法華寺から秋篠寺

    No.25.....2004年 1月18日(日曜)


行く先の目次... 前頁... 次頁... 平城京の地図... 平城宮の地図... ...てくてくまっぷ No.64


「No.64 ウワナベ古墳・秋篠寺コース」の「てくてくまっぷ」は右のもの。

前回は、まっぷNo.64のうち、ウワナベ古墳→コナベ古墳→平城天皇陵→平城宮跡までを辿った。平城宮跡は実に面白い。2時間や3時間では到底見尽くせない。「平城宮跡資料館」を見ているうちに時間切れとなって、中途半端ながら見学を打ち切って帰宅した。

今日はその続きを歩く。歩くが、コースにない@長屋王邸跡、A平城宮の東院庭園、B法華寺と海龍王寺 を追加した。


土曜日は名張には珍しい大雪となった。とはいっても積雪は10cm足らずである。たぶん阪神大震災のあった1995年の前の年に、これくらいの積雪があった記憶があるので、10年ぶりの大雪である。

日曜日には晴れたので、前回の平城宮の感興が残っているうちに、続きを歩こうと思って出かけた。(写真は近鉄電車が名張駅を出たあたりを車窓から撮った)


名張から桜井までの山間部は晴天だったが、奈良盆地の中心部では霧が発生していた。八木→大和郡山→西大寺の道中は車窓から景色を見ることはできなかった。一面が白濁している。線路脇のすぐ近くに見えるはずの郡山城も薬師寺も見えない。

今日も西大寺駅で奈良線に乗り換えて新大宮まで行ったが、いつもなら電車から見える朱雀門は見えず。五里霧中とはこのことならん。

初めは新大宮駅の南側の道を歩く。長屋王邸跡(ながやおう)を訪ねるためである。


平城京跡についてわかり始めたのはこの50年ほどのことであるらしい。前回平城宮跡を訪れた折にもっとも興味を引かれたのは「この広大な跡地をよくぞ確保できたなあ」という思いだった。

ほっておけば都市開発が進み、平城宮跡には道路ができ、ビルや住宅が立ち並び、と取り返しがつかないことになっていたはずである。

保存しようと立ち上がったひとたちはエライ。前回の平城宮跡の散策中、朱雀門近くに棚田嘉十郎像があった。いったい誰であろうか。

最後に訪れた平城宮跡資料館で、この人こそが民間人でありながら、平城宮跡を保存しようと最初に立ち上がった人物であることを知った。

時間に追われていたので説明板をよく読まずに帰ったが、心残りであった。



上の地図の青線の道路を歩いている。この道は大宮通りといって、奈良市の東西のメインストリートである。東に向かえば近鉄奈良駅・奈良県庁・興福寺・国立博物館へ行く。

今は西に向かっているが、奈良市庁・奈良警察署・旧奈良そごうへ行き、その先には朱雀門から(少し)伸びた朱雀大路がある。

平城宮跡は現在ではともかくも保存されているが、宮跡以外のところはどうしても開発の餌食になってしまう。向かっている長屋王邸跡は、バブルの時期(1988年)に奈良そごう百貨店の建築計画が提出されたために、事前に発掘調査したところ木簡がゴロゴロ(7万点以上)出てきて、この地が文献上でしかわかっていなかった長屋王の邸宅跡であったことが判明した。

平城京にあった有力者の邸宅地が初めて物的証拠をもって確定された画期的なできごとであった。ために、連日テレビや新聞で大報道がなされた。



奈良市庁舎があった。塀の上に金色に輝くモニュメントがのぞいている。てっぺんにはトンボが止まっている。なるほど大和の枕詞は「秋津島」である。蜻蛉(とんぼ)である。

奈良市の市章はトンボであるのか?これは愉快であると思って、近づいたら「平和祈念」の記念碑であった。(あとで調べると、奈良市章は、桜の花の上に「奈」の字を図案化したもので、まあ普通のものであった。トンボにすればよいのに)


