
榛原町と鳥見山
No.13.....2003年3月30日(日曜)
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奈良県東部の地形...
榛原町の地図...
...てくてくまっぷNo.45

「No.45 鳥見山公園・長谷寺コース」の「てくてくまっぷ」は右のもの。
1月には2度の散策をしたが、2月3月は出歩くことができなかった。仕事が忙しかったこともあるが、土曜・日曜の天気がことごとく曇り・雨で、行きたくても行けなかった。2か月以上(約70日間)にわたって土日が雨というのも珍しい。
お陰でこの70日間は自宅から最も遠方に出たのが300mほど先の散髪屋さんでしかなく、ほぼ冬眠といった状況であった。
今日は天気もよく暖かそうだったので、朝8時ころに「行ってみるか」と決意して出かけた。本当なら前回の竹内街道の続きで、葛城近辺に行くところだが、70日間のブランクは大きい。少しはついてきたかと思っていた脚力も衰えているだろうから、まずは近場で足慣らし。

宇陀郡榛原町(はいばら)は、近鉄大阪線で大阪に向いて、名張→赤目→三本松→室生口大野→榛原と、各駅停車で4つ目の駅である。快速急行だと名張から榛原が次の停車駅になる。名張で特急電車に乗ると榛原駅は通り越してしまう。名張からはまことに近い。乗車時間は15分〜20分である。
榛原駅は何千回と通過しているが、下車するのは2度目である。1度目は、帰宅中に脱線事故があって、夜の10時ころに榛原駅で降ろされてしまい、深夜に家内に車で迎えに来てもらった。日中に榛原駅で下車するのは初めて。

今日の「てくてくまっぷ」のコースは、鳥見山(とみやま)から長谷寺へ向けて、山中をハイキングするようになっている。@鳥見山から、西の金剛・葛城山、南の宇陀・大峰山系、東の曽爾高原(そに)を一望できる。Aコースの最後には長谷寺に詣でる。という2つの狙いがあるようだ。
ただ「まっぷ」をみると、@の鳥見山からAの長谷寺までの山中のハイキングコースが、全行程の2/3ほどを占めており、山歩きがそう好きでない私には、やや荷が重いコースである。
いっそ、@榛原駅→鳥見山→榛原駅と往復し、A電車で榛原駅→長谷寺駅に移動し、B長谷寺詣で、のコースとするかと思ってやってきた。
榛原駅に出ると、写真のような「墨坂神社」の石碑があった。その墨坂に「肇国聖跡」の4文字がある。「はつくにせいせき」と読むのか(「ちょうこくせいせき」と読むらしい)。国を初めてひらいた聖なる遺跡となれば、ちょっと寄り道をせねばなるまい。
駅前の観光案内板(榛原町の地図を参照)を見ると、墨坂神社のほかに分水神社(正しくは水分神社)というのがあり、駅からさほど遠くなさそう。
ここで今日のコースは、この2つの神社を巡り、鳥見山登山をすることに決定。長谷寺は後日訪ねることにした。

まずは分水神社へ向かう。「分水」はどう読むのだろうか。ぶんすい?わけみず?
道は県道198号線らしい。近鉄電車の南側を平行して走っている。NTTの建物があるが、何か汚れている。近づいてみると今は使われていない。桜井のNTTに集約されたようだ。
向こうのビルは榛原町町役場。

県道198号線は川にも沿っている。右手にスーパー「オークワ」があった。その手前に左折する道があり、これは橋になっている。

2本の川がこの橋の下で合流している。左の川は芳野川(ほうの)、右の川は宇陀川(うだ)であるらしい。
川の流れは、左の芳野川・右の宇陀川ともに、手前に流れている。つまり向こうのほうが高く、手前(榛原駅)のほうが低い。
オークワに買い物に来ていたおじいさんに「わけみず神社」はどこですかと尋ねたら、「わかみず神社」は左の橋を渡れということだった。

