大阪上町筋

    No.9.....2002年11月30日(土曜)


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今日は大阪にやってきた。いつもガイドとしている「てくてくまっぷ」は使わない。8回続けて大和・飛鳥を周ったが、少し飽きてきた。猥雑・乱雑の町が恋しくなったので、今日は気分転換に大阪を歩くことにした。

大阪の南北の道路には「筋」、東西の道路には「通り」がつく。大阪市のメインストリートは、申すまでもなく「御堂筋(みどうすじ)」である。

御堂筋は、大阪の玄関口である梅田と難波(なんば)を結ぶ広い道路だが、南行きの一方通行である。この道は銀杏並木になっていて、秋は銀杏の葉が黄色に色づき、それは美しい。まずは大阪が誇れる唯一のきれいな道路であるといえる。

御堂筋の西側には四ツ橋筋・なにわ筋が走り、東側には堺筋→松屋町筋→谷町筋→上町筋(うえまちすじ)が走っている。だいたいこの7本の筋が大阪の中心部にある南北の道路である。

町人の町、大阪の中心は御堂筋だが、歴史としては古いものではない。一方、上町筋は大阪城大手門前から南へ出て、古代の難波宮を通り、終点が聖徳太子創建の四天王寺となる、大阪随一の古い道路である。(地図中に赤線で示してある)

今日散策するのは、地図上に@〜Fの番号を振った箇所だが、@ABCDは上町筋沿いで、Eは北浜(御堂筋のほうが近い)、Fは天満よりさらに北にある。EFが上町筋から飛んでいるのは、わけがあるが、それは後にわかります。



名張から大阪・上本町駅(うえほんまち)にやってきた。近鉄電車の本社は上本町にある(この駅のすぐ東側)。

近鉄は、今は難波(なんば)→奈良(奈良線)、あるいは難波→名古屋(大阪線)と難波駅が中心になっているが、もともとは上本町→奈良間を路線とした「大軌(だいき。大阪電気軌道)」がその母体であった。

上本町→難波間は地下にもぐっているが、これは大阪万博が開催された昭和45年(1970年)に開通したもので、新しい路線である。

この地下路線を開通するに当たっては、難波近くはほんの少し前までは海の底であったので、地盤が軟弱であり、地下鉄工事は困難を極めたと聞いている。

私の会社(事務所)が上本町にあったときは、毎日、近鉄の窓口で特急券を購入するので、窓口の人とずいぶん親しくなった。

「難波の駅長さんと上本町の駅長さんと、どっちが格が上なのか」と聞いたら「難波でしょう」と言っていたので、駅の重要性としては、御堂筋に直結する難波駅のほうが上になっているようだが、本貫は上本町駅である。


近鉄・上本町駅を出ると、上町筋が南北に走っている。写真は南を向いて撮った。この交差点は「上六(うえろく)」という。上本町六丁目の略称である。この南(向こう側)には、かつての事務所があり、さらに南下すると四天王寺さんがある。

逆に北(手前側)に進めば大阪城がある。

南向きに歩こう。何年も通った道である。 いろいろな家庭の事情があって、今年6月に大阪を引き上げて、会社は自宅のある名張に移したが、上本町は結構気に入っていた町だった。


上町筋は、大阪のメインストリートの御堂筋をはずれること4本目(1.堺筋 2.松屋町筋 3.谷町筋 4.上町筋)だから、むろん中心部ではない。

御堂筋がよそ行きの道路とすれば、堺筋は大阪の大商人の道路、松屋町筋は小商人・職人の道路、谷町筋はお寺の道路、上町筋は庶民の道路という位置づけになるのだろうか。

稲葉道具店というのは、いつもタバコを買っていたお店である。たまたま店番のおばあちゃんが、私を見つけて「あれ、最近、見いへんから、どうしはったんかと思うてましたんや」と声かけてくれる。

「まあ色々あってね」


写真の肌色のビルに事務所を借りていた。上六交差点から歩いて5分のところ。


いまだに「(株)東研ソフト」の看板が残っていた。まだ部屋が埋まっていないのかしらん。不景気だからなあ。


通り過ぎて、振り返って撮ったもの。旧事務所のビルの(道をはさんで)南隣には、お世話になった「湯川消化器クリニック」がある。ここの先生は湯川秀樹さんの一族だそうだが、気さくなよい先生だった。

