壷阪寺・高取城跡

    No.17.....2003年6月29日(日曜)


行く先の目次... 前頁... 次頁... 奈良盆地の地図... 高取城図面... ...てくてくまっぷNo.5


「No.5 壷阪・高取コース」の「てくてくまっぷ」は右のもの。

奈良県をゆっくりゆっくり歩いている。ここまでは、奈良盆地の東南部の桜井・天理・橿原・明日香を歩き、さらに東へ進んで、長谷・榛原・室生・曽爾(そに)の山間部を巡った。

そろそろ奈良盆地の西南部の葛城へ足を伸ばしてみたい。(葛城の當麻・竹ノ内街道はすでに行った。)その前に抜け落ちているところを訪ねなくては。それは明日香の南にある高取である。

近鉄の路線でいえば、吉野線は橿原神宮駅→岡寺→飛鳥→壷阪山→市尾→葛→吉野口→......→吉野と南下する。これまで飛鳥までは行ったが、壷阪山には行ったことがない。壷阪山・高取山を越えれば向こう側は吉野である。高取は奈良盆地の最南端にある。ここが抜けている。

「てくてくまっぷ」によれば、ここには壷阪寺と日本有数の山城である高取城跡がある。




花壇に3株のラベンダーが植えてある。今年も茎を伸ばして紫色の花をつけた。ラベンダーが花を咲かせる前には、まず茎が50cmほど延び、それから花をつけるが、それは野放図といってよいほどの成長ぶりである。

この野放図に伸びた茎と花をどう処置すればよいのか、昨年は少し悩んだ。結局長い茎ごと切って、やや大きめの花瓶にまとめて入れておいたら、花は枯れてドライフラワー状態になったが、なおラベンダーの匂いがいつまでも漂うのである。

家内がラベンダーの花を集めて匂い袋にしていたから、この処置の方法でも間違っていないように思っているが、本当はどうすればよいのか知らない。


いえることは、朝、窓を開けるとラベンダーの香りが部屋に入ってきて、実によい気分になるのである。その花には朝早く(6時には窓を開ける)から蜂がやってきていて、ブンブン飛び回り、せっせと蜜を集めている(いつも3匹か4匹いる)。初めは蜂に警戒していたが、毎日のことなので馴染んでしまった。

窓を開けて、「今日も仕事に励んでるな」と思うのである。この蜂の名前は何であるのか調べてみると「コマルハナバチ」であるようだ。小さく丸い形状で、花に来る蜂ということであろう。手で掴まぬ限りは人を刺さないともあった。実際のところ、ずんぐり・むっくりとしていて、案外に愛嬌のある姿をしている。働き者のこの蜂にはちょっと親近感を覚えている。






名張から壷阪山駅に来るには2度の乗り換えをせねばならない。名張→大和八木(近鉄大阪線)で乗り換え、八木→橿原神宮駅(橿原線)で乗り換え、橿原神宮→壷阪山(吉野線)となる。

橿原神宮では電車の座席は9割方埋まっていた。多くは老人である。いったいこの多勢はどこにいくのであろうか。次の駅の岡寺では1人が降りた。岡寺には見瀬丸山古墳があるぞ、益田岩船石もあるぞ、猿石も亀石もあるぞ。それがたったの1人の下車である。

次の飛鳥では2人が降りた。あの飛鳥を訪れようという人間がわずか2人である。壷阪山駅で下車したのは、はたして私一人だった。それにしても車内の多勢の乗客はどこに行くのであろうか。

改札口を出ようとしたら、切符がない。あれえどうしたことか。名張から壷阪山駅までの運賃は630円だった。橿原神宮駅で吉野線に乗り換えるまで時間があったので、胸ポケットからタバコを出して一服したが、このときに切符を落としたようだ。

駅員さんにいったら「そのまま出てください」と言われた。やさしいことである。感謝しつつも業務規定では、630円を請求せねばならんのやろうな、と心配する。ともかく壷阪山駅の駅員さんは情け深い。ついでに「壷阪・高取コース」の「てくてくまっぷ」を貰う。



