奥香落・屏風岩

    No.16.....2003年5月24日(土曜)


行く先の目次... 前頁... 次頁... 奈良県東部の地形... 宇陀郡曽爾村... ...てくてくまっぷNo.52


「No.52 奥香落高原・屏風岩公苑コース」の「てくてくまっぷ」は右のもの。

3月末に宇陀郡榛原町(うだぐん・はいばら)を歩き、額井岳の姿のよさに感心。4月に室生(むろう)を訪れ、柱状節理の岩壁に驚き、私の興味の方向が少し変ってきたのではないか。

これまでは、人間や人間がなしとげてきたものこそが面白く、歴史がある土地や建物を訪れることが常だったが、人の手が加えられていない自然の造作そのものを見ることは案外に面白いものだと思えるようになってきた。

室生寺から竜穴神社を回った日に名張に帰ってきて、馴染みの運転手さんのタクシーに乗った。その日見てきた柱状節理の話となった。運転手さんの言うことには、

「それよりももっと大きなもんが、近くにありまっせ。屏風岩は高さ200mの岩壁が2km続いている。近くには兜岳、鎧岳という柱状節理でできた山もある。」 のだそうだ。名張駅前からバスに乗ればその近くまでいけるらしい。




今日はその屏風岩を訪れる。近鉄の「てくてくまっぷ」にもNo.52としてあった。バスは1日に9便ある。一番早いのは、名張駅前発が朝8:00であることもインターネットで調べておいた。

というのは、タクシーの運転手さんが、「先日も屏風岩を訪れた老夫婦を迎えにいったのや。道に迷うて、帰りのバスに間に合わんで、携帯電話でタクシーを呼んだのや。」

道に迷う?バスの時刻に遅れる?。屏風岩近辺は、そんなに山深いところなのか。日が暮れればバスも通らなくなるのか。私は携帯電話が大嫌いだから所持していない。もしそういう事態になれば、帰ってこれぬな。 そういう心配があったので、早く行って、日の高いうちに戻ろうと決めていた。



駅前から自宅の梅が丘行きのバスには、数え切れぬほど乗っているが、実は他の路線のバスには1度として乗ったことがない。

屏風岩があるのは、奈良県宇陀郡曽爾村(そにむら)で、地図によれば名張駅から約10Kmほど南下した位置にある。途中までは名張市で、太良路(たろうじ)あたりから奈良県に入るようだ。

位置関係としては、名張市の南部に、宇陀郡室生村(西側)と曽爾村(東側)がある。

さてバスである。乗車客は私一人だった。長野のバス停で降りるまで、誰も乗ってこず、貸切状態。屏風岩に向かう人は誰もいないということである。道に迷わず戻ってこれるやろうか。


バスは名張川沿いに進む。川向こうの小高い丘(ゆりが丘)の上に市民病院が立っている。

家内は2年ほど前にクモ膜下出血してここへ運ばれ、あっけなく逝ってしまった。

近鉄電車に乗って名張川の鉄橋を渡ると、すぐに車窓から病院が見える。丘の上の四角い建物は大きな墓標に見えて、しばらくの間はこれが目に入るたびに涙が出た。

今では薄情なことだが涙はでない。そんなことを思い出した。



写真のすぐ先で、名張川には青蓮寺川(しょうれんじ)が合流している。 青蓮寺川は南の曽爾村から流れて来ている。バスは青蓮寺川に沿って南下する。

写真は青蓮寺ダム。


10分も経たないうちに、切り立った断崖が現れる。山は直立している。緑の木立が崖を被っているが、その中身は柱状節理なのであろうか。

水量が多いのは、青蓮寺ダムで川を堰き止めているからである。地図でみると青蓮寺ダムはこのあたりのダムでは最も水域が広い。


さらに上流へと遡る。川は緩やかである。この後も青蓮寺川の流れは急になることはあまりなく、山間を流れる川にしてはおとなしい川相であった。

ただし川を挟む山々は岩壁が切り立って、険しい。柱状節理が表面に出ているところには、様々な名前がつけられている。ダムからこのかたでは、屏風岩(目的地のものとは異なる)→鹿落岩→鬼面岩→紅葉谷→香落渓谷(こおちだに)→天狗岩→小太郎岩・・・とある。