その南隣は「大阪珈琲貿易」のビルで、焙煎コーヒー豆の小売もしている。

その南隣が「国際交流センター」で、各国から大勢の人がやってくる。もとは大阪外語大学だった。外語大学の前身は大阪外国語学校で、司馬(遼太郎)さんがここのモンゴル語科の卒業生だったことはよく知られている。

国際交流センターの前の道は上町筋だが、上図の横断歩道を東(手前)に渡れば、すぐに「上宮(うえのみや)高校」がある。上宮高校は、今は巨人の元木選手の出身校として知られているが、司馬さんが通った学校(当時だから上宮中学)でもある。

司馬さんは中学・外語学校とほとんど100mも離れていない場所で学ばれたわけである。


上六に戻り、散髪をしてもらう。約40分かかる。

散髪屋が入っているビルの前から、天満橋行きのバスに乗る。このバスは上町筋を北に向いて、上本町6丁目→上本町4丁目→上本町1丁目(ここまでが天王寺区)→国立大阪病院前→馬場町→大阪府庁前→天満橋、に到る。



上本町1丁目のバス停で降りた。運賃は200円。わずかにバス停2つ分(距離にして1.2kmか1.3km)を乗っただけだが、散髪をしたために時刻が11時を過ぎてしまい、少し焦ったから。

上本町5丁目には井原西鶴の墓があり、上本町4丁目から谷町筋へ向かえば近松門左衛門の墓所があるので、当初の予定では上町筋を歩いて北行するつもりだった。

しかし近鉄電車の中で気が変った。西鶴・近松の墓所は省略して、緒方洪庵の適塾(北浜)と洪庵の墓所(天満。正確には同心町)を追加した。

上本町1丁目から、北を向いて歩く。大阪には緑が少ないことは周知のことだが、向こうに木立が見える。ここは難波宮跡(なにわのみや)である。

道路をはさんで左側にも少しばかりの並木が見える。国立大阪病院である。ここは中央区になる。(昔は東区だったが中央区に併合された)

大阪病院のわずか手前にある上町交差点の写真。交差点の向こうに大きな石碑が建っている。

上町筋は庶民的な道である。だいたいが近所の人が自転車に乗ってうろうろしている。私もかつて自転車に乗って、この筋を通っていたときに、石碑があることに気づき、近寄ってみて、これが何の碑であるのかを知った。

「兵部大輔 大村益次郎 御殉難報国之碑」(ひょうぶだいふ)とある。自転車に乗って見つけたときは、大村益次郎がこの地で遭難したのか、ほどのことしか感じていなかった。

後に司馬さんの「花神」という小説を読んで、@大村益次郎が明治維新を完成させたといってよいほどの功労者であったこと、A隣にある大阪病院や大阪城の東にあった砲兵工廠(ほうへいこうしょう)と因縁があること、B日本の軍隊組織を定めたこと、などを知った。

「花神」は上中下巻の3冊にわたる結構長い小説だが、あっというまに読み終えた記憶がある。(同じく幕末に蘭学を学んだ松本良順を描いた「胡蝶の夢」もよかった。)


「花神」を読んでから、この碑を訪ねたことはなかったので、今日はこの碑をじっくりと見たいと思っていた。

大村益次郎(村田蔵六ともいう)は、長州(正しくは周防)の人で、大阪の適塾でオランダ語を学び、医学を専門としたが次第に西洋の兵学に通暁するようになる。

長州藩は、幕府の長州征伐(第二次)で、石見から、安芸から、小倉から、幕府軍に包囲され、藩滅亡の危機にあったが、石見方面では大村益次郎の指揮によって幕府軍を微塵に打ち砕き、小倉方面では高杉晋作が、やはり幕府軍を攻め取り、徳川幕府崩壊の契機となる。

西郷隆盛が勝海舟と談判した結果、江戸城は無血開城し、江戸は新政府の下に治められることとなったものの、彰義隊の抵抗があって、なかなかうまくいかない。新政府は京都から大村益次郎を派遣して軍事を任せると、あっというまに彰義隊を鎮圧してしまった。

さらに各地で親幕府藩の蜂起が起き、戊辰戦争(ぼしん)へと広がっていくが、大村は江戸城にあって司令塔となり、これらを鎮圧してしまう。 木戸孝允は、大村がいなければ維新は成し遂げられなかったであろう、と言ったことを司馬さんは「花神」で述べられている。明治維新の仕上げのときに、突如として現れた巨大彗星のような存在であったらしい。

