来たときから古墳時代が始まった。)ガイドによれば全長280mとある。


今日の起点はこの箸墓。箸墓に行くには、前回スタートした近鉄桜井駅で下車し、JR桜井線に乗り換えて、2つ目の巻向駅(まきむく)で下車する。運賃は180円。

JR桜井線は、山の辺の道と平行して伸びている。山の辺の道は山の「辺」であるので、山裾やところによって山間部を通っていくが、JR桜井線は山の辺の道より500mから1000mほど西側の平野部を走っている。

いきなり箸墓の写真になったが、これは上の前方後円墳の図のA点から矢印の方向を向いて撮ったもの。道は後円部に沿って丸く曲がっている。この曲がりぐあいで、後円部の大きさがわかる。( ガイドによれば後円部の直径は155mとある。)

ガイドというのは前回、三輪サンを訪れたとき、神社内にある宝物収蔵庫を拝観した際に買った小冊子である。これは80頁の手帳サイズながら便利なので、今日は携行した。




箸墓の右側には、箸墓に沿った道がある。写真は上の前方後円墳の図のB点から矢印の方向を向いて撮ったもの。

手前右は後円部で、奥に向けていったん右にくびれ、電柱より先は真っすぐに左側に曲がっている。これが前方部。(ガイドによれば前方部の長さは125mとある。)


電柱を通りすぎ、振り返って後円部を眺めると、この古墳の大きいことが実感できる。(上の前方後円墳の図のC点から矢印の方向を向いて撮ったもの。)

箸墓は倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の陵墓とされているが、このモモソ姫についての日本書紀の記述は妖しすぎる。

倭迹迹日百襲姫は三輪山の大物主神(おおものぬしのかみ)の妻となったが、大物主は夜にしか訪ねてこない。昼の明るいうちにその顔・姿を見たいものだと思い、大物主に願ったところ、「そのとおりである。ただ私の姿を見て驚くな。」といわれた。

明るくなって、見た大物主は衣紐ほどの長さの小さな蛇であった。モモソ姫は驚き、叫んだため、蛇の大物主は恥じ、人間の姿に戻り、怒って三輪山に帰ってしまった。 モモソ姫はこれを悔いて、箸で陰(ほと)を突いて死んだ。これを葬った墓は、昼は人が作り、夜は神が作った。墓はこのために「箸墓」と呼ばれる。

うーん。自殺(事故死?)のしかたがすごいですな。ホト(女性器)を突いても死ねるとは思えないが。



ようやく前方部の右角に辿りつく。(上の前方後円墳の図のD点から矢印の方向を向いて撮ったもの。)

右手は「三輪保育園」。今から1700年以上前に作られた墓に隣接して、子供が保母さんと遊んでいる。訊ねられれば、大昔の人の墓だと保母さんは答えているのでしょうなあ。

左側に視線を移せば、この古墳の正面です。箸墓は宮内庁の管轄です。当然にこの古墳には立ち入ることはできず、学術調査もできない。

ただこの墓の周りを整備したときに、茸石(ふきいし)、周濠(しゅうごう)と外堤もあったことが確認されている。いま歩いてきた道は、作った当時は周濠(堀)であったのだろうか。


箸墓は卑弥呼の墓ではないかともいわれている。(ということはモモソ姫がヒミコ)

箸墓の大きさを足で確かめたので、山の辺の道を目指して東進する。行く手には三輪山が。


途中に案内板があったので見ると、すぐ近くに「ホケノ山古墳」というのがあって、一部の茸石(ふきいし)が復元されていると書いてあった。行ってみる。

この古墳もやはり前方後円墳で、写真は前方部(手前の茸石)から後円部(草がはえた小高い丘)を向いて撮ったもの。

私は特に古墳に興味を持っているわけではないので、これまでに古墳を目的に訪ねた経験はない。初めて茸石(ふきいし)というものを見た。子供の頭かやや小さいくらいの大きさの石が一面に敷き詰めてある。

