堺市土塔町から家原寺

    No.33.....2004年 9月25日(土曜)


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3月から《Qエンジン》というソフトのバージョンアップの作業を始めていたが、9月20日にようやく終えることができた。

一連の作業が終わった20日に、ヤフーのイーエスブックスで何冊かの本を注文した。@暮らしをまもり工事を行ったお坊さんたち(1260円)、A今昔物語・本朝部の上(840円)、B日本書紀の読み方(756円)、C空海・民衆と共に(2310円)、Dブルックナーの交響曲(2520円)である。

22日にBCDの3冊が届いた。(@Aはいまだに届いていない。出版社に在庫 の問い合わせをしているのだろう)

7月8月はバージョンアップの作業に、毎日12時間ほどの時間をかけた。当然に読書できないし、テクテクに出かける時間はとれない。作業が終わったとき、これに対する大きな反動から、読みたいと思った本を注文したのである。

C「空海・民衆と共に」は河原宏さんの著作である。(無知な私は著者のことはまるで知らなかった。早稲田大学の名誉教授。76才。)空海についての記述かと思っていたが、@役の行者、A行基、B空海の3人についての本であった。むろんメインは空海で、役の行者と行基は先駆者として述べられているのであるが、行基についてまとまった著作を読んだのは初めてである。

行基が没したのは奈良の喜光寺であることは、奈良・西の京 のテクテクで知った。堺市には行基誕生の家原寺があるという。今度のテクテクはここにすべしと決めて、堺市に出かけることとなった。図の@〜Fは訪問地で、
  1. 大野寺および土塔(どとう)
  2. 菰池(こもいけ)
  3. ニサンザイ古墳
  4. 家原寺(えばらじ)
  5. 百舌鳥八幡宮(もずはちまん)
  6. 仁徳天皇陵
  7. 堺市博物館
である。この順に訪れた。


近鉄電車で終点の難波にいき、ここで南海電車に乗り換える。南海なんば駅からは、和歌山にいく南海本線、高野山にいく高野線、泉北ニュータウンにいく泉北高速鉄道が出ている。

行基は668年(天智天皇7年)に河内国大鳥郡で生まれた。いまの堺市である。

河内国と和泉国の関係はよく知らなかったので調べてみると、和泉国はもとは河内国の一部であったが、平城京時代初めに河内国から離れ、ふたたび復し、757年(孝謙天皇9年)に独立して和泉国となったようである。

和泉国は大鳥・和泉・日根の3郡から成り、その後も3郡のままであったらしい。(「日本の渡来文化」・中公文庫)


堺市内には、南海本線・南海高野線・JR阪和線・阪堺電気軌道(路面電車)・泉北高速の5本の電車が走っている。地図をみて、初めに訪れる大野寺および土塔は、泉北高速の深井駅が最寄であることがわかった。

ついで深井駅近辺の地名を眺めていると、土塔町の町名があった。ここに土塔・大野寺があるはずである。さらには泉北高速の線路脇に菰池というのがある。これはもしかして行基が掘ったといわれる15池のひとつ「薦江池(こもえいけ)」ではなかろうか。

深井駅で下車すれば、いきなり行基由縁の3か所(大野寺・土塔・薦江池)を見て回ることができるのか。これは嬉しい。


泉北高速の深井駅で降りた。写真は駅の東側。西側のほうが賑やかなようである。駅前に町名を記した提灯が連ねて立ててある。東町・清水町・中町西・沢町・畑山町などの名が見える。端には「深井地車」の提灯がある。近々秋祭りがあるらしい。

