飛鳥 A日目

    No.5.....2002年11月2日(土曜)


行く先の目次... 前頁... 次頁... 奈良盆地の地図... 明日香の地図... ...てくてくまっぷNo.28・29


飛鳥を歩いてる。前回はまっぷNo.29の、字で「飛鳥」と呼ばれる明日香村の北部地区を集中的に廻った。飛鳥京の中心部である。

今日は飛鳥京の周辺部を歩く。「まっぷ」でいえば、@近鉄吉野線の岡寺で下車し、西側(橿原市)の丘(ここには益田岩船石がある)をぐるりと巡った後、A近鉄飛鳥駅に出て、線路の東側にある名高い飛鳥の石を見て行く。

図の緑色の線が今日のコース。(線路の左側(西)はコースの全部が表示されているが、線路の右側(東)は一部しか表示できていない。)


線路の東側を巡ったコースは「まっぷNo.28」に書いた緑色の線。(黄色の線は帰り道)

今日のテーマは「飛鳥の奇妙な石巡り」である。


今日の駅の起点の「岡寺(おかでら)」は近鉄吉野線。 名張からは、@近鉄大阪線で大和八木駅へ(約30分)、A大和八木で橿原線に乗り換えて、橿原神宮前駅へ(約6分)、B同駅で吉野線に乗り換えて、次の駅が岡寺。(約3分)

電車の乗り換えは時間を食う。写真は橿原神宮前駅の構内。橿原線から吉野線に乗り換えるために、写真突き当たりの地下道を通って吉野線のプラットホームへ行く。

ホームへ行って時刻表を見たら、普通電車の便は1時間に2本しかない。次の電車までは20分の待ち時間があった。


駅構内にうまそうな匂いを漂わせているパン屋さんがあったので、ここでパン(ベーコンエピとコーヒー牛乳)を買ってホームのベンチに腰掛けて食べる。

朝食は済んでいた。今日は一日出かけるつもりであったので、昨夜のうちに、明日娘が食べるようにと松茸ごはんと味噌汁を作っておいた。今朝はこれを食べてから家を出た。

余計なパンを食べることになったが、電車のせいではない。食い意地が張っているだけである。


ようやく電車が来たぞ。時刻は9:30。


岡寺にはアッという間に着いた。岡寺を起点に巡るところは主として駅の西側だが、写真は東側の国道169号線。

まず東側に出たのは、見瀬丸山古墳(みせまるやま)を見たかったからである。これをちょっと見て線路の西側に戻る。

見瀬丸山古墳が有名になったのは、10年ほど前に石室内部がカメラに収められて(テレビでも映したらしいが)、新聞に載ったからである。

元々は宮内庁が管理しており、立ち入り禁止であったが、地元の人間は結構自由に出入りできたらしい。この報道を受けて、再び立ち入りを厳しく禁止したのだが、このとき石室が調査され詳しいことがわかった。といういわくがある古墳である。


国道を北に向いて3分も歩くと、右手に平らな段丘が見えた。これはひょっとして、見瀬丸山古墳の前方部ではなかろうか。



近づいて、右(東)を見ると、向こうに後円部が見える。後円部のてっぺんには木立があるが、途中までは木がない。前方部の木は刈られているので、この古墳が出来たときの形がよく想像できる。

白石太一郎さん(前掲:山の辺の道B) の本によると、見瀬丸山古墳は、
  1. 古墳時代後期(6世紀後半)の、
  2. 奈良盆地で最大(318m)のもので、
  3. 時代と規模と石室の立派さから、欽明天皇の陵ではないか。
とされているらしい。

それでは、今日訪れる予定の欽明天皇陵は一体誰の墓であるのか、などの推定があってなかなか興味深いところである。


後円部に近づくと、後円部が階段状であることがよくわかる。画面左は周濠(しゅうごう)の跡らしく、一段と低地になっているが、手前は埋められていて、画面左側には民家が建ち並んでいる。 この段丘を駆け上って後円部途中にある柵がまではいけた。(柵内には入れない)

ここには巨大な石材を使った横穴式石室があり、2つの家形石棺があったそうだ。1つは欽明天皇の、他方は妃の一人である堅塩姫(きたしひめ)のものであろうと推定されている。

通常、ひとつの墓に合葬される相手は皇后であるのが当たり前だが、堅塩姫(きたしひめ)は妃である。まあ蘇我稲目という絶大な権力者の娘であり、子供が用明・推古の二人の天皇になっていることから、妃ではあるが例外的に天皇陵に合葬されたのか。

