柏原市・安堂付近

    No.34.....2004年10月2日(土曜)


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母の元明天皇が710年に平城京へ遷都し、伯母の元正天皇のあとを受けて、聖武天皇は724年に即位したが、その在位中は心中おだやかなものではなかったらしい。

729年には長屋王の変がおき、733年には災害異変が発生し、天皇は

『責めは予ひとりにあり、兆民にあずかるにあらず』

の詔を出し、737年には天然痘が大流行して、後援者であった藤原4兄弟があいついで死亡する。

『まことに朕が不徳によりて、この災殃を致たせり』

の詔を出している。聖武天皇は悩める支配者であった。

祖父祖母の天武・持統天皇、父の文武天皇からこの国を受け継いだが、どのような国家を作るべきか、どのような支配者であるべきか、どのような原理で国を統治すればよいのかを迷った。都を山城の恭仁京、ついで近江の紫香楽宮に移そうとしたり、難波京を作ってみたりしたが、都を変えることでは解決できなかった。

740年、天皇は光明皇后とともに河内国の6寺を訪れた。そのうちの1つが河内国大県郡にある知識寺であるが、ここに当時我が国最大の廬遮那仏(るしゃなぶつ)があった。天皇はこの大仏を拝んで感動し、

『朕も造り奉らむ』

と思うのである。


以上のことが先日読んだ「空海・民衆と共に」(河原 宏)に書いてあった。聖武天皇が東大寺大仏を作り、東大寺を建て、華厳世界の実現を目指す契機になったのは、知識寺への参詣である。

知識寺は大阪府柏原市(かしわら)にあった。訪れて見たいと思った。インターネットで調べると、知識寺は近鉄大阪線の「安堂」からすぐの地にあったようである。柏原市の歴史で特筆すべきものは、古い順に、@いくつかの横穴古墳群がある、A知識寺を初めとする古寺があった、B河内国の国分寺があった、C大和川の付け替えをした、であるらしい。


今日訪れたのは、図のABCDである。
  1. は下車駅。西に名高い玉手山古墳があり、左に河内国分寺跡があるので、時間があれば行ってみたかったが、行けなかった。

  2. は柏原市歴史資料館。山の崖をくり抜いて造った横穴式古墳がかたまってある。

  3. は江戸期に繁栄した三田家。国の重文だとあったので、訪ねてみるかという程度。

  4. は知識寺跡および知識寺の東塔の芯柱の礎石が残っている石神社(いわじんじゃ)。

  5. は大和川付け替え後の長瀬川の取水口である。



近鉄・河内国分駅で降りた。名張からの乗車券は740円。

「国分」という地名である。律令制は大化の改新から始まり、天武・持統天皇の飛鳥時代に固まり、奈良時代に最盛期を迎え、平安時代からは次第に衰退していくが、律令制の根本は「公地公民」であった。

そのためには、戸籍を確かなものにし、人民に土地を与えて耕作させ、税を徴収するという仕組みは必須のものであった。

機構としては分国を定め、分国には国府を置き、統治原理の表象として国分寺・国分尼寺を造った。 例えば東京でいえば国府は府中市、国分寺のあったところは国分寺市である。1350年前に始まった律令国家の残滓はいまだに残っている。

国分駅前にある陸橋から東南方向を見ると二上山がある。

じきに大和川に着く。この橋は国豊橋。向こうの丘陵は生駒山地の南端の高台。この高台が尽きたところを大和川が流れている。

大和川は右手の奈良側から流れこんで、左手で北向きに方向を変える。元の大和川は北を向き、分流して大阪平野全体に広がり、これが再び淀川にまとまって大阪湾にそそいでいたが、300年前の「大和川付け替え」によって、北向きの川筋は60度ほど西に曲げられた。

ほぼ西に向かって大阪湾にそそぐことになった。大和川は大阪の淀川にではなく、新しい川として堺市に出ることになったのである。

(下図)右手(東)の大和川である。奈良盆地一帯の川は最終的には大和川に集約されて図のような一本の川になってこの地(柏原市)に流れ込む。



(下図)写真は川下の西側、近鉄電車が走っている。大和川のこの先は300年前に川筋が変えられるという大変化があった。それも一百姓の尽力によってである。このことは今日のテクテクの主テーマとなる。





