大和三山 A日目

    No.8....2002年11月24日(日曜)


行く先の目次... 前頁... 次頁... 奈良盆地の地図... 藤原京の地図... ...てくてくまっぷNo.50


「No.50 大和三山回遊コース」の「てくてくまっぷ」は右のもの。(同じものは、近鉄電車のHPの てくてくまっぷ から手に入れることができます。)

前回は大和三山のうち、近鉄橿原線より東側の天の香久山と耳成山へ行った。今日は線路より西側の畝傍山に行く。畝傍山の南には橿原神宮、北には神武天皇陵、西には橿原考古学研究所の博物館がある。

この博物館は見せることに十分な工夫がなされていて、館内を一周すると、2時間くらいはあっという間に過ぎてしまう。という実にすばらしい博物館である。ここで時間を食うのはわかっているので、畝傍山のコースを独立して1日分とした。

なお時間があれば、隣の駅の八木西口駅からすぐのところに、江戸期の町並みがそっくり残っている「今井町」があるので、ここも訪れたい。今日のコースは「まっぷ」の緑色のようになった。



今日利用する近鉄は、名張駅→八木駅→橿原神宮前駅で下車。徒歩で畝傍山およびその周辺を歩いて、畝傍御陵前駅にいき、1駅だけ電車に乗って八木西口駅に行く。今井町を回って、そのまま八木駅まで歩く予定。

八木駅→橿原神宮前駅までは200円。畝傍御陵前駅→八木西口駅までは150円。

橿原神宮前で下車するのは、No.4 飛鳥コース(@日目) に続いて2度目である。 No.5 飛鳥コース(A日目) では、岡寺に行くために、この駅で吉野線に乗り換えた。

同じ駅構内の写真。すでに初詣のポスターが貼られている。もちろん「初詣は橿原神宮へ」。



9時10分頃。駅を出る。こちらは橿原神宮駅西口。(前は東口に出て、飛鳥へ向かった)



駅前からまっすぐに道が伸びている。向こうの山が畝傍山。その山裾に橿原神宮がある。


みやげ物屋も2・3軒あることはあるが、派手ではない。土産物が「はにわ」というのもジミ。しかし正月の初詣時には、この道はごった返して大混雑になる。


神宮の一の鳥居前に来た。以前初詣したときとどうも様子が違う。大鳥居の前はこのような駐車場ではなかったはず。ガードマンにいつから駐車場になったのですかと尋ねると、「昔から駐車場ですが、初詣の時だけは駐車禁止になります。」

鳥居脇の案内板を見ると、祭神は@神武天皇、Aその皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)とある。

この神社で最大の祭日は2月11日に行なわれる「紀元祭」。



一の鳥居をくぐって100mほど行くと二の鳥居がある。鳥居の下で親子連れが写真を撮っている、男の子は着物を着せられていて、そうか、七五三の時期だ。

うちの子のときも家内にせかされて, 宮参りや七五三にいきましたなあ。七五三のときの写真を翌年の年賀状にプリントしたりして、まあ親ばかである。(ぜんぶ家内がしたのだが)



結婚式もある。新郎新婦と家族が参道を歩いて行く。この先に本殿・拝殿があるらしい。(たぶんそれ専用の儀式殿といったものがあるのだろうが)

