當麻・竹内街道

    No.12.....2003年1月18日(土曜)


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しばらくは、奈良盆地西南部を訪ねる。奈良盆地を仮に「口」の字で囲まれた地域とし、これを4等分して「田」の字に区画すれば、左下の小さい「口」の字の地域である。

この小さい「口」の字の上の「一」は大和川、右の縦線は葛城川(あるいは東隣にある曽我川)、左の縦線は葛城山(かつらぎ)に代表される山々が連なっている。(奈良盆地の地図を参照)

大きな山は上から順に、二上山(雄岳)517m→二上山(雌岳)474m→岩橋山658m→葛城山959m→金剛山1125m、と南に行くに従って高くなる。

まとめて言えば「葛城の地」である。今日は二上山のふもとにある、染野・當麻・竹内・長尾の地を歩く。住所でいえば、北葛城郡當麻町(の染野・當麻・竹内・長尾)である。(なお南葛城郡というのはない。)




近鉄電車の てくてくまっぷ では、No.32「當麻の里コース」(上図)とNo.33「河内飛鳥コース@」(右図)の一部に該当する。

上図では、@近鉄・当麻寺駅(たいまでら)を起点にして→A當麻寺→B石光寺へいき、そこからUターンして南下して、右図のC竹内街道を上池(かみのいけ)まで辿り、またUターンして→D竹内街道を下って長尾神社に到る。というコース。

Uターンが多く、往路復路が同じ道であったりと、あまり上手なコースではないが、見たい場所を優先させると、このようなことになった。

今日のコースの全行程は、当麻・竹内の地図のほうがよくわかる。




當麻寺へ行くには、近鉄南大阪線・当麻寺駅(たいまでら)駅で下車する。名張からは乗り換えが2回あって、結構面倒。すなわち、名張(大阪線)→八木(32.4Km。ここで橿原線に乗り換え)→橿原神宮駅(3.3Km。ここで南大阪線に乗り換え)→当麻寺(9.3Km)となる。名張からの運賃は670円。

当麻寺駅には駅員さんは1人しか詰めていない。ここで「てくてくまっぷ」を貰った。掲げたNo.32とNo.33は表裏になっている。

当麻とあったり當麻とあったりするが、郵便局の「ぽすたるガイド」を見ると、字(あざ)は「當麻」とあった。これが正しいらしいが、今は略字の当麻が多く使われている。




當麻といえば、一に中将姫の當麻寺、二に当麻蹴速(たいまのけはや)である。駅前の角には、「中将餅」の暖簾が垂れた店があり、よもぎ餅を売っている。この店角を左に折れると、當麻寺への参道となる。

道路は黒色のアスファルトではなく、茶色になっているのは、この道を辿りなさいということ。西向きの道である。向こうの山は二上山の一部。



参道を歩くのは楽しい。とはいっても當麻寺はご利益が売りの寺ではないので、参詣者が列をなすということはなく、土産物屋として成り立つのは数軒程度だろうか。それでも店先に並べられた商品を見れば、この地が何を売り物にしているのかわかって面白い。

酒屋には「天の二上」(きっとアメノフタカミと読むのだろう)とか「蹴速」とかいった地酒が置いてある。



昨年10月に、山の辺の道を歩き、相撲神社を訪れた。

第11代垂仁天皇(すいにん)の7年に出雲の国の野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)は、天覧相撲をとったが、蹴速(けはや)はあばら骨を踏み折られて負けた。

負けたが當麻の人々にとっては格別な思い入れがあったようで、「蹴速塚」があり、「当麻町相撲館(けはや座)」が建てられており、地酒もある。

塚の右にある建物は相撲館だが、その右隣にさらに大きな建物を増設しているため、平成15年?月までは休館します。とあった。蹴速人気はますますさかんである。



国道165号線が南北(左右)に走っている。写真の横断歩道を渡る。この165号線はこの交差点あたりで終り、この南側の道はいきなり県道30号線に変るという奇妙な道である。(後で歩いて、こんがらがった。)