この碑は昭和15年に建てられたとある。石碑を囲む石塀のごときものに、発起人と賛助者の氏名が刻んである。見ればすごいメンバーである。

知っているところを挙げると、伊藤忠兵衛(伊藤忠)、稲畑勝太郎(稲畑産業)、飯田直次郎(以前は丸紅飯田といった)、鳥井信治郎(サントリー)、大林義雄(大林組)。

反対側の発起人を見ると、野村徳七(野村証券)、江崎利一(グリコ)、安宅弥吉(いまはなき安宅産業)、森下博(森下仁丹?)、松下幸之助(松下)、小林一三(阪急)、杉道助(後の大商会頭)もある。

政治家・軍人では松岡洋右、荒木貞夫、おそらくは私が知らないだけで、ここにある氏名は歴史に名を残す人たちであるに違いない。

昭和15年という時代が、日本軍制の元を作った大村益次郎をたたえる碑を建てさせたのだろうが、大村は死後40年50年して、日本が軍国主義に傾斜していったことは預かりしらぬことである。

どうして、この地に碑があるかである。碑のすぐ北側には国立大阪病院がある。(赤い車が出てきているところ)この病院が大村と因縁がある。

戊辰戦争(「峠」の河合継之助、会津若松の白虎隊、五稜郭の土方歳三などの抵抗)が終わった明治2年6月に、維新の論功行賞が行なわれた。@西郷隆盛が2000石、A木戸孝允、大久保利通が1800石、C大村益次郎が1500石、D板垣退助、後藤象二郎、小松帯刀らが1000石、山県有朋は600石、と司馬さんは調べて書いておられる。

大村益次郎は破格の評価を受けた。特に薩摩(の一部)はこれに不満を持ったらしい。大村のほうでも戊辰戦争が終結するや、次は薩摩が新政府に敵対するに違いないと考え、大阪に練兵所・兵器工廠・病院を設け、いざとなれば大阪から九州へむけて派兵し、兵器を送ろうと考えていた。

この視察のために、明治2年9月、東京から京都にやってきたとき、暗殺団によって大腿部に刀傷を負う。

京都から、建設中の大阪病院(写真)に運ばれ、ここで治療を受け、大腿骨を切断するなどしたが、敗血症のために死去する。傷を負ってから2か月後(明治2年11月)のことだった。

大村は勤皇の志士ではない。維新が必要とした軍事の天才として突如現れ、維新の動乱が落ち着いたとき、突然に消えていった。(以上はすべて司馬さんの「花神」に書いてあった。)


大阪病院を出て、上町筋を東側へ渡れば難波宮跡がある。大阪には仁徳天皇がいたという難波高津宮(たかつのみや)もあるが、これは天王寺区に高津宮というのがあるので、そこだろうか。(私は行ったことはない)

難波宮は、大化の改新(645年)の直後に即位した孝徳天皇が作った難波長柄豊崎宮(なにわのながらとよさき)である。 この後、天武天皇もここへ遷都しようとしていたが、火災が起き、遷都できなかったようだ。その代わりに持統天皇は藤原京を作り、そこへ遷都した。

藤原京は16年しか続かず、710年に元明天皇は平城京へ遷都するが、その孫にあたる聖武天皇のとき、一時的に難波宮に移っている。(すぐに平城京へもどるが)


難波京は孝徳天皇の時期(前期)と聖武天皇の時期(後期)の2つの宮跡が重なっている、と案内板に書いてあった。

写真は後期のもので、大極殿跡には石壇が再現されている。この左右には朝堂院(官庁)がずらりと並んでいたようで、朝堂院の柱のあった位置に、低い円柱が立てられてある。

中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を討った後、皇極天皇(後に斉明天皇)は軽皇子(かるのおうじ)に譲位し(史上初の譲位)、軽皇子は孝徳天皇として即位する。


この時期の日本にとって喫緊の問題は、朝鮮半島(百済VS唐・新羅)にあり、都を飛鳥から難波に移したのはこのためであろう。

しかしこの後、孝徳天皇と中大兄皇子は不仲になり、中大兄皇子・大海人皇子ら(皇后までも)は飛鳥京に引き上げてしまう。 孤独の人となった孝徳天皇は恨みつつ、この難波京で亡くなる。難波京は10年の短い期間だった。


