葛城古道

    No.19.....2003年10月11日(土曜)


行く先の目次... 前頁... 次頁... 奈良盆地の地図... 御所周辺の地図... ...てくてくまっぷNo.15


前回、伊賀上野を歩いたのが7月26日。その後8月、9月は出歩くことがかなわなかった。8月はとにかく暑い。炎暑の中を歩き回って熱射病にかかってもかなわない。9月は仕事が忙しく、1分1秒の寸暇も惜しかった。これが理由。

この3週間は土日の天気がよく、青空も澄み切っていた。こういう時期に出かければさぞかし気持ちがよかろうと思っていても仕事が優先。恨めしかった。

ようやく仕事が一段落して、さあ出かけようと今朝を迎えたが、空は曇っている。

奈良盆地の西南部に位置する葛城の地はかねてより訪れたいと思っていたが、なかなか足が向かなかった。わけは、@名張からの交通の便が悪いこと、A葛城氏・鴨氏についての知識がないので気後れしていたことだが、今日はともかく金剛山や葛城山を見ながら、葛城古道を歩くだけでよいではないか、と思い直して家を出た。



「てくてくまっぷ(No.15)」によれば、まずは近鉄・御所駅(ごせ)にいかねばならない。御所に行くには、@名張→大和八木(大阪線。32.4Km)→A大和八木→橿原神宮前(橿原線。3.3Km)→B橿原神宮前→尺土(しゃくど)(南大阪線。7.4Km)→C尺土→御所(ごせ)(御所線。5.2Km)と4つの線を乗り継ぐ必要がある。これは面倒だし、下手すれば電車に乗っている時間よりも、乗り換えの時間のほうが長くなるのではなかろうか。そう思って、名張駅7時36分発の電車に乗った。

早い時間にプラットホームに立っていたので、珍しい電車を見た。電車の行き先の表示を見て下さい。「鮮魚」電車である。鳥羽からの水産物を大阪鶴橋の市場へ出荷するのであろうか。漁業関係者の貸切で、車内には鮮魚の入った木箱やブリキ製の保冷箱が積まれている。乗客(鮮魚仲買人?)は毛布をかぶってシートに寝ている。 大阪の住民が伊勢湾の新鮮な魚が食えるのも近鉄電車のお陰である。

御所市は初めて訪れる。葛城古道を歩くのも当然初体験なので、少し地理と歴史を予習した。歴史は飛び切り古いので、茫漠としてあるいは入り組んでいてよくつかめなかったが、地理は一目瞭然である。

御所市は北を北葛城郡新庄町(その北が当麻町)、西を橿原市(その南に高市郡高取町)、南を五條市、西は金剛山・葛城山を境にして大阪府(南河内郡)と接している。(のちに新庄町と当麻町は合併して「葛城市」になった)

御所市の南北の長さは約10km、東西は金剛山・葛城山の山頂を含めても7kmほどか。近鉄御所駅は御所市の中心にはない。南北10kmのうちの北から1kmか2kmのところにあって、北葛城郡新庄町の隣りになる。

地図を見ると、意外なことに、御所駅から真東6Kmのところに明日香の高松塚古墳があり、8Kmのところに石舞台古墳がある。12Km先に談山神社がある。御所市はもっと南にあると思い込んでいたが、大きな誤解であった。

さらにいえば橿原市の畝傍山は、御所駅から北東5kmの位置にある。もっともこれは地図上の距離であるから、この間には山あり野ありであるが、畝傍山には歩いて2時間あれば行けるのではないか。高取・明日香・橿原・当麻というのは御所のご近所であることがよくわかった。


歴史である。にわか勉強なので思い違いも多いと思うが、大和の都はだいたい次のような順で移ったと理解した。
  1. は磯城(しき)・巻向(まきむく)の地。10代崇神天皇〜12代景行天皇の三輪王朝で前期古墳時代(だいたいAD250年〜350年ころ)。

