伊賀上野城下町

    No.18.....2003年7月26日(土曜)


行く先の目次... 前頁... 次頁... 三重県伊賀地方の地図... 上野市の地図... ...てくてくまっぷNo.89


「No.89 伊賀上野城下町周遊コース」の「てくてくまっぷ」は右のもの。

先月は壷阪・高取を歩いた。司馬さんの「街道をゆく・第7巻」に「大和・壷坂みち」の章があって、散策の前にこの章を読み返したが、その前章は「甲賀と伊賀のみち」だった。司馬さんは伊賀上野を訪ねておられる。伊賀に住む私としては、ここは訪れておかねば。

三重県は@伊勢国、A伊賀国、B志摩国の3か国よりなるが、圧倒的に伊勢国が大きく、伊賀国はその1/5くらいの面積だろうか。(志摩国となると伊賀国よりもさらに小さい)

伊賀国が小さいながらも一国となっているのは、四方を山で囲まれ、西の大和国(一部は山城国)、東の伊勢国、北の近江国、南の宇陀山系(大和国である)から隔絶した盆地であるためだろう。(伊賀地方の地図を参照)

現在の地名では、伊賀国は、@上野市、A名張市、B名賀郡、C阿山郡の4市郡からなっているようだが、国の中心は上野市である。ここに伊賀国分寺跡もあれば、伊賀国一ノ宮もある。



うかつなことに、つい最近まで「伊賀上野市」であると思い込んでいたが、「上野市」が正しい名称であり、東京の台東区上野は伊賀上野の「上野」がそもそもの始まりである、と上野市生まれの近所の人がいっていた。これは失礼しました。

上野市は名張市のすぐ北に隣接している。行政上では、名張は上野の出先機関の位置づけで、税務署も裁判所も保健所も全部上野市にある。

名張市は近鉄大阪線が通っているために、大阪への通勤圏となって、人口は85,000人へと急増した。一方上野市は大阪線から支線に乗り換えねばならず交通の便はよくない。上野市の人口は62,000人とこの10年はほとんど増加していない。ということは城下町の風情がなお残っている町である。



上野へ行くには、名張から名古屋へ向かって3つ目の伊賀神戸(いがかんべ)駅で、近鉄伊賀線に乗り換える。

伊賀線は単線である。車両は2両編成で、運転手さんだけが乗務する。車掌さんはいない。

伊賀神戸駅から上野市駅までは10駅あるが、無人駅も多い。無人駅ではワンマンバスのように車内で両替をし、料金を支払うようになっている。

名張駅から伊賀神戸駅までは8.3Km。伊賀神戸駅から上野市駅までは12.7Km。運賃は420円。



上野市駅に到着。「てくてくまっぷ」を貰おうと駅員さんにお願いしたら、まっぷは切れていた。替わりに「伊賀上野・散策絵地図」を頂戴した。まっぷの4倍の大きさがあり、カラー印刷である。どういう名所や旅館・店舗があるのかはよくわかるが、「まっぷ」ほど細かくはない。

(まっぷには、道にミラーがあるとか、坂が急であるとか、桜がきれいだとかの書き込みがあって、ほぼ迷わずに道を辿ることができる。)

絵地図によれば、近鉄の線路は東西に伸びて、上野市街を南北に切断している。北側が上野城を中心とする昔の丸ノ内で、南側が町人・商人町である。 まずは北側の武家の町を、ついで南側の町人の町を歩くことに。


線路の北側にある道は広い。国道163号線である。163号線は西は木津川に沿って走っており、京都・奈良と上野を結ぶメインの道である。東は山越えをして津市につながっている。昔の「伊賀街道」である。

上野市の中心部では特に「大名大路」と呼ばれている。この道の北に上級武士の屋敷が並んでいたからだそうだ。さらに北には上野城がある。

当然のことながら、今の大名大路には武家屋敷はなく、跡地は学校になっている。東から、西小学校・上野高校・崇広中学校である。いずれも公立の学校。

写真は西小学校。夏休みであるが、サッカーの試合があると見えて、何組ものちびっ子チームがグラウンドで練習している。向こうのスタンドでは父兄が声援。さらに向こうの校舎を見ると、なんと木造2階建ての瓦葺である。


