屯鶴峯と香芝市

    No.32.....2004年 6月19日(土曜)


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香芝市にある屯鶴峯(どんずるぼう)を訪ねる。

香芝市は大阪府に隣接しているが、他の郡市とは違い、県境は高い山(金剛・葛城や生駒山)ではなく、低い丘陵である。従ってここには西名阪(高速道路)や国道165号線・近鉄大阪線が走り、大阪との連絡口となっている。香芝市のすぐ北の北葛城郡王寺町には国道25号線とJR関西本線・大和川が走り、やはり大阪からの交通の要所である。

四方を山で囲まれた大和は、胎児が母親と「臍の緒」で唯一繋がっているように、王寺・香芝に集中した道路・鉄道・河川によって外界(この場合は大阪)と繋がっているといってよい。

地図を見ると、香芝市の周りは北葛城郡の各町で囲まれている。北に王寺町があり、時計周りに上牧町・河合町、東に広陵町・大和高田市があって、南に当麻町がある。大和高田市を除けば、ぐるりは全部北葛城郡である。ということは香芝市は北葛城郡のいくつかの町が合併して、香芝市として独立したようである。香芝市が独立したことによって、北葛城郡は王寺町・上牧町・河合町・広陵町と当麻町・新庄町の2つの地域に分断されるという妙な具合になっている。

近鉄大阪線の香芝市にある駅は五位堂(ごいどう)→下田(しもだ)→二上(にじょう)→関屋(せきや)の4つである。香芝という駅はない。香芝市のHPを見ると、昭和31年(1956)に五位堂村・下田村・二上村・志都美村が合併して「香芝町」になり、平成3年(1991)に県下10番目の市として「香芝市」となったとある。(香芝町が単独で市になったのですな)


香芝市の人口は7万人である。今はやりの市町村合併であるが、奈良県は以下のような組み合わせを提示しているそうだ。
  1. 奈良・生駒・大和郡山の3市は、そのまま単独で残る。

  2. 生駒郡の4町(平群・斑鳩・三郷・安堵)と北葛城郡のうちの3町(王寺・河合・上牧)の7町が合併して14.9万人の市へ。

  3. 3市(香芝・大和高田・御所)と北葛城郡のうちの3町(当麻・新庄・広陵)の6市町が23.8万人の市へ。

  4. 橿原市と高市郡(高取町・明日香村)が合併して14.0万人の市へ。

  5. 天理市と磯城郡(田原本・川西・三宅)と山辺郡(都祁村・山添村)と添上郡(月ヶ瀬村)の1市・2郡が合併して13.6万人の市へ。

  6. 桜井市と宇陀郡(榛原町・大宇陀町・菟田野町・曽爾村・御杖村・室生村)が合併して10.8万人の市へ。

  7. 五條市と吉野郡(大淀・吉野町・下市の3町と黒滝・西吉野・東吉野・天川・野迫川・大塔・十津川・下北山・上北山・川上の10村)が合併して9.6万人の市へ。
である。これによって郡はなくなり、奈良県は9市になるというプランであるが、市町村合併はなかなか難しい。

名張市でも合併の協議が持たれ、当初は上野市・名張市・伊賀町・阿山町・青山町・島ヶ原村・大山田村の2市3町・2村が合併し、人口18.5万人の「伊賀市(市名の有力候補だった)」ができそうであったが、名張市の住民投票で名張市はこれに参加しないとなった。

今は一志郡美杉村の一地区が名張市に編入を希望しているが、名張市民の間では賛否がある。税収と税の配分の問題がからむので、合併は容易なことではない。



屯鶴峯(どんずるぼう)は二上山(雄岳)の北西約2.2Kmの位置にある小山である。最寄の駅は近鉄関屋駅で、駅からほぼ南1.2Kmのところにある。

「屯鶴峯」とは、鶴が屯(たむろ)する峰という意味である。峰の中腹に白色の岩肌が現れており、遠目にみると鶴が群れているかのように見えるらしい。

関屋駅で降りるのは初めてである。




向こうに二上山の雄岳が見える。二上山は東から見れば左に雌岳、右に雄岳が並ぶ双子山であるが、この位置は二上山の北であるので、雌岳は雄岳に隠れて見えない。

屯鶴峯は写真の二上山の右手(木立の向こう)にあるようだ。標高150mほどの小山であるので手前の丘がじゃまして見えない。




持っているガイドブックの地図は1万分の1の縮尺のもので、駅と国道165号線と屯鶴峯のマークはあるが、そこへいく細かな道はまるでわからない。

野良作業をしているおじいさんに道を尋ねる。







踏み切りをわたって、すぐ前の丘を越えて、国道165号線に出て、そこから別の道に曲がればよい。ということであったが、はたして辿りつけるものかどうか。屯鶴峰は低くて見えず、目標物とはならないのである。

