飛鳥 @日目

    No.4.....2002年10月26日(土曜)


行く先の目次... 前頁... 次頁... 奈良盆地の地図... 明日香の地図... ...てくてくまっぷNo.29


「No.29 飛鳥コースA」の「てくてくまっぷ」は右のもの。(同じものは、近鉄電車のHPの てくてくまっぷ から手に入れることができます。)

このまっぷの裏側は「No.28 飛鳥コース@」になっている。Aは明日香の北部(甘樫の丘・飛鳥寺・板蓋宮跡)、@は明日香の南部(高松塚・石舞台・岡寺)を案内してある。今日は図の赤いところを歩いた。

訪れる場所は、広くは奈良県高市郡明日香村だが、郵便番号帳(ぽすたるガイド)で調べると、明日香村には、34の字(あざ)がある。今日訪れるのは、雷(いかづち)・豊浦・飛鳥・岡・川原・橘で、明日香村の中心といってよい場所である。(明日香の地図を参照)

コースは、@近鉄橿原神宮前駅から東進し、A豊浦を通過して雷(いかづち)に→B豊浦に戻って甘樫の丘に登る→C飛鳥→D川原→E橘→F飛鳥川に沿って飛鳥に戻り(飛鳥を一周する)、G豊浦→近鉄橿原神宮前駅で終点。となる。



近鉄電車は、大阪〜名古屋への東西に伸びる大阪線と、京都〜吉野への南北に通じる橿原線(京都線・吉野線も繋がる)は、奈良盆地のだいたい中央部にある「大和八木(やぎ)」駅で交差している。八木駅から南下すると、大和八木→八木西口→畝傍御陵前→橿原神宮前駅(ここから吉野線と名前が変わる)→岡寺→飛鳥→壺坂山・・・吉野、となる。

明日香を訪れるには、@橿原神宮前駅で降りて北部明日香へ、A岡寺(おかでら)駅で降りて中部明日香へ、B飛鳥駅で降りて南部明日香へ、となるが、普通は@とAあるいはAとBを1日で歩くようだ。

今日は@だけを歩くので、橿原神宮前から出発する。橿原神宮前駅は西口と東口の2つがあるが写真は東口。メインは橿原神宮がある西口で、こちらの駅はもっと広く大きく立派。


駅前から最初の目的地である雷(いかづち)に行くには、まっすぐ東進すればよい。約2Kmの道のり。


左手(北側)前方に天の香久山が見える。飛鳥は香久山の南方約1.7Kmに位置する。

歩いているところから真北に耳成山があり、

振り返れば、畝傍山がある。

この道はバスが通る。しかし1車線であるので、一方が止まらねば車はすれ違いできない。車が来るたびに脇へ寄りながら、歩き続けると「豊浦寺跡・甘樫丘・飛鳥寺」の道標がある。ここはもう高市郡明日香村である。

ここはいったん通り過ぎて雷丘(いかづちのおか)をまず訪れる。道をまっすぐに進めば飛鳥川(写真の車のすぐ先)がある。


飛鳥川に出た。写真は橋の上から、南を向いて撮ったもの。正面の低い丘が甘樫丘。飛鳥川の東(写真左手)が雷・飛鳥。飛鳥川の西(写真右手)が豊浦。


飛鳥川を越えて、雷丘(いかづちのおか)へ。「イカヅチ」という発音がよいですな。古代はこの丘に雷神が宿ると思ったのか。

丘はもっときれいな形をしているのかと思っていたが、立ち木はまばらで、すぐ横には民家(事業所)がある。ほんとうにこれが名にしおう雷丘であるのか。不安であったので、写真の民家の方に伺うと「これがそうや」ということで、ややがっかり。イカヅチの丘は貧弱である。


