高貴寺と近つ飛鳥

    No.30.....2004年 4月24日(土曜)


行く先の目次... 前頁... 次頁... 大和と河内の地図... 奈良の山々... ...てくてくまっぷ なし


大阪と奈良を分ける生駒・信貴・葛城・金剛山地。これをいつかは歩いて越えてみたいと思っていた。また二上・岩橋・葛城・金剛などの山々は大阪側から見るとどのような姿なのであろうか。

今日はこの2つのことを解決する。当初思っていたコースは、
  1. Aの近鉄(南大阪線)・当麻寺駅で下車し、
  2. 竹内街道途中にあるaの「上の池」までタクシーで行き、
  3. aから分かれる平石街道を登って、bの平石峠を越え、
  4. cの高貴寺へ下る。
  5. 次に河内側の葛城山麓を南下して、西行の墓がある「弘川寺」へ到着する。

    こういうつもりであったが、
  6. cの高貴寺から西に向かって、dの「近つ飛鳥風土記の丘」を訪れることになった。



近鉄(橿原線)・橿原神宮駅に到着。神宮駅は畝傍山の南側にある。ここから見ると畝傍山は象が寝そべっているようである。

橿原神宮駅で、近鉄・南大阪線に乗り換えて、当麻寺駅を目指す。

正面には二上山が見える。


当麻寺駅前からタクシーに乗った。「カミノイケへ行って下さい。」というと、運転手さんは住宅地図をひろげて、ここですかと確認された。

「国道166号線沿いにあります。」と知ったような口を利いたが、なに、「 當麻の里・竹内街道 」で、一度訪れたことがあるだけである。

上の池に着いた。向こうの道路は166号線、竹内街道である。左へいけば二上山のすぐ南にある竹内峠を越えて、大阪府南河内郡太子町へ出、羽曳野市に至る。

「平石街道」(ひらいし)という名称がついているのかどうかは不明であるが、上の池から分かれた平石街道は岩橋山のすぐ北にある平石峠を越えて、大阪府南河内郡河南町へ出、富田林市へ至る。




平石街道である。細いがまだこのあたりでは車が通れる。

司馬さんは「街道をゆく・第3巻」の「河内みち」で、高貴寺・弘川寺・観心寺を訪ねておられる。このときは大和側からではなく河内側の富田林を起点とされたようである。




大阪府は旧国名でいえば、@摂津国、A河内国、B和泉国の3国から成る。

摂津国は大阪府の西北部で、大阪市・豊中・池田・箕面・吹田・茨木・高槻の各市と兵庫県の尼崎・西宮・神戸市東部が相当する。

和泉国は大阪府の西南部で、和泉大津・岸和田・貝塚・和泉・阪南などの各市。

河内国は、大阪府の東部一帯で南北に長い。、北からいえば枚方市・交野・寝屋川・守口・門真・四条畷・大東・東大阪・八尾・松原・柏原・藤井寺・羽曳野・富田林・河内長野の各市と南河内郡である。

よくわからないのが堺市である。「堺市」の名前は、摂津・河内・和泉の三国の境にあるので、明治28年に、この名前がつけられたといわれているから、市域は旧3国に広がっているらしい。「泉州堺」という言葉を聞いた覚えがあるから、メインは和泉国かも知れないが、もともと和泉国は河内国から分国したので、堺は和泉国でも河内国でもあるといってよいか。 かように河内国は広い。ざっと数えて15市(堺市をいれて16市)があることになる。






司馬さんの「河内みち」では、前振りに自宅のあった東大阪市について「若江村付近」の章で述べられているが、訪ねて書かれているのは主に南河内郡の各所である。

章の順は「平石峠」「香華の山」が高貴寺について、「弘川寺」は弘川寺のこと、「蝉の宿」は河内長野市の観心寺近くにある宿屋のこと、「PL教団」は富田林にあるPL教団、「自衛の村」と「牢人と役者たち」は南河内郡河南町の大ケ原の環濠集落についてである。