古墳は、今でこそ木や草が生い茂って、小山の体だが、作られたときは、このような茸石によって、コンクリート作りのような構築物であったのですな。木が生えて小山になっていればこそ、古代人のやさしさやなつかしさを空想するが、石で覆われた無機質の巨大な山を見れば感じ方が異なる。



昔、グラビア雑誌か子供の学習雑誌かなにかで、神戸(垂水区)の(たぶん五色塚古墳)復元された古墳を見たことがある。公園になっていて、古墳へ登ることができる。

古墳は石で覆われていて、草木は1本もなかった。これまでの古墳のイメージと大いに違っていたので「本当の古墳はこんなだったんや」と驚いた覚えがある。

草木がない古墳は、当時の権力の象徴というか、威嚇物というか、親しみを覚えるようなものではなかったろう。と思いつつ山の辺の道へ向かう。

写真の道はまだ平坦だが、しだいに登り坂になった。


だいぶ登った。振り向けば、いつの間にか高い位置に来ている。

向こうの小山は今日の起点とした箸墓(はしはか)。


さらに登ると、井寺池(いでら)に到達する。

ここは前回の散策で訪ねた最後の場所で、川端康成の歌碑があった。

池は東西に2つ並んでおり、2つの池は土手で隔てられている。

前回は西側の池を撮ったが、今日は東側の池を撮る。向こうの山は竜王山(だと思う)。

あれ。前回は草ぼうぼうの中に埋まっていた歌碑が、今日は草が刈られて全容をあらわにしていた。こういう位置にあったんだ。

歌碑の後方左にもう一面の文があり、近づいて読むと、「大和は 国のまほろば ・・・」の文字は、川端がノーベル文学賞を受賞したときの記念講演「美しい日本の私」の原稿から選んだ、とあった。

さらに登れば、前回の(山の辺の道での)終点である桧原神社(ひばら)に着く。

ようやく前回の続きができることになる、箸墓からここまでは(私にとって)結構な道のりだった。万歩計を見ると家をでてから7500歩とある。

昼には早かったが、写真の茶店で山菜おにぎり2個を食べる。ペットボトルのお茶の代金をいれて450円。

さあ今日の山の辺の道コースのスタートである。桧原神社を左に折れて進む。


桧原神社(ひばら)からやや東に向かっている。

前回は遅い時刻から歩き始めたので、同じ方向に進む人はあまりいなかったが、今日は人並みの時間帯であるので、ややラッシュ気味で前・後ろにハイカーがいる(あわせて10人くらいだが)。

道の東側には山が連なっている。大和青垣である。しだいに道は高くなっていき、谷合いといえば大げさながら、人家が見下ろせる。

写真は北西を向いて撮っているが、向こうの小山がたぶん景行天皇陵のはず。

山の辺の道では、ほうぼうで近所の農家の方が果物や野菜を売っている。といっても無人販売で、一袋100円とか、1個30円とかの値段が書いてあって、買った人は脇の箱に代金を入れるようになっている。

この位置は今日の道中で標高が最も高いところだと思うが、ここにも無人販売所がある。どれどれ何があるのかと見れば、柿・みかん・いちじく・ざくろ・あけび、などが置いてある。 写真のおばさんがホンダのカブ号に乗ってやって来た。販売品の追加をしにきたらしい。

あけびとは珍しいものがあるね。と声かけたら、100円やから買うていって。この声をきっかけにさっきから横で写真を撮っていた青年が寄ってきて、アケビってどれですか? とおばちゃんに尋ねる。

あけびは1袋に3つ入っていたが、少し大ぶりなのが2つ入っているのがあったので、これを求めて、1つを青年にやる。青年はおばちゃんに、これはどうやって食べるのですか? と訊いている。

ここに種を捨てたら、来年はアケビの蔓が生えてくるやろか。おばちゃんに言いつつ、ブッブッと種を草むらに吐き散らして食べる。青年は、食べにくいですね。といいながら口をもぞもぞさせている。


