奈良・西の京

    No.23.....2003年12月21日(日曜)


行く先の目次... 前頁... 次頁... 平城京の地図... 西の京の地図... ...てくてくまっぷ なし


昨日は初雪となった。天気予報では、今日は風も弱まり少しは気温も高いそうなので、今年最後のテクテクのつもりでやってきたのは「西の京」。

前回は大和郡山市を回ったが、大和郡山駅の次の駅は「九条」ついで「西の京」である。九条から北は旧平城京の地域になる。

HPを見ていたら、奈良県庁は「平城遷都1300年記念事業準備室」を設置し、2010年に平城京遷都1300年の記念祭を行うらしい。なるほど平城京遷都は710年のことだからそういうことになる。

1995年に談山神社がある桜井市では「大化の改新1350年記念祭」をとりおこなったようだし、1994年には藤原京があった橿原市では「藤原京遷都1300年記念」をしたようだ。今度は奈良市が1300年記念を行う順番である。次は京都の平安京遷都1300年記念があるのか。

しかし2094年は先過ぎる。私は生きていない。



平城京は平城宮の北面から南へ一条・二条・・・ときて九条まで9本の東西への道が走り、南北には朱雀大路(すざくおおじ)を中心にして、右京・左京に別れ、各4本のX坊大路が南北に走る、という方形をしているのかと思っていたが、そうではなかった。

上記の「平城遷都1300年記念事業準備室」のHPにある平城京の地図をみると、第一に平城宮自体が左右対称ではなく東にとび出ているし、東四坊大路の外側には五坊・六坊・七坊大路が張り出し、そのさらに東に東大寺や新薬師寺があるといったふうに、きれいな矩形ではない。

いまの奈良の中心街は近鉄の新大宮から奈良のあたりであるので、旧平城京の左京が栄えており、右京はひっそりとしている。田んぼもある。

近鉄・橿原線は昔でいえば西二坊大路にそって北上し、九条に九条駅→六条に西の京駅→三条に尼が辻駅→一条に西大寺駅がある。

今日は西の京(六条)で下車して西大寺駅(一条)まで歩き、@薬師寺、A唐招提寺、B垂仁天皇陵、C喜光寺・菅原天満宮、D西大寺の5か所を訪れる。だいたいが西二坊大路があったところだが、大路というべきほどの道は残っていない。





薬師寺の場所は昔風にいうと「右京六条二坊」というのか。初めは、薬師寺は北が五条大路に面し、南が六条大路に面していうので、五条というべきか六条というべきか、同じく東西では西一坊大路と西二坊大路に接しているので、一坊というのか二坊というのか不明だったが、上図の地図をみてわかった。

一条大路は一条北大路と一条南大路の2本がある。この間が「一条」である。したがって一条南大路と二条大路の間が「二条」となり、二条大路と三条大路の間が「三条」となる。薬師寺は五条大路と六条大路の間にあるので「六条」であるはず。

同様に南北の道は、朱雀大路と西一坊大路の間が「一坊」であり、西一坊大路と西二坊大路の間が「二坊」となる。薬師寺はこの間にあるので「二坊」。この結果、薬師寺のありかは「右京六条二坊」であることになる。(ほんとか?)

近鉄の線路の西側の小道を少し南下する。薬師寺の南門から入りたいためである。たぶん歩いているこの小道が「西二坊大路」の名残りではないのか。写真のように近鉄電車に乗ればすぐ隣に薬師寺の西塔が見える。(電車で右に少し行けば大和郡山城が見える)



テクテクを続けているうちに、歩くのは@東から西を向いて、A南から北を向いて、のコースをとるべきであることがわかった。そうでないとカメラの向きが逆光になって、上図のように画面が暗くなる。(写真は東向きに撮っている)

南門に到着。9時を少しまわった時刻である。観光客はまだいない。

南門の奥にある屋根は中門。左は西塔。拝観料は500円。


伽藍図があった。右が北、左が南。

南からは中門があり、中心に金堂、その北に講堂がある。金堂の東西には三重の塔があり、中門と講堂をつなぐ回廊が金堂・東西両塔を囲むという配置である。伽藍の配置は「薬師寺式」である。