信号の柱の右にあるのが二上山。左が雌岳(めだけ)、右が雄岳(おだけ)。双子山である。彼岸の中日には雌岳と雄岳の凹部に日が入るという。



信号を渡って、さらに参道を進む。手前に見える低い山は麻呂子山(まろこやま)。標高213m。この山裾に當麻寺がある。



「けはや餅」もあるぞ。「中将餅」と同じく、よもぎ餅。

野見宿禰の出身地の出雲には、「のみのすくね餅」があるのやろうか。地酒「野見宿禰」があるのやろうか。



山門(仁王門)に着いた。門の位置としては東にあるので東大門ともいわれる。



東大門をくぐる。當麻寺は中将姫の曼荼羅で有名ながら、その創建は古く、白鳳・天平期の建物・仏像が多く残っており、それらは当然に国宝・重文に指定されている。

例えば、正面手前中央の小さな建物には、梵鐘(ぼんしょう)が吊り下げられているが、この鐘こそが日本最古の梵鐘で、国宝。



左側の塔は「東塔」。麻呂子山のちょうど頂上の下の位置に「西塔」が見えるが、東塔は白鳳期、西塔は天平期のもので、共に国宝。東西の両塔が残っているのは、日本で唯一である。

推古天皇20年(612年)に用明天皇の皇子の麻呂子親王が兄である聖徳太子の勧めによって、河内国山田に万法蔵院禅林寺を建てた。この70年後に麻呂子親王の孫にあたる当麻国見(たいまのくにみ)が、当麻の地に移し、大規模寺院とした。それは天武天皇9年(681年)のことである。(完成は4年後)。

完成した伽藍は、@東西両塔、A金堂、B講堂、C千手堂、Dその他ことごとく、である。寺で買った「當麻寺」という小冊子(800円)に書いてあった。

下の写真の正面が本堂。元の千手堂。中将姫の「蓮糸曼荼羅」が収められているので、曼荼羅堂とも呼ばれている。天平期のもので、国宝。左は金堂。これは鎌倉期に再建されたもので、重文。右は講堂。これも鎌倉期に再建されたもので、重文。

白鳳期というのは、飛鳥時代と天平期のあいだの時期を指す。天平期は東大寺の大仏を作った聖武天皇(即位724年)から平安京遷都(794年)までの時期だから、おおかたは天武天皇(即位673年)〜元正天皇(724年まで)の時代(この間に持統天皇・文武天皇。・元明天皇の藤原京時代が入る)の約50年間である。


金堂の建物は鎌倉期のものだが、その祭ってある仏像はすごい。まずは弥勒仏。白鳳時代の塑像。681年の開眼といわれる。今なお金色の輝きは失せていない。当然に国宝。

周りには四天王像が配置され、広目天、増長天、持国天の3体は白鳳期の乾漆像でいずれも重文。多聞天は鎌倉期の木像ながら、やはり重文。

豪華ですなあ。見学人が私一人だったので、案内のガイドさん(おばさんである)が説明してくれた。

弥勒は元は広隆寺や中宮寺にある弥勒菩薩像のように、片頬に手を当て、片方の足を組んだ半跏思惟(はんかしい)の像でだったが、後に(奈良時代以降)は如来形となった。この弥勒仏もそうである。といったことを聞き・答えしていたら、指差した手が戒壇内にはいり、いきなり「仏像に手を触れないで下さい。」の警告のアナウンス。赤外線で見張っているらしい。

「この前も、娘さんが来て、このアナウンスにびっくりして、私なにもしていません。と真顔で弁解していやった。」とガイドさん。



講堂に安置されている仏像もナカナカのものである。阿弥陀如来は藤原時代のもので、重文。これは丈六というから、16尺(4.5m)の大きさ。もう一体、小さい阿弥陀如来があり、これも藤原時代のもので、重文。

さすがに平安時代ともなれば阿弥陀如来の全盛期ですな。他に藤原時代の地蔵菩薩が2体と鎌倉時代の千手観音があって、どれも重文。

阿弥陀如来が2体、地蔵菩薩が2体とダブっているのは、當麻寺の最盛期には45の寺坊があったが、廃れた寺坊の本尊を講堂に収蔵しているためです。とガイドさんの答え。今は8か寺になっているらしい。




曼荼羅堂である。この建物自体が国宝だが、ここに収蔵されている「蓮糸曼荼羅」はあまりにも有名である。縦横4.5の 布地に西方極楽浄土が描かれている(織られている?)。国宝。

ただし拝観しても、暗くてよく見えない。(しかたがないので写真が掲載されている小冊子「當麻寺」を買った次第)拝観料は500円。これで本堂・金堂・講堂の拝観ができる。

曼荼羅図が国宝であるばかりではなく、これを収納している厨子も国宝。それを置いてある須弥壇も国宝。これらは源頼朝の寄進である。国宝の豪華3本立てである。

ただし今拝観できるのは、中将姫の作った曼荼羅ではなく、模造したもの。模造といっても馬鹿にしてはいけない。3度転写されているが、眼前にあるのは室町時代に転写された文亀曼荼羅と呼ばれる第2回目の転写で、これとても重文である。