後円部に登り、西南方向を向いて撮る。これから行く「益田岩船(ますだいわふね)」は向こうの(中央の)山の上にあるのではなかろうか。住宅地に囲まれているようだ。





近鉄吉野線を西側へ渡る。

向こう正面の神社は「牟佐坐神社(むさにます)」。由来書きには、第8代の孝元天皇の軽境原宮(かるのさかいはら)の跡である、とあった。

孝元天皇は欠史8代の天皇なのだが、前回橿原神宮駅から飛鳥に向かっているとき、孝元天皇陵があったのでつじつまは合っている。

「当神社に御用の方は左記へ連絡下さい」として「飛鳥坐神社」と電話番号が書いてあった。前回訪れた飛鳥坐神社がここを管理しているようだ。なかなか手広い。



益田岩船へは団地を抜けていく。このあたりにも多くの古墳があるが、橿原市は大規模開発に理解があるのか、この辺一帯は公団住宅や公務員住宅や分譲住宅が広がっていた。住むには環境のよい場所のように思われる。


益田岩船への登り口らしい。これを行けば頂上近くに(標高130m)花崗岩の巨大な石造物がある。益田岩船はぜひ見たかったものの1つ。ようやく今日その願いがかなう。


松本清張さんが「火の路」という小説で、飛鳥の奇態な石の意味は何であったのかを推理しておられた。(文庫本で読んだのは10年以上も前のことだが)

益田岩船へも実地に調査に訪れられたようで、詳細な記述があったように記憶している。益田岩船のイメージが記憶に残っているのは、たぶん推理小説には珍しいことに、益田岩船の写真が載っていたのではなかったか。

(あいにく、これまで買いためていたほとんどの本を今年になって処分したので、確かめることはできないが。)


山路である。こんなところもある。

清張さんが推理したのは、斉明天皇が造った摩訶不思議な施設や石造物は、ペルシャのゾロアスター教の儀式に必要なものではなかったか、ということだった。


ゾロアスター教は拝火教とも呼ばれる。 益田岩船はゾロアスター教の儀式に使われた。ここで火を焚き何らかの儀式をしたのではないか、と推理されていた。

向こうの岩がそれではないか。

益田岩船は大きい。東西の長さ11m、南北の長さ8m。北側の高さ4.7m。と案内板にある。(飛鳥の石造物では最大。)




益田岩船の上部。2つの四角な穴が穿ってある。まったくなんのために、この場所にかように巨大な石を据え、穴を穿ったのか。

諸説あって、@記念碑の台である。A墳墓である。B占星台である。など謎中の謎である。

タイムマシンで、この時代に戻ってみれば、なーんだ。という使われ方をしていたのかも。


「まっぷ」によれば、益田岩船から山道を進めば、牽牛子塚(けんごしつか)古墳に行けるとある。

だがこんなに心細い道である。益田岩船への道には誰一人いなかった。私だけが登って来た。本当にたどり着けるのだろうか。道標はひとつとしてない。

進んでいると、時折、ばさっばさっと音がして驚かせられる。よく見ればクヌギの木がそこここに生えている。なんだ、ドングリが落下していたんだ。


道は暗い。雨雲が出てきて、いまにも天気が崩れそう。

しかし、ようやく舗装された道へ出た。これで一安心。


牽牛子塚(けんごしつか)古墳に着いた。

牽牛子とは朝顔(花)のこと。朝顔は8角形(?)。この古墳も8角形をしていると推定されている。そう思って見ると、2段になった下部は8角形のようにも思える。

古墳時代はだいたい500年代で終り、600年ころの推古天皇以降の陵墓は小粒になる。最後の巨大古墳は見瀬丸山古墳で、欽明天皇があるじである。

欽明天皇の後は、敏達→用明→崇峻→推古と、欽明天皇の子供たちが天皇家を継ぐが、推古の後は敏達天皇の孫である舒明天皇の時代になる。

舒明天皇は飛鳥岡本宮に移り、ここから真の飛鳥京時代が始まる。その舒明天皇の皇后が皇極天皇(後に斉明天皇として重祚)、その子供が天智天皇と天武天皇(その皇后が持統天皇)だから、飛鳥は舒明・皇極(斉明)一家の都であったといえる。



舒明・天智・天武(持統も合葬)の陵は8角形墳であったとされている。皇極天皇(斉明天皇)の陵はまだ確かなものとして比定されてはいないが、どうもこの牽牛子塚(けんごしつか)古墳が皇極天皇(斉明天皇)のそれではないか。と千田稔さんは「飛鳥-水の都」の中で述べておられる。

