桜井市・磐余周辺

    No.11.....2003年1月11日(土曜)


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奈良盆地の東南部ばかりを歩いてきたが、そろそろ西南部(葛城あたり)を歩きたい。ただ東南部の中心である桜井市については、「てくてくまっぷ」では「山の辺の道」しか紹介されていないが、しかし実に興味深い町であることがわかった。

今日は奈良盆地の東南部(つまりはヤマトと飛鳥)で見落とした場所を巡り、これをもって東南部の散策は終りとしたい。漏れていたものを拾い集める「拾遺集」というわけである。

見ておきたかった第一は、桜井市の「磐余(いわれ)」と呼ばれた土地である。神武天皇の和風おくり名は「神日本磐余彦」(かむやまといわれひこ)である。神武天皇の実在を明らかにする歴史的な証拠は皆目ないが、飛鳥京→藤原京→平城京へと移っていった天皇家が、その初めの祖先とした神武天皇が磐余(いわれ)の出身であるとしたのは、磐余は天皇家の本貫の地であると表明したことにほかならない。日本の国は磐余の地から始まったといえる。

そもそも「イワレ」という語感が怪しげではないか。桜井市の字(あざ)には磐余の地名はないが、磐余の痕跡は残っているようだ。わずかな痕跡を辿ってみたい。



その第二は、近鉄桜井駅前に、「芸能発生の地」の塔が立っているが、これはいったいなんであるのか。最後だからこれも解決しておきたかった。

その第三は、欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまのかねさしのみや)の場所を見ておきたかったことである。欽明天皇は、このテクテクのお陰で、しばしば名前が出てきた。@仏教伝来、A皇后が推古天皇、B最後の巨大古墳(見瀬丸山古墳)の埋葬者である、など飛鳥時代は欽明天皇抜きには語れない。在位中の金刺宮はここ桜井にある。

その第四は、ヤマトの6大古墳のうちまだ見ていない「外山茶臼山古墳」と「メスリ山古墳」を見ることである。

すでに見た4つの古墳、@箸墓、A崇神天皇陵、B景行天皇陵、C西殿塚古墳(衾田陵)は、いずれも皇室に関係がある古墳として宮内庁の管轄になっているが、これに匹敵する規模の茶臼山古墳とメスリ山古墳は天皇陵ではない。いったいどのような大きさで、どういう場所にあるのか。

今日訪れた場所は、上図に番号を振ってある。
@欽明天皇の磯城嶋金刺宮、A外山茶臼山古墳、B若桜神社・石寸山口神社・土舞台、C安部文殊院、D上之宮庭園公園、Eメスリ山古墳、である。

なお図中のアルファベットは、Aは鳥見山、Bは稚櫻神社(字は池之内)、Cより南下すると飛鳥、Dは初瀬・朝倉。





まずは欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまのかねさしのみや)へ向かう。桜井駅から粟原川(おおばらがわ)に沿って東進する。

この川の北(写真左側)には大和川(やまとがわ)(このあたりでは初瀬川(はせがわ)という)がある。


川沿いに1300mほど東進して、左折して北に向かう。写真正面は三輪山。ここから300mほど行けば、欽明天皇の磯城嶋金刺宮跡がある。

天皇家は「万世一系」とはいうものの、途中で明らかに血脈が交代した時期がある。もっとも顕著なのは、15代応神天皇(ここから河内王朝といわれる)、21代雄略天皇(またヤマトに戻る)、26代継体天皇(福井からやってきた)。

笠原英彦さんの「歴代天皇総覧」によると、 応神天皇(400年ころ)は仲哀天皇と神功皇后の子供であると伝えられているが、敦賀のなんとかいう神と名前を交換したなどと、その出身は怪しい。政権が交代したらしい。この応神天皇が皇太子のときに、磐余の若桜宮を造営している。

雄略天皇(500年ころ)は、名前のとおり武略によって皇位継承者を次々に倒して即位し、25代武烈天皇までこの血統は続く。泊瀬朝倉宮(はつせあさくら)で即位。武烈天皇も泊瀬列城宮(はつせなみき)で即位。(泊瀬は初瀬の古い名前)