目前の丘は、桜ケ丘あるいは鶴峰荘という地名らしい。


桜ケ丘あるいは鶴峰荘はずいぶん古くに開発された住宅地のようである。道はグネグネしてどう進めばよいのか迷ったが、丘を越えると最近舗装されたばかりの立派な道に出た。

どうやらこの丘の上に住宅地を新しく開発しているようである。


新しい舗装道路を登ると、正面に二上山がある。

(次図)道を登り切ったところから二上山の右側をみると、山の緑に囲まれた白い崖が見える。白い部分は数か所ある。ははあ、これが屯鶴峯か。 宅地造成しているこの場所の土は白い。屯鶴峯の白壁はここまで繋がっているようである。





丘を下る途中に「穴虫石切り場遺跡」の看板が立っていた。その遺跡は今では立ち入りができない(住宅地の開発が進んで無くなったのか)ようだが、書いてあるところでは、
  1. ここに古墳時代および飛鳥時代以降の石切り場があった。

  2. 切り出した石は凝灰岩で、古墳時代には石棺材に、飛鳥時代以降は寺院の基壇に使われたらしい。

  3. その凝灰岩は屯鶴峯の地層の続きで、今から2500万年前に二丈山が大爆発したときの火砕流堆積物である。
そうである。

国道165号線に出た。この国道は嫌いである。歩道がほとんどない。

側溝から50cmほどの幅が歩道であるが、大型トラックがすれ違うと思わず立ちすくんでしまう。しかたがないので溝の中を歩 く。不快である。

昔はこの道は屯鶴峯へのハイキングコースとなっていたようであるが、交通量が増加して、とても歩ける状況ではなくなった。ハイキングコースと推奨しては危険すぎるので、多くのガイドブックはハイキングコースとして取り上げていないようである。(だから案内板がないのかも知れない。ここまで何度も道を尋ねた。)


やや歩道幅が広くなったところに「スイカの産地直売場」があった。スイカ・ぶどうが店先に積んである。みればスイカが切ってあって、ひと切れ200円とある。

店は老夫婦と娘さんの3人でやっているらしい。一片を頼んだら席を勧められて、ここに座って3口4口と食べていたのであるが、スイカには種がある。種を吐き出す都合もあるので、道路脇にでてブツブツと種を撒き散らした。

165号線を走る車が、「おっ、スイカの立ち食いができるのや」といった顔をして通り過ぎていく。採れたてのスイカはうまいぞ。


向こうに交差点が見える。穴虫交差点というらしい。


穴虫交差点から県道703号線が分かれている。県道703号線は近鉄南大阪線と平行して走り、「穴虫峠」を越えて大阪府南河内郡太子町に出る。そこは王陵の谷(磯長谷・しながたに)である。

磯長谷には、二上山南側の「竹内峠」を越えてきた竹内街道(166号線)も通っているのであるが、166号線はすぐ隣の羽曳野市で終わり、県道703号線は太子町で終わるようである。

県道703号線に入ったが、この道は灰色である。建物も灰色である。このあたりの地質が粘土質なのか、灰色の砂塵というか粉塵が道や建物に付着している。鼻腔奥が粉塵で詰まりそうな気がしてサッサと通り過ぎる。

「どんづる峯」の看板が見えた。

ここから登山道が始まるようだ。もともと標高150mの小山であるから、ここから100mも登れば頂上につくかと思って石段を登ったがあてがはずれた。

すぐに白い道に変わった。白土でも白砂でもない。一応は岩である。岩であるが、やわらかくもろい岩質のようである。

左側の白い道を登った。


いきなりの地層の露出である。地層は斜め30度くらいに傾いている。水平に堆積していた地層が、褶曲によって盛り上がり、次第に上部から崩れてこのような突き出した形になったようである。

