
山添村・毛原廃寺跡
No.28.....2004年 2月11日(水曜)
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奈良の山々...
名張川流域の地図...
...てくてくまっぷ なし

たぶん人は朝日を見るよりも夕日を見ることのほうが多い。西には西方極楽浄土がある。二上山の雌岳と雄岳の間に日が落ちていくのは彼岸の中日である。大阪の四天王寺の西門から大阪湾へ赤々と落ちる夕日を見て、昔の人は極楽浄土を想った。
写真は私が住んでいる団地(梅が丘)から西を向いて撮ったもの。ご覧のように低い山がある。この山の尾根が三重県と奈良県の県境となっている。この山の向こうは奈良県山辺郡山添村(やまべぐん・やまぞえむら)である。

12年前か13年前のことか、当地に越してきたばかりのころ小学生の子供を連れて、一度この山を越えようと試みたことがある。しかし子供の元気な足取りに合わせた運動不足の私は、この山道ですら過度の運動となったようで貧血状態になってしまい、慌てて引き返す羽目になった。
あとで地図を見たらどうやら山越えの道はないようであった。同時に山を越えた向こうには、笠間川が流れており、この川筋で一番大きな集落は毛原(けはら)であることを知った。
それから10年後にこの「テクテク」を始めたのだが、山の辺の道や明日香を散策したときに参考にした「日本古代国家の成立」(直木孝次郎著・講談社学術文庫)を読んでいて、毛原には「謎の毛原廃寺跡」(けはらはいじ)があることを知った。
今日(2月11日)はどこかへ出かける予定はまったくなかったが、2月というのに暖かで風もない。天気もよい。西の空を見ていて、今日はこの山を越えてみようと思いついた。

山の向こうにはオークモント・ゴルフクラブというゴルフ場がある。一昨年に名張に仕事場を移してから近所の様子がわかってきたのだが、オークモントの送迎バスを見かけるのである。ということは山越えできる道ができているのではなかろうか。
インターネットで「毛原廃寺」をキーワードに探してみると主なHPは2つあった。1つは山辺郡山添村のHPで、いま1つは「毛原の里」というHPである。
「毛原の里」は毛原廃寺について実に詳しい案内があった。地元の方が発信しているようだが、名前は表記されていなかった。地図が掲示してあったので見ると、やはり山越えの道があるようである。

「毛原の里」のHPを印刷して、これを頼りに山越えをする。12年前にはなかった道ができていた。
車は滅多に通らない。気分よく山を越せそうである。たぶん家から見えている山の高さは400m程度のものである。家のある梅が丘団地の標高は200mほどだろうから、残り200mほどを登ればよい勘定である。たいしたことはない。
どころか道は山のうち最も低い鞍部へ通じているようであるから、実際には100mか150mを上れば山を越えることができそうである。(ただし鞍部までは少し迂回しなければならない)

振り返ると、おお、住んでいる団地が見える。中心の白い建物は梅が丘小学校である。向こうに名張市街が霞んで見える。

山を登り切ったようである。道が平坦になった。「峠」である。
オークモンドゴルフ場があった。名前は一流であるが、名前負けした小さなクラブハウスがある。家から3000歩の距離であった。
私はゴルフはしない。コースへ出たこともなければ、練習場すら行ったことがない。司馬さんもゴルフはされなかったそうである。そもそもゴルフクラブの形状が嫌いだ、と何かの本に書かれていた記憶がある。
ゴルフはやれば面白いものらしい。名張周辺には多くのゴルフコースがある。地図を見ると、名張市に@名張CC(カントリークラブ)、A桔梗が丘GC、BグリーンハイランドCC、Cグリーンヒル名張があり、北隣の上野市にはDエリモGC、E伊賀GC、FセントレイクスGC、Gザパークヒルがある。

西隣の山部郡山添村には、HオークモントGC、I万壽GC、J奈良若草CC、KJ&PCC、同じく西南隣りの宇陀郡室生村には、Lムロウ36GC(室生)、Mムロウ36GC(宝池)、N奈良白鳳CC、などなどである。名張から車で30〜40分でいける範囲にこれだけのゴルフ場がある。
まあ乱開発である。その数だけ山は削られたが、しかしその分だけ道路ができた。お陰でこのような舗装道路を歩いて山越えできるのであるから、乱開発とはいえ、なんともいう立場にはない。