案内板によれば、石室は凝灰岩を繰り抜いて、左右に2室が造られているらしい。石室内は暗くみえなかったが、写真を撮ると図のように、コンクリート造りかとも思えるほど精巧な部屋になっていた。

写真は右側の石室。左にも同様の石室が隣接する。すでに石を積んで石室とする時代ではなくなっていた。石を加工する技術がずいぶん進んだようだ。



牽牛子塚から再び心細い山路を辿っていくと、一気に視界が開ける。眼下には学校があり、土曜日なのに野球大会をしている。白橿中学校であった。



白橿中学校のある場所は、大規模な住宅地として開発されている。この団地内を抜けて近鉄飛鳥駅に到着。

これで近鉄線路の西側の散策は終り、東側の散策が始まる。

朝方はスッキリと晴れていた天候が、曇りがちになってきており、雨が降らないか気になる。



飛鳥駅の前の国道169号線を東に渡り、すぐに北を向くと、欽明天皇陵が見える。

先にいったように、見瀬丸山古墳こそが欽明天皇陵ではないかの考古学上の意見がある。


なんとなれば、この欽明天皇陵とされている古墳も見瀬丸山古墳も同時代の古墳であるが、見瀬丸山古墳は現欽明天皇陵(140m)の2倍以上も大きいからである。

同時期で最大のものが真の天皇陵であるとすれば、今は宮内庁管轄となっているこの古墳はいったい誰の古墳であったのか。

白石太一郎さんは、蘇我稲目の墓ではないかと言われる 。当時の蘇我氏の権勢たるや実に強大であった。欽明天皇以来、敏達→用明→崇峻→推古→舒明→皇極まで、天皇を即位させる権限は蘇我氏(稲目・馬子・蝦夷)が握っていたらしい。

そうであれば欽明天皇の墳墓に次ぐ大きさの墳墓は蘇我稲目のものであろうという理由らしい。その通りだろう。


欽明天皇陵とされている古墳の左(西)側に吉備姫(きびつひめ)の墓がある。吉備姫は斉明天皇の母親。 それはどうでもよいが、ここには「猿石」が保存されている。

「保存」というのは、元々は猿石はここにあったわけではなく、欽明天皇陵とされている古墳の南側の池から、猿石 と呼ばれる4体の石造物が掘り出され、これを吉備姫の墓内に安置したといういきさつがあるから。



近づいてみると、おお、あるある。猿石だ。正面左に2体。右に2体が置かれている。(写真は左にある2体。)

千田稔さんの著書によれば、猿石は伎楽(ぎがく)に関係するものではないか、という説があるそうだ。法隆寺や奈良国立博物館に行くと、伎楽(仮面をかぶって行なう舞踊)の面があるが、その面は今の感覚からすれば実に面妖なものである。

伎楽は飛鳥時代に伝わり、饗応の席で伎楽が行なわれたらしい。この猿石はそのシチュエーションとして置かれたものではないか。と推測されている。






4体のそれぞれの背面には、別の像が彫られているそうだが、墓の中には入れないので、背面に彫られた像は文献によって知るほかはない。

まずは「山王権現」と呼ばれる石造物。なぜにチンチンを露にしているのか。小便でもしているのか。それとも誇示しているのか。古代人の感覚はよくわからない。

伎楽説によれば、この像は「崑崙(こんろん)」で滑稽な太っちょを表すらしい。




「女」といわれているカマキリみたいな像は、背面を見ると霊鳥の「迦桜羅(かるら)」であるらしい。(伎楽説)





膝小僧を抱いている「僧」と呼ばれている像は、伎楽説では「力士」である。

なお、この後訪れた亀石の脇の茶店で読んだ本(季刊「明日香風」)によると、この「力士」の下部には、臍(ほぞ)があって、何かの台の上に据えられていたらしい。ということを橿原考古学研究所の河上さんが書かれていた。




姿勢を崩して寝そべろうかという様子の烏帽子の「男」は、「胡人(酔胡王)」を表しているのではないか(伎楽説)。いずれも伎楽の仮面にあるのだろうが、私はこの点についてはまったく無知である。

4つの石像が伎楽に出てくる人物であるなら、飛鳥の南西に迎賓館があって、これら猿石はここに設置されていたのではないか、という新しい説が出ているらしい。(北の石神遺跡に対応する南西の飛鳥京の入り口(迎賓館)というわけである。)




