名張旧町と初瀬街道

    No.31.....2004年 5月8日(土曜)


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今年もテッセンが咲いた。これも家内が残した忘れな草の1つである。

5月のゴールデンウィークは初めの2日は晴れたが、最後の3日間は雨模様だった。よって連休中は終日仕事をした。8日(土曜日)は晴れた。明日9日はこの3月末に死んだ姉の49日の法事があるので広島県・尾道市へ日帰りをせねばならない。しばらくぶりのテクテクのチャンスではあるが、明日のことを思えば遠出をしてクタクタになってもいけないし。

ということで、13年間住んでおりながらあまり歩いたことのない名張市の旧町をぶらぶら歩くことにした。

「旧町」というのは、徳川時代領主の館を核にして、その周りにできた名張市の中心市街地を指す。名張市は昭和29年(1954年)に市になったが、今は郊外に新興住宅地が開発されて住民の大半はこの住宅地に住んでいる。

名張市の地区区分では、旧町は「名張地区」と呼ぶが、この地区の人口は7600人。例えば私の住んでいる「梅が丘地区」も7600人である。もっと大きい住宅地である「桔梗が丘地区」は13800人、「つつじが丘地区」は11200人、その他の新興住宅地区でも3000人〜5000人の人口がある。旧町に住む住人は名張市の人口の約9%でしかない。


もともと名張市にはたいした観光名所はないが、旧町(名張地区)にだけは名張の江戸期以来の歴史が堆積しており、名張市の史跡の過半はここに集中している。

その町名を掲げると、@丸之内、A元町、B本町、C中町、D新町、E鍛冶町、F木屋町、G豊後町、H松崎町、I上八町、J栄町、K東町、L上本町、といったところで、まあどこにでもある町名であるが、このありふれた町名こそが名張の中心街であったことの証明である。

図のピンク色は初瀬街道といわれていた道である。桜井市から長谷寺→榛原→室生→三本松→赤目ときて、図のFのピンク色の道につながり、F→E→D→Bと続く。今日辿ったコースは
  1. 自宅から徒歩で梅が丘を下る。
  2. 杉谷神社。

  3. 東町に入り、初瀬街道を進む。
  4. 初瀬街道から少しそれて、名張藤堂家邸跡。

  5. 初瀬街道に戻り、榊町、中町、本町を過ぎて、
  6. 新町の江戸川乱歩の生家跡を訪ね、
  7. 新町のはずれにある愛宕神社・新町橋が今日の西端。

  8. ここより名張川の土手を引き返して蛭子神社、一度名張川を渡って稲荷神社。
  9. また橋を戻って宇流富志禰神社(うるふしね)。

  10. 徳蓮院が今日の東端。ここからDのジャスコに行って買い物をして終わり。



私が住んでいる梅が丘は「丘」とはいいながら、実際は山といったほうが正しい。写真のような道を下る。向こうに見える市街地は市役所のある鴻之台あたり。



坂を下り切ったところに杉谷神社がある。いつもはバスや車で横目に見ながら通り過ぎているのだが、2年ほど前に境内がきれいになり、擬宝珠(ぎぼし)のついた柵で囲われたことに気がついた。

寄ってみる。祭神を見て驚く。なんと12柱が祀られている。@オオヒルメムチ命、A菅原道真公、Bアメノコヤネ命、Cアメノホヒ命、D大物主命・・・・K大山祇神である。

このように雑多(といってはいけないか)な神さんが祀られているのは、明治40年に政府の命令で、1村1社の制が強要されたからである。当時このあたりは何村といっていたのか知らないが、6つの地区に6社があり、これを杉谷神社にまとめた(合祀)ためらしい。

つまりは杉谷神社はこのあたりの村社であったらしい。



境内に「杉谷神社式年御造営」の銅版がある。昭和57年(1982)に4000万円をかけて神社を整備している。「寄付金」のところに外氏子399名、内氏子120名と彫ってある。

その横には平成14年(2002)の「式年御造営」の石碑があって、このときの費用は6000万円であり、外氏子352名、内氏子107名となっている。

どうも神社に縁なく生きてきたもので、氏子になったこともなければ、神社のお祭りに参加したこともなく、造営の寄付をしたこともない。よって何も知らないのだが、このような旧村社であっても伊勢神宮が式年遷宮をするように、20年に一度は神社の補修や整備をするものらしい。氏子の数は年々減少しているようだが、次の20年後はどうなるものか。