この平石街道はまさにその南河内郡河南町へ通じている。道はゆっくりとした登り勾配である。険しくはない。路傍には去年教えてもらったシャガの花が群生していたりする。



地道となる。このあたりには車は入れない。後ろから近所の人であろう、犬の散歩にやってきた人が、えらい勢いで追い越していった。黒い犬がぐいぐい登っていくのものだから、手綱に引っ張られて早足になっていたものと見える。

私がいたから遠慮していたのか。私を追い抜いてしばらく登ったところで、犬の綱を放して自由にさせたら、黒犬は一目散に山に分け入っていった。


30分ほどで平石峠に着いた。峠は思ったほど標高は高くなかった。

ここから北に行けば二上山、南に行けば葛城山、東は当麻、西は平石である。(ここで「平石」という地名があることを知った)


下り坂に変わった。



滑ってこけた。(道の黒い筋がすべった跡)

3月中旬に、押入れの上奥に置いてあったアルバム帳を取り出して、飛び降りたとき、どうしたことか右足の踵の皮がめくれてしまった。すりむいたほどのことなので、殺菌してバンドエイドを張っていたが、いつまでもカサブタができない。

1と月たってようやく傷口がふさがったが、傷跡が変に盛り上がってしまい、靴を履くと痛いのである。おかげで3月4月はテクテクに行く気がしなかった。今日は久しぶりの野歩きに出てきたのだが、歩きかたが少しヘッピリ腰であったようだ。油断である。


この道は山道ながら府道である。まあハイキングコースとして府が管理しているのであろう。


下っているうちに府道704号線は舗装道路に変わった。変わったところが高貴寺へ通じる道であった。

うん?、イメージが違うではないか。司馬さんの「平石峠」の冒頭には、「・・・南河内からのぼり、途中道に迷って、まるで中世の物語のようだがこの幽谷のなかにしずまっているゆゆしげな山寺に出くわし・・・」とあるのである。

ここまでは断じて幽谷ではなかった。道に沿って小さな川が流れていたが、弁当のカス・ペットボトルが投げ捨てられていたし、道にはわざわざ運んできて捨てた大型のゴミ(太陽温水器)もあった。ついさっきはゴミ袋20〜30個ほどが畑のそばの道(府道である)に高く積み上げて捨ててあったのを見たばかりである。ゴミの不法投棄が目につくにつれて町が近くなってきたなと思っていたので、こういう場所で高貴寺への道に行き当たっても、到底幽谷とは感じられなかった。 司馬さんが「河内みち」を書かれたのは昭和47年(1972)のことである。30年経って幽谷ではなくなったらしい。



高貴寺への道の始まりである。

「河内みち」に、車を降りたそばにシャガが密生していて、須田さん(「街道をゆく」の挿絵を描いておられた画家・須田剋太)が「抱きつくようにしてしゃがみ、『立派なシャガです。こんなリッパな葉のシャガを見たことがありません』・・・・」というくだりがあるが、群生するシャガはもはやない。ようやく1本のシャガの花が咲いているのを見つけた。

この崖には「森閑に独座す、高貴寺、草堂の暁」という小さな札がぶら下がっていたが、お寺のしわざではなかろう。司馬さんのファンが「河内みち」を読んで吊るしたものか。(あとで読み返したら、空海の漢詩の読み下し文であることを知った)


高貴寺への道の途中には墓地があった。道を挟んで駐車場がある。それを過ぎて、右に曲がった道なりに進むと高貴寺があった。

写真は鐘門。山門は右手にある。 犬が出迎えてくれた。寺で飼っているのであろうか。

このときカーンと 鐘がなって、「そろそろ一服しようや」の声が聞こえた。



石段を登ると、3人が掃除をしている。奥にも人がいてやはり掃除をしている。掃除の人の誰かが鐘をついて休息の合図としたらしい。先ほどの犬もこの掃除している誰かの飼い犬であろう。