配置図の赤色部分は完成した箇所である。回廊はいまのところ講堂まで達せず途中でちょん切れているが、いずれは延長されるのだろう。

薬師寺には30年ほど前に来たことがある。24才のころだったか25才だったか、今日と同じく一人でやってきた。

当時は東塔と旧講堂があるばかりで、本尊の薬師三尊像は旧講堂にいらしたのだろうが、多くの諸仏像はコンクリート作りの仮の収蔵庫に収められていたような記憶がある。



中門前から西塔を見る。

薬師寺はもとは飛鳥の地にあった。天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈願して680年に発願→(天武天皇686年没)→697年持統天皇によって本尊開眼→文武天皇の時代に堂宇が完成、と天武・持統天皇の夫妻によって建てられた大寺院であったが、平城遷都の後すぐ(718年)にこの地に移されたものである。

元の薬師寺は「本薬師寺」と呼ばれ、藤原京の域内の田んぼの中に東塔・西塔の礎石が残っている。これは昨年11月に 大和三山回遊@で見た。




中門前から東塔を見る。高さは34m。

本薬師寺にあった東西の2塔が、そのままこの地に移されたのかどうか。(本薬師寺の礎石の間隔は少し狭かったように思うが)ともかく1300年の年月を経て東塔だけが残った。

初めて訪ねた折の薬師寺管主は高田好胤さんで、当時はテレビ番組によく出て僧としては頭抜けて有名であったが、これは創建当時の薬師寺の復興を悲願され、そのための募金活動の一環であったようだ。

薬師寺のパンフレットによれば、1967年に薬師寺白鳳伽藍の復興を発願され、@金堂(1976年)、A西塔(1981年)、B中門(1981年)、C回廊(1991年)、D講堂(2003年)の順に復興されたらしい。好胤さんは1998年に亡くなられているから、今年復興された講堂は見られていないが、当然に復興計画にあったと思われる。

復興資金は写経勧進でまかなわれた。今でも写経勧進は続いている。般若心経1巻が2,000円、薬師経が4,000円、唯識三十頌が5,000円とパンフレットにあった。


中門をくぐると、金堂があり、奥にはできたばかりの大講堂がある。金堂の左右には西塔と東塔。

きらびやかである。「竜宮造り」と呼ばれているそうだが、まったくその通りである。「青丹よし」とはこのような建物をいうのだろう。復興された建物は当然にコンクリート造りではあるが、今出来のものであろうと、ここには様式美がある。

この様式美であるが、どうもその原因は「裳階(もこし)」にありそうである。国宝の東塔は三重の塔であるが、各階には裳階がつけられている。この裳階が建物の印象をガラリと変える。同じように金堂の大屋根の下にも裳階がついている。


大講堂もそうである。入り母屋造りの大屋根の下に裳階がついて建物を複雑にし豪華に見せている。

裳階つきの建築物は珍しいものではない。法隆寺金堂、平等院鳳凰堂などもそうであるらしい。

10円玉を見ると本当だ、鳳凰堂には裳階がついている。無知というものはどうしようもないもので、裳階を知らないうちはこれに気がつかない。ずっと見過ごしてきた。


「凍れる音楽」と比喩される国宝東塔である。下から順に@初層裳階→裳階屋根→塔身→大屋根→A二層裳階→裳階屋根→塔身→大屋根→B三層裳階→裳階屋根→塔身→大屋根→C相輪、というのだそうである。

同じ白鳳期の三重塔である当麻寺の国宝東塔(西塔も国宝)は裳階を持たない。その分単調である。@初層→屋根→A二層→屋根→B三層→屋根→C相輪、と上層にいくに従って塔身も屋根も小さくなる。

裳階は塔身を取り巻いているので塔身よりも幅広になるが、逆に屋根は裳階屋根は大屋根より小さい。塔身・裳階の大小の関係と裳階屋根・大屋根の大小の関係が、薬師寺東塔の「律動的な」美しさを作っている。

下から上に向けて視線を移していくと、
  1. 最も幅広な初層裳階に、少し張り出した裳階屋根がある。
  2. 初層裳階の3/5ほどに絞られた初層の塔身に、塔身の2倍もあろうかという大屋根が大きく広がり、それが第二層の塔身の幅まで狭まる。