白無垢の打ち掛け(というのか)姿の花嫁は、うん、よいですな。男の紋付羽織は完全に負けておる。

参道を進めば、右に南神門。


参道の左側には大きな深田池がある。面積は1万2000坪とか。

深田池には水鳥が密集している。ほとんどは鴨。中にアヒルもたまにいる。





南神門をくぐると、拝殿がある。橿原神宮の歴史は浅い。明治23年に明治天皇より、御所の賢所(かしこどころ)を下賜され、これを本殿として作った新造の神社である。

昭和15年に皇紀2600年の記念行事として、神域を拡大(敷地15万坪)整備し、このときに拝殿・幣殿などが追加された、と橿原神宮のHPにあった。


拝殿前広場に、マスコットのぬいぐるみが2匹歩いている。(写真の青色のほかに赤色もいた)七五三のためのようだ。神社も結構努力している。



実は橿原神宮の拝殿は2つある。建物を外から挙げれば、@外拝殿、A内拝殿、B幣殿、C本殿。

幣殿は神様へのお供え(神饌)をし、祝詞を奏上する場所。本殿はご神体を祭る場所。上図は外拝殿。外拝殿に入り、内拝殿を撮ったのがこれ。



北神門を出ると、畝傍山への登山道があった。写真の人が指差している方向。

大和三山の残る1つ、畝傍山への初登頂(私は初めて登る)が始まる。



畝傍山は標高199mの死火山である。大和三山のうちで最も高いとはいえ、山道といっては笑われる。散歩道というべきものである。

この山は近所の人たちが、毎週あるいは毎日登っているようで、何人もの人が下ってくるのとすれ違った。 こちらはハイキングのつもりで「こんにちは」と挨拶するが、向こうは例外なく「おはようございます」といわれる。畝傍登山はラジオ体操のようなもので、日課としているらしい。あるいは朝飯前の一仕事の感じ。



山が低い上、雑木なので木立の背丈も低く、お陰で日当たりもよい。急勾配の場所もなく、年配者にとっては手ごろな、格好の山とみえた。

団体で山歩き(野歩き?)をしているグループがある。この時刻(10:00頃)にはすでに登頂しており、山頂から下ってくる。脇によって道を空けて立ち止まっていたら、「こんにちは。このあと25〜6人きますから。」とリーダーらしき人がいう。

来る来る。「こんにちは」へ、「こんにちは」を返す。すると後続者が「こんにちは」、私も「こんにちは」。まさか26回も言わないが、オウムか九官鳥だった。



山頂へ到る。楽に登れた。


畝傍山からは金剛山・葛城山・二上山が見える。





北東には耳成山が見えるだけの木立の隙間があった。耳成山の下方にある林は神武天皇陵。



下山する。

リハビリで登山をしている人もいた。杖を握って一歩また一歩。ゆっくりと登ってくる。同年輩と思える老人が後ろから付き添っている。あいさつしたら、ご本人が話かけてくる。

脳溢血で倒れて、平成病院に担ぎ込まれたのや。手足が動かんようになってどれだけ辛かったか。そやけど口はきけたから有難かった。長話となる。

平成(記念)病院は、後で畝傍御陵駅の近所にあることを知った。


山を下ると、「畝火山口神社」があった。案内板には「畝火山口」と書いて「おむねやま」と仮名が振ってある。ご祭神は住吉大神・安産の守神神宮皇后とある。こんなところに海の神さんが。

祭日に、2月28日「御田植祭」と書いて「おんだまつり」とある。以前に訪ねた飛鳥坐(あすかにいます)神社の「おんだ祭り」は有名とあったが、おんだ祭りとは「御田植祭」のことであったのか。やっとわかった。


この神社は瓦葺きである。お寺の雰囲気もある。たぶん明治の廃仏毀釈によって寺がなくなったのではないか。実際のところ、山を下りきったところに、元の畝火山口神社の地があって、碑が建てられていた。そのすぐ横にはお寺もあった。

ここでも近所の人が七五三のお参りに来ていた。神主さんは遠目ながら女性であった。神主さんの衣装だったから巫女さんではない。後継ぎがいないのやろうか。

しかし氏子・氏神の関係がなお続いているようで、気持ちよい神社だった。向こうの山は畝傍山。


畝火山口神社からわずかに下ると平地に出る。写真は畝傍山の北側の道を東向きに歩いています。

歩道がない上に、車が猛烈な勢いで行き交う。車の傍若無人さに、ちょっと憮然とした道だった。


その道の右手(南)に墓地がある。戦没勇士の碑があって、今度の戦争で出征し、亡くなった方の墓がずらりと並んで建っている。たいていは昭和19年か20年に没。階級は陸軍伍長とか上等兵とか満州義勇団というのもある。いまだに新しい花が生けてあるのをみれば、まだ身内は残っておられるようだ。