国豊橋を渡った。この川沿いの道は昔は龍田道と呼ばれた道であろうか。

奈良から河内へ出るにはいくつかの街道があった。最も有名なものは竹内街道である。

しかしこの道は奈良とはいっても奈良の南部の飛鳥あるいは藤原京と堺を結ぶ道である。平城京へ遷都後は大津道(長尾街道)が堺-奈良-大津を結ぶメインの道になる。

大津道はこのあたりでは龍田道と呼ばれた。写真の大和川に沿って奈良に向かうと、王寺に至る。大和川にそそぐ龍田川を渡れば、竜田神社があり法隆寺があり中宮寺がある斑鳩の里である。ここから北上して奈良へ行く。

聖武天皇は難波京を造営していたから、奈良から難波への行幸はしばしばであった。その途中で柏原の知識寺を訪れたのである。



JR高井田駅についた。天気予報では、今日の大阪の降水確率は午前が50%・午後は20%であったが、予報どおりに小雨が始めた。ただ霧雨である。駅前のバス停で雨宿りする。

駅前に老人男性が一人立っていた。ここで知識寺と高井田横穴古墳についての知識を得た。

何をしているのか問うと、放置自転車の見張りをしているのだという。

駅前は乱雑に自転車が放置されるものだが、そういえばこの駅前には自転車は駐輪していない。「ボランティアですか?」を問えば「シルバー人材センターです。」とのこと。

よいですなあ。人は人のために活動できるのが一番幸せである。身が動けるあいだは誰かの役に立ちたいという動機は貴重である。

老いれば自己の安楽さを求めるよりも、自己が他に役立つということが喜びとなる。人生の総仕上げの時期である。この時期に生かせてくれた世間に報恩できるかどうかがその人の評価となろう。




私もいくぶんかはそういう心境になってきている。

柏原市の西隣りは藤井寺市および羽曳野市である。ここには応神天皇陵・中ツ山古墳・允恭天皇陵・墓山古墳などの巨大古墳がある。多くは4世紀末から5世紀末にかけてのもので、先日訪ねた堺市の仁徳天皇陵もこの時期のものである。

巨大古墳は6世紀に入り次第に小型化し、6世紀末の 見瀬丸山古墳を最後に消えてしまうが、横穴古墳はその後に出てきた古墳である。

上の写真の右側の木立は山斜面にあるが、その斜面(崖)に右図のような横穴を掘り墓としている。

このあたりはその昔二上山が噴火し撒き散らした火山灰が堆積してできた凝灰岩であるという。この凝灰岩の崖を掘って墓としたのである。

公園の道を登れると、そこらじゅうに横穴が穿ってある。現在は170だかが確認されているが、200基ほどの横穴式古墳があると推定されているらしい。

道の突きあたりに柏原市立歴史資料館がある。霧雨が小雨になってきたので、ここへ避難することにした。見学しているうちに雨はやむのではないか。

扉は閉じられていた。開館は9時30分からであった。3分ほど待って入館した。むろん一番目の唯一の見学者である。

館内はそう広くはない。弥生期の土器から始まり、土師器・須恵器、埴輪、銅鏡、腕輪などの装飾品がメインで、あとはいきなり時代が飛んで江戸期の農耕具が展示されてあった。まずはどこにでもあるものばかりである。

館内の半分は「大和川の付け替え」の企画展が催されていた。これがずいぶん面白いのである。治水工事の嘆願書に始まり、付け替え工事の嘆願書、河内国の河川の絵図、過去の堤防決壊の資料、付け替え工事の計画書などなどの古資料が数多く展示されている。

(下図)説明によれば、(A)6〜7000年前、大阪は湾であった。現在の大阪市内の土地としては、堺を根元として北に突き出た岬である上町台地があったばかりである。大阪湾には北からは淀川が注ぎ込み、南から大和川が注ぎ、土砂が運ばれ堆積していく。

(B)1500年〜1600年前というと、応神・仁徳から継体天皇の時代であるが、このころは大阪湾は閉じ込められて「河内湖」になっている。ここに淀川・大和川はせっせと土砂を流し込み、湖内には砂州ができ芦原となりして大阪の土地が生まれる。


(C)今から300年前には河内に2つの大きな池(沼)を残すだけとなった。C図の右は深野池(ふこのいけ)、左は新開池(しんかいけ)である。

大阪平野は淀川と大和川が作った壮大な干拓地である。当然に平野部の高低差はない。水は高きから低きに流れると決まったものだが、なにしろ高低差がないのである。川はわずかに低いところを見つけて流れ、おかげで大和川は扇子か熊手のように広がった。