  3. 二層目は塔身から腰組が出されて、塔身よりも5/3倍ほどに広がった二層裳階を支える。ここには高欄もつけられてある。この上には少し張り出した裳階屋根がある。
  4. 裳階屋根は収束して二層塔身の幅に戻り、その上に大屋根が広がる。この二層の大屋根の幅は初層の裳階屋根と似た幅である(少し狭いようだが)

  5. 二層の大屋根は第三層の塔身の幅までキュッと絞られる。二層と同じく塔身から腰組が出て、塔身よりも2倍ほどに広がる三層裳階を支える。さらに広がる裳階屋根。
  6. 裳階屋根は収束して三層塔身の幅に戻り、最後の大屋根が広がる。大屋根の幅は二層の裳階屋根と似た幅である。

  7. 九輪の相輪が天に向かって伸び、飛天の透かし彫りのある水煙でクライマックスとなって、宝珠で終わる。


写真でみるだけだが、水煙には片膝を折って横笛を吹く飛天の透かし彫りがある。塔を順に見上げていき、最後の水煙に行きついて、このことを思いだせば天上の音楽が聴こえる。

まあ個人の趣味としては、このときの音色はフルートであらねばならないし、モーツアルトの曲でなければならない。ピアノ協奏曲23番の第一楽章の出だしのところか、ピアノ協奏曲24番の第一楽章のフルート部分がよい。

薬師寺を出て、近鉄の踏み切りを西に渡る。 いったん西へ向かったのは大池越しに薬師寺を眺めたかったからである。薬師寺でもらったパンフレットには池の向こうから撮った写真があった。地図を見て「大池」とあるのがそれであろうと思って、大廻りすることにした。

パンフレットと同じ位置にやってきて写真を撮ったが随分違うものになった。まあ撮影者はプロカメラマンであろうし、カメラも違う。ズーム機能なしの廉価デジカメではこのように写る。






大池をぐるり回って東に進むと秋篠川にでた。土手道を北上して薬師寺方面へ戻る。秋篠川の少し向こうには川と平行して南北に走る県道9号線があるが、これが平城京の西一坊大路にあたるようだ。

秋篠川の水はよほどゆっくりと流れている。朝方は薄氷が張ったらしく、とけかかった薄氷が動いている。



いったん薬師寺の北門までもどり、北上する。すぐ先には唐招提寺がある。道を歩いていて思い出した。30年前にこのような土壁の道を歩いたことがある。

塀の白壁は剥落し、土があらわになって処々で崩れそうなところがあった。観光地にしては珍しく荒寺を放置してあるものだ と思った記憶がある。

果たしてその寺はまだ残っているのであろうか。



あった。しかし考えてみると30年前に崩れかけていたものが、今でも崩れずに残っているものかどうか。別の寺かも知れない。

寺門は向こうに倒れかけていて、内からつっかい棒がされていた。元は薬師寺に属するXX院であったのだろうが、今は無人のようである。境内の庭も草ボウボウで荒れるにまかせてある。

ものを維持することは大変である。庭ひとつをとっても、雑草を引き抜き、伸びた枝を切り、落ち葉を掃き、の繰り返しである。手を抜けばあっというまに荒れる。






さらに北上する。突き当たりの木立が唐招提寺の寺域らしい。だが向こうの工場のような白い建物はなんであるのか。

30年前に初めて奈良に来たときは、国鉄奈良駅から徒歩で唐招提寺に行き、ついで薬師寺を訪れた。その後どういうルートで戻ったのか記憶はない。

唐招提寺を真っ先に訪れたのは井上靖さんの「天平の甍」を読んでいたせいかも知れない。

当時「闘牛」「あすなろ物語」「比良のシャクナゲ」などを読んだ覚えがある。

「比良のシャクナゲ」のシャクナゲとはどのような花であろうかと思いつつも、面倒なので調べなかった。テクテクで室生寺また長谷寺にいったときに土産物屋の店先で、こういう花木であるのかとようやく知った。30年以上あとのことである。愚かである。




南大門が見える。白鳳の大伽藍を復興させた「竜宮造り」の薬師寺から「天平の甍」の唐招提寺へやってきた。

南大門は1962年に天平様式で復興された新しい建物であるが、この中には「天平の甍」の国宝金堂と講堂がある。同じく国宝の校倉造りの宝蔵・経蔵がある。



南大門下に拝観受付所がある。拝観料は600円。横に金堂修理解体のお知らせの掲示板があって、金堂が修理されているらしいことを知ったが、南大門をくぐってみて、驚く。何もない。

