信貴山・朝護孫子寺

    No.27.....2004年 1月31日(土曜)


行く先の目次... 前頁... 次頁... 奈良の山々... 朝護孫子寺の地図... ...てくてくまっぷ No.82


冬に咲く花は少ない。

寒いので葉が青々と茂ることはない。背丈も低い。地にへばり着くように生えている。それでも花を咲かせるのはいったいどういう自然の節理であるのか。

写真の白い花は花壇の隅っこに毎年2月ころに咲く。背丈は15cmほど。去年から気になっていたが、なんという植物であるのか。

名前を知りたいというのは、興味を抱いたときの第一歩である。愛着を持ち始めたといっていい。毎日見ていた木や花が気になりだす。なんということもなく眺めてきた山々の名を知りたくなる。あの寺はどういういわれで建てられ、どのように維持されてきたのか。 そういうことが気になる年齢になった。

今日の目的地は、信貴山登山である。信貴山縁起絵巻で有名な朝護孫子寺を訪れる。かつて一度登ったことはあるが、それは20数年前のことで、今となってはほとんど憶えていない。

「No.82 恩地越え・朝護孫子寺コース」の「てくてくまっぷ」は左のもの。

「てくてくまっぷ」によれば、近鉄大阪線の恩地(おんぢ)駅から恩地越えをして朝護孫子寺に至り、山を下って信貴山下駅に下るコースになっているが、地図を見ていていいことを思いついた。

いいことというのは近鉄電車の路線にある。近鉄は大阪・京都・奈良・三重・愛知・岐阜の2府4県に28線区、約600Kmの路線網をほこる日本一の私鉄である。28線区もあるというのが、合併につぐ合併で巨大化した証拠であるが、それだけに特異な線区もある。

例えば今日利用する田原本線(たわらもと)である。始発駅は西田原本駅で、終着駅は新王寺駅であるが、この路線は他の近鉄のどの線区とも接続されていない。「孤立線」というのだそうである。

次に近鉄の路線図を見ていたら、ケーブルカーの路線が2本。ロープウェイの路線が1本あった。ケーブル路線は、生駒山に登る生駒鋼索線と信貴山に登る西信貴鋼索線であり、ロープウェイ路線は葛城山に登るもので、これは葛城山を下山する時に乗った。

ケーブル路線はともに大阪と奈良を分ける生駒山地を登り降りしている。少し前には信貴山へ登る東信貴鋼索線というのがあって、今は廃線となっているが、その線路跡が登山道に整備されているらしい。


今日のコースは
  1. 名張→八木(大阪線。32.4Km)。八木駅で乗り換えて、
  2. 八木→田原本(橿原線。4.6km)。田原本で駅外に出て、
  3. 西田原本→新王寺(田原本線。10.1Km)。新王寺で駅外に出て、
  4. 王寺→信貴山下(生駒線。0.9Km)
  5. 信貴山下駅から、旧東信貴鋼索線の線路跡を登って、朝護孫子寺と信貴山頂へ。
  6. 信貴山門前からバスで近鉄高安山駅に行き、
  7. 西信貴鋼索線で信貴山を下る。
こういうことを思っていた。つまり@「孤立線」に乗り、Aケーブル廃線跡を歩き、Bケーブルカーで下る。という近鉄面白路線を行くのである。(実際にはBはできず。)

名張から目的地の信貴山下駅までの運賃は730円である。まずは橿原線の田原本駅で降りた。キップを自動改札機に入れたら、ちゃんと戻ってきた。

田原本駅(橿原線)を出て、駅前通りを150m行くと西田原本駅(田原本線)があるらしい。写真向こう奥が駅舎のようである。

近鉄についての知識は「近鉄ぶらり沿線の旅」(徳田耕一著・七賢出版・1600円)という書物から得ているのであるが、これは5年ほど前に近鉄駅構内の売店で買ったものである。これ1冊で近鉄のことはたいていわかる。

