多武峰・飛鳥の里

    No.6.....2002年11月10日(日曜)


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「No.39 多武峰・飛鳥の里コース」の「てくてくまっぷ」は右のもの。(同じものは、近鉄電車のHPの てくてくまっぷ から手に入れることができます。)

今日のコースは、実にあっさりしている。@談山神社を見て→A御破裂山(ごはれつやま)に登り→B多武峰(とうのみね)を冬野川沿いに下って→C明日香の石舞台古墳に出る。というものである。

このコースでは談山神社がとびっきりの名所。あとは山道ばかりで、さしたる名所旧跡はない。まあ景色を楽しむということになりそう。




談山神社に行くには、近鉄桜井駅で下車。駅前からバスに乗って山を登る。写真は駅前のバス停。朝9時だが、すでに観光客が集まってワイワイ言っている。

バスは1時間に1本しかない。乗れるだけの人を詰め込んで発車。運賃は460円。談山神社へは25分かかるらしい。




バス内はギュウギュウ詰めである。各々がリュックを背負っているものだから余計に窮屈。

観光シーズン中のバスは談山神社の前まで行くが、通常は1つ手前の多武峰までしか行かない。(今はシーズンなので談山神社まで行く。)

写真は多武峰のバス停。 バス乗客の2割がここで下車し、残り8割は終点まで乗るらしい 。私は降りた。


談山神社はもとは妙楽寺というお寺であった。明治の神仏分離によって、寺はなくなり、神社として独立した。と「まっぷ」にある。旧寺域は東大門と西大門を東西の境界として、広大なものであったようだ。

バスで談山神社まで行くと、いきなり旧寺域の中心部に行ってしまうので、1つ手前の多武峰バス停で降りた。

写真の橋は東大門に通じる。

先に行ったバスが走った道を追う。車はひっきりなしにやってくる。歩道はない。脇の溝が乾燥していたので、溝の中を歩くことにした。

右手には杉木立があり、もうここは旧寺域であるらしい。向こうに紅葉した木があり、ここから右に通じる道があった。

曲がれば、東大門であった。まっぷによると「高麗門」と呼ばれていたらしい。

門をくぐると、正面に「下乗」の石碑があり、その後ろには石垣がある。石垣の上には「寺」か「坊」が建っていたのだろうか。いや、大門を入ったばかりの位置だから「坊」ということはないか。 (「寺」は仏を祭り、講義・読経・修行をする場で、「坊」は僧侶が住む場。)

左の道を登ると、談山神社に到る。


道の両側は石垣である。地形にしたがって、区画ごとに石垣が段々になっており、巨大な城のようである。この区画に寺や坊が建っていた。廃仏毀釈の前には、100を超える建物があったのではなかろうか。(その説明はどこにもないが)


登り道の脇に摩尼輪塔(まにりんとう)がある。まっぷによれば、ここでしか見られない珍しいもの、とある。何がどう珍しいのか。

後で調べたら、@摩尼とは宝珠のこと、A輪塔とは密教の五輪塔のことだと知った。

五輪塔は墓所にある梵字(地・水・火・風・空の5文字)を刻んだ石塔だが、写真の円盤がこれに相当するらしい。それが八角柱についているのが珍しいということだろうか。

重文とあった。


坂道を登り切ると、前方に人だかりしている。どうやら談山神社に着いたらしい。



土産物屋が並んでいる。山芋や百合根も売っている。大きなコンニャクを串刺しにしたおでんも売っている。

もともと西日本では「おでん」といえばコンニャクを湯がいて味噌をつけたもので、大根や厚揚げを煮たものは「関東煮」というのが普通だった。 今ではおでんといえば関東煮を指すことになっている。コンニャクのほうは特に「田楽(でんがく)」といわねば通じない。

おでんは食べなかった。昨夜は「豚汁が食べたい」と娘がいうので、コンニャクたっぷり入りのトン汁を作った。今朝も食べてきた。コンニャクはしばらく結構。



入り口。入山拝観料は500円。さすがに観光客が多い。特に11月の紅葉の時期はシーズンなので、賑わいはいや増す。

家族づれがいる、若いカップルもいる、お年寄りも多い。本格的なカメラ(と三脚)を下げた人も多い。

さまざまな人が談山神社に集まっている。

鳥居をくぐって長い石段を登る。まだ色づき始めたばかりだが、紅色に変わっているところもある。

拝殿は、清水寺のようにせり出している。奥の建物は楼門(入り口)。

着いた。正面は楼門。左手に本殿、右手に拝殿がある。いずれも重文。

すでに拝観料500円を払っているので、拝観が許されているどの建物にでも自由に入れる。


中に入って、振り返って楼門を撮った。左手が拝殿、右手が本殿。いずれもが朱塗り。細かな極彩色の模様もある。あでやかではあるが品がある建物である。

本殿前の亀甲形の石畳は「勅使の間」と呼ばれている、とパンフレットにある。




拝殿に入る。ここは畳が敷き詰めてあり、ここに座って本殿を拝することもできるし、座り込んで疲れた足を癒すこともできる。

拝殿から本殿を見る。本殿には藤原鎌足が祭られている。御祭神が「藤原鎌足公」ただ一人というのはスッキリしている。

由来は、鎌足の長男の定慧(じょうえ)は遣唐使とともに唐へ渡り、留学していたが、この間(669年)に鎌足は没し、摂津の阿威山(あいやま)へ葬られた。(阿威山からは、だいぶ前に大織冠の一部ではないかといわれるビーズ玉が発掘された)