遠くから見えていた工場のような建物は唐招提寺境内にあったのだ。パンフレットには、金堂があってその向こうには講堂があって、奥には御影堂がある地図が載っているが、この鉄工所風建物が前面の視界をさえぎっている。



建て看板があった。平成12年4月〜21年6月まで金堂は解体修理しますとある。ほぼ9年間は金堂は見ることができない。

「お父さん、今日はみんなと唐招提寺に行って、鑑真和上像を見てきたのよ。」

と死んだ家内がいっていたのは、つい最近のような気がしたが、解体修理前のことだったか。

「鑑真和上像・里帰り20周年記念」という写真集が残っていた。そのおり家内が買い求めた本である。奥付をみると平成11年4月とあるので、修理開始より1年前に訪れたらしい。東山魁夷の障壁画も見たといっていたから、御影堂に入らせてもらったようである。今となっては実に幸せな機会を持ったといえる。




金堂は、まずは見事に解体されていた。パンフレットに「大円柱の放列は遠くギリシャの神殿を想起させよう」と書かれているエンタシスの柱はごろりと横たえられている。

工場内には2段の資材置き場が組まれていて、ここへ小柱や垂木や梁、天井などが置いてあるようだが、天平の甍はどこに置いてあるのであろうか。




工場を出ると講堂があった(手前は鐘楼)。なにしろ工場は金堂をすっぽりと覆っているから、工場の壁に背中を貼り付けても, 講堂全体を視野に入れることは難しい。

鑑真和上は聖武天皇の招請によって日本へ渡らんと決意したが、5度の渡海を試みてことごとく失敗。5度目の失敗のあとで失明。6度目にしてようやく平城京に到着できたのは12年目(67才)のことであった。ということはよく知られている。

請来の目的は「授戒伝律」のためで、754年に東大寺に戒壇を築き、聖武上皇・光明皇后・孝謙天皇をはじめとする430余人に戒を授けている。

759年に右京五条二坊のこの地にあった新田部親王(にいたべ)の旧宅を下賜され、唐招提寺を創建された。翌年(760年)に平城宮の朝堂院東朝集殿を移して講堂とした。朝集殿は南北棟であったが、これを東西棟としたらしい。ともかく我が国に唯一残る平城宮の建築物である。




唐招提寺は戒律の学問寺であるから、まずは講堂と生活のための食堂(じきどう)が必要であり、食堂は藤原仲麻呂が寄進した。(食堂は残っていない)

解体中の金堂は、鑑真和上の在世中(763年入寂)にはなかったようだ。できたのは770年以降のことらしい。

写真手前は講堂の東面。向こうは境内唯一の2階建ての舎利殿(鼓楼)で鎌倉期のもの。いまは工場が張り出して頭を押さえつけている。

和上は三千粒の仏舎利を将来されたという。その仏舎利は白瑠璃舎利壺(しろるりしゃりつぼ)に入れられ、これを方円彩糸花網(ほうえんさいしかもう。レース)で包み、金銅製の金亀舎利塔(きんきしゃりとう)に収めてある。瑠璃壺・花網は唐代のもの、舎利塔は平安期のもので国宝。

仏舎利は塔に収まるべきものであるが、塔がなくなってからは鼓楼に置かれていたようだ。(今は違う)





校倉造りの経蔵を右手にして正面には御影堂(みえどう)があるが、ここは毎年6月5日〜7日のわずか3日間だけしか公開されない。(6月6日が入寂の日)国宝鑑真和上坐像がある。

この和上像は、弟子の忍基が講堂の棟梁が折れる夢をみて、鑑真の余命少なきことを悟り、急ぎ作らせたという。つまりは生前の鑑真をモデルに作られている。



鑑真和上の亡骸は弟子たちによって荼毘に付され、この地に埋納された。

パンフレットには、天平期に排出した高僧のなかで、その墓所がわかっているのはこの鑑真の廟所と行基の墓所だけである、とある。

この時代の高僧とは玄ム(げんぼう)、良弁(ろうべん)、行基(ぎょうき)であろうか。東大寺大仏開眼の導師をした菩提僊那(センナ)であるのか。役の行者もそうか?