長屋王邸跡は昔風の住所でいえば左京三条二坊にある。「平城京の風景」(千田 稔著・文英堂)によれば、
  1. 大路と大路で囲まれた区画を1坊という。1坊の広さは530m×530mである。
  2. 1坊には東西・南北にそれぞれ3本の小路が走っており、1坊は16坪(現代の「坪」ではない)に区画されている。
  3. 1坪の面積は1町(約16,000平方m)である。(図の空色)
  4. 1坪以上の邸宅地を持てる者は、位階でいえば4位・5位の高級官吏である。
  5. 6位・7位・8位になるに従って、1/2坪・1/4坪・1/8坪になり、最下級官吏は1/32坪である。(それでも500平方mの敷地である)
  6. 無位無官の者はさらに半分の1/64坪である(250平方m)
一般の屋敷が一坊全部を一人占めすることはない。平城宮でも全部で5坊足らずの広さである。西大寺・興福寺・元興寺・薬師寺などの大寺で1坊である。長屋王邸は4/16坊(つまりは1/4坊)の広さであった。約67,000平方mの面積である。(図の黄色)


「奈良そごう」はビルが建つ前からニュースになって宣伝効果抜群であったはずだったが、バブルが崩壊してからは積極出店が裏目になってついには破綻してしまう。

奈良そごうへ行ったことがないままに、そごうは無くなってしまった。そごう跡にはどこが入っているのであろうか。

それはイトーヨーカドーであった。関東では知られたヨーカドーであるが関西での知名度は低い。どのような店であるのか。入ってみた。ウロウロしていれば、そのうち霧も晴れてくるだろうし。

建物は「そごう」のセンスであった。水平線を基調とした外観がそうであるし、階段の赤と白の組み合わせは心斎橋にあった「そごう」と同じである。 そごうが建てたビルは大阪においては1つの建築文化を造ったと思っているが、そごうがなくなったのは残念である。



大宮通りを挟んで、ヨーカドーの前(南)に、「平城京左京三条二坊宮跡庭園」という長たらしい名前の史跡があった。長屋王邸跡と同じ住所である。入ってみる。無料。

ここは奈良市教育委員会が管理しているようだ。平安時代の回遊式庭園は平安貴族の創作ではなく、そのルーツは奈良時代の庭園にあるといわれていたが、この宮跡庭園の発掘によってそれが確かめられたのだそうである。



ヨーカドーの東側にある佐保川沿いの道を北に進む。ヨーカドーのビルは長屋王邸の南半分でしかない。北半分はヨーカドーの駐車場になっている。あわせて長屋王邸である。

長屋王邸は二条大路に面していた。駐車場の北端がそれに当たるが、ここから7万点の木簡や土器が掘り出された。

すぐ向こうに近鉄の線路がある。ガード下をくぐれば、再びの平城宮跡である。

霧の中から現れてくる平城宮である。向こうは第二次朝集殿・朝堂院跡か。



霧が薄れはじめた。南に朱雀門が現れてくる。



立っているのは東院庭園(とういん)の南方250mほどのところである。これから東院庭園を見学する。




平城宮は正方形ではなく、東に半坊ほど出っ張ってる。飛び出した部分に東院庭園がある。

東院庭園に入ってから、霧が見る見るうちに晴れてくる。檜皮葺きの屋根からモヤが立ち上って青い空に消えていくのである。

池の形は曲がりくねっている。また深くない。20cmくらいの深さ。一面は小石(玉石)が敷き詰められている。園とはいっても復元されたばかりなので、木々はまだ低く細い。