「あけび」の場所から100mほど行って、Uターンする格好で西向き(ということは山を下る)に進む。道は広くて立派である。家並みもよい。このあたりは裕福そう。


かなり下ってほとんど平野部になろうかというところに、こっちが山の辺の道の道標があった。やはり山の辺の道は車が通れないような狭い道でないといけない。



道なりにずんずん進む。写真の右に白いノボリが立っています。その周りはみかん畑。「XX農園」というのが随所にあって、「山の辺の道でみかん狩りを」といった看板が多くあった。

みかんはこの地が発祥の地であるそうだ。韓国の済州島からでも伝えられたのだろう。



景行天皇陵が見えた。ご覧のように地面はわずかに西向きに傾斜しているが、ほとんど平地に近い。前方部が西を向き、後円部が東を向いているが、「まっぷ」で見ると、中心軸は正しく東西を通らず、やや南北にずれている。

しかしこの位置からは前方部・後円部の真横が見える。(左が前方部、右の小山が後円部)



上の写真を撮ったのは、実はその景行天皇の「纏向日代宮(まきむくひしろのみや)」跡の前からである。

景行天皇陵が生前根拠地とした纏向日代宮と、死後の場所の景行天皇陵はすぐ目と鼻の先にある。これは珍しいといえるのではないか。

前回の散策の初めに、崇神天皇の住居跡である「磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)跡」を訪ねたが、崇神天皇陵は、景行天皇陵のさらに北側にあるので、陵と宮は3〜4kmは離れている。

崇神天皇の宮跡は神社になっているが、景行天皇の宮跡は、ご覧のように個人宅の敷地の一部にある。




纏向日代宮(まきむくひしろのみや)のあたりは穴師と呼ばれている。東を向いてゆるやかな坂道を登っていくことにする。この道は山の辺の道ではない。

前方に鳥居が見える。穴師兵主神社(あなしひょうず)である。(「まっぷ」には出ていない)

鳥居はおそらく一の鳥居といわれるべきもので 、ここから参道が始まるようだ。


その鳥居までいくと、右側に小さな石造りの鳥居があって、脇に「相撲神社」と立て札がある。中は広場的な空間のようである。

神社の由来書きによれば、 第11代垂仁天皇(すいにん)の7年に出雲の国の野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)が、天皇の前で相撲をとった「国技発祥の地」である、とある 。

当麻蹴速(たいまのけはや)はあばら骨を踏み折られて負けたが、以前当麻寺を訪ねた折、その途上に当麻蹴速の祠があった。側には「当麻町相撲館(けはや座)」というのがあって、よほど見学しようかと思ったことがある。

負けても恥ではない。地元ではちゃんと認めて祀ってある。



相撲をした場所だが、おそらく写真の4本の木で囲まれた場所ではなかったろうか。(特に土俵はない)

この右手にそれは小さな祠(ほこら)があり、横の由来書きにはさらに細かなことが書いてある。

昭和37年(1962年。ということは私が中学生の頃)に、ここで「手数入り」が行われた。そのときは時津風(元双葉山)理事長を祭主にして、時の横綱大鵬・柏戸、5大関の琴ケ浜・北葉山・栃ノ海・佐田の山・栃光をはじめ幕内全力士が参列した。

とある。この境内の広さではさぞかし窮屈であっただろう。

この時期は1964年の東京オリンピックに向けて、日本は国立競技場を作るやら、新幹線を作るやらの大発展をとげた。今と違って日本中が高揚した時期だった。



相撲神社は穴師兵主神社(あなしひょうず)の脇にある。穴師兵主神社の摂社のようである。

本社の穴師兵主神社は非常によく手入れがいき届いており、神さびたよい神社であった。



神社の由来書によれば、江戸期(元禄5年)には正一位の宣旨を賜った、最高の社格をもつ大和一の古社である、とある。

正一位といえば神社の最高位階であり、お稲荷さんも正一位だったはず。古く格式の高い神社であることはわかった。

寄り道をした穴師兵主神社だったが、すがすがしい気分になって、さあ山の辺の道にもどろう。山の辺の道からはちょっと高いほうへ上りすぎたので、これから下って纏向日代宮(まきむくひしろのみや)跡まで戻る。