西小学校を西へ過ぎると、 大きな城門がある。白鳳門という。最近作ったもののようであった。おそらくは大手門であるようだ。(この門をくぐって坂道を登れば、上野城に通じているということが後でわかった。)


白鳳門の左の並びには上野高校がある。この校舎も木造である。左側に普通のコンクリート作りの校舎があるから、この木造校舎は教室としては使われていないようだが、戦前の建物の風情がある。

案内板があって、「旧三重県第三中学校」とある。1900年(明治33年)に四日市に二中、上野に三中、宇治山田に四中が建てられたが、他の2校は戦災や火災で焼失し、現存するのはこの校舎だけである。とあった。明治の建築だったのですな。


上野高校を西へ過ぎると長屋門がある。崇広堂(すうこうどう)といって伊勢・津藩の支校であったようだ。見学料は200円。入ってみる。

パンフレットによれば、1821年に津藩の第10代藩主・藤堂高兌が創設したとある。

私はよくわかっていないのだが、藤堂高虎以来、津藩は伊勢および伊賀(大和・山城の一部もそうだったらしい)を領地とした。32万石であった。

司馬さんの本によれば、1か国を領土とする大名は「国持ち大名」と呼ばれ、大藩・大大名であったらしい。

藤堂藩は1か国どころか2か国を支配していたので、伊勢には津城を建て、伊賀には上野城を建てて支城とし、藩校においても津に有造館を、上野に支校として崇広堂を建てるという二重の費用をかけなければならなかったようである。


崇広堂は藩校であるから、学問を学ぶ講堂のほかに、武道場も併設されており、馬術・槍術・柔術などの各流儀・各流派を教えたらしい。

図の模型のような配置だった。敷地2600坪のうち、手前の1/3が学問のための文場、奥の2/3の敷地が武場である。

しかし創建後33年して起きた大地震によって、講堂を除く多くの建物は崩壊したが、その後復興したと説明がある。

復興したのは1854年以降ということになるが、それは明治維新まであと13年という時期。明治になって藩校は廃止されるから、崇広堂は約50年ほどの命脈であった。


ただし、200余りあった藩の藩校の建物が残っているのは珍しいそうで、今は国の史跡に指定されているらしい。(震災復興の努力が報われた。)

写真は玄関と講堂。白壁で区切られているのは講堂の周りが庭になっているため。


講堂は7間四面とあるので、49坪・98畳の大建築物である。この講堂で一斉教授をした。教員は10名、学生は300名。作詩・作文・医学・算術などの教育がなされた。と説明板にあった。

見学者は私だけであった。掃除をしていた係りの人に、ご自由に歩いてご見学ください。と声をかけてもらったので、気随に歩き回ったが、この講堂は品があって非常に気分のよい建物であることがわかった。

学問はこのような凛とした場所で学ばねばならない。(いまの小学校・中学校の教室は汚すぎる)


講堂のぐるりは板敷きの廊下で囲まれており、東面と南面から庭が見える。西面にも中庭があって、三方から明かりが採れる上、風が講堂の畳の上を通り過ぎていくのである。座っていれば実に気持ちがよい。

感心して出た。よい建物ですなあ。といったら受付の人が喜ぶ。




崇広堂の西隣りには市立の崇広中学がある。旧崇広堂の武場があった場所である。中学校は「崇広」の名前を貰ったのですな。重い校名である。


大名大路をさらに西向きにあるくと、下り坂となった。(国道163号線は途中で北に折れていたので、この道は163号線ではない。) 坂の下に林がある。



「鍵屋ノ辻」の石碑があった。この場所で渡辺数馬と荒木又衛門が河合又五郎を討ち果たした。「伊賀越仇討ち」として歌舞伎・浄瑠璃で演じられるほど有名である。と案内板にある。