この場所で「曲水の宴」が行われたというが、それはどのようなものであったのか。

杯を上手から流して自分のいるところへ流れてくるまでの間に詩を読んだとか、船を浮かべて酒を飲んだとか。



まあこの池の深さでは船は浮かばないし、杯を流しても手に届くところへ流れてくるとは限らない。第一小石が敷いてある池の渕は居心地が悪そうである。

結局は、建物に座って池と庭木(松・柳・桃・梅・桜・つつじ)を眺め、飽きれば園内を回遊して楽しむということなのか。あまり面白いとも思われないが。

今日もボランティアの方が説明して下さった。この方もリタイアされてから、ボランティアを始められたようである。まだシンマイだそうだ。ボランティア初日に米国人の建築家一行の説明をすることになって困った。とおっしゃっておられたが、楽しそうであった。





東院庭園を出て法華寺に向かう。 平安時代は藤原氏の時代である。その基盤を作ったのが、藤原鎌足(中臣鎌足)の第二子の不比等である。気が重いが、知ったことをいうと
  1. 41代・持統天皇はわが子草壁皇子を天皇とすべく、ライバル(大津皇子)を排斥するなどしたが、その草壁皇子は28才で亡くなる。

  2. 草壁皇子には男子があり、持統天皇はこの孫を42代・文武天皇として即位させるが、在位10年ほどで亡くなる。文武天皇には不比等の子供の宮子との間に男子があったが天皇になるには幼すぎた。

  3. そこで母親(つまりは草壁皇子の妃。持統天皇の妹)を43代・元明天皇として即位させ、さらには草壁皇子の第一女子を44代・元正天皇として、男子の成長を待つ。

  4. 男子は不比等の子供の光明子を妃とし、45代・聖武天皇として即位する。光明子は光明皇后となったのである。

  5. 聖武天皇と光明子との間には男子があったが夭逝する。そこで女子を天皇として即位させるが、これが46代・孝謙天皇、重祚して48代・称徳天皇である。
奈良時代は持統天皇の、天皇には自身の血統を継承させんとする強靭な意思と、それを補佐して実質No.1の政治力を得ようとする藤原不比等の政略の歴史であった感がある。





法華寺は平城京の地図で見るように、平城宮の東院庭園のすぐ東隣にある。もとは藤原不比等(ふひと)の屋敷跡に建てられたものである。

大和国の国分尼寺であるとともに、総国分尼寺でもあった。 しかし当時の建築物は何も残っていない。パンフレットによれば、南大門・本堂・鐘楼の3つが重文であるが、これは桃山時代に再建されたものであるらしい。

拝観料は500円。






光明皇后をモデルとした十一面観音像が本尊であるが、通常は公開されておらず、複製(御分身像というらしい)が拝観できる。

さすがに尼寺である。拝観受付、本堂内の案内、本堂で読経する主、ことごとくが女性である。

光明皇后は施薬院を置き、病人に薬を施したという。「から風呂」(サウナ)に病人を入れ、薬草を蒸した蒸気をあてて治療したと伝えられている。

「から風呂」は別の園にある。拝見しようとすると、300円が必要であるといわれる。払って園内にはいってみたが、工事中で遠くから眺めるしかできなかった。ちょっとなあ。見るべきものの数からして、拝観料は結構過ぎるのではないか。


法華寺を出て、すぐ北にある海龍王寺に向かう。 この寺も光明皇后の発願によって、同じく不比等の邸宅地に建てられたものである。

この道は東二坊大路が通っていたところであるらしい。


おっ。荒れ寺風ではないか。期待できそう。拝観料は400円。

717年に渡唐した僧玄ム(げんぼう)は18年間にわたって教学を究めた後、5000余巻の経典を持ち帰らんとしたが、船は暴風雨に襲われた。このとき玄ムは一心に海龍王経を唱え、九死に一生を得て帰国できた。帰国後は僧正となり、この寺に住し、寺号を海龍王寺とした。

寺でもらったパンフレットには以上のようなことが書いてあった。


もとは平城京の基本の面積単位である1坪の広さであったらしい。金堂(本堂)の左右に西金堂・東金堂があり、金堂の北に講堂・食堂など、立派な伽藍であったようであるが、平安時代には廃れてしまう。