南大門を出た。12時を回っていたので昼飯を食べることにした。門前の食堂は、おばあさんが一人で店をきりもりしている。

金堂が解体修理していると、ちょっとは売上げにひびくのではないかと下世話な話をしかけてみた。1995年に阪神淡路大震災が発生したとき、奈良でも震度5の揺れであった。地震の後で唐招提寺のそこここを調査したところ金堂のゆがみがきつく、すぐにも解体修理の必要があるの結論がでたらしい。

解体修理と一口にいっても、それは大プロジェクトである。テレビの「ビフォー・アフター」のように簡単ではない。9年2か月をかけて解体修理することになり、2000年4月から始まった。店主のおばあさんは「ちょうど半分や、あと半分で終わる」といっていたが、まだ1/3ほどのところである。

「なんでも作れるで」というので親子丼を注文したら、ちょっと作り方が違っているのではないか。おじや風の親子丼だった。まあ年寄りのすることだから。薄い茶を飲みながら丼を掻きこんだ。



唐招提寺を振り返ると2棟の工場があった。奥の建物は金堂を覆うもので、手前の建物は修復のための作業場であろうか。金堂を葺いた瓦(天平の甍)もここにあって調査されているのだろうか。



近鉄の線路に沿って北上するとすぐに垂仁天皇陵が見える。

テクテクは「山の辺の道」から始まった。ここで10代崇神天皇陵と磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)跡、12代景行天皇陵と纏向日代宮(まきむくひしろのみや)跡、11代垂仁天皇の纏向珠城宮(まきむくたまきのみや)跡を訪れた。

崇神天皇と景行天皇の陵と宮はともに巻向(まきむく)の地で、それぞれ近いところにあったが、垂仁天皇の陵墓だけはうんと離れている。どういうことなのか。


「歴代天皇総覧」笠原英彦著で垂仁天皇の章を開くと、なかなか大変な人生であったようである。

第一に垂仁天皇の皇后は兄と謀って天皇を殺そうとしたので、天皇は兄妹を砦に追い詰め、火を放ってこれを殺した。第二、火中から助けだされた皇子は成年に達しても言葉を発することができなかった。という話。

これとは別に第三、出雲の野見宿禰と当麻蹴速(たいまのけはや)が初めて相撲をとり、野見宿禰が勝ったこと。第四、田道間守(たじまもり)は天皇の命を受けてトキジクノカクノミを求めて常世の国に行き、これを入手して戻ってきたがすでに天皇は亡くなっていたこと。などのエピソードがある。

写真の小島は天皇のために異国に赴き、果実(橘の実)を得て帰ってきた田道間守の墓であるといわれている。ただし、今は周濠の水は抜かれて干上がっている。濠の底ざらえをしたらしい。



垂仁天皇陵から少し北にいけば菅原の地がある。ここは奈良における土師氏(はじ)の根拠地であったらしい。

よくはわからないが、先の出雲の野見宿禰(のみのすくね)は垂仁天皇に生涯仕えることになった。垂仁天皇はこれまでの殉死の風習を嫌ったので、野見宿禰は出雲より土師部を呼び寄せて土人形を作らせ、陵墓の周囲にこれを並べ置くことによって殉死に変えたという。埴輪の始まりである。

土師部は、土師器の製作技術者集団である。土器を作る替わりに埴輪を焼いたわけだ。以来土師氏は天皇の喪葬を仕事にすることになる。当然に垂仁天皇が没したときには垂仁天皇陵を作るという土木作業も行ったわけで、土木技術者集団になる。

奈良の土師氏のほかにも和泉に土師氏がいて、仁徳天皇陵・履中天皇陵の造築にかかわったらしい。


のち(781年)にこの地の土師氏は「菅原」を賜姓され、ここから菅原道真が生まれ出るのである。道真は宇多天皇に見込まれ、最高位では右大臣になるのであるが、藤原氏代表の藤原時平によって大宰府へ左遷される。

たったこれだけのことながら、道真は天満宮に祭られ天神さんになるのである。

この地は道真が生誕の地であると言い伝えられている。写真は京都の北野天満宮よりいわれが古い菅原天満宮である。

上の写真は産湯を汲んだという池。住宅地の一画にあるが、水が流れていないせいか濁っている。


喜光寺は菅原神社のすぐ近くにある。神社から100歩ほどで着いた。小さな山門をくぐると無人の拝観受付所があって、300円を入れてパンフレットを持っていくようになっている。