上図は北向きに大極殿跡を撮る。向こうの大きな茶色いビルはNTT。左横の奥に大阪城が見える。

それよりやや西に視線を移すと、新しいビルが2つできている。知らなかった。これは何であるのか。行ってみる。


大阪歴史博物館とあった。へえー、いつの間にできたのか。

その前に高倉があるが、この建物は見覚えがある。先に、自転車に乗っていて、大村益次郎の碑に気づいたといったが、このときこの高床式倉庫を見学した覚えがある。

この場所には確か中央体育館があって、この改築工事かなにかで、地面を掘っていたところ、5世紀ころの数多くの大型倉庫の跡が見つかり、新聞でも大きく報道された。 発掘が終わって、復元したのがこの高床式倉庫で、当時は道路(中央大通り)沿いに、この建物だけがポツンとあった。

当時は高床の階段を上って中を見ることができた。中から見上げてその大きさに驚いた覚えがあるが、今は金網で囲ってあり、内部の見学はできないようになっていた。(見ることができて得した)

何か妙である。あるべきものが無くなったような気がする。と思って上町筋の反対側を見ると、工事中の囲いがしてある。ここは馬場町といって、NHKの大阪放送局があったはず。ここで今放映している朝の連ドラ「まんてん」を製作していると思っていたが、その建物がない。

大阪歴史博物館のガードマンに尋ねると、NHKは博物館の隣のビルです。元のNHK跡地は公園になります。ということだった。とんだ浦島太郎である。

大阪歴史博物館から上町筋を東に渡れば大阪城。写真は大手門(追手門ともいう)。

大阪城に来るたびに感じるのは、韓国語が飛び交っていることである。韓国から大阪は近いし、大阪には韓国・朝鮮籍の人が大勢いるし、観光とくれば大阪城だろうし。結果、大阪城内では韓国語が飛び交うということになる。

ただ豊臣秀吉は朝鮮出兵という大愚挙をしているから、韓国人にとっては鬼畜のような存在であるはずで、どういう気持ちで観光に来ているのか、よく理解できない。

(司馬さんもそうだが、大阪にいれば韓国籍の友達の2人や3人はできる。しかしこれについて尋ねたことはない。)

大手門を入ると大きな石積みがある。石は小豆島などから運んだそうだが、このような巨石をどうやって運んだのか。蘇我馬子の石舞台古墳の岩も大きい。益田岩船も大きい。巨石というのは何かわからないがちょっと感動させるものがある。

しかし、ものの本によれば、写真の巨石は薄く裁断されており、いわばタイル状にして貼ってある、ということを読んだ記憶もある。うーん。江戸期のタイルか。


この大阪城は、秀吉が作った当時のものは何も残っていない。大阪冬の陣・夏の陣(1916年)で完全に壊され、今の大阪城は徳川幕府が西国・北陸の大名を使って再建させたものである。(これも正確ではない。昭和になってコンクリートで作られたのが大阪城である。)

天守閣が見える。平成の大修理によって、天守閣内部は立派な博物館になった。立体模型やビデオが工夫されていて、楽しめる。(しかし今日は入らない)


天守閣に行く道の手前左手(東側)に大阪市立博物館がある。

もとは陸軍第4指令部の建物であった。敗戦後は大阪市警視庁(!)→大阪府警本部として使われていたが、1960年から昨年2001年までは博物館として使用されていた。と案内板にあった。

なるほど門は閉鎖されている。もともとこの博物館は見どころがないと思っていたが、そうか、昨年(2001年)に大阪歴史博物館に変身したのか。

(この案内板は、日本語・中国語・韓国語・英語の4か国語で書かれていた。)


大阪城に来たのは天守閣を見るためではない。大阪城の東側にある、元の陸軍砲兵工廠の跡を見るためである。

写真は大阪城から北東を向いて撮る。向こうの高層ビル群は「大阪ビジネスパーク」にあるビル。松下のツインタワーを初めとして、富士通ビル、読売テレビのビル、東京海上のビルなどがある。

注目して欲しいのは、ビル群の手前にある平べったい円形ドームの建物。大阪城ホールである。(この建物と高層ビル群とは川ひとつ隔てられており、そのたどってきた歴史が違う)

大阪城ホールのあった場所が、大阪砲兵工廠の本部があったところで、おそらく大村益次郎が作った兵器工廠はこのあたりのどこかにあったのではないか。(と推測するだけだが)

