大阪・天王寺七坂

    No.10.....2002年12月15日(日曜)


行く先の目次... 前頁... 次頁... 大阪市の地図... 天王寺七坂の地図... ...てくてくまっぷ(なし)


前回は、大阪・上町筋(うえまち)を歩いた。大阪市内の南北に通じる道は「××筋」と「筋」がつく。メインストリートの1.御堂筋から東に向かって、2.堺筋 3.松屋町筋 4.谷町筋 5.上町筋 の順であることは前回にいったが、今日は谷町筋を歩く。

聖徳太子が在世のころは、大阪市内はまだ海(潟)だったが、唯一小高い土地があった。堺市のあたりから台地が北に伸びて、大阪湾に突き出した半島のようなものであったらしい。その幅は2〜3km。南北は10〜12km。低地との標高差は20m〜25mくらいか。この台地は今は「上町台地」と呼ばれ、北端には大阪城があり、南端には四天王寺が建っている。

図の黄色い道は「松屋町筋」だが、だいたいこのあたりが昔の浜辺であったらしい。松屋町筋から西にある堺筋・御堂筋は浅い海の底であった。東の谷町筋と上町筋が上町台地の頂上部で、大阪にある古いもの(江戸期より前)はだいたいこの上町台地の上にある。(旧事務所はAの位置にあった)

大阪市内のほとんどは、干拓地のため平らかであり、ここに道頓堀に代表される堀を網の目のように巡らして、大阪は天下の台所として発展した。そういうわけで大阪では「坂」は珍しい存在である。

天王寺区には「天王寺七坂」と呼ばれる7つの坂があるが、全部上町台地から西の低地に降りる坂である。今日はこの7つの坂を歩く。

スタートは地図の@近鉄・上本町駅。ここからA高津宮(こうづぐう)、B生国魂神社(いくくにたま)にいき、天王寺七坂を巡って、C四天王寺へ着く。(地図の赤線が七坂)


名張から上本町へは特急で50分〜1時間(昼間は早いが、通勤時間帯は速度は遅い)、急行で1時間10分、普通で1時間30分かかる。よほど暇がないかぎりは特急で行くが、特急に乗るには特急券を買わねばならない。運賃が980円、特急券が870円である。

関西の私鉄で特急券を購入せねばならないのは近鉄電車だけである。(それでも不採算路線が多いために、近鉄は儲かっていない。不採算路線であっても、それは地元にとって重要な交通手段である。これを切り捨てないために、近鉄は特急券という一種のカンパをしてもらっていると、私は理解し納得している。)

特急の停車駅は、名張からは、大和八木・鶴橋・上本町の3駅だが、何本かに1本は、鶴橋の手前の布施(ふせ)で止まる便がある。たまたま乗った特急は布施駅で止まるものだった。

布施駅は、奈良へ行く奈良線と名古屋へいく大阪線の分岐駅だが、実際の運行は鶴橋駅が分岐駅になっている。大阪から乗れば、上本町駅→鶴橋→布施駅ときて、左に曲がって奈良線、右に曲がって大阪線と分かれる。

車内アナウンスで、布施駅で停車することがわかったので、布施駅で降りることにした。 布施駅は4階建ての高架駅である。1階は商店街、2階は食堂街と駅施設、3階は大阪線のプラットホーム、4階は奈良線のプラットホーム、になっている。奈良線と大阪線の乗り換えにはエスカレータを使って3階−4階の移動をする。


布施駅で特急電車を降りたのは、近鉄奈良線の八戸ノ里駅(やえのさと)にある司馬遼太郎記念館に行こうと思いついたからである。

上本町→布施は4.1kmしかない。奈良線の駅は、布施→永和→小阪→八戸ノ里の順で、布施−八戸ノ里間の距離はわずかに2.4Km。上本町からは実に近いところにあるが、この駅は普通電車しか止まらないので、なかなか行く機会がない。

司馬遼太郎記念館は、昨年(2001年)11月に開館した。その12月に、当時大学2年の息子が上本町にあった会社(事務所)にやってきたので、これさいわいとさそって一緒に訪れたことがある。このときは開館直後であったので、訪問者も多くあり、駅には司馬遼太郎記念館への地図も用意してあった。