右図は国宝の東塔。

曼荼羅および中将姫のことである。昨年春に、身辺をシンプルにしようと思い、今の生活に過大と思われるものを多く処分した。本についていえば、司馬さんの著作以外の小説本のほとんど全部を処分したが、1冊だけ残した小説がある。それは折口信夫(おりぐちしのぶ)さんの「死者の書」(文庫本)である。

この本は長い間、通読できなかった。何度か読み始めるが、途中で読むのを止めてしまう。読み始めたときは、これはただならぬ本であると直感するのだけれど、終いまで読み通せない。

わずか160頁の小説であるのに、途中で止まってしまう。なんか悔しく、思い残すことがあって、いつか通読できるだろうと残していた。時期がくれば読み通せるかも知れない。当初は決して好きになれないだろう、と思ったブルックナーの交響曲が今では最もよく聴く音楽になっているように。

そういう本である。ずいぶん手垢がついている。奥付を見ると、昭和49年(1974年)の再販(中公文庫。240円)とある。「死者の書」自体の刊行は、昭和14年。昭和18年に補訂とあるので、今から60年昔の執筆である。

実はこの散策を終えた日に、家に帰ってからこれを読み始め、とうとう通読できた。本を買ってから約30年たっていた。




写真は国宝の西塔。

中将姫より80年ほど前に、持統天皇によって処刑され、當麻寺の頭上にある二上山に埋められた大津皇子の怨霊?と中将姫との交感、中将姫と阿弥陀仏への憧れが交錯し、そこに平城京の時代の庶民の明るさと、藤原仲麻呂・大伴家持を通じての政治背景が描かれていた。

「死者の書」とは、こういう内容であったのか。シーンと澄み切った静寂の世界のようであり、妖しげな白昼夢のようであり、奈良時代の人々の朗らかさをうたったようでもあり、要するに単一の主題ではなく、テーマが多重に折り重なっているようだった。


薬師門から當麻寺を出る。向こうは北。

中将姫は、藤原四家の筆頭である藤原南家の当主、横佩大納言・藤原豊成(よこはきのだいなごん)(ふじわらとよなり)の娘。17才のときに称賛浄土経千巻を手写して、當麻寺に納め、763年に仏門に帰依して尼となる。

姫は、蓮の茎から繊維を取り出して、糸に紡ぎ、これを井戸に浸して染色し、未曾有の大曼荼羅を織り上げた。29才の春、阿弥陀如来および25菩薩が二上山より来迎され、姫は西方極楽浄土へ向かわれた。 ということが當麻寺の案内板に書いてあった。

極楽に咲くのは蓮の花だから、曼荼羅を蓮糸で織り上げることができれば、ということなのだろうが、本当に曼荼羅は蓮の糸で織られたものか?どうだろう。

この道は、蓮糸を染めたとされる井戸がある石光寺(せっこうじ)に続いている。

途中に地蔵堂(子安地蔵)があって、脇に中将姫の墓塔があると案内板があった。堂の右の小道は墓地に通じ、この一角に姫の墓塔があるらしい。



「てくてくまっぷ」のイラストでは、13重の石塔が描いてあるが、見当たらない。

たぶん写真がそれであろう。墓域の整備をするためか、石塔は分解され、今は三重の塔になっている。石壇が完成したら積み直して、元の13重の塔になるはず。

中将姫の墓塔を出て、少し歩くと珍妙な形の物体があった。初めは石屋で作った石像が置かれているのかと思ったが、近づいてみると石仏や石灯篭ではない。キリン、ゾウ、クマ、ウサギ、である。奥には汽車まである。

遊園地にある強化プラスチックの型であるらしい。この型枠にFRPを塗るか、流し込むかして成型するのですな。二上山の向こうは未来の地(西方極楽浄土)、二上山のこちら側は現在と過去の地。現世(うつせみ)。

現世で一番大切なものは子供たち。公園にあるゾウやキリンはどこかで作っているはずだが、こんなところで作っていたのか。

西を見れば二上山がある。中央は雄岳。左の低いほうが雌岳。「二上山登山口」の道標が方々に立っていて、その柱には、大津皇子の姉である大伯皇女(おおく)がうたった、弟の死をいたむ歌が掲げられている。

  うつそみの  人なる我や
  明日よりは  二上山(ふたかみやま)を
  弟世(いろせ)とわが見む

天武天皇が亡くなった686年に、大津皇子は謀反の疑いをかけられ、磐余池の堤で断罪された後、すぐに二上山(雄岳)頂上付近に埋葬される。後の持統天皇がわが子草壁皇子を天皇とするために、大津を除いたとされる。

