大和三山 @日目

    No.7.....2002年11月16日(土曜)


行く先の目次... 前頁... 次頁... 奈良盆地の地図... 藤原京の地図... ...てくてくまっぷNo.50


「No.50 大和三山回遊コース」の「てくてくまっぷ」は右のもの。(同じものは、近鉄電車のHPの てくてくまっぷ から手に入れることができます。)

今日は大和三山を散策する。

有名な山は、高い山がほとんどである。大雪山・赤城山・磐梯山・月山・富士山・穂高・槍ヶ岳・大山・阿蘇山、(実はあまり知らない)。低い山で有名なのは、大阪の天保山で、標高は4.5m。しかしこれはジョークのたぐいで、低い山で最も有名なものは、やはり大和三山だろう。

大和三山は、@畝傍山199m、A天香久山152m、B耳成山139m、の3つの山の総称だが、その形、ここを舞台背景とした歴史、万葉集に多くの歌が残っていることで、古来随一のいわくいわれのある山々である。

「まっぷ」では三つの山を巡ることを1日のコースとしてあるが、今日は畝傍山は行かずに、天香久山と耳成山および三山の中央部にあった藤原京跡を中心にして回る。(地図の赤線部分)




大和三山は、ほぼ正三角形の位置にある。頂点に耳成山があり、その南西に畝傍山、東南に香久山。したがって畝傍山からだいたい東を目指すと香久山に突き当たる。

畝傍山に最も近い駅は、近鉄畝傍御陵前で、近鉄大阪線の八木駅から橿原線に乗り換えて2つ目の駅。(八木駅からの運賃は150円)。

写真は駅の東側。(西側には畝傍山がある)駅の東側には、香久山・耳成山・藤原京がある。

東側の駅前に、変な銀色に輝く球体がモニュメントとしてあった。案内板を見ると、藤原京遷都1300年を記念して作ったようである。持統天皇が飛鳥の地から都を藤原京へ移したのは694年(平安京遷都794年のちょうど100年前)であるので、1994年に作ったものと思われる。




東に向かって歩きはじめる。コンビニがあったので、乾電池を12個買う。今使っているデジカメは必ずフラッシュが光るので、写真を50枚くらい撮ると電池の寿命が尽きる。デジカメには2本の単3電池を入れる。これまでの例では、1日にだいたい150枚くらい写真を撮るので、単3電池は1日のうちに3回入れ替えをして、6本消耗する。

今日は「デジタルカメラでアルカリに満足できない方へ」という宣伝文句の入った4本入りパックを3つ買った。2000円ほど。長持ちするのやろうか。

西(近鉄畝傍御陵前駅)を振り返って撮る。御陵前駅のほんのすぐ後ろに畝傍山がある。(駅から4〜500mの近所)




行く手(東向き)には、すでに天の香久山が見えている。まっぷによれば、駅から香久山のふもともまでは2.2Kmで、約30分の道のり。


香久山に向かいつつ左手(北)を見れば、遠くに耳成山がある。



歩くこと5分。田んぼの中に土壇が見える。本薬師寺跡。本薬師寺と「本」がつくのは、ここにあった寺が平城京遷都とともに移転し、今の奈良・西の京にある薬師寺となったからである。

本薬師寺は天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を願って造営した。とまっぷにある。ここには東塔と西塔の礎石が残っている。

写真は西塔跡(緑の正方形)。



この礎石が掘り出されて、前の寺の庭に並べられていた。この寺は医王院とあって、薬師寺とは関係がないようだ。



東塔跡には、礎石がそのまま並べてあって、この上に立てられていた塔は、3重の塔であったのか、5重の塔であったのか。(今の薬師寺は3重の塔。)まあ1300年前の礎石である。というだけで、なにかしらタイシタものだと思わせる。

病気平癒を願って、寺を建立するというのは、天武天皇と皇后(後の持統天皇)の結びつきの強さを思わせるが、これを見たときは持統天皇についてはあまり知らなかったので、さほどの感慨は無かった。(すぐ後で本を買って、読んで知ることになる)



本薬師寺跡から、なお東行するとじきに飛鳥川に突き当たる。

飛鳥川は前回行った祝戸(石舞台)で冬野川と合流し、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶき)の西を流れ、甘樫丘の東を流れ、ここに到っているのですな。


飛鳥川を渡れば、天の香久山がすぐそこにある。写真の香久山は左右対称の均整のとれた姿だが、別の場所から見るとダラダラとした低い山である。


振り返れば、真西に畝傍山が見える。天の香久山と畝傍山の距離は3km足らず。(自転車でも20分)



香久山のふもとに「天岩戸神社」があった。天岩戸神社というだけで、ほんまかいな、という気がする。

本殿(祠)奥には岩戸らしい大きな岩が3つ4つ組み合わせられてある。一見すれば横穴式古墳の入り口のようのも見えるが、単に岩を並べただけのものかも知れない。(当然に本殿奥には入れないので確かめることはできないし、確かめる必要もないが。)