ははあ、これが二上山の火砕流であるのか。何度も二上山は噴火したようである。その時々に噴き出すものは溶岩であったり、火山灰であったりしたらしい。溶岩のときは堅く固まり、火山灰のときは粘土質のもろい石になったとみえる。



頂上?に立つと、向こうの谷も白い岩壁である。それも地層が重畳する岩壁である。

雪山のようであった。



生成のしかたから、岩石は@火成岩、A水成岩(堆積岩)、B変成岩、の3つに分類できることは中学校の理科で習ったが、地面に落ちている土(石)を見るとキメ細かくもろい。いかにも火山灰が水に溶けて沈殿し、堆積してできた水成岩のようである。





向こうの尾根にハイカーが立っている。その向こうの白っぽいがやや茶色がかった丘は、さきほど通ってきた住宅地の造成工事現場であるようだ。やはりそこから見えたのがこの場所・屯鶴峯であったのだ。



別の峰にいってみた。ここからは二上山が見える。雄岳の向こう右側に雌岳が見えるから、二上山の真北からやや西寄りの位置に来ているようだ。

雌岳の右には葛城山も見える。手前の小山を越えれば、河内国である。




入り口から高さで30mほど登っただけであるが、屯鶴峯登山を終わり、県道に戻る。

途中に「二上砕石所」の看板があった。このあたりの石は何に使うのであろうか。看板に疋田建設とあるから建築用材となるのか。

トラックが通るたびに白い土煙がもうもうと立ち上がる。大昔に二上山が噴出した火山灰である。しばらくは目を細めて、立ち上がった灰神楽が落ち着くのを待つしかない。早々に引き返すことにした。


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県道703号線に入ったばかりのところに、道といわず家といわず塀といわず、粉塵で白くなっている建物があった。ここは何屋さんならんと、帰り道に確かめると「コーワ研磨剤工業」とあった。 研磨剤を作っているのか。なるほどこの地の土石はキメ細かいので、これを加工してガラスや金属製品の研磨剤とするのだろう。

小学生のときから母親が「子供の科学」を毎月取ってくれていたためか、中学生になると私は天文少年になっていた。必要上、望遠鏡を何本か自作していたが、口径10cm程度のレンズのものでは不満になって、反射望遠鏡を作ろうと思い至った。これだと口径20cmから30cmくらいの望遠鏡ができるのである。

「反射望遠鏡の作り方」といったような本を買ってきて調べたのであるが、まずは凹面鏡を磨きださなければならないらしい。

磨き出しの方法は、@2枚のガラスの円盤を用意し、A1枚は丸椅子か丸テーブルの上に固定しておく、Bこの上に研磨剤を振りかけて、Cもう1枚の円形ガラスを乗せ、D乗せたガラス板を押さえて前後にこすり、少し右に回ってまた前後にこすり、E要するに置いた円形ガラス板を中心にしてグルグル回りながら、上においた円形ガラス板を前後に擦り合わせていくのである。


写真は二上山の北面。

何度も研磨剤をはさみ、腕の前後の往復運動に加えて、体を周回運動させると、下に置いているガラス板はしだいに凸面になり、上のガラス板は凹面になるらしい。

しかしこのままでは単なるガラス板でしかなく、ガラスの裏側に銀メッキをしてようやく凸面鏡・凹面鏡になる。

ここまで読んで反射望遠鏡の製作はあきらめた。銀メッキをするにはガラス屋さんからメッキ屋さんに依頼しなけらばならない。中学生の小遣いでは到底その費用が出ないと悟ったからである。


そういう思い出があるので、研磨剤とはガラスを磨くための粉であろうと思ったが、半分はアタリで半分はハズレであることが後にわかった。



近鉄下田駅に行こうとしている。ここには二上山の石と歴史をテーマにした「二上山博物館」があるそうである。165号線を通っていたのだが、相変わらず歩道はなく、人に厳しい道であるので、地図はないが道をはずれて町中に入ることにした。

穴虫西地区というらしい。この道沿いには多くの研磨剤の町工場があった。現役で営業しているところもあるが、廃業したのか転地したのか空き家も多い。立派な建物もあったから昔はさぞや繁栄した地区であったようである。



道の脇に石碑があった。「安川亀太郎翁顕彰ノ碑」とある。

カナ混じりの文を読んでみると、翁は江戸末期の安政4年に、この穴虫で生まれ、明治になって、近くから出土する金剛砂を研磨剤に応用し、これを地場の有力な産業とすることに尽力されたようである。