継体天皇はおくり名からもわかるように、ヤマト体制を継いだ別系統の統治者であるらしい。福井あるいは近江からやって来て、大阪府枚方市の樟葉(くずは)で即位したものの、なかなかヤマトに入れず、20年後にようやく磐余の玉穂宮(たまほのみや)を造営してヤマト入りを果たした。

何かことあるごとに、初瀬か磐余に戻って即位しているのは、磐余周辺の地を治めることが、当時の日本の支配者のシンボルであったようで、「磐余」は、592年に推古天皇が飛鳥へ都を移すまでは、日本の中心であったに違いない。



欽明天皇は、継体天皇と手白香皇女(たしらか)の子供である。 すでに、この散策で、欽明天皇ゆかりの仏教伝来の地は訪れている。 手白香皇女の墓であるとされる西殿塚古墳(衾田陵)も行った。

欽明天皇の時代には、大陸・朝鮮半島との交流が激しくあって、飛鳥の文化が作られていった。欽明天皇は敏達天皇・用明天皇・崇峻天皇・推古天皇の4天皇の親であり、このころから日本の歴史がはっきりし出す。

その欽明天皇の宮はここにあったらしい。大和川(初瀬川)のすぐ南の位置にあり、今は桜井市の水道局になっている。

朝鮮からの使者は、玄海灘→瀬戸内海→難波津へ到り、大和川を伝って、この磯城嶋金刺宮へやってきた。





磯城嶋金刺宮から南下すると、外山茶臼山古墳(とびちゃうすやま)がある。(写真奥の右手の木立がまばらな小山)

近鉄電車の踏み切りを渡る。


白石太一郎さんの「古墳とヤマト政権」によれば、古墳時代の前期(250年〜350年くらいの間)には、他とは隔絶した規模の古墳が6つあって、時代順には、1.箸墓古墳(280m)→2.西殿塚古墳(234m)→3.外山茶臼山古墳(208m)→4.メスリ山古墳(250m)→5.崇神天皇陵(242m)→6.景行天皇陵(310m) であるらしい。

この外山茶臼山古墳とメスリ山古墳は、規模からすれば当然に大王の墳墓であるはずだが、古事記や日本書紀に記述がないので、天皇陵とはされていない。したがって大いに発掘されて、多くの遺物が出土している。特にメスリ山古墳は盗掘されていない部分があったので、大量の遺物が発見された。(橿原考古博物館にある)


天皇陵と比定されていないかわりに、その管理は手厚いとはいえない。誰でも際まで入れるが、まわりは畑である。(後円部から前方部を見る)


前方部の正面。もし天皇陵とされたなら、崇神天皇陵や景行天皇陵のように、正面は整備され、宮内庁の職員が常駐していることだろうが、現実は国道165号線がすぐ前を走り、カラオケを兼営している喫茶店が前方部を隠している。

その165号線というのが、お粗末な国道で(これは三重県の名張から津へと繋がっているが)片側1車線で、歩道もない。

兵庫県西宮市から名張へ来るために、家内が運転する車に同乗して、この165号線を初めて通ったときは恐かった。国道というものは2車線か3車線あるのが当たり前であると思っていたが、1車線の道が延々と続く。

慣れていない道なので制限速度で走っていると、後ろから「何をトロトロしている」と、クラクションを鳴らされる。そのたびに脇によけて、後続の車を先に行かせる。という繰り返しだった。



私は車の免許をもっていない。もともとは持っていたが1989年のバブル期に仕事が忙しくて、免許の更新を失念して、失効となった。(失効してから家内が替わりに免許を取った。)

免許更新時には、当たり前のように「交通安全協会」に加入させられるが、 この協会の仕事はなんであるのか。たぶん免許更新の時期がきましたのお知らせを貰うだけが加入者のメリットはないのではなかったろうか。

その唯一のメリットだったが、途中で引越しをしたために、お知らせが来ず、免許の更新を失念するということになった。協会も唯一の仕事の「お知らせ」が、あて先不明で戻ってきたのであれば、ちょっとは調べて再連絡すればよかろうに。以来、XX協会というのには一切加入しないことにした。例えば税務署の納税協会、商工会議所の会員。



ついでに言えば、人は立場立場によって、都合のよいように考えが変わる。車に乗っているときは、歩行者が邪魔になる。横断歩道をモタモタ渡っていれば、おいおいサッサと歩けよと思う。逆に歩行者となれば、車の傍若無人な運転に腹を立てる。