香久山に上る。標高152m、しかも盆地の平野部自体の海抜が何mかあるはずだから、登りの距離は100mにも達しないのでは。まずはラクラクの登山である。


「香久山国有林植樹事業完成記念」の看板があった。香久山は国有地なのですな。植林は昭和53年から4年間にわたっている。(1978年〜1982年)。植えたのは、ひのき・くすのき・まてばしい。

このような案内板を立てた気持ちはよくわかる。実行者は「奈良県森林管理事務所」だが、協力者は「香久山地区婦人会」とあり、この地区の婦人会の方々が山の斜面に入って、4600本の苗木を植えたのですなあ。

えらいものである。香久山を荒れ果てさせてはならない。誰でもそう思えども、じゃあ自らが植林に参加するかというと、なかなかできない。

物事を初めて作ることは難しいことではない。失敗か成功かがあるだけである。しかし有る物・成功したものを維持していくことは、実に困難である。香久山地区婦人会はこの香久山を昔どおりに維持しなくてはならないと決断し、この献身があって、われわれは香久山の姿を古代と同じように見ることができる。



頂上に着いた。山頂には国常立神社(くにのとこたち)がある。国常立尊は、日本書紀の冒頭に出てくる最初の神さん。天地開闢、つまりこの日本国土を作った神さんであるらしい。


香久山山頂からの眺望もよくはなかった。木立がじゃまして見晴らしは悪い。写真は西を向いて撮る。正面が畝傍山。


「万葉の森」と「天香山神社」の道標があった。万葉の森とは、先にあった植林によって整備した森のことらしい。どちらを行っても山を下る。

天香山神社を目指す。神社の名前は「天香山」とあり、現在の「香久山」の字とは違う。(万葉集では「香具山」と書かれている。)


香久山を下ると、天香山神社の境内に出た。祭神は櫛眞命(くしまちのみこと)とのこと。どういう謂れであるのかは知らないが、占いの神さんであるらしい。


参道脇には、多くの碑が並んでいる。


そのひとつがこれ。「天の波波迦(ははか)」と彫ってある。波波迦とは何であるのか。古事記に出てくる、占いに使った木であるそうな。(石碑の奥の二股の木がそれ)

天照大神が天岩戸に隠れた際に、天の香山の真牡鹿(まおしか)の肩を打ち抜きに抜きて、天の香山の波波迦を取りて、占いまかなわしめて・・・」とある。鹿の骨を波波迦の木の皮で焼いて、占ったらしい。

波波迦は、にわざくら・うわみずざくら・こんごうざくら・かばざくら等の別名があります。と案内板に書いてある。

その木肌は写真のようなもの。ようするに桜の木か?


天香山神社を出て、北に向かって歩いていると、「月誕生石」の道標がある。まっぷには載っていない。行ってみることに。


月の誕生石があった。巨石といえる。案内板には6.5mX3.5mX1.5mとある。民話が紹介されている。

かいつまんでいえば、もとはひとかかえ程の石があったが、次第に大きくなり、ついにはお産をした。生まれたのは月であった。というもので、まあ他愛がないといえば、そのとおりである。


そこから見下ろすと、下草が刈られて公園のようになっている。これは古い遺跡ではなかろうか。まっぷにはないが、山を降りてみる。


ここだけが木立がなく、休憩所があり、石段がつけられていたり、池があったりして、いかにも何かがありそうである。

しかしどのような案内板もない。向こうの田んぼに人がいる。 おじいさんが、刈り入れが終わった田んぼを掘り返していた。くだんの場所は、万葉の森の一部で、元は階段状に水仙が植えられていたが、管理の費用がかかるために、つぶして平地にした。ということだった。

なんだ遺跡ではなかったのか。



(写真がブレているが) ところで農閑期にどうして田んぼを掘っているのですか。と問うと、ここから話が長くなった。

ここは香久山の斜面になっているので、水田には水が引けず、水は雨に頼るしかない。稲を育てるには、水が要るときと水を抜かなければならないときがあるので、自然にまかせていてはこの調整ができない。

そこでこのあたりの田んぼの地下には、田んぼ1枚につき2本の暗渠が埋められているのだそうだ。暗渠は昔は竹筒を束ねたものであったが、ここにあるのは土管で、最新のものはプラスチックである。

田んぼの水は暗渠に集まってくる。水を必要とする時期は暗渠の栓を止めておき、水を抜きたいときは栓を緩めて排水する。 ただ、この暗渠はしだいに土で詰ってくるので、何年かおきに暗渠の掃除をする。今はその作業をしている。ということだった。

のどかに見える田んぼの地下にはこのようなものがあったんだ。見えないところで苦労しているんだ。



天の香久山を後にする。振り返って撮る。

持統天皇の有名な歌、

  春すぎて  夏来るし 
  白妙の   衣乾したり 
  天の香久山

の白妙の衣は、この民家のあたりに干してあったのだろう。



北に向かい、西を向いて進めば、藤原京跡がある。ここは橿原市。向こう左手に畝傍山。これも橿原市。

持統天皇は、694年に、それまでの飛鳥浄御原宮(きよみがはら)から藤原京に遷都した。

この藤原京は、@宮の広さは900m四方、A都全体の規模は東西2100m、南北3200m、という巨大なもので、B昭和9年(1934年)から発掘調査をしている。と案内板にある。