磐余の地は前回巡った。大津皇子の宮は訳語田(おさだ)にあったが、これは桜井市の戎重(かいじゅう)の地であるらしい。桜井から二上山は、ほぼ真西に当たる。




折口さんの「死者の書」では二上山(にじょうざん)には「フタカミ」とルビが振ってあった。当麻には「タギマ」とある。古代ではこういう発音であったのだろう。名張に来るまでは、二上山も當麻寺も知らなかったので、てっきり今でも「ふたかみやま」「たぎまでら」と呼ばれているものと思っていた。


石光寺(せっこうじ)に到着。中将姫は、この寺にある井戸で蓮糸を洗い、五色に染めた。染めた糸は桜の木にかけて乾した。という言い伝えがある。

寒牡丹の咲く寺としても有名らしい。


蓮糸を染めたという井戸。「染の井」(そめのい)という。瓦屋根の堂(?)の中に井戸がある。

左右には桜の木が1本ずつ植えられており、これが「糸掛け桜」らしい。先代の桜の木は大往生し、その古株が堂の中に展示してあった。

桜の木の左に白い石碑がある。これには堂の周りの石柵を寄贈した「ツムラ」の文字が刻んであった。ツムラは今ではバスクリンを売っているが、昔は「中将湯」という入浴剤を製造販売していた。

今でもそうだと思うが、ツムラのトレードマークは「中将姫」だから、この寄進となったのだろうか。


中将姫の「染の井」がこれ。井戸の直径は案外に狭く、直径50〜60cm程度かといったところ。

中将姫は、藤原四家の筆頭の南家の長女であったから、通常なら, @天皇の妃になるか、A藤原氏神を祭る枚岡神社の斉姫(いつきひめ)になるか、あるいはB有力貴族のもとに嫁するか、という選択肢であった。ところが意外にも出家して、短い生涯となった。このことが中将姫伝説ができた大きな要因だろうか。

なぜ尼になったのかについては、當麻寺の案内板では「姫の生みの親が亡くなった後に、横佩大納言が迎えた継母にいじめられたので出家した、という話がある」とし、折口さんは阿弥陀如来への憧れが高じたものとして小説を書いている。



寒牡丹は1月下旬までがシーズンとあったが、多くはすでに散っていた。かろうじて花をつけていたのが、これ。


石光寺を出て、山裾を少し東に下れば国道165号線に出る。南に向かって歩く。

南に向かえば、スタートした当麻の交差点→竹内の交差点があり、その次の筋が古代から続く竹内街道(たけのうち)である。

国道165号線の東を見れば奈良盆地。写真左側に耳成山がぽっこりと見え、写真右側には霞んだ畝傍山が見える。香久山はこの2山の中間にあるが、うっすらとしか見えない。




国道から西側を南を向いて撮る。写真右端のさらに右には二上山(写っていない)。写真の右から山が高まっているが、高まりをスタートした低いところが竹内峠か。

竹内峠(たけのうちとうげ)から高まって、写真で最も高く見える山は岩橋山。その向こうが葛城山。さらに奥の霞んだ山は金剛山。実際の山の高さは、この順に高くなり、金剛山は標高1125m。




竹内の交差点に着いた。左右(南北)の道は県道30号線。(国道165号線を辿ってきたが、途中から県道30号線に変る。同じ道なのに。)

手前から向こう(東から西)へ走る道路は国道166号線。向こうの山と山の鞍部が竹内峠。今は166号線を通って竹内峠を越えるが、竹内峠にいたる古代の竹内街道は、この道の1本左にある。



竹内街道である。写真は西を向いてのもの。登り坂である。この道をずんずん進めば、先の国道166号線に合流し、共に同じ道を通って竹内峠を越える。

一方、写真より手前を下って行くと、長尾神社に着く。

西を向いて竹内街道を登っていく。道は茶色に舗装されているのは、これは「歴史国道」に指定されているためらしい。

竹内街道あるいは葛城(かつらぎ)について、司馬さんは何度も書かれている。第一「街道をゆく」の第1巻は、「湖西のみち」「竹内街道」「甲州街道」「葛城みち」「長州路」の5つであり、たぶんこれらの道が司馬さんにとって、最も気の置けない道であったのだろう。