奈良県高市郡(たかいち)は高取町と明日香村の2つで成り立つ。高取町の人口は8000人、明日香村は6000人。

高取町の名所旧跡は、一に壷阪寺、二に高取城であるらしい。壷阪寺は西国三十三観音霊場の1つであり、いまなお参詣者が多い。一方高取城は徳川時代までは日本有数の山城であったが、明治になって打ち捨てられ、今は廃墟になっている。

駅前に、「高取町・観光くすりの町」の看板が出ていた。壷阪寺の名前はなく、高取城の名前もない。これらは「観光」の字に含まれており、「くすりの町」が全面に打ち出されている。高取は薬の町でも あるのか。


「土佐街道かいわい散歩道」の案内板があった。 このあたりは「土佐」というらしい。

地図の下から上に向かって歩けばよいようだ。まっすぐ行けば高取城、途中で右に折れると壷阪寺にいける。(地図は南北が逆に表示されているので、現在地から高取城は南東の方向にあり、壷阪寺は南南東の方向にある)


静かな落ち着いた道に出た。土佐街道である。高取町は観光用に「連子の町(れんじ)」と名付けている。窓格子の連なる町という意味らしい。街道沿いは高取藩の城下町である。

高取藩は2万5000石の小藩であるが、その城は高取山の頂上一帯にある。高取城にいくには、この道をどんどん登って、向こうに見える高取山の頂きに達せねばならない。

高取山は標高583mである。この道はなだらかな上り坂であるが、途中から山道になる。その道中は大変であろう。高取藩士の山頂の城での生活はどのようなものであったのか。




土佐街道は整備されている。 街道を挟む建物にも手を入れてあり、壁が剥落したり、格子窓が壊れている家は見当たらない。

両側には溝があって清流が流れている。道は両端が四角い切り石の石畳となっていて、中央部は茶色のアスファルト舗装がされてある。 高取町はこの整備にずいぶんお金をかけたようだ。

たぶん昔の建物の並びは、坂の下は商家・町家→坂を登るにつれて武家屋敷→さらに登れば身分の高い者の屋敷、という順であったのではなかろうか。



石畳のところどころには、薬効ある草の絵がタイルにして埋め込まれている。いわく、「なんてん」は、せき・すり傷・疲労回復。「センブリ」は、消化不良・脱毛症・水虫。「ゲンノショウコ」はしもやけ・整腸・胃潰瘍、とある。頭髪がうすくなってきている私にとってはセンブリの「脱毛症」がよいですな。







これだけ薬の宣伝をしてあるのだからと思っていたら、やはりあった。漢方の薬屋さん。「壷阪漢方堂」とある。 この建物を見るだけでも、高取は薬を産業にした町であることがわかる。

後で知ったことだが、「たかとりの配置薬」は結構有名らしい。徳川末期ころから、高取の配置薬は普及したようだが、富山の薬売りほどには全国に広まらず、伊勢路あたりに販路を広げていたらしい。


明治政府は徴兵制をとり、明治4年から6年(1873年)にかけて、全国に6鎮台(東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本)を置いた(その後また変るが)。師団の始まりである。

このとき全国に200余りあった城郭は、存続する58城と廃棄する144城に分けられた。奈良には郡山城と高取城があったが、共に廃棄する城となった。(大和郡山市のHPに詳しく書いてあった)

廃棄といっても単に破壊するのではない。城の建築物は入札によって売却されるのである。高取藩に関係した者は建築物に愛着があっただろう。自ら落札したか、あるいは藩主から払い下げられたか、ともかく得た建物を解体して城下に運び組み立てた。

写真は石川医院。現役の医院である。高取藩の御典医の家系であるらしい。この門は高取城にあったいくつかの門のうちのひとつであったようだ。



「助産婦」の看板を掲げている家がある。商売ができているのかどうか。できてないやろな。


街道の左手には武家屋敷が残っている。


さらに坂を登ると、立派な長屋門がある。元は高取藩家老の屋敷であった。今は旧藩主の子孫の植村さんが住んでおられるという。

司馬さんは、「街道をゆく・第7巻」の「大和・壷坂みち」で、今井町→高松塚と南下し、この土佐街道を歩いておられる。その後高取城へ登り、帰りに壷阪寺に寄っている。

あらためて「大和・壷坂みち」の目次を見ると、@今井の環濠集落(これは訪れた)、A高松塚周辺、B植村氏の事、C山坂四十四丁、D城あとの森、の5章になっている。徳川の譜代大名であった植村家について1章を費やし、高取城については2章にわたって述べられている。

