山の辺の道 B日目

    No.3.....2002年10月12日(土曜)


行く先の目次... 前頁... 次頁... 奈良盆地の地図... ...てくてくまっぷNo.10


山の辺の道を、桜井市から天理市へ北に向かって歩いている。3回目の「山の辺の道」だが、今日は最終目的地の石上神宮(いそのかみ)へ到着する予定。

1回目は海柘榴市(つばいち)→三輪サン(大神神社)→桧原神社(ひばら)の4500mを歩いた。

2回目は桧原神社(ひばら)→穴師(あなし)→景行天皇陵(けいこう)→崇神天皇陵(すじん)に加えて、箸墓(はしはか)と黒塚古墳など、山の辺の道を外れた古墳巡りをした。

今日は、崇神天皇陵(すじん)→長岳寺(ちょうがくじ)→衾田古墳(ふすまだ)→夜都伎神社(よとぎ)→石上神宮(いそのかみ)の約5700mを行き、さらに帰りの電車に乗るために石上神宮→近鉄天理駅の1800mを歩く。(図の黄色の線が今日の「山の辺の道」)




近鉄電車の最寄駅である桜井駅へ。駅前に出ると天理行きのバスがある。大勢のハイカーがバスを待っているが、どうやら「談山神社(たんざん)」を目的地としているらしい。

先導者が「いいですか皆さん。先生を追い越して先へ先へと行く人がありますが、勝手に先に進まないように。先生のご説明を聞きながらまいりましょう。」と注意していた。

グループは、おおむねは年配者ばかりであったが、せっかちな性格は老いても直らない。人の言うことを訊かずに先走る人はいつでもいる。




今日の出発点となる柳本(やなぎもと)はJR桜井線の桜井駅と天理駅のちょうど中間にある。本来ならJRかバスで行くのだが、今日は国道169号線をタクシーに乗って、一気に到着。2050円。

柳本のバス停前で降りると、そこは前回の山の辺の道の終点であった崇神天皇陵の前。ここから東進する。

写真右の森は崇神天皇陵の一部(たぶん陪塚)。向こうの山は竜王山。この山裾を山の辺の道が南北に走っている。左側が北、右側が南。




まずは長岳寺(ちょうがく)を目指す。 道はバスも通れるほど広く、舗装されている。

長岳寺は平安初期に空海が開基。釜口大師(かまぐちだいし)さんと呼ばれ親しまれている、と「まっぷ」にある。


山門。写真右側には、立派な駐車施設があるが、長岳寺のものではない。「トレイル青垣」という、山の辺の道を学習ないしは紹介する建物がある。(入らなかったが。)


山門から下の写真の楼門までは、案外に長い道のり。



鐘楼門(しょうろうもん)が見える。手前に拝観受付所があって、拝観料は300円とある。

しかしまだ時間が早かったせいか、受付所は無人。私より少し先を進んでいた写真の男性が、取り付けてあるインターホンをならすと、「受付所の窓を開けて、パンフレットを持っていって下さい。拝観料はお帰りの際に頂戴いたします。」ということであった。まあ朝方はどこも忙しい。お寺も例外ではない。

鐘楼門は創建当時の唯一の建物である。したがって日本最古の鐘楼門であり、重要文化財である。と長岳寺でもらったパンフレットに書いてある。(楼門(ろうもん)とは二階建ての門のことで、鐘楼(しょうろう)とは鐘つき堂のこと。)

なかなかよい建物である。瓦ではなく桧皮葺き(ひわだぶき)というのが平安初期の建物らしさを打ち出しているけれど、維持するのは大変でしょうなあ。



本堂。本尊は、中央に阿弥陀如来、左右に観世音菩薩・勢至菩薩。さらにこの両脇に多聞天と増長天が配されてある。いずれも重要文化財だそう。

多聞天と増長天は金箔も使った彩色が残っており、当時のきらびやかさをしのぶことができる。


ここには珍しいものがあった。本堂右方の山道を少し登ると、「弥勒大石棺仏」がある。弥勒仏はわかるが、大石棺仏というのはなんだろうか。

この三輪・箸中・柳本のあたりは古墳だらけである。こんもりした丘や森を見れば、それは古墳といってよいくらい、古墳があふれている。たぶんこの近辺にある交通信号の数より多い。その古墳にあった石棺を掘り出してきて、弥勒仏を彫ったのがこれである。