どれも同じような様相の岩壁だから、どれがどれだかわからないが、室生で見た柱状節理より高く、大きいことはわかった。

ここまでは道はまだ広かったが、ついに1車線となる。ところどころで対向車とすれ違えるだけの道幅になっているが、この途中で向こうから大型車がくれば悲惨である。

小型の観光バスがやってきた。すれ違えない。こっちのバスがやや道幅の広いところまでバックして、すれ違おうとするが難渋する。こちらはガードレールぎりぎり、相手は山側の岩壁ぎりぎりまで寄せようとするが、なにしろバスは大きい。

たった一人の乗客の私としては運転手さんの目となってガードレールまでの余裕を見ようとしたが、まあ運転手さんもプロです。乗降ドアを開けて、ガードレールとの間合いをとって、切り抜けた。



長野バス停に到着。バス賃は800円。このバスの今回の運行による売上は800円だったわけである。三重交通もなかなか儲からない。

くだんのタクシーの運転手さんの話ぶりからすると、夕方を過ぎればバスが通らなくなるそうなので、一軒の店もないところかと思っていたが、酒屋がある。自販機もある。道も広くなっている。なんだ。せっかくローソンでパックのお茶を買ってきたのに、缶コーヒーも飲めるじゃあないか。

屏風岩に行くには、写真の小型車が走っているあたりを右に折れて西に進む。



農家の庭先に鯉幟り。男の子の孫がいるのですな。

向こうの山が屏風岩だろうか。



そうらしい。手前の山の上部に岩壁が剥き出しになっているのが見える。山並みの左端っこの山は一段奥まっているので、これが室生村と曽爾村の村境にある住塚山(すみづか)1009mであろうか。




道はアスファルトで舗装されている。例によって杉木立がある。

この後道はやや急となるが、喘ぐほどではない。たぶんアスファルトの道は林道であろうから、杉の丸太を積んでトラックが走れるほどの勾配しかないだろう。

そのとおりであった。しかし杉木立のために屏風岩は見えなくなる。



長野バス停から屏風岩までは約4km。しかも道はよい。あと1.5Kmくらいのところで、屏風岩が姿を現わした。

まっぷによれば、国指定の天然記念物で、高さ約200m、長さ約1500mの屏風のごとき岩壁。とある。

写真の右隣の丸い山も同じく柱状節理が露出しており、さらに右(北)に柱状節理を持つ山々が連続し、曽爾村の中では後に訪れる兜岳・鎧岳でクライマックスとなる。

さらに北にいけば、先ほど通ってきた青蓮寺川の香落渓(こおちだに)では、見る山見る山が柱状節理の山相で、宇陀の山々は柱状節理だらけであるらしい。


屏風岩のすぐ下は公園になっている。キャンプもできるそうだ。屏風岩の高さは918m。あとで地図を見たら、この屏風岩のすぐ直下の標高は700〜750mあったので、写真の木立(杉ではない)を含めて200mはある勘定になる。

岩壁が露わになっている部分は100mほどであろうか。しかしあまり近づいて見るものではない。見上げて、首を左右に振っていると肩が凝りそうになる。(写真は4枚撮って、あとで継ぎ合わせた)




柱状節理は材木の角材(しかし幅は1m〜2mある)を立てかけた様子であるが、1本の高さが100mあるのではない。だいたい20mくらいの高さのものが何層か積み重なっている。一時期の火山活動によって噴出された火山灰が20mほど溜まり、これが冷えていく過程で柱状節理ができ、次の火山活動で上層に新たな柱状節理ができ、と何度も火山活動が繰り返されて、かくまで高い柱状節理が出来上がったらしい。






屏風岩を去る。これから行くのは、同じ柱状節理の山である兜岳と鎧岳であるが、山には登らない。(エライから)