ひとたび上流で大水が発生すれば、平坦な大阪平野が水浸しになることはごく自然のことであった。江戸期に入り各支流の流域にある村々は川の決壊を防ぐために堤の補強を繰り返すが、川は容赦なく土砂を運んでくる。川底が上がるたびに土手を積み上げしているうちに1650年ころには各支流は天井川となっていく。川底のほうが平地よりも数メートルも高いのである。いったん堤が切れると、一帯は水浸しになり、しかも排水すべき川は数メートルの高さにあるから、いつまでも水は引かない。

これを解決するには大和川の川筋を変えるしかない。(上図のピンクの線が付け替え後の大和川である。スタートは柏原市でゴールは堺市である。)


小一時間の見学をして館外に出ると雨は大粒となっている。困った。再び館内に入って時間をつぶすことにした(入館料は無料である)。もういちど「大和川付け替え」の展示を見て、入り口に戻ってきたが、雨は上がっていない。入り口のロビーにあったビデオを見ていようと思って番組を選択するが、機械はガチャガチャいうばかりでビデオは始まらない。

館内は禁煙なのでタバコも吸えないし。資料館へ来る途中に休憩所があったことを思い出したので小雨の中を行く。(2分ほどで着いた。) 竹林公園という。あずま屋である。四方に作りつけのベンチがあったので寝転んで資料館で買った冊子「大和川」を読む。

竹林からは鳥の鳴き声が、軒先からは雨だれの音がするが、逆に静かである。読んでいるうちに眠ってしまった。

ほぼ雨は上がった。しかしまた降り出すかも知れぬので、当初は歩いていくはずだったJR柏原駅へは電車で行くことにした。高井田駅の次の駅である。料金は120円。



JR柏原駅から5分のところに三田家(さんだ)があった。江戸期の商家で国の重文になっているが、現在も住まわれているようで外から見ただけ。前の道は旧奈良街道である。

三田家から柏原黒田神社に寄って、JR柏原駅に戻ってきた。

写真の左右の道路は旧奈良街道。向こうが駅舎であるが、そこへの道路は登り坂になっている。JRの線路は旧大和川の土手の上を走っているようである。

土手の下に旧奈良街道が平行して走り、その奈良街道沿いに三田家があって手広く商いをしていたのであろう。


JR柏原駅の南にある踏み切りを渡って線路の東に行こうとしている。この踏み切りは手前に近鉄道明寺線、向こうにJR奈良線が並んでいて、歩行者が渡るには長い踏み切りとなっている。


JRの踏み切りを渡り切ると、細い川があった。長瀬川である。現在はかように細い川ではあるが、大和川付け替え前の長瀬川は大和川の本流であった。


あとで訪ねた中甚兵衛(なかじんべえ)の銅像の横にあった地図を掲げると、奈良から流れてきた旧大和川は柏原で北向きに流れを変えていた。

JR柏原駅より少し北あたりで、川は2つに分かれ、1本は玉串川となって、河内湖の名残りである新開池にそそぐ。いま1本は長瀬川となって新開池から出た寝屋川と合流する。

そういう大きな川であったが、付け替え後は写真のような小川になっている。長瀬川・玉串川とも元の川筋の中心線をはさむほんのわずかな巾をもって新しい川になったのである。

旧大和川の左岸(流れる方向を向いて左手)の土手であったJR線を横切り、細くなった長瀬川を越え、東に向かう。そこは知識寺があった太平寺地区である。

地図をみると元は川床であった場所は、川に直交して橋が架けられるように、道も旧川筋と直交してしていることがわかる。大和川ではなかった土地にある道は概ね東西あるいは南北を向いているのだが、川筋であった土地にできた道は、@川筋に沿った道と、Aこれに直交する道の2通りである。

現在の道路を見れば、そこが川筋であったかどうかは簡単にわかる。写真は川筋に直交する道である。もともと川床であった土地に作った道だからまっすぐにつけられているのである。

突き当たったやや広い道路は、旧大和川に沿う道であったようである。これも折れ曲がらずにスッと伸びている。これが大和川の右岸であったのかも知れない。

大和川の右岸と思われる道を渡って1kmも歩いたか。石神社(いわじんじゃ)の大楠が見えた。石神社は柏原市で唯一の式内社である。

知識寺の東塔の芯柱礎石がここに残されている。東塔はこの場所から100mと離れていない土地にあったらしいが、いつしかここへ運ばれて、今あるのである。

鳥居の左手の鉄柵の中に置いてある。



写真では大きさがつかめないが、柱穴の直径は122cmあると いう。この柱の太さからすれば東塔(五重塔)の高さは48.8mに達したのではないかと推定されている。興福寺の五重塔の高さは50mほどであるから、これよりわずかに低いだけである。