大きな石は貴重な資源である。前回訪れた箸墓で使われた石は、西の二上山を越えた大坂山から運んだという。高取城を築くときは、酒船石の一部を初めとする明日香の巨石をも運んだというし、姫路城だったかの石垣には石臼がはめ込まれていた記憶がある。

古墳の被埋葬者は、石棺を剥ぎ取られたが、弥勒仏に変わったのであれば、まだよしとするかも。



長岳寺をでて、山の辺の道に戻る。



右手に万葉の歌碑があった。珍妙なのは小道の左側に、道幅を拡張した施設(?)があることである。

はじめは、この道は農道としても使われているから、耕運機がすれ違いするために設けられたものかと思ったが、しかしここまでの山の辺では、このようなものは見たことがない。何のための造作であるのか。




歌碑を見ると、冒頭に、柿本人麻呂とあって、ついで万葉仮名で「衾道乎 引手乃山・・・」と歌が刻まれてある。

万葉仮名は読めないので、脇の立て札を見ると、

  衾道(ふすまじ)を
  引手(ひきて)の山に
  妹(いも)を置きて
  山路をゆけば
  生けりともなし

とある。

無知な私にもだいたいのことはわかる。人麻呂は、亡くなった妻を引手の山に葬った。その帰りにこの道をたどっていると、急に思いがこみ上げてきて、この先、生きていく気さえしない。ということだろうか。

引手の山は(あとで調べたが)、判然とはしないが、どうやら竜王山らしいとされている。歌碑から視線を上げれば、そこにあるのが竜王山。(写真の奥の霞んだ高い山)

竜王山には、竜王山古墳群といわれる横穴式の古墳が(一説には)1000基以上もあるらしい。そのどこかに葬ったのでしょうなあ。そういうわけで、この位置に歌碑が置かれたのだろう。

歌碑のしまいには「孝書」とある。「孝」とは万葉学者の犬養孝さんのことであろう。

犬養さんは、万葉の歌の愛好者を連れて、歌われたゆかりの地を訪れ、そこで朗々と万葉の歌を唱された。その犬養節(ぶし)は有名だが、たぶんこの場所もしばしば訪れられたに違いない。

歌碑の前に同行の人がわっと集まると、道をはみ出してしまう。そこで道幅を広げた。という推測をしたが、本当はどうであったのか。

人麻呂の歌碑から300mほど進むと念仏寺。この寺の墓所の中を山の辺の道は通っている。

ここは現在の墓所。今日は、長岳寺の石棺仏→人麻呂の妻を失う歌→念仏寺ときて、3題話のようである。

ちょっと山の辺の道を外れて、山寄り(東側)の脇道へそれる。ここには西殿塚古墳(にしとのつか)がある。この古墳は全長230m。前回訪れた箸墓や黒塚古墳より時期がわずかに降るが、おおまかには同じ古墳時代前期のもの。

今歩いている山の辺の道沿いは初期ヤマト政権が誕生した地である。それはこの地に、他地域に先駆ける6つの巨大古墳が作られていることが証明している。

6つの巨大古墳を年代の古い順に挙げると、@箸墓、A西殿塚、B外山茶臼山、Cメスリ山、D崇神天皇陵、E景行天皇陵となる。(白石太一郎著「古墳とヤマト政権」)


西殿塚古墳は考古学上の名称で、一般には衾田陵(ふすまだ)と呼ばれている。先ほどの柿本人麻呂の「衾道(ふすまじ)」の歌があるように、このあたりは衾(ふすま)と呼ばれていた(いる)のだろう。

