
平城宮跡
No.24.....2004年 1月10日(土曜)
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平城京の地図...
平城宮の地図...
...てくてくまっぷ No.64

「No.64 ウワナベ古墳・秋篠寺コース」の「てくてくまっぷ」は右のもの。
2回続けて「てくてく・まっぷ」なしで歩いた。「大和郡山」と「西の京」の2か所である。どちらも近鉄電車の車窓から歴史ある建物(郡山城や薬師寺)が見えるが、なかなか訪ねられなかった場所であった。
今日も近鉄電車の線路からすぐそこに見えるところに行く。それは平城宮跡であるが、さいわいなことに「てくてくまっぷ No.64」があって、いくつかの古墳と平城宮・秋篠寺を巡るコースになっている。
いくつかの古墳というのは、佐紀丘陵の南面にある(東から順に)@ウワナベ古墳、Aコナベ古墳、Bヒシアゲ古墳(磐之媛陵)、C市庭古墳(いちにわ。平城天皇陵)、D陵山古墳(みささぎやま。日葉酢媛陵(ひはすひめ))、E石塚山古墳(成務天皇陵)、F五社神古墳(神功皇后陵)である。
@〜Cは固まっていて、D〜Fも固まっている。この両古墳の間(の南)に平城宮跡がある。コースとしては、@〜C→Aの平城宮跡→D〜F→Bの秋篠寺→Cの西大寺となっている。Cの西大寺は前回訪れたので省略するつもりだが、それでも全部は回れそうにない。いけるところまで行くしかない。

スタートは近鉄・奈良線の「新大宮」駅である。名張からは2度の乗り換えをする。2度目の乗り換えは西大寺駅であるが、新大宮は次の駅である。名張からの電車賃は880円。
新大宮で下車したのは過去に2度しかない。一度は家内のイトコの通夜にいった。一度は仕事で行った。ともに駅の南側を歩いた。
今日は、はじめて駅の北側を歩く。新大宮駅は昔の平城京の番地でいえば、左京二条東三坊(平城京の地図)となるのであろうか。(写真は南を向いて撮ったもの)

北を向いて歩く。午前10時である。

佐保川を渡ると、国道24号線に出た。24号線を向こうに走れば、すぐに京都府である。
地図上での目測であるが、このあたりから3Kmで奈良山を越えて京都府に入る。そこから3kmのところに木津川が流れている。

24号線に直交して東西への道があった。角に「一条高等学校」の看板がある。高校の所在を表すにしては、ステンレス製・金文字の看板は派手である。
この道は旧の一条大路に違いない。(写真は一条通りを西に向かって撮った)
この道を西に行けば平城宮に突き当たる。一条大路は真ん中に平城宮があるので東西に通じていない。平城宮をでて、初めて東西に通じるのは二条大路からである。(三条から九条の大路も東西に伸びている)
二条大路はどこであったのか。二条大路は後に訪れる平城宮の朱雀門(すざくもん)の南前を東西に走る大道である。ここまで二条大路であったような痕跡のある東西の道は気がつかなかったが、あとで地図を調べたら、どうやら新大宮駅からすぐ北(2つ上の図の、信号がある横断歩道のあたり)の道ではなかろうか。

24号線沿い西側にウワナベ古墳があった。大きい。しかも整備してある。周濠のぐるりはアスファルト道がある。
「古墳とヤマト政権」(白石太一郎著・文春文庫)によれば、ウワナベ古墳は前方後円墳で、墳丘長は265mである。このあたりは大型古墳が集まっており、佐紀古墳群と呼ばれている。
佐紀古墳群は、初めに掲げた「まっぷ」の番号でいうと@〜CのグループとD〜Fの2つのグループに分けられる。@〜Cは5世紀初〜中葉(西暦400年〜450年ころ)の時期の古墳であり、D〜Fはそれより早い4世紀後半(350年〜400年ころ)のものであるらしい。
ウワナベ古墳が造られた時期は、大阪府羽曳野市の応神天陵や堺市の仁徳天皇陵ができたときと同じであるようだ。