  2. は古市(ふるいち)百舌鳥(もず)の地。15代応神天皇・16代仁徳天皇の河内王朝で中期古墳時代(AD400年前後〜450年ころ)。

  3. は初瀬(はせ)・磐余(いわれ)の地。21代雄略天皇〜26代継体天皇〜32代崇峻天皇。(AD470年〜590年ころか)。

  4. は明日香(飛鳥)の地。33代推古天皇〜41代持統天皇。(AD592年〜694年)

  5. は藤原京。(AD694年〜710年)

  6. は平城京。(AD710年〜794年)
で、Gの葛城の地であるが、これはAよりも古くからあるとも、A,B,Cと争いあるときは協力した鴨族ないしは葛城氏の勢力圏であったといわれている。なにぶん古いことなので、わからないことばかりであるが、にわか仕込みをしたことを追々書く。




御所線の電車は2両編成のワンマンカーであった。御所駅のプラットホームへ降りると、ベンチに「大和のうま酒・金剛力」の看板があった。これから金剛山(のふもと)へ向かうが、そのムードを盛り上げてくれる。

「金剛力」の酒造元は、先般たずねた高取のお里・沢市の墓の近所にあった。高取は御所の隣町であることが、ここからも知れる。



近鉄御所駅は国道24号線沿いにあった。実は「てくてく」の出発点は、この24号線を約7Kmほど南下した「風の森」というバス停になっている。

バス停の近くには風の森峠というのがあるので、やや小高い土地のようであるが、峠を1Kmほど下れば五條市である。

つまり御所市の北部にある御所駅から、ほとんど南端の風の森まで行かねばならない。近鉄電車は御所駅が終点だから、交通機関はバスしかない。

今日のコースは10Kmとあるが、山道もあるし、見物しながらの足では1時間に2km、早くて3Kmのペースで歩けるかどうかであろう。時刻は9時少し前である。



タクシー乗り場で、運転手さんに聞けば、風の森までは2000円と少しだということなので、タクシーで出発地へ向かう。

24号線は葛城川に沿って走る両側1車線ずつの狭い国道である。御所駅の真西には葛城山山頂(959m)があったが、南下するにつれて葛城山は低くなり、水越峠(みずこし)を過ぎれば金剛山が高まってくる。

金剛山山頂(1112m)を少し南まで下ったところが風の森であった。料金は2160円。

西(金剛山)を向いてスタート。夫婦連れのハイカーが1組だけある。同じ「てくてくまっぷ」を持っていた。

南下したせいか、空は晴れ間が見えてきた。秋の空はこうでなければ。


金剛山である。写真左から1/4くらいの高い山が山頂であると思う。

金剛山という名前からは急峻な山を想像するが、山そのものは急だとしても、その山裾はなだらかなスロープとなっていて、ここに段々の田んぼがある。

なだらかであるので、いわゆる棚田のように田んぼ1枚の広さはせせこましくない。平地の1枚の田とそう変わらないところもある。


この後1日、御所の農村地区を歩いたのだが、農家は立派な建物が多かった。司馬さんがいうように、奈良は天領であったために年貢は安く、したがって裕福であったということが、写真の農家を見てもよくわかる。

北を見れば葛城山がある。写真には見えないが、その向こうには岩橋山(659m)があり、竹内峠を挟んで二上山がある。

金剛山から二上山への連なりの山麓には、このような段々の田んぼが続き、その中を葛城古道が走っている。



15分ほど歩いて、高鴨神社(たかかも)に到着。鴨氏の氏神社である。鴨氏はこの地から出て、次第に北上し、御所駅のあたりまでを勢力圏としたらしい。@高鴨神社(上鴨社)→A葛城御歳神社(みとし)(中鴨社)→B鴨都波神社(かもつわ)(下鴨社)と、勢力圏が拡大する順に従って鴨族の神社ができていったらしい。(ABは行かず)