地図はまだ置いてあるかと見たら、改札口(の内側)に地図が吊るしてあった。1枚ずつちぎって持っていけばよいようになっている。近鉄電車は親切である。

司馬さんは、自宅が大阪市の東郊にあることを、いくつかの本で書いておられる。大作家がどうしてこのような猥雑(とは書いていなかったが)な町に住んでいるのかと聞かれたこともある。

八戸ノ里は東大阪市である。中小企業の町であり、したがって下町である。庭付きの家はあまりない。大阪の下町によくある玄関(開き戸)が隣り合わせにあって、一方は1階の部屋へ他方は2階の部屋へという文化住宅も残っている。

やや広い敷地の家屋が建ち並んでいる一角がある。写真の奥の高い立ち木のある家が、司馬さんが住んでおられた家である。


敷地の角に門があって、青銅板に「司馬遼太郎」と文字を浮き出した表札がある。門には2人の男性が立っている、これはボランティアで、司馬遼太郎記念館を維持運営しておられる。

朝10時〜午後1時と午後1時〜5時までの2交代制ですとのこと。ご苦労さんです。


入館料は500円。門内に自動券売機が2台据えてある。門を入ると自宅玄関があるが、これは本棟。(奥さんが住んでおられるようなので当然に公開はされていない)

右へ曲がって庭道を行くと、司馬さんの書斎部屋がある。


本棟から庭に突き出た格好で、手前に6〜8畳くらいのサンルームがあり、その奥に16畳〜20畳(あるいはもっと広いか)くらいの広さの書斎(仕事部屋)がある。

絶筆となった「街道をゆく」の「濃尾参州記」を執筆しておられた当時が凍結され、そのまま保存されている。机の上には、原稿用紙が広げられ、その上にめがねが置かれ、脇には色鉛筆が十本以上も入った筆入れがある。参考資料の本も少し積んである。

窓以外の壁には、天井まである本棚がぐるりとあって、この本棚には、執筆している関係資料が入れてある。したがってこの本棚の内容は書いている対象によって並べ替えられていたようだ。


司馬さんの書斎部屋から西を見ると、記念館がある。安藤忠雄さんの設計。外観の高さは2階か3階建てながら、地下1階まで掘り下げられており、地下1階からぶち抜きで垂直に本棚が屹立している。

パンフレットによれば、本棚の高さは11m。ここには司馬さんの蔵書の半分の2万冊が収納されている。(残り2万冊は自宅の書斎や廊下の本棚にあるらしい)下から見上げると上のほうにある本の背表紙の文字は当然読めない。

全集ものが多い。正岡子規全集、内藤湖南全集、陸羯南(くがかつなん)全集、漱石全集が、かたまって置いてあった。ああ、「坂の上の雲」か「ひとびとの跫音(あしおと)」を書かれたときの資料だろううか。いやこれらを読んでから、それらの著作の構想が湧いたのか。


館内は撮影禁止なので、司馬さんの脳内をお見せできないのは残念。

1996年2月12日に司馬さんは亡くなられた。帰宅してから、司馬さんが亡くなられた直後に発売された「司馬遼太郎の遺産」という本を読み直した。司馬さんが息をひきとられたのは、国立大阪病院であることを知った。前回訪れた大村益次郎の碑があるところである。

記念館の書架のうちの1/4ほどは、司馬さんの書いた本が並べられている。これらの初版本の陳列を見ていると、だいたい7〜8割は読んでいることがわかった。

2万冊という量は、(公立の図書館と比較すれば)驚くものではないが、こうして限られた空間(それも本が見えない高さまで積まれている)に集中、凝縮して陳列されていると圧倒される。誰かがこの書庫は司馬遼太郎の脳内を見るようである、といっていたが、まことにそういう印象である。見上げている自分は、まるで井戸の中に落ち込んだ一匹の蟻のようで、もしここから這い出すにはこの本を読破せねばならないと宣告されたなら、這い上がることはまったく絶望的と思えるほどの本の塊りだった。