猿石は造形的にも面白い。飛鳥の石造物の中では最も優れているのではないか、と思いつつ次の「奇妙な石」を見るために、東を向いて進む。



向こうに人がかたまっているのは、鬼の雪隠(せっちん)の場所。

母と子が坂道を自転車を押して向かっている。


「鬼の雪隠」は古墳の石室の上部(蓋)の部分である。上図の丘の上から、すでに露出していた石室の上部が、地震かなにかで丘の下へ転がり落ちた。というのが真相らしい。



向かいの丘に登れば、「鬼の雪隠」の底部が残っている。「鬼の俎(まないた)」と呼ばれている。ここに「雪隠」が覆いかぶさって、石室を造っていた。

なおこれも宮内庁の管理下にあるようで、そうなら元の古墳は天皇家に関係するものであると推定されているのか。



「鬼の雪隠」からすぐのところに天武・持統天皇陵がある。この陵墓の形も8角形であるとのことだが、よくはわからない。

ここから400mほど進めば亀石がある。まことに明日香は狭いが濃密である。400〜500mおきに何かがある。


酒船石遺跡に亀形石が発掘されてからは、亀石と紛らわしくなったが、亀石は依然として健在であった。大勢の観光客に囲まれていた。大きな岩の下にちょっとだけ頭と手を掘ったところはすごい感覚ですな。えらい。

亀石の西側に茶店があったので、覗くとおでんが煮えていた。おでんをアテに缶ビール2本を飲む。ビールを頼むと、突き出し(高野豆腐とグリンピースを炊いたもの)が出てきた。

大根・厚揚げ・スジ・こんにゃく・たまごを食べて、もう満腹。これで1030円だった。あげくの果てに、2缶目のビールで突き出しを辞退したので、袋入りのピーナツと貝の紐の干物を出してくれる。ほんまかいな。明日香の人は欲がない。




亀石を30mほど過ぎたところに、1坪ほどのプレハブ建ての店があって、中学生らしき女の子が店番をしていた。見ればお土産の菓子を売っている。あまり売れてなさそうなので、買ったのが写真。

亀石屋本舗の「亀石焼菓子(玉子入り)」。住所は岡寺とある。祭りの夜店で売っている「ベビーカステラ」の類。あるいは東京の人形焼きか。9個入り500円。巨石の亀石に比べ、わずか4センチ長ほどの、小さく、軽く、やわらかく、そして甘い亀石である。

荷物になるのはかなわないが、まあよかろうとブラブラと下げて歩くことに。




「まっぷ」を見ると、「奇妙な石巡り」のテーマとしては、亀石の次は橘寺にある「二面石」となっている。 二面石は前回の散策で見ているので、その次は「岡の立石」が目標となるが、実は「まっぷ」には載っていない。(千田稔さんの著書に「岡の立石、上居(じょうご)の立石、祝戸(いわいど)のマラ石」とあるので、これを見てみたかった。)

「岡の立石」というのだから岡寺に行けばなんとかなるだろう。ただ亀石から岡寺までは1.5kmくらいありそうなので、途中の定林寺(じょうりんじ)に寄ってみることにする。そこに何があるのかは知らない。

道はすばらしくよい。歩いていると、制服をきた小学生が、「愛知県碧南市の○○小学校のものですが、二面石へはどう行けばよいですか?」と尋ねてきた。後方に6〜7人の小学生が自転車を止めて待っている。どうやら代表者が聞きにきた様子である。

知っているぞ。先週行ったばかりだもの。こう行ってこう曲がって、と地図の上で道順を教えてあげる。そうそう邪魔になっていた亀石ベビーカステラ、これを上げようとしたら、代表者は「それはいりません。ありがとうございます。」とキッパリと断られる。

きっと修学旅行で来ているのでしょう。先生から、知らない人には気をつけるように、とかの訓示があったのでしょう。愛知県碧南市の○○小学校の子供は先生のいいつけを守って立派である。エライ。






その定林寺は今やお堂の域を出ず、小さいものだった。WCありの案内があったので、缶ビール2本分を排出して、お賽銭を100円。

元の定林寺は写真の左の道を進んだ小高い丘にあって、塔の土壇が残っているばかり。

岡寺に向かう。若い人はたいていがレンタサイクルを利用している。


岡寺に行くには、結構長い坂道を登らねばない。途中にみやげ物屋や食堂があって、さすがは西国7番札所の岡寺だ。そこそこの賑わいはある。

写真は振り返って撮ったもの。


岡寺に到着。岡寺は10年ほど前に、小さかった子供(長男・長女・二女)を連れて、やってきたことがある。ただしこのときは橿原神宮駅からタクシーで来たので、細かなことは何も見ていない。(歩かねばわからないことが多い。)

