水越峠から葛城山

    No.20.....2003年10月18日(土曜)


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「No.36 葛城高原登山コー」の「てくてくまっぷ」は右のもの。

前回は金剛山から葛城山へかけて、ふもとの「葛城古道」を北上した。常に左手(西)には金剛山か葛城山を見て歩いたが、金剛山と葛城山の中間の鞍部にある水越峠というのが、ちょっと気になった。

今日は水越峠を通って葛城山頂に上る、という私にしては難儀な道を歩くことになった。



大阪府と奈良県は南北に走る生駒山地と金剛山地で隔てられている。生駒山地と金剛山地の間は山が途切れていて、奈良盆地に集まった水は、この隙間に集中し、大和川となって大阪湾に流れ出ていく。

生駒山地・金剛山地の大阪側は「河内(かわち)」だが、大和と河内の交流は、@大和川をさかのぼる、A淀川を上り、木津川に進み、木津(きづ)から平城山(ならやま)を越えて、奈良市(平城京)に入る。B生駒山地・金剛山地を乗り越える峠道を進む。という3つのコースがあったらしい。

生駒山地では地図の@暗峠(くらがり)が有名。都が飛鳥京・藤原京から平城京に遷都してからは、暗峠が山越の最短距離となった。(ついでながら地図にある緑色字の「八戸ノ里」は司馬さんが住んでおられたところである。)

金剛山地では、飛鳥京・藤原京への最短コースはAの竹内峠であり、最も重要な道であった。

竹内峠は二上山と岩橋山の中間にある。峠はやや高くなるがB平石峠というのもあったらしい。Cは岩橋峠で、岩橋山と葛城山の間にあるが、この間は起伏がない山々が続いているため峠は高く、あまり使われていなかったようだ。

Dの水越峠(みずこし)は前回のテクテクで見た。金剛山(1125m)と葛城山(960m)の間にあって、かなりへこんでいたから峠は相当に低いように見えた。事実現在の金剛山地を山越えする国道は、竹内峠を走る国道166号線と、水越峠を走る国道309号線の2つである。(平石峠と岩橋峠には車道はないようだ)








「峠」は漢字が表すように、山道の上りと下りの分岐点であるから、いってみれば山道があればその数だけ峠はある。今日のテクテクが終わったあとで、昭文社の奈良県の分県地図を買ってきたが、「峠」として37か所が表にしてあった。

知っていたのは、暗峠・竹内峠・水越峠・風の森峠の4つだけだった。水越峠・風の森峠の2つは前回のテクテクで初めて知ったわけであるから、私は峠については何の知識もなかった。今日は水越峠を極めるぞ。そう思って、続けて御所(ごせ)にやってきた。



今日の電車はハイカーが多かった。前回と同じ土曜日であるが、今日は2倍・3倍のハイカー(ほとんどは50代以上の男女)で車内は占められていた。

どうやら季節に合わせてハイキングする場所を決めているらしい。桜の時期にはどこ、つつじの時期はどこ、アジサイの時期はどこ、紅葉はどこといったようである。会話を聞いていると、葛城のススキは一面に生えて美しいとか言っていた。

うちの近所のススキはまだ赤色が残っていて、時期はやや早いような気もするが、これから葛城山は観光のシーズンを迎えるようだ。

バス乗り場に向かったのは、葛城山へはロープウェイを利用して一気に上るつもりのようである。



私は前回、御所駅近くにあるという鴨都波神社(かもつわ)を見ていなかったので、まずはここを訪れ、水越峠に向かうという予定である。

国道24号線を500mほど南下すれば鴨都波神社があるらしい。西に葛城山をみつつ神社に向かった。気にして眺めれば水越峠はかなり低く、そこから葛城山頂への勾配はかなり急のように見えた。

写真の葛城山頂の左の水越峠からの傾斜と右の岩橋山から続く稜線の角度はずいぶん違う。はたして水越峠から山頂まで登りきることができるのか。少し不安になる。



鴨都波神社は前回もいったが、式内名神大社である。祭神は事代主命(ことしろぬし)と下照姫。

HPの 延喜式神名帳 神社一覧(現在は無い)をみると、この神社のいわれを当の神主さんが書いておられる。いわく

『 民族学を研究されておる鳥越憲三郎先生は、葛城王朝の存在と「天孫降臨は葛城王朝に鴨族が併合されたこの地の歴史的事実を伝承されたもの 」そして葛城王朝の、神武、綏靖、安寧の三代の天皇の皇后となったのは、事代主命を奉斎してこの地を領地していた鴨王の娘であるといわれる由縁であります。そうした由縁から、その後も本社の御祭神は皇室の御守護神とされ、宮中八神の一つとして崇拝されて来ました。 』