戦没勇士の碑は昭和28年に建てたとあるので、戦後の混乱が少し落ち着き、やや余裕が出たときに、鎮魂の思いが高まったのでしょうなあ。


墓場の上には畝傍山がある。畝傍山山頂には、やはり天智天皇の万葉歌の、

香久山は 畝傍を愛しと 耳成と 相争いき
神代より かくにあるらし いにしえも しかにあれこそ
うつせみも つまを争うらしき

が案内板にあった。東山魁夷の書による歌碑は山の辺の道の井寺池で見ている。どうしても額田王(ぬかたのおおきみ)・天智天皇(中大兄皇子)・天武天皇(大海人皇子)の三角関係のことを想い出すので、畝傍山が女性、耳成山と香久山が男性、の例えであるとされている。


山の形からすれば、耳成山・香久山は女性で、畝傍山は男性とするほうが素直であろう(そういう説もある)と思っていたが、畝火山口神社の細やかで包容力のありそうな神社の姿を見たり、戦没勇士の碑が畝傍山のふもとにあるのを見てくると、この畝傍という山はやはり女性で、「おふくろさん」の山であるような気がしてきた。


子供にとって、父親より母親のほうがよいに決まっている。母親は最後にはどんな子供であっても、自分の分身として受け止めることができるが、父親はぎこちない。「こうあるべし」の考えが邪魔をして、盲目的に子供を許すわけにはいかない。男親は損ですな。

地元の人にとって、畝傍山は母親のような存在であるのだろう。

向こうの森は神武天皇陵のようである。


神武天皇陵への道を歩いていた。てっきり私一人だけがこの道を歩いていると思って、「フリーメーソンの葬送音楽」(モーツアルト)の口笛を吹きつつ歩いていたら、向こうから人が来て、やや恥ずかしかった。

ハイキングの会の先導者として、コースの下調べに来たとのこと。そういえば畝傍山山頂でも、60代の男性が、来年1月実施の「歩こう会」の下準備です。と言っていた。

どこにでも人の役に立つことを喜びとしている人がいる。



こんな道へ出てきた。

神武天皇陵への参道の横っちょであった。天皇陵の前では団体を前に何か説明をしている。

神武天皇陵は、さすがというべきか、手厚い管理がされている。ほとんど架空の天皇であるように思われるが、この天皇が万世一系の天皇家の第一代の皇祖であるとなった明治以来は、この御陵は絶対の存在となった。

3重になった鳥居(?)は屋上屋を重ねるがごとき重厚さである。

神武天皇陵を出ると、前には立派な道路が走っている。左へ行けば八木。右に行くと橿原神宮。

写真中央の林の先には「橿原考古学研究所付属博物館」がある。

博物館は畝傍山をバックにしている。この場所自体が橿原遺跡といわれる古代の遺跡であった。

この博物館で感心するのは、発掘された破片から、元はこうであったろうと、当時の完成品を大胆に再現していることである。この博物館を訪れるとたまげる。

例えば桜井市のメスリ山古墳出土の円筒埴輪(の複製)が飾られているが、それは想像外の大きさである。2m近くある。家型埴輪とて、人形の家のようなちゃちなものではない。1mくらいある。

はては木製の柱(トーテムポールのごとき)が古墳の上に立っていた発掘例があって、このような様子であったという想像図を見ると、これまでの教科書的な知識から余りにも乖離している。ちょっとした感動である。

先日訪れた牽牛子塚(けんごしつか)古墳は斉明天皇の墓ではないかと推定されているが、ここから亀甲型の七宝金具が発掘されている。その複製品を作って展示してあったが、本当に宝物であったろうな、というよい出来ばえであった。