道路に大きな立看板が並んでいて、10月2日と3日にこの地区の祭りがあることを知った。立看板は各町内ごとに立ててあり、地車を曳くコースが地図上に示してあった。

それにしても地車とはいったいなんであるのか。


これはすぐにわかった。看板のひとつに若い衆と地車の写真が掲示されていた。ははあ地車とは「だんじり」のことであったのか。

来週ここを訪問していれば、祭りでごった返していたに違いない。運がよかったのか悪かったのか。


深井駅前から始まる広い舗装道路を東向きに歩く。道はしだいに北東方向に向きを変えていく。この道も地車を曳くコースにあたっているようで、電線の下には提灯が吊り下げてある。このあたりは深井沢町・深井東町である。

あとでわかったのだが、この道を進めばじきに大野寺と土塔(どとう)に行き着いたのである。しかし地図に記されている「土塔町」の文字はこの道より左(北)に書いてあったものだから、広い交差点で左折した。


道に横断幕が張られており、「土塔町ふとん太鼓」の文字がある。はて?深井地車と一緒に「ふとん太鼓」なるものが披露されるのか。


道を進んでいくと法被、地下足袋姿の人々がたむろしている。紺色の法被には「土塔」の文字が白く染め抜かれてある。土塔町は今日が祭りであるようだ。となると深井地車とは別の祭りである。

交差点で交通整理をしている「法被」に土塔の場所を尋ねたら、写真の道路を向こうに進んで右折れすればよい。ただもうすぐ「ふとん太鼓」がやってくるので、今は行くことはできないとのことであった。

交差点脇で待っていると、ドーンドーンという太鼓とともにやってきた。 だんじりのように綱で曳かずに神輿のように担いでいる。担ぎ手は60人か70人か。

担いでいるのは5枚重ねの赤い座布団である。みかけは座布団ではあるがこの中はえぐられているらしく、2人の壮年が乗り込んでいる。その下には中型の太鼓が上向きに据えられている。太鼓の周りに子供が8人ほど座り、この太鼓をドンドンと叩いている。

なるほど「ふとん太鼓」である。

「ふとん太鼓」は交差点手前でいったん足を止め、一息つけてから再び進みだしたのであるが、歩み始めるときの担ぎ手の息のあった足運びはほれぼれするほどであった。 なにしろ重そうである。軽やかには動きはじめることはできない。全員が腰を落として、片足を前に大きく振り、この勢いで第一歩を踏み出すのである。その足並みのそろい具合は力強く、かつ美しい。 土塔町はよい祭りを持っているな。



「ふとん太鼓」がいき、見物人が去ってしまった道を進んで、大野寺(おおのじ)に着いた。

ここは行基が建立した49院のうちの1つである。案内板によれば、727年(聖武天皇4年)、行基60歳のときに建てられている。

当時僧侶が寺院の外へでて布教することは禁じられていた。679年(天武天皇8年)にその勅がでているというから、行基が15歳で飛鳥寺に入るよりも以前のことである。

行基の前半生はあまりわかっていないが、704年行基37歳のとき、自身の生家に家原寺を開いたというから、このころから民衆への布教活動をし、これら信者の力をたばねて池を掘り、溝を掘り、橋をかけ、道を作り、の民間の福祉活動を始めたのか。


行基は707年に奈良に移っている。710年に都は藤原京から平城京へ遷都されたが、その後もなお平城京造営の工事は続いた。諸国から役民が徴収されたが、自費自弁であったので、すぐに役民は困窮し、流浪逃亡する者が数多く出たらしい。

この受け皿になったのが行基であった。712年ころから行基は各地に貧窮する者を収容する布施屋を作りだしたようである。当時の僧尼令では、浮浪人を一泊させただけでも罪(百日の苦役)になるほどであったから、行基の所業は明らかな法令違反である。

異例というべきか、717年(元正天皇3年)には行基は詔勅で名を掲げて弾劾されるのである。このころは行基は正式な(官に認められた)得度僧ではなかった。

写真は土塔(どとう)。盛り土の崩落を防ぐためにところどころにビニールシートで覆ってある。



その後何度か政府は法令違反をせぬよう命じるのであるが、本来は政府がすべき福祉活動を行っているのであるから、訴追はうやむやになってしまったらしい。722年には奈良菅原の里に喜光寺を建立し、ここを奈良における活動の拠点にしている。