しかし基本は「弱いほうを優先する」ということでしょう。写真は同じ165号線ですが、この道はいったい何であるのか。車が通る幅しかない。歩く場所は、溝の上に鉄板で蓋をした部分しかない。

この、道とはいえない端っこの部分を、車の運転のできない小学生が通り、老人が通らねばならない。実に馬鹿馬鹿しい道路行政である。車道を目一杯とって、人が歩く場所がない道を作る行政というのは、100%間違っている。



写真は磐余大橋。この橋の右(西)には磐余橋がある。「磐余(いわれ)」の名前がつくものは、かろうじて2つの橋の名前があるばかりのようだ。(詳しく地図を調べたわけではない)

この橋とて、元々は車道しかなかったことは明瞭である。歩行者のために、 急ぎ、元の橋の両脇に歩道をつけたことがアリアリとわかる。

この国の行政がいけないのは、ものごとの優先順位がはっきりしていないことである。つまりは思想とか原理原則がない。何が大切であるのかがなにもわかっていない。そのために声が大きい方を優遇する。子供や老人など大声を発することはできないものは一方的に被害者になる。そういう構図である。



文句をいいながら165号線を西へ辿ると、桜井駅をまっすっぐ南下する道との交差点に着いた。このあたりの字は「谷」というらしい。

桜井市の地名(字)を見ると、桜井駅を中心に、南は「桜井」と「谷」があり、「谷」の西に「戎重(かいじゅう)」→「阿部」→「池之内」、「谷」の西に「外山」→「河西」→「上之宮」がある。

写真の向こう(北)へ行けば「桜井」。左(西)にいけば「谷」→「阿部」。右(東)に行けば「谷」→「桜井」・「河西」。



これは交差点の南方面の写真。向こうの一帯が「谷」。これから南下して「谷」をメインに歩く。

ヤマトの中心点である磐余(いわれ)の字(あざ)はないが、どうやら「谷」が磐余と呼ばれた地ではないか、という歴史学者の意見がある。

飛鳥を歩いたときに読んだ千田稔さんの「飛鳥−水の王朝」によれば、
  1. イワレとは「岩群れ」である。イワムレ→イワレと変化したのではないか。

  2. 磐余の磐(イワ)はよいとして、余を(レ)と読ますのは。余は(ワレ。ワレこそはXXのワレ)であるから、イワワレ→イワレとしたのではないか。

  3. 万葉集では、イワレは「石寸」の字を当てており、現に石寸山口神社(いわれやまくち)が存在する。
という説明があった。なるほど。写真右手に見える丘には若桜神社がある。



先にいったように15代応神天皇の皇太子時代に磐余若桜宮を造営したとあり、16代仁徳天皇の子供の17代履中天皇が即位したのは磐余若桜宮であり、ここに磐余池を作ったとある(らしい)。

つまり若桜宮の痕跡が、若桜神社ではないのか。とすれば、この「谷」の地が「磐余」ではないのか。となる。

しかし厄介なことに、この若桜神社から西南方向約1.6kmのところに「稚櫻神社」(同じワカザクラと読む)があり、その場所の字は池之内であることから、かの地が磐余池のあった場所であり、磐余若桜宮は稚櫻神社である。という意見が有力であいる。



稚櫻神社には行かなかったので、なんともいえないが、かの場所は宮としては山から離れすぎているような気がする。

古代人にとって一等地は、山裾のやや小高い場所、平地であれば飛鳥京・藤原京のように山で囲まれている場所。という感じがある。(シロートの思いに過ぎないが)

この「谷」の若桜神社は、古代の宮の立地としてはよい場所のように思える。上図の丘の小高さがなんともいえない。高からず低からずである。近くには寺川が流れている。丘と川があれば住居としては最高だろう。

この川にかかる橋は磐余橋と磐余大橋である。「イワレ」をつけて呼ばれていることは先にいったが、いずれも「谷」にある。(稚櫻神社のある池之内ではない)







若桜神社から西南に、直線距離で200mほどのところに石寸山口神社(いわれやまくち)がある。山口神社というのだから、この神社は小山の入り口(山頂にある例もあるが)にあるはずで、その小山は阿部山と呼ばれているらしい。(若桜神社は阿部山の北(やや東より)にある。)