豊浦に戻ろう。飛鳥川へ引き返す。橋の向こうは豊浦だ。正面に1本の木が見える。どうもそこが推古天皇の小墾田宮(おはりだのみや)跡らしい。

中学校・高校で習った歴史の時代区分は、@原始時代、A縄文時代、B弥生時代、C大和時代、D飛鳥時代、E奈良時代、F平安時代...だった。

大和時代からは、都があった地名を時代の名称としている。大和時代は、前回訪れた桜井の近辺に都(宮)があったからで、飛鳥が都になったときから飛鳥時代が始まる。


行ってみると周りは水田でわずか直径5〜6mの土壇があり、中央に楠の木(だと思う)が立っているばかりである。

飛鳥(正しくは飛鳥の北にある豊浦)に都(宮)を造ったのは推古天皇が最初。この記念すべき小墾田宮は断定できるものが出ていないが、だいたいこのあたりと伝承されている。

先ほど通りすぎた「豊浦寺跡・甘樫丘・飛鳥寺」の道標に戻り、小道を進む(南下)と向原寺(こうげんじ)がある。

塀沿いにある案内板の数の多さはこの寺はただならぬものであることを表している。

今は太子山・向原寺という大きくはない寺ではあるが、

  1. 欽明天皇の13年(552年)に百済の聖明王が、仏教を公式にもたらせた。(「山の辺の道コース」の@日目に訪れた、初瀬川の「うまいで橋」のたもとに「仏教伝来の地」の碑があった。)

  2. もたらされた仏教の取り扱いについて、物部・中臣VS蘇我の激しい争いがあった。ために蘇我稲目(そがのいなめ)は伝来した仏像を、自宅に祭った。その自宅は向原寺のあるこの場所である。

  3. この後、敏達天皇(びたつ)の皇后である炊屋姫(かしきやひめ)が推古天皇となり、蘇我氏の屋敷のあった、この地に豊浦宮(とゆらのみや)を建て、ここで即位した。592年のことである。

  4. 推古天皇は、のちに小墾田宮に移った。元の豊浦宮は豊浦寺になり、その後幾多の変転を経て今の向原寺に繋がっている。
と、お寺で貰ったパンフレットにあった。




見学料は200円であると門の脇に張り紙がしてあった。門をくぐると正面に本堂があり、その左手に住職の住まいがある。本堂に向かって声をかけると、住職の奥さんであろう方が「掃除をしているから、ちょっと待って」と返事する。

待たされたわけは、この方が案内して下さるから。200円で丁寧なことである。

住職の住まいの奥に写真のような屋根があり、下が深く掘られている。ここが推古天皇の最初の宮である豊浦宮(とゆらのみや)の跡であるそうな。




下を覗くと、あるある。石が敷き詰められ、奥には掘っ立て柱の跡がある。発掘はもっと広い範囲にわたっていたが、埋め戻されて今はこの範囲のものだけが残っているそうだ。

案内の奥さんはていねいである。私一人の相手をしてくれる。向こうに地層があるでしょう。一番下が豊浦宮の層で、その上に版築(はんちく。土を杵で突き固める)した層があり、これが豊浦寺のあった層らしい。その上は鎌倉期の層です。

よくわかります。






豊浦宮は掘っ立て柱なので、大きな穴が残っているだけだが、その後に立てられた豊浦寺などは、掘っ立てではなく礎石が残っている 。

写真はその礎石かどうかは不明ながら、文様が刻みつけられており、珍しいもののようだ。

200円で15分もお相手していただいたか。急に大勢の訪問者がやってきて、お寺は一気に大賑わいとなる。どこかの学校の先生のグループのようだ。

向原寺は仏像を祭った最初のお寺であった。門を出て南を向くと、やあ大勢を前にガイドさんが何かしゃべっている。

写真のように池とはいえぬほどの小さな池がある。案内板を見ると、この池は「難波池(なんばいけ)」という。

先に、蘇我稲目(そがのいなめ)が自宅(向原寺のある場所)に仏像を祭ったといったが、その後疫病が流行り、これは仏教崇拝のせいであると、廃仏派の物部尾興(もののべのおこし)等は、この寺を焼き、仏像を「難波の堀江」に投げ込んだ。その「難波の堀江」がこの難波池である。