なのだそうである。



どうやら鳥越憲三郎さんは、天孫降臨の神話は天孫族の降臨ではなく、葛城族が鴨族を支配したことを、神話に取り入れたと解釈しておられるようである。

となれば前回訪れた高天原は葛城族が住んでいて、鴨族に「国譲り」させたことが古事記の神話に取り込まれたということになる。そうかも知れない。

ともかく鴨都波神社にいき、再び御所駅に引き返した。時刻は9時30分である。駅前に唯一開店している店があって、ありがたいことに弁当の仕出屋さんであった。

出かける前に梨を2片食べてきた。2片というのは、いつもと同じ量であるが、鴨都波神社に行くとき、水越峠から葛城山への勾配が急であることを知ったので、やや驚き、これはいかん。すこしエネルギーを補給しておかねば、と思った。

「葛城弁当」の垂れ幕もあるではないか。


店内で弁当を食すことができるという。迷うことなく葛城弁当を注文する。550円。

どこが「葛城」かはわからないが、小さい丸おにぎりに、鶏のから揚げ・玉子焼き・牛肉煮込み・ウィンナーが配置されていた。容器はお持ち帰りできます。といわれたが、それはいらない。

プラスチックの容器代が50円・100円を占めるようだったが、葛城登山をする人にとっては煮汁が漏れず、ぎっしり詰めてあるので片寄らず、コンパクトであるのでかさばらず。登山用の弁当としては案外に的を得ているのかも知れない。


駅前からタクシーに乗り、長柄神社(ながら)にいく。今日のスタート時点である。

前回も(書きはしなかったが)長柄神社(ながら)は訪れた。着いてみると、まことに水越峠の正面である。左に金剛山、右に葛城山。運転手さんのいわくでは、この道が昔の水越峠につながる正統な道であるらしい。

タクシー料金は1310円。


長柄神社も式内社である。長柄神社のある名柄(ながら)は、水越街道と名柄街道(葛城古道)が交差する位置にある交通の要所である。前回、名柄の町を見てあるいたが、古い立派な建物が続いていた。裕福な街道筋であったようだった。

祭神は下照姫。このあたりは下照姫を祭る神社が多い。下照姫を通じて天皇家との関係を明らかにしているようで、下照姫は今でいえば英国のダイアナ妃のような感じである。


さあいよいよ水越峠を目指します。小さな峠はそうとは知らずに何度か越えているに違いないが、今度は本格的な峠である。意識して峠を目指すというのは初めて。


「左 古んがう山」 の道しるべがある。金剛山と葛城山の間にある水越峠であるから、金剛山へも葛城山へも行ける。左右どちらの道をとっても歴史のある山へ行けるというのはなかなかのものである。


水越峠(のあたり)が見える。天気はよい。昔の旅人となって、この峠にたどりつくぞ。


振り返ると、東の山々が見える。写真右は竜門岳(904m)。煙の上がっているあたりの山は左から音羽山(851m)・経ケ塚山(889m)・熊ケ岳(904m)であろうか。

音羽山以下の3山はくっついていて、ポコポコしているので割りに見分けやすい。この3山のふもとには飛鳥京があった。


御所の農家は裕福である。このことは前回実感した。ふと見て、写真をとった農家でさえ、この大きさである。もちろん当主が一代で建てた構えではなく、何代かにわたって増築し、建て替えをしたことによって、今の姿が維持されているのであろう。

しかし最近の和風木造建築物は非常な費用がかかる。木材が、瓦が、塗り壁が、さらには大工が左官が。と技術者のことも思えば、新建材を使っての家屋の2倍3倍の費用がかかるだろう。えらいものである。旧の資材を使って、旧の工法で家を建てるというのは、まずは大変な贅沢であると思わねばならない。

なんどもいうが、大和は徳川時代は幕府の直轄地であった。そこでの税金は4公6民。通常の地方の藩は最上で5公5民、通常は6公4民。ひどいところ(例えば和歌山)は時代によっては8公2民まであったという。

奈良の農民がすぐれて勤勉であったのではない。隣接する紀州に比べれば税金は1/2、実収入は3倍あった。大和の農民が蓄財できたのは徳川幕府のおかげである。税金が安かったのは幕府が諸藩に治政はこうあるべし、の手本を示したのである。

司馬さんはこのようなことを述べられておられる。




いまの税制は、所得のあるものがより多く負担するという累進課税である。年収の40%を税金に拠出する家庭はそう多くない。ないが、所得税・地方税以外にサラリーマンは厚生年金として月に約7%の天引きをされる。勤める企業がこれと同額を負担している。

