興福寺から元興寺

    No.26.....2004年 1月24日(土曜)


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1998年末に奈良の8つの観光名所が「世界遺産」にリストアップされた。@東大寺、A興福寺、B春日大社、C春日山原生林、D元興寺、E唐招提寺、F薬師寺、G平城宮跡 である。

奈良の名所の筆頭の東大寺は1日かけても全部を見つくせるのかというほど見どころは多く、ふと思い立って行ってもちょっとかなわない気がする。

それでは興福寺は観光気分だけで訪れて、十分に得心できる寺であるのかといわれても、これまたそう簡単な寺ではない。だが東大寺よりかはラクであろうと出かけた。ついでに興福寺の南にある元興寺(がんこうじ)も訪れる。




近鉄奈良駅についた。近鉄電車で地下駅というのは珍しい。大阪の難波・日本橋・上本町の3駅と名古屋駅・奈良駅の5つだけではなかろうか。99.5%の駅は地上駅である。

近鉄の発祥は「大阪電気軌道」である。大正3年(1914)に大阪-奈良間を走っていた(らしい)。「軌道」というのは大阪・奈良の一部では通常の鉄道線路ではなく路面電車になっていたためである。

近鉄はわりにジミな社風のようであるが、観光地が好きな電鉄会社である。奈良の観光についで、天理軽便鉄道(天理教本部)・初瀬軌道(長谷寺)・吉野軽便鉄道(吉野神宮)・参宮急行電鉄(伊勢神宮)・大阪鉄道(橿原神宮)などの会社を合併して大きくなった。


近鉄奈良駅のビルの4-5階に「なら奈良館」がある。奈良市が運営しているらしい。エレベータで上ってみた。入場料300円。

実物は皆無で、説明のパネルや模型ばかりであるが、模型のほうがよくわかることが多い。例えば、@平城京の復元模型、A薬師寺西塔復元模型、B東大寺大仏の手のひらの模型(右図)、C新薬師寺の12神将配置模型、D奈良町復元模型 などなどである。

たいていの場合は、仏像を見るにしても薄暗い本堂の中で遠くから見るだけであるし、さわるなどはとんでもないことであるが、ここでは例えば東大寺大仏さまの左手の模型があって「手で触れてみよう」とある。

本物でなければ価値がないというのは間違いである。この方針は大変気に入った。




9:30に入館したが、陳列物が面白いのでいつの間にか10:20になっていた。説明係りの方が「今日 は10時に飛火野で鹿寄せをしますよ」といわれたが、それは後の祭りであった。時刻は過ぎていたので、知識を持たない元興寺近辺のことを尋ねて予備知識とした。

4階の「なら奈良館」から見降ろすと近鉄奈良駅前のささやかな広場がある。円の中心には行基菩薩の銅像があるのであるが、その前で坊さんが一人、喜捨をこうているのが見える。

この場所こそが奈良観光の基点である。左の道路は「登大路」という。東に向いては登りであるが、平城宮のある西に向いては下り坂である。正しくは国道308号線。新大宮あたりでは大宮大路と呼ばれている。


登大路である。東に向かっている。向こう左手に東大寺、右手に興福寺がある。正面には山焼きが終わったばかりの若草山。

ご覧のように登り坂である。登大路はいまでは奈良の東西のメインストリートであるが、旧平城京の地図を見ると二条大路と三条大路の中間にある小路が発展したものであるようだ。

旧平城京の番地でいえば、このあたりは左京三条六坊というのであろうか。


近鉄奈良駅から200mも行かないうちに興福寺境内となる。築地塀はない。左は中金堂(仮金堂である)、中央に五重塔。

興福寺の起源は天智天皇在世の669年に、京都山科にあった藤原鎌足の私邸に建てられた山階寺(やましな)である。

この後壬申の乱があって近江の天智天皇勢力を破った天武天皇は飛鳥に都を戻す。天武天皇亡きあと、持統天皇の下でメキメキ頭角を現したのが鎌足の子の藤原不比等である。

興福寺は不比等とともにその地を変えていく。すなわち持統天皇が藤原京へ遷都したときは山階寺を移して厩坂寺(うまやさか)となり、元明天皇の平城京遷都とともにこの地に移り興福寺となった。