近くにこの東塔の大きさに見合う金堂・講堂があったらしい。金堂には当時としては日本最大の廬遮那仏(るしゃなぶつ)があった。

特筆すべきことは、これは天皇の勅願によって建立されたものでもなく、藤原氏をはじめとする有力な氏族が建てたものでもない。この近郊の豪族や農民が資金を出し、労力を提供して、ともに建てた寺であることである。

資金のある者はカネを出し、技術のあるものは智恵を出し、体力あるものは労働を提供して何事かを作り上げることを「知識結(ちしきゆい)」というらしい。(「空海・民衆とともに」前掲)




このあたりが東塔のあった場所であるらしい。今は完全な住宅地である。

聖武天皇は知識寺の大仏を見て感動し「朕も造り奉らむ」と思い、743年に廬遮那仏(るしゃなぶつ)造営発願の詔を発する。このときは

『それ天下の富を有つ者は朕なり、天下の勢を有つ者は朕なり、この富勢をもって尊像作る』

と居丈高である。自信満々の詔であった。

大仏は紫香楽宮の甲賀寺に作られることになり、工事が着工されたが頓挫した。

富と権力があっても大仏はできなかった。途方もない大きさの大仏を作るのである。単に巨大物体を作るのではない。それは華厳世界の中心となる「ほとけ」なのである。これを完成させるには信仰心を基礎にすえた「知識結」が不可欠であった。

天皇は華厳の中心経典である法華経の学問寺である金鐘寺(こんしゅじ)にこそ大仏をつくるべしと考える。また知識結は行基に任せようと行基を我が国初の大僧正とする。745年のことであった。






近鉄・安堂駅近くに向かう。そこは北上する大和川が西に折り曲げられ、付け替えられた場所である。

大和川付け替えのことは、司馬さんが「街道をゆく・3巻」の「河内みち」の「若江村付近」の章で書いておられる。これを読んで初めて大和川付け替えのことを知ったのであるが、今日はこの場所に行こうとしている。

司馬さんは

『河内はその名称が示しているように上代は水郷で、沼沢が無数にあった。・・・ところが宝永以後、干あがった。どの土地も乾いたのである。江戸期の土木工事によるものであった。・・・・』

と書かれ、@それは徳川幕府の功績といっていい。A幕府を動かしたのは中甚兵衛が資財をなげうって幕府に陳情したからであるが、B19才から陳情を開始して68才でようやくその案が受け入れられた。

というようなことを述べられた後で、

『えんえんと治水のことに触れたのは、河内路に存在する拙宅はそれ以前の地図をみると沼の底になっていることを知ったためである。』

とまとめに入られている。 司馬さんが住まわれていた八戸ノ里は、新開池の池底であったわけだ。


大和川に着いた。ここは安堂町。柏原市役所の前にいる。

上流を見ると向こう1Kmほどの川筋はまっすぐである。南東から北西に向かっている。


ところが下流を見れば流れはほぼ西向きに折れ曲がっている。本来は向こうの土手に立つ1本の木の方向に向かって流れていた大和川はここで強引に進路を変えられてしまったのである。

中甚兵衛のプランはこうである。

@河内平野から水害をなくすには、大和川を堺方面に出すのがよい、

A堺方面に川の付け替えをすることによって、川に変わる田畑は300余町歩であるが、水がなくなった旧大和川の川床の面積や干上がって新たにできる耕作地は2000町歩になる。

一石二鳥ではないかというものであった。

写真は付け替えで折れ曲がったところにある取水口。

中甚兵衛が付け替えの陳情を始めて50年近くが経つまで幕府は動かなかった。というよりも動けなかった。付け替えに反対する声も大きかったのである。

現在の大和川が流れている地区の農民はこぞってこの計画に反対した。付け替えによる弊害もあるのである。
  1. 付け替えによって先祖伝来の田畑を失い、代替地に越さねばならないこと。

  2. ひとつの村であったものが新川によって分断されること。

  3. このあたりの川は北に向かって流れているが、新大和川ができることで、南北の流れが遮断されて水はけが悪くなること。これは新大和川の南側の問題点である

  4. 新大和川のすぐ北にも問題が起きる。これまで西除川・東除川が流れてきて水には不自由しなかったが新大和川ができることによって、これら川からの水が来なくなり水不足が起きること。