さらには土地を持てば昔にはなかった固定資産税が毎年かかり、ものを買えば消費税を5%とられ、タバコや酒税。車関係でいえばガソリンには石油税、車を買えば自動車取得税。家を建てれば家屋の固定資産税と細かな税金がかかり、国民健康保険は年間60万円がかかってくる。

さらには子供が20歳になれば、収入がないにもかかわらず強制的に国民年金に加入させられ、月額13,300円の支払いを求めてくる。うちは私と働いていない子供2人を合算して月に4万円の負担である。

国税・地方税・固定資産税、国民健康保険・国民年金・消費税・個別の税金(酒・タバコ・ガソリン・自動車税)などなど考えると、我が家では4公6民か5公5民である感じである。稼いだ40〜50%は税金に消える。




葛木水分神社(かつらぎみくまり)についた。奈良県には水分神社は、@吉野、A宇陀、B都祁(つげ)、C葛城、の4社があるらしい。当然のことながら山間にある。水源の中ほどにある。

宇陀の水分神社は訪れた(ただし下社だけ)。これに比べれば葛木水分神社は小さかった。

延喜式では名神大社ではあるが、今や村の鎮守さまといった体である。水分神社は灌漑用水の神さまだから、早くから治水事業を行った葛城地域では、次第に治水の神さまに期待すべきものは小さくなっていったとみえる。






国道309号線である。この道は旧道である。309号線は新しい道ができていて、長いトンネルが金剛山地を貫通している。したがって昔のように水越峠を越すことはない。風情のないことである。

しかしお陰で、旧の309号線は車が走れるのに利用するものはわずかで、10分に1台くらいの割合でしか車がこない。ハイカーにとっては歩きやすい最上の道となっている。



使われない道路であるから、不届き者は車に乗って、この道にゴミを捨てにくる。カーブになっているところや退避のために道幅が広くなっているところには、金網を張って不法投棄を防ごうとしてあるが、洗濯機やタイヤが随所に捨ててあった。

写真は自動車の投棄の訴えである。「御所警察の旦那」という文言が、老人の切なる陳情を思わせる。

この道から枝分かれした山道の少し上に若者向きの黒い車が放置してあった。さらには山道の進入口には建設資材のベニヤ板が投棄されており、この車は戻ることができない状態である。

309号線は御所から大阪の富田林に通じているが、バカなやつらがいるものである。



だいぶん登った。振り返れば御所の町が低く見える。手前の小山は国見山(229m)であろうか。

前回のテクテクの後で鴨族・葛城族についてのHPを見ていたら、暗号・山上憶良というHPを見つけた。内容が盛りだくさんのHPであったが、ここに「5万分の1の地形図で解く古代史の謎」という章があって、古代の遺跡や大和の山と位置関係(方位)を調べておられた。

感心した。方位学では北東(艮。うしとら)は鬼門とされるから、都市の設計をするとき、この方角に神社や寺が建てられることが多い。京都にあっては比叡山延暦寺、東京では上野の寛永寺のごときである。

筆者は、@畝傍山の鬼門に箸墓、A耳成山の鬼門に景行天皇陵、B天香久山の鬼門に三輪山、C益田岩船の鬼門に三輪山、などを挙げておられた。Bの天香久山−三輪山は自然にできたものであるが、@ACはそういう位置に古代人が作ったものである。

古代では北東の方角をかなり重要視していたらしい。国見山であるが、この鬼門の方向に三輪山がある。つまり、国見山→益田岩船→天香久山→三輪山は直線上にならぶ。面白いですなあ。



道の勾配はゆるやかとなる。むこうに駐車できる広い場所がある。


「祈りの滝」というらしい。案内板には、ここで修験の行者たちが修行した、とある。吉野・金剛・葛城は修験者にとっての聖地である。吉野の大峰山は修行の中心であるが、葛城山は役行者が活躍した場所であり、ここから修験道が始まったといってよい。

(役行者は御所の茅原(ちはら)の生まれである。茅原は鴨都波神社の東1Kmのところにある。)

どれどれと滝を見にいったが、高さ15mほどの岩肌をチョロチョロと水が伝い落ちているだけだった。これでは滝に打たれることはできない。

水越峠はまもなくであるらしい。舗装してあるので峠越えはラクであった。(伊豆の踊子の天城越えのような風情はないが。)

見上げていた金剛山は、いつのまにか低くなっている。

下り坂になった。水越峠はすでに通過したようだ。向こうに「大阪府」の道標がみえる。


振り返れば「奈良県」の道標がある。「水越峠」の文字はどこにもない。あっけない峠越えであった。


「奈良県」の道標の横に登山口がある。これを登れば葛城山山頂にいける。葛城山は標高960m。水越峠の標高は510mである。あと450mを登ればよい勘定であるが、御所市街から見た水越→葛城の傾斜はきつかった。はたして登れるのであろうか。