平城京遷都の直後にあった大寺は4つあるが、その広さは@大安寺(15町)A興福寺(15町) B元興寺(15町) C薬師寺(12町)である。


いずれも平城京内にある。ということは平城京の青写真ができたときに、これら4寺を建てる場所は決まっていたということである。

大安寺(大官大寺)と薬師寺は藤原京にあった官寺であるし、元興寺は飛鳥にあった法興寺(飛鳥寺)で最古の寺であるから、平城京に取り込まれるのは当然である。ここにいわば藤原の私寺である興福寺が加わった。奈良朝はスタートからして藤原氏の強権が発揮されていた。

写真は中金堂。今は仮金堂となっている。手前の空き地に中金堂を復元する予定だそうである。当初の興福寺はどのような伽藍であったのか不明であるが、起源の山階寺は鎌足の念持仏を安置するために創建されたそうだから、金堂は必ずあったはずである。


北円堂(ほくえんどう)。不比等の娘(宮子)は文武天皇の妃として首皇子(おびと。後の聖武天皇)を生む。その首皇子に娘(光明子)を妃にして天皇家と密着し、この国を藤原氏が実質支配することを固めた不比等は720年に没する。

不比等の一周忌の721年に北円堂が完成する。建設担当者は長屋王である。 724年に首皇子は即位して聖武天皇となり、729年に長屋王の変によって長屋王は自殺し、光明子は晴れて光明皇后となる。

以来藤原一族は国の富を支配し続ける。


興福寺においても、次々に伽藍が追加された。

  1. 726年に聖武天皇は東金堂(写真)を建立。
  2. 730年に光明皇后は五重塔を完成。
  3. 733年に光明皇后は亡き母のために西金堂を建立を発願。
このころに講堂や食堂(じきどう)も建てられたと推定されている。南大門もそうであろうか。




平安京へ遷都された後も、813年に藤原冬嗣が南円堂(写真)を建立している。

南円堂は西国三十三観音霊場の第9番札所である。興福寺は藤原氏の氏寺であり、法相宗の学問寺であるから我々庶民には縁がない寺であるが、南円堂だけは観音信仰によって参詣者が多い庶民的な堂になっている。

ただし円堂の扉は閉ざされていて、本尊の不空羂索観音(ふくうけんさく)は拝見できない。年に1度開扉されるだけである。このへんが興福寺というべきか。6番札所壺阪寺7番札所岡寺8番札所長谷寺ほどには庶民的ではない。





五重塔前に鹿が一匹。

興福寺でもらったパンフレットに、興福寺の略史が掲げてあったが、堂塔は何度も何度も焼失している。大規模であったのは平安末期(1180年)の兵火によるものと、江戸中期(1717年)の大火によるものであるらしい。

五重塔は5度焼失し、そのたびに再建された。現存のものは室町期(1426年)のもの。

何度も再建されたということは、再建に耐える藤原氏の財力があったということである。しかしそれも室町期までで、さすがに江戸中期の大火から再建されたものは少ない。中金堂・南円堂が再建されただけであるらしい。(東金堂・五重塔・北円堂・食堂・大湯屋は罹災しなかった)

司馬さんは「街道をゆく・24」の「奈良散歩」の中に「五重塔」の章をもうけ、この塔について書いておられる。

『明治初年堂塔伽藍のあらかたが破棄されるまでは、規模としては東大寺よりも大きかった。寺領にいたっては、中世、大和盆地一円を領し、国持大名というべき存在だった。・・・・この時期に、五重塔が、わずか25円で売りに出されたのである。買主は商人だったが、最初は薪にしようとした。・・・』

結局、取り壊しの費用のほうがかかることがわかって、買うことをやめたらしいのであるが、薪にならずにすんでよかった。今は国宝である。



東金堂。国宝である。創建以来6度焼失している。現在の建物は室町期(1415年)に再建された姿よい建物である。(6回も焼けたか。)

東金堂と南隣にある五重塔とは回廊で囲まれていたと、パンフレットにある。左に金堂・右に五重塔が並ぶ法隆寺の様式であったのか。とすれば写真の溝に沿って回廊があり、鹿たちがいる位置に中門があったのだろうか。想像してみると実にぴったりした配置になる。

拝観料は300円。

東金堂に入ると、薬師如来坐像(室町)、日光・月光菩薩立像(白鳳)以上3つは重文。文殊菩薩坐像(鎌倉)・維摩居士坐像(鎌倉)・十二神将(鎌倉)・四天王立像(平安)、(以上4つは国宝)が安置してある。日光・月光菩薩立像は飛鳥の山田寺から移されたものらしい。