オークワから芳野川に沿って歩く。(写真は振り返ってオークワを撮ったもの)
右手に見える山は額井岳(ぬかいだけ)で標高816m。この山の名は今日初めて知った。大阪に通勤していた折は、近鉄電車からこの山が目に入ると「やれやれ榛原に着いたか。名張はもうじきだ。」とほっとした。
近鉄電車は、山の近くを走っているので、間近にグイとそびえる一種奇怪な形をした山であると思っていたが、遠望すると写真のように、三尊の形をしていて、なかなか姿がよい。山は遠くから見るのがよい。
「大和富士」とも呼ばれているらしい。

「分水神社」は見当たらなかった。屋外に出ていた地元のおばさんに再び尋ねた。「わかみず神社はどこですか?」に、ハテナ?の顔つき。「分ける水」と書いてあるのやけれど、といえば「ああ、すいぶん神社。それはあの坂道を登りなさい。」
「分水」と思い込んでいたが「水分」であった。それにしても「わかみず」とか「わけみず」とか「すいぶん」とか、いい加減な言葉でも、目的地にたどり着けるものである。
写真の山(左側)は、今日登る鳥見山。右にある双子山は、左が貝ケ平山、右は香酔山というらしい。読み方は知らない。

「宇太水分神社」である。お賽銭を100円。
賽銭箱の脇に、神社のパンフレットが置いてあって、ご自由にお持ち帰り下さい。とあるので頂戴する。

由緒書きによれば、崇神天皇が勅祭したとあるので、随分と古い神社であるらしい。芳野川沿いに上社・中社・下社の3所があり、この宇太水分神社は下社である。まあ水の神さん、ということは農耕の神さんである。
なお神社では「すいぶん神社」ではなく「みくまり神社」と読ませているようだった。水を配る「みずくばり神社」ということだろうか。
芳野川を下って宇陀川に戻る。(芳野川は宇陀川に合流してからは、宇陀川となる)宇陀川の流れと同じ方向に歩く。
土手には早咲きの桜が。天気もよい。暖かい。春ですな。


しばし宇陀川に沿って下ると派手な橋があった。「宮橋」とある。橋向こうには、これまた派手な墨坂神社がある。

まずは手水を使わせてもらう。参詣が少ない神社では、手水舎があっても水がないことが多いが、ここはちゃんとあった。脇に「祓い戸の神」というのも祀ってある。

おおっ、これは丁寧なことに、「手水のつかいかた」の説明が掲げてある。絵の女の子の水玉のワンピース姿がよいですな。昭和30年ころの松島トモ子を思い出させる。

墨坂神社は、国中に疫病がはやったおり、崇神天皇が夢見で「赤い盾8枚と赤い矛8竿をもって墨坂の神を祭れ」とのお告げをえて、神社に祭ったところ悪疫が平癒した。という勅願の神社であるらしい。
先の水分神社も崇神天皇の勅願であるので、この榛原の地は崇神天皇となにかの地縁があったのか。

拝殿から本殿を見る。なんか元気がある神社である。いまも活発に活動している神社。

あった。「ご参拝の作法」が掲げてある。ニ拝ニ拍手一拝とあるので、これを見て同じように礼拝する。お賽銭を100円。

神社がいまなお活動していくためには、利と厄を打ち出さねばならないものらしい。厄払いとご利益である。墨坂神社も厄払いの看板が大きくでていた。効能では「竜王宮」というのが、本殿の左にあって、ここには竜の口から水が流れ落ちている。
この水は「波動水」と呼ばれ、身体・神霊を清める霊水であるそうな。「5万パワー(水道水の100倍)」ともあるが、何が5万パワーなのか、水道水の100倍なのか、さっぱりわからない。
墨坂神社も、1月に訪れた安倍文殊院に似た経営のようである。

さあ去りましょう。と思って鳥居をくぐろうとしたら、鳥居の中に鳥見山が入っている。どうやら鳥居の位置は鳥見山を意識して据えてあるらしい。本殿の正面は鳥見山になるのか。

宮橋を戻る。橋の上でおじいさんが川を熱心に見下ろしている。何事ならんと横に行って川面をみれば、「そこに鯉がぎょうさんいるやろ」。本当だ。12〜13匹の黒い鯉が群れている。その大きさは50cmほど。随分大きい。
おじいさんいわく「この鯉は室生ダムで育ったものが登ってくるのや。
」この宇陀川は向こうに流れていくが、そこにはダムがあって、ここで鯉は悠然と成長するらしい。「この鯉はだれでも獲ってよいのや。夏になると大勢やってきて鯉をとってる。」
この宇陀川を向こうに下れば、室生村になる。女人高野・室生寺があるところである。室生をさらに下れば名張に到る。
宇陀川は名張に入って名張川に合流し、名張川は再び奈良県・月ヶ瀬村を通って木津川になる。木津川はしまいには淀川に合流し、大阪湾に出て行く。
この宇陀川は大阪湾まで繋がっているわけである。