そこから、再び北へ向かう。野辺にはコスモスが風にゆれている。

すでに稲刈りは終わっている。振り返れば、南に三輪山がある。その間には邪魔なものが何もない。

三輪山はいつ、どこから見ても端正だ。

大和は柿の産地でもある。


景行天皇陵へやってきた。当然のことながら前方後円墳。全長310m。古墳時代前期のものとしては日本最大の規模であるらしい。古墳時代(前期・中期・後期)を通じても7番目に大きい。(箸墓は11位)写真は、後円部の頂点のあたり。ちゃんと周濠も整備されている。

景行天皇は10代・崇神天皇→11代・垂仁天皇に続く12代の天皇。ヤマトタケルの父である(といわれている)。

1代目の神武天皇の事跡は「神武東征」のように多くの物語を古事記や日本書紀は伝えているが、2代から9代の天皇については、何をしたのかの記述がなく、「欠史8代」といわれて実在性が疑われている。10代の崇神天皇からが実在の天皇だろうといわれているが、それは例えば在位中はどこにいたという具体的な記述が残っているから。


写真は、御陵の後円部をかすめて、次の崇神天皇陵へ続く道を振り返って撮ったもの。手前が崇神天皇陵へ続く道。

写真のおばちゃん達が、例の農作物販売店(ここは珍しく店番のおばあさんがいた)で物色している図。

ビニール袋を下げて、結構買っていた。果物ばかりではなく、枝豆・すいか・大根・青ねぎ、はては「おばあちゃんが作った山椒の振りかけ」まで売っている。

おばちゃん達は、買い物とハイキングができて、楽しげであったが、まあニギヤカである。


向こうに見えるのは櫛山古墳(くしやま)。崇神天皇陵のすぐ東側(ということはすぐ上)にある。

この古墳は、前方後円墳の後円部にさらに前方部がくっついた特殊な形状(双方中円墳という)をしている。前方後円墳一色の中での異端児といえる。


崇神天皇陵の東側の前方部にやってきた。ここも周濠が整備されており、堀にはドロドロの緑色の水が満ちている。全体の印象は暗い。暗いだけに長い沈んだ歴史の時間を感じさせる。

崇神天皇陵は242m。16位の規模。


今日の山の辺の道コースはここまでの予定。

道は二手に分かれる。右下の道を行けば山の辺の道で、長岳寺へ。

左方の高い道は、崇神天皇陵を囲む道で、御陵を周回できるらしい。私はこちらの道を選んで、御陵の正面(前方部)に出ることにする。




後円部にそって、外堤の上を歩く。御陵を外界から隔絶する周濠(しゅうごう)は、単に平地を堀り下げて、そこに水を溜めたという簡単なものではない。




前方部の堀へやってきた。堀(周濠)は思いのほか広い。堀の向こうには何の建物も見えない。

平地を掘っただけなら、向こうの景色が見えるはず。見えないのはこの水面が向こうの景色より高いからである。




前方部の正面にやってきた。当然に御陵は宮内庁の管轄である。向こうには結構高い石段があって、これを登らねば御陵を拝することはできない。

つまりこの高さが外堤の高さである。水を溜めるためにこのように高い土手を築いたわけで、その労力たるや尋常のことではない。

崇神天皇は実質初代の天皇だが、古くは騎馬民族征服説などがあって、朝鮮半島からやってきたのではないかとも言われたことがある。

記紀(古事記と日本書紀)に記された年号がデタラメなので、空想の余地が十分にあって、確かなことはわかっていない。(だいたい300年代前半に実在したらしいが)