食堂(じきどう)跡に興福寺国宝館が建てられている。ここはすごいぞ。国宝だらけである。拝観料は500円。

興福寺の伽藍図をみると、現在欠けているものは、@西金堂、A講堂、B南大門。あと細かくはC鐘楼、D経堂、E食堂(じきどう)などであるが、光明皇后が建てた西金堂の焼失は残念である。

西金堂には当初、丈六の釈迦像・脇侍の菩薩像・羅漢像・八部衆像などが安置されていたらしい。国宝館でもらったパンフレットをみると、時代の古いものとしては@薬師如来仏頭(白鳳期)、A八部衆像(天平期)、B釈迦十大弟子像、C仏手 が奈良時代までのものである。(@ABは国宝)。

@の薬師如来仏頭は、飛鳥の山田寺にあったものである。焼けたときに頭部が落下したらしく左側面はひずんでいる。C仏手も銀造の腕が破片として残っているだけである。




興福寺の超有名な像は阿修羅像である。これは八部衆のうちの一人(?)である。ここは博物館風の展示がされているが、すぐそこにあるので十分に仔細を見、遠ざかっては全体を眺めることができる。

八部衆は阿修羅像を含めて4体が並べて展示してある。いずれも150cmほどの高さで乾漆造りである。その横には釈迦十大弟子像が3体あったか。これも乾漆造りである。

このサイズと軽さが、西金堂が焼けたときに持ち出すことを可能にした。西金堂の本尊の釈迦如来は丈六だったというから約5m近くの大きな仏像である。これは到底持ち出せない。小さくて軽い阿修羅像はおかげで天平を代表する像となった。

(館内は撮影厳禁である。図はポスターの一部の写真。)



そう思って国宝館を見渡すと小ぶりなものが多い。 国宝だけを掲げると、板彫十二神将(平安)、法相六祖坐像(鎌倉)、金剛力士像(鎌倉)、天灯鬼・竜灯鬼(鎌倉)、千手観音像(鎌倉)などであるが人力で何とか持ち出せそうである。

ただし千手観音像(鎌倉)だけは大きい。長谷寺の十一面観音のように圧倒される大きさである。これは西金堂ではなく食堂にあったものらしい。

館内は寒かった。体は冷えたが見飽きることがない。南円堂前にあった銅製の灯篭の扉(国宝)に書いてある文字をなぞって読んだりしているうちに時間が経ってしまった。

出口で絵葉書や写真集やらを売っていた。数珠があったので買った。今持ってる数珠は古くなっていて、いまにも切れそうだったから買い替えた。次の法事には興福寺で求めた数珠を使うことになる。


いったん興福寺の南へ出た。道は三条通り。旧の三条大路である。向こうは西。右手にある石段は興福寺の南大門。

道路を手前(東)に行けば春日大社である。つまり平城京の中心から三条大路を東へ行けば興福寺の南大門に着き、さらに進めば春日大社に突き当たる。いずれも藤原氏の氏寺であり氏神である。








だが興福寺は広い。国宝館の東の一画には本坊がある。


その南には大湯屋がある。


さらに三条通を南に行けば玄ム(げんぼう)が創建したという大御堂(菩提院)がある。


昔の七坊大路を南下している。大御堂をさらに南に下ると奈良ホテルが見える。司馬さんは「街道をゆく・24」の「奈良散歩」の取材時に奈良ホテルに宿泊されている。

司馬さんによれば、興福寺には多くの塔頭(たっちゅう)子院があったが、その筆頭であった一乗院や大乗院が交代で興福寺の別当になった。一乗院や大乗院の門跡になるのは京の摂関家の子弟であった。つまりは藤原の血を引く貴族が興福寺の別当になるのである。

その大乗院があったところに奈良ホテルが建てられている。もうひとつの一乗院は、維新後、明治政府に没収されて奈良裁判所にされ、そののち一部(寝殿)は唐招提寺にもらい受けられて開山御影堂になる。




旧七坊大路は、今は国道169号線である。大乗院庭園を過ぎると交差点にでた。どうやらこの東西の道は旧の四条大路に当たるようである。

角に立つ観光案内の標識を見るとすごいぞ。北(向こう)へ行けば興福寺・国立博物館、東(右)へ行けば白毫寺・新薬師寺・志賀直哉旧宅・福智院、西(左)へ行けば元興寺・十輪院である。