田原本線は、もとは「大和鉄道」という会社が王寺−桜井間を走らせていたが、戦時中に田原本−桜井間は休止され、戦後も復興しなかった。王寺−田原本間だけが残っていたが、昭和39年に近鉄に吸収され近鉄の路線となった。

別会社であったために既存の近鉄の路線とは接続がなく、孤立線となっている。ために田原本と西田原本の駅間の公道を150m歩かねばならないのである。

写真は西田原本駅(田原本線)。730円のキップを自動改札機に入れる。キップの乗り継ぎはちゃんとできている。

新王寺行きの電車が待っていた。むろん単線である。案外なことに1時間に4本か5本の本数がある。


孤立線であるが、まったく他の路線と遮断されているわけではない。孤立していれば、車両の入れ替えはできないし、車両の修理も孤立線の中で行うしかない。実際には、写真のように橿原線につながる連絡線がある。

写真左の車窓は今乗っている田原本線。中央が連絡線。その向こうの左右にまっすぐな線が橿原線。

橿原線の終点は西大寺駅であるが、ここに検車区がある。田原本線の車両はこの連絡線を通って西大寺の検車区に行き、車両のメンテナンスを行うのだそうだ。


田原本線の終点の新王寺駅に到着。730円のキップを自動改札機に入れるとちゃんと戻ってくる。キップが吸い込まれたままにならないか、と少しは心配したのだが、キップの乗り継ぎは正確にできている。


王寺は生駒・信貴山地と金剛・葛城山地を分かつ大和川の南に位置し、古来より交通の要所となっている。

大阪・JR天王寺駅から奈良までJR関西線(大和路線)が走っているが、その中間点にJR王寺駅があり、これは大駅といえる。(次の駅はあの法隆寺駅である。)同じ王寺から北へ近鉄生駒線が、南へは近鉄田原本線が走っていて交通は便利である。

写真は近鉄王寺駅(生駒線)。便利ではあるが、JR王寺駅・近鉄新王寺駅(田原本線)・近鉄王寺駅(生駒線)の3つの駅がそれぞれ分かれているので、乗り換えは面倒である。(雨が降れば傘をさして駅から駅へ駆けなければならない)


生駒線に乗り換える。単線である。次の信貴山下駅で降車するが、距離はたったの900mである。

向こうの双子山が信貴山であろうか。

発車するとすぐに大和川を渡った。大和川の南は北葛城郡で、大和川より北は生駒郡である。


腰掛けて地図をみている間もなく信貴山下駅に到着。信貴山の東側、やや南よりの位置にある。このあたりは生駒郡三郷町(さんごう)。住宅地として開発されているようだ。

三郷町の東には斑鳩町(いかるが)、北には平群町(へぐり)がある。どちらも古い歴史を持つ町である。



駅前に立つと、信貴山に向かってまっすぐな道が伸びている。かつてあった東信貴鋼索線の線路跡を道路にしたものであるらしい。

もともと生駒線は、大正11年(1922)に開通した王寺−信貴山下のきわめて短距離の鉄道路線と信貴山下−信貴山のケーブル路線がそのルーツであるらしい。会社は信貴生駒電気鉄道といった。

その後この路線は譲渡され、信貴山下から生駒まで鉄道路線が延長されたが、昭和39年(1964)に近鉄に吸収される。ケーブルカーは昭和58年(1983)に廃止された。



真っ直ぐ歩く。坂はそれほど急ではない。振り返ると手前に矢田丘陵が黒く見える。矢田丘陵の右端は斑鳩町である。法隆寺・中宮寺・法起寺などがある。

矢田丘陵の向こうにかすんでいるのは天理あたりの大和青垣であろう。もっと右には龍王山があるはず。



舗装道路は別の舗装道路に突き当たる。突き当たったところに信貴山頂への道標があった。ここから自然道に変わるようである。


「千本桜並木道」という。昭和58年(1983)に廃止された信貴山ケーブル線路跡700mの区間を整備してハイキングコースとした。と説明板があった。整備したのは三郷町で、平成4年(1992)のことである。