定慧はその10年後に帰朝して、父と縁の深い多武峰の地に改葬し、十三重の塔と講堂を建てて妙楽寺を開いた。

定慧の弟の藤原不比等(ふひと)は701年に、神殿を造り、鎌足像を安置した。ここに寺と神社が混淆し、その後の神域・寺域が拡大するスタートとなった。

ということらしい。




畳敷きの拝殿は宝物殿も兼ねており、太刀・縁起絵巻・曼荼羅図・書状・青白磁器・扁額などが陳列してあった。

図は「百味の御食(ひゃくみのおんじき)」と言われる神饌。毎年10月に行なわれる「嘉吉祭」に、このようなお供えが作られる、と説明があった。神社としては豪華なお供えものである。





拝殿のぐるりは廊下で繋がっている。南を見れば、拝殿がせり出しているので、下方一面に樹木が広がっている。



拝殿を出る。西側には定慧が建てた十三重の塔がある。十三重の石塔というのはちょいちょいあるが、だいたいにおいて小さい。(山の辺の道B日目で訪れた長岳寺にもあった)

この十三重の塔は大きい。しかも現存する唯一の木造である。したがって重文。

三脚にカメラを固定して写真を撮っている人が何人もいる。



十三重塔から石段を下ると、神廟拝所(しんびょうはいしょ)がある。定慧が679年に建てた旧講堂。

神廟拝所の前(写真左に人が立っている場所)は「けまりの庭」と呼ばれており、春秋に蹴鞠の会が開催されるそうだ。

中大兄皇子と中臣鎌足は、蹴鞠を通じて親しくなり、大化の改新(蘇我入鹿の殺害は「乙巳の変」(いつしのへん)と呼ばれる)へと動いていくが、このときの蹴鞠は飛鳥寺の西にあった槻の木の下であるといわれている。

「けまりの庭」は二人が親交を持った場所ではないが、しかし蘇我氏を排除し、天皇を中心にした来るべき政治体制をどうするかについては、何度も相談したに違いなく、その相談の場所はこの多武峰であるといわれている。





談山神社の裏山は「談い山」(かたらいやま)と呼ばれている。標高566m。その奥(北側)に御破裂山(607m)がる。

談山神社で貰ったパンフレットには、「御破裂山(ごはれつ)」とあったが、まっぷでは「御破烈山」とあり、読み方も「おはれつ」と書いてあるものもあったりだが、本場の談山神社が書いている「御破裂山(ごはれつやま)」が正しいのだろう。

神社の奥にこの2山へ登る道がある。標高607mとはいっても、談山神社そのものが400mか500mの高さにあるので、ここから頂上を目指すことは、そんなに大変なことではない。

道は整備されている。もともと山頂に近いので道は明るい。

じきに「談い山」の山頂に達する。ここは「談所の森(だんじょ)」と呼ばれているらしい。山頂には石碑が1本あって「御相談所」と彫ってあった。

隋・唐の留学から戻った南淵請安(みなぶちのしょうあん)が、多武峰を下った南淵(明日香村稲淵。石舞台の南)に住んでいた。2人はここへ通って唐の諸制度を学んだ。

稲淵からここはじきの距離である。中大兄皇子と中臣鎌足は、人目を避けるためにこの場所に登り、学んだ制度をこの国に移植するにはどうすればよいのかを、語らったのですな。思えばすごい場所である。

多武峰で最も高い御破裂山へ向かう。尾根伝いに行くので、日が木立の間に漏れて来る。

なかなかよい気分。

飛鳥を歩いていれば、東にはいつも多武峰が見える。そのてっぺんが御破裂山(ごはれつ)なので、ここへ登ればさぞかし眺望がよいのだろうと思っていたが、案外だった。

頂上は木立に囲まれ一つ方向の眺望しかできない。写真は北西方向を向いて撮ったもの。ちょうど西にあるはずの二上山は写真左側にあり、右手には生駒山の連なりが見えている。 手前に大和三山が写っているが、左に畝傍山、右に耳成山、手前にべったりとして天の香久山がある。




