山城町と木津町

    No.29.....2004年 2月21日(土曜)


行く先の目次... 前頁... 次頁... 奈良の山々... 木津川流域の地図... ...てくてくまっぷ なし


前回は笠間川沿いにある毛原を訪ねた。笠間川は名張川に合流し、名張川は木津川へ合流する。奈良時代、木津川沿いの町で最も重要な町は木津であった。

木津は奈良県ではなく京都府に属する。正確には京都府相楽郡木津町。京都府の最南端の町である。木津川はこのあたりまでは東から西に向かって流れているが、木津から90度北に方向を変えて北上する。

木津町は木津川より南にあるが、川を挟んで北には山城町がある。今日は木津川を挟むこの2つの町を訪れる。どちらも初めての町である。



木津へ行くにはJR奈良線の木津駅で下車する。名張からJR線に乗るには、@近鉄桜井駅で下車し→AJR桜井線に乗り換え→BJR奈良駅へいってJR奈良線に乗り換える。(写真はJR桜井駅)

JR桜井線は桜井から奈良に向かって北上する。飛鳥京・藤原京の時代には奈良へ通じる道として東から順に@山の辺の道、A上ツ道、B中ツ道、C下ツ道があったが、JR桜井線は上ツ道のやや西側を路線としている。

単線のローカル線ながら、奈良までの駅名を見るだけで歴史を感じることができる。つまり@桜井→A三輪(みわ)→B巻向(まきむく)→C柳本(やなぎもと)→D長柄(ながら)→E天理→F櫟本(いちのもと)→G帯解(おびとけ)→H京終(きょうばて)→I奈良である。

電車に乗って東側を見ていれば、大和青垣の山々の全部を眺めることができる。これも楽しみである。


三輪駅付近では三輪山が見える。


巻向駅付近では三輪山は過ぎ、奥に薄く見えるのは初瀬山か。巻向山か。



柳本駅付近では龍王山。



天理駅はやや大和青垣から遠くなる。とがった山は高峰山であろうか。



奈良駅付近から見えるのは高円山と芳山か。


JR桜井線は奈良が終点である。ここで奈良線に乗り換える。奈良の次の駅は「奈良山」、次が「木津」であるが、「木津」から3つの路線に分岐している。つまり@片町線は大阪へ通じ、A奈良線は京都に通じ、B関西線は伊賀上野に通じる。

「木津」にいくにはどの路線に乗ってもよいが、木津の先へいくには注意しなければならない。これから向かうのは奈良線の「上狛(かみこま)」駅である。木津川を渡った初めての駅である。


電車に乗って奈良山を越える。奈良山とはいっても奈良盆地との高低差は50mあるのかどうか。たいした勾配ではない。少し林の中を走ったなという感じがするだけである。

奈良山を越すと京都府(山城国)である。昔は「山背国」と書いた。奈良を中心にすれば山城国は山の向こうの国、「山背」である。


木津川だ。(以上の写真は電車から撮ったが、遅くみえてもさすがに電車である。手振れ状態になってピントが合っていない。) いやあ広い川幅ではないか。鉄橋を渡るのに結構な時間がかかった。

あとで地図上で土手と土手の間を測ったら400mほどあった。ついでに名張川の川幅(土手と土手の間)を測るとだいたい100mくらいであったから、木津川になって4倍ほどに広がったわけだ。


上狛駅(かみこま)に着いた。この地は山城国一揆の中心的な地であったらしい。

持参したガイドには、1485年にこの地の国人狛氏らに率いられた惣村が国一揆を起こし、8年間にわたって自治政治を行ったとある。そういえば高校の日本史で習った記憶がある。


狛(こま)というのは「高麗」である。太秦(うずまさ)の秦氏と同様、この地は高句麗からの渡来人が開拓した。その子孫が狛氏であるようだ。

写真は西福寺。狛氏一族の菩提寺であったようである。この寺を中心にして堀を巡らした環濠集落であった。

山城国一揆については、この後訪れた京都府立郷土資料館でそのおおよそを知ることになったが、写真の場所を歩いているときはまだ知らない。



山城町の大動脈は国道24号線であるが、歩いている道は土地の人が「旧道」といっていたから、元はこの道がメインであったらしい。京都−奈良を結ぶ「奈良街道」と呼ばれた道だろう。(街道を南下している。)

街道沿いにはお茶問屋が多い。どれも古い大きな商家である。考えてみれば木津川のひとつ北には宇治川がある。かの地の特産品は宇治茶である。

あとで知ったが、この地の茶問屋は市販品を作らず、宇治に卸す商いをしているということであった。宇治茶のブランドは大きい。山城茶として販売するよりも宇治へ出荷するほうが手っ取りばやいし、固いものなあ。