竹内(たけのうち)には司馬さんの母の実家があり、幼年期にはここで過ごすことが多く、幼年期の思い出は竹内のことばかりであるようなことを書いておられた。

ヤジリヒロイに熱中したこと、竹内の家のおじさんのこと、カミノイケのこと、葛城乙女のこと。 竹内のことを書くときの司馬さんは、資料調べをする必要もなく、安心してペンを走らせることができたに違いない。

司馬さんがこうまで楽しげに想い出を語ることができる竹内というところは一体どのようなところであったのか。かねがね見てみたいと思っていた。

『竹内に貧農なし、といわれて、むかしから暮らしやすい在所だったようにおもえる』と書いておられるように、街道沿いの家並みはなかなか立派である。古い家は重厚であり、新しい家も昔どおりの木造・瓦葺を踏襲してある。商店はほとんどない。

道の舗装がいかにも新しい。いつ舗装したのかと、作業服を着たおじいさんに聞けば、「昨日や」との返事。その前に訪れていれば、まだ舗装工事の最中だった。これは運がよい。


旧竹内街道を登ると、166号線に突き当たり、ここからは車が激しく行き交う普通の道になる。これから行くのは、司馬さんが書いていた「カミノイケ」である。

家を出るときは、竹内街道は予定に入っていなかったが、近鉄・当麻寺駅前にある案内板(当麻・竹内の地図を参照)を見て、竹内街道の位置が明らかとなり、急遽行ってみようとなった。

竹内街道を歩いていて、ここまでくれば「カミノイケ」に行かねば、とまた余計なことを思いついた。しかし小雨模様となった。道に出ている人は少ない。2人に尋ねたがカミノイケは知らなかった。司馬さんが書いていたんだがなあ。


思いがけずに、司馬さんが少年期を過ごした実家の身内の方(女性。50〜60才か)に出会った。「司馬さんが・・」といいかけると「それはうちです。どこからおいでになりました?」「三重県です。」

司馬さんが「街道をゆく」を書きはじめたのは昭和46年(1971年)のことだから、30年以上経っている。そのときに「実家」はおじさんからいとこの代になっていたのだから、この方はその次の世代の方か。

天気も悪い。迷惑となってはいけないので、早々に立ち去る。カミノイケの場所は聞き損ねた。

写真の場所へ来たのは、小雨の中で農作業をしていた中年の男性にカミノイケの場所を教えてもらったからである。「お宮さんがあるから、そこから少し道を登れ」ということだった。


ついでなので、この神社(菅原神社というらしい)へ上ってみた。

見下ろすと、まっすぐに下っているのが旧竹内街道。左からトラックが来ているのが、国道166号線。この場所で新旧の道は合流している。

166号線を登る。歩道は溝の上に蓋した鉄板である。車はビュンビュン飛ばして追い越していく。


これがカミノイケ。正しくは竹内上池というようだ。防災用のタメ池らしい。

司馬さんが子供のころ、学校が休みになるたびに大阪から「実家」にやってきて、村の少年たちと遊んだ。子供たちは海を知らなかった。そこで司馬少年との会話がされるのである。

「海ちゅうのは、デライけ?」
「デライ」
「カミの池よりデライけ?」
「向こうが見えん」

この話が記憶に残っていた。カミノイケはいったいどれほどのものであるのか、見たかった。

そう広くない小学校の運動場くらいのものであった。



竹内街道を下る。雨はやんだ。

県道30号線まで下った。ここからさらに下る(東向き)と長尾神社に着く。この道も竹内街道。

司馬さんが、出征が迫っていた昭和18年の秋に、この坂道を登っていたら、坂上から22〜23才の赤いセーターを着た娘が自転車に乗って駆け下ってきたのに出会った。『すれ違いさまにキラッと微笑し、振り返るともう長尾の家並みに消えていた。』というくだりがある。(「竹内街道」の「竹内越え」の章)

葛城乙女は、この坂道を自転車で駆け下ったのですな。

同じ章の中で、『葛城をあおぐ場所は、長尾村の北端であることがのぞましい』と書いておられる。


(上図)このあたりがそうだと思うが、時代が経ち、民家も増えて、ながめは悪くなっている。葛城山は見えるが、二上山は家屋が邪魔して見えない。 写真はその場所から、葛城山の方面を向いて撮ったもの。

長尾神社に着いた。


参詣して帰る。お賽銭は100円。


長尾神社から北を向くと、すぐ近くに近鉄・磐城(いわき)駅がある。


磐城駅のプラットホームから二上山を撮った。冬場のことなので、夕日は二上山にではなく、竹内峠のあたりに沈むらしい。



小雨がふるほどだから、暖かい1日だった。万歩計は24300歩。


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