司馬さんの書くところによれば、高貴寺は真言宗の律院である。ここで真言宗の僧侶(の一部)は年に一度くらい律の行を受ける。したがって「寺の建築にも余計な装飾がなく、建物の規模も小さい。ただ境内が嵐気を帯び、ちりひとつとどめず、全体が凛然としていて、むろん観光料はとらない・・・」のだそうだ。

なるほどこういう方々が掃除の奉仕をしているのか。ごくろうさんですと声かけると、「大和からやってきました。」とのこと。律院であっても檀家があるのだろうか。途中にあった墓地は高貴寺のものであろうか。尋ねはしなかったが。



境内に入って、本堂への道を歩く。「嵐気」を帯びているとも感じられないが、チリは落ちていない。

高貴寺の歴史は古い。天平期に役の行者が、法華経28品に対応して葛城山の峰々に28霊場を開いたが、この場所はそのひとつである。それから百年の後、弘法大師空海が嵯峨天皇の勅命によって堂塔を建立し、大師の弟子にこの寺(当時は香華寺といったらしい)を預けた。

しかし鎌倉末期に楠正成が幕府に対抗したおり、地元の平岩氏はこれに呼応して平石城に立て籠もり、幕府軍に攻められて破れる。このときに高貴寺の伽藍は灰燼に帰してしまい以後数百年、寺は廃れたままになる。

寺が隆盛になるのは江戸末期に、慈雲尊者(じうん)がこの寺に入って以来である。尊者は大仏教学者であったらしい。江戸幕府は「正法律高貴寺総本山」の許可を与えたが、新規に本山を認めることは異例のことであった。




左手は講堂、右手が本堂。前に枝垂桜が植わっている。

司馬さんは

『・・・本堂の前に青い天蓋のようにしてしだれ桜が植わっている。よほどの老木でしかも姿がよく、これを見て京都に住む編集部のHさんがめずらしく声をあげた。』

と書かれていたが、桜の木の横に立て板があって、「樹齢百十年」と書かれていた。

確かに枝垂桜の幹は中心部が朽ちて、まわりの樹皮だけで枝を支えている様子であったが、それほどの巨木とも思えなかった。掃除をしている方に樹齢を確かめると、「まあそんなものです。樹齢300年となると、宇陀の「又兵衛桜」くらいの大きさになります。」

そういえば昨年、大野寺で樹齢300年の枝垂れ桜を見たが、これよりはるかに大きな木だったから、樹齢110年はそのとおりであろう。当然に慈雲尊者のいた時期に、この桜の木はなかった。



境内はここまでであろうと判断して帰ろうとしたら、スーツを着、革靴を履いた70年配がらみの男性老人がやってきて、「奥の院はこの裏ですか」と尋ねられた。それまでに私は本堂の右から裏に回ってはみていたのだが、奥の院らしいものはなかったのである。

手にパンフレットを持っている。あれ、境内の案内図も載っているではないか。聞けば本坊でもらったという。

司馬さんが、この寺は

『律院の性格をよくまもり、世間にはなるべく寺の存在を知れぬように努力し、例えば近鉄電車が沿線の観光資源としてパンフレットに寺の名前を印刷したい、といってもいっさい許さず・・・』

と書かれていたので、当然に寺に案内書が用意してあるとは思ってもみなかったのだ。

地図を持っている老人に同行することにした。本堂を左から裏にまわると登り道があり、100m足らず登っていくと奥の院があった。写真は御影堂。空海が祀られている。(慈雲は本堂の右にある開山堂に祀られている)

老人は80才である。香里園(枚方市)から車でやってきた。カーナビが指示するとおりに進むと1時間半で来ることができたともいわれた。(香里園は、枚方は河内国の最北部である。)カーナビで案内されるほどであるから、高貴寺は名高く、すでに隠れた存在ではない。