これから行くのは頭塔(ずとう)である。



東に御蓋山(みかさ)が見える(手前の黒い小山)。奥の山は春日山か? というのは私には、御蓋山と春日山と花山と芳山の区別がついていないのである。

春日山というのがよくわからない。地図をみると、春日大社から東に向かってほぼ直線上に山が記されているが、その順は@春日山(御蓋山)294m、A花山498m、B芳山517m となっている。花山のわずか南に「春日山原始林」とあるので、これが世界遺産に指定された場所だろう。

となると春日山と呼ばれている山は、狭くは御蓋山を指し、広くは御蓋山を含めた花山一帯を指すようである。


バスが走っている道は東大寺の南大門からまっすぐに南下してきた道である。ここはもう旧の平城京の市街区(条坊制)を外れている。X条X坊で場所を表すことは出来ず、「外京(げきょう)の東」としかいいようがない。


「頭塔(ずとう)」を目指しているのであるが、右手(西)に飛火野荘という宿泊施設があった。その玄関道の奥に頭塔らしきものが見える。

頭塔は土塔である。約30m四方の石壇を土台にして、上部に7段の石壇が積み重ねられている。石壇は上部にいくほど狭くなり、最上壇は一辺6.7mになる。ここに五重塔の先にある相輪が建てられていたらしい。

寺院における塔は仏舎利(釈迦の荼毘にふした後の骨)を納めるための建物であるが、仏舎利塔は日本においては独自の様式の木造建築物である三重塔・五重塔になった。ところがこの頭塔はインド起源の仏舎利塔に近い。

この位置は東大寺南大門をまっすぐに南下したところである。頭塔は、767年に東大寺の僧実忠(じっちゅう)が東大寺別当の良弁(ろうべん)に命じられて造ったものであるらしい。


三重塔・五重塔はいくらでもあるが、インドで発生した当時の塔(ストゥーパ)に似た仏舎利塔が造られていたのは珍しい。この道をぐるっと回って、町なかの道路から頭塔へ立ち入ることができるようだ。

しかし頭塔の周りには町屋が立て込んでいた。とうてい頭塔の全容を見ることはできない。一軒分ほど家が建っていない空き地に金網のフェンスが張られており、ここに入り口があった。が、錠がかけられている。

地図が掲示されてあって、見学したい方はここへご連絡ください。とあったが面倒なのでよした。頭塔全体を見る場所は、先ほどの飛火野荘前の道路しかないようである。

道路は茶色に舗装されている。カラーの道路は観光の道路を現している。ここは高畑町あるいは福智院町だろうか。


西に向かって歩いていると福智院があった。敷地は狭い。本堂だけが不釣合いに大きく、裳階屋根は塀を超えて道路にはみ出しそうなほどである。

ガイドブックには、736年に玄ムが開いたとある。本堂は鎌倉期のもので重文。本尊は地蔵菩薩坐像でこれも重文。

覗いたら、頭を丸めたズボンをはいた坊さんらしき人と、おじさん・おばさんらが荷物を運んだり掃除したりしていた。町なかの寺だから興福寺のように澄ましてはいられない。


そのまま西進する。南側に今西酒造の古い建物があって「ご試飲できます」とある。酒の銘柄は「春鹿」。

その隣に「今西家書院」があって室町期の書院造りの遺構をよく残し、重文になっているらしい。入ってみた。350円。

もらったパンフレットによれば、もと興福寺大乗院の坊官であった福智院氏の居宅であったとか、その居宅は大乗院から移築されたものであったとか、だそうである。

つまりは興福寺の公家出身の門跡あるいはX院の主は、廃仏棄釈以来しだいに没落し、X院の維持ができなくなって、屋敷をこのように処分していかざるを得なくなった、という次第のようである。

見学者は私ひとりであった。その書院にストーブをつけてもらって、説明のテープを聞いたが、個人が重文の建物を持つというのは辛そうである。重文に指定されたからといって、物質的な利益になるものは何もない。かえって窮屈なだけである。ただ歴史や伝えられてきた物を残さねばという使命感があるだけである。 個人が守っている伝統建物が目につけば、私も支援したい。だから350円をカンパした。