藤木古墳から出土した、金銅製の靴や太刀を当時の姿に複製してあるのを見ると、当時のものがどれだけ豪華なものであったのかが実感できる。これほどわかりやすく、当時のものを再現して展示している博物館はあまりないのではなかろうか。


奈良県には奈良文化財研究所と橿原考古学研究所がある。(写真は博物館の斜め前にある橿原考古学研究所)この2つはどういう役割分担があるのかは知らないが、奈良文化財研究所は平城京や藤原京の発掘を手がけている。

飛鳥京の苑池の発掘は橿原考古学研究所が手がけ、NHKスペシャルの飛鳥京の苑池で紹介された。この印象は強烈で、橿原考古学研究所の河上邦彦さんや卜部主任の名前を覚えてしまったほどである。

博物館には、特別企画展示のあいさつが掲示されていたが、博物館館長・河上邦彦とあって、面識はないけれど、ちょっと喜ぶ。


橿原考古学研究所(ここであの飛鳥京の苑池から出土した木簡や木の実を洗い、解読しているのですな。)の横の道を通って、近鉄畝傍御陵前駅に着く。


畝傍御陵前の次の駅が八木西口駅。

八木は橿原市の中心である。商店街は八木駅から八木西口駅まで続いているが、八木西口駅寄りに橿原市役所や県立奈良医大病院などがあるので、商業の中心地は八木西口のほうであるらしい。

写真は八木西口駅。ただし商店街があるのとは反対側の出口なので、ひっそりとしている。


駅から50mも南下すると橋がある。蘇武橋(そぶ)という。川は飛鳥川(蘇我川ともいうらしい)。

向こうに畝傍山がある。この橋を西へ渡れば今井町である。



今井町は東西600m・南北310mの地域を濠で囲った寺内町で、戦国期にできたようだが、今なおこの町域の7割が江戸期のたたずまいを維持している古い町である。

「てくてく・まっぷ」にはないが、他の奈良のガイドブックにはたいてい取り上げられている。司馬さんも「街道をゆくF」の「大和・壺坂みち」で、今井町を訪れておられる。

蘇武橋を渡ると、すぐにやや下り坂になっているのは、飛鳥川の土手が高いからで、濠を掘り、飛鳥川の水を引いて、環濠としたのだろう。

道はそう狭くはない。両側に建つ家々はなるほど古そう。

旧今井町の地図が掲げてあったのを撮ったもの。赤枠が昔の濠。今はわずかな一部分が残っているだけで、だいたいは道路になっている。

町内にある赤い住居が、重文に指定されている○○家住宅で、8軒ある。

写真は「山尾家住宅」。これは県指定文化財。元は肥料・木綿を扱う商家であったらしい。ここでは内部を公開されている、と駅前の案内板にあったのでやってきた。しかし呼び鈴を押せども押せども誰もでてこない。

まあ江戸期の家はそう珍しくはないし、外観だけを拝見する 。

これは重文の「今西家住宅」。昔はこの町第一の家格で、右の屋敷内には、取調べ所や牢獄まであると案内板にある。

左の家屋は当代の今西家が住んでおられるらしい。

残っているとはいっても、商家として使われてきたのだから、古いものを維持していくことよりも、商売しやすい普請を繰り返したのは当然で、戦国時代のものは残ってはいない。

だいたいが江戸期の建物なので、大小の違いはあるが、どの○○家住宅もよく似ている。


土塀の白壁が剥落し、軒先が垂れているのを補強している寺があった。ここが今井町発生の元になったお寺(称念寺)である。案内板によれば、

戦国期(天文年間。1532〜1555年)に、今井兵部が一向宗の寺として称念寺を開き、ここを中心として濠をめぐらせ、寺内町とした。とある。

信長と一向宗(石山本願寺)との争いは有名だが、この今井町(の一向宗門徒)も信長と争い、結局は屈服して、商業の町へと変質していったらしい。称念寺はかつては城塞都市の中核であったが、今はややくたびれている。