佐紀古墳群にある古墳の大きさは、
F五社神古墳(神功皇后陵)276m
@ウワナベ古墳 265m
C市庭古墳(いちにわ。平城天皇陵)250m、
E石塚山古墳(成務天皇陵)220m
Bヒシアゲ古墳(磐之媛陵)218m
D陵山古墳(みささぎやま。日葉酢媛陵)210m
Aコナベ古墳 204m
の順で、ウワナベ古墳は佐紀古墳群の中では2位、全国でも13位の大きさなのであるが、同時代での最大規模ではない。同時代の応神天陵は420mあるし、仁徳天皇陵は486mある。@〜Cの古墳は同時期の最大の古墳ではないのである。
一方D〜Fの古墳は同時期では最大規模の古墳であるので、D〜Fが造られた時期はこのあたり(佐紀)が政権の中心地になっていたのではないかと考えられているのだそうだ。

古墳の周壕沿いの道は舗装されているが車はめったに通らない。ジョギングする人もあった。
向こうに人のかたまりがあって、どうやら中学校のクラブ活動の練習をしているようだ。
近づいたら、こちらに男の先生が1人に女子生徒が5〜6人。さらに50mほど先には女の先生が1人に女子生徒がやはり5〜6人いて、互いに向き合っている。こちら側と向こう側が声をかけて同時にスタートして走り、すれ違って位置を変える。
陸上部なのか、バレーボール部なのか、ソフトボール部なのか、何部かはわからないが、ダッシュの練習を繰り返していた。
男の先生は、先手をうって「おはようございます」と声かけてこられた。リッパである。土曜の休みを返上して生徒のクラブ活動につきあっている。生徒のことを強く思っている上、見ず知らずの私にさえ挨拶をされる。こういう先生がいれば多くの学校問題も解決するに違いない。(こういう先生が少ないことが学校問題である。)

濠では、鴨たちがスタートダッシュの練習をしていた。

ウワナベ古墳の前方部を過ぎて少し北上すると、航空自衛隊の幹部候補生学校があった。
なんで奈良に幹部候補生学校があるのか?
幹部候補生学校は、防衛大や一般大学を卒業した自衛隊員が一定の勤務年数を経たのちに入学できる、自衛隊幹部になるための教育機関であるようだ。HPで調べたら、海上自衛隊の幹部候補生学校は広島の江田島にあるらしい。なるほど旧海軍の海軍士官学校であったからであろう。
陸上自衛隊の幹部候補生学校は九州の久留米にあるようだ。旧の陸軍士官学校は東京の市ケ谷に長くあり、そののち神奈川の座間とか埼玉の朝霞に移ったそうであるから、これは旧陸軍の歴史とは関係がない。
ここでちょっと自信がなくなるが、旧空軍というのは無いよなあ。「陸海空軍」の言葉はあるが、空軍大臣というのは聞いたことがない。空軍は陸軍航空隊とか海軍航空隊とかにあって、独立した軍隊ではなかったのではなかったか。そうであれば、旧軍とは無関係そうな、この地に幹部候補生学校があってもどうということはない。
30数年前に、大学を出て初めて就職した会社(今はなき山一證券)の上役が、「幼年学校にいたときに終戦になったので・・・」と履歴を語られたときに「それは陸軍ですか、海軍ですか?」と聞いた恥ずかしい思い出がある。幼年学校といえば陸軍幼年学校に決まっているだろうが。と叱られてもしようがないくらい、この方面には暗かった。(今も同じである)
金網のフェンス越しに中を覗くと、確かに飛行機がある(下図)。右は練習用のジェット、真ん中の黄色いのはプロペラ機、左の長い機体もジェットだろうか。早そうである。もっともこれは単に陳列してあるだけである。飛行場がないから飛べるはずがない。

コナベ古墳の後円部をぐるっと回る。
ウワナベ古墳・コナベ古墳はともに200mを超える大古墳ながら、誰が葬られているのかは特定されていない。特定できていないが、参考陵墓として宮内庁が管理している。
(次図)大きな池に出た。水上池(みなかみ)というらしい。水辺には葦が茂り、葦の間で水音がしたり、キューキューと鳥の鳴き声がする。水鳥にとっては格好の場所であるようだ。
あとで知ったが、この水上池の南端は平城宮の北面に接しており、平城宮の庭園であったらしい。「苑池(えんち)」ですな。