もとの東信貴鋼索線は1.7Kmであったそうであるから、信貴山下駅からの1000mは舗装道路になり、信貴山駅までの残り700mがハイキングコースになったわけだ。

カーブがあってはケーブルを引っ張ることはできないので、やはり真っ直ぐな道である。両脇には桜の木が植えられている。春は桜の花のトンネルとなるのであろうか。


日本ではじめてのケーブルカー路線は、近鉄の前身の大阪電気軌道が敷設した生駒駅から生駒山中腹にある宝山寺までの「生駒鋼索線」である。大正7年(1918)に開通した。宝山寺は「生駒の聖天さん」と呼ばれ、参詣客でにぎわう寺である。

ついで信貴山の朝護孫子寺へ詣でる観光客を狙ってケーブルカー路線が作られた。いま歩いている「東信貴鋼索線」である。生駒のケーブルに遅れること4年の大正11年のことである。大阪からの観光客は国鉄(当時だから省線と言ったか)で王寺まで着て、王子−信貴山下までいき、ここでケーブルカーに乗り換えて信貴山・朝護孫子寺へ詣でたのだろう。

これを見た大阪を地盤とする大阪電気軌道は、大阪線から直接に信貴山へ登山できるよう、河内山本−信貴山口の信貴線を敷設し、信貴山口−高安山間に「西信貴鋼索線」を作る。さらに高安山から信貴山は約2kmの距離があるので、これを結ぶ山上平坦線を用意し、山の上に電車を走らせた。昭和5年のことである。

信貴山には西(大阪電気軌道)からでも、東(信貴生駒電気鉄道)からでもケーブルカーで登れるようになったわけである。


ケーブル路線のレールが道の脇に打ち捨てられていた。

結局は、何もかもが近鉄に吸収された。西からの信貴線と西信貴鋼索線は残り、山上線と東からの東信貴鋼索線は廃線となった。


ケーブル駅の名残である。

今はケーブルで登らずとも、生駒の宝山寺と信貴の朝護孫子寺を結ぶ信貴生駒スカイライン(21Km)という有料道路が出来ているので、車にのって簡単に2つの寺を行き来できる。



日本で2番目に古かったケーブル路線の終点は信貴山駅であったが今はもうない。(替わりに1時間に1本程度の便があるバスの待合所が建っている)

それでも「歓迎・ようこそ信貴山へ」の看板は残っている。 往時はケーブルカーに乗って信貴山駅へたどり着いた観光客は、ここから徒歩で朝護孫子寺を目指したに違いない。



名残りはまだある。周りには旅館が立ち並んでいる。写真の道路幅はまずまずだが、大型観光バスはすれ違いができないだろう。商売をするには小型マイクロバスで送迎するしかないようだ。

ケーブルカーの廃止によって、旅館商売も大きく変わっただろう。




振り向くと矢田丘陵。丘陵の向こうは大和郡山市である。




行く手、向こうの山が信貴山。双子山に見える。左の低いほうが雌山か雌岳、右の高いほうが雄山か雄岳と呼ぶようだ。



朝護孫子寺の仁王門に着いた。まずはこの門が正門であろう。

聖徳太子(厩戸皇子)が物部守屋を討伐せんとこの山にこもり戦勝の祈願をしたところ、毘沙門天が現れ必勝の秘法を授けられた。その日は寅年・寅日・寅の刻であった。

太子は首尾よく物部氏を打ち破り、この地を信ずるべき山・貴ぶべき山として「信貴山」と名付け、毘沙門天を祭った。信貴山の縁起である。

朝護孫子寺となったのは、910年、命蓮上人(みょうれん)が第60代・醍醐天皇の病気回復を祈祷して全快。醍醐天皇より「朝廟安穏、守護国土、子孫長久」の祈願所として「朝護孫子寺」の勅号を賜った。のだそうである。