そういうことらしい。「難波の堀江」とあれば大阪湾のような気もするが、まあそういう言い伝えである。


向原寺、そのすぐ南隣の難波池の前の小道を南下すると、家屋が途切れて視界が開けた。向こうにあるのが甘樫丘(あまかしのおか)。

飛鳥へは10年ほど前に、小学生と幼稚園?だった子供3人を連れて来たことがある。

当時は「てくてくまっぷ」は無かったし、子供の足だったので、ちょんちょんとピンポイント的に動いたようで、あまり覚えていない。甘樫丘も来たはずだが記憶が薄い。


しかし登り始めると、見覚えのある段丘があった。

ひどくきれいに整備されてる。以前はこの段丘は雑草が生えおり、ここを登るとき足元が悪くてズルズルと滑ったことを思い出した。


思い出したのはそれだけだった。今や甘樫丘は、記憶を呼び戻せないほど、すばらしく整備された公園に変っている。

もうすぐ頂上のようだ。

(次図)展望台から飛鳥を見下ろす。写真はほぼ真東を向いている。


写真の中心にある寄棟の建物が飛鳥寺。写真の左から1/4くらいの位置に、縦に走る道路が見えるが、この突き当たりにある小山に飛鳥坐(あすかにいます)神社がある。

向こうの大きな山並みは多武峰(とうのみね)。一番高いところは御破裂山(おはれつやま)で、標高607m。だいたいこの写真に写っている平地が字(あざ)の「飛鳥」のようだ。


南東方向を向いて撮ったもの。上図右端のポコポコとした丘が右図の左端にある。

ポコポコとした丘の上に酒船石があり、この丘の北側(ポコとポコの間)に最近発掘された亀形石があるはず。

ポコポコの丘(この丘は一体どう名前なのか、調べてもわからない)の少し南、西側に板蓋宮(いたぶきのみや)跡がある。

画面右端の山裾に細長い白い建物(切れかかっているが)が橘寺(たちばなでら)。字(あざ)でいえば、左から「岡」→「川原」→「橘」というところだろうか。


地図を頼りに馴染みのない土地にきたときは、@地名はどう読むのかを知る。ついでA山と川の名前を知って、今自分はどういう位置にいるのか、を掴んでおくことだと思っているが、これは土地の人に聞かねばわからず、しかもなかなか聞きにくい。

甘樫丘の展望台では、ぷらぷらしているお爺さんがいたので「あれが多武峰ですか」と尋ねたら、これがきっかけとなって、数多くのものを教えてもらった。どうやら暇があればやってきて、ハイカーに教えることを生きがいにしているようだ。ありがたい。

「あのな、向こうに多武峰があるやろ。この真反対の方角を振り返れば、二上山(にじょうさん)があるんや。」

多武峰には藤原鎌足を祭る談山神社があり、二上山に大津皇子(おおつのみこ)の古墳がある。このことも言っていた。歴史ずきな老人であった。

甘樫丘を降りて、飛鳥川を再び東に越えて「飛鳥」の北部にある石神遺跡(いしがみ)と水落遺跡(みずおち)を訪ねる。写真は甘樫丘の北端。橋を東(左)方向へ渡る。

昨年の年末だったと思うが、テレビのNHKスペシャルで「謎の都・飛鳥京」という2時間ものの特集の再放映があった。(ビデオに録画した) 平成11年に飛鳥京の苑池(えんち)の一部が発掘され、飛鳥京の西側には大きな池のある庭園があることが初めて明らかになった。

この苑池の大きさはどのくらいであるのか、飛鳥京はどれほどの規模であったのかを明らかにしよう、ということで橿原考古学研究所が、平成12年からさらなる発掘を始めたのだが、NHKは発掘の仔細をTVカメラで撮り、どのようなことになったのかを一気に放送したものである。なかなか感動する内容だった。

今日は飛鳥にいくので、昨夜このビデオを見直した。(橿原考古学研究所の副所長が河上さんで、発掘担当者が卜部主任であることも覚えた。)


放送によれば、飛鳥京はこの石神遺跡のあったあたりを都の玄関口とし、ここに百済や新羅の使者を迎えたらしい。

石神遺跡からは@須弥山(しゅみせん)石、A老男女が背中合わせになった石人像、が発掘されており、また大規模な水路跡があって、迎賓館として使われた建物があったようだ。