称念寺境内の案内板に、明治10年に明治天皇が畝傍御陵へ行幸されたときの宿舎(行在所)になった、とある。畝傍山に近い大きな建物といえば、当時はこの寺であったのだろう。しかし本堂・客殿・鐘楼などすべての建物が老朽化していて、手を施さねばならない時期に来ていると見受けられる。

とは言っても巨額の費用がかかるに相違なく、本堂脇に新聞の切り抜きが幾枚か張られている板があった。読めば重要文化財として申請したとか、これを市が推薦するとかの記事であった。

今は本堂が県指定文化財、客殿・鐘楼などは市指定文化財となっているらしいが、県・市では予算がないのでしょうなあ。


今井町は現に人が住む町だが、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。明日香村もそうであったが、こういう町に住むのは誇らしくもあるが、随分と制約が多いことだろう。

早い話が、我々のように気まぐれな観光者がやってきて、無礼にも家の中を覗かれたりするとかなわない。歴史を守っているのは住民なのだから、できるだけ迷惑のかからぬように歩かねば。


司馬さんは先の「街道をゆく」で今井町を訪れておられるが、今井町自体の記述は少なく、室町期の寺領や一向宗門徒のことについてが過半を占めている。

今井町を歩いての記述は、古い本瓦葺きの建物に薬局・マッサージ屋・パーマ屋さんなどがあった、というばかりである。

司馬さんが見たこれらの店を捜してみたいと思った。(薬局とパーマ屋についての記述は記憶にあったが、マッサージは忘れていた。)当然ガイドマップには載っていないので、「今井まちなみ交流センター」(別名「華甍(はないらか)」)を訪れる。

なんと、一種品格のあるよい建物ではないか。案内板には、明治36年に大正天皇のご成婚を記念して建てられた博物館である。昭和初年から30年間は今井町役場として使われていた県下では少ない明治建築物である。とある。 初めから公的な目的で建てられた建物は立派だ。



受付の方に、今井町で薬局とパーマ屋さんはありませんかと聞いたがわからず、郵便局のある筋にあるのではないかと、いわれる。

今井町郵便局。町並みに合わせて白壁・瓦葺である。


たぶんこのお店が、司馬さんがいっていた薬局ではなかろうか。



さてパーマ屋さんである。「大和・壺坂みち」の中で、

『美容院までが本瓦ぶきであった。パーマとは書いてあるが、その横に、わざわざ「デンパツ」と書いてある。』

という箇所があって、「デンパツ(電髪)」の言葉が記憶に残っていた。司馬さんが面白がって書いた「デンパツ」の看板を見たいと思っていた。ようやく見ることができそう。

しかし散髪屋はあったが、パーマ屋は見つからない。町内の男性に聞くと、少し考えた末「今もやっているかどうかは知りませんが、パーマ屋さんはここにあるはず。」と地図の上を示してくれた。

その場所は、蘇武橋を渡ってすぐの道(北尊坊通り)であったので、蘇武橋から散策を始めた司馬さんの眼についたと思われる。

散髪屋のクルクルまわるねじり棒の看板の上に、パーマ屋さんの(これまたぐるぐる回る)看板が見える。店の上には黄色い看板地がある。ここであろう。



しかし看板地には「デンパツ」の文字はなく、代わりにウルトラマンと怪獣の人形が飾ってあった。(これとても奇抜ではある)

通りすがりに店内をチラっと覗いたら、若夫婦であろう、男性は子供客の散髪をし、女性はおばさんにパーマをあてていた。

司馬さんがこれを書かれたのは1973年頃だから、約30年前のことである。当然に代替わりし、看板も塗り替えられてしまったのだろう。(別の店だったりして)




今井町を出ると4時半になっていた。八木駅まで歩く。

今日の万歩計は32000歩。うち畝傍山が17000歩、橿原考古学博物館内が5000歩、残り10000歩が今井町、という配分だったろうか。

八木駅前の居酒屋で、鹿刺しをあてにビールを飲んで、さあ帰ろう。


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