三大仇討ちのひとつである、ともある。まあ知らないわけではないが、興味はあまりない。

これまたうかつな話しながら、「鍵屋ノ辻」の石碑を見ていて、「辻」という字は「十」に「しんにょう」がついたものだから、十字路の交差点であることに気がついた。道路は交差して「十字型」でなければならず、「T字型」や「Y字型」のものは辻とはならない。こんなことを知らずに50何年過ごしてきた。馬鹿ですな。

奈良から上野に入ってくる河合又五郎一行を、渡辺数馬と荒木らは奥に見える茶店で待った。その茶店に入ってみる。





茶店は「数馬茶屋」という。わらび餅を頼んだら、「お茶はどうですか」と聞かれる。抹茶を頼んで630円。

「きな粉は体にいいので、全部食べられるようにスプーンもつけたから。」おばちゃんが言う。あんまり好きじゃあないんやけどな。

4切れあったわらび餅を3つ食べたとき、ああそうそう写真をとろうと思ってカメラを向けたら、お盆を換えるという。ちょっと小奇麗な朱盆に取り換えられて、写真を撮った。

「鍵屋ノ辻」から引き返して、北へ折れ曲がっている163号線に沿って歩く。 少しして広い163号線から離れて脇道へそれる。緩やかな下り坂となる。

右手には上野城がある。上野城の西側を歩いている。

明治の建築物があった。「旧小田小学校本館」で、今は資料館になっている。見学料は100円。ここでも私一人が見学者であるので、受付の男性(老人)が説明をして下さる。

パンフレットによれば明治14年に建てられたもので、現存する小学校校舎としては三重県で最古のものであるらしい。

木造洋風2階建ての寄棟造りの桟瓦葺き。ポーチは切妻造りで、壁は漆喰仕上げ。屋上に太鼓楼という小さな塔がついている。

明治の教育にかけた意気込みが伝わってくる。2階は初等教育の資料室になっているので、見て回ったが存外に面白い。古い教科書が展示してある。初等教育の制度の歴史の説明もある。

明治5年にフランスの教育制度を手本にした学制を発布したが、明治12年にアメリカの制度に変え、翌13年にまたもとに戻した。この明治13年の改正教育令で、初等教育の内容が決まったらしい。すなわち@就学年齢、A学区、B教科目、C教育課程などである。

これを受けて、明治14年には各地で小学校舎が新築されたようだ。全国に残るこの時期の小学校校舎14校の写真が地図とともに展示してあった。ざっと見ただけだが、14校のうちわけは、山梨県が5校、長野県が2校、滋賀県が2校で、あとは5県に1校ずつだった。どれも明治14年の建築である。明治13年の改正教育令は小学教育のエポックとなったようだ。

国語の教科書の内容が面白い。明治19年〜36年までは、「ハナ・トリ・キリ・カンナ」であり、明治37年〜42年は、「イ(イスのイ)・エ(エダのエ)」であり、明治43年〜大正6年は、「ハタ・タコ・コマ」のシリトリである。

大正7年〜昭和7年は「ハナ・ハト・マメ・マス」。昭和8年〜15年は「サイタ サイタ サクラガ サイタ、ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」。昭和16年〜20年は「アカイ アカイ アサヒ」である。

戦後の昭和21年〜23年は「おはな を かざる」であり、昭和24年からは「ひろこさん はい」であるらしい。私は「ひろこさん はい」を習ったのだろうか。記憶はない。


旧小田小学校本館の裏は保育所になっている。この敷地はもとは小田小学校の第二校舎があったところ。

なお小田小学校は廃校になった後、ここへ通っていた生徒らは、この散策の起点となった西小学校に通うことになったらしい。

東へ向いて登る。登れば上野城域である。

内堀へ出た。石垣は日本でも有数の高さであるらしい。「高石垣」と呼ばれている。

伊賀は、鎌倉期までは東大寺の荘園であり(東大寺二月堂のお水取りで使う巨大松明は、いまでも名張から運んでいる)、戦国期に入っても有力な戦国大名は出なかった。藤林・百地・服部などの小勢力が割拠していた。