継体天皇の皇后「手白香皇女(たしらか)」の陵墓に比定され、したがって宮内庁が管理しているが、先の白石太一郎さんの本では、西殿塚古墳は西暦200年代末か300年ころのものであることが考古学的には決まっているそうで、であれば500年代初めにいた継体天皇の皇后の墓であるはずがない(らしい)。

上の写真は前方部、この写真は後円部。柿畑の中にある。

山の辺の道に戻る。

耕運機がバタバタと追い越して行く。今は柿の収穫で忙しい。もうじきミカンも色づくぞ。

道を曲がると、ここにも前方後円墳がある。写真は後円部。右側に前方部がある。柿の木が一面に植えられている。よく見ると後円部は段々になっていて、一段ごとに石積みされている。

後円部は元々は大きな円壇の上に、より小さな円壇が乗り、さらに小さな円壇が乗り、と円壇を積み上げた姿であったが、時代が経つにつれ自然に木が茂って、円壇が崩れてなだらかな小山になってしまったらしい。

さいわいこの古墳は柿の木畑となって自然木が伐採されてきたので、作られた当初の段々になった後円部の姿が維持されてきたようだ。農家のケガの功名だ。

この古墳は西山塚古墳(115m)と呼ばれている。@この地域の古墳としては新しい500年代の前半のものであるし、Aこの古墳だけが南を向いており、Bこの時期の古墳としては大型であるので、これこそが継体天皇の皇后「手白香皇女(たしらか)」の陵墓であろう。と前記の白石太一郎さんは述べておられる。


西山塚古墳を過ぎると、みはらしのよい場所にでる。正面は西。左は南、右は北。天理の市街地が右手に広がっている。


振り返れば竜王山。正面は東。左は北、右は南。一度はこの頂上に上り、奈良盆地を一望したいものだが、竜王山は標高586mある。(500mを越えると、望めども山登りのしんどさを思って、少し躊躇するが)




上の写真を撮った道の前に茶店があった。

冷やしそうめん(630円)を頼むと、それからそうめんを湯がいて、冷やして。だから時間はかかる。

旦那さんは勤めか農業かしていて、嫁(おばさん)と姑で店をやっているらしい。そうめんを食べていたら「そやそや」と、ふかしたサツマイモを1本くれた。

細長い。皮は赤く、身は黄色い。サツマイモは金時(きんとき)ですな。これくらいは私にもわかる。うまいうまいと食べていたら、姑もやってきて腰掛けて「私にもおくれ」。3人で食べる。

昨日掘って、太いものは選り分けて、残った細いもんを、さっきふかしましたんや、との言。ちょうど昼時やから、店先で売ったらええんや。と勧めると、おばさん、その気になって「なんぼで売ったらええやろな」と聞く。まあこの細さやから5本で300円でどうやろ。

おばさんは行動的である。すぐにビニール袋に入れて店先に並べ始めた。写真はその図。このあと売れたんやろか。



天理市街に近づいているので道はよい。山の辺の道ではあるが、古(いにしえ)の道ではなく、現役の道である。

あたりはビニールハウスが多く、道は農道として十分に活用されている。




向こうに神社の鳥居が見える。村の鎮守さまの趣き。

夜都伎神社(よとぎ)である。この一帯は乙木町(おとぎ)というらしい。オトギ・ヨトギ、なんだかお伽話のような感じの神社である。基本的には地元の神さんを祀ってあるようだ。

「まっぷ」によれば拝殿は藁葺きで珍しいとある。神社とくれば桧皮(ひわだ)葺きと思っていたが、藁(わら)葺きとなると昔の農家と同じで、さぞかし親近感のある神社なのだろう。