慈雲尊者の墓もあったが、どうも同行者としゃべりながら行くと、見るものの印象が薄れる。これは失敗だった。



寺を出た。なるほど、老人のいわれるとおり寺の前に7〜8台が駐車できる場所があって、ここまで車で来れるらしい。幽谷なぞはもはやない 。

南河内が見下ろせる。太子町あたりであろうか。



高貴寺から700mのところに岩船神社がある。案内板によれば、ニギハヤヒノミコトが天岩船に乗って、この神社の裏の峰に天降ったのだそうである。

写真は拝殿。本殿はこの上方の山の斜面にある。 境内には48個の舟形の石があるそうである。たしかに巨石がそこかしこにあり、注連縄で囲まれていた。

ここでも失敗をした。平石峠を過ぎて(転んでからすぐに)一人の老人と、どこから来たのか、どこへ行くのかなどの立ち話をしていたのだが、ここでばったり再会したのである。やあやあということで一緒に岩船神社を巡ったが、やはり会話に身がいって、見たものの印象が残らないのである。


老人は今年70歳の宮大工であるが、最近は仏像を彫っているのだそうだ。話が弾んで、「今日の帰りにウチに寄らんかね」と誘われた。老人はこのあと太子町へ下り、「王陵の谷」にある推古天皇・用明天皇・小野妹子・聖徳太子などの陵墓を訪ねて、古市近くの家に帰るのだそうである。

老人の彫る仏像はどのようなものであるか。興味はあったが連れもって行っては「王陵の谷」もじっくりと見ることがかなわないだろう。いやこれから弘川寺にいく予定ですからといって辞退した。


急な坂道を下ると平石の集落に出た。写真の右側へバックすれば老人の行く太子町。左へ行けば(少し迂回するが)だいたい弘川寺の方向になる。ところがここに第三の道として「平石城跡」の案内があった。

高貴寺にあった案内板で知ったのだが、平岩氏が立て籠もり鎌倉軍に敗れたという平石城跡があるらしい。鎌倉末期あるいは南北朝の時代の城とはどのようなものであるのか。寄り道することにした。

住宅の裏道を通って山に入っていく。道は細く急になる。


300mか400mほど登って着いたが、平石城跡には何もなかった。小山の頂上を削って平らかにしてあるだけのものである。

こんなところで、当時としては片田舎の一豪族に過ぎない平岩一族は時の政府に対抗した。彼我の兵力は圧倒的な差があったが、しかし時流が味方すれば、政府を転覆させることが可能であることは、明治維新の例がある。

ここで方針が大きく変わった。城跡下の山道を1.4kmほど西に進むと「近つ飛鳥風土記の丘」があると案内板があった。

高貴寺といい、岩船神社といい、この平石城跡といい、どうにも印象が薄いのである。帰宅しても思い出すことが困難であろう。次の訪問先は弘川寺であったが、引き返して弘川寺に行く元気は少し失せていた。弘川寺までは推定で6Kmほどあるようだから、山道は2時間かかるであろう。「風土記の丘」はその1/5の距離である。近場でよいや、ということにした。ラクなことはすぐに決まる。


しかしこの選択は大正解であったようである。

暗い小道を進んでいると右手(西)にゴルフ場が見えた。こんな山の中にまでゴルフ場が伸びている。 「太子カントリークラブ」とある。さすれば、向こうに見える山は南河内郡太子町にあり、その山麓は「王陵の谷」ではなかろうか。

山道の左(東)は藪や木立があって視界は悪い。しかし右のゴルフ場を見下ろしながら進んでいくうちに、一気に東側の視界が開けた。思いがけぬ景色の展開である。

道は山襞の最も高いところを通っている。「尾根道」というのか。

向こうの山は金剛山ではないか。

(次図)少し進むと東にある山々が完全に一望できるようになった。写真の中心は葛城山である。右奥の少し霞んだのが金剛山。

(次図)視線を少し北にずらすと岩橋山があって二上山がある。河内側から見る金剛・葛城山系である。 これでもう大満足である。(しかし大阪側には送電の鉄塔が多いですな)