著作物の年賦を見ると、司馬さんが40歳のときに「竜馬がゆく」を書き、41歳で「燃えよ剣」、45歳で「峠」、46歳のとき「坂の上の雲」「歳月」、48歳「世に棲む日々」・この年から「街道をゆく」を連載開始、49歳「花神」、52歳「播磨灘物語」「空海の風景」「翔ぶが如く」、56歳「胡蝶の夢」、59歳「菜の花の沖」、61歳「箱根の坂」、64歳「韃靼疾風録」となって、この年で小説から離れ、「街道をゆく」と「この国のかたち」の連載が主な著作になっている。

いまだに「菜の花の沖」だけは読んでいない。先にテレビ(NHK)でドラマを見てしまったものだから、なんか読む気が失せてしまった。読めば、あのようなドラマの何10倍かの感慨を受けるに違いないと思うが、画像(特に俳優)のイメージが出来てしまっていると、読む際に大いに邪魔になる。



記念館を出る。圧倒された本の巨壁だった。室内のボランティアの人に(下世話な話ながら)、 司馬さんは、買い集めたものですなあ。これだけ本棚が高いと地震があったときは、本の下敷きになりますね。と声をかけると、

「いや、高いほうの本は箱だけで中身は抜いてあります。」

なお書架の本には触れることはできない。本の中身を見せるよりも、本の塊りから司馬遼太郎の全体像をイメージしてほしい、というのが記念館のコンセプトのようである。 これはこれで妥当なことである。



もとの東大阪(字は下小阪)の町並みに戻る。

来るときは、八戸ノ里駅から歩いたが、帰りは小阪駅へ向かう。(小阪駅には急行電車が止まる)

司馬さんもこの道を散歩されていたはず。

小公園があった。このとき気がついた。

横の道路はタイル舗装されている。近鉄・八戸ノ里駅で貰った地図の道路には「カラー舗装」とか「ブロック舗装」とかの書き込みがあって、何のことかと思っていたが、この道路のことを指していたのか。


地図を見ると、小阪駅からカラー舗装・ブロック舗装の道が続き、司馬遼太郎記念館のところまで伸びている。(八戸ノ里駅→記念館への道にはカラー舗装の道はない)

ははあ、小阪駅から記念館までは、カラー舗装ないしブロック舗装の道を辿ればよいようになっているのですな。

死せる司馬さんは、小阪の道をきれいに整備させたのだ。





公園には司馬さんの碑があった。「21世紀に生きる君たちへ」という文で、これは「十六の話」の中の「洪庵のたいまつ」の次の章にある。ともに1989年5月に発表されている。

司馬さんが亡くなられてから「新聞記者 司馬遼太郎」という本がサンケイ新聞社から発刊されたが、これを読んで司馬さんはの原点はジャーナリストであることを知った。その視点から司馬さんが書いてきたものを読み返すと、わかる部分が増えた気がした。

1989年は日本がバブルに浮かれた絶頂期であった。この時期に司馬さんは、小学生に対して「洪庵のたいまつ」と「21世紀に生きる君たちへ」を書き残した。

カラー道路、カラーブロックの道をたどっていくと小阪駅に着いた。商店街アーケードには「司馬遼太郎記念館 ↑この先600m」とあった。

近鉄・小阪駅から急行電車で、上本町駅に到着。写真は上本町6丁目の交差点から、西向きに千日前大通りを撮る。

左右(南北)の道路は前回辿った上町筋。右(北)へ行けば大阪城・難波宮があり、左(南)へ行けば四天王寺がある。

これから向かうのは、仁徳天皇ゆかりの高津宮(こうづぐう)で、写真の奥向こうのビルの右手にあるらしい。(まだ行ったことはない)


千日前大通り(東西の道には「通り」がつく)を西へ進み、谷町筋を越えて、1本西へいった筋が中寺町。

谷町筋や1本筋違いの中寺町は、寺院が密集している。豊臣秀吉が大阪城を普請したときに、お寺は谷町筋に移転させたらしい。(1600年までの大阪 の中心地は上町台地であった)したがって谷町筋はお寺の町である。