そこへ織田信長の命によって伊勢の織田信雄(のぶかつ)が伊賀へ侵攻してくるのであるが、伊賀勢は連携し、いったんはこれを打ち破る。(第一次の天正伊賀の乱)

しかし2年後の1581年、信長は丹羽長秀・滝川一益・蒲生氏郷らに命じて、4万(3万ともいう)の大軍を伊賀に送り込み、伊賀勢(9000人)は壊滅する。虐殺であったらしい。

上野城は、天正伊賀の乱が終わった1581年に、大和郡山から移った筒井定次が、この地に縄張りし、三層の天守を備えた城を構えたのが始まりである。(その前に何人かが伊賀に送り込まれているが)


筒井氏はその後改易となり、1608年に伊予から伊勢・伊賀の領主として移封された藤堂高虎によって築き上げられたのが、この石垣である。

これは裏門(搦め手)への道か。

1600年の関が原で勝利した徳川家康は江戸に幕府を開くが、大阪城にはなお豊臣秀頼がいる。これを滅ぼすために大阪冬の陣・夏の陣の2度の戦闘を必要としたが、藤堂高虎が伊賀に築城を命じられたのは、大阪城攻略の準備の一環としてである。




司馬さんは「甲賀と伊賀のみち」の中で、上野城を訪れ、その築城の顛末について書いておられる。

つまり、大阪城攻撃が万が一失敗したときは、嫡子の秀忠は近江彦根城へ後退させ、家康はこの上野城に退いて、攻撃再開の準備をするつもりだった。そのために伊賀のような小国には大きすぎる城を造らせた。

藤堂高虎は五層の天守閣を建てたが、落成と同時にこの天守閣は取り壊された。『伊賀は小国ながら京・大阪の裏にあたり、天下攻略にとっては大切な国である。そういうところに大きな天守閣をもつ城をつくるというのは、高虎どのになにか思惑があるのでないか』というようなうわさが出て、保守感覚の異常に鋭敏な高虎は、いそぎこわしたのではないか。

といったようなことを書いておられる。ただ城の前の案内板には「竣工直前に暴風雨のために天守閣は倒壊した。そのうち大阪夏の陣で豊臣家は滅亡し、天守閣を建てる必要はなくなった。」と書いてあった。どちらが真実か。高虎が造ったものを自ら命じて壊させた、というのは面白いが、暴風雨のために倒壊したというほうでしょう。

今の天守閣は昭和12年に建てられたものである。三層であるから高虎が作ったものとは異なる。ただ、立て直された各地の城の多くはコンクリート造りであるが、この城は木造であるところが上野の自慢であるらしい。



司馬さんは、伊賀については、上野城に2頁ほど費やしただけで、あとは御斎峠(おとぎとうげ)についてばかりを書かれている。残念ながら御斎峠は遠い。訪ねるほどの時間はない。

本丸から西北を望む。向こうの山並みのうち、中央の最も高い山の左側(写真で1.5cmほど)の少し窪んだところが、御斎峠ではなかろうか。わずかに道が見えている。ここを越えると甲賀である。




城内(二の丸跡)に松尾芭蕉を顕彰する俳聖殿が建てられている。上野は芭蕉が生まれた土地である。

この建物は芭蕉の生誕300年を記念して1942年(昭和17年)に建てられたもので、古いものではないが(それでも私が生まれる前のこと)、形はユニークである。

案内板によれば、芭蕉の旅姿を表現したものである。すなわち、最上層の屋根は芭蕉の旅笠であり、下部の丸い堂は顔。その下の八角形の屋根は蓑と衣を表し、最下層の八角堂は脚部であり。堂の周りの柱は杖と足を表すのだそうだ。