この寺で最も有名なものは国宝の信貴山縁起絵巻である。鉄鉢が米倉を持ち上げて、信貴山まで飛翔させたという絵巻物だが、その鉄鉢を操ったのが命蓮上人である。



国宝絵巻の完成は平安末期の1150年ころであるといわれている。ただしこの時代の寺の建物は何も残っていない。

この仁王像を見ても彫りが浅く、新しいもののようである。江戸期のものであろうか。

古い建物がないのは、1577年に織田信長によって一山堂塔すべてが焼かれてしまったからである。その後豊臣秀頼によって本堂などが再建(1610)されたのであるが、昭和26年(1951)に本堂は漏電のため炎上。

古きものはナカナカ残らない。


張子のトラがある。これは誰某が寄付されたものである。境内のそこここでは小さな張子のトラが売られている。「福寅」という。

聖徳太子が毘沙門天を感得した寅年・寅日・寅の刻にあやかって、毘沙門天のご利益が授かるように参詣者はこれを買い求めるのだそうである。

正面に本堂が見える。時折ドンドンドンと大太鼓の音がし、ヤーとかトーとかの声が聞こえてくるのは読経の時限であるらしい。


開山堂があったので行ってみた。

寺でもらったパンフレットによれば、この寺で重要な人物は、まずは聖徳太子。ついで中興した命蓮上人(みょうれん)であろう。朝護孫子寺は真言宗の総本山18寺のひとつであるから、弘法大師空海もそうである。


開山堂があったが新しい。コンクリート造りのようであった。方形寄せ棟の4面に扉があって、東西南北それぞれに聖徳太子・弘法大師・命蓮上人・(あと忘れたが歓算上人?)の額が掲げられていた。

感慨は何もない。

命蓮上人の墓と伝えられる命蓮塚があった。

国宝信貴山縁起絵巻あっての寺である。絵巻は三巻が残っているが縁起の主はことごとく命蓮上人である。

このあと霊宝館で絵巻(複製)を見たが、「飛倉の巻」は命蓮上人が鉢を飛ばして山崎長者の米倉を信貴山頂に運んだが、また鉢を飛ばして米俵だけは返した、という法力の話である。

「延喜加持の巻」は醍醐天皇の病気平癒の加持を頼まれた上人は、御所にいくことなく信貴山から念じた。毘沙門天の使いである護法童子が天皇のもとにいくであろうと使者に告げておいたが、果たして護法童子は空からやってきて天皇は快癒した、という話。

「尼公の巻」は命蓮上人の姉が、上人の居所を知ろうと奈良の町を尋ね歩いた末、東大寺で夢のお告げによって信貴山にあることを知り、自分も信貴山に登って尼になって生涯を終えたという話である。


それにしても命蓮上人の墓の扱いはあんまりではなかろうか。

開山堂から眺めるとまあ建物がめじろ押しである。しかも新しい。右手の大きな屋根は本堂である。その左に多宝塔があり、すぐ横にあるのは三重塔か。手前の屋根は、右から千手院、成福院、玉蔵院であろうか。

眺めただけで、訪れてみようという気にならない。このケバさはどうしたことか。

「三寅の胎内くぐり」がある。張子の虎のトンネルをくぐるようである。


たぶん「護摩の毘沙門天王」。

「成福院」


「日本一大地蔵尊像」


多くを省略してやっと本堂である。それにしても20数年前に来たときは、これほどの建物はなかったように思うが、どうしたことか。ご利益のデパートか博覧会の様相である。

案内図を見るとたいていのものは揃っている。銭亀堂・子安観音・初辰稲荷・不動明王・弁財天・縁結び観音・大日如来・虚空蔵菩薩・行者堂 などなどである。

うーん。ここまでやるか。トコトンやるな。


本堂は清水寺・長谷寺と同じく崖からせり出した舞台造りである。しかしコンクリート造りである。本堂を支える舞台造りの柱を見ると情けない。高速道路の支柱のごときである。



朝護孫子寺のこの猥雑さであるが、どうも寺の運営が寄付で成り立っているのではないか。そう思えば、この寺には石造物や銅像が多すぎる。

本堂前の参道には、石灯籠がいくつも連なり、石造りの寅があり、石の法輪があり、である。ここにはXX市△太郎とかXX講の文字が彫られている。立てられている外灯にも名前が刻んである。