天王寺区はいかにも大阪市内の中心部の梅田・難波からはずれているが、この区の主な産業(?)は、@病院(大阪警察病院・逓信病院・聖パルナバ病院)、A学校(清風高校・上宮高校・星光学院・大阪女子学園・四天王寺高校−全部が私立中学・高校)、Bお寺(あまたある。筆頭は四天王寺・ついで勝鬘院(しょうまんいん))つまり、@病院で誕生し、A学校で学び、B死んで寺に戻る、という人の一生が完結できる、なかなかシミジミとした区なのである。


中寺町は寺院が並んでいる。さすがに商人の町大阪であるから、お寺もアピールしている。××寺の門前には「○○先生の墓所」という石碑が立っている。

例えば常国寺前には「梶井基次郎墓所」とあり、薬王寺前には「初代中村当十郎墓」の石碑がある。梶井基次郎は知っているが、中村当十郎は知らない。(石碑にある名前のほとんどは知らなかったが)

その中に法性寺があって「ボードウィンゆかりの地」とあった。ボードウィンは、前回訪れた国立大阪病院(当時は大阪仮病院といった)を設置したときのオランダ人の医学教授だったらしい。院長は緒方洪庵の次男の緒方惟準(大村益次郎が適塾の寄宿生の折、背負って子守りをした、と司馬さんが書いていたが、その人。)と説明があった。 ここにも国立大阪病院にゆかりの人がある。


中寺町のお寺が面白いかったので、高津宮のある通りを通り越して、先に進み過ぎてしまった。地図を頼りに高津宮へ来たが、どうもこれは正面ではなさそう。いきなりの石段である。

石段があるということは、高津宮は高台にあり、高台からは平地の大阪(当時は難波津)が見渡せたということか。

高津宮(こうづぐう)は、16代仁徳天皇の難波高津宮(なにわのたかつのみや)の跡である。もとは大阪城の付近にあったが、秀吉の大阪城築城のときに、この地に移されたらしい。だからこの地が難波高津宮の跡ではないが、同じ上町台地のことなので、同じような地理的な環境にあっただろう。

仁徳天皇の墓は、堺市の大仙陵古墳であるとされている。いうまでもなく日本最大(面積では世界一)の巨大古墳である。


「仁徳」とおくり名されているように、仁政をしいた天皇であったようだ。天皇は、ある日高殿に登って国見をすると、どの人家からも煙が上がっていない。貧しさのゆえにご飯も炊けないのかと悟り、3年間の課税を止めた。宮中では質素倹約を旨としたために宮殿は荒れ放題、雨漏りするほどであったという。

一方で、大阪平野の開発を進め、堤防工事に励み、人々は飢えの心配から解放された。免税は3年の予定であったが、念を入れてさらに3年間の免税を続けた。6年たってようやく宮殿を改築できるような状況になったとき、人民はこぞってこれに協力した。という伝承がある。

写真は、国見をした高殿をイメージして建てられたもの。


脇に石碑がある。大阪市歌とある。初めて知る大阪市の歌である。

  高津の宮の昔より
  よよの栄を重ねきて
  民のかまどに立つ煙
  にぎわいまさる大阪市
  にぎわいまさる大阪市


とある。なんか安直な文句だが、市歌の第一番は仁徳天皇の事跡であるのですな。


谷町筋から千日前大通りを西へ少し下る。


天王寺七坂の1つである「真言坂(しんごん)」がある。正面突き当たりに、生国魂神社(いくくにたま)が見える。(ただし正面ではなく裏口)


正面の鳥居。鳥居裏には「壽屋 鳥井信次郎」と彫られている。サントリーが寄贈したのですな。

生国魂神社は、通常は生玉(いくたま)さんと呼ばれている。7月には夏祭りがあって、 上本町7丁目に事務所があったときは、お祭りの費用(何百円だが)も徴収されていた。しかし祭りには行ったことはない。

生玉さんは、大阪では、住吉大社・大阪天満宮と同じくらい有名なはずだが、そのある場所は不幸なことになっている。

生玉さんの周りは、ラブホテルが林立している。生玉さんの前の道は中寺町の続きで、(いまでもそうだが)本来はお寺が並んでいた。しかし維持できなくなった寺は売却され、その跡地に儲けがよかったホテルが建てられていった、という次第。