それでも幾分かは市販品も作っているらしい。どこからか茶を炒る香りがただよってきてよい気分になる。ちょっとしたアロマセラピーである。「福寿園」の大きな製茶工場もあったが、さすがにここからは香りは出ていない。香りがするのは昔ながらの手法で炒っているお茶屋からのものであろう。




訪ねるのは泉橋寺(せんきょうじ)である。行基が建てた49院のひとつである。(正しくは発菩提院と隆福尼院の2院が前身である。)

奈良時代、僧や寺院は天皇家および藤原氏をはじめとする有力豪族のためにあり、庶民に布教活動をすることは禁じられていた。

行基はこれを無視して庶民に布教をし、組織し、各地に溜池(15か所)や溝・堀(あわせて9か所)を掘り、橋(6か所)を架け、困窮者のための布施屋(9か所)を建てている。

木津川は、昔は「泉川」と呼ばれていたらしいが、行基はここにも橋を架けた。今も国道24号線に泉大橋が架かっているが、その長さは400mほどもあろうかという長い橋である。

川幅が大きく変わっていないなら、行基が架けた橋もそれに近い長さであり、それは難事業であったのではないか。橋脚を立てても大水が出て何度かは流されてしまっただろう。




このような大土木工事をなすには、多人数が収容できる大きな宿泊施設が必要である。炊飯や洗濯の施設も必要である。男を収容する施設は「発菩提院」であり、女を収容するのは「隆福尼院」であったろう。

また橋が完成してからもこれを管理・維持する恒常的な組織が必要である。泉橋寺はそういう役割を担っていたらしい。

上の写真を撮ろうとカメラを向けたら、道を歩いていた老婦人が立ち止まって、写真の邪魔にならないように気配りしてくださった。

写真を撮って、私も婦人も歩きはじめたのであるが、左手に大きな石仏を見て、思わず「おおっ、これは」と声を上げた。(右の地蔵菩薩石像)

老婦人が、「お寺には五輪の塔もありますから、おいで下さい。」と声かけられ、寺へ入っていかれた。泉橋寺の方であった。うーん、よいご婦人ですなあ。さすがに行基菩薩由縁のお寺である。

地蔵菩薩石像の高さは約4.6m。日本最大の石地蔵であるらしい。鎌倉期(1308年)に木津川の南にある(奈良の)般若寺の真円上人の発願で造られたものであるが、応仁の乱(1467〜1477年)の折、大内正弘の軍勢が木津・上狛を攻めて、地蔵堂も焼失し、以来露座のままになっている。と案内板にあった。(頭部と両腕部は江戸初期に補修されている)



境内にある五輪塔。重文である。案内板には、光明皇后の遺髪を納めたと言い伝えられているとあった。

平城京遷都まもなくの717年に、行基らの違法活動(布教)を禁止する詔(みことのり)が出され、ついで722年にも僧尼らの違法活動を禁じているが、これは元正天皇のときである。

その後、聖武天皇と光明皇后の時代になり、741年に全国に国分寺・国分尼寺の造営を命じたり、743年には東大寺に大仏を造ることを発願したりするのであるが、このころには行基の民衆組織力を無視することはできなくなっていた。

745年に行基は大僧正に任命されるのである。

741年には、この泉橋寺で聖武天皇と行基が会ったとかの文献もあるようであるから、光明皇后は行基の尼院を参考にして、国分尼寺の造営を思い立ったのかも知れない。(総国分尼寺は法華寺である)そうであれば、泉橋寺に光明皇后ゆかりのものがあっても不思議ではないが、現在の五輪塔は鎌倉期のものであるらしい。




泉橋寺を出て、木津川の土手へ登った。土手の下に泉橋寺が見える。写真中央に地蔵菩薩石像がある。右手に泉橋寺の門。




(下図)木津川を西向きに撮る。川は写真の右端から急に北に折れ曲がり、京都方面に向かう。




(下図)木津川を東向きに撮る。手前にピンク色をした歩道橋が架かり、その向こう隣りに鉄骨の国道24号線の自動車専用の橋がある。2つをあわせて「泉大橋」である。さらに向こうにはJRの鉄橋が薄っすらと見える。写真の右手(南)は木津町。さらに南は奈良。私が立っている左(北)の堤は山城町。





橋を渡らずに、木津川沿いに走る国道163号線を歩く。木津川は北東方向から流れてきている。(泉大橋のあたりで西向きになり、そこから90度曲がって北向に方向を変える)