屏風岩と兜岳の間には横輪川(よこわ)という細い川があって、これは青蓮寺川に注ぐ。柱状節理に挟まれたこの川筋(の一部分)は済浄坊渓谷(さいじょうぼう)と呼ばれ、なかなか美しい景色であるらしい。この渓流を下って、兜岳と鎧岳を見る予定。

つまり1.5Kmの長さをもつ屏風岩にそって北西方向に進み、渓流まで降りて、川沿いに下って青蓮寺川に出てくる。この途中で兜岳と鎧岳の柱状節理を見るということになる。

道の両側は杉木立。道は平坦。しかしこの杉木立は重い責任を担っている。

東には古光山(こごやま)952mがある。(写真奥の丸いほうの山)この山は曽爾村と宇陀郡御杖村の村境である。

東は住塚山(1009m)で室生村と画し、西は古光山(952m)で御杖村と画し、その中間を流れる青蓮寺川沿いに出来た村落が曽爾村。

まことに集落は川を中心にしてできてきた。川こそが生命線で、各地に水分神社が祀られた事情はよくわかる。

柱状節理というのは、要するに火山が放出した溶岩流や火砕流が冷えて固まる際に収縮した割れ目である。調べたところでは、田んぼのひび割れや、鏡餅のひび割れは、始めは表面だけに浅くひび割れたものが、ドンドン垂直に深まってひびが深化する、それが4角形とか6角形とかの柱状の形を作るらしい。

火山国の日本では、かつて火山活動が活発であった地には、柱状節理が多く見受けられ、特に珍しいものではないようだ。

この曽爾山地・室生山地の柱状節理は、1500万年前の活発な火山活動で噴出された火砕流がゆっくりと固まったときにできたもので、その組成は溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)である。

節理が「ひび割れ」である以上、その岩石はいずれは剥がれ落ちていくことになる。とにかく高ければ200mくらいの高さのところから、ボコンボコンと4角な巨大ブロックが剥がれて落下するのだから大変だ。上図の岩のブロックはいつ落下したものか。まあここ1年2年のことか。

柱状節理のある山の麓は、このブロックの落下が相次ぎ、長い年月(何万年)の間に破砕され、ここに植物が生育できる土壌になったようだが、それでも何年かに1度は新たな剥落がある。

この剥落を山の麓まで落下するのを防ぐのが、おそらくこの杉木立で、事実杉の根元で落下が止まったブロック型の大きな岩がいくつも見受けられる。 1本の杉だけではなんともならないが、こうして何千本かの杉がびっしりと植えられておれば、いかに何トンの落石があろうとも、どこかで落下を食い止めるに違いない。


私は、先ほどの屏風岩を見て、結構心が高揚している。自然はすごいな。

1500万年前のことである。先般日本における稲作の開始は、紀元前1000年前のことであるとの学説が発表されていた。

中国でいえば、だいたい「殷」が終り「周」の時代。いくら中国4000年の歴史といっても、この柱状節理ができた時期とは桁違いである。

人間の歴史なぞ、ちっぽけなものだ。だが人間の歴史は、人の一生が短いだけに、様々なことを考え、行動し、後世に影響を与える。それを原因として新たな活動が生まれる。自然に比べて圧縮された時間のサイクルがあって、密度の高い面白さがある。

屏風岩の北端に来た。写真では手前の山と向こうの山の2つしかないように見えるが、この間にはいくつかの山々が連なっている。

どちらも裾野は緩やかなカーブを描いて高まっていき、一気に垂直に上昇して山頂に達する。向こうの屏風岩の切り上がり方などはその典型で、異形である。

済浄坊渓谷(さいじょうぼう)を目差す。相変わらず道は平坦で山道らしくない。標高750mあたりのところを平行して辿る。

どうしてこのあたりの山道は平坦であるのか。あるいは屏風岩のように、同じ高さの山々が連なっているのか。不思議であった。家に帰って調べたら、奈良教育大学・地質教室のHPでわかった。 宇陀の山々は、
  1. 火山活動による火砕流の堆積したものである。