高鴨神社は京都の上賀茂社・下鴨社の本家であることは知られている。さすがに鴨(加茂・賀茂)の本家とあって、式内名神大社という最高の社格をもつのだそうである。

氏子の方であろう、3人が先に扇子を2組つけ、その下に紅白の御幣のようなものをつけた竹筒を掲げて、鳥居の前でなにやら声高に叫び、一礼して鳥居をくぐっていった。

棟上式のときにこのようなものを見たような気がしたので、家屋を新築したのでお祓いに参ったのかと思っていたが、違うようである。



丸い茣蓙(ござ)を重ねて持ち運んでいた神主見習のような方に尋ねたら、

「昨日、当神社で神様がこの竹先にお宿りになり、それを家に持ち帰られたものを、今日お返しに参られた。」

のだそうである。竹筒の名はなんといって、どういう時に、何を祈願するためのものであるのかは聞けなかったが、さすがは御所である、と何かは知らぬが歴史の古さに感心する。

テクテクを始めて以来、歩くたびに自身の無知を思い知らされる。50才の半ばを過ぎる今日まで、いい加減にしてきたことが余りにも多い。「式内社」とか「官幣大社」とかの言葉もぼんやりとしか知っていない。面倒ながら調べてみた。

式内社というのは、927年に撰上された「延喜式の「神名帳」に所載されている2861社である。このうち国(神祇官)が奉幣する官幣社が573社(大社が198社・小社が175社)で他の2288社が国幣社であるらしい。

名神大社であるが(よく理解できていないが)、定例の四時祭(2月の祈年祭、6月12月の月次祭、11月の新嘗祭)以外に、霊験顕著であるとして臨時に祈請奉幣が行われる223社を名神社というらしい。だから名神社であり官幣大社であるという神社は限られる。(HPの延喜式神名帳 神社一覧(現在は無い)に詳しいことが書いてあった。)



名神大社は、古く有力な神社であると思ってよさそうだ。これまで訪ねたうちでは、山の辺の道沿いの@大神神社、A大和神社(おおやまと。行かず)、B穴師兵主神社、C石上神宮、飛鳥のD飛鳥坐神社、がそうであるようだ。

この葛城には名神大社の数は山の辺を上回る。南から挙げれば、この@高鴨神社、A葛城御歳神社(みとし)、B鴨都波神社(かもつわ)の鴨三社、C高天彦神社、D葛木水分神社、E一言主神社、F笛吹神社、などを見つけた。

写真奥は高鴨社本殿。手前は拝殿。




高鴨神社をでて、葛城古道を北上する。今は県道30号線になっている。(このあたりでは県道30号線はバイパスがあって2本の県道がある。写真は古いほうの30号線。)

30号線といえば、當麻の里・竹内街道を訪ねたときのことを思い出す。

当麻寺・石光寺から国道165号線を南下していたら、竹内交差点あたりで、突然に県道30号線と名前が変わった。本当にこの道を行けば、竹内街道へ行けるのかと何度も地図を見直した。

その30号線がここまで延びていたのですな。



北上する右手は奈良盆地の南端である。盆地の平野部を大和国中(くんなか)と呼ぶことは司馬さんの本を読んで知った。歩いている葛城古道から国中の高低差はどのくらいだろう。100mか200mか。こういう小高い位置にある道を歩いている。






左には金剛山山頂が真横に見える。









山頂が真横でなくやや南に見え出したところから西に折れ、金剛山に向かって歩く。1300mくらい先に高天彦神社(たかまひこ)がある。




「まっぷ」には、この1300mは「胸突き八丁の登り坂」と記入してある。写真のあたりではまだ勾配はゆるかったが、しだいに胸突き八丁となる。しかし石段がつけられていて歩きやすい。

歩きやすいが、エネンルギー保存の法則によって、自分の体重を持ち上げて、運動エネルギーを位置エネルギーに転化することは、しんどいことである。

このまま金剛山に上り詰めるのではないかと思うほど息が切れたころに石段は消え、山道となった。山道となったとたんに下り坂となる。




坂を少し下ると、平坦地が見えて、視界がパーッと明るくなった。思わぬ景色の展開である。

そもそもこの登り坂は金剛山へ向かっての登りであった。当然山道は登りの一方であると思っていたが、意に相違して下り坂となり、いきなりの平地である。金剛山の中腹には小盆地があるようである。