名張川を渡る。写真は西向き。向こうからこちらへ川は流れてきている。

川の流れに逆行して説明すると、写真奥の山に突き当たったあたりで大きく左(南)に旋回し、さらに回って新町・鍛冶町あたりではこの流れとほぼ平行した流れになる。(流れの向きは反対だが)つまり川は「⊂」字の形であり、この⊂の中にあるのが旧町である。



東町から初瀬街道に入る。向こうへ歩けば長谷寺、こちらへ歩けば伊勢神宮へ通じる。

どこでもそうだが、旧街道筋は車社会の現代では幹線にはなりえず、街道筋での商売は成り立たなくなってしまった。当然に街道筋の発展は望めず、家並みは古いままに残っている。

家屋は50年も手入れをしなければたちまち朽ちていく。このように古い家並みが残っているのは、住んでおられる方々が、補修を繰り返して保存に努めているためである。物を維持していくことは大変だ。

バス道に突き当たる。ここまで約600mの距離。初瀬街道はバス道を渡った向こうに続く。あと1200mほどで旧町が尽き、名張川に出る。

ここからバス道を左に折れて初瀬街道からはずれる。200mほどのところにある名張藤堂家邸跡を訪れるためである。

名張藤堂家邸跡。「名張藤堂家」というのは藤堂高虎から始まる伊勢・津藩の藤堂家、その支城である伊賀上野城の城代であった藤堂家、久居にある久居藩の藤堂家らとの区別をつけるためである。

津藩の藤堂家は藤堂の宗家で32万3000石である。藤堂高虎の生前には分知を許さなかったが、後を継いだ2代藩主藤堂高次のときに次男の高通(たかみち)に5万石を与えて久居に支藩を作った。

津藩が本家、久居藩が分家で、そのほかは家来筋ということになる。大名としては津藩と久居藩があるだけで、津城よりも大きい伊賀上野城には城代を置いた。名張の藤堂家は藤堂高吉が預かり、当初は2万石。のちに分家させたために1万5000石となった。大名ではなかった。したがって城を築くことはできなかった。

写真の名張藤堂家邸は、明治維新後に小学校や中学校、その他公共施設に場所を譲って、元の広さの1/20ほどが残っているだけであるが、残っている場所は当主が居住する「中奥」で、茶室・湯殿・便所など江戸期の上級武士の日常生活の場である。これは珍しいらしい。


藤堂高虎は「世渡り上手」として知られている。初めは@浅井長政、ついでA豊臣秀長→B豊臣秀吉→C徳川家康に仕え、どこでも遣り手として重宝がられた。徳川では譜代並みの待遇をされている。徳川の先鋒は譜代の井伊と外様の藤堂の2軍と決められていたほどである。

徳川が崩壊する鳥羽伏見の戦いでは幕府軍の先鋒として出陣したが、これを裏切り幕府軍が背走するきっかけを作っている。藤堂家は最後まで「世渡り上手」であったらしい。

写真は中奥。茶室も入れて5部屋が残っている。

見学者は例によって私一人であった。受付の男性老人が説明してくださる。先方もヒマであったとみえて、屋敷の全部を同行された。

大和郡山城を訪れた折に、丹羽長秀の三男が豊臣秀長の養子となり、ついで藤堂高虎の養子になった。これが藤堂高吉(たかよし)で、名張藤堂家の始祖となったことを知った。

藤堂高吉の名前は、以前にこの名張藤堂家邸跡を見学したときに覚えていたが、実父が丹羽長秀、ついで豊臣秀長、藤堂高虎が養父であるとは新発見だった。HPで調べると、「藤堂高吉」のキーワードで多くのHPが検索される。歴史好きな人たちの間では結構有名であるのだ。


説明者は、名張藤堂家邸跡に勤務して(たぶん市役所の嘱託だろう)いる以上、名張藤堂家に対しては同情的であり、津の宗家に対してはやや批判的な口ぶりであった。(もっとも私がそう答えるような質問を繰り返したからであるが。)

1582年本能寺の変が起き、秀吉の天下取りの戦いが始まるが、秀吉は織田家重鎮の丹羽長秀を味方につけるために、長秀の三男仙丸を弟の豊臣秀長の養子として迎えさせる。ただの養子ではなく子供がなかった秀長の嫡子としてである。