この南に飛鳥寺があり、その南に官庁の建物が林立し、その南に板葺宮などの宮殿があり、その南に川原寺や橘寺がある。という配置で、飛鳥京は石神遺跡〜橘寺までを含む大都市であった。

そのイメージをCGで表現していたが、飛鳥京は藤原京・平城京・平安京に先駆ける壮大な計画のもとに造られた大都市だったようだ。



このCGのインパクトが強かったものだから、今日は飛鳥京の北から南まで歩いてみようと、まずは石神遺跡にやってきた。

案内板によると、今は15次の発掘中だそうで、確かに発掘現場には青いビニールシートがかぶせてあり、湧水を排出するポンプが動いている。

しかし、それはこの区画(15次発掘)の場所だけである。1次〜14次までに発掘されたものは何も残っていない。発掘した場所の地図が案内板にあったが、その場所は、ご覧のようにただの田んぼになっている。

はあ、発掘が終われば元の田んぼに戻すのだろうか。ちょっとがっかりする。


石神遺跡のすぐ南にある水落遺跡は保存されていた。

ここは後に天智天皇となる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が作った漏刻(ろうこく)があった場所。漏刻とは水時計のことで、4段の水槽に順次水が流れていき、その溜まり具合で時刻を定めた。

柱の位置は写真の通りであるが、建物は2階建てで、1階に漏刻の装置があり、2階には鐘突きの設備があって、鐘をついて時刻を知らせたらしい。

写真は西向きに撮る。向こうの丘は甘樫丘。

水落遺跡からわずかに南下すると、飛鳥坐(あすかにいます)神社への道(東西を走る)に出る。

進めば「右 岡寺」の道標がある。右は飛鳥寺の方向でもある。まっすぐ東へ進めば飛鳥坐神社に突き当たる。

神社に着いた。○○○に坐(います)神社というのは、その土地の氏神さまであり、特にどうということはないが、まっぷによれば、4月の「おんだ祭り」はあまりにも有名、とある。私は寡聞にして知らなかったが、どうやら男女融合をテーマにしたエロチックで可笑しい神事があるようである。(3大奇祭の1つという表現もあった)

お賽銭を100円。

飛鳥坐神社のすぐ前を南北に用水路が流れている。しかしこの用水路はただものではない。

斉明天皇(女帝)の時代は、飛鳥京が「石と水の都」と呼ばれたように、水を十分に利用した石造物がおびただしく作られた。

飛鳥めぐりの面白さのひとつは、謎の石造物を訪ねて、何に使われたのかの思いをはせることにある。有名な石造物では、@益田の岩船、A猿石、B亀石、C鬼の俎、D鬼の雪隠、E酒船石、F亀形石、G二面石、H石舞台古墳、などがすぐに挙げられる。

さらには、どうも酒船石のある丘(名前は知らない)は、廻りがぐるりと石が積み重ねられた巨大な石山の態であったらしい、ということがわかってきた。 それではこの石はどうやって運んだのか。日本書紀には「狂心の渠(たぶれこころのみぞ)」と呼ばれた運河が、この飛鳥の地に掘られていて、200艘の船に石上山(天理市?)の石を乗せて運んできた。と記述されているらしい。

そんな運河があったわけはないと思われていたのが、発掘によって、どうやら本当にあったらしいことがわかった。と説明板にある。写真の用水路と茶色に舗装された部分が、元の運河の幅であったようだ。この運河は酒船石のある丘の東側に通じているらしい。


飛鳥坐神社への東西の道を引き返し、途中で南に折れれば、飛鳥寺はすぐ。

飛鳥寺を西向きに撮る。

ここは10年前とちっとも変わっていなかった。寺の前の広場はまだ舗装がされておらず、みやげ物屋も昔と同じたたずまい。

そのまま飛鳥寺を突き抜けると、元々の飛鳥寺の遺構がある。写真は飛鳥寺の裏(西)から東向きに撮ったもの。手前の平地は旧飛鳥寺の西門があったところ。

その側には槻(つき)の木があって、この木の下で、中大兄皇子と中臣鎌足は、蘇我入鹿(そがのいるか)の暗殺の計りごとを密談したらしい。(槻の木は当然にない)