1年にわたるテクテクで多くの山々を見たが、山頂を極めたのは、@香久山152m、A耳成山139m、B畝傍山198m、C高取山583m、D御破裂山607m、E鳥見山734m、だけである。

畝傍山は脳梗塞で倒れた方がリハビリで登っておられたし、耳成山なぞは小学生がスキップしながら下っていたくらいだから山登りとはとてもいえないが、鳥見山に登ったときはエラかった。あえいだ。喘いだが、途中で額井岳を見、山頂から一円の山塊を眺望したときは、山には登ってみるものだと思った。


葛城山は大阪と奈良の壁である。この山頂に立てば、大和も河内も同時に見ることができる。「まっぷ」には、晴れていれば大阪湾や神戸の六甲山も見えるとある。楽しみだ。

今回挑むのは今までで最も高い山である。そう思ってアーモンド・グリコを1箱買ってきた。105円。なにしろグリコは「1粒300m」であるし、アーモンドグリコは「1粒で2度おいしい」のであるから、登山途中でへばったとき、口に1粒含めば元気回復となろう。


スタート直後の道である。これは大和三山ほどのゆるやかな道ではないか。これなら楽勝である。



道は石で階段が作られていて歩きやすい。ハイキングコースとして整備されているようだ。しかし途中から石段は急になる。息が切れると休憩すること5度、10度。

時間が少し遅かったからか、この道を登る人はいなかった。逆に大勢の下山者とすれ違う。ごく自然に「こんにちは」の声がでる。

こちらは息を切らして喘いでいる。下山者は足腰は辛いが息は切れていないので、ご苦労さんといった感じで声をかけてくれる。

休止して振り返れば金剛山が見える。低くみえる。低くみえると元気がでる。一休みすることは大事である。振り返って自分の来し方を確かめるのはよいことだ。

私も前ばかりを見て進む歳ではなくなりつつある。

休んでは登る。

「もうちょっとや。がんばってな。」と下山している夫婦連れの男性が声かけてくれた。通り過ぎて女性が「あとちょっとやなんて。」と男性にいっている。男性は「あとひとふんばりや」と訂正してきた。がっくりする。

どうにか頂上付近についたようだ。

振り向けば金剛山の全景が見える。(3枚の写真を合成した)左は奈良、右は大阪。右の奥のかすんだ山並みは和泉山脈であろうか。

葛城山頂一帯は高原となっている。樹木が茂っていないのは、眺望をよくするために伐採したのであろうか。

向こうに山頂があるようだ。







(次図)いるいる。大勢のハイカー達が眺望を楽しんでいる。

(次図)まずは北を向いて見る。通信塔の左は東大阪のはずであるが、ぼんやりしている。今日は晴れてはいるが水蒸気が多い。写真の左端は大阪市の中心であるはずだか、これもよく見えない。


西を向く。(やや北よりを見ているが)富田林方面であるはずだか、よくはわからない。しかし隣にいた女性が子供に「そこにPLの塔が見えるよ。家にもどったら葛城山にきたことを思い出してね。」といっていた。孫たちとやってきたらしい。孫は富田林に住み、おばあちゃんは孫とは一緒に住んではいないようである。

(PLの塔は写真中央に2人が立っている左上2cmのところにかすかに白く突き出ている。)


東を向く。奈良盆地の南である。遠くに音羽山(851m)・経ケ塚山(889m)・熊ケ岳(904m)がポコポコと並び、右に離れて竜門岳(904m)がある。音羽山の手前には御破裂山(607m)があり、竜門岳の手前には高取山(583m)があるはずだが、見分けがつかない。

手前の左端に畝傍山(198m)が見える。その手前右にあるのは貝吹山(210m)であろう。この山には益田岩船がある。



犬を連れてきて昼寝している人もあった。

山頂で空を仰げば視界のすべてが青空である。


山頂をわずかに下ったところに食堂があった。白樺食堂とある。


葛城登頂という大目標を達成したのであるから、ビールで乾杯せねば。アテは「鴨そば」。山菜の中に合鴨肉が6・7片はいっていて、なかなかおいしかった。700円。


下りはロープウェイで降りる。ロープウェイまでの道はきれいに舗装されており、勾配も緩やかである。これなら老人でも葛城山へ登れる。ベビーカーを押して登ってくる家族もあった。


ラクチンである。畝傍山に向かってロープウェイはするすると降りていく。1時間に2本の便があった。720円。


降りて振り返れば葛城山は遠くにそびえている。

飛鳥時代に役行者が山中を踏み分けて修行した山は、いまでは家族連れで楽しめるハイキングコースである。

万歩計は22400歩であった。


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