西に向かっていると、大きな鳥が人を恐れるでもなく、目の前に止まっていた。写真をとろうとしたら、少しは警戒して、家屋の玄関先の屋根に移動した。何という鳥なのか。体長30cmはある大きな鳥です。こういう鳥が飛びまわっているとはね。

悠然とした磐余の鳥ですな。

若桜神社から西行きして、折れて南下する。やや登り坂となっている。

向こうの山が阿部山らしい。「山」と名がついているが、高さは50〜60m程度のものではなかろうか。(地図でみても標高は書いてない)まあ丘といったほうがよいくらいだ。

「左 土舞台・右 安部文殊」の道標がある。尋ねると、写真すぐ奥の電柱を左に行けば石寸山口神社があり、まっすぐ坂道を登れば土舞台があるらしい。

「土舞台へ行ったら、戻ってこな、道はないよ」と尋ねたおばあさんの返事。

石寸山口神社である。祭神は大山祇神(おおやまつみのかみ)とあった。

石寸の「寸」は「村」のつくりを取ったもので、石寸→石村→イワムラ→イワムレ(岩群れ)が語源と推定できる。つまりここが磐余の地である。というのが先の千田稔さんの考えである。これも十分に納得する。


石寸山口神社の前には池がある。小高い位置に池があるのは、溜池かもしれないが、まわりには田んぼはなかったので、神社に付随する池であるのか。

池を備えているこの神社はナカナカの格式があるようだ。

坂道に戻り、土舞台(つちぶたい)を目指す。

近鉄桜井駅前の「芸能発生の地」の碑は、ここに「土舞台」があるためらしい。

土舞台は阿部山の山頂にあった。

推古天皇20年(612年)に摂政であった聖徳太子は、百済人の味摩之(みまし)が伝えた伎楽舞を伝習せしめるために、この場所に国立の演劇研究所と劇場を設けたと日本書紀に記述されているらしい。

伎楽は仮面劇で、法隆寺や奈良国立博物館で、仮面を見た覚えがある。まことに飛鳥の時代は海外のよきものを、大量に、急いで取り入れた国際色ゆたかな時代であったようだ。

土舞台の場所は広くない。ここは公園になっているが、シーソーとブランコ、それにすべり台(あったか?)があれば、土舞台の広さは占有されてしまう程度の広さである。劇場があったとしても規模は小さかった。


土舞台から桜井小学校が見下ろせる。小学校の北側(写真左)には若桜神社がある。

イワレが「岩群れ」の意味であるなら、この阿部山は岩がゴロゴロしているのかと予想していたが、普通の土質の小山であり、特に岩が露出しているふうでもなかった。

ちょっと想像していた風景とは違っていた。

阿部山を下りる。石寸山口神社の道を尋ねたおばあさんは、土舞台から向こうには行く道がないといっていたが、土舞台のすぐ下は分譲地として開発され、土舞台から下る立派な石段がつけられてあった。

「土舞台」の案内板まであった。土地の人も知らぬ間に土地開発が進んでいる。


住宅地を下っていくと、思いがけぬことに安部文殊院(あべもんじゅいん)の裏側の入り口に出た。どうやら安部文殊院の駐車場入口のようである。

徒歩ではあるが、ここから文殊院の境内に入る。


安部文殊院は、「阿部」の地名が残っているように、古代の有力豪族阿部一族をまつるお寺である。阿部の一族からは、遣唐使として唐に渡り、唐の官僚として仕えて、ついに日本の地を踏むことができなかった阿部仲麻呂がでている。

 天の原  ふりさけ見れば
 春日なる 三笠の山に
 出でし月かも

の歌で有名。


文殊院は知恵を授かる寺として有名である。このあたりには古墳も多い。写真は文殊院東古墳だが、ここから地下水が湧いてくる。この水は「知恵水」といって、これを飲めば入試の合格間違いなし、が文殊院の売り物である。


文殊院には3度来たことがある。3人の子供が中学受験をするたびに、家内に促されてやってきた。

5000円を払って成就祈願をしていただく。お土産は、@お守り、A知恵の水、B合格鉛筆(5角形の軸芯)である。

信仰心の篤い方はきちんとした参り方をされておられる。 私はご利益を求めての参拝はしたくない部類に入る。身を神か仏にゆだねるという心境に到れば、救いもあるかも知れぬが、まだその域には達していない。