どうやら奈良町に入っているようだ。奈良町という正式の町名があるのかどうかは不明だが、元興寺の門前町として発達し、江戸期には奈良の中心として栄えていたらしい。

写真は「吉田蚊帳株式会社」の看板がでている。吊り蚊帳のメーカーであるらしい。

元興寺の門前町とはいうが、その元興寺とは、奈良時代に建てられた官寺の大伽藍をかまえるそれではない。元興寺極楽坊と呼ばれる寺院が中心になっている。鎌倉期に建てられた別院である。

極楽坊は庶民が信仰する寺になって参詣する者が増え、それゆえに門前町ができた。当然に町屋が建つ場所は元の元興寺の寺域であった。火災に会うたびに元興寺は堂塔伽藍を失い、町屋に侵蝕され、今では痕跡しか残していない。


「元興寺」があった。石柱には「史蹟 元興寺塔跡」とある。 もとの元興寺の伽藍図を見ると、
  1. 南大門−中門−金堂−講堂が南北にあり、中門と講堂は回廊でつながっている。
  2. 回廊の東側に東塔院がありここに五重塔があった。
  3. 西側には西小塔院があった。小塔院というのだから三重塔でもあったのか。
  4. 講堂の北に鐘堂−食堂があり、この左右に多くの僧堂が建っていたようだ。
  5. 元興寺極楽坊は東の僧堂のあたり、あるいはもう少し北側の地に建てられているらしい。



元興寺(正しくは東塔院)には五重塔の礎石が残っている。五重塔は1859年に焼失したとあるから、江戸末期までは残っていたのだ。この広くない寺域に五重塔ばかりが聳えていたことになる。


元興寺の南隣は御霊神社である。祭神は井上皇后(いかみ)と他戸皇太子(おさべ)とある。御霊神社というのは政治的に失脚させられた皇族や貴族の怨霊のたたりを鎮めるための神社である。最も有名なものは天満宮であるが、御霊神社は各地に多くある。

この2人がどのような失脚をさせられたかであるが、「歴代天皇総覧」(笠原英彦著)によれば、 第49代・光仁天皇は第48代・称徳天皇を篭絡した弓削道鏡を追放したのちに即位したが、このときの皇后は聖武天皇の子の井上内親王であった。井上皇后が生んだのが他戸親王であり、後に皇太子となる。

ところが皇后は藤原百川らによって呪詛の罪を着せられ、皇后を廃せられ、皇太子も廃せられる。異常事態である。代わって皇太子になったのが後の第50代・桓武天皇である。桓武天皇はたたりを恐れて御霊神社を祀った。


奈良町は入り組んでいる。御霊神社を出て奈良町資料館へ行こうとしたが道に迷った。車が通れないほどの狭い道を行ったのが間違いだった。

地図に書いてある目印を探して、今いる場所はどこなのかを知りたかったのだが、思いがけぬことに「中将姫生誕寺」の石柱を見つけた。

えっ。あの当麻寺の、蓮糸で織った曼荼羅の作者の、バスクリンの、中将姫はここで生まれたのか。

その道を少し北へ行くと「豊成公中将姫・・・」の石柱があった。寺の名は徳融寺である。

案内板を見て驚く。「当寺は平城京の外京六坊大路にあたり、藤原不比等の孫、右大臣横佩(よこはき)豊成(とよなり)の宅跡とされる。」とあるではないか。

ははあ、中将姫はここを深夜に抜け出て、夜通し歩き続けて二上山麓の当麻寺へ辿りついたのか。

折口信夫さんの「死者の書」には横佩大臣藤原豊成の屋敷は三条七坊とあった(今読み返した)が、まあ六坊・七坊の違いはあっても、だいたいこのあたりで中将姫は育ったわけだ。

藤原豊成と中将姫の墓があったが、これは鎌倉期のものである。(鎌倉期に中将姫伝説が流布された)

藤原不比等には4人の男子があり、こののち藤原氏は4つの流れ(@南家(武智麻呂)、A北家(房前)、B式家(宇合)、C京家(麻呂))に分かれるのであるが、藤原の筆頭は南家の藤原武智麻呂である。

武智麻呂の第一子が藤原豊成で、第二子が藤原仲麻呂である。仲麻呂は孝謙天皇時代に権力を握るが、後に道鏡の進出によって立場が危うくなったときに近江で挙兵し、捕えられて殺害される。