こういう立地では、男女カップルで生玉さんに詣でるということは難しい。この場所をウロウロしておれば誤解される。

生玉さんの前の道を南へ歩く。この道は谷町筋より一筋西側にある。

道路のところどころにタイルが貼ってある。あとで気づいたが、このタイルは「歴史の散歩道」を表していた。天王寺七坂は、歴史の散歩道に組み込まれているので、このタイルを辿っていけば、迷うことなく七つの坂を巡ることができる。

2つ目の坂は「源聖寺坂(げんしょうじ)」。下ればまた登らねばならない。この坂は見ただけ。


齢延寺は曹洞宗の禅寺である。門の脇に「藤沢東亥(とうがい)先生墓所」とある。この寺のことは司馬さんが、外語の学生時代に参禅にきた、と書いておられた。藤沢東亥という人は幕末の漢学者で、作家の藤沢恒夫さんの曽祖父であるとも書いてあった。

(藤沢東亥の名前の記憶があったので、家に帰ってから司馬さんの本から捜した。見つけるのに時間がかかった。)



もとの道に戻る。このあたりは生玉寺町というらしい。

あれ。佐川急便のセールスドライバーは、上本町の旧事務所に毎日集荷にきていた人ではなかろうか。気づいて、やあやあと声をかける。

名張に戻ったことは先方も知っているから、驚いて、珍しいところで遭いましたね。

今日は天王寺七坂巡りなんや。

居るときには訪れたことがないのに、離れてみると訪れていなかったことを後悔する。失って、初めてわかるXXですな。



3つ目の坂の「口縄坂(くちなわ)」。蛇のことを口縄というらしい。縄に口があれば蛇。

上本町の旧事務所から、電気屋街の日本橋は自転車で10分か15分でいける距離である。CD-ROMやFDが無くなったときは、自転車にまたがってよく買いにいった。(その後は、インターネットやFAXで注文ができるアスクルが出来たので、行かなくなったが)

上本町から日本橋へ行くときは、下り坂だからラクチンだが、帰り道はいけない。一度、帰り道に自転車を押してこの坂を登ったことがある。エラかった。



愛染さんである。正しくは勝鬘院(しょうまんいん)。愛染明王をまつってあるので、愛染さん。

昔から北新地や新町の芸妓が信仰を篤くした寺で、今でも多くの水商売の人がお参りにくる。

この日も、一人で参っている女性が何人もいた。お参りして、お賽銭を上げて、さっさと帰っていくのである。通い慣れていますな。

カップルも多い。場違いであったのは、おっさん一人の私と子供連れの家族。



しかし、元は聖徳太子が、四天王寺施薬院として創建し、ここで勝鬘経の講義をしたという由緒ある寺である。

本堂の裏には、重文の多宝塔がある。聖徳太子が建て、豊臣秀吉が再建したという由緒のある立派な建物である。

ここには「愛染かつら」の映画で有名な桂の木があるが、この映画がはやったのは私より一世代前のことなので、省略。


愛染さんの横の坂道は「愛染坂(あいぜん)」。4つ目の坂。ここは下ってみた。下ってから写真を撮る。

愛染坂を下って、南へ少し歩くと、5つ目の坂「清水坂(きよみず)」がある。 この上には京都の清水寺を模した清水寺があるらしい。清水の舞台があるのか知らん。

この坂は比較的なだらかで、自転車や車椅子でも登れるようになっている。

大阪の清水寺である。寺院は本堂があるだけで、周りは墓所になっている。年末のせいか墓参りされている人が多い。線香の香りが心地よい。

これが大阪の清水の舞台である。向こうは西。大阪の南の中心部が見下ろせる。7つの坂の上からの眺望では、この場所が最高だった。

6つ目の坂「天神坂(てんじん)」を下る。


坂を下って、細い道を南へ行くと鳥居が見える。天神坂というのだから天神さんがあるのかと思うと、さにあらず。ここは安居神社(やすい)の裏口。


大阪夏の陣で徳川方と戦った真田幸村は、この境内で戦死したと案内板にある。(徳川軍の本陣だった茶臼山は、このすぐ下にある。)