夜都伎神社を出て、石上神宮をめざす。左端は夜都伎神社の杜。右(北向き)が石上神宮への道。正面は西。向こうにニ上山が見える。


広い車道に出る。この道は東に向かっている。

自動車が通れるほど道幅が広く舗装されていると、山の辺の道としては興醒めだが、しかし地元民にとっては、道路の整備は生活を支える大事なインフラである。

「道路拡張記念」という記念碑をいくつか目にしたのは、道が広くなって作った農作物を苦労なく迅速に出荷できるという願いがようやくかなった、という喜びが形になったものだろう。

もともと奈良は江戸幕府の天領で、租税が低かったために裕福であった。「我ら天領百姓」といって威張ったものだと司馬さんが書いておられた。

大消費地の大阪がその先にある。便利な道ができれば農家が潤う。山の辺の道もだんだんと変化していくのはしかたがないことだ。


といいつつも、山の辺の道は、変りようのないところがほとんどである東西に走る道はどんどん拡張・舗装されていくが、南北に走るメインの道は拡張の余地がない。多くは山道であるからである。

現代の道路として、変更できないほどの山道が続く。

たぶん東西の(ということは東の山側から西の平野部に向かう)道が整備されれば、各山側の農家はまず、東西の道路を西に下って平地に出て、平地にある南北に通じる広い道を使うことができる。

ここまでの道で、広く舗装されている道のほとんどは東西に通じる道だった。このあたり(南北の山の辺の道に手をつけない)は奈良県もよく承知していると思われる。

しだいに道は下り、いよいよ天理は近い。(今日のスタート地点の柳本はすでに天理市南部であるが)

こういう道もある。 上を走るのは東西の道。下をくぐるのが山の辺の道。


石上神宮(いそのかみ)は近いぞ。

右手には池がある。釣りをしている人がいる。このムードではすでに 石上神宮の敷地内に入っているのではないか。


石上神宮(いそのかみ)の境内に入る。手前は鏡池。

ここには「ワタカ」という天然記念物の魚がいるそうだが、池はせまく、この限定されたわずかの池域に、保護されてワタカが生き長らえているのか。

当然にワタカは見えない。どんな魚だろうか。


参道。山の辺の道は、右の黒い森から抜け出てくる。

石上神宮である。「神宮」というのは天皇家に関係のある神社であると承知している。思いつくのは、伊勢神宮・橿原神宮・平安神宮・明治神宮・熱田神宮、そしてここ石上神宮くらいかしらん。

そう思ってインターネットで「神宮」を捜すと、下関の赤間神宮、日南市の鵜戸神宮、奈良の吉野神宮、茨城県の鹿島神宮、千葉県の香取神宮などなどいくらでもある。札幌の北海道神宮もある。

香取神宮のHPを見たら、明治以前に「神宮」の称号がつくのは、伊勢・鹿島・香取の3社だけであったと書いてあった。そうだったのか。明治以降に神宮が多くできたのですな。


写真は楼門(重要文化財)。ガイドによれば、石上神宮の御祭神は、@布都御魂(ふつのみたま)大神、A布留御魂(ふるのみたま)大神、B布都斯御魂(ふつしみたま)大神、とある。

あとで調べたら、@布都御魂(ふつのみたま)とは、神武天皇が神武東征の折、熊野で献上された剣で、A布留御魂(ふるのみたま)は、物部氏の遠祖の宇摩志麻治(うましまじ)が献上した十種神宝(とくさのかむたから)のことであり、B布都斯御魂(ふつしみたま)は、スサノオが八岐大蛇を斬った十握剣(とつかのつるぎ)のことであるそうだ。