壷阪寺のことは、D「城あとの森」の章の最後の1頁に書かれているだけである。植村氏と高取城にはずいぶんな関心を持たれたようだ。



長屋門からバックして、少し坂を下って壷阪寺への道を進む。


壷阪への道は、土佐街道(連子の道)のようにはキレイでない。高取町もここまでは整備する費用がでなかった。


すぐに「お里・沢市の墓」があった。壷坂霊験記の主人公である。浄瑠璃や歌舞伎で有名なようだが、私はそのストーリーは詳しくない。壷阪寺のHP壷阪山南法華寺 1300年の歴史の「壷阪観音霊験記」に詳しい紹介がある。

どうやらこの土佐に住む、お里・沢市の夫婦があり、沢市は疾病して盲目となった。お里は懸命に夫に尽くす一方で、壷阪寺に願をかけて3年間参詣した。沢市は毎日出かけていくお里を怪しみ、問い詰めたところ、これこれこうです。一緒に壷阪寺に参りましょう。

お里は沢市の杖を握って道案内する。壷阪寺にやってきた沢市はお里を疑った自分を責めたのか、お里にこれ以上の迷惑をかけたくないと思ったのか、お里に用事をいって家に戻し、谷へ飛び降りて自殺する。




いやな予感に襲われて急ぎ戻ってきたお里は、沢市が死んでいるのを見つけ、自らも谷に身を投じる。そのとき観音さまが現れて、二人を生き返らせたうえ、沢市の目も開くのである。

このストーリーは明治になって脚本が書かれ、爆発的に流行ったらしい。(すべて上記のHPによる)

広いバス道に出た。壷阪寺へ通じている。多くはバスや車でこの道を行くが、私はこの左側にある小川沿いの地道を歩く。

バス道ができるまでは、この小道が壷阪寺への参詣道だったのであろうか。写真ではそこそこの道幅があり、道は平坦であるが、とんでもないところもある。

道は狭く、急な登り坂がある。シダが繁茂して道が見えないところもある。本当に壷阪寺につけるのだろうか。

丁石がシダの中に立っていた。「二丁」とある。200mほどで壷阪寺だ。

西国三十三観音霊場の第6番札所の壷阪寺である。正式には壷阪山南法華寺。 703年に弁基上人によって開山され、ちょうど今年で開創1300年になるという。

本尊の十一面千手観音は眼病に霊験あらたかであると巷間言われている。

それにしては新しい建物が多い。手前の大きな建物は講堂であろうか。奥の門(仁王門)も新しい。

拝観料は500円。



仁王門をくぐると右手上方に石作りの建物がある。大石堂という。納骨の建物であった。

インドで彫刻し運び組み立てたとある。平成4年に完成。建物の回りには、アジャンタ石窟にあるかのような仏のレリーフがある。(行ったことはないが)

境内。手前は三重塔(重文)、向こうが本堂。本堂には十一面千手観音が本尊として祀られている。坐像である。

本堂前で、十一面千手観音はどのようなものであるのか見ていたら、5〜6人の参詣者がやってきた。車椅子を押している。椅子には30代かと思われる女性が座っている。

「ほら、ここから観音さまが見えるよ」といって、車椅子を固定して、5〜6人は本堂の階段を上った。本堂内には大きな線香立てが据えてある。

本堂に入っていった5〜6人のうちの、女性の祖父母であろうかあるいは両親であるのか、老夫妻が二人して立ちのぼる線香の煙を両手で激しく煽ぎ、本堂の外に座って待っている女性のところまで送ろうとしだしたのである。

女性はにっこりしていたが、目が見えているのかいないのか。老夫妻の心情を思って胸がつまった。

本堂右横には「お里・沢市」の像がある。(写真がぶれているが)