大阪砲兵工廠は、我国最大規模の兵器工場であった。面積1.18平方キロの中では6400人の工員・動員学徒・女子挺身隊、および強制連行された1300人の朝鮮人が働いていたが、 この場所は終戦前日の8月14日に激烈な爆撃によって廃墟となった。と案内板にあった。


写真は南東を向いて撮ったもの。これも砲兵工廠の跡である。

私が大学生(神戸大学)であったのは、30年以上も前のことだが、年に1度くらいは大阪にやって来た。環状線に乗って今の大阪城公園駅のあたりを過ぎるとき、なお爆撃に遭った瓦礫の山が残っていた。大阪万博(1970年)の少し前まで戦争による廃墟があった。(神戸に比べて、大阪はなんという汚い都市であるかとも思っていた。)

破壊された砲兵工廠跡には、おびただしい鉄や銅の屑が残された。終戦後、この地域は国が管理していたはずだが、当然のことながら、この放置された資源を狙う人間があって、この地は格好の小説の舞台地となった。記憶しているところでは小松左京の「日本アパッチ族」や開高健の「日本三文オペラ」がこのあたりの事情を伝えていた。

大阪城の裏口(北側)に出る。昔はこのようにキレイな道ではなかったはず。違う角度から見上げれば、天守閣は立派である。

旧帝国陸軍時代に、科学分析場として使われた建物が残っている。とにかくこの戦争で大阪の軍事施設は跡形もないほどの爆撃を受けた。この建物は爆撃をまぬがれ、その後は自衛隊大阪地方連絡部として使われていたが、今は閉鎖されている。

大村益次郎が大阪に作ろうとした兵器工廠は、太平洋戦争という大暴走をして、最後には廃墟となって決着をみた。 今は昔である。

上町筋の北の果てに到着。写真は東西に走る土佐堀通り。進めば天満橋に行く。(歩いて5分)

冒頭に述べた大阪の南北に走る7つの筋だが、北へ上ってくると淀川(正しくは支流の大川)によって筋は分断され、各々の筋には橋がかかっている。西からいうと、四ツ橋筋には肥後橋、御堂筋には淀屋橋、堺筋には難波橋、松屋町筋には天神橋、谷町筋には天満橋である。(上町筋には橋はない。)

上町筋から谷町筋の天満橋まで歩き、ここから京阪電車に乗って北浜(堺筋)の難波橋(なにわ)に行く。運賃は150円。

写真は難波橋から中之島を撮る。中之島は御堂筋と並ぶ大阪でも美しい(整った)場所である。中央の煉瓦作りの建物は中央公会堂。昔、岩本某が株式相場で大儲けをして寄付した建物だが、岩本某はその後相場に敗れて自殺する。中央公会堂の向こうの重厚な建物は大阪市役所。




さて難波橋から南方向の堺筋を見ると、ここもなんだか違和感がある。左には半円形の大阪証券取引所があったはずだが、工事用のテントで覆われている。

そういえば大阪証券取引所は、何年か前に完全にシステム売買(立会い場はなく、全部コンピュータ上で取引をする)に移行した。そのためどこかのビルの一室が取引所になった、との報道があった。

本当に大阪証券取引所はなくなったのや。


うわー。かつての大阪証券取引所は、その背後がない。取り崩されている。魚の身が食われてしまい、頭だけが残った様子である。ちょっとショックだった。


この道を進めば、大村益次郎が学んだ適塾があるはず。そう思って行ったが、道を一本間違っていた。


実際には、土佐堀通りを1本下がった通りであった。

適塾の両隣は公園になっている。( 写真左の民家風の建物が適塾)

公園には緒方洪庵の銅像がある。(洪庵像の背後の白いビルは日商岩井の本社)

今日、近鉄電車の中で、司馬さんの短文集「十六の話」を拾い読みしていたら、「洪庵のたいまつ」という一文があった。

『世のためにつくした人の一生ほど、美しいものはない。』

という書き出しで始まっていたが、なんだか噛み砕くような言葉使いであった。巻末の初出一覧を見ると、この文章は「小学国語」5年下、平成元年用(大阪書籍)とあった。小学生の教科書用に書き下ろしたものだった。

司馬さんは、竜馬でもなく、西郷でもなく、松陰でもなく、高杉晋作でもなく、緒方洪庵のことを小学生に伝えたかったのだ。短文であるから、じきに読めた。読んでから、今日は洪庵の適塾を訪れようと思った。