異形のモニュメントであるが、眺めていればこの建物は芭蕉をよく象徴しているという感じも湧いてくる。ただし私は芭蕉は(というより俳句が)苦手である。




俳聖殿の東隣の一角には、忍者屋敷がある。伊賀といえば、司馬さんの「梟の城」であり、漫画では「伊賀の影丸」であり、(女性向けコミックでは「伊賀のカバ丸」というのもあった)、やや古い講談本では「猿飛佐助」である。

忍者屋敷は大人気である。子供たちがワイワイ言って騒いでいる。入場料は700円。私は入らない。


昔の観光地の土産物屋では、木刀とかおもちゃの刀は定番であったが、最近はほとんど見受けなくなっている。第一チャンパラというのがはやらない。

しかしこの土産物屋にはあった。珍しい。子供たちも忍者ショーを見た直後であるせいか、買いたそうではある。


城を出る。道は城の東側を南に向いている。下れば散策を始めた国道163号線(大名大路)にでる。ちょうど上野城の周りを一周したことになる。


大名大路に出て、左(東)へ折れて、少し行くと芭蕉の生家があった。

芭蕉の生家は長く不明であったようだ。以前テレビを見ていたら、柘植(つげ)が生誕の地であるようなことを言っていたが、今では綿密な考証の結果、柘植は父の出身地であり、この家が芭蕉の生家であると決まっている。

見学料は300円。パンフレットによれば、1644年、松尾与左衛門の次男としてこの地(赤坂町)で出生(ほかに一姉三妹)。13歳のとき父が亡くなり、19歳のとき藤堂良精(よしきよ)につかえる。

実際は良精の子の良忠(俳号は蝉吟(せんぎん)・芭蕉より2歳年上)につかえ、共に京都の北村季吟(きぎん)に俳諧を学んだが、23歳のとき良忠が没したために、芭蕉も藤堂家への武家奉公を辞めざるをえなくなる。


23歳から29歳まではどのような生活をしていたのであろうか。ともかくも、いくつかの句集に伊賀上野松尾宗房の句が入集されていき、松尾宗房の名は世に出ていったらしい。(当時の芭蕉は宗房(そうぼう)といった。)

生家の奥には「釣月軒(ちょうげつけん)」という小さな庵がある。

松尾宗房は29歳で初めて30番の発句を撰し、「貝おほひ」としてまとめる。写真の釣月軒で想を練ったのである。


釣月軒は狭い。間口2間・奥行き半間ほどの土間(たたきというのか)が手前にあって、座敷は6畳一間である。 この場で芭蕉は20代の日々を過ごした。

芭蕉は、「貝おほひ」を上野天満宮に奉納し、29歳にして江戸に出立する。


芭蕉の生家からほど近いところに、愛染院がある。真言宗豊山派とあった。ここは松尾家の菩提寺である。芭蕉の父も母もここに葬られている。

芭蕉は江戸に出てからは、松尾宗房から「桃青」(とうせい)に名を改め、34歳にして宗匠(俳句の師匠)となる。

37歳で江戸深川の庵に移る。ここは芭蕉の葉が茂っていたことから、39歳ころより「芭蕉」の俳号を使うようになる。

芭蕉は江戸に出た後も、なんどか上野に戻っている。帰省した折は先の釣月軒で起居したらしい。 40歳のとき母が亡くなり、翌年帰郷している。この愛染院に墓参したはず。



「野ざらし紀行」は芭蕉42歳のときの作品であるが、これは伊賀から奈良・京都・大津・名古屋・木曽路を経て江戸に帰る折に作った句集である。奈良・京に行く際には当然に鍵屋ノ辻を通ったに違いない。

46歳には奥州への旅に出かけ、「奥の細道」の句想を練る。このときも伊賀に滞在している。

51歳で「奥の細道」の清書本が完成し、伊賀に帰郷している。境内には、このとき松尾家の一同(6人兄弟である)と愛染院に墓参し、読んだ句碑がある。



家はみな 杖に白髪の 墓参り


兄弟はみな年老いた。手には杖をつき、頭髪は白髪となったことよ。それだけ父母が亡くなったのは遠い昔である。



愛染院には芭蕉の「故郷塚」がある。芭蕉は51歳のとき、伊賀から奈良を経て大阪に行きここで客死した。遺言によって近江の膳所の義仲寺に葬られた。(芭蕉はここに草庵を持っていた。)