秀吉は1583年に越前の柴田勝家を討ち、信長の後継者となる。1585年に秀長に新しい養子(秀保)を迎えさせ、高吉は嫡子ではなくなる。そこで1588年に秀長の家臣であった藤堂高虎が養子としてもらい受ける。高虎にはまだ子供がなく、当然に藤堂の嫡子としてである。

高吉は才覚ある人物で、秀長・秀吉に気に入られていたらしい。高虎の養子になる際に秀吉から1万石を贈与されている。その後養父高虎は秀吉の家臣になり、高虎・高吉親子はともに朝鮮出兵に参加している。高虎が徳川に組した後も藤堂の一軍として関が原の戦いなどに参加して軍功を上げ、徳川家康からも1万石を与えられ、2万石の大名として伊予の今治城主となる。


藤堂高虎も伊予20万石の大名であったが、1608年に伊勢・伊賀22万石へ移封される。上野城を築き、津城へ入城するのであるが、高吉は今治に残る。

1630年に高虎が死去し、家督は高虎の実子高次が相続する。この後1632年に今治から伊勢に移封されるのだが、このとき2万石は津藩に含められ、宗家から2万石を預けられるという家臣の位置に落とされるのである。

実父の丹羽長秀は、豊臣秀吉が丹羽長秀の「羽」と柴田勝家の「柴」をあわせて「羽柴」に改姓したほどの実力者であった。それが時のナンバー2の大納言秀長の養子となるが秀吉の都合で廃嫡される。次に家臣の藤堂高虎の養子になるも家督は継げず、しまいには藤堂宗家の家来の地位になるのである。

無能ではない。秀長・秀吉や家康からもかわいがられたようである。津藩は継げなかったとしても今治では大名であった。それが伊勢に移封されると津藩の家臣にされたのである。こういうことが歴史好きをして「高吉ひいき」にさせているらしい。

このことが説明者の津の藤堂に対する口調がきつくなる原因である。ただ明治維新では名張藤堂は男爵となっているので、単なる藤堂宗家の家臣ではないと世間は考えていたのかも知れない。


出ようとしたら、脱いだ靴の向きが変えられて揃えてあった。先ほどの案内の方がされたらしい。恐縮する。

名張藤堂家は11代目に維新となり、その後12代・13代までこの邸に住まわれていたそうである。部屋の柱には蚊帳を吊る金具がついていたから、そうであろうが、屋敷を便利に改築することもかなわず不便な生活をされたに違いない。

13代目が亡くなられて、残った家族は東京に移られたが、その際に、邸や蔵書・文物を市に寄贈された。邸は保存修理をした後、平成4年から一般公開されている。たぶん前回ここを見学したのはそのすぐあとだったのだろう。公開直後なのでほかに見学者もいた記憶がある。

藤堂家邸跡は小高い丘の上にある。丸之内という。藤堂家邸のすぐ裏に寿栄神社(ひさか)がある。祭神は藤堂高吉である。高吉の法名の「徳蓮院殿徳翁寿栄大居士」に因んでこの神社名としたらしい。

丘を下ったところが旧町である。写真の溝がある路地を抜けて初瀬街道に戻る。以前に通ったときは単なるアスファルトの細道であったが、タイル舗装に変わっていた。

初瀬街道に戻った。真ん中に石の鳥居がある。初瀬街道は鳥居をくぐって左に曲がっている。


鳥居は後に訪れる宇流富志禰(うるふしね)神社の一の鳥居である。鳥居は道の真ん中にあるものだから、車も鳥居の下をくぐって通り抜ける。

ここから商店街が続くのであるが、例によって旧の商店街は車がゆるゆるとしか通れないようなところにあるので、営業不振となり廃業が相次ぎ、さびしい通りになっている。

これではいけないというので、市は鳥居の手前(右)にショッピングセンターを作り、ジャスコを中心にして地元の薬局・自転車屋・洋品店・すし屋・パン屋などをテナントにして、旧町の振興を計っているのだが、やはりネックは道路である。国道165号線沿いに大型ショッピングセンターが次々に出来てきては、なかなかここへ買い物客は集まってこない。

このあたりは中町というらしい。
初瀬街道は右に折れて、本町となる。

中町・本町・元町は旧町の中心部であった。藤堂高吉は名張に移封されたときに、先ほどの丸之内に陣屋を作るが、同時に町割りをして名張の町の原型を作った。その後名張川の川替え工事をして新町ができる。