適塾である。いまは公開されているが、司馬さんが「花神」を執筆した当時は公開されていなくて、写真の格子越しに見学を頼んだが管理人に断られた。後日に正規の手続きをして、適塾を拝見できた、と「花神」の中で述べられている。

その見学によって、大村益次郎が適塾でどのような生活をしていたのか、の想像を確かなものにされたことは間違いない。

今は250円を払えば誰でも見学できる。(写真を撮ってもよいと許可も貰った)

一階の道路に面したところには、玄関があり、その次の間は教室(その隣も教室)である。その奥には中庭があり、この書斎がある。洪庵はこの部屋でオランダ医学書を翻訳したのか。

その奥は緒方家の家族の部屋になっている。

大村たち30人ほどの寄宿生は2階に居住する。語学もここで自習する。

居住する部屋とは別に「ズーフ部屋」と呼ばれる6畳の部屋があって、ここには持ち出し禁止の日蘭辞書が一冊置かれていた。塾生たちはこの部屋につめかけ、一冊しかない辞書を奪い合いで使用した、とパンフレットにある。


ズーフ辞書は、筆写されたものであったが、宝石のように貴重なものであった。そのズーフ辞書をまた筆写して、これを他人に譲り、生活費にあてる寄宿生もあったと、司馬さんは書かれている。

写真がそれであろうか。


寄宿生が居住していた大部屋である。道路拡張のために、少し削られて狭くなったが、もとは30畳あった。大体1人につき1畳の割り当てで、毎月の成績によって居場所が変ったらしい。

よい場所とは、人が通らないところ(廊下に近くない、階段に近くない)、そして窓が近いところ(明るいのでろうそく代が節約できる)だったらしい。(「花神」に書いてある)


洪庵が適塾を瓦町に開いたのは1838年、29才の時であった。1845年にこの場所に移る。大村益次郎が入塾したのは翌年の1846年。このときの入門者は12名と案内書にある。

この後、武田斐三郎(五稜郭を設計した)、佐野常民(日本赤十字社を設立)などが入門し、3年後に大村は塾頭になっている。2年3年でオランダ語を極めたわけである。

その後の入門者には、橋本佐内、大鳥圭介、長与専斎、福沢諭吉らがあり、福沢は1856年に塾頭を務めている。

適塾は吉田松陰の松下村塾に匹敵する人材を送り出した。大村益次郎や福沢諭吉がこの部屋で学んだのかと思うと、感慨が湧かないはずがない。


洪庵の墓所を訪ねることにする。墓所は天満(同心町)の龍海寺にあると適塾の説明書にあった。

地下鉄の南森町は、堺筋線北浜駅から1駅のところである。運賃200円。


だいたいこのあたりだろうと見当をつけていったが、道に迷った。

「緒方洪庵墓所」の碑があった。しかし寺門は閉ざされている。入ってもよいものかどうか。

門にはセコムのシールが貼ってあるので、うかつに戸をあけて、警報のベルが鳴ってもかなわない。寺の外塀を一周してみたが、入り口らしきところは、寺門と住職の住む玄関口のほかにはない。

うろうろしていたら、玄関口に女性が出てきた。恐縮しながら見学を請うと、どうぞ、と入れてもらえた。


あった。右は洪庵の墓、左は洪庵の妻(八重)の墓。

洪庵は、奥医師になってほしいというたびたびの幕府の頼みを断りきれずに江戸に行くが、1年も経たぬうちに亡くなってしまう。


暗殺者によって手傷を負った大村益次郎は、大阪病院(未完成のとき)で大腿骨を切断するが、その骨は「洪庵先生の墓のそばに埋めて欲しい」と要望した。

その足塚(?)もちゃんとあった。

大村益次郎の墓は、故郷の山口県にあるらしい。足塚は確かに洪庵先生の墓のすぐ隣にあった。左の一段高いところに洪庵夫妻の墓があり、その右下に大村の足塚がある。

墓の位置を見れば、大村がどれほど洪庵先生を敬愛していたかがよくわかる。

帰ろう。南森町駅(西)を目指して歩く。まっすぐいけば曽根崎。

地下鉄南森町駅は天神橋筋商店街の「天ニ」(天神橋筋2丁目)にある。ここから4つほどの駅を経れば、近鉄上本町駅(地下鉄の駅は谷町9丁目だが)に着く。

今日の万歩計は27400歩だった。

今日からしばらくは「花神」を再読することになりそうである。


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