芭蕉の死の知らせを受けた伊賀の門人の服部土芳(はっとり・どほう)らは義仲寺に駆けつけて芭蕉の遺髪を持ち帰り、愛染院の藪陰に埋めて小さな塚を作った。それが写真の塚である。

小さい石標には「芭蕉翁桃青法師」 と刻んである。

愛染院を少し南下して、西へ折れ曲がると近鉄の広小路駅がある。線路を渡れば、向こうに上野天満宮がある。

天満宮の手前に「でんがく大和屋」という食堂があった。鍵屋ノ辻の数馬茶屋のおばさんが、上野でおいしいもんは多いけれど、とうふの田楽は名物だと言っていた。

午後1時半である。昼飯を食うことにした。

でんがく定食を注文した。その前にビールを1本。写真のようなものである。@ご飯、A山芋のとろろ、Bとろろ昆布の味噌汁、Cさんど豆のおひたし、D香の物、E豆腐のでんがく、である。

豆腐は1cm角の長さ5cmくらいを1単位として、これに串が刺されてある。5単位ごとに焼き、でんがく味噌を塗ってある。食べるときは1単位ごとに分けて食べてもよいし、面倒であれば2単位・3単位の串をまとめて一気に食べることもできる。

とろろ飯は美味かったが、でんがくは塩辛かった。でんがく定食は1250円。

上野天満宮である。菅原神社ともいう。

神社は瓦葺である。塀にも瓦が載っていて寺院風である。塀には高さ70cm×幅40cmくらいの和紙を貼った行灯状のものが、ずらりと並べられている。

近づいてみれば、「奉燈」と書いてある。夏祭りの献燈なのか。ひとつひとつの献燈の中には電球が入っており、夕刻になれば灯がともるようになっている。


その献燈だが、写真のごときである。上部に「奉燈」の文字と天神さんの梅の紋。下部には協賛者の名前。写真では「御菓子司 田山屋」とある。肝心なのは中央の絵と添え書きしてある「句」である。 「御菓子司 田山屋」のものは(やや読みにくいが)、

  手のひらに のせて涼しや 初真瓜

とあって、ざるにいれたとうもろこし・茄子・瓜と、竹ざるの外にかぼちゃが描かれている。俳画というやつですな。

はじめはずらりと並んだ献燈のかたまりしか目につかなかったが、1つ1つの献燈の絵と句はすべて違ったものであることがわかってから、少していねいに句を読んでみた。 先にもいったが私は俳句は苦手である。苦手な理由はたぶん、@言葉を知らない、A知っていても言葉が表すものを厳密に把握していない、Bそれは物を知らぬことが原因である。ということだろう。


それでもゆっくりと読んでいれば、なるほどいいなあと感じる句もあったので、以下に掲げる。もっとも献燈したスポンサーが作句したものとは限らない。

  手花火の子や 湯あがりの髪ぬれて

今日は花火をするから、早くお風呂に入っておいで。と親にいわれて風呂に入ったが、こどもは待ち遠しくてしょうがない。ザブンと湯船に浸かって、急いで出てきた。

体や髪を拭くのはいいかげんである。親はしょうがない子ね。と思いつつも、その気持ちはよくわかる。火に気をつけなさいよ。といって花火を許した。そういう情景であろうか。奉燈者は、「左官用品 上田建材店」とあった。



  母の肩 小さく揺れて 日傘行く

ややレトロな趣きである。子供が母の外出を見送っている。暑い日ざしの中、母親はどこへ行くのであろうか。後姿の肩がゆれている。

ここで母の行く先をあれこれ思えば、この句の印象はずいぶん変ってくる。母が買い物とか所要で出かけるのであれば、これは普通である。

「肩が揺れる」を重視すれば、母の不安な心境が肩に出ているのかも知れない。 不安はなんであるのか。子供の学期末の成績を聞きに学校にいくのかも知れないし、母の身内が入院して見舞いに行くのかもしれない。

