大和郡山城の周辺

    No.22.....2003年11月8日(土曜)


行く先の目次... 前頁... 次頁... 大和郡山市... 郡山城郭図... ...てくてくまっぷ なし


奈良盆地の北端に奈良市がある。その南に大和郡山市と天理市が隣あわせに位置しており、西が大和郡山・東が天理である。

奈良県にあった城郭は、大和郡山城と高取城の2つだけであった。城があったということは「藩」があり、藩主がいて、藩が統治していたということである。奈良県のほとんどは幕府の直轄地(天領)だったが、この2藩は例外であった。

江戸期、高取藩は植村家が治め、大和郡山は柳沢家が治めた。25000石の高取藩よりはるかに大きい15万石の郡山藩はどのような町を作っていたのであろうか。興味のあるところである。

奈良県では城は珍しい。近鉄電車に乗って、たまに京都へ行くとき郡山駅の近くでは線路のすぐ横に郡山城が見る。この城はなんどか車窓から見てきたが、ようやくその地を歩くことになった。


名張から大阪線の大和八木までは34.2Km。ここで橿原線に乗り換えて近鉄郡山まで15.0Km。近鉄郡山駅の手前は筒井駅である。

筒井駅からの駅名を挙げると、 筒井→郡山→九条→西ノ京→尼ケ辻→大和西大寺の順に北上する。筒井は「洞ヶ峠で日和見した」筒井順慶の本貫地である。その隣が郡山で、次が九条駅。九条とは奈良の平城京の条坊制の九条である。つまり平城京の南端である。

ついでにいえば西ノ京駅は、六条と五条の間にあたる。ここには薬師寺・唐招提寺がある。尼ケ辻駅はだいたい三条。大和西大寺となると平城京の一条通りを北に越えてしまう。大和郡山市はこういう位置にある。


近鉄郡山駅には朝9時に着いた。今日はガイドとなる「てくてくまっぷ」はない。ないので昭文社発行の「歴史街道を行く」の記事をコピーしてきた。郡山の紹介は「大納言・秀長の足跡をいく....百万石の城下町めぐりコース」とつけてある。

駅前にある観光案内地図を見ると、このとおりに歩けばよいようだ。@郡山城→A永慶寺→B大納言塚→C金魚資料館→D旧城下の町家 の順である。

なお右の絵地図は上が西、右が北である。

まずは郡山城を訪れる。近鉄線にそって北向きに歩けばよい。(図では右方向へ歩く)


駅前に交番がある。破風というのであるのか、三角の切り妻がつけられ、天守閣風の建物である。観光客を喜ばせるためのものであろうが、これはちっとなあ、違和感がある。

大和郡山市の人口は95000人。有名な産業は「金魚」である。歴史のある町であるが、奈良市のように観光を産業とするには、その史跡が不足している。

奈良県には珍しい城下町であるということを強調したい思いが、やや勇み足となったのではないか。


案内板を見ると、近くに大和郡山市役所があったので立ち寄った。市庁舎の屋上には、

「平和のシンボル 金魚が泳ぐ 城下町」

の看板が掲げてある。やはり金魚と城下町がこの市のウリである。


庁舎の前に、郡山城の堀割りを利用したらしい池がある。覗いてみると、いるわいるわ、鯉がうようよしている。(金魚ではなかった)


近鉄電車の線路にそって広い道路がある。この道を北向きに歩く。左手に郡山城が見えた。電車の車窓から見る建物である。これが郡山城の本丸であると思っていたが、違うようである。

城内に入るには線路を渡らねばならないが、線路の先には踏み切りは見えない。


少し引き返して踏み切りを渡る。

城の入り口に案内図があったので、コースを決めた。あとから思い出すと、図のように歩いたようである。
  1. 踏み切り
  2. 追手門(おってもん)と隅櫓(すみやぐら)
  3. 旧奈良県立図書館
  4. 柳沢文庫
  5. 柳沢神社
  6. 天守台
  7. 永慶寺



城内を通る車道である。左手の白壁はもとは二の丸があったところで、今は郡山高校になっっている。右手に曲がれば追手門である。


内堀に沿って進むと追手門が見えた。左には追手向隅櫓がある。

大和国にあった2つの城(郡山城・高取城)は明治6年に廃城となったことは、高取城を訪れたときに知った。見えている追手門・隅櫓は最近(戦後の昭和)に復元されたものらしい。 

追手門の脇に立っている案内板によれば、郡山城は以下の歴史を持つ。
  1. 1578〜82年に筒井順慶が縄張りし、天守閣も完成した。
    (1582年 本能寺の変)

  2. 1585年に豊臣秀長が入部し、百万石に相応しい規模に拡張する。

  3. 秀長の死後、増田長盛が外堀を一周させて城下町が完成。
    (1600年 関ヶ原の戦い)