討たれた蘇我入鹿の首塚は写真の手前にある。

飛鳥寺を出て南に向かう。この道をいけば酒船石遺跡(さかふねいし)がある。(道路の左(東)側にある。)

以前は酒船石だけが有名だったが、酒船石のある丘の北側斜面に、平成12年の発掘によって、亀形石を中心とする水利施設が発見された。

また丘の東斜面には石積みの跡が発掘され、この丘全体が遺跡であることがわかってきた。今は丘全体を総称して「酒船石遺跡」と呼ばれるようになった。

写真は奈良盆地の南の果てを望む。飛鳥の南限の山々である。


酒船石遺跡の始まり。きれいに整備されている。亀形石が発見されてからきれいにしたらしい。奥の木立が丘の北斜面。(丘の上に酒船石がある)

どうやら入場料を取るみたい。300円を払って入る。


みんな見ている見ている。見下ろす先には、あの亀形石があるはず。

なるほど、報道されたとおりである。丘の北斜面が平たくなったところに砂岩造りの排水施設があり、ここから小判型の水槽に行き、あふれた水を亀形の水槽が受け、排水溝を通っていくようになっている。周りは石が敷き詰められ、東側(左側)にはスタンドのような階段状の石積み、西側(右側)には切り立った石垣がある。

儀式のためのものと推測されているが、それにしても古代人は石が好きですな。前回桜井の古墳を巡ったが、石葺きのホケノ山古墳をはじめてみた。石の頑強さ・不変の性質が永遠に残るものとして重要視されたのだろう。

そうであるがゆえに、箸墓は「昼は人が作り、夜は神が作った」と言い伝えられるように重い石をせっせと運んだ。この石と水の施設を作った斉明天皇は「狂心の渠(たぶれこころのみぞ)」とそしられながらも石を運ぶための運河を掘削したのだろう。


脇の道を登り切れば酒船石があるはず。

登り坂の途中に石積みの遺構があった。斉明天皇は、酒船石のある丘全体を石垣で被って、ピラミッドか石葺きの古墳のようなものを造ろうとしていたようで、日本書紀には「宮(板蓋宮)の東の山に石を累ねて垣となす。」また「石の山丘を作る」と記述されているらしい。

まさかこんな途方のないものは作らなかったであろうと思われてきたが、平成5年の調査によって、ご覧のような石積みの遺構が確認できた。という概略が案内板にあった。

丘の上には酒船石がある。石の傍らで外国人がスケッチをしていた。

竹やぶの中にあるのは10年前と変っていない。酒船石はこれまでは飛鳥の散策コースの人気スポットだったが、つい隣に亀形石が発掘された今では、やや人気低下の感じである。


酒船石が何に使われたのかは謎である。酒を造る装置、薬を調合するためのもの、油を精製するためのもの、配水の装置である、などなど諸説がある。

斉明天皇が作らせた、水についての造作物(須弥山石の噴水、石神遺跡の排水溝、発見された飛鳥京の苑池、亀形石など一連の装置)から考えれば、これは水に関係するものであるとことは確かである。

おそらくは実用的なものではなく、テレビで橿原考古学研究所の河上さんがおっしゃっていたように、木の葉を浮かべ、それがどの方向に流れていくかで、ものごとを占うための施設だったのではなかろうか。

斉明天皇が雨乞いをしたら、雨が降ったという記述が残っている。天皇は神と人の仲立ちをする存在であった。酒船石はこういった神と人とのコミュニケーションをとるための道具であったのではなかろうか。





酒船石のある丘を下ってくると、いやに歩きやすい。前はこんなによい道ではなかったはず。この10年のうちに整備されたのですな。

酒船石もないがしろにされているわけではなかった。




酒船石のある丘を下れば、じきに飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)に行ける。

飛鳥板蓋宮は皇極天皇(後に斉明天皇として重祚)の皇居であり、ここで中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を討った場所として有名。