向こうでは稲刈りをしているらしい。農作業をしている男性に聞くと、写真正面の山の下の森が高天彦神社である。

暗い坂道をゼイゼイいいながら登ったら、かように明るい平地がある。こういうのを別天地というのであろう。







正面の小山は白雲峯(694m)。高天彦神社の神体山らしい。高天彦神社(たかまひこ)は、先にもいったが官幣名神大社である。祭神は高御産霊尊(たかみむすびのみこと)。

高御産霊尊(高産巣日とも書く)となると、天孫降臨のことにつながる。(これはややこしいが)だいたいのことを言えば、高天原(たかまがはら)にいた天照大神は子供の天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)を地上に遣わし、地上を支配していた大国主命から国を譲り受けようとしたが首尾悪く、高天原に戻ってきた。

そこで天穂日神(あめのほひ)を遣わすが、逆に大国主命の家来になり戻ってこない。ついで天若日子(あめのわかひこ)を遣わすが、大国主命の娘の下照姫と結ばれ、やはり戻ってこない。

4度目の使者として建御雷神(たけみかづち)を派遣し、大国主に強談判させたところ、大国主命は息子の事代主命(ことしろぬし)に国譲りの件を任せ、事代主命は国譲りを決定する。

国を譲り受けた高天原では、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)の子の瓊瓊杵命(ににぎのみこと)を降臨させることになる。その場所は日向の高千穂の峰である。



このように一般に流布している神話であるが、天照大神の相談者であった高御産霊尊は、この高天彦神社の祭神であり葛城氏の祖神であると案内板にある。

先の高鴨神社の祭神は、下照姫の兄の味鋤高彦根命(あじすきたかひこね)を主神とし、下照姫と天若日子の3柱を祭っている。

さらにいえば鴨都波神社(かもつわ)の祭神は国譲りを決定した事代主命である。

となると、地上を支配していた大国主は大神神社に、この子供のうちの味鋤高彦根・下照姫とその夫の天若日子は高鴨神社に、同じ子供の事代主は鴨都波神社に祭られていることからして、どうも鴨族は地上神であり、葛城族は天孫族であったような感じであるが、どうもそうでもないらしい。(私の知識ではわけがわからない)



高天彦神社前の小道を北に進む。ここは葛城古道よりもう一段高い位置にある。

右手には奈良盆地があるはずだが、ここは金剛山中腹の別天地。木立がじゃまして国中(くんなか)は見えない。




下界が見下ろせる場所にきた。まだ別天地の中にいる。


向こうに橋本院。このあたりは「高天原」といわれている。

天照大神が統治したあの高天原である。このあたり一帯の字(あざ)も「高天(たかま)」という立派な地名である。

高天原は宮崎にあったのではない。天孫族という以上、高いところに住んでいたに違いないが、降臨したのは奈良盆地の低湿地であり、そこは大国主の三輪族(出雲族)、これと共同する鴨族の土地であった。


この高天原は盆地の低地から250mとか300mほど高い位置にあると思うが、天孫降臨とはこの250mほどを下って、奈良盆地の鴨族・三輪族を支配下においたということではないのか。そういう思いがする。(シロートの考えだから真に受けてはイケマセン。お話として。)

ともかく金剛山の中腹に盆地あるいは平らかな台地があって、ここでは今も稲作をしているのである。日向から天孫族が大和へやってきたというよりも、金剛山中腹から国中に降ってきたというほうがありそうな話である。


橋本院は平城京時代、元正天皇(げんしょう)の勅命によって行基が開いた高天寺の名残である。高野山真言宗。

行基は河内・大鳥郡の生まれで、東大寺の大仏を勧進したことで名高いが、河内の灌漑や溜池などの事業を指導したこでも知られている。なぜこの別天地に勅願寺を建てたのか。

先の高天彦神社へ到る山道は登るのに難儀したし、この後山を下って葛城古道まで降りる坂はこれを上回る急坂であった。寺院建立の資材をここへ集めるだけでも、大変な辛苦を強いられたに違いない。

それでもこの地に大伽藍が建てられたのは、役の行者に代表される修験道の流れが葛城・金剛・吉野にあったためであろう。あるいはこの場所は霊地であり、ここで修行に励めば霊能力がつくという期待があったのかも知れない。