おじいさんは自転車を押して、橋を渡っていった。なんか余韻があった。鯉も生きてる。ワシも生きてる。という感じ。

水分神社・墨坂神社を訪れたら、結構時間がかかって12時近くになった。次の目的地の鳥見山は、近鉄電車の北側にある。一度榛原駅に戻り、昼食をとることにした。写真は駅に通ずる駅前通り商店街。
その中に「ふじた玩具店」がある。2軒並んでいるが片方の店は閉めて、一方だけを開いている。この通りは旧の初瀬街道(はせ)であるのかを、この店の主人(老人)に尋ねたところ、「伊勢街道やったら、この先の道やけど、初瀬街道は知らんなあ。」
「そやそや」といって店の中に入って、観光地図をもってきてくれた。榛原の観光協会が昔作ったパンフレットであった。片面に地図、片面に名所・旧跡の案内が載っている。案内の名所・旧跡は9か所あって、水分神社と墨坂神社、これから訪れる鳥見山公園も載っている。伊勢街道もあった。

私は、ヤマトから濃尾へ行くには、桜井→長谷→榛原→室生→名張と辿るのが本ルートであり、この道が初瀬街道と呼ばれていたと理解していたが、どうも榛原では違うらしい。桜井→長谷までは初瀬街道かも知れないが、榛原あたりでは伊勢街道と呼ばれているらしい。
パンフレットの地図を見ながら旧街道の道筋を教えてもらった。手間を取らせてしまったので、おもちゃやさんだから電池は置いてあるだろうと、電池でも買うことにしたら、ショーケースの下の引き出しから電池のパックを出して、呉れるという。
いやいやそれはあんまりなので、支払おうとしたが「取引先がただで持って来たものや。使えたら使うてや。」恐縮して頂いた。オークワ前の「わかみず神社」のおじいさん、墨坂神社の鯉のおじいさん、おもちゃ屋のおじいさん。いずれもよき人たちである。

駅前の食堂でちゃんぽんを食べて、鳥見山に向かう。写真は近鉄電車のガードをくぐったところ。これが旧伊勢街道。

常夜灯がかろうじて面影を残すだけ。その先に石造りの建物がある。

昔は銀行であったと思われるが、今は空家のようである。その前に石標があって、「右 いせ本かいどう、左 あをこ江みち」と彫ってある。通ってきた道は伊勢本街道で、左(写真では向こうへの道)は「あお越え道」である。
おもちゃ屋さんで貰ったパンフレットによれば、大阪・奈良から伊勢参りする「伊勢街道」は2コースあったらしい。
1つが伊勢本街道で(この地点から)東南方向を向いて、いまの国道369号線沿いにいき、美杉を通り、それから真東を向いて伊勢に到る。

もう1つが(この地点から)東北に向いて、いまの国道165号線沿いにいき、大野、三本松、名張を経て、「あお越え」をし、南東へ向いて伊勢に到る。
あお越えの「あお」とは「阿呆」のようである。そういえば新聞の地方欄で「阿呆中学校でXX」とかの記事を見た覚えがある。アホとよむのだったら生徒もかなわんやろなと思ったので覚えている。行ったこともないが「あお越え」というのであるから高地なんだろう。
写真は「あお越えみち」。信号の向こうはいかにも街道筋らしい趣きがありそう。

石標のある元銀行(?)と道をはさんで古い木造家屋がある。「あぶらや」という屋号の旅籠であった。(今は普通の民家のようだ)。
「まっぷ」によれば本居宣長(もとおり のりなが)が宿泊したとある。一泊しただけで、それが言い伝えられるとは本居宣長もたいしたものだが、逆にそんなことさえ言い伝えられているのは、この宿場にはトピックがよほどなかったのか。
「あぶらや」は、2本の伊勢街道の分岐点にあったということは、伊勢参りが流行った当時では一等地に旅籠を構えていたわけだ。