旧町には本町・中町・元町・東町・栄町など簡単な町名が多い。ほかの木屋町・鍛冶町というのは材木屋や鍛冶屋があったからついた名前であろうが、「豊後町」というのが違っている。

天王山の戦いの折、秀吉と丹羽長秀は連名で、大和郡山の筒井順慶に、自軍に味方するために出陣するよう要請する(その書状は先ほど藤堂家邸で見てきたばかりである)が、順慶は洞が峠で様子見をして戦には参加しない。 順慶の死後、大和郡山には豊臣秀長が入城し、順慶のあとを継いだ養子の筒井定次は伊賀上野20万石に国替えとなる。このとき松倉豊後守重政は名張を任されたらしい。その屋敷が「豊後町」にあったのだろうか。

さすがに旧町である。結納品店がある。

司馬さんは「街道をゆく・17巻」の「島原・天草の諸道」の中でとくに1章を使って「松倉重政」について書いておられる。それも

『日本史のなかで、松倉重政という人物ほど忌むべき存在は少ない。』

という書き出しである。 「島原・天草の諸道」の半分ほどは重政についての非難である。 ここで松倉家の代々について書かれ、@順慶の洞が峠の提案者は、重政の父の松倉右近であったとか、A重政が関が原以来どのようにして徳川家康に売り込んだか、B徳川の時代になって重政は肥前島原4万3000石の大名になったが領民に対しては苛斂誅求、搾れるだけ搾り取った上に、キリシタンの弾圧をしたとか、C重政の死後「島原の乱」が起き、乱が鎮圧された後に松倉家は取り潰されたとか、である。

豊後町と名付けたのはややはやまったようである。しかし島原のことは4万3000石の城持ち大名になってからのことであるから、筒井氏の3000石程度の家臣であった名張時代には、案外によき領主であったのかも知れない。


新町に入る。道路脇に「江戸川乱歩先生出生地」の石碑が立っている。

乱歩は名張で生まれたことは名張に来る前から知っていた。22〜3才のころだろうか、講談社が「江戸川乱歩全集」を刊行した。挿絵は横尾忠則さんであった。(今調べてみると昭和44年(1969)年に第1集が刊行され、翌年に15集の「幻影城」で終わっている。)

黒箱入りで、表紙は赤い布で装丁してあった記憶がある。ともかく全集を揃えて長い間読んだが、ここで乱歩は名張の生まれであることを知った。その後は読まなくなって長く本棚にあったが、2年前に身辺整理をした際に処分した。

名張に住もうと思ったのは、乱歩の生誕地であるというたったひとつの知識からである。このほかに名張については皆目知らなかった。

しかし名張に住んでからも乱歩の生誕地を訪れたことはなかった。この辺だろうかと探し歩いたことはあったのだが場所はわからなかった。 ところが名張藤堂家邸をでるとき、説明をして下さった方にもらった「旧なばり町・ガイドマップ」に、その場所が標されていたのである。ようやく念願がかなった。



この地にいたのは乱歩が1才までのことである。この地で育ったわけではない。名張市にかかわりのある歴史上の有名な人物は乱歩だけである。市は、乱歩とのかすかな繋がりを頼りに、毎年「乱歩賞」を受賞した推理作家を中心にした講演会を開催している。

5〜6年前に作家の高橋克彦さんが講師となって名張にこられた。家内が講演会主催の役員に頼まれたのであろう、「参加者が足りないので、お父さんも行って」と連れてこられた。

100人程度の聴衆が集まったが、満席とはいかなかった。高橋さんは岩手県盛岡市から東京に出て、名古屋へ下り、近鉄電車に乗り換えて名張にやってきました。と開口いわれた。

新幹線が早くなった今でも6時間半はかかるようだから、当時は8時間近くかかったのではなかろうか。聴衆の少なさに申し訳ない気がしたのを覚えている。講演は大変面白かった。

「レコードショップ・おおくぼ」の看板がある。今どきはCDだろうと思って覗いたら、本当にレコード盤が陳列してあった。レコードはまだ商売になるのか。



新町を通る初瀬街道をさらに進むと酒蔵があった。銘柄は「旭金時」とある。小売もしている。「地ビール」の貼り紙があったので入ってみた。




のどが渇いていたので、ここで飲めるかと尋ねたら、店内横にテーブルが一つ、椅子が4脚ある部屋があって、ここでお召し上がり下さい。とのことである。

ビールは中瓶サイズのものが2種類、小瓶サイズが2種類あったが小瓶のほうにした。「伊賀流麦酒」とある。345円。緑色のラベルはこってり味、黄色のラベルはすっきり味というので、こってりの緑ラベルを飲む。