(その後の調査では、東西5.3km・南北4.8Kmで、平城京・平安京より巨大であったことが判明したらしい。)



藤原京跡は田んぼであったが、順次国が買い上げて、いまは広々とした広場になっている。向こう(北向き)の土壇が大極殿跡。手前に官庁が建ち並んでいたらしい。



藤原京跡は、だだっぴろい広場になっているので、ラジコン飛行機を飛ばすにはもってこいの場所になっている。ほかにサッカー場と野球場(学校の運動場と同じようなもの)もあった。



藤原京がどのくらい広いか。案内板に地図があったので(拡大した藤原京の地図も参照)不明瞭ながらも、これを掲げると、右下の赤枠が飛鳥京の規模。青線が藤原京の大きさ。(線は私が入れたもの)藤原京は飛鳥京の10倍ほども大きい感じである。

この巨大な都はしかし、710年の元明天皇が平城京へ遷都するまでの16年間(持統・文武・元明の3代)だけの都でしかなかった。もったいない。

いま国有地としている(買い上げはまだ続いている)部分は、地図の赤色部分(900mX900m)、つまり藤原宮の箇所だけだが、これでも随分広い。


藤原宮の南、朱雀門があったとされるところから、北の大極殿跡を見る。大極殿跡の向こうの山が耳成山。


東を見れば香久山。向こうの民家まで国有地。


西を見れば畝傍山。向こうの民家まで国有地。

まことに藤原京は大和三山の中心に位置している。


大極殿跡は土壇に木立があるばかり。

飛鳥京・藤原京・平城京の時代は女帝の時代である。

天武天皇が亡くなったとき、皇后(後の持統天皇)は、わが子の草壁皇子を次期天皇にすべく、有力な後継者と見られていた大津皇子(姉の子である)を死にいたらしめるが、肝心の草壁皇子が亡くなってしまう。

持統は正式に天皇に即位し、草壁皇子の遺児(軽皇子)が成長することを待った。草壁皇子の妃は持統の妹(異母)の阿閉皇女(あへ)である。

持統天皇は藤原京へ遷都し、初めての主となる。その3年後、軽皇子が15歳になったときに譲位し、軽皇子は文武天皇となる。 悲願達成であったが、文武天皇はしかし在位10年で亡くなり、母である阿閉皇女が、元明天皇として即位する。文武の遺児の首皇子(おびと)の成長を待つためである。

元明天皇は710年に都を平城京に移し、藤原京はここで終わる。奈良に移っても、首皇子はなお幼く、元明は譲位して、元正天皇が即位する。元正は元明と草壁皇子の娘、文武の兄妹である。首皇子はその後、ようやく育ち、聖武天皇として即位する。

聖武天皇の後も同じことが繰り返され、聖武→孝謙(女帝)→淳仁→称徳(女帝)→光仁となって、奈良時代が終わる。

推古天皇以来、飛鳥時代の10代の天皇のうち4代(推古・皇極・斉明・持統)が女帝で、奈良時代7代の天皇のうち4代(元明・元正・孝謙・称徳)が女帝という特異な時代であった。(上田正昭・「古代日本の女帝」)


藤原京跡から、北行きに耳成山へ向かう。これは桜並木。

道は赤い絨毯が敷かれているようである。歩めば、サクサクと踏まれた落葉が音をたてる。



この池は醍醐池という。溜池である。鴨が浮かんでいる。



耳成山が近づく。



耳成山のふもとは公園として整備されている。ここにも桜の木が植えられていて、春は耳成山をバックに、前には池、池には桜の花びらが散る、といった風情で、お花見が楽しめる。

近鉄電車の車窓から、その光景が見えて、一度はここへ花見にやって来たいと思っているが、まだ果たせていない。





耳成山に登る。わずかに標高139mの小山である。


ほぼ山頂に耳成山口神社があった。祭神は見落とした。


神社脇の道をたどればじきに山頂に着く。しかし回りには木があって、眺望はゼロ。


帰ろう。小学生が歌を歌いながら、追い越していく。


耳成山公園の桜並木を透かして畝傍山。





西を向いてずんずん歩めば、近鉄八木駅が見える。(右手の建物は近鉄百貨店)



八木駅。時刻は2時半。まだ駅前の居酒屋は開いていないぞ。



近鉄百貨店6階にあるアサヒ・ビヤレストランに入り、中ジョッキを2杯。アテはなんとかいうソーセージ。

見下ろせば名張へ行く電車が走っている。



屋上に出て、東を向いて耳成山を撮る。耳成山は湖に浮かぶ小島のようである。耳成山は死火山であるらしい。火山でないとこのような平地に姿よい山はできない。



もとはもっと高い山であったが、盆地の陥没によって山が沈下し、山の頭部が地上に残された。人の顔に例えれば、耳がないような山なので、耳無し山(耳成)と呼ばれるようになった。と山頂近くにあった案内板にあった。

今日の万歩計は24000歩だった。


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