板蓋(いたぶき)の言葉が残るくらいであるから、茅葺き屋根が当たり前であった時代にはモダンな宮殿であった。

宮殿周りには石が敷き詰められている。推古天皇の豊浦宮も敷石であったように、飛鳥時代の宮殿は敷石であるのが特徴である。




この地にはいくつかの宮が重層しているらしい。下層のものは発掘できないのでわかりにくいが、4つの宮があったといわれる。4つの宮とは、
  1. 舒明天皇の飛鳥岡本宮(630年)

  2. 皇極天皇の飛鳥板蓋宮(643年)

  3. 斉明天皇の後飛鳥岡本宮(のちのあすかおかもと)(656年)

  4. 天武天皇の飛鳥浄御原宮(あすかきよみはら)(672年)
舒明天皇から持統天皇が694年に藤原京へ遷都するまで(一時的には別の場所に都があったが)、約60年間にわたって、この場所が日本の中心地であった。

この宮殿の真北には、飛鳥寺があり、その北には天の香久山がある。これが飛鳥京の中心線であったようだ。(写真左手の長い丘は甘樫丘。右手遠くにある小山は天の香久山。)



飛鳥板蓋宮跡は宮殿の跡(宮殿の跡地を内郭という)であるが、飛鳥京は宮殿だけで成り立っていたのではない。国の必要な施設が宮殿の北側に順々に並んでいた。北から迎賓館・飛鳥寺・役所(群)・宮殿である。

これら全体を総称して「飛鳥京」と呼ばれるのであり、南北2km・東西700mといわれる飛鳥(「岡」も入る)の大半を占めていた。(南にはさらに川原寺や橘寺があった)

飛鳥板蓋宮跡は飛鳥川の東側にある。飛鳥川を西に渡って川原寺跡を目指す。写真は飛鳥川を北向きに撮る。向こうの山は天の香久山。


案内板によれば、川原寺は天智天皇の時代に創建され、藤原京の時代においても、大官大寺・飛鳥寺・薬師寺とともに飛鳥の4大寺の扱いであったとか。(大官大寺・飛鳥寺・川原寺で3大寺とも呼ばれるが)

いまは元の金堂の位置に弘福寺(ぐふくじ)が残っている。(写真左端に軒先だけが見える)



川原寺跡から南を見れば、道路をはさんで橘寺がある。ここは聖徳太子が生まれた場所であるそうだ。行ってみよう。


寺門前では藤細工・あるいは竹皮細工の土産物を並べていた。拝観料は350円。橘寺にも言い伝えが多くある。

@聖徳太子が生まれた地である。
A聖徳太子はこの寺で勝鬘経(しょうまんきょう)を3日間にわたって講義された。
B法隆寺にある玉虫厨子は、元はこの寺にあった。
C田道間守(たじまのもり)は11代垂仁天皇のとき、命を受けて不老長寿の「トキジクノカグノコノミ」を捜しに行き、これを見つけて持ち帰ったが、すでに垂仁天皇はなくなっていた。この実は橘であった。

Cの「橘」が橘寺の名前になった。



寺門をくぐり、本堂の南へ廻ると、二面石がある。飛鳥の石造物は奇態なものが多いが、これもそのひとつ。

右は善面、左は悪面といわれている。


この寺で一等興味深かったのが、写真の蓮華塚。上記Aの聖徳太子が勝鬘経の講義を終えたとき、大きな蓮の花が舞い落ちて、庭に1mほども降り積もった。これを埋めた場所が蓮華塚である。と寺で貰った由来書に書いてある。

石垣は正方形である。縦6間・横6間で、面積は36坪。すなわち1畝(せ)である。大化の改新の折、この広さを面積の基準とした。そのため蓮華塚は「畝割塚(うねわりづか)」とも呼ばれている。ともある。

そうだったのか。



橘寺を出て、飛鳥川まで引き返して、飛鳥川沿いに北行し、飛鳥へ戻ることにする。最後に残しておいた飛鳥京の苑池跡を見るためである。NHKスペシャルのあの苑池跡が見れるぞ。