その後731年に行基は僧と認められ、弟子をとることも公認される。政府は行基の信念と社会活動の正当性を認めざるをえなくなったのである。

聖武天皇が行基と会談したのは、741年、山城国上狛にある泉橋寺においてである。(泉橋寺は行基の建てた49院のうちの1つである。別に尼院もある。)ここで行基は聖武天皇にとっては欠くことのできぬ重要な存在に変わり、745年に行基は日本史上初の大僧正になる。

行基が活躍したのは704年から745年ころまでの約40年間といえそうである。大野寺および土塔もこの時期に作られたものである。





土塔は一辺が54〜59m、高さ9mのピラミッド型をした塔である。築いた当時は9層あるいは13層に分かれており、各層は瓦で葺かれていたらしいが、今はない。発掘された瓦には参加した人々の名前がヘラで刻んであるという。

土塔とよく似たものに、奈良市高畑町の頭塔がある。どちらも本場インドの仏舎利塔(ストゥーパ)に似せて造ったものであるが、土塔のほうが大きく、年代も少し古い。



写真は泉北高速の高架。右手は菰池の林。

行基が建てた49院のうち8つが大鳥郡(堺市)にあった。
  1. 大修恵(高蔵)院。(大村里)
  2. 清浄土(高渚)院。(葦田里)
  3. 尼院。(日下部郷)
  4. 桧尾池院。(和田郷)
  5. 大野寺。(大野村)
  6. 深井尼院(香琳寺)。(深井)
  7. 鶴田池院。(凡山田村)
  8. 大庭院。(上神郷)
大野寺以外の寺は現存しているのか、もうないのかは知識がないが、地図で探すと、和田(桧尾池院)・深井(深井尼院)・大野芝(大野寺)などの地名がある。日下部とは草部(尼院)であろうか。また鶴田池のそばに(鶴田池院)があったことは推測できる。

行基が建てた49院の多くは、溜池を掘る、橋を架けるなどの大工事をしたときに建てられたようである。上狛と木津をつなぐ泉橋を架けたときは泉橋院を作っている。ここに工事参加者が集い、寝泊りし、そこで行基が説教をした。

行基が掘った15の池のうち6つが大鳥郡(堺市)にある。
  1. 土室池。(土師)
  2. 長土池。(土師)
  3. 薦江池。(深井)
  4. 桧尾池。(和田)
  5. 茨城池。(蜂田)
  6. 鶴田池。(早部)
菰池は「薦江池」ではなかろうかと勝手に推測して、やってきた。

行けば案内板の1つもあって、それが薦江池であるのかどうかはわかるだろうと思っていたが、それはなかった。

そういえば土塔・大野寺へいく途中にも、道案内は1つとして見かけなかったから、どうも堺市は仁徳天皇陵や千利休については手厚いが、行基由縁の事跡には関心が薄いようである。


菰池から北をむいて泉北高速の高架をくぐれば、そこは土師町(はぜちょう)である。古代の土師氏(はじ)は古墳を作り、埴輪を焼き、陵を守る土木技術者集団である。

土師氏の本拠地は4つある。@藤井寺市道明寺近辺(近鉄南大阪線には「土師の里」駅がある)、A堺市土師町、B 奈良市秋篠、C 奈良市菅原、である。いずれも近くに巨大古墳群があり、土師氏がこれを造営し、保守していた。

行基の池を築き、溝を掘りなどの土木工事は土師氏の協力を得たものであったらしい。先の土塔から出てくる瓦にも土師氏の名前が多く刻んであるそうだ。


土師(はぜ)の交差点。ここら一帯が土師氏の本拠地であったのか。

向こうに法被姿が見える。土塔町の「ふとん太鼓」はこの先を進んでいるらしい。

間もなくして、「ふとん太鼓(太鼓台というらしい)」を止めて休憩している現場に来た。だがよく見れば法被には丸いデザインの「土師」の文字が抜かれている。あれ、「ふとん太鼓」は土塔町だけのものではなく、土師町にもあるのか。