くだんの石造りの建物が気になっていたので、通りがかった老人に尋ねてみた。やはり昔は銀行であったらしい。何銀行だったのでしょうか?さらに聞いたが「さあ50年も前から空家になってるで。」
50年前に廃業(移転?)とはちょっと昔過ぎる気もするが、「あぶらや」と同様に、元はここが街道筋の一等地だった。たぶん榛原町の発達史としては、次に近鉄電車の駅前が繁華街になり、しかしこれも車社会になって国道沿いでないと商売ができなくなった。という2度3度の変化があったと思われる。

かくしてこの場所は、時代に取り残されてしまい、これを買い取って店を出そうとするものもなく、ひっそりと変化(というのは取り壊ししかないが)を待っているという状態だろう。
銀行の件を尋ねた方は上の写真。どうやら地元のお医者さん
らしく、途中でおばあさんが、挨拶をしてきて、腕(骨折したらしい)の容態を聞きながら、二人連れもって行った。
これもよい景色だった。

伊勢街道から離れて、鳥見山を目指す。正面の山が鳥見山。なんということもない山であるが、「てくてくまっぷ」にも取り上げてあるくらいだから、知られた山であるらしい。
鳥見山の標高は735m。ただし榛原の地自体が標高300mか400mはありそうなので、ここからの高さは300m〜400mといったところだろうか。それほどキツくはなさそう。

道は次第にせまくなる。左の坂道を進む。

とうとう山道に。
杉が植林してある。杉も最近は花粉症で、すっかり悪役となったが、私は大丈夫。

杉木立の間から額井岳(ぬかい)が見える。こういうカットでは、なるほど「大和富士」といってもよい。なんか音楽が聞こえてきそうですな。
ごちゃごちゃした人間社会から隔絶して、屹立している山は一種の神々しさがある。富山の立山とか、山形の月山・羽黒山、あるいは吉野の釈迦ケ岳(と山塊)などは一度は見てみたい。
これらを見たときブルックナーの9番シンフォニーの1楽章が流れてくるだろうか。逆にいえば9番シンフォニーが脳裏に流れてくる山々を見たい。

ラクそうに思っていたが、やはり山道である。はあはあと喘ぎつつ進む。まわりの景色(といっても杉木立ばかりだが)は眼中に入らず、ただただ足下ばかりを見て登る。
30分ほど登って、空が見えるようになる。もうじきだ。

山頂近くは公園になっている。駅から見た鳥見山の頂上近くの一部分は木が伐採されていて、他が緑色の中に茶色のハゲのようなあんばいになっていた。
山火事でもあったのかと尋ねたら、桜の木を植林しているとの答えであった。ここがその場所のようである。
わざわざ桜の木を植えることはなかろうに。全山が緑色で覆われているほうがスッキリしている。

さらに見晴らし台への階段がある。最後のひとふんばり。これを登れば、胸のすくような大眺望ができると「まっぷ」にあるぞ。楽しみだ。
見晴らし台から南方を望む。手前のとんがった山が竜門岳(904m)。その向こうのかすんだ山々は吉野の山であるらしい。稲村岳(1726m)、山上ケ岳(1719m)。
2年前に逝ってしまった家内は吉野の生まれであった。実家は稲村岳のさらに向こうにあるが、いまは老いた母親が一人で住んでいる。むろん私も何度か行ったことはあるが、こうして眺めると吉野は遠い。あんなところで育ったのか。

南西方向を望む。竜門岳の右の山頂がぽこぽことしているのが音羽山。ここは桜井市になる。音羽山の山頂を越えると談山神社があり、山を下れば明日香村に着く。

西方を望む。かすんだ山々は、これまで何度も見てきたおなじみの山。左から金剛山(1112m)・葛城山(959m)・岩橋山(659m)・ニ上山。(ニ上山は手前の黒い山の頂上付近にようやく頭を出している)

見晴らし台から降りてくると、4・5台の車が駐車してある。なんだ車で登れるのか。車に荷物を積んでいる。ボーイスカウトかなにかがテントを張って、バーベキューでもしたとみえる。
向こうに鳥居がある。神社があるらしい。