今残っている奈良時代の建物は西金堂(重文)だけである。西金堂の中には仏像はなく、約4mほどの高さの五重小塔(国宝)が収められている。五重小塔は天平期のものとされている。

写真は西金堂ではなく、江戸期に立てられた本堂。


海龍王寺は鎌倉期に西大寺を復興した叡尊(えいそん)が中興した。(叡尊は大活躍している)ために本堂に残っている仏像も鎌倉期のものが多い。

見学者は誰もいない。説明者(管理者)もいない。私だけが本堂内に入りこみ、つい最近まで秘仏であったために極めて保存状態のよい十一面観音像、文殊菩薩像、奈良時代の寺門勅額を見ることができたのである。

本堂の縁にでると、江戸期の建物ではあるが風雨に晒された縁は、擦れて木目をあらわにしている。手でさするとなんともいえぬ木肌の感触である。

思わず縁側に腰を降ろした。天気はよく風はない。縁は温まっている。腰掛けると、尻に伝わる温もりや木目のでこぼこの当たりが、実に快適なのである。


くどいが今一度平城宮跡近辺の地図を掲げる。ここまで訪ねたのは
  1. 史跡文化センター(宮跡庭園)
  2. イトーヨーカドー(長屋王邸跡)
  3. 平城宮・東院庭園(復元)
  4. 法華寺(藤原不比等邸跡)
  5. 海龍王寺(藤原不比等邸跡)
である。これから再び平城宮跡に戻り、いくつかの古墳を見ながら秋篠寺でゴールとなる。


海龍王寺は気にいった。

旧東二坊大路を北に向かい、西に折れるとすぐに平城宮跡が見える。左の建物は大極殿の復元工事現場であり、右の小山は平城天皇陵である。

振り返ると若草山がある。ところどころに昨日積もったらしい雪が残っている。



平城天皇陵前の広場ではラグビーの練習をしていた。向こうの植え込みが平城宮の北限である。

再び平城宮跡へ来たのは、「平城宮跡資料館」を訪れるためである。ここには、@誰が平城京のあることを調べ、A誰が保存運動をし、B保存にはどのような経過があったのか、を掲示してあったのだが、時間がなくてよく読めなかった。

館内は写真撮影が禁止されていたので説明板の写真をとることもできなかった。今日は筆記のための紙とペンを用意してきた。このあたりのことについて記述してある本があれば筆写しなくてよいのだが・・・


南東を向いて撮る。向こうのビルはイトーヨーカドー(長屋王邸跡)である。

不比等は元正天皇の720年に没し、翌721年に長屋王は右大臣になる。724年には聖武天皇が即位し、その妃の光明子の実家である藤原氏との政争が激しくなる。

結局は729年に長屋王の変があって長屋王は自尽し、光明子は晴れて光明皇后になることができるのである。

784年、都は平城京から長岡京に遷都され、平城宮は主を失った。その50年後にはすでに大路は失われ、平城京の大部分は田畑となってしまったらしい。以来、この地に平城宮があったことは次第に忘れ去られてしまう。


平城宮跡資料館でよい本を見つけた。「平城京の風景」(千田 稔著・文英堂。2,100円)である。これを手本にして書けば、
  1. 幕末の伊勢藩士・北浦定政が古地図を参考にして測量を重ね、平城京の平面形を復元する。1852年のことである。

  2. 明治28年(1895)に古社寺修理監督として奈良県へ赴任した関野貞(せきの・ただし)は北浦の成果を踏まえて、さらに精密な平城京の復元図を作る。

    だいたい今わかっているほとんど(朱雀大路を中心にして左京・右京に分かれ、南北9条・東西8坊であったこと、外京が南北5条・東西3坊であったこと)を解明した。 (成果をまとめた「平城京及大内裏考」が発刊されたのは明治40年(1907年)のこと)