  2. 火砕流による火山灰は、当初はデコボコはなく、平らかに堆積する。この状態をメサという。

  3. メサはその後の風雨によって次第に削られ、あるいは崩れていき、残った部分が山になる。

  4. 削り取られずに残った山は孤立した山になる。これをビュート(孤立峰)という。

  5. 宇陀の山(室生山地と曽爾山地、あるいは名張南部の山)は、メサからビュートの移り変わりの時期(といっても何万年単位)にある。
ということらしい。つまり平坦な山道は、メサの状態にあるわけで、アップダウンが少ない。

柱状節理が剥げ落ちている。見れば、割れ目に沿って木の根が残っている。初めはまっすぐ下に伸びた根は、水平に入っていた割れ目に沿って横ばい、次に縦の割れ目にそって再びまっすぐに伸びていった。

根が成長して径が太くなっていくにつれ、根はクサビとなって、巨大な柱状節理の一部分を剥落させる。

根が伸びて岩を割った「石割桜」は有名だし、下村湖人の「次郎物語」にもそういう話があったと記憶している。このような細い根であっても、クサビとなれば岩を割る力があるのですな。

道標があった。そのまま進めば室生寺とある。アスファルト道路を外れて、細い下り道を行けば済浄坊渓谷らしい。

山道を下る。このコースで初めての未舗装の道となる。思えば家を出てからはじめて踏む地道である。山に来ているのだから土の上を歩かねば。


高さで100mほど下れば、川に出る。横輪川である。このあたりは景観がよいので済浄坊と呼ばれている。済浄坊という坊さんがいたのか、坊か庵でもあったのか。

川の近くに庵を構えていたのであれば、平安か鎌倉期のことであろうか。江戸期にはもうこの山も入会とかあって勝手に棲むことはできなくなったいただろうし。まあいい加減な推理。

川の両側からカエデが枝を伸ばしている。秋には紅葉するだろうから、さぞかし観光客が集まるに違いない。

こういう滝もある。滝壷は柱状節理の岩壁で囲まれている。たぶん岩壁の高さは100mほど。

なにぶん小さな川であるから水量が少なく、滝の豪快さはないが、脇に屹立する岩壁が景色を引き締めている。


済浄坊渓谷に沿って歩いたのは1Kmほどであった。(そもそも横輪川は2Kmほどの長さしかない細流である。)

再び舗装道路となる。写真は横輪川にかかっている橋の上。左手の山は兜岳の端っこである。

「てくてくまっぷ」によれば、曽爾三山とは、@屏風岩(918m)、A兜岳(917m)、B鎧岳(894m)、であるらしい。南からこの順に北北東に向かって位置している。

横輪川は東を向いて流れていく。私は川の右手の道を歩いている。

左手の山は兜岳。柱状節理の岩壁が横輪川に沿って露出しているが、この山の山頂付近にも大きな岩壁がある。まあ全山が岩壁であるといってよいが、植物の繁茂する力はすごい。多くの岩壁は木々で覆われている。

向こうの山は鎧岳。兜に鎧というわけだが、鎧岳の山相は異様である。トンガリ山といってもほどがある。とがりすぎではないか。

このときから鎧岳は気になってしかたがない存在となった。いつも鎧岳を見、杉木立に隠れればいつ姿を現わすのかと期待し、次に現われれば、前回とは見る方角が異なっていて、新たな山相を見直す、ということを繰り返しつつ山を下る。


兜岳(かぶと)も鎧岳(よろい)もまだ全体の形を見ることはできていないが、兜岳というのは想像がつく。半円状の形であろう。

鎧岳と呼ばれているのは、わかりやすい兜岳があるのでこの対照として鎧岳と名づけたのであろう、と思っていたが、岳の姿が現われるにつれて、なるほど「鎧」であるとわかった。

山頂下の岩壁には、柱状節理の筋がついていて、よく知らないが鎧の(胴丸というのか)胴回りの「小札(こざね)」のようである。

小札というのは4cm×8cmくらいの大きさの鉄板あるいは皮革に漆を塗ったもので、これを糸あるいは革ひもで綴って鎧を作り上げていくらしい。

小札を綴ることを「おどし(縅し)」といい、紐の色によって、緋縅(ひおどし)、小桜縅し、黒革縅しの鎧というらしい。これは司馬さんが「この国のかたち」の中で書かれていた。 柱状節理の割れ目には草木が入り込んでいるから、これを紐とすれば「緑縅の鎧」ということになる。