どうやら土塔町は土師町を追い越して先に進んでいるらしい。途中の車両通行止めの立て看板から、太鼓台の行き先は百舌鳥八幡(もずはちまん)であることを知った。いくつかの町は、今日の祭日にこのような「ふとん太鼓」を百舌鳥八幡に奉納するのであろう。


左手にニサンザイ古墳を見ながら進む。百舌鳥古墳群には8つの大きな古墳があるが、すべて4世紀末から5世紀末にかけて造られたものである。造ったのはこの地の土師氏である。

最も大きいのが仁徳天皇陵に比定されている大仙陵古墳で、日本最大である。ついで履中天皇陵とされるミサンザイ古墳で、これは3位の規模。その次が写真のニサンザイ古墳で第8位。墳丘長は288mである。(「古墳とヤマト政権」・白石太一郎)


土塔町の「ふとん太鼓」も一服していた。

私はニサンザイ古墳の周濠に沿って歩き、「ふとん太鼓」の道筋からそれた。これから西に向かい、家原寺(えばらじ)を目指す。

古墳のまわりは遊歩道として整備されている。入り口の車止めは兵士の形をした埴輪である。(むろん金属製)

国道28号線。この道沿いには見るべき所はないようだ。町名でいうと百舌鳥西之町→百舌鳥綾南町→北条町→上野芝向ケ丘町→神野町。ここから南下すると家原寺町である。距離にして約3Km。

大阪は真夏日の年間日数の記録を更新中であるが、この日も暑かった。

汗をかきかきようやく家原寺に到着。門は仁王門と呼ばれているのだろうか。正面右に阿形の仁王像、左に吽形の仁王像が立っている。

ちょっと妙なのは2体は互いに向き合っていて、「アッ」といえば向こうで「ウン」と答える位置関係にある。この配置は何かいわれがあるのか。私が知らないだけで、これが一般的なのか。まあ次の写真のごとくである。

右の阿形がボールを投げて、左の吽形がこれをミットで受ける、キャッチボールをしているようでもありますな。



向こうは本堂。行基は668年にこの地に生まれた。天智天皇が大津京で即位した年である。682年(天武天皇11年)15歳のとき出家。飛鳥寺の道昭を師として法相を学んだようである。

道昭は若いころ唐にわたり、玄奘三蔵に教えを受けている。帰国後は飛鳥寺にあったが、僧院に籠もることなく、天下に周遊して井戸を掘り、船を作り、橋を架け(宇治川の宇治橋・淀川の山崎橋)、寺を建て、と伝道と社会事業を結合した新しい信仰の形態をとった。(「空海・民衆と共に」・河原宏)

行基は道昭の旅に従って各地を巡り、土木技術を会得していったのか、あるいは出生地の土師氏たちの技術をつぶさに見ていたのか、ともかく土木技術に詳しくなるのである。

本堂の横に池があって、蓮の葉が繁っていた。

池を掘り、溝をつけ、橋を架け、布施屋を設け、寺院を創ることは、『仏になることを志した修行者(菩薩)が、行うべき6つの行(六波羅蜜)の第一の行であった。当然それは衆生の福祉をめざす利他行であって自己の利得のために行う利自行ではない』(河原宏・前掲書)

行基のなした社会福祉事業は行基自身にとって、修行の1つである「菩薩行」であった。

聖武天皇が743年に大仏の創顕を発願した後、行基は745年に大僧正に任命されるのであるが、このとき唐にあったインド僧の菩提センナが来日することが伝わる。行基は天皇に自分では大仏の開眼供養の役目は果たせない、幸いインド人聖者が来日するので、これにお願いしたいと奏上し、自ら難波津にセンナを出迎える。