水上池のすぐ北に、ヒシアゲ古墳がある。仁徳天皇の皇后である磐之媛(いわのひめ)の陵と比定されている。墳丘長は218mと大きい。
仁徳天皇皇后陵となれば当然に宮内庁の管轄であるが、濠の幅は狭く、葦が生えていて、すぐにでも陵墓に入れそうな感じである。
磐之媛は葛城氏の祖先ともいわれる葛城襲津彦(かつらぎ・そつひこ)の娘である。16代仁徳天皇の皇后になって、17代履中天皇(りちゅう)・18代反正天皇(はんぜい)・19代允恭天皇(いんぎょう)の3代の天皇の母となる。
しかし嫉妬深い皇后として伝えられている。

仁徳天皇は仁政をしいた天皇として知られているが、艶聞に満ちた側面もあったようだ。
「歴代天皇総覧」(笠原英彦・中公新書)によれば、天皇は八田皇女を見染め、妃として召そうとしたが、皇后磐之媛に断固反対される。天皇は8年間にわたって皇后を説得したが受け入れられず。とうとう皇后が紀伊の国に行幸した留守中に八田皇女を宮中に召しいれてしまう
。
皇后の怒るまいことか。それを知った皇后は難波高津宮へは戻らず、大和へ行き、後に山城の筒城宮(つつき)を構え別居する。筒城(つつき)というのだから今の京都府綴喜郡(今は京田辺市)のどこかであろうか。
天皇は何度も戻ってくるように使いを出すが、皇后は頑として拒否し、この地で亡くなり佐紀の地に葬られた。

仁徳天皇はこうして得た八田皇女であったが、今度はその妹の雌鳥皇女(めとり)に心惹かれ、これをどうのという話が紹介されているが、まあ普通の男の感情であり、普通の女の想いである。天皇・皇后の感情の対立について、これをあからさまに記述した記紀というのは正直というか、ナカナカのものである。
ヒシアゲ古墳の後円部まで歩き、西に向かう。孫3人とおじいちゃん・おばあちゃん、それに犬1匹が散歩している。向こう正面の平らなところは平城宮である。

仁徳天皇は、しかし皇后が亡くなった後には、このように巨大な墳丘墓を造り、皇后を弔った。
写真中央の木立の右が前方部、左が後円部であるが後円部はフレームに入りきれていない。
これを見ても、仁徳天皇は皇后磐之媛を立てようとした気のよい人物であったことがわかる。

南下する。南下すれば平城天皇陵(へいぜい)があり、その先に平城宮跡にぶつかるはず。
平城天皇は奈良時代ではなく平安時代の天皇である。平安京へ遷都した50代桓武天皇の第一皇子で、806年に51代天皇として即位するが、3年後には健康上の理由で弟に譲位している。弟は52代嵯峨天皇である。
嵯峨天皇は弘法大師空海のよき理解者であった。司馬さんは「空海の風景」のなかで、平城天皇について詳しく書かれているが、まあその女性関係は滅茶苦茶である上、国を統治することについての考えもない。
譲位した後、生まれ故郷の平城京に戻るのであるが、ここから平城京遷都の命を出したり、嵯峨天皇の施政に反する「太上皇の詔」を発するなどして人心を混乱させた。「二所の朝廷」と呼ばれるほどであったらしい。

平城天皇陵に着いた。周壕はなく、円墳のようであった。
平安時代の天皇のほとんどは京都に陵墓がある。京都にないのは、この51代平城天皇と、75代崇徳天皇(香川県)、81代安徳天皇(山口県)だけのようである。
円墳だと見えたが、あとでもらった平城宮跡のパンフレットによれば、もとは前方後円墳であり、平城宮が造られるときに前方部が削り取られて後円部だけを残したそうである。
となると平城天皇陵というのは時代が合わない。平城京が作られた710年にはこの古墳はすでにあったわけで、天皇が亡くなった824年以降に作られたものではない。先の白石太一郎さんの著書にも、この古墳(市庭古墳)は5世紀初〜中葉の時期のものであるとある。
陵墓の比定が間違っているのか、すでにある古墳を再利用したのか。まあどうでもよいことであるが。