そうか、研磨剤は思ったような粘土質のものではなく、固い金剛石(ざくろ石)の砂を使ったものであったのか。

(この金剛砂を和紙に貼り付け固めるとサンドペーパーになることを、二上山博物館で知った。ついでにいえば、金剛砂の採集は砂鉄と同じく、これを含む土砂を水で流し、沈殿した金剛砂を掬い取るのだそうで、それがために川が濁る。公害にうるさい今では金剛砂の採取はできなくなった。この町が活気を失ったわけである。)



博物館での後知恵であるが、二上山近辺の石は、使われた時代順にいえば、
  1. 縄文時代から弥生時代に刃物として使われたサヌカイト

  2. 古墳時代には石棺、飛鳥時代以降には寺院の基壇として使われた凝灰岩

  3. 明治になってから研磨剤として使われた金剛石
の3つが重要であるそうである。

凝灰岩はやわらかいので加工しやすい。鋼鉄を持たない時代には最適な建築資材であった。近畿の古墳には二上山まわりから切り出した石棺が多く使われているそうだ。高松塚古墳の壁画はこの凝灰岩の上に描かれているし、平城宮や法隆寺の基壇もそうであるらしい。

今は便利な機械があるから、写真のウルトラマンやアンパンマン・ドラエモンなどは簡単に彫ることができる。



二上山北部からやや東側に回ってきた。まだ雌岳は見えないが、雄岳の左に小さなぽっこりした小山がある。これは麻呂子山。その裾に当麻寺がある。

サヌカイトは黒いガラス質の硬い(がもろい)石である。鉄器がなかった縄文・弥生期には、サヌカイトの固まりを削ぎ割って、小刀・槍先・鏃などの刃物とした。生活必需品である。

サヌカイトはどこにでもあるものではない。近畿の二上山、四国の讃岐を中心にして瀬戸内沿岸の広島・大分(?)あたりで産出されるだけらしい。多くの縄文・弥生の石器はここから運ばれたサヌカイトである。

二上山はサヌカイトの産地であるといわれているが、実際には二上山中にサヌカイトはない。二上山の向こうの大阪府にある春日山が噴火したときにサヌカイト(凝灰岩である)が噴出し、大阪地層という地層の中にこの岩石が埋まっているそうである。例えば、関屋駅から越してきた桜ヶ丘や鶴峯荘は旧石器時代の石器(サヌカイト)が出てきたところである。この近くでサヌカイトを掘っていたらしい。




165号線沿いに香芝市役所があった。全国で660番目の市になってまだ13年ほどであるが、先にいったように再合併があるのであろうか。



165号線をはさんで向かいに、「ふたかみ文化センター」があった。ここには「二上山博物館」と図書館が入っている。



博物館のほうはずいぶん小さいスペースしか与えられていないようである。見学料は200円。

しかしなかなか興味深い博物館であった。二上山の石にスポットを当てているのがよい。見学者は母子づれと私だけであった。ここでもボランティアの説明者がおられて、案内しましょうかといってくださったのでお願いした。

この方(畑中さんといった)が実に博識なのである。問えば答えがすぐに返ってくる。おかげでこれまで疑問に思っていた「桜井市にある箸墓の石は大阪山から運んだというが、大阪山とはどこなのか?」の疑問も解けた。

尋ねられたことに反射的に答えられるというのは尋常ではない。聞けば、橿原考古博物館がボランティアの説明者を置いたのが、その始まりであるらしいが、その第一期生であるといっておられた。説明に年季が入っているわけだ。

思いがけずによい方にめぐり合い、甘えて延々と2時間を超える説明をしてもらった。気がついて大いに恐縮したが、この人に会えたおかげで香芝の好感度が大きくアップしたのである。






屯鶴峯(どんづるぼう)近くで小石を3粒拾ってきた。右の灰色の3つである。左の赤茶色は富士山か阿蘇山の石。富士山のものなら長男が持ち帰ったもので、阿蘇山のものなら長女が持ち帰ったものである。(一家そろってミヤゲにお金を使わないですな。)

博物館の受付でサヌカイトを100円とか200円とかで売っていた。入館したときには、これを買って持ち帰って割ってみよう。はたして鋭い破片になるのか。とのつもりだったが、畑中さんとの話が弾み、買い忘れた。

今日の万歩計は19,100歩だった。


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