エビスビールのような味だった。




酒屋は北村酒造といった。ここを出ると愛宕神社に突き当たる。

愛宕神社は、夏7月24日に「愛宕の火祭り」を催す。トラックの荷台に何個かの大太鼓を積んで、法被・鉢巻姿の若者がドンドンドンと太鼓を叩きながら、町を巡って火祭りを告げて回る。新興地の梅が丘にも触れにきてくれるのだが、行ったことはない。

同じ日に横の名張川で花火大会が行われる。結構盛大なもので、5万人ほどの見物客が集まる。初めは「愛宕の火祭り」が花火大会のことかと思っていたが違うようである。

神社そのものは小さい。鳥居の右に小さな社がある。鳥居の左にある2階建てかと思われるような大きな建物は宇流富志禰神社(うるふしね)の「お旅所」であるそうだ。案内板からすると、毎年10月に宇流富志禰神社の神さんは名張川を下るか、新町を通るかして、この場所に遷座するようである。




愛宕神社は土手の横にある。前は名張川。左(東)から右(西)に向かって流れているが、ここで向こう(南)から流れてきた宇陀川が合流して、名張川はより広くなる。

宇陀川に架かるのは黒田橋、名張川に架かるのは新町橋である。初瀬街道は新町橋を渡り、黒田橋を渡って長谷寺に通じる。





名張川を左に向かって歩く。上流に向かっている。ここから上流800mほどのところに宇流富志禰神社があるのだが、旧町にはやたらに神社がある。地図を見ると途中に蛭子神社があり、川向こうには稲荷神社がある。

名張河畔には新しい道路ができていた。以前はこのあたりの家は土手のきわまでせり出し、家のすぐ下は名張川といった様子だったと記憶している。今のところは遊歩道のようであるらしく、路肩にはつつじが植えられていて整然としている。いつのまにできたものか。

そういえば名張に越してきたころ、名張河畔の整備をするが、どのような形態がよいか、のアンケートに答えた覚えがあるが、それがこの道として実現したのか。

向こうの橋は鍛冶町橋。橋の右にある杜は稲荷神社で、橋向こうにあるのは宇流富志禰神社。橋の左の道を旧町へ戻ると蛭子神社がある。

蛭子神社(えびす)を訪れる。境内は小さいが毎年2月8日に「八日えびす」が催される。

名張に来る前は兵庫県西宮市に住んでいたが、1月10日の西宮神社の「えべっさん」にはほぼ毎年詣でた。3人の子供の初宮参りと2人の子供の七五三詣では西宮神社でした。

名張に来たはじめての正月に、名張にも「えべっさん」があることを知って、1月10日に家内と二人してこの神社に参ったが、人ひとりいない。えべっさんは1月10日ではなかった。あとで2月8日であることを知った。

蛭子神社の前の道は何という通りであろうか。えびす通りか、鍛冶町通りか。昔は商家が軒を連ねていたようであるがいまは普通の住居になっているものが大半である。

しかしまだ豆腐屋があり、写真の和菓子屋がある。

京染めもの屋があり、写真の川魚料理屋もある。


いったん鍛冶町橋を渡って、名張川の対岸へいく。そこには稲荷神社がある。

ここは瀬古口(せこぐち)という地区らしい。稲荷神社は1597年に京都伏見稲荷を勧請したと立て札にある。境内にはほかに3社があるが、明治40年の神社改正によって瀬古口地区にあった諸神社を合祀したらしい。杉谷神社と同じである。

ここでも「式年御造営」の記念碑があった。平成16年4月とあるので、ほんの1か月前のことである。総費用6500万円とあった。

再び鍛冶町に戻る。向こうの杜は宇流富志禰(うるふしね)神社である。

ここは平尾という地区である。

宇流富志禰神社は式内社である。伊賀国には25の式内社があるが、名張にある式内社は2つだけである。(もうひとつは下比奈地にある「名居神社(ない)」。行ったことはない。)