京都府立郷土資料館に行って小1時間の見学をした。歴史を理解できやすいように工夫がされたよい施設であったが、いかんせん場所が辺鄙である。泉大橋から徒歩で25〜30分かかった。しかしここで知ったことは多くあった。

@上狛駅の近くに椿井大塚山古墳があるというのはうっかりしていた。卑弥呼が魏から下賜された銅鏡百面は、「三角縁神獣鏡」ではないかといわれているが、昭和28年に椿井大塚山古墳から32面の三角縁神獣鏡が発掘された。これをもって邪馬台国は畿内にあったの説が有力になるのである。(その後、天理市の黒塚古墳から33面の三角縁神獣鏡が発掘された。)

A資料館からもう少し先に、恭仁京(くにきょう)跡があり、恭仁宮が山城国の国分寺になったこと。

B山城国一揆と惣村。その伝統行事。

などであるが、ここへやってくるまでは念頭になかったので、いまさら訪ねる時間はない。またの機会があるだろう。




泉大橋まで引き返し、橋を渡って木津町へ向かう。橋は長い。左の自動車専用の鉄橋はトラックがびゅんびゅん走っている。

京都-奈良を結ぶ一般国道は24号線しかないようである。ここへ奈良-伊賀上野を結ぶ163号線が上狛で合流し、この泉大橋を越えるのだから、その交通量はすさまじい。




歩道橋から木津川を覗くと、親子が散歩している。車のタイヤの跡が何本も残っている。




泉大橋を渡って木津町に入った。土手の下に大智寺がある。鎌倉期に西大寺の叡尊によって創建されたとある。(ここでも叡尊は活躍している)。

行基が架けた泉橋の柱は洪水で流出したが、その柱から文殊菩薩像を刻んで当寺の本尊としたという言い伝えがある。ためにもとは橋柱寺と称していたらしい。

現存する文殊菩薩像は鎌倉期のもので重文。予約をしていないと拝観できないようで、したがって見ていない。それにしても、 行基と叡尊とくれば時代は異なるとはいえ、当寺の縁起はたいしたものである。





この後、木津町の木津川近辺の区域を歩きまわったのであるが、どうも木津町はかわいそうなことになっていることがわかった。というのは、町は3本のJR路線と国道24号線によって分断されているのである。今回歩いたのは木津の旧町の一部だけなのだが、図の符号は次のようである。
  1. 大智寺。
  2. 和泉式部の墓。(線路は越さず)
  3. 正覚寺。(片町線の踏み切りを渡る)
  4. 平重衡の首洗い池。(24号線、片町線の踏み切り)
  5. 安福寺。(奈良線の高架をくぐる)
  6. 御霊神社(上津遺跡)。(線路は越さず。奈良線・片町線を越して木津駅へ)
どこかへ行こうとすれば、交通量の多い24号線の横断歩道までいって信号待ちをするか、3本のJR踏み切りまで迂回するかが必要となる。

地図Bの「和泉式部墓」。和泉式部の生没年はわかっていない。

和泉式部の墓は他にもいくつかあるらしい。和泉式部は木津の出身であり、宮仕えの後は故郷に戻り余生を過ごしたと言い伝えられていると案内板にあった。

地図Cの正覚寺の境内にある「洪水供養石仏」。木津川は江戸時代だけで30回を越える大洪水をもたらせた。(近いところでは昭和28年に木津川周辺は水没し、死者336名を出す大災害となったことを郷土資料館で知った。)

暴れ川であった。洪水のたびに罹災者の供養が行われてきたのであるが、石仏の台座に、「正徳2年(1712年)の大洪水で溺れ死んだ幾千人の菩提のためにこれを造立した」の文言が刻まれている。

地図のD,E,Fへ行くために、木津駅にやってきた。

木津町は昭和26年(1951)に木津村と相楽村が合併してできたが、この当時の人口は1万人余りである。昭和51年(1976)になってようやく1万2000人になり、以来人口増加に弾みがついて、平成15年には3万5000人を超えている。

昭和50年代に相楽ニュータウンの開発がされ、昭和60年代には関西文化学術研究都市の構想が具体化して、木津町には多くの研究施設ができたためである。

ただしJR木津駅がある中心部にできたのではない。木津駅周辺は線路が込み入りすぎている。木津駅前再開発構想が昭和57年(1982)に発表されているようであるが、それから20年たってもまだ写真のようである。



写真の大きなビルは病院。その左に木津駅のプラットホームがある。ここから右へ伸びた線路は片町線で大阪へ行く。左へ伸びた線路は奈良線で京都へ行く。

さらに左に関西本線があって、加茂(奈良県)→伊賀上野→亀山→桑名(ここまで三重県)→名古屋まで続いている。

3つの路線が木津駅で分岐しているのであるが、木津駅は小さい。今のままでは単なる分岐駅で、町の活性化には何ももたらしていない。どころか町が線路で分断されているので、町の発展には限界があるような感じである。