下り坂となる。しばらく歩くと家々が見えてくる。山辺郡山添村岩屋の集落であるらしい。こちらの山と向こうの山の間には笠間川が流れているはずである。

笠間川に下ってきた。川沿いに道路がある。
毛原には名張駅前からバスが通っているが、バス道は川沿いの道ではなく、もっと山の上にあるようだ。見上げると100mくらい上方に学校風の建物が見える。東豊小学校であるらしい。

登ってバス道を行くか、川沿いの道を行くか迷ったが笠間川沿いのほうを選んだ。笠間川を見たかった。
(下図)飛鳥京・藤原京時代で最も重要な川は初瀬川−大和川であった。平城京に移ってからは木津川が最も重要になり、平安京になると琵琶湖−大阪を結ぶ淀川が重要になった。
大和川や淀川は平野部を流れているが、木津川はそうではない。大和・伊賀・近江・山城の山々から発した幾本もの川が、山会いをクネクネ曲がり下って、次々に木津川に合流していく。これら枝川の流域は実に広い。

名張市内を流れている名張川は三峰山(1235m)を水源としている。ここへ、@熊ケ岳(904m)・竜門岳(904m)の間から発した宇陀川、A高見山(1248m)あたりから発した青蓮寺川、B額井岳(821m)あたりから出た笠間川、などが合流し、京都府南山城村あたりで、上野市を通ってきた木津川に合流する。
名張川と木津川が合流してから川幅は次第に広がり、京都市相楽郡木津町に到る。木津は平城京から奈良山を越えて4kmか5kmほど北にあって、奈良への水運の中心地であった。
奈良へ物資を運ぶには、淀川(大阪)・保津川(丹波)・名張川(名張)・服部川(上野)などから木津川に入り、木津で荷をおろせば、あとは陸路でわずか1里である。木津川こそが奈良への動脈であった。

道路から笠間川を見下ろすと、何かの発掘をしているようである。川は向こうの木立の下にある。この場所は笠間川が土砂を運び、堆積して田んぼになっていたようであるが、田んぼが掘り返されている。
作業のプレハブを覗いてみると「山添村教育委員会」の名前の入ったカゴが積んであった。土器でも出てきたのか。
平城京を造るには大量の木材と瓦や石を必要とした。大量の木材は木津川を使って運ばれたが、桧や杉が生えていたのは、木津川の流域であったに違いない。興福寺や東大寺は木津川流域の木材を使って建てられたのであろう。

道は次第に高くなり、しまいにはバス道につながるようである。
この笠間川からも名張川-木津川を経て奈良に木材を供給したはずで、これから行こうとしている毛原は笠間川流域の木材を集めた場所ではなかったかと推測されている。

岩屋の集落に着いた。茶畑がある。

笠間川から見えた東豊小学校の校舎。後で聞いたが、生徒数が減少したため昨年廃校になったそうだ。歩道と車道が区別されており、横断注意の人形が置かれている。手前には歩道橋もつけられているのだが、いまやこの歩道橋は無用となった。

ここからしばらくは平坦な道路である。毛原まではあと2kmほどであろうか。

毛原(けはら)の集落が見えてきた。

集落に入ったとたんに、これまで2車線だった道は1車線になる。家は山の斜面を削り、1軒2軒分の平坦地をつくって建ててある。

「毛原神社」のバス停があった。名張駅前−毛原神社のバス路線の終点である。バス停前には酒屋がある。タバコも売っている。時刻は12時を少し回っていた。家からここまで1時間半くらいで来れた勘定である。
一番気になるのはバスの時刻である。まさか1日に2便ということはあるまいが、夕方まで便がなければ、来た道を歩いて戻らねばならない。
1日に4便あった。次のバスはと見ると2時40分で、その次は4時40分である。2時40分までには時間は十分すぎるほどある。

バス停の東に毛原廃寺の食堂(じきどう)跡がある。元の礎石は写真の田んぼに並んでいたようであるが、今は掘り起こされて脇に集めてある。
脇に立つ説明板を見ると桁行(けたゆき)5間・梁間(はりま)4間であったらしい。
HP「毛原の里」の記事によれば、明治30年代に関野貞(せきの・ただし)がこの地を調査して伽藍跡と断定し、以来「毛原廃寺」が広く知られるようになったそうである。
関野貞さんは平城京発掘の先駆者であるということを、先般のテクテクで知ったばかりであるが、こういうところにも研究の手を伸ばされていたわけだ。