寺はこれらの奉納を受けるとともに寄付金を受け、寄進者は灯篭なりに名前を残すことで供養される。そういうことであろうか。寄付は拒まず。ためにわずかの空き地があれば建物を建て、石灯篭を据え、の繰り返しが境内をまとまりのないものにした。



霊宝館に入った。200円。複製の信貴山縁起絵巻が唯一の見ものであったが、説明を読みつつ見れば結構面白い。仏像や仏具は何もない。楠正成の兜と菊水の旗があった。

あとは信貴山頂にある「空鉢護法」堂を訪ねて、朝護孫子寺は終わりとする。

霊宝館受付の方に道を尋ねたら地図のあるパンフレットを下さった。みれば山頂近くに信貴山城跡のイラストが描かれてある。ここも行ってみねば。



空鉢護法(くうはちごほう)とは絵巻の「飛倉の巻」にあったように命蓮上人が鉄鉢を飛ばせた法力のことを指すのであろうか。山頂に空鉢護法を実践・修行するための堂があるのであろうか。しかしその堂の名前は案内図にはない。ただ「空鉢護法」と表示されているだけである。

空鉢護法への道は、赤い鳥居が延々と立てられている。この下を歩く。

鳥居には寄進者の住所と名前が掘ってある。大阪市、大和郡山市、東大阪市、神戸市、名古屋市もある。




15分ほどで山頂に着いた。信貴山の標高は437mである。小さな堂らしきものがあったが、これは堂ではなかった。社殿である。

奥の建物が本殿で、手前が拝殿である。何で赤い鳥居が並んでいるのか不思議であったが神社であれば当然である。

ならば祭神は誰かと見れば「竜王」である。なんだ?


ただしここからの眺めはよかった。写真は南を向いて撮ったものである。手前の広く黒い山は生駒・信貴山地の南端である。その奥のやや黒い高くない山は三室山(137m)か。その先のゆったりと平坦な灰色の山は大和川の向こうの金剛・葛城山地の北端であろう。

最も奥の薄く(消えかけた)高い山は二上山の雄岳(517m)であろう。雲の薄くなったところから光が漏れている。幾条もの光が振り下っている。やっぱり二上山は違うな。



空鉢護法の神社の横に「信貴山城跡」の碑があった。朝護孫子寺が跡形もなく焼け落ちたのは、松永弾正久秀がここに信貴山城を築き、織田信長に敵対したためである。

応仁の乱(1467〜1477)以後、室町幕府の管領など要職の地位にあった山名・細川・畠山といった実力者は衰弱し、その配下にあった守護あるいは守護代が頭角を現してくる。

三好氏は細川氏の家老であったが、細川氏に替わって阿波国を支配する。三好長慶は京にあって、管領家の細川氏を討ち、京の主となった。松永久秀は三好長慶に仕えていたがやがて三好の身代を乗っ取ってしまう。

どころか足利将軍義輝を殺し、京・大和を支配することになる。そこへ織田信長は流浪の将軍足利義昭を奉じて大挙入洛する。松永久秀は時勢を見るのがうまい。いちはやく信長に服属し、京を空け、信長の配下に入る。1568年のことである。



写真は信貴山からの下り道。

1570年、信長は越前の朝倉攻めをするが、このときも松永久秀は信長に従って出陣している。ところが浅井の裏切りによって信長は朝倉・浅井に挟撃された格好になり、信長は久秀の手引きによって朽木街道(くつき)を逃げていくのであるが、ここまでは久秀は信長を担いだ。

このあたりのことについて司馬さんは「街道をゆく・1巻」の「湖西のみち」の「朽木渓谷」の章で書かれている。

ここまではよかった。このあと信長は全国から包囲される。すなわち北からは朝倉・浅井勢が、西では石山本願寺が、東では長島の一向一揆が、という具合に信長と対立する。これを見て久秀は信長を離れ、信貴山に立てこもるのである。