尾根道は300mほど続いたであろうか。道は尾根からはずれていき、再び木立に挟まれた暗い小道となったが、じきに「風土記の丘」に着いた。


展望台があった。展望台は大好きである。設置してある方角ごとの地図と実景を照らし合わせて、あれがXXの市街だとか、XX山か、XX川かと知ることは実に愉快である。

(次図)まずは北東方面から。写真右端は二上山。写真中央にある耳成山に似た小山は「風向山」というのであろうか(不明)。この山の両裾に推古天皇陵と孝徳天皇陵がある。「王陵の谷」の中心部分である。



視線を左(西)にずらすと、中央やや右の最も霞んでいる山(少しだけのぞいている)山は生駒山。手前の山麓も「王陵の谷」である。ここに用明天皇陵、写真中央あたりに聖徳太子の墓がある叡福寺があるらしい。



やや視線を西にずらすと、遠くに霞んだ平らかな山系は北摂の山々である。


(次図)右は北摂の山々、左は六甲山系。北摂の山並みが沈むあたりが京橋(大阪ビジネスパーク・大阪城)であり、中央部が大阪の中心の梅田。左に天王寺のビル群。 手前の低い小山のような緑は羽曳野・藤井寺にある古墳(仲哀天皇陵・白鳥陵・仁賢天皇陵)である。


右は六甲山系が終わり、瀬戸内海あるいは淡路島の方向か。左1/3のところに富田林市のPLの白い塔が立っている。



展望台から下っていくと、道のすぐ脇に古墳があって、自由に立ち入りができる。「近つ飛鳥風土記の丘」は古墳公園であるらしい。


さらに下ると、きれいに整備された散歩道がある。道は平らで車椅子でも行けるのだが、その脇々にはやはり古墳がある。




管理事務所に着いて、この「風土記の丘」は大阪府が10年ほど前に作った公園であることを知った。園内は29ヘクタールあって、102基の古墳があり、うち40基を公開しているのだそうである。

私はいわば裏口から公園内に入ってきたので、徐々にこの公園が何であるのかを知ったわけであるが、どうも図の赤線のルートで逆行して来たらしい。

細い山道を避けて、整備された道を通ってきたため、実見できた古墳は5〜6か所であったが、より細い道を歩けば、次から次に連続する古墳を見ることができたようだ。

あとでもらったパンフレットによれば、この地は「王陵の谷」の南側にあり、6世紀後半を中心として作られた古墳が密集する「一須賀古墳群」というのだそうである。

公園の隣は太子カントリークラブである。帰宅して地図で確認すると、ゴルフ場は「風土記の丘」の5倍ほどの面積がある。おそらくはゴルフ場の開発が進められる際に、急ぎ古墳群の保存が決まり、この地を大阪府が買収したのではなかろうか。隣接するゴルフ場にはもっと多くの古墳があったに違いない。





公園内のはずれに「近つ飛鳥博物館」があったので見学する。入館料は600円。

古墳に特化した博物館である。見ごたえがあった。聖徳太子の墓の内部の実物大の模型・10mある仁徳天皇陵古墳模型・修羅(しゅら)の実物を中心にして、ありとあらゆる副葬品(刀剣・矢尻・鏡・装飾品・馬具・靴・ベルト・須恵器)、埴輪、銅鐸などが陳列されている。

石棺を運んだといわれる修羅が発掘されたことは何年か前に報道されたが、保存処理を終えて、この博物館に展示してあった。長さ8.8m・重さ3.2tという巨大なソリである。

説明を読み、展示物を見、ビデオを見ていれば時間の経つのを忘れる。あっというまに1時間半が経っていた。



「風土記の丘」の正面玄関を出ると、新しいきれいな住宅地があった。阪南ネオポリスという団地らしい。道路には花水木が植えられていて、見通せば白やピンクの花のベルトが続いていて、ああ、いい住宅地であるな。


バスがやってきた。「金剛バス」と書いてある。むろん初めて乗る。

近鉄(長野線)・喜志駅まで約20分。バスの車中から二上山がきれいに見えた。いつも眺める二上山とは左右が逆である。ここは河内なのだと実感する。

万歩計は22,800歩であった。


行く先の目次... 前頁... 次頁... 大和と河内の地図... 奈良の山々...      執筆:坂本 正治