豊成はあまり政治的な動きはせず、中将姫が出家した当時は大宰府帥として難波にいたらしい。

道路の奥、町屋の間の路地を進むと、元興寺の西小塔院跡があった。ただし堂がひとつ残っているばかりである。


そのすぐ近くに庚申堂(こうしん)がある。

庚申堂から東へ行くと奈良町資料館がある。このあたりに元興寺の金堂があったらしい。

「1451年に戦火により炎上し、その跡地に人々が住みつき奈良町になりました。」という案内板が立っていた。実際は土一揆によって、金堂・西小塔院などが灰燼に帰したようだ。


元興寺極楽坊へ着いた。

もとは元興寺の一坊にすぎなかった。元興寺は平安末期にはすでに廃れていたようだが、智光が作ったという曼荼羅(747年)をまつるために、鎌倉期に僧坊を改造して極楽坊が開かれた。これが残るのである。

本家の元興寺はその後も戦火や火災によって次々に堂塔を失っていくのであるが、幸いにして極楽坊は火事にあわず、元興寺がほぼ消えたいまでは元興寺の後継者となっている。

写真は東門(重文)。東大寺の西南院から移されたもの。拝観料は400円。


本堂(国宝)。本尊は智光曼荼羅(重文)。

749年に奈良の大寺の墾田の地限が決められた。つまり寺領の面積によって格付けが行われたのだが、このとき@東大寺4000町歩、A元興寺2000町歩、B大安寺・薬師寺・興福寺が各1000町歩、C法隆寺・四天王寺が各500町歩であったという。

聖武天皇の時期、元興寺はNo.2の寺であった。それが平安期に入ると、天台・真言の新仏教に押され、平安末期には荘園を失いして、他の多くの官寺と同じく衰退してしまうのだが、極楽坊は残った。

智光曼荼羅のお陰である。智光は晩年、浄土教の研究に専念し、智光曼荼羅を残した。それから200年、平安期後半から浄土信仰が流行し、智光曼荼羅をもつ極楽坊はこの波に乗ったのである。

ここへ聖徳太子信仰であるとか弘法大師の真言信仰とかも飲み込んで、(寺でもらったパンフレットによれば)「混然とした状態で群集を集め、辛うじて近世にその伽藍と伝統を伝えることにな」るのである。




本堂うしろにある禅室(国宝)。

なるほどなあ。権力と結びついた寺は、権力を失うとともに廃れたが、庶民を相手にした極楽坊は生き延びたわけだ。庚申堂もその一端である。

写真手前にずらりとならぶ石塔・石仏は「浮図田(ふとでん)」と呼んでいるが、鎌倉期から江戸中期にかけて、寺関係者や近在の住民が浄土往生を願って造立したものを集めたものである。約2500個ほどあるらしい。

本堂の瓦のうち赤いものは行基瓦といわれる。元興寺が平城京に移る際に、飛鳥の法興寺から運んだわが国最古の瓦であると説明があった。




本堂の南にある収蔵庫の内容は興福寺の国宝館と比べてはかわいそうなくらい物がない。五重小塔(国宝)・聖徳太子孝養像・弘法大師坐像・阿弥陀如来坐像の3つが重文であるくらいである。

しかしここに収められているうちで重要なものは重文・国宝のたぐいではなく、庶民の残した数万点を超える遺物である。どういうものか。例えば、納経に使った板片、昔の位牌、納骨のための板製の仏像などなどである。

納骨のための板製の仏像はなんという名称であったか。仏像形に板を切り、この裏に小穴が掘ってある。ここに死者の遺骨を一粒入れて寺に納めるのである。仏像形板には釘穴が穿たれていて、寺の柱やカモイなどに釘で打ちつけていたらしい。 こうして、いまでいう「永代供養」をしたようである。




元興寺極楽坊を出てまっすぐ北上すると興福寺五重塔が見える。



お決まりの構図の「猿沢池から五重塔」を撮る。




東向通の商店街を抜けると近鉄奈良駅である。時刻は3時10分。

興福寺と元興寺の2つを見て回るには時間が足らなかった。最後の奈良町と元興寺はやや焦り気味に歩いたので印象は薄くなってしまった。やはり旧の官寺は1日に1寺の割り合いで訪れなければなるまい。

今日の万歩計は20100歩だった。


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