御破裂山を下り、談山神社を出て、向かいの丘から談山神社を撮ったもの。奥の山が「談い山」。山の下には、右に本殿・拝殿が、中央に十三重塔が、左に権殿が見える。


これより明日香の石舞台を目指す。



西大門跡がある。ここで昔の妙楽寺の寺域は終り。東大門のような門は失われているが、同じように「下乗」の石碑は残っている。

ここから下り坂となっていて、多武峰を降りていくことになる。

ここから先、終点の石舞台までは特に有名なものはなく、「まっぷ」には、「石仏」・「子安地蔵」・「下り急」とか「山の斜面に民家が点在」とか「左手の山肌が美しい変化を見せる」とかの書き込みがあるばかり。

車1台が余裕を持って走れるほどの道幅で、歩きやすい。正面に葛城山がある。


突然大きな道路に出た。いかにもドライブに最適といった道である。こんな道はまっぷには載っていない。車は1台も通っていないので、未開通のようだが、まっぷの示す道はどれだろうか。

たぶん道路の向こうの祠の前を走る小道ではないか。(畑に通じる単なる野良道だったりして。)


選択は間違っていなかったようだ。道の上方に石仏が見える。まっぷにもある。ちょっと登ってみる。

どうやら墓場だったようである。しかし名前のある墓石は2つ3つで、あとは仏が彫ってある。

よく見れば、仏の光背部に文字が刻まれており、「天正XX年」とか「元亀○○年」とあるので、ずいぶん古い時代のものである。信長・秀吉の時代。


野仏もこうして集まっていると、なんか迫力がある。


やはり道路はまだ工事中だった。さっきの広い道路は山を回ってここへ繋がるようだ。石舞台古墳の方向が矢印で示してある。

いっぺんに山道に変る。この下り坂は急であった。一歩一歩足元を確かめながら足を下ろさないと滑りそうになる。

このような道が延々と続いたが、えらいもので下から登ってくるハイカーが結構いる。例外なくハアハア言っている。犬と一緒の夫婦もいた。とんでもないことに自転車を押したおじいさんもやってきた。どうやって高低差が1mもあるような山道の段を越そうというのか。絶対無理ですな。

こういう元気のある人は、そのスタイルからして違う。わたしのように普段着に合成皮靴というのではない。登山帽をかぶり、リュックを背負い、厚手の靴下をはき、登山靴のいでたちである。

下り坂のくせに難渋しつつ、ようやく舗装された道に出た。


下って来た山道の右側には、水量のわずかな小さな川があったが、これが冬野川。

里に出ると、冬野川は川幅が広げられて、川らしくなっている。


なだらかな山は耕されて段々畑になっている。(水田もあるから、こういうのは棚田というのか)

藁くずを燃しているらしく、薄く煙がかかる。匂いもする。農村の景色である。


道を下る。下り道だからしんどくはないが、足は痛い。舗装された道路ではあるが、車は滅多に来ない。だからハイカーも右側通行などせず、平気で車線を歩く。

私はキョロキョロしているので、どんどん追い抜かされている。


キョロキョロしていたのは、「まっぷ」に「立石」とあったからである。前回の「飛鳥の妙な石巡り」で見落とした「上居(じょうご)の立石」がそれではないかと捜している。

舗装道路を少し登ったところに立石があった。「岡の立石」と同じで単なる自然石だった。説明には、この立石が飛鳥の境界を示しているのではないかとも言われている、と書いてあるが自然石ではなあ。

あの猿石や亀石を作った飛鳥の人々が、石に何の加工もしなかったとは考えにくい。飛鳥時代のものであるなら、気のきいた彫刻をしているはずである。

石舞台古墳に到着。前回は夕暮れに到着したので、写真には写らなかったが、今日は近づいて撮る。




石舞台から、前回、「祝戸のマラ石」の場所を教えてくれたおじいさんの家が見える。その下の畑には、カッパを来たカカシがいるはず。

今日の散策はここでおしまい。時刻は午後1時。今日は短いコースであったので、万歩計は24000歩だった。

そのはずだが、ここから駅にどうやって行けばよいのか。石舞台前のバス停の時刻表を見ると、午後1時台のバスは皆無である。次は2時50分とある。あと2時間弱も待たねばならないとは。


前回も石舞台まで来てから、駅に戻るのが難しかった。近鉄岡寺駅を目指して夕暮れ道を急いだが、途中で雨になった。1軒だけあった喫茶店で40分ほど時間をつぶしていたが、待っている途中で気が萎えてしまい、タクシーを呼んでもらって橿原神宮駅まで戻った。




今日はまだ日も早いし、天気もよいので、岡寺駅まで歩くことにした。岡寺駅までは3.3Kmとあるので、1時間歩けば着くだろう。石舞台(東)を振り返り撮る。正面は多武峰。中央の最高のところが御破裂山で、その右肩下がりがいったん平になって、わずかに上向きになったところが「談い山」(かたらいやま)か。






岡寺駅に到着。プラットホームから見瀬丸山古墳が見える。2週続けて岡寺駅に来た。今回で飛鳥の地は終り。次はどこへ行きますかな。

岡寺駅まで歩いたので、今日の万歩計は30000歩となった。


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