向こうには巨大な石のレリーフがある。寺では「天竺渡来仏伝図」と呼んでいる。1986年にやはりインドで彫刻し据えたものである。全長50m。

釈迦の誕生から、出家、苦行、降魔成道、初転法輪、涅槃へいたる釈迦の生涯を刻んである。

なかなかよかった。インドでインド人の手で彫刻してあるのがよい。各レリーフの下には、図の説明がされているので、無知な私にもわかる。



釈迦誕生の図。説明文によれば、

マーヤー夫人が、ルンビニーの森のアショーカ樹の枝に右手を伸ばしたとき、右腋から王子が誕生し、7歩歩んで「天上天下唯我独尊」と「獅子吼」したという。とある。

石造レリーフの壁は「へ」の字型に折れ曲がっている。レリーフの終いは涅槃の図。

「天竺渡来仏伝図」レリーフから100mくらい離れた小山に、大観音石造と大涅槃石造がある。これもインドで製作されたもの。

壷阪寺とインドのつながりは、1989年に壷阪寺はインドのハンセン病救済事業に参画し、浄財の一部を毎年送り続けて以来のことであるらしい。

観音様と涅槃にある釈迦は西を向いている。

写真右手に茶店があるが、ここに老夫婦が腰掛けてアイスクリームを食べていた。私が通りかかったとき、茶店の若い女性が「今日は明日香がよく見えますよ。」と声かけてきた。「そうやなあ、二上山もくっきり見えるなあ。」

「私たち二上山のふもとから来たんです。」老夫婦が話しに加わり、これをきっかけに会話が始まった。


奥さんのほうはおしゃべりであった。

「私ね、畝傍山の近くの病院に入院していたとき、南の山を見たら、観音さまが見えたのよ。それがこの観音さまだった。」

うーん。それで元気回復となったのか。 写真は、ほぼ真北を向いて畝傍山を撮る。向こうの山々は生駒。

写真は、北西を向いて二上山を撮る。 観音様は西を向いているので、観音様には金剛山が見えているはず。(写真では手前の小山がじゃまして見えてない)




この寺にはラベンダーが多い。大涅槃石像の前はびっしりと繁茂している。(写真手前の紫)

後で知ったが、ここは「匂いの花園」と呼ばれているそうだ。目が不自由な人が、花の香りを楽しめるようになっている。だから香りのよいラベンダーが植えられていたのだった。

よく見れば、我が家にも来ているコマルハナバチが蜜を吸っている。どこに行っても働き者である。ラベンダーはやはり野放図に成長している。


壷阪寺を出て、高取城跡へ向かう。


途中に「目薬の木」があった。脇に看板があって、

  目のつかれに
  御祈祷済目薬
  サワイチ目薬V
  壷坂目薬

  壷阪寺施薬堂

とある。壷阪寺は薬のメーカーでもあるのか。

ははあ、高取のくすりは、まずは目薬を売り物にして配置して回ったのではなかろうか。そのうちに胃薬や頭痛薬を作るようになって、高取が薬の町になった。と考えればおさまりがよい。



高取城跡へ向かう途中、壷阪寺の裏山とでもいえる香高山(こうこうざん)に、五百羅漢の石仏群があるらしい。


岩に50〜60cmの大きさの羅漢像が彫ってある。この岩には4〜50体があるが、山を登れば岩という岩に刻んである。

案内板には、1596〜1614年に本多因幡守が、高取城築城の折に作らせた、とある。

本多因幡守は大和郡山城主で豊臣秀吉の弟の大納言秀長の家臣。当時の秀長は100万石であったが、本多因幡守は1万5千石を与えられ、高取城主となった。

大和郡山城を本城とし、高取城を詰城とするために、この時期に本格的な築城に着手し、天守閣を建て、石塁を築いたようである。


岩に500体刻むというのはどれほどの作業であるのか。執念に畏れ入る。

五百羅漢を見ながら山を登る。道は悪い。羅漢像に気をとられていると、転げ落ちそうな場所がいくつもあった。

梅雨時である。草葉はいやが上にも伸長し、ただでさえ細い道を覆い隠している。道の左右の草木から蜘蛛が糸を張っていて、何度も糸が顔にへばりつく。小枝を持って前で振り回して、蜘蛛の糸を払いながら登る。