金堂跡へ向かう。写真のように谷が深く切れ込んでいるが、左側の家の向こうがその場所である。

毛原廃寺跡が国の史跡に指定されたのは大正15年のことである。平城京の大権威である関野博士のお墨付きであれば、史跡指定も早かったに違いない。
「毛原廃寺址」の石碑が建てられていて、その横に小さな神社があった。前にはいきなりの巨大な礎石がある。鳥居の脇にも礎石がある。無造作に転がっているという感じである。

奥に入ってみると礎石の列である。案内板によれば、金堂は桁行7間・梁間4間の規模である。
1間とは今の尺貫法の1間(1.8m)の長さではなく、柱と柱の間を1間という。1間の長さは決まっていない。建物ごとに1間の長さは異なるし、同じ建物でも中央部の1間の長さと両端部の1間の長さが異なることも多い。
従って桁行7間・梁間4間とはいっても実際の長さはわからない。説明板には間口24m、奥行13mとある。
金堂が24m×13mのサイズというのは広い。これまで訪れた寺で、パンフレットに建物のサイズが書いてあったものを例にすれば、当麻寺の本堂(曼荼羅堂・国宝)は桁行7間・梁間6間(21m×18m)である。金堂(重文)は桁行5間・梁間4間(12m×9.5m)である。秋篠寺の本堂(国宝)は桁行5間・梁間4間(17.5m×12.1)であり、これらより一回り大きい。

興福寺の東金堂(国宝)や唐招提寺の金堂(国宝)は同じ桁行7間・梁間4間である。サイズは不明ながら、毛原廃寺の金堂はこれに匹敵する規模であったらしい。
神社の右(東)に回ってみた。(立ち木のあるところが神社)民家に続く地道があるのであるが、なんと道の真ん中に礎石が埋まっている。手前の石がそうだし、奥にも2個が埋まっている。大きな屋根の民家の右には露呈した礎石がある。
なるほど。大きな金堂であったようだ。上に建てられていた建物は興福寺の東金堂か唐招提寺金堂に似たものであったろう。(そうなれば礎石は基壇の上にあったはずだが、基壇や柱が発掘されたのかどうか。)

伽藍の配置は写真のようになっていたらしい。金堂と中門が回廊で囲まれ、南に南門がある。西には講堂と西塔がある。薬師寺様式であるそうだ。
そうなら金堂の北に講堂があるはずだし、西塔があれば左右対称の位置に東塔があるはずだが、まだその場所はわかっていないらしい。
気になるのは南門の立つ場所である。南門は崖の上に建っていたことになる。また東塔があるべき位置は急斜面すぎるようである。
講堂・西塔の西側にある谷はどうしたことか。ほとんど垂直に切り込んでいる。地滑りで崩れたのか、地震で陥没したのか。異常な地形である。建立当初にこの谷があったとは考えにくい。

写真は中門跡から一段低い丘にある南門跡を見下ろす。
毛原廃寺は謎の寺である。かくも大きな伽藍を構えた大寺が、文献にはどこにも現れていないらしい。いつ、誰が建立したのか、いつどのような原因で消滅したのか、不明である。
私が毛原廃寺を知ることになった「日本古代国家の成立」(直木孝次郎著・講談社学術文庫)によれば、寺が建立されたわけは、
@この地は東大寺が使う木材を管理していた「板蠅の杣」(いたはえのそま)であり、従って造東大寺司の役人や僧が出張所的な寺を建てたのではないか。という説と、
A奈良から都祁(つげ)を通って名張へ通じる「都祁山道」が通っていたので、交通の要所に寺を作ったのではないか。という説があるらしい。@Aとも文献にあるが毛原寺についての直接の記録はない。

写真は南門跡のすぐ下の道。石碑と木の立つ位置が南門で、門の外はすぐに崖となっているから、この道を登っても南門をくぐることはできない様子である。建築された後に地形が変わってしまったのであろうか。
「毛原の里」のHPには別のわけも掲げてあった。
B橿原考古学研究所が出土していた瓦を調べたところ東大寺の瓦よりも古かった。従って東大寺の寺領になる前に毛原寺は存在していたことになる。聖武天皇の勅願によって、都の東のこの地を聖地とする大寺院を建立したのではないか、の説もある。
室生寺のようなものですな。