飛鳥川はこの位置では南から北に向かって流れている。川の左右(東側と西側)にはそれぞれ散策のための道が整備されている。私は西側の道を北行したが、通行人は誰一人いなかった。


飛鳥川越しに東を向いて撮る。正面には多武峰(とうのみね)、平地には飛鳥板蓋宮跡が見える。

手前の飛鳥川沿いに、発掘された苑池跡があるはずだが、一面は水田で、そのかけらも見当たらない。


とうとう道は飛鳥川を跨ぎ、飛鳥の地に入ってしまった。川向こうにあるはずの苑池跡は、ここまで見つからなかった。

昨夜見たビデオによると、飛鳥京の西北の位置に、縦200m・横70mほどの規模の苑池があった。池の周りには、桃・栗・棗などの木が植えられており、一帯は薬草園でもあったということだった。

苑池(えんち)は、平成11年に池の南端が発掘され、翌12年と13年の発掘の様子をカメラで記録し、その過程で、苑池の都市インフラとしての役割や、飛鳥京の規模と構造を推理していく、という興味深いものであったが、その肝心の苑池跡が見当たらない。



ビデオで見た飛鳥川の形状と発掘された苑池跡の記憶を頼りに、このあたりらしいと見当をつけて、田んぼのきわに近づいた。ちょうど農家の老人が枝豆を収穫していたので、飛鳥京の池の跡はどこかを尋ねると「もう埋めなおして、あらへんで。」の返事。

もう埋められていたんだ。その場所が写真のところ。それにしても昨年(平成13年)の初めまでは発掘作業が行なわれていたはず。NHKスペシャルでは、13年の現地説明会の様子を伝えていた。

埋め戻したとしても、こんなに早く元の田畑に戻るものであろうか。未練たらしく畦道を通って、その場所に行った。しばしたたずんでいると、農道を農家のおばさん風の人が歩いてきた。手にはニラを摘んだ籠を持っている。


尋ねたら、まさにこの場所が発掘された苑池跡であるとのこと。おばさん(40代だと思う)は気さくだった。

発掘した場所。発掘が済み見学会があった日のこと。亀形石が発見されたとき、お爺さんが発掘の手伝いにいったこと。このあたりの田んぼの多くは国が買い上げていること。10年後にはこの場所は一大公園に整備されると村役場が言っていること。などなど20分も話していただいた。

どうして発掘の後、こんなに早く田んぼに戻ったのかと問うと、「発掘はこれくらいずつ(と30cmほどの幅を手で示して)少しずつ土を削り、削った順に土を分けて盛っておいて、発掘が終わった後は、その土を順番にもどすのですぐに米ができる。」ということだった。

発掘もエライものです。ちゃんとすぐに元に戻せるようにしているのですな。

そうだったのか。石神遺跡でも発掘された場所は田んぼに戻っていた。向原寺でも発掘の一部しか残っていなかったが、ここ苑池跡も田んぼに戻っていた。発掘後は元に戻す。というのがルールなのですな。考えれば当たり前のことで、その土地の下にいくら貴重な遺跡があろうと、その土地を使って生活している人があれば、勝手なことはできない。

明日香は人口7000人の村である。ここではいかに観光客がやってこようとて、観光客を相手に商売にすることはナカナカ難しい。法律で、看板を出してはならない。木や竹を切ってはならない。土地の形状を変えてはならない。建物の色を変更してはならない。家を新築・改築するには許可が要る。などの厳しい規制がされているからである。

遺跡を守り、環境を維持するということは、まことに難しい。私たち気まぐれな訪問者は、土地の方たちにどうかその歴史の跡を拝見させて下さい。という姿勢であらねばならない。



写真は明日香村の南方向。道を手前に進めば飛鳥寺に戻る。

今日はよく歩いた。万歩計は34900歩を指していた。橿原神宮駅前で、カツ丼をアテにビール1本を飲んで、ぷふぁー、うまい。足の痛みも忘れる。


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