珍しいことに、山頂付近に池がある。「勾玉池(まがたま)」というらしい。
「まっぷ」によれば、鳥見山公園はつつじの名所であるそうな。勾玉池にはアヤメにハスが、公園の回りにはサクラ・ハギ・カエデが植えてあって、目を楽しませてくれる。とあるが、どれもこれもその時期ではないので、目は楽しめなかった。

勾玉池の南側に小公園風に整地された場所があって、ここに石碑が立っている。「鳥見山中霊畤跡」(とみのやまなかまつりのにわあと)と彫ってある。
神武天皇がこの地に「霊畤(まつりのにわ)」を立てて、皇祖天神祭ったという話が日本書紀にある。と脇の案内板にあった。霊畤(まつりのにわ)とは一体どのようなものなのか。
神武天皇というのだから、たぶんこの碑は昭和になって建てられたものだろう。

展望台がある。台上に3・4人の人がいたので、よほど見晴らしがよいのか。階段を上ってみると、バードウォッチングをしていた。大きな双眼鏡を三脚に固定して南方を覗いている。
バインダーに挟んだ紙には時間帯の罫線が書いてあって、観察できた鳥名と羽数の数字を記入している。こういうことをするのか。
ここは鳥見山。バードウォッチングのよき場所であるらしい。

帰ろう。帰りの道は車が通れる道だから楽勝である。

そのままずんずん進めば、榛原駅に着くはずであったが、さっきのボーイスカウト達の迎えか、ほかの人の迎えか、結構車が登ってくる。脇に避けるのも面倒である。ちょうど「下山口」の道標があったので、ここから山道を通って下ることにした。
しかしこれは間違いの始まりとなった。

道は急であった。しかも暗い。木切れを拾って杖にして、滑らぬように降りるが、じきにつま先が痛くなる。

また道標があった。「春日宮天皇妃陵」とある。春日宮は寡聞にして聞いたことはないから興味はない。
しかし、このような山中に陵があるのかという思いと、この下り道に閉口していたので、気分転換のために行ってみることにした。陵墓を作ったのなら、少しはよい道があるのかも知れないとも期待した。
これは第2の間違いの選択となった。

道はいっそう狭くなった。400mとあったが遠かった。考えてみれば、知名度のない春日宮天皇妃の陵墓を訪ねる物好きはそうはいない。
道が細いのも当然か。

しかし突然に、こんなところに出た。陵へ登る石段が積んである。

とりあえずといった感じで登ってみた。石碑には「光仁天皇御母 贈皇太后吉隠陵」とある。
「贈」とあるからには、死後に皇太后とされたのだろう。家に帰ってから調べたところでは、光仁天皇は弓削の道鏡とのコンビで有名な第48代称徳天皇の次の天皇であり、平安京へ遷都した第50代桓武天皇の父である。
光仁天皇の父は天智天皇の皇子、施基皇子(しき)である。母は橡姫(とち)。この陵墓の主である。とすると施基皇子が春日宮ということになる。
壬申の乱で勝利した第40代天武天皇以来、天武系の天皇が続いたが、49代光仁天皇から天智系が天皇位につくこととなった。
天武系の天皇は、9代のうちで持統・元明・元正・孝謙・称徳の5代が女帝であったが、天智系に転換した光仁天皇以降は男帝が続くことになる。(江戸期に1度女帝が出たらしいが)(「歴代天皇総覧」・笠原英彦著 による)

陵墓からの下り道は、まあラクであった。農道に出ると、眼下に国道165号線がある。ようやく山を降りてきた。

上り切ったところは西峠。おもちゃ屋でもらった案内地図によれば、この近くに「墨坂伝承の地」があるらしい。行ってみたかったが、案内の看板は見当たらず、手がかりがないのであきらめた。
たぶん神武東征にいわれのある地であると思う。榛原町も案内板を設置する余裕がないのか、それは重要ではないとしているのか、とにかく手薄である。今日は何度も道を尋ねた。

近鉄榛原駅に到着。今日の万歩計は29700歩。足慣らしとしては歩き過ぎたが、戸外を歩くのは気持ちがよい。きてよかった。
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執筆:坂本 正治