まだ橋本院の境内である。高天原の地形は継続していて、金剛山からなお緩やかな台地が続いている。国道24号線から離れ、県道30から離れ、車の騒音ひとつ聞こえない。

まことに別天地である。


別天地であるということは、「隔絶された」という修飾語なしには成り立たない。 隔絶されたとは、容易に人間が行き来できる場所ではない、交流しかねる場所ということでもある。行き帰りには相当の苦労を覚悟せねばならない。

案の定、高天原からの道は険しかった。とは行っても降り坂ではあるが、完全な山道である。ドスンドスンと足元は低くなっていき、歩き降りるというよりも、飛び降りるといったほうがふさわしい。

難儀しながら山を降りた。


山を抜けると、「橿原考古学研究所」が発掘している場所があった。高天原の解明ができるのであろうか。

この下にいた鴨族が使った土器と違ったものが出るので あろうか。天孫族に固有のものがでるのであろうか。そのうち発表されると思うが、国中の土器・装飾品と異なるものが出てくれば面白い。


県道30号線まで降りて来た。そこには極楽寺があったが、チラッと見ただけで境内には入らなかった。浄土宗の立派なお寺であった。スクーターに乗ったおばさんに立派な寺ですね。と声かけたら、

和尚さんがしっかりしておられるから。寄付寄付ばかりやから。

との答え。人口35000人の町にある寺としては大きすぎる。その伽藍を維持してこれたのは、御所の農民の裕福さであろう。


国中に向かって降っている。金剛山をいよいよ通り過ぎようかというところまで北上してきた。向こうは葛城山である。

金剛山と葛城山の境のくぼんだところは水越峠という。大きな山と山の継ぎ目の山が低くなったところには「峠」がある。岩橋山と二上山の間には竹内峠がある。

下の写真は右手の奈良盆地。向こうの霞んだ山々は大和青垣。右から桜井、天理、奈良へと連なっている。



再び西を向いて歩く。西には葛城山がある。当然登り坂となる。目指すのは一言主神社(ひとことぬし)である。

司馬さんは「街道をゆく」の第1巻で、「湖西のみち」「竹内街道」「甲州街道」「葛城みち」「長州路」の5つの道について書かれている。

「葛城みち」では、葛城古道(おおむね現在の県道30号線)を北から南へ下っておられるが、その訪問先は、@笛吹神社(私は行かなかった)→A一言主神社→B高鴨神社 の順である。3つの神社について書かれた頁数は、@が話の振りを含めて10頁、Aが24頁、Bは1頁に満たない。 一言主神社あるいは葛城族には大変な興味というか、馴染みというか、をもたれている。

一言主神社に着いた。この神社も式内名神大社である。祭神は一言主大神と幼武尊(わかたけるのみこと)。

天孫族の末裔の幼武尊(雄略天皇)と葛城族の神である一言主大神との交流は古事記・日本書紀に記載があり、雄略天皇が一言主大神(神社)を土佐国へ追放することは釈日本紀に記載があって、このエピソードを司馬さんは「葛城みち」で述べておられる。

葛城族の祖先としては、15代応神天皇の時代に、葛城襲津彦(かつらぎ・そつひこ)の記述があり、これが葛城族のはっきりしている祖先であるらしい。また応神天皇の両親である14代仲哀天皇(ちゅうあい)および神功皇后(じんぐう)に武内宿禰(たけのうちすくね)がつかえており、これも葛城族であるという。

司馬さんは「竹内街道」で、司馬さんの母方のおじさんが陸軍少尉になって竹内村に帰ってきたとき、村の物知りが『わが竹内から位階勲等がついた者がでたのは武内宿禰以来、あなたが2番目である』といったという話を披露しておられ、大いに笑わせてもらった。



武内宿禰は二上山と岩橋山の間の竹内を勢力圏とした葛城族、葛城襲津彦は葛城山のふもと(このあたりは森脇というらしい)を勢力圏とした葛城族ということであろうか。

14代仲哀天皇・神功皇后の時代(AD370年〜390年くらいか)、続く応神天皇の時代(AD400年の前後か)には葛城族は天皇家のプレーンあるいは外戚(16代仁徳天皇の皇后は葛城襲津彦の娘の磐之媛(いわのひめ)である)となって活躍した。