喜光寺は行基が721年に創建したと、そのパンフレットにある。司馬さんは「街道をゆく・24」の「奈良散歩」のなかで行基(668〜749年)について書かれておられる。

『行基は和泉国の大鳥郡の人で、....早くより出家(15才の説がある)し、最初は官寺(飛鳥寺の説がある)に入って正規の僧の身分を持っていたが、のちに野にくだり、民間の宗教家として四方に活躍した。貧民を救済したり、農業用の池をさかんに掘ったりして、民衆から「菩薩」とあがめられていたことはよく知られているし、仏教者にして行基ほどの社会事業をしたひとは、その後もいない。』という人物である。


行基のこういう民衆と共にする活動は、当初は政府によって弾圧されたらしいが、東大寺建立の時期になると行基は大僧正の位を得て、東大寺大仏の建立に尽力している。

喜光寺は行基の平城京における活動の拠点となった寺であった。東大寺大仏開眼の導師を務めたインド僧の菩提僊那(センナ)もこの寺で饗応を受けたそうであるし、パンフレットには書いてなかったが、行基はこの寺で没したらしい。

境内に残っているのは本堂(金堂)だけである。行基が東大寺大仏殿を造営する折に、この金堂を参考にしたので「試みの大仏殿」と呼ばれている。


境内には、金堂以外には何もない(住職の住む坊はあるが)のがかえって気持ちよく、遠目に金堂を見たかったのでいったん外に出た。

寺の前の公園から見ると、金堂は裳階(もこし)をつけていることがよくわかる。薬師寺と同じである。裳階のついた建物はやはり姿がよい。

公園の地面に、子供が枝先で描いたのであろう、アンパンマンが描かれていた。うまいものだ。


菅原神社横の道を北上すれば、西大寺にぶつかるはずである。


しかし途中で道をはずれたらしい。西大寺に突き当たらない。

高い土塀があったので右に曲がったら、土塀が東に向かって延々と続いている。これほどの寺域を持つのは西大寺に違いない。


これは西大寺の東門。西大寺は764年に称徳天皇の発願で造営が始まり、15年かけて完成。110余の堂宇が並ぶ大寺となった。

称徳天皇(孝謙天皇が重祚。女帝)の父は東大寺を造営した聖武天皇であるから、父娘は東西に大寺を建て、このために国家財政を逼迫させ、平城京の幕引きの原因のひとつとなるのである。

東の東大寺は今なお多くの建物が残っているが、西大寺は平安期に災害がたび重なり衰退してしまったらしい。


西大寺は初めて訪れる。東門を入ってみると、なかなかよい雰囲気ではないか。




金堂。鎌倉期に新しく建てられたもので、元の金堂の様式ではないらしい。現在の建物は江戸期に再建したものである。

この建物には土壁は使われておらず、総板壁であるのが特異である。パンフレットを見てから見直すと、なるほど白い壁はどこにもない。

拝観料400円を払って金堂内に入ると、なんと内陣に上がって本尊を眼の前に拝観できる。内陣にまで上がれるというのは西大寺の参詣者にたいする破格の好意である。

愛染堂。寝殿造りである。右の基壇は元の西大寺の唯一の名残りで、東塔跡。

愛染堂の横には菩提樹が植えてあった。

西大寺には見るべきものはそう残っていないが、逆に余計なものがなく、きれいに掃除された境内の雰囲気はよかった。

寺というのは寺院(建築物)も大事ではあるが、それを取り巻く空間のほうがより重要である。今日訪ねた寺では、気持ちとして納得したのは、@薬師寺、A喜光寺、B西大寺、C唐招提寺 の順であろうか。

国宝建築物をそろえた唐招提寺であったが、中央に工場が立っていては、広い空間に身をおいて時間が止まったかと思い、あるいは逆に悠久の時間の流れを思い起こす心境にはなれなかった。残念である。

西大寺を出るとすぐに近鉄西大寺駅である。

2時50分発の特急があった。名張には3時40分に着く。今日の万歩計は24100歩だった。


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