手水鉢越しに拝殿を見る。

ここでも明治40年に近隣の14社の合祀があって、境内には松尾神社・稲荷神社・愛宕神社・八坂神社・三輪神社などなどが併祀されている。

村々がそれぞれに有名どころの神さんを勧請して数多くの神社を作っていたことである。どういう契機で村に神社を作ろうとしたのか。何が必要であったのか。


子供3人のうち2人は西宮神社で宮参りと七五三詣でをしたが、末娘の七五三詣ではこの宇流富志禰神社でした。

お祓いがすんだ後、拝殿の板の間に座っている私たちのところに神主さんがにじり寄られて、6歳の娘に声かけられた。

「お父さん、お母さんのいうことをよくきいて。好き嫌いをいわずになんでも食べて。」、ここまではよい。

「ピーマン食べてる?」、娘は頷く。「椎茸食べてる?」、娘はうなづく。「玉葱食べてる?」、あといくつか食べ物の名前を出されたか。娘はことごとく頷いて、七五三詣は終わった。

西宮神社では5人10人が一組でお祓いを受けていたが、宇流富志禰神社では一組だけ、しかも神主さんから声をかけてもらっての七五三だったからよく覚えている。娘は、しばらくのあいだ兄姉や私から「ピーマン食べてる?シイタケ食べてる?」とからかわれた。


この神社にも「式年御造営」の石碑があった。平成7年(1995)、2億1500万円の費用をかけている。寄進者は2353名。さすがに名張第一の神社である、造営の規模が大きい。拝殿横の建物はなんだったか。ここに寄進者の名前が掲げられていた。(写真)

私の母は1994年に名張で死んだ。76才だったからまあ平均寿命より幾分早かったかというほどである。母はしばらくは梅が丘の自宅に同居していたが、長く一人暮らしを続けてきていたから、同居が窮屈になったらしい。じきに旧町の栄町に一軒家を借りて移り住んだ。

旧町の同年輩のご老人らとたちまち仲良しになって、一緒に日帰り旅行をしたり、薬草摘みに行ったり,していたのだが、それは3年ほどで終わった。満中陰がすんで、親しくしてもらっていた近所の方々の家に香典のお返しをもっていったとき、宇流富志禰神社のお札と神饌の下がり物などを手渡された。栄町の住民は皆で、宇流富志禰神社へ寄付をしていたらしく、これは神社からのお返しであるということであった。

ははあ、母が寄付したのはこの式年造営のためのものであったのか。寄進者の名簿に母の名が載っているかと探したら、後ろの方に近所の人の名前と一緒にあった。思いがけず母の名前を見つけて、そういえば娘の七五三詣の着物は母の家で着付けてもらったな。いろいろのことを思い出して、涙が出た。

宇流富志禰神社は名張川のすぐ横にある。神社の側面から川沿いの道へ降りた。近鉄電車が鉄橋を渡っている。向こうの百合が丘の上には市立病院が建っている(電車先頭のすぐ上)。家内は2001年1月に、くも膜下出血で倒れ、ここに運ばれてあっけなく死んだ。47才だった。


近鉄電車に乗って大阪へ通勤するとき、この病院が墓標のように見えて、しばらくの間は目にするたびに泣いた。このことは前にも書いたか。 旧町を歩いているとさまざまなことを思い出させられる。


川沿いの道を300mほど行けば、名張藤堂家の墓所である徳蓮院がある。ここに名張藤堂家13代の墓がある。藤堂高吉の法名は「徳蓮院殿・・・」であるから、この寺名となったのであろう。

高吉は時代に翻弄されながらも、56才で名張に入り、この地で安心立命。92才で生涯を閉じた。長命である。

今日のテクテクは徳蓮院が最後である。引き返す。

近鉄の踏み切りを渡り、宇流富志禰神社を通り過ぎ、

上本町商店街を抜けると、宇流富志禰神社の一の鳥居があって、


ジャスコに着く。このあたりは元町・木屋町・豊後町である。

ジャスコで買い物をした。何がそうさせたのか、目につき買ったものは、@線香1箱、A消臭力1本、Bブルーレットおくだけ3個、Cクリアクリーン(歯磨き)2本、D歯ブラシ3本。どうも匂いに引っかかりがあったようである。

あとで考えると、どうやら藤堂家邸で江戸期の便所を見ており、昔のトイレはこのようなものだったのかの印象が強く残っていたからであろう。

今日の万歩計は17100歩だった。結構歩いた。



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