崇神天皇の時にこの地に移し、祀ったのが神社の始まり。初期ヤマト朝廷の武器庫であり、物部氏の総氏神であったようだ。明治になって神宮号復称が許されたともあった。

石上神宮の境内は広くはない。しかし古い。ものすごく古い。


その境内では、鶏が駆け回っている。10羽くらいいた。なにかいわくいわれがあるのでしょうなあ。


山の辺の道から神社に入り込んだので、出るときは参道から。


神社をでると、前には立派な道がある。歩道は桜並木になっている。

眼下には天理市の中心部が広がっている。ここから見える 大きな建物はことごとく天理教の施設物である。


天理を歩くのは初めてである。歩いてみると、天理はすごい街であることがわかった。

一大宗教都市です。天理教の「天理」が市名となっているのだから、その影響力の強さが推し測れるが、これほどのものとは思いもよらなかった。


写真は天理大学。写真には建物の一部しか写っていないが、これと同じ建物が右側に伸びており、天理小学校や天理参考館・天理図書館があるらしい。

東京国立博物館は建物としても立派であると思っていたが、この3倍4倍は大きいのではなかろうか。

しかしそれは天理教本部の付属施設でしかない。



広い道路(国道25号線)をはさんで、天理教本部がある。写真では大きさがわからないが、門というのか、神社でいえば鳥居に当たるものの高さには驚く。

その柱の太さは、いかに樹齢1000年の杉といえ、到底1本では足りる太さではなく、したがって何本もの木材を束ねて柱としてある。



本部建物(どう呼ばれているのか知らない)はもっとすごい。その規模は東大寺も負ける。おそらく京都御所よりも大きい。


この区画(とはいえぬほど広い一帯だが)はもう天理教の独立行政区のようである。イタリア・ローマ市内にあるバチカン市国に匹敵するのではないか。

総合案内所には「迷子預かり所」の看板もあった。迷子が出るほどに広く、混雑するわけである。こればかりではない。警備の詰め所があり、消防署があり、はてはお祭りの屋台が並んでいたりしている。


一体どのような町であるのか、にわかには把握できなかった。大きな地図が立看板にして掲げてあったので、これを見上げて、おおよそのことがわかった。

右端に石上神宮があるが、しかしその大きさは教会本部とは比較にならないほど小さい。まるで石上神宮は天理教の一支部に過ぎないかのようなあんばいである。

道路の名前が特異である。本部前の広い道は天理大通り、その北には北大路、南には当然に南大路。仰天するのは国道25号線で「おやさと大路」とある。私は石上神宮から、この「おやさと大路」を通ってここにやってきたわけか。


天理教をどうこういっているわけではない。ただただその巨大さに驚いた。

天理大通りは商店街になる。この商店街をたどれば近鉄天理駅にいけるはず。しかしその商店街(三島商店街)はひどく長い。

大阪の天神橋筋商店街は日本で一番長い商店街であるとかいわれている。この春には天六(てんろく。天神橋筋6丁目のこと。大阪人は何でも言葉を省略する)に一時住んだことがあって、天神橋筋6丁目から2丁目までの商店街を歩いたことがあるが、まあこれと同じくらいくたびれた。

(ゼンリン電子地図帳で測ってみたら、天神橋筋商店街は約1.9km、三島商店街は0.9kmとあったので、半分ほどの距離であったが)


ようやく駅に到達。駅舎のほとんどはJRが占めており、近鉄の天理駅は端っこにある。

近鉄電車で名張へ帰るには、@天理→平端(ひらはた)の天理線(4.5Km)に乗り、A平端で橿原線に乗り換え、平端→大和八木(10.6Km)を乗り、B大和八木(やまとやぎ)で大阪線に乗り換えて、大和八木→名張(32.4Km)の合計47Kmの道のりである。

大和八木(やまとやぎ)でいったん下車。(名張-大阪・上本町の間は定期券を持っているので、天理→大和八木は340円だった。)

近鉄デパートで買い物(本とCD)をした。ついでに屋上に上り、暮れゆく西の山々を撮る。中央は二上山。



電車の時間があったので、駅前から少し奥まったところに居酒屋を見つけ、焼酎のウーロン茶割りを3杯飲んでちょっと元気回復。

今日の万歩計は、28500歩だった。


行く先の目次... 前頁... 次頁... 奈良盆地の地図...            執筆:坂本 正治