地図Dの「平重衡の首洗い池」。この場所は悲惨である。東はJR奈良線、西は国道24号線、北は木津川堤防、南はJR片町線によって四方を囲まれている。 車が通ることができない道を迷いながらたどり着いた。

向こうはJR奈良線の線路土手。左は木津川の土手で、行き止まりの場所になる。 写真右にある柴垣が「首洗い池」で、中央の木は「成らずの柿」である。

平重衡(たいらのしげひら)のことである。私は平家や源氏については詳しくない。テクテクから戻り、司馬さんの「義経」を慌てて読み返して、源平の戦いのあらましを押さえたくらいである。

平家が全盛であったのは平安末期の1160年〜1180年の約20年間であったらしい。1180年5月に以仁王(もちひとおう)と源頼政が平家打倒の挙兵をしたが、宇治において平家に簡単に打ち破られ、敗死する。 しかしこれが平家没落の契機となる。

同年8月、源頼朝が伊豆で挙兵。9月に木曽義仲が挙兵。10月、富士川の戦い。と平家を取り巻く状況は悪化。12月に平重衡は、以仁王・源頼政に組した興福寺僧兵を征伐せんと大軍を率いて奈良に入るのであるが、思わぬことに東大寺・興福寺を焼失させてしまう。興福寺の怒るまいことか。



この後、1183年に平家は都落ちし、替わって木曽義仲が京を支配したが、義仲は1184年に鎌倉から派兵された源義経・範頼軍によって破られる。

それからは源義経対平家の合戦となる。 1184年2月一ノ谷の合戦、1185年2月屋島の合戦を経て、3月壇ノ浦の戦いで平家は滅亡する。

平重衡は、一ノ谷の合戦で、裏切りにあって源氏に捕えられ、鎌倉の頼朝のもとに送られる。1185年平家滅亡の後、重衡の身柄は南都の衆徒に渡され、この地で処刑されるのである。

処刑後、重衡の首は写真の池(水は枯れている)で洗われ、首は奈良の般若寺に晒されたらしい。斬首される前に重衡は柿の実をひとつ食べた。村人がその柿の種を植えたところ、木は生育したのだがいつまでたっても実がならない。「不成柿(ならずの柿)」と呼ばれているのが、先の柿の木である。(写真の柿の木は何代目かで、柿の実はちゃんとつけている)



知らなかったが、平重衡は「平家物語」に登場する平氏のうちでは一番の人気があるようである。平氏の大将の一人であり武勇もある。女性に慕われている。捕らわれて死を覚悟してからの潔よさもある。

重衡の首と遺骸は重衡の妻の大納言典侍がもらい受け、荼毘にふされた。墓は京都にあるそうである。

写真は地図のEの安福寺。この寺も重衡の菩提を弔うための寺であるらしい。写真中央は本堂。右が重衡の引導仏の阿弥陀如来像を祀る堂(「哀堂」というらしい)

寺門をくぐると、左に重衡を供養するための十三重塔がある。(向こうは哀堂)


十三重塔の前に施餓鬼をした折の卒塔婆が置かれてある。どれどれと見ると、 「二位中将平重衡卿 八百十九回忌盆供養」とある。

なるほど斬首されたのは819年前のことである。重衡の死後連綿と供養されてきたとは思えないが、ある時期からは続けられているのだろう。

跡取りであろう若い坊さんが出てきて、「よくお参りくださいました。」と声かけられた。まだ20歳代であろうか。少なくともこの方の代までは重衡の盆供養は続けられそうである。

見れば、我が家の花壇の端っこに咲いている花が献花されてある。いったい何という花であるのかいまだに不明なのだが、冬に咲く貴重な花である。


この後、御霊神社を訪ねた。この神社の一帯は奈良時代に木津川で運ばれた材木などを陸揚げした「泉津」の港であったらしい。

昭和52年に発掘調査すると天平期の出土品が多数発見された。今は「上津(こうづ)遺跡」となっているようだが、案内板もなく、どこがどれだかわからなかった。

山城町では、随所に山城町内の名所や遺跡の地図を掲げてあり、寺院や遺跡の説明もよくされてあったが、木津町はこの点は熱心ではないようだ。せっかくの歴史を持つのにもったいない。


家に戻って、くだんの花を切ってガラス瓶に差してみた。

万歩計は25,300歩であった。木津町で道に迷ったり、線路を迂回したりと無駄な歩きが多かったためである。


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