安居神社を出ると、そこは7つ目の坂「逢坂(おうさか)」。この坂道は広い。国道25号線である。

向こうに四天王寺の五重塔が見える。


四天王寺に着いた。石の鳥居は「西門(さいもん)」と呼ばれている。


西門をくぐると、屋台が並んでいる。大阪の寺で、いつも屋台がでているのはここしかないのではないか。向こうに西大門(さいだいもん)が見える。

四天王寺は、聖徳太子が蘇我馬子と共に物部氏と戦ったときに、これを討つことができたなら寺院を建て奉ろうと仏に祈願した。結果は勝利を得て、報恩のために、593年(推古天皇の元年)に創建したものである。何度も何度も焼けて、そのたびに建てなおされているが、いまは燃え落ちないコンクリート造りである。

この西大門は1962年に松下幸之助さんが寄贈した。と案内板にある。昭和37年ころは、まだナショナルも景気がよかった。


西大門の4角には、「転法輪(てんぽうりん)」がつけてある。

釈迦はブッダガヤで悟りを開き、鹿野苑(ろくやおん)で初めての説法をした。法の輪を転がし始めたということで、この説法が過去・現在・未来へと無限に続くことを「転法輪」が象徴している。のだそうだ。

幼児が「転法輪」に飛びついて回している。あなたが回せば、釈迦の教えがさらに未来へ伸びる。きっと賢くなるぞ。

西側から撮った四天王寺。南から見て、@中門(四天王寺では仁王門と呼ぶ)、A五重塔、B金堂、C講堂、の順に並び、この4つの建物は回廊で囲まれている。この伽藍配置の様式を四天王寺式という。

五重塔は仏舎利(釈迦の骨)を収めた建物(ストゥーパ)だから、初期の寺は五重塔が中心になっている。四天王寺よりも古い飛鳥寺も、やはり五重塔が中心にあり、東西に東金堂と西金堂、北に中金堂の3つの金堂が五重塔を囲むという念のいった造りであったようだ。

創建時期がすこし遅れた法隆寺になると、中門から見て、東に五重塔、西に金堂と2つが同列に並び、仏舎利を収めた建物と仏像を納めた金堂が同じウエイトになっていて、仏舎利と仏像のウェートが同じになる。 要するに四天王寺は建物こそコンクリートだが、その様式は古い。ということである。


写真の五重塔の右側(南)には仁王門があるが、写っていない。

同じく五重塔の左にある金堂のさらに左側(北)には講堂があるが、これも写っていない。


亀の池。ここには亀が何百(千?)匹も飼われている。亀は水中に飽きれば、板の坂道を登ってきて、石の台上で日向ぼっこをする。(写真でも亀が登っている)

亀の池の向こうにあるのは六時堂。毎日6回の諸礼讃をおこなうので、六時礼讃堂と呼ばれている。重文。だいたいが 先祖供養や納骨の場所であるので、四天王寺(聖徳太子が建てた当初のもの)よりも参詣者は多い。ここが一番賑わっている。

1月14日には「どやどや」という行事がある。ここに参加した男どもは、紅白どちらかのフンドシを締めて、お札を奪い合う。うちの長男も清風中学・高校に通っていたので、母親にぜひ参加するようにと強制されて、裸で出ていた。(私は見ていないが、死んだ家内が写真を撮ってきていた)

その参加の折に、四天王寺さんの手拭いと棒切れとしか思えない木の枝を貰ってきた。この棒切れを土に突き刺しておけば立派な木になるというので、広くない庭の隅っこに突き刺していたら、本当に大きな木に成長した。木は柳であった。いまでは2階の中ほどまでの高さになっている。



写真は講堂→金堂→五重塔を向いて撮る。回廊の外側(手前)に亀の池や六時堂がある。

さあ帰ろう。夕暮れも近い。夕暮れといえば上町台地からの夕日は有名である。今はビルが邪魔をして見えないが、昔は、ここから大阪湾へ沈む夕日が見えたらしい。

鳥居は西門と呼ばれているが、この西門は西方浄土の入り口であるとされる。昔の人々は四天王寺さんへお参りし、海に沈む夕日を見て、その彼方にある西方極楽浄土へ行かれんがことを希求した。




いまは西を望むと、西方浄土でなく通天閣が見える。



今日の万歩計は28800歩だった。


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