尾根にたどり着くと道はなだらかになって一息つく。高取城まであと1kmを切っている。


車道に出た。向こうの案内板に高取城の見取り図が掲げてある。(高取城図面を参照)この山頂に高取城がある。ここから高取城内までは400mほど。車道を辿らず、案内板の左側の山道を登る。

車道はずっと続いているように見えるが、地図を見ると少し先で車道は終わるらしい。たぶん司馬さんたちもこの山道を登られたのではなかろうか。

高取山は標高583m。山頂が本丸で石崖で囲まれている。先の案内板を見ると、本丸の一段低くに二ノ丸があり、さらに下に三ノ丸、さらに下に大手曲輪(くるわ)、さらに下に壷阪口曲輪や吉野口曲輪があって、石垣は4層5層に積み上がっている。

各曲輪には侍屋敷が建てられていて、壷阪口曲輪が破られれば三ノ丸で防ぎ、これが破られれば二ノ丸で防ぐというようになっている。この部分が城内と呼ばれるが、石垣はそれだけではない。城の北には尾根に沿って石垣が延々と伸びている。この方面は麓の土佐から城に通じる山道がある。

攻め手がこの道を登ってきたときのために厳重な構えがしてある。大手門から順に、千早門→宇陀門→松門→矢場門→二ノ門(岡口門?)があって、敵を防ぐ何段もの曲輪となっている。おそらくはこの曲輪に下級武士の侍屋敷があったようだ。

写真は壷阪口門に通じる道だが、壷阪口門よりはるかに低いこの位置でも石垣が築いてある。


壷阪口門跡。土佐街道にある石川医院の門のようなものがあったのだろう。

石垣は曲がりくねる。


三ノ丸跡。


明治6年に廃棄と決まった全国の城は入札などで払い下げられたが、すべての建物が移されたわけではない。石垣を除いて、すべての建造物が解体されるのは、高取城の場合は明治23年からであったらしい。

解体前の写真が掲げてあった。上の写真と同じ位置の「在りし日の高取城」である。左向こうには天守閣が見える。


定かではないが、三ノ丸を抜け、大手門跡を通り、十三間多聞を過ぎると広い場所に出た。たぶんここが二ノ丸跡であろう。

正面に石垣があるが、新しい。司馬さんが訪ねた折、ブルドーザーが一台動き回っており、5〜6人が石垣の補修をしていたことを記述されていたが、これがその石垣だろう。




初めはこれが本丸の石垣かと思ったが、補修した石垣の左手を進むとさらに高い位置に石垣があった。 手前に杉の巨木が立っている。それが本丸であった。

左手から本丸に登ることができる 。



本丸跡には何の建物もない。思ったよりも広い。

上の写真では石垣の幅は短くみえたが、これは天守閣の幅であった。天守閣は本丸の北西隅に少しせり出している。せり出した部分が上の石垣で、本丸全体の広さは天守閣の5〜6倍の広さがある。

南西隅には小天守閣もあったらしい。


木陰で横笛を吹く人があった。本丸に登るときから笛の音はずっと聞こえていたが、発信源はこの人であった。

「この城跡には笛の音がよく似合いますね。」と声かけたらうち解けて、笛の音符や半音の出し方の説明をしてくれた。フルートみたいですねといえば、「いやフルートよりも難しいと思います。」の返事。

なにか一曲吹いてあげましょう。リクエストはありますか。と言われても当方はこの方面には暗い。NHKの大河ドラマの「樅の木は残った」で使われた「京の夜」を吹きます。といって約3分間の演奏となった。

ありがとうございました。写真右の石垣は天守閣のもの。


本丸の南側は急な崖になっている。写真の石垣の下は深い谷である。

司馬さんは「植村氏の事」という1章を割いて、なぜ植村氏は譜代であったにもかかわらず2万5000石しか与えられなかったのか。なぜ時代遅れの山城の城主とされたのか。など詳しく書いておられる。

江戸期には大和の国には大和郡山城と高取城の2つしかなかった。その1つを与えたのだから、幕府の植村家に対する信頼は厚かった。

ともかく将軍家光のとき(1640年)に植村家政は大名に取り立てられ、高取藩主として赴任するのである。以来植村家は明治維新まで14代228年間にわたって、この高取城を維持していくことになる。