すでに兜岳、鎧岳よりも東の里に下ってきており、写真は振り返って撮ったものである。写真は兜岳の全容。やはり山頂近くに岩壁が露出しているのだが、多くは南面に露出しており、この東面には、はっきりした岩壁は見えない。

西を向いて、左に兜岳、右に鎧岳が位置する。



済浄坊渓谷と呼ばれた横輪川は里に下ってきて、水の流れもおだやかな並みの川となる。この先20mほどで青蓮寺川に合流する。

向こうの山は兜岳。


バイク集団の後を追って北上する。この道はバス道である。


北上するということは鎧岳に近づくということである。

ここで鎧岳のほぼ全容を知って、その容姿に驚く。この山の斜面の角度はなんであるのか。私はかつてこのように単独の山が屹立しているのを見たことがない。

榛原町の額井岳(ぬかい)はややこれに近いが、これほどの放物線ではない。中学校の数学でいえば、y=-x・x (xの2乗という意味)をグラフにしたような山の形である。あるいは統計で使う正規分布の曲線のようである。

手前の田んぼはすでに田植えが終わって、水が張られている。この近所の農家の人たちは田植をしたとき、この鎧岳を見上げて一服したのだろう。かような場所で米作ができるのは幸せなことである。


「新岳見橋」のバス停にやってきた。(ここから帰りのバスに乗る。)岳を見る「岳」とは鎧岳に相違ない。誰もがこの場所から鎧岳を見れば感嘆する。ここは鎧岳を眺めるのに絶好の場所である、と昔から決まっているらしい。

バスの時刻表を確かめると、2時11分発であった。1日9便のうちの1便である。時刻はまだ1時10分。(午後1時台のバスはなかった)

このとき頭上でガサガサと音がした。見上げると猿が木に登って、なにやらの木の実を採っている。へーっ、猿だ。野生の猿である。写真を撮ったが、3年前に買った普及品のデジカメには無理な注文であった。ズーム機能がついてないからなあ。

というわけで、スクープ写真を撮ることはできず、バスの時刻までの1時間を、向かいにあるドライブインで昼食をとりつつ過ごすことにした。


カツ丼をアテにして、ビールを1本飲む。広い窓越しに鎧岳がよく見える。

このように屹立した山容は、火山灰で埋め尽くされたのが原因である。屏風岩・兜岳・鎧岳の山裾の地質は海底にあったときに出来た砂岩あるいは泥岩で、貝などの化石も含まれているそうだ。

これが隆起して陸地になったあとで、火山活動が活発になり、火山灰が堆積し、溶結凝灰岩となった。(凝結する過程で柱状節理ができた)

砂岩とか泥岩というのは雨で崩れやすいが、いわば焼き固められた溶結凝灰岩は雨風に強く、下層の砂岩とか泥岩が崩れるのを防護する。このために、溶結凝灰岩(柱状節理のある)が厚く堆積した箇所では、急峻な山が残る。ということらしい。

1500万年前の火山活動の噴火口がどこにあったのかは、今ではわからない。しかし溶結凝灰岩が厚く堆積しているところは火口に近いと考えられる。もっとも厚い場所は、この鎧岳あたりであり、その厚さは500mに達するそうだ。(これは全部、奈良教育大学・地質教室(西田史朗教授)のHP(現在は無い)から得た知識)

そうか。1500万年前には、この場所で火山はしきりにマグマや火砕流を噴出していたのですな。その名残りが鎧岳。


バスがやってきた。既に15人ほどのハイカーが乗っていた。往きは一人だったが、帰りは観光バスに乗った気分となる。

皆が鎧岳を見て歓声を上げる。そうでしょう。この山相は尋常ではありません。

なんか身内が誉められたような気がして、喜ぶ。今日の万歩計は21400歩だった。


行く先の目次... 前頁... 次頁... 奈良県東部の地形... 宇陀郡曽爾村...     執筆:坂本 正治