最後に文殊院に参ったのは、今から4年前のことだが、それからの文殊院は劇的に変わった様子である。

まるで、ご利益なんでも販売所のおもむきである。写真は白山堂。縁結びの神さんらしい。


合格門というものが出来ていた。

近頃つとに有名になった陰陽師の安倍清明だが、これもちゃんと祭ってある 。(昔はなかった)

しかし安倍清明は、大阪阿倍野区の阿倍野で生まれたとされているので、阿部一族ではあっても直接には文殊院とは関係がない。

この坂を登れば、安倍清明を祭った社がある。参れば入試合格(らしい)。



まだある。これは十一面観音像。



背後には小型観音像が並べてあり、各々の像の下には寄進(寄付)者の名前が彫ってある。



少し前の文殊院はこんなのではなかった。住職が代替わりしたとしか考えられない。

さらに人を不安にさせる道具を備えている。今年の厄年は写真の年齢であるそうな。皆さん、厄払いをいたしましょう。ということであるらしい。


建物はさらに増えていたぞ。なんと稲荷社が出来ていた。

安倍清明は、その知恵や予知力が隔絶していたために、かの母親は信太の森(しのだのもり。大阪府和泉市)の雌狐である、という伝説があるが、これを利用したらしい。寺と神社は違うものであろう。

わずか3年4年で、ここまで文殊院が変わってしまうか。

これを書いているときに、近所の方(奇しくも桜井さんというが)、家内の命日(1月12日)だというので、お供えを持ってきてくださった。死んで2年もたてば、忘れ去られるし、それがいいと思っているが、こうして供養にいらっしゃると、人の情に内心では感激する。有り難い。

その桜井さんに、文殊院はどうなってしまったのか、と問えば、

「あれはもはや寺ではありません。露骨な商売人ですな」

誰でも同じ感想である。



なんだか、家内が一生懸命に子供の入試合格を祈って文殊院にやって来たことが、まるでおろかな行為であったようで、悲しくなって文殊院を出た。

俗な文殊院をでると、しかし、そこには鳥見山が見える。平らかで均整のとれた美しい山である。

この山の一帯は、鳥見山古墳群といって多くの古墳があるらしい。この古墳群の中で飛びぬけて規模が大きいのは、すでに訪れた外山茶臼山古墳とこれから訪れるメスリ山古墳である。

古墳群があるということは、古代の人口が多かった地域であったということである。やはりこのあたりはヤマトの中心の磐余であったのではなかろうか。

向こうのグランドは桜井商業高校。

桜井商業高校の側に、上之宮庭園公園がある。この遺跡は分譲住宅地を開発しているときに発見された。

磐余の地を確定できる実物の証拠はまだ出ていないから、上之宮庭園は磐余の地を推定するための重要な遺跡であるらしい。先の千田稔さんによれば、聖徳太子が養育された上宮(かみつみや)の可能性があるらしい。この場所の地名も「上之宮」である。

聖徳太子の父親の用明天皇は、磐余の地に双槻宮(なみつきのみや)を造営した。双槻宮が「谷」の地であれば、この遺跡は十分に聖徳太子の上宮の可能性がある。

この遺跡の重要なところは、最も古い石敷きの庭園(苑地)であること。周囲の宮殿跡らしい跡があったこと。木簡や様々な木製品が発掘されたこと。のようだ。

発掘の結果、だいたい図のようなあんばいであったと推定されている。


最後の目的地、メスリ山古墳を目指す。桜井商業高校に沿って南下すると、それらしきものが見える。

メスリ山古墳は長さ約250m。全国で14番目の大きさらしい。(古墳時代前期のものとしては4番目)

天皇陵ではないので、管理は緩やかである。写真は前方部から後円部を望む。前方部の段丘は一部が畑になっていて、「畑に入るな」の立て札があった。

Uターンして桜井駅に戻る。桜井商業高校グラウンドの向こうに鳥見山(標高245m)が見える。

左手に桜井小学校がある。阿部山山頂にある土舞台から見下ろせたから、この小学校は阿部山の山裾にある。本当に阿部山は「岩群れ」の山なのか。

文字がなかったはるかに昔のことである。磐余の地は夢か幻か。陽炎を見たような印象だった。

JR桜井駅に到着。向こうに三輪山がある。 万歩計は27000歩だった。




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