ここ崇神天皇陵が今日の山の辺の道コースの終点になる。

崇神天皇陵の前には国道169号線が走っている。これを南(左)に向かえば桜井、北(右)へ向かえば天理。


今日は、これからまだ訪れなければならないところがある。黒塚古墳(くろつか)である。

国道169号線から西へ下るきれいな道がある。この道の先の柳本商店街の看板をまっすぐに進めば、黒塚古墳があるはず。


ゆるやかな坂道をしばし下る(西進)と「黒塚古墳は←です」の立て看板があった。ここは天理市になる。

黒塚古墳は1999年の発掘調査で、「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」などの銅鏡が34面もでてきて、大きなニュースとなった。

鏡は柩の周りに「内向き」に立てて並べられていた。内向きとは、反射面を埋葬者の方に向けて、ということ。埋葬者のタタリを封じ込めるためか、と推定されている。


黒塚は箸墓と同じく古墳時代の始まりの頃のものとされている。黒塚の大きさは130m。箸墓の280mの半分しかないが、それでも同時期の古墳のうちでは全国で3番目か4番目に大きいらしい。

(箸墓は同時期の古墳に比べて、隔絶した圧倒的に大きな古墳である。)

黒塚古墳のまわりは公園になっている。すべり台やブランコなどがしつらえてあって、落ち着いたよい公園である。



塚は前方後円墳であり、周濠がある。しかし後円部には、渡り廊下のごとく通路が通じており、誰でも「黒塚古墳」に足を入れることができる。

行ってみることに。


後円部を登れば、じきに後円部のてっぺんに着く。ここには発掘された区画が縄で囲ってあった。

この縄張り内に、竪穴式の石槨があり、その内側に銅鏡がずらりと立てて並べられていたのか。


これほど有名になった古墳だが、埋葬者が天皇・皇族であると比定できないために自由に立ち入りができる。

写真は後円部の頂上から、前方部を見下ろしつつ撮ったもの。向こう(前方部)に、ぶらんこが小さく見える。

手前の後円部の盛り上がりと、先にある前方部の低さがわかる。


国道169号線へ戻る。崇神天皇陵・景行天皇陵の前方部は、この道路に面している。山の辺の道では後円部を見ながら歩いたが、裏側だけでなく正面も見ておかねば。

国道に戻ったもうひとつの理由は、11代・垂仁天皇の「纏向珠城宮(まきむくたまきのみや)」跡が、国道の近くにあるらしく、ついでに訪れたかったため。



国道を南向きに歩いていくと、景行天皇陵が見えてくる。



これが正面。当然に宮内庁の管理下にある。



さらに南へ進む。国道沿いにはパチンコ屋、飲食店、運送会社が並ぶ。山の辺の道はいにしえ(古)の道。国道169号線はうつせみ(現世)の道。今の道は当然ながら、やかましく汚い。

纏向珠城宮(まきむくたまきのみや)跡があった。今は土建業者の敷地であるらしい。向こうに砂利を盛り上げた小山がいくつか見える。



ここから北方向を見れば、先ほど通りすぎた景行天皇陵の側面が見える。左(西側)が前方部、右(東側)が後円部。

手前に土建業者のショベルカーとブルドーザーが止めてある。

箸墓(はしはか)は「昼は人が作り、夜は神が作った」が、今はこの機械が人と神の役割をする。





ここからJR桜井線の巻向駅(今日の散策のスタート駅)はすぐ近くにある。

巻向駅からは箸墓が見える。(後円部が写っている。前方部は民家がさえぎっていて見えない。)




古墳めぐりは、箸墓→ホケノ山古墳→景行天皇陵(後円部)→櫛山古墳→崇神天皇陵を半周→黒塚古墳→景行天皇陵(前方部)の順に6か所であった。

目標(行く先)を決めていると結構つらい。散策というからには、目的を予定していてはならない、と反省する。

JR桜井線に乗って帰る。とはいっても巻向駅からは、三輪駅があって、次は桜井駅だから車中では腰掛ける間もない。

三輪駅の手前で、車窓から三輪山を撮った。(フラッシュがガラス窓に反射している)。さよなら三輪山。

今日の万歩計は30500歩を示していた。


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