  4. 水野勝成・松平忠明・本多政勝らが相次いで城主となったが、

  5. 1724年に柳沢吉里(よしさと)が入城し、以来明治維新まで、柳沢15万石の居城となった。


現在に残る縄張りは秀長時代のもので、筒井時代のものはよくわからないそうだ。

追手門の上に金色に光る釘隠し(と思う)があるが、「五三の桐」の紋である。豊臣秀長時代の門を復元したようだ。

調べたところ140年余り郡山を統治した柳沢家の家紋は「四つ花菱」であり、大和郡山市の市章はこの家紋をもとにデザインされたものであるらしい。なお副章は「金魚」の図案である。



追手門をくぐり、右に折れると、立派な建物があった。和風ではあるが窓枠の意匠を見ると江戸期のものではなく、明治にはいってからの建物のようである。

この建物を見たとき、今井町で見た華甍(はないらか) を思い出した。品格のある堂々とした建物なのである。近づくと「大和郡山市民会館」とあり、説明板があった。

明治41年に、奈良県技師の橋本卯兵衛の設計によって、奈良県最初の図書館として、奈良公園内に建てられた。昭和45年にこの場所に移築した。

とある。 あとで調べたら、やはり橿原市今井町にある「華甍」(旧高市郡教育博物館)も彼が設計したものであることを知った。連想できたはずである。



市民会館から西へ戻る。柿の木に柿の実がひとつ残っている。

向こうに本丸跡が見える。大石垣の上に2段の石垣があるが、これが天守台らしい。



柳沢文庫があった。柳沢家の代々の自筆書籍・絵画などを収蔵しているらしいが、建物は小さい。

秋季特別展として「柳沢家の文物にあらわれた四季」展が開催されているようであった。柳沢家についての知識はほとんどないので、入館を躊躇したが入ってみた。300円。

学芸員がいるらしい、なにやら専門的な用語を使って説明している。大声で説明していたので、聞くとはなしに耳に入る上、掲示されている柳沢吉保(よしやす)の年賦を見ていたら思い出した。

思い出したのは、昔放送されたNHKの大河ドラマの「徳川吉宗」で、私の知識はここで見たものだけである。吉宗は西田敏行、綱吉は津川雅彦であったと思うが、柳沢吉保は誰が演じていたのか。(調べたら榎木孝明だった)



群馬の館林藩にいた徳川綱吉が5代将軍になったときから柳沢吉保の大出世が始まる。はじめは綱吉の小姓からスタートし、小納戸役→若年寄→側用人→老中となって、ついには15万石の国持ち大名となる。その領国は幕府にとって重要な甲府であった。

活躍の時期は主に元禄期で、綱吉の生類憐れみの令がでたのは、吉保29才のとき、赤穂浪士の吉良邸討ち入りは44才のとき。

本丸跡には柳沢神社がある。御祭神は「柳沢美濃守吉保公」である。最後は神さんになった。



神社の奥に天守台がある。2段の石垣でできている。これは豊臣秀長時代に築かれたものである。

筒井順慶・豊臣秀長・藤堂高虎は、これまでテクテクをした範囲でもなかなかのつながりがある。

  1. 順慶は信長の命によって、1580年ころからこの地に郡山城を縄張りするのであるが、このとき明智光秀が目付けとして派遣されている。

  2. 1582年に本能寺の変が起き、秀吉は天王山で光秀と決戦すべく、順慶に出陣の督促をするが、洞ヶ峠で日和見をして歴史に汚名を残すことになる。

  3. 大和郡山20万石は秀吉から安堵されるが、1584年に死去。養子の筒井定次がこれを継ぐが、1585年に伊賀上野へ国替えされる。 

  4. このあと入城するのが豊臣秀長で、大和・和泉・紀伊の3国100万石を所領する。100万石の大名に相応しい郡山城とするために大拡張工事にとりかかる。このときに活躍するのは築城の名手である藤堂高虎であったらしい。(同時に高取城も拡張している。)

  5. 秀長は1591年に死去し、増田長盛(ましたながもり)が20万石で入城。この後関ヶ原の戦いで敗れ失脚。

  6. 高虎は関ヶ原では徳川に味方し、筒井定次が改易となったあとの伊賀上野城を拡張する。
筒井といい藤堂といい、郡山から伊賀上野へ移っていくのは面白い。ついでながら大納言秀長は、異父姉の子供(豊臣秀保)を養子にしていたが、別に丹羽長秀の子も養子にしており、この子は請われて藤堂高虎の養子になる。藤堂高吉(たかよし)である。これが実は名張の藤堂家のはじまりとなる人物である。