平城天皇陵前の道を50mほど南下すると、そこは広大な平城宮跡である。
平城京は東西4.3km・南北4.8m、さらに東側に東西1.6km・南北2.1kmの外京からなる壮大な計画に基づく巨大都市であった。この北部中心にあったのが平城宮で、宮は東西1.3km・南北1kmの広さである。
写真は南を向いて東方面を撮る。向こうのビル群まで野原。

南を向いて撮る。向こうに朱雀門が見える。朱雀門までは野原。ただし発掘され、柱のあったことが判明した位置にはツゲの木が植えられている。
また平城宮を取り巻く築地塀があったところには柴垣が植えられていたりする。

南西を向いて撮る。右の建物は大極殿(だいごくでん)の復元工事をしている覆いの建物。
すでに訪れた藤原宮跡も広大であったが、900m×900mの広さであった。ここは1300m×1000mであるからさらに広い。これだけの土地を買収するのは大変であったろう。
北面の一部と東面の一部に民家が入り込んでいるだけでほぼ完全に平城宮跡が確保されている。

すぐ近くに遺構展示館があった。発掘されたそのままの状態を見ることができる。地図が掲げてあったのでこれを使って説明すれば、薄青緑色の地域が平城宮跡である。紫色は建築物があったと認められた場所である。
- は上の3枚の写真を撮った位置である。
- は遺構展示館。この後、
- 第2次大極殿跡を通って
- 近鉄の踏み切りをわたって朱雀門へ行き
- 引き返して、シルクロード博記念館を見て、
- 第1次大極殿の復興現場を見、
- 平城宮跡資料館を見学する。
という盛りだくさんの巡回となった。
遺構展示館の見学は無料である。無料であるうえにボランティアのひとたちに解説してもらえる。

遺構といっても遺物はたいして残っていない。@掘っ立て柱の穴跡、A排水路に使われたレンガ、B瓦、C柱、D井戸枠 くらいである。復元中の第1次大極殿の模型や内裏の模型のほうが目を引く。どうしてかくも遺物が少ないのか。
ボランティアの解説者が二人おられて、うち一人の解説者の声が大きいのと、ユーモアある口調が耳についたので、見学者グループの中に混じった。
解説者の後をついて行き、指差すものを見、解説を聞くと、なるほどよくわかる。
「左が土師器(はじき)で、右が須恵器(すえき)です。土師器は800度で焼き、須恵器は1000度以上の高温で焼きます。この技術は朝鮮半島から渡来したものです。」

遺構展示館から復元された宮内省が見える。はるか向こうに復元された朱雀門もある。
平城宮の発掘は、これまで50年かけてようやく30%が終わったところであると解説者がいっていた。
全容が解明するにはさらに50年100年かかることになる。この広さだからなあ。

遺構展示館(写真向こうの建物)を出た。
親子づれが腰掛けて弁当を食べていた。周りにはタイルが貼ってあるが、それは平城京の地図である。南北に九条の大路、西に四坊・東に七坊の大路を持つ平城京の全図である。
親子が弁当を食べているところは平城宮で、一段高くなっている。

平城宮跡は奈良文化財研究所が管理しているようだが、このように大きい地図を作ったのはエライ。歩いて平城京めぐりができる。(上の写真では自転車で回っている。)
地図の上を歩いてみた。手前のピンク色の一角は薬師寺である。その左は唐招提寺。垂仁天皇陵もあるぞ。向こう奥隅には東大寺。その右が興福寺。
司馬さんは平城京についていろんな本で何度かふれられているが、「この国のかたち・三巻」の中で、
『平城京という大都市ができたものの、都市としてはまったく孤独なものであった。他に都市がなかった。・・・・・平城京そのものが大博覧会におくるパビリオンに似ていなくもなかった。くりかえすが、経済的土壌の上に成立した都市ではなかったのである。』
と書かれている。まあハッタリの都市である。ハッタリは諸外国に対するものであり、国内では地方の豪族、税を徴収する庶民に向けられたものであった。