  5. なによりも中河内に水害をもたらせている大和川を引くのである。当然にこれまでになかった水害が起きることが予想される。

  6. またそれが運ぶ土砂は河口となる堺の港を浅くし使い物にならなくするであろう。

反対派の言い分ももっともである。中河内は土地が増え、水害がなくなって潤うかもしれないが、どうして我々が河内が背負っている苦労を引き受けなければならないのか。

しかし連続して起きた水害に直面し、元禄16年10月、幕府はついに大和川付け替えを決断する。

翌年2月には工事着工となり、同じ年(元号は宝永と変わったが)の10月には完工する。1704年、ちょうど300年前のことである。

50年間にわたる陳情を受けたが、いざ実行に移すとなるとたった8か月で決着したのである。

中甚兵衛の銅像は付け替えによって大和川が折れ曲がった土手の上に立っていた。

中甚兵衛は司馬さんがいわれるように義民であったろう。しかしそれは「旧大和川流域の農民にとっては」の括弧つきである。

付け替えが終わったあとで、新大和川流域では、やはりというべきか、水害が多発する。堺の港は運ばれてくる土砂によって遠浅になり、港を失うのである。(その代わりに干拓地が増えて、戦後はこれを埋め立てて臨海工業地域として発展するのだが)

旧大和川は水がなくなって、新たな田畑になるはずであったが、砂地であるために稲の耕作はできなかった。替わりに水捌けのよさを必要とする綿花が植えられた。河内は木綿の産地となり、同時に染物が発達して浴衣の多くは河内で生産されることになる。(柏原歴史資料館の冊子から)

ところで旧大和川を消滅させた中河内であるが、完全に大和川からの水流を断ったわけではない。旧大和川の川筋に細い水路を残したのである。


写真は中甚兵衛の銅像のある新大和川と旧大和川の接点の土手下にある「築留2番樋(つきどめ)」と呼ばれている取水口である。(細くなった)長瀬川に水を引くために、新大和川から土手をくぐる3つの水門が設置された。(いまは1番樋は使われていない。)

大阪平野に流れるもう一本の平野川は、もとは大乗川から大阪平野に水を運んでいたが、新大和川によって大乗川からの川水が遮断されたため、新大和川から水を引くこととなった。安堂から少し下流に青池樋が作られ、これが平野川の水源になっているそうだ。




新大和川流域の住民に大きな迷惑をかけた付け替えであったが、恩恵を受けたはずの河内でも大和川からの取水をめぐって争議が頻発した。

なにしろ旧大和川の水量の一部だけを取水するようにしたのである。渇水期に、上流の取水口をあけると下流の取水口からは水が引けない。おのおのの用水路まわりの農民にとっては死活問題である。何度も水騒動が起きたようである。

写真は長瀬川から撮った築留2番樋(つきどめ)。明治21年に煉瓦積みにされ、いまは国の文化財(しかも現役)である。土手向こうの新大和川から水が引かれている。

引かれた水は柏原市駅南の踏み切りでみたような長瀬川となり、これが玉串川にわかれ、寝屋川に合流するのであるが、今や川とはいえぬほどの細流になっている。




付け替え工事はたったの8か月で完成した。驚異的に短い期間で完工できたわけは、新大和川は川底を掘らずに、川筋の予定地の左右(川幅は180m)に土を5mほどの高さに積み上げ、川の左岸・右岸としたからである。川底を掘削していてはこうはいかない。

付け替え工事は当初、姫路藩(本多)が請け負ったが、藩主が着工早々に死亡したことを理由に工事を中止している。姫路藩が作ったのは1.1kmにすぎない。

姫路藩が撤退してからは、明石藩(松平)が2.5km、三田藩(九鬼)が2.5km、岸和田藩(岡部)が2.5Km、幕府が残りの5.7kmを分担した。総工費71500両。工事に要した人員は延べ300万人の大工事であった。

幕府はしかし旧大和川の川床を払い下げ、あるいは干上がった池を入札させて新田を開発させるなどして、その費用の元は取ったという。




近鉄安堂駅から帰る。雨模様で動かなかったので、今日の万歩計は11300歩と少なかった。


行く先の目次... 前頁... 次頁... 柏原市...      執筆:坂本 正治