大納言秀長は郡山城の築城にあたって奈良中の石を集めたらしい。柳沢神社でもらった大和郡山市が用意した観光マップ(冊子である)によれば、生駒・春日などの山石はもとより、奈良の古寺社から集めた石仏・礎石などが石垣に使われているという。

写真の穴のあいた石もそのひとつであろうか。
(下図)天守台に上り、東を見る。市民会館の向こうは大和郡山市の市街である。市街は筒井順慶が本貫の筒井から商人を呼び寄せてから形をなし始めた。次の秀長は奈良における商売は郡山以外の地ではできないように禁じたため、奈良の各地から郡山に商人が集まり、郡山の町ができた。ということのようである。



城内を出て少し南下すると永慶寺があった。柳沢吉保は、綱吉の死後、江戸駒込の六義園に隠居し、甲府藩は子供の柳沢吉里が継ぐ。徳川家門でないものが甲府を預かるというのは異例中の異例であったので、吉里は大和郡山へ移封され、柳沢郡山藩の初代藩主となる。

永慶寺は甲府にあった柳沢家の菩提寺であり、移封に伴ってこの寺もこの地に移築されたらしい。写真の山門は秀長が作った郡山城の南御門であったという。したがって山門だけは桃山期の建物 である。

柳沢家の菩提寺ではあるが、歴代の藩主の墓は江戸の各寺院にあり、ここには明治以来の柳沢家の墓があるだけらしい。



次に行くのは豊臣秀長の「大納言塚」である。写真の車1台がようやく通り抜けるかという小道を行く。

秀長は1591年に死去するのであるが、その人望の厚さから葬儀には「野も山も崩れんばかり」の人が集まった。と観光案内書にある。

五輪塔が建てられている。しかしこれは秀長死亡当時のものではない。関白秀吉は大納言秀長が亡くなると菩提寺として大光院を建立した。当時のナンバー2の菩提寺であるからさぞかし立派であったろうと思われるが、こののち豊臣家は滅びてしまう。

秀長亡き後、藤堂高虎は秀吉の家臣になり大名に引き上げられていくのであるが、最後は徳川につき、譜代に準じるほどに重用される。

大納言塚の説明板によれば、徳川期になって、高虎は大光院を京都の大徳寺に移築する。秀長の位牌は郡山の春岳院(しゅんがくいん)に託された。 残された墓地は荒廃したが、1777年にこの五輪塔を建立した。とある。

高虎はどういういきさつで大光院を移したのか知らないが、秀吉が歌った「なにはのことも ゆめのまたゆめ」ですな。秀長にとっても、郡山のことは夢のまた夢だった。


大納言塚を南下し、東に向かうと金魚の養殖池が並んでいる。


池に近づいて覗き込むと、いるいる。金魚の群れである。

このように誰でも通れる道沿いの養殖池では、高級な金魚は飼育されていない。金魚の名前は知らないが、これはヒブナであろうか。祭りの夜店で出る金魚すくい用の魚であるようだ。

観光案内には、柳沢吉里が郡山に国替えになった折、甲斐から金魚を持ってきて、下級武士が内職として養殖に励んだのが、大和郡山の金魚産業のはじまりであるそうだ。


観光案内によれば、郡山金魚資料館というのがあって無料で見学できるそうである。向こうのトタンかスレート葺きの家屋がそうである。看板が出ている。

市役所に「金魚が泳ぐ城下町」と看板がでていたくらいだから、金魚資料館は当然に市が運営しているものと思っていたが、違った。

(有)やまと錦魚園、が資料館を併営(ボランティア)しているのである。先代の社長の嶋田正治さんが、小学生の見学のために自営の養殖場を開放し、無料で説明をしていたが、ついに100坪の養殖池を埋め立て、資料館を作られた。

現在の社長もその意志をついで資料館を維持されているらしい。

金魚資料館は(有)やまと錦魚園に隣接してある。

@金魚の飼育のしかた、A珍しい金魚の陳列、B金魚に関する古文書や錦絵、C金魚を題材にした民芸品、D金魚を飼育する古い養殖器具、などが展示してあった。

資料館の中央に胸像があった。松井佳一先生とある。水産講習所を出た後、金魚の研究により農学博士となり、最後は近畿大学教授となって、昭和51年に亡くなられた。と説明があった。金魚博士ですな。

松井博士と先代の嶋田正治さんは、ともに金魚に生涯の情熱をかけられた方であることはすぐにわかる。資料館にある古書のほとんどは松井博士が収集されたものであるそうだ。一方は学者、一方は金魚の養殖を業としているのだから利害で結ばれたわけではなかろう。

ひたすら金魚が大好きな両人は、金魚で結ばれ、博士が亡くなられてからは、その蔵書を嶋田さんが譲り受けられ資料館を開設された。そして博士を顕彰するために胸像を作られた。 そういう経過であったろうかと推察する。よい人間関係です。