廃寺跡から笠間川まで下りてみた。手前は廃寺側。向こうは南である。葦が茂っているのが笠間川。
川の向こうは案外なことに広く、田んぼが段々になって広がっている。一方、手前の廃寺がある側は山裾がせり出しているので狭く、川との間にわずかの田んぼがあるだけである。
廃寺の側は山の斜面であるが南向きである。家は南面に建てるのが自然である。したがって毛原の集落は全部が廃寺側にあり、向こう側の平らかな田んぼには家がない。
山で切り出した木材は1か所に集めて貯蔵しておき、秋の増水を待って流して運ぶらしい。毛原廃寺の縁起は別にして、この地が東大寺の杣地であったことは確かだから、この場所に切り出した丸太を集積していたのだろうか。

廃寺跡へ引き返す。HP「毛原の里」で紹介されていた「四辻の六地蔵」があった。室町期のものらしい。
このあと愉快な出来事があった。「毛原の里」のHPを運営されている方の家は、金堂跡の近所にあるとあった。毛原廃寺についていくつかの疑問を正せたらと思い、あつかましいことだが思い切って訪ねてみた。
たぶん、ここならんと一軒を訪ねると、「うちの子がインターネットをしていますんや。」とおばあさん。ご本人は不在である。
「どこからきなさった?」
「すぐ向こうの名張の梅が丘からです。」
「その子も梅が丘にいるんやで。」

写真は長久寺。
なんとHP「毛原の里」は私が知っている人が作っていたのである。ついでにいえばバス停にあった酒屋の息子さん(といっても私と同世代か)も知っていた。
知っているどころではない。この二人は梅が丘で食料品店を経営されているが、私は食生活の8〜9割をこの店でまかなっているのである。パンも米も野菜も魚も肉も焼酎もタバコもティッシュも、みんなここで調達している。仏前の花さえもそうである。
思わぬ展開であった。
2時40分のバスにはなお1時間の待ち時間があったので、「毛原の里」で紹介されていた長久寺に行ってみた。
そこから見下ろした毛原の風景。屋根の向こうの木立は毛原神社(八坂神社)。その向こうに毛原廃寺跡がある。

バスの発車時刻までなお40分ほどあった。風が出てきた。そうそうバス停前の酒屋で立ち飲みができるのではないか。少しは縁のある店でもあるようだし。このあたりはずうずうしいか。
ガラスの引き戸を開けて「立ち飲みで一杯やれますか?」
主人らしいおばあさんと2人の男性老人がストーブにあたりながら世間話をしていた。ワンカップを1本もらったところで、ストーブ前の席を譲られた。
毛原廃寺のこと、長久寺の楠の木のこと、東豊小学校が廃校になったこと、笠間川での発掘のこと、インターネットのこと、梅が丘のこと、などなどを聞き話ししていて、ワンカップをもう1本追加する。合間に「両替をしてや」とか「アイスはないのん」とかの来店客がある。

思わぬ話相手を得て愉快な時間を過ごせた。「そろそろバスの時間やで。」
ここが名張へ向けての始発地である。バスはすでにやってきて出発の時刻を待っているようであった。座席が15〜6席しかない小型のバスである。
バスの乗車客は私ひとりであった。

笠間川を見下ろしながら降ると、バスは名張川に突き当たる。笠間川を下った東大寺用の木材は、今度は名張川を下り、木津川を経て木津で引き上げられ、陸路東大寺に運ばれたのである。(今はダムが出来ているので材木は流れない)
しばらくして山の間に住宅地が見えた。どこの団地かと運転手さんに尋ねると、梅が丘であるという。名張駅まで乗るつもりであったが、急遽最寄のバス停で降ろしてもらうと「下三谷」のバス停であった。むろん初めての場所である。
15分ほど歩いて家に着いた。万歩計は16,100歩だった。
帰ってからくだんの食料品店に買い物に行ったら、すでに連絡が入っていたらしく、「坂本さん、毛原に来たんやて?」
一気に親密度を増したのである。
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名張川流域の地図...
執筆:坂本 正治