城内を出て、岡口門を目差す。この門は麓の土佐から登ってくる敵を防ぐものである。山の上の武士たちは、生活物資を城下町の土佐で購入し、山頂まで運んだ。その道である。

先にもいったが、ここは何重にも門があって、尾根に沿って何段にも石垣が築いてある。平らな部分に侍屋敷があって、その下は石垣で固め、また平坦地を作っては侍屋敷を建て、そのまた下に高い石垣を築く。という繰り返しがされているのである。


道は平坦ではない、敷石もしていない。まったくの山道である。歩きやすかったのは三ノ丸を出て50mほどだけであった。あとは急な下り坂が続く。

「まっぷ」を見ると、城内から二ノ門(岡田口)までの距離は600mほどである。平坦地なら歩いて10分ほどで着ける距離である。だが急坂である上に、道はデコボコで石がゴロゴロしている。下るのに難渋する。

道には割れた瓦が散らばっている。茶碗や皿の欠片も混じっている。明治の解体時に運び降ろそうとして散らばったものであろうか。この先の道にもずっと瓦片はあった。


ようやく二ノ門跡まで降る。ここまでが高取城の郭内である。とはいっても石垣がなくなったわけではない。郭内にある侍屋敷がなくなっただけである。

郭外であっても要所には石垣を築き、敵が寄せにくくしてある。

ここまでの下り道で、すでにかなり閉口している。下り坂の600mは結構つらいのである。心臓は苦しくはないが、足にくる。腰にくる。

「まっぷ」で確認したら、山道はあと1kmほどあり、駅まではさらに舗装された道が2kmほどある。辛いなあ。

司馬さんは、高取城の後で壷阪寺に行っているから、たぶん壷阪口下の案内板のところから車で下られたようだ。それはラクであったろう。


「一升坂」と名付けられた坂道があった。案内板に、

高取城の改修の際には、石垣用材は平地より運搬されていたが、この坂は急なために人夫の息が上がり、苦しさに耐えかねて休止しようとした。そこで藩は励みのために賃金に酒一升を加えて励ました。とある。

荷物を持たずに下っている私でさえ難儀している。重い石や瓦や土砂を運び上げることは、それはキツイにきまっている。

これほどまでして高取藩は城を拡張し維持したのである。220年間守り続けた城はあっけなく廃城となった。それにしても明治23年の解体から今年まで、わずかに110年である。たったの100年ほどで高取城は完全なる廃墟となった。


「七曲がり」と名付けられた坂もあった。司馬さんは『搦め手(からめて)口へ達するみちは森林のなかを迷路のようにひきまわしてあって、よほど案内を知った者でないと、二日も三日も迷い歩くといわれていた。』と書かれている。まことにそうである。

城へ登る山道の要所要所にびっしりと竹の皮を敷き詰めて、登ってくる敵兵が足をすべらせて、谷底へ転げ落とそうとする防御法もあった。とも書いてある。

案内板には、竹の皮を敷いたの説明はなく、「七曲がり」では、両脇に生えている木や竹を切り倒して道を防ぎ、敵の攻撃を防いだ。とあった。


ようやく1kmの坂道を下った。道は歩きやすくなる。

ここが一ノ門(黒門)跡である。高取城の守備範囲はここまで延びていた。

舗装道路となる。有り難い。

道から下を見れば、石造りの公園があって、子供が縄跳びをしている。「水と緑の砂防モデル施設公園」というらしい。

振り返れば高取山が見える。(NTTの通信鉄塔のある左の山がそれだと思う)今日はくたびれた。特に最後の下り坂にマイッタ。


徳川幕府が安泰になってから、高取藩の上級武士は山城を出て、城下町に屋敷を構えた。藩主もこの近所(上子島)に下屋敷を構えたり、最初に見た長屋門のある家老屋敷の近くに屋敷をもったという。

それはそうだろう。山道の往復は辛すぎる。が、下級武士はなお山城の侍屋敷に住み、城を維持管理したらしい。

司馬さんは『山中で、侍どもが山賊かキコリのように暮らしていたかと思うと、同じ封建時代の武士でも高取藩の藩士ばかりは山住いのつらさがあったであろう。』と書いておられる。

今日の万歩計は23300歩であった。


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