金魚はフナが突然変異してヒブナになったのが第一歩であるらしい。このヒブナがさらに突然変異してワキンが生まれた。これが突然変異してリュウキンになり、あるいは出目金になった。

交配によって改良された金魚もあるが、大体が突然変異によって新種ができてきたようである。


珍しい金魚が飼育されていた。ほっぺたに「ほおずき」をくっつけたような珍奇な金魚がいた。「水泡眼(スイホウガン)」というらしい。

(有)やまと錦魚園はエライ。ひとことお礼をいっておかねばと思って、資料館から錦魚園にいき、若い方にお礼をいったらテレていた。よい人だ。

金魚の養殖家は近年は少しずつ減少しているらしい。市の観光案内では、養殖農家は100戸、養殖面積140ha、年間の金魚生産高は8000万匹(錦鯉は600万匹)とあったが、金魚資料館のパンフレットでは、70戸、50ha、7000万匹と数字が小さくなっていた。

資料館を出た。道は養殖池の間にある。水は藻が繁殖して緑色になっていて、水槽で飼う金魚のようにきれいには見えないが、緑色のなかに朱色の金魚が群れて、浮かんだり、もぐったりしているさまはなかなかよいながめである。

金魚の養殖池があったのは新木町という地名らしい。これから近鉄の線路を東へ渡り、旧の城下町(町家)を訪ねる。

新木町から柳町、東岡町、南大工町ときたのが、この写真のあたりか。下町である。地図をみると、道は東西あるいは南北に通じているので、いつの時代かに町割りをしていることは確かである。


源九郎稲荷社というのがあった。源九郎は源義経だが、それに稲荷がくっついているのはどうしたことか。

写真は源九郎稲荷社から矢田町通を北上している。古い家並みであるが、木造3階建てもあって驚く。

上の写真の突き当たりを右(東)に曲がると、すぐに広い道にでた。道幅を広げる工事が進められているらしい。何通りというのであろうか。標識はない。

ここに下図のような絵地図があった。

赤字で書かれている町は、郡山市の発祥の町々である。つまり筒井順慶が郡山城を縄張りしたときに、本貫地の筒井から商人を呼び寄せて作ったのが「本町」で、これが最も古い。

豊臣秀長が100万石大名として郡山に入城したとき、奈良での商売はこの地に限ると決め、各地の商人を呼び集めて町割りしたのが赤字の町々である。

町名を見ると、魚町・茶町・綿町・雑穀町・豆腐町・紺屋町・材木町といった取り扱いの商品名がついた町が多いが、中に今井町・奈良町・堺町の地名が町名になったものもある。今井町は橿原市今井町からやってきた商人が住んだ町であろうし、奈良町は奈良から、堺町は堺からやってきた商人たちの町であったろう。




ともかくこの町にきた商人たちには商売の独占権が与えられた。大変な特権であった。これら町は「箱本十三町」と呼ばれた。特権を認可してもらった文書を朱印箱に収め、封印して1か月交代で13町が持ち回りでこれを管理したらしい。

町はかような特権を持つと同時に、治安・消火・伝馬・徴税・宗旨改めなど、行政の一部を担ったようだ。

写真は紺屋町にある「紺屋」。藍染の問屋であったものを復元し、市が運営しているらしい。


大和郡山市は、「箱本十三町」を観光の目玉にしたいようで、拡張している道路は十三町の真ん中を走っている。ただし、まだ道幅拡張のための立ち退きができていない区域が随所にあって、写真のように車1台分の道幅であるところのほうが多い。

写真は旧の道幅であるが、この先へ行くと道幅は広くなり、広くなった道は整備され、一部が道に削られた家々は、きれいに建て替えたり、補修されている。

道を広げて旧町の面影を残しつつ新たな町に変えていくのがよいのか。旧町の家並みをそっくり残しておくのがよいのか。現に人がすんでいるのだから、昔の箱本十三町を残し、なお生活を便利にするというのは非常に難しい問題である。



春岳院についた。大納言秀長を弔う寺である。高野山真言宗とあった。寺は小さい。

秀長が大和郡山にいたのは、1585年から1591年にかけての5年間ほどであった。秀吉の墓所として京都に方広寺があり、豊国神社(京都・名古屋・大阪)があるが、秀長にとってはこの春岳院と大納言塚だけが名残なのであろうか。


堺町から城へ向かう。



<郡山城が見える場所に戻った。大和郡山市は140年間の柳沢時代よりも、5年間しかいなかった豊臣秀長時代を記憶にとどめてきた町であるような印象をもった。

今日の万歩計は19800歩であった。


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