写真は内裏にあった井戸の跡。
  1. 関野貞の研究によって平城宮遺跡の存在が知れわたるにつれて、これを保存しようという運動が奈良で始まった。造園業の棚田嘉十郎(たなだ・かじゅうろう)である。棚田は佐紀村で農業を営む溝辺文四郎(みぞべ)らと保存会を結成し、私財を投じて朝堂院推定地を買収する。明治39年(1906年)のことである。

  2. 棚田は、国に保存を働きかける一方で、寄付をつのり、大正4年(1915)に大極殿跡とその周辺の土地を買収する。

  3. 大正8年(1919)、国は「史跡名勝天然記念物保存法」を制定。
    (残念なことに棚田は宗教活動のトラブルがあって、1921年に自殺したらしい)
    大正11年(1922)、内務省は「史蹟平城京」を指定。
    棚田らが買収した土地は国に寄付して、保存会は解散する。
といったふうに明治末から大正年間にかけては、平城宮の保存について並々ならぬ民間の努力があったようである。


平城宮跡資料館へ向かう。
  1. 昭和に入ると発掘は進まなかったようである。逆に、大戦中に平城宮跡は菜園と化し、朝堂院の土壇は削り取られ掘り返されていたという。

  2. 落ち着きを取り戻した昭和27年(1952)年に、国はこの地を特別史跡に指定する。
    昭和29年(1954)に平城宮跡発掘調査会が出来て発掘が始まる。
    昭和30年(1955)に奈良国立文化財研究所が作られようやくにして、平城宮跡発掘が本格化する。

  3. しかし一方では佐紀町民は平城宮跡の特別史跡の指定を解除するように町民大会で決議するなどの保存反対の声もあったようである。

  4. 昭和36年(1961)に近鉄は平城宮跡の西南部に検車場を建設するの計画を発表。これを期に平城宮跡保存の運動が広まり、時の池田内閣は向こう5年間で20億円を支出して平城宮跡の全域を国有化することを決定する。

  5. 昭和41年(1966)、国道24号線バイパス工事のための事前発掘調査によって、その路線予定地も平城宮跡であったことが判明し、道路のルートは大きく変更され、この地は追加買収された。(東院庭園のある場所である)


写真は平城宮北辺にある佐紀池。

平城京の形を復元したのは、いまから150年前の伊勢藩の古市奉行所・北浦定政であった。津の藤堂藩は奈良にも藩領を持っていたわけだ。

調べてみると奈良市の高円山のふもとに古市町がある。高円山の東は山間部であるがまだ奈良市で、ここに太安万呂(おおの・やすまろ)の墓や奈良朝最後の天皇である代49代・光仁天皇陵がある。

その東は奈良県月ヶ瀬村・山添村であり、その東隣が伊賀上野であるので、このつながりが藤堂藩の領地であったのかも知れない。古市奉行所は光仁天皇陵などの管理もしていたようで、御陵取調御用掛をしていた北浦定政の顕彰碑が光仁天皇陵のそばに立っているそうである。(前記「平城京の風景」)


平城京から長岡京へ遷都して、たったの50年後に「青丹よし」の平城宮跡が田畑に変わってしまったというのは驚きである。古い都には守るべきものは何もなかったということか。

その点、陵墓は誰の墓とは比定できなくともよく残っている。 写真は第11代・垂仁天皇の皇后である日葉酢媛陵(ひばすひめ)。墳丘長は210m。この陵墓を作ったときから殉死の風をやめて替わりに埴輪を置いたといわれている。


すぐ隣に第13代・成務天皇陵。墳丘長は220m。

このすぐ南に孝謙天皇陵があるが、これは比定が間違っているらしい。孝謙天皇(称徳天皇)は聖武天皇の子供であり、西大寺を建てた女帝で、770年に亡くなっている。

8世紀には前方後円墳はすでに存在しないから、この古墳は孝謙天皇陵ではありえないのだそうである。まだ天皇の権力が強大であった奈良朝のことながら、どの陵墓がそれなのかがわからなくなっている。