信長はところが容赦しない。1日で信貴山を焼き払い、久秀は自爆する。(平蜘蛛の釜とともに破裂した)このとき朝護孫子寺も灰燼に帰するのである。



松永久秀が築いた信貴山城の遺構は少しは残っているようであるが、特に案内板もなく、ここのあたりであろうかと頼りない推測をするだけである。

まあ京とか山城とか大和を支配することは難しい。大和を支配せんとした松永久秀しかり、その後の筒井順慶しかり、歴史としては格好悪い人物として伝えられている。



信貴山頂からもときた道を降りて、朝護孫子寺に戻ればよかったのである。そこからバスに乗れば高安山のケーブル駅に着け、ケーブルカーで信貴山を降れば、今日予定していたコースが完了したはずであった。

しかし再度、朝護孫子寺に戻る気は起きなかったので、無鉄砲にも予定していなかった山道を下り始めた。この道はどこに行き着くのか。

北西を見れば生駒山(642m)がある。(左の大きな山)



(下図)北東を見れば矢田丘陵が続いている。生駒山地と矢田丘陵に挟まれた低地は生駒谷と呼ばれている。谷は竜田川が作ったものである。竜田川が生駒を通って平らかな地に出たところは平群(へぐり)である。ここには長屋王とその妃の吉備内親王の墓があるらしい。

竜田川をさかのぼれば、行基にいわれのあるいくつかの寺がある。行基の墓がある竹林寺もある。もっとさかのぼれば生駒山の山麓に展開する生駒市がある。



ここはいったいどこですか。最寄の駅はどこでしょう。おばあさんに尋ねたら「信貴山から降りてきはったのか?まっすぐまっすぐ行けば勢野北口(せや)の駅にいける。」ということであった。

ついでにあのビニールハウスは何を栽培しているのかと問えば「全部、ぶどう。ゼーンブ。」であるらしい。元気なおばあさんだった。

振り向けば信貴山である。生駒山地の南端にポコポコと双子山を連ねて生駒山地の終端のけじめをつけている。遠目に見ればよい姿であるが、近づけば妙な寺が中腹を占領している。

山の姿はよいのだがなあ。

おばあさんのいうとおり、低いほうへ低いほうへと道をとると勢野北口駅に着いた。

単線である。下り電車に乗れば王寺駅は2つ目である。上り電車に乗れば生駒駅は9つ目である。下りが先にくるのか、上り電車が先か。先に来た電車に乗ることにした。

上り電車がやってきた。生駒線を北上して生駒まで行き、奈良線に乗り換えて西大寺にいき、ここから名張まで特急電車で帰ることにする。

近鉄生駒線は今日初めて始点の王寺から信貴山下までの900mに乗ったが、ついに終点の生駒まで行くことになった。

生駒谷の風景を見ながら生駒駅に向かう。


近鉄生駒駅周辺はにぎやかである。都会である。近鉄百貨店もある。おおっ、そうそう地下食品売り場で、イカ焼きを買って帰るべし。

大阪はたこ焼きの本場であるが、イカ焼きもある。タコ焼きは丸く熱い。トッピングも鰹節や青海苔やら、挙句はマヨネーズをかけるとかしてごちゃごちゃである。

イカ焼きはすっきりしているのである。まず出汁を入れて溶いた小麦粉を鉄板に広げ、イカの切り身を乗せ、次に卵を1個割って崩し、鉄の重しをして平らに焼く。焼けたら甘いソースを塗って半分に折って出来上がり。

具材は小麦粉・イカ・卵・ソースの4つだけである。タコ焼きのように紅しょうが・葱・天カスといったものは入れない。タコ焼きはおいしいモンは何でも加えようという大阪的なサービス精神の出たものであるが、イカ焼きはそうではない。



タコ焼きよりもイカ焼きのほうが好きである。1枚180円。4枚買った。ひさしぶりのイカ焼きである。

今日の万歩計は21,100歩であった。


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