逆に久しぶりの同窓会に行くために、少し気分が高揚しているのかも知れないし、ボーナスがでたのでかねてより買いたいと思っていた物を、喜びつつ買いに行くのかも知れない。ともかく、揺れる母の肩はいろいろな想像を引き起こす。奉燈者は、「ファッションメゾン ミキヤ」とあった。



  いっせいに 喉もと反らし 燕の子

こういう情景を歌った句はわかりやすい。親燕がエサを確保して巣に戻ってくると、とたんに4・5羽の雛がピーピーと鳴いて、エサを求めた。

親燕が持ち帰ったエサは1羽分なのである。エサを貰えなかった他の大勢がピーピーいっている以上、すぐにエサを求めて飛び立たねばならない。エサを獲り、雛に与えるということを、一日に何度繰り返さねばならないのであろうか。奉燈者は、「米岡家具センター」とあった。


上野天満宮から少しバックして、南下する。この道は寺町通り。

鍵屋ノ辻で討たれた河合又五郎の墓が、このどこかの寺にあると案内板にある。

寺町通りは、近鉄・茅町駅に突き当たる。ここで西に向いて5〜600mほど歩くと「蓑虫庵」があった。

芭蕉は伊賀にしばしば帰郷しているが、ここには芭蕉の門下生が大勢いたからでもある。「蕉門伊賀連衆」と呼ばれている。その伊賀連衆の中心人物が、この蓑虫庵の主の服部土芳(はっとり・どほう)である。

土芳は31歳のとき、この庵を作り、以来ここに隠棲し、この庵を伊賀における俳諧道場として蕉風俳句を広めた。同時に芭蕉の偉業を後世に残すために多くの執筆をしており、芭蕉の伊賀における活動の緻密な記録として残っている。

見学料は300円。受付にいったら、蚊取り線香を差し出された。もちろん線香には火がついていて、煙が立ちのぼっている。

「庭内は薮蚊が多いので虫除けに持ち歩いて下さい。」

蚊取り線香をぶら下げての見学となる。

蓑虫庵が出来た直後に、芭蕉が訪れ、

みの虫の 音をききにこよ 草の庵

の句を作り、土芳に与えた。ここから庵は蓑虫庵と呼ばれるようになった。とパンフレットにある。

「蓑虫の音」とはなんだろうか、蓑虫は鳴くのであろうか。それとも木にぶら下がった蓑が揺れて木の葉にぶつかって擦音を出すのを「音」というのだろうか。

こうなると物ごとを知らない私には、「蓑虫」の句のよさがわからない。


蓑虫庵は6畳二間だけである。土芳は奥の間で起居し、手前の間で句想を練り、句会を催し、芭蕉の記録を執筆したのであろうか。

蓑虫庵を出て、北向きに歩く。この筋は中ノ立町通りという。

上野は城下町だけあって、きちんとした町割りがされている。北に丸之内があり、東西に大名大路が走る。その南には、これに平行して本町通り、二ノ町通り、三ノ町通りがある。

南北に通じる道は、東から順に寺町通り、銀座通り、中ノ立町通り、西ノ立町通り、である。ほぼ碁盤目に道が走っていてわかりやすい町である。ただ人通りは少ない。

東西に走る本町通り。名前からして、この道がかつての上野第一等の商業地であったと思われるが、今はそう賑わっていない様子である。

近鉄上野駅に戻りついた。駅前には芭蕉の像があった。芭蕉は東を向いている。

今日は多くの建物を見た。崇広堂はよかった。蓑虫庵もよかった。天満宮では多くの俳句を目にした。敬遠していた俳句に少しは近づけた気がしないでもない。

万歩計は21300歩だった。

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