親子が席を離れたあいだに平城宮の地図を撮る。
平城宮には新旧2つの建物跡がある。第1次の大極殿・朝堂院であり、第2次の大極殿・朝堂院である。元明天皇が710年に藤原京から遷都した時は、第1次の大極殿・朝堂院であった。従って大極殿の正面に朱雀門があり、朱雀大路が南に伸びている。
45代聖武天皇は祖母である元明天皇が造った平城京に定住せず、3度の遷都を繰り返している。山城の恭仁京(くに)、近江の紫香楽京(しがらき)、難波の長柄豊崎宮(ながらとよさき)である。恭仁京へ遷都する際に第1次の大極殿・朝堂院は解体され、これを運んだようである。
再び平城京に戻ってきたときには、当然に大極殿はないので、第2次の大極殿・朝堂院を元の場所の東隣に作らせた。このため朱雀門は第2次大極殿の南正面から西側にはずれた、ということらしい。
南を向いて歩く。朱雀門まで行くのであるが、平城宮の北から南まで約1kmほど歩く勘定になる。
(下図)東を向いて撮る。広い野原は凧上げにうってつけである。向こうの山は芳山だろうか。その手前の茶色の山は若草山であろう。

西を向くと第2次大極殿の基壇がある。その向こうの建物は第1次大極殿の復元工事現場である。この位置に第1次大極殿があった。

朱雀門が近づく。手前に近鉄の奈良線の線路が走っている。今となっては奈良線の線路は大胆なコースをとっている。なにしろ平城宮の西の正門の佐伯門あたりから平城宮内に入り込み、斜めに横断して宮の東南角に抜けていく。
お陰で電車に乗って南を見れば朱雀門、北を見れば大極殿・朝堂院跡をみることができるのである。
2010年には大極殿が復元されるそうだから、その後は北をむいても南をむいても天平の大建築物を見ることができるという国内最高のゼイタクな路線になる。

朱雀門から南に伸びていた朱雀大路を見るためには、朱雀門の南にいかねばならない。近鉄の小さい踏み切りを渡って南側へ出た。
朱雀大路の幅は74mあったらしい。ちょっとした運動場である。この幅の大路が大和郡山市の九条大路まで約3.6kmほど伸び、その突き当たりには羅生門があった。関西国際空港の滑走路よりもでかいのである。

朱雀大路を200mほど南に進むと、大宮通り(国道369号線)が東西に走っている。国道の向こうにトンカツ屋があったので昼食をとることにした。
窓越しに朱雀門とそのはるか向こうにある大極殿(の工事現場)を眺めると、司馬さんがいわれるように地方から上京してきた豪族は平城京のスケールの大きさに肝をつぶしたに違いない。
東京に高層ビルが多いといってもそれは量の問題である。地方にも高層ビルはいくらでもある。東京にしかないもの、東京でしか作れないものはない。
平城宮は、地方が真似しようとどのようにあがいても絶対にできないものであった。これを見て驚き、朝廷というものはわれわれとは次元が異なる力を持っているのだと納得し、簡単に服従した。司馬さんが平城京はパビリオンであるといわれるわけである。

朱雀門から引き返して、シルクロード博記念館を見学した後、大極殿の復元工事現場に向かう。また1kmの道程である。
復元工事の様子が見学できるという話であったが、それは基壇を作るまでのことで、基壇ができた今では建物ですっぽりと包まれていて、中は見ることができない。ビデオが流されていたので見た。
施工は竹中工務店である。ビデオは1995年に作られていたが、ここでCGによる完成図が映されていたから、すでに設計が終わり、3次元データもそろっていたことになる。となるとさらに5年とか10年前に着手していたわけで、2010年の完成までには20年ほどかかることになる。
最新のコンピュータや土木技術を持つ竹中工務店が大極殿ひとつを作るだけで20年かかるのである。平城宮を作るためには途方もない資力と資源と労力を注ぎこまねばならなかった。
(下図)大極殿前の広場でサッカーをして遊んでいる。向こうには朱雀門。施設は何もないが、贅沢なサッカー場である。

平城宮は広い上に見所が多くあって、すっかり時間を食ってしまった。(この後平城宮跡資料館を見学した。)西向こうのピルは西大寺駅近くのものらしい。


3時45分に西大寺駅についた。3時50分発の特急があった。特急券こみで1730円。車中で飲むために、売店でカンチューハイを1本買った。
万歩計は18300歩であった。たいして歩かなかったが、見学できたものは多かった。
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執筆:坂本 正治