行基はセンナを自身の住む喜光寺に案内し、歓待した。センナは行基との歓談を通して、行基は文殊菩薩であることを悟る。

そもそもセンナが入唐したのは生身の文殊菩薩を求めてのことであった。しかし唐では「すでに菩薩は日本に行かれた」といわれ、折りよく帰朝する遣唐使船に乗り合わせて日本にやってきたのである。そして求めた菩薩とは誰あろう、難波津に出迎えてくれた行基であることを悟ったのである。

このあたりのことを司馬さんは街道をゆく・24巻「奈良散歩」で見てきたかのような描写をしておられる。

現在の家原寺は高野山真言宗に属するが、行基は文殊菩薩なりとする信仰に乗じて、智恵・学問の寺としているようだ。本堂の周りは合格祈願のハンカチが張り巡らせてある。

本堂に上がるには参拝料300円を払う。案内所に申し出たら、お賽銭箱にお金を入れて勝手に上がって下さい、とのことであった。置いてある1枚もののパンフレットをもらったが、寺院の配置図のひとつもなく、宣伝のためのものであった。

本堂に上がり、ぐるり一周したが、祈願のハンカチで板壁は埋まっている。「岸和田高校に合格できますように」「看護学校に受かりますように」「阪大・同志社に合格しますように」といった普通のものから、「入国管理官試験に受かりますように」「大阪市役所・堺市役所に受かりますように」といった公務員志願のハンカチもある。 だいたいハンカチを売って、これに祈願を書かせるなどということを誰が考え出したのか。つまらぬ祈願の形態である。


さらにガッカリしたのは行基菩薩誕生塚である。この堂ともいえぬ建物は何であるのか、コンクリート造りの堂の上にある屋根は瓦葺きではなく、同じくコンクリートなのである。しかもそこに黄色いペンキを塗ってある。

憮然とする。菩提センナに菩薩であると悟らしめた行基なのである。この粗略なあつかいはどうか。


家原寺を出た。道には「八田荘だんじり祭り」の幟が立てられている。行基の母は蜂田氏の出であるという。八田は蜂田のことであろう。後で地図を見ると八田と名がつくのは八田寺町・八田北町・八田西町・八田南之町の4町があった。家原寺のある家原寺町は八田はついていないが八田荘に含まれるらしい。

「八田荘だんじり祭り」とあるのだから、ここまで見てきた「深井地車」とも百舌鳥八幡の「ふとん太鼓」とも違うわけである。なんと堺には多くの祭りが残っていることか。


家原寺町の地車を保管しておく建物である。立派である。家原寺町の人口は約2000人弱、世帯数は750世帯ほど。これだけの町民で、地車を維持し、保管倉庫を建てて、祭りを守ってきているのである。たいしたものである。

ついでに土塔町は人口が6000人、2250世帯。土師町は人口8500人、3130世帯の規模であるから、「ふとん太鼓」の維持・保存はそう難しくはないようだ。


JR阪和線・津久野駅にやってきた。ここからJRに乗って、2つ先の中百舌鳥駅(なかもず)に行く。そこは仁徳天皇陵と堺市博物館の最寄駅である。


中百舌鳥駅までは120円。中百舌鳥駅前の案内板に百舌鳥八幡はここから15分とあった。近い。こうなると土塔町の「ふとん太鼓」は百舌鳥八幡に到着したのかどうか、着いた後はどうしているのかを見届けねばなるまい。

駅前から歩くとすぐに石の鳥居が見えた。道行く人は百舌鳥八幡を目指しているようである。

百舌鳥八幡には正面ではなく脇の参道から入った(次図)。入るといきなり歓声が聞こえた。急ぎ駆けつけると、「ふとん太鼓」が大勢の法被に担がれて神社正面の石段を登っていた。