言い伝えることも難しいが、維持し保存することはもっと難しい。



神功皇后陵。墳丘長は276m。工事中であった。



古墳は1つだけを見るにはよいが、いくつも見ると飽きてしまう。西を向いて秋篠寺へ向かう。

このような平らかな田んぼをみると、ここも遺跡ではないかとつい思ってしまう。



秋篠寺の東門。南門から入るのが正しい見学のコースであるようだ。奈良時代最後の天皇である第49代・光仁天皇の発願によって造営された奈良朝最後の官寺である。

観光案内には「天平の美女と呼ばれる伎芸天立像が名高く、これを拝観にわざわざ訪れるファンが多い」と紹介されている。

しかし歴史書において秋篠寺が出てくることはほとんど稀であるし、伎芸天像についても時代を代表する仏像ではないようで、私は知らない。いったい伎芸天はいかなるものなのか。

拝観料は500円。



本堂(国宝)。秋篠寺は平安末期に焼失。残った講堂を鎌倉期に大修理して本堂とした。姿のよい建物である。

この本堂内に伎芸天像(ぎげいてん)がある。本堂に入ると中央に本尊の薬師如来があり、左右に日光・月光菩薩、十二神将、愛染明王・不動明王が配置されていたが、左端に別格のあつかいで伎芸天立像があった。

なるほど「天平の美女」である。魅力的な顔立ちである上に、腰をひねり、小首を傾けているのでコケティッシュでさえある。

驚いたことに、この像をじっと見つめている4人5人がいるのである。男女が肩を寄せ合って像の下に立たずんでいるかと見れば、その横の椅子に女性が一人腰掛けてじっと見つめている。正面には男性老人がひとり、別の椅子には若い男性がひとり、同じく腰を降ろしてただただ見つめているのである。 異様な雰囲気であった。その目線には粘着性のものが感じられ、気持ちが悪いので早々に本堂を出た。




なぜに伎芸天立像が人気があるのか、不思議であったが、「平城京の風景」に、立原正秋の小説「花のいのち」では伎芸天像に男女の出会いの象徴的な役割をさせている、書いてあった。さらに立原正秋の随筆も載せてあった。孫引きする。

『私はこの寺に伎芸天像を見に行ったのだが、予想していたように、この像は艶麗そのものであった。このあだっぽい表情には、一面憂愁がこめられており、とりわけ涼しい目もとが私を惹きつけてはなさなかった。』

秋篠寺の人気もそれが原因であったのか。

もとあった奈良時代の伽藍跡には一面に苔が生えている。礎石が頭を出しているところもあって、なかなか趣きがある境内である。




秋篠寺を出て少し東に下ると「奈良県営競輪場」があった。男女がねっとりと伎芸天を見ている外で、男どもが博打に興じているのが秋篠である。

好みとしては、一点に焦点を当てて凝縮させる対象物(例えば仏像)よりも、精神を広々と開放してくれるもの(例えば伽藍の配置)のほうが好きである。

秋篠寺の薄暗い本堂にある伎芸天像に思いを凝縮していくよりも、広大な平城宮跡に立ち、晴空に向かって心を開放するほうが気分がよい。




西大寺駅に着いた。今日見た建物では、@海龍王寺、A秋篠寺、B東院庭園、C法華寺 の順に好ましかったが、しかしこれらはとうてい平城宮跡の空間の広がりにはかなわない。

ラッキーなことに西大寺から直通で名張へ行く特急電車があった。40分間はゆっくりできるので、ワンカップ2本とサンドイッチ2つを買った。帰りは一杯飲みながら、平城宮跡資料館で買い求めた「平城京の風景」を読むことになろう。

著者の千田稔さんは、過日、明日香を巡ったときに「飛鳥−水の王朝」(中公新書)を読み、教えてもらうことが多かったが、今度もまた平城京についておそわることになる。学者はエライものだ。

万歩計は23,400歩だった。


行く先の目次... 前頁... 次頁... 平城京の地図... 平城宮の地図...         執筆:坂本 正治