参拝の受付所に行くと「はい。300円。」と太い声。岡の立石というのは境内にあるのですか、と問うと、「それなら向こうの道を行きなさい。寺に入っても立石はありません。」



向こうというのは「治田神社」の境内である。社は小さいが、境内はすっきりしている。

高さ2mくらいの石が参道の左右にあった。これが「岡の立石」なのか。誰もいないので確かめることもできないが、たぶんそうだろう。何ということもない自然石だった。


今日見るべきものの残りは、@上居(じょうご)の立石、A祝戸(いわいど)のマラ石、となった。

どちらにせよ石舞台古墳まで行かねばならない。蘇我馬子の墓であるとされる石舞台古墳を目指す。しかし夕暮れは迫っている。天候もあやしいぞ。

トラクターで耕作していた男性(老人)に尋ねると、岡寺から石舞台古墳まで行くには、写真の道をたどって、いったんは山を登り、途中から下ればよいらしい。


道は舗装されている。しかし勾配は言われたとおりキツイ。

途中で舗装道路は通行止めになっていて、右は石舞台の道標がある。どうやら右手の小道を下っていけばよいらしい。


この道は暗い。急な下り坂でもある。誰もいない。

寂しい夕暮れの道ではあるが、遠くからワーワーと子供のはしゃぐ声が聞こえてくる。石舞台古墳で遊んでいるらしい。

山道をぬけて視界が開けた。 すでに夕刻。写真中央部に石舞台古墳があるが、小さくて見えない。(ズーム機能つきのデジカメがいるなあ)

すぐ下に農家があって、ここでもおじいさんがトラクターに乗っている。上居(じょうご)の立石の場所を尋ねる。

しかし「上居の立石」は有名ではなかった。説明してくれたのは、どうやら「祝戸(いわいど)のマラ石」のようだった。

そうではなく上居の立石なんですが、と聞き返すと、「それは知らんなあ。上居の集落やったら、この山の裏側やけどな。」上居の立石はあきらめる。


このおじいさんが作っている畑にいるカカシはすごい。カカシがカッパを着ている。傍に警告灯のようなものが吊り下げてある。

たぶん本人か身内の誰かがガードマン(ないし夜間工事の交通整理)の仕事に行って、この衣装と道具を持ち帰ってきて、カカシに着せたようだ。

しかし、カカシの面相はプラスチックの口ひげつきの既成のものであったから、こういうカカシグッズが販売されているのかも知れない。(大いにありうる)

石舞台古墳一帯は公園として整備されていた。石舞台古墳のまわりは生垣で囲ってあり、入場料250円とあった。石舞台は人気スポットである。観光バスが駐車場に止めてあって、観光客がうろうろしている。

入場はせずに、公園を通り抜けて、祝戸へ向かう。( 石舞台古墳は中央右の紅葉した木立の向こうにある。)




奇妙な石巡りは「祝戸のマラ石」を残すばかりとなった。祝戸へ向かう。

路上で掃除をしていた奥さんに「女の方には聞きにくいのやけれども、マラ石はどこですか。」と尋ねると、「ほんまやね。そこの白い倉のあるところを少し登ればあります。」


あった。直径1mほどある大きなものかと思っていたが、小さかった。どこにでもあるお地蔵さんほどの大きさであった。

まあこれは猿石・亀石と同列に扱うことはできない。猿石・亀石のような工夫やひらめきがなく、即物的な物体である。飛鳥時代のものとは到底思えない。いいところ江戸時代のものだろう。

今日は遅くなった。「飛鳥の奇妙な石巡り」は前回の散策とあわせてだいたい完了した。

西からいえば、@益田岩船、A猿石、B鬼の俎板・雪隠、C亀石、D二面石(前回)、E弥勒石(前回)、F酒船石(前回)、G亀形石・小判形石(前回)、H岡の立石、I祝戸のマラ石。

このほかに発掘されている須弥山石や老男女の噴水石があるけれど、これらは博物館に収蔵されているので、一般に見ることができる石造物はだいたい見たことになる。



天候はいよいよ怪しくなる。急いで帰らねば。向こう左端の丘は甘樫丘。正面は天の香久山。夕暮れ道は、急いでも急いでも縮まらない。



今日の万歩計は39000歩だった。新記録。


行く先の目次... 前頁... 次頁... 奈良盆地の地図... 明日香の地図...            執筆:坂本 正治