私も後を追って石段を登る。


境内の右には4町のふとん太鼓を収める場所が作られていた。

土師町がある。中百舌鳥町・本町・赤畑町がある。


拝殿および本殿は特に飾られてはいない。落ち着いたものだ。周りのふとん太鼓が派手にワイワイ賑やいでいる。


境内の左にも4町の太鼓台を収める場所があった。梅北町・陵南町・梅町、そして土塔町である。


土塔町はいかがなことになっているのかと見れば、あれ、まだ来ていない。土塔町は遠いからなあ。

一番遠くから重い「ふとん太鼓」を担ぎ、辛苦してやってくるのである。八幡様も土塔町が一番気に入っているに相違ない。

中百舌鳥駅に引き返す。


写真は大仙公園へ続く道。右に仁徳天皇陵(大仙陵)があり、左が大仙公園。公園には堺市博物館がある。

それにしても堺の秋祭りのすごさである。そこらじゅうで秋祭りが行われるようである。秋祭りに限って調べてみると、堺市内の神社は「ふとん太鼓」系と「だんじり」系の2系統があるようである。

「ふとん太鼓」は、開口神社、菅原神社、方違神社、船待神社、百舌鳥八幡宮など。

「だんじり」は大鳥神社、多治速比売神社、石津神社、蜂田神社など。家原寺でみた「八田荘だんじり祭り」は蜂田神社のお祭りだろうか。


じきに仁徳天皇陵前についた。

なにしろ墳丘長は480m、前方部の巾305m、後円部の直径245m。これを3重の濠がとり巻いている。世界一の面積をもつ古墳である。

周濠を含めた全体の規模は東西656m、南北793mという大きさである。写真は陵の正面であるが、前方部のほんの一部しか見ることができない。


御陵脇にある案内板に全景が掲げてあったが、飛行機からでないとこういう俯瞰はできないようだ。ボランティアの男性が立っておられたので、声をかけていろいろ伺った。

「時間があれば堺東駅の近くにある堺市庁まで行かれるとよい。ここには80mの高さに展望ロビーがあって、堺市内が見渡せます。」

「仁徳天皇陵の全景が見えますかね?」ときけば「全然みえません。小山のように見えるだけです。周濠も気をつけてみればわずかに見えるほどです。」ということであった。

大仙公園へ行く。ここには堺市博物館がある。



博物館へ行く道の中ほどに堺市を代表する人物の銅像が据えられている。左に千利休、右に武野紹鴎である。 堺市出身の有名人となると、まずは行基。ついで千利休をはじめとする茶人。近代では与謝野晶子くらいか。






堺市博物館の入館料は200円。今は2時15分であるが3時までに見学を終えてでてくることができるであろうか。3時から帰途につけば5時ころには帰宅できるが。

と思いつつ入館したが、やはり時間を食ってしまった。とにかく博物館とか美術館というのは面白い。見飽きない。

4時近くになって見学を切り上げた。出ようとしたらロビーに出版物が陳列されている。これまでに堺市博物館が企画した催しのために出版した本であるらしい。

その中に河口慧海(かわぐち えかい)についての本があった。


平成5年(1993年)堺市博物館は慧海の特別展を催し、そのときに博物館が作った本であるらしい。そうだった。河口慧海も堺の生まれである。これは買わなければならない。

入館者は入り口に置いてある自販機で200円の入館券を買うしくみになっているのだが、同じ自販機で博物館が出版した10冊ほどの本も購入できるようになっている。

欲しい本の代金を入れて→パネルから本を指定→出てくる図書購入チケットを持って受付にいき→本と引き換えるのである。立ち食いのうどん屋などにあるシステムと同じである。2200円を入れて、この本を手に入れた。

慧海が書いた「チベット旅行記」は愛読書のひとつといってよい。全5冊(講談社学術文庫)の分量であるが、過去に4度5度と読み返している。つい半年ほど前にも読んだばかりだ。

近鉄車中ではこれを見ながら帰った。万歩計は22000歩だった。 ひさびさのテクテクであったので、疲れ果てた。



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