だが、それから100年たった雄略天皇の時代には葛城族のトップの葛城円(かつらぎのつぶら)を殺し、葛城族の勢力は一気になくなってしまう。

一言主神社に本来であれば敵である幼武尊(雄略天皇)が祭神とされているのは、葛城族が完全に天皇の支配下になったので、帰順の証明としてこれを追加したということだろうか。



そう広くない境内には銀杏の巨木がある。神木である。樹齢約1200年。「乳銀杏」と呼ばれている。

銀杏の木は古くなってくると、幹から乳房状の枝(?)が生えてきて、ここから呼吸をするらしい。(注連縄のすぐ上に幾本も生えている)その形状から子供が授かりお乳がよくでるという効き目があるとされている。

それにしても一言主神社はエピソードの多い神社である。知ったことをざっと掲げても
  1. 神武天皇の土蜘蛛族との戦いの話。(境内に蜘蛛塚があった)

  2. 先の一言主と雄略天皇の話。(仲良しだったとか、喧嘩したとか)

  3. 役の行者が一言主をこき使って、岩橋山から大峰山へ橋をかけようとした話。

  4. 謡曲「土蜘蛛」の話。(源頼光と渡辺綱が土蜘蛛を退治する)
などがある。盛りだくさんであるが、私は詳しいことは知らない。

神社を出た。




一言主神社の横にある道を北上する。葛城古道(県道30号線)よりも一段高い位置にいる。

東を見下ろせば、稲の刈り入れが終わった田んぼを焼いている。






「綏靖天皇(すいぜい)葛城高丘宮跡」の石碑があった。道は田んぼの畦道である。背後は山。まあ窮屈な場所にある。

綏靖天皇は初代神武天皇の子供で2代目。母は大物主命(大国主命)の娘の媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)。

ついでにいえば、綏靖天皇は事代主命の娘の五十鈴依媛(いすずよりひめ)を皇后としており、事代主命の系統は、2代綏靖天皇、3代安寧天皇(あんねい)、4代懿徳天皇(いとく)と3代にわたって天皇家の外戚となっている。(歴代天皇総覧・笠原英彦著)

古事記・日本書紀には、初代神武天皇の事跡は多くあるが、2代綏靖天皇から9代開化天皇までは系譜についての記述しかなく「欠史8代」といわれ、神武天皇も含めてその実在を疑われている。

しかしこの9代の宮の伝承地は、@橿原市四条、A御所市森脇(?)、B橿原市四条、C橿原市大軽町、D御所市池之内、E御所市室、F磯城郡田原本町、G橿原市大軽町、H奈良市本子守町、と鴨族あるいは葛城族の勢力圏内のものが多い。「欠史8代」は大和朝廷に先行する鴨あるいは葛城王朝の歴史ではないかとも言われている。

東を向いて下れば、写真中央に畝傍山がある。この周辺が@BCGの宮があったところ。畝傍山の右上には三輪山があり、ここには天孫族(10代崇神天皇から)が来る前の先住者の三輪族がいた。



振り返れば葛城山山頂。葛城族の本貫地で、Aの宮があった。葛城族は雄略天皇によって滅ぼされたが、その後巨勢氏・平郡氏・蘇我氏が一族から台頭してくる。蘇我稲目はその娘を欽明天皇の后妃とし、天皇家の外戚となる。葛城円が雄略天皇によって滅ぼされてから80〜90年後のことである。


南を見れば金剛山がある。鴨族の本貫地で、上記のDEの宮があった。鴨氏は地方へ進出し、各地に賀茂・加茂の名を残した。



御所駅に戻ることにする。

鴨族と葛城族は違うのか、同じ一族なのか。三輪族やら天孫族やら、古い古いことなのでよくわからない。参考に見る本やHPごとにいうことは違っている。

結局はなにもわからなかったのであるが、御所という町はわからないほどに歴史があり、裕福な町であることはわかった。

万歩計は29100歩であった。


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