東大寺

    No.35.....2004年10月10日(日曜)


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関西以外の地から奈良見物に行くとなると、まずは東大寺・興福寺・春日大社の3点セットが大半であるに違いない。奈良すなわち東大寺である。

東大寺は将棋の駒なら王将である。ついでに勝手に(観光地としての)格付けをすれば、南都七大寺は@東大寺、A興福寺、B薬師寺、C唐招提寺、D元興寺、E西大寺、F大安寺 の順になるか。

今日は将棋の王将、すごろくのアガリである東大寺を訪れた。



昨日は台風22号が房総半島に上陸し、年間の台風上陸回数が9回の新記録となった。昨夜は、明日は台風一過、ひさびさの秋空になるに違いない。どこへテクテクに行こうか迷った。

流れとしては、堺市の行基の生まれた家原寺、次は柏原市の知識寺ときたのだから、@行基の墓がある生駒の竹林寺、A行基が勧進した東大寺、B菩提センナがいた大安寺、の3つを候補としていたが、もっとも交通の便のよい東大寺とした。

決めたら、大仏殿の鴟尾(しび)が秋空にきらきらしく光る情景が浮かんできたが、東大寺は2度訪れているだけである。このイメージはどうもテレビや写真でみた擬似体験からきたもののように思える。

近鉄奈良駅前には今日も行基像が出迎えてくれる。

写真は東大寺への参道。東大寺へ行くのはどちらかといえば気が重い。1度目は30年以上前にひとりで来た。一度も奈良にいったことがなく恥ずかしいという思いがあったからである。2度目は15年ほど前、子供らが幼いころ家族でやってきた。鹿にセンベイをやったり、子供が大仏殿の柱穴をはいつくばって通り抜けたりと楽しく観光したのであるが、それから15年経つと観光気分で簡単には行く気にならなくなった。

知らずに訪ねて、「そうだったのか」と知ったときの喜びは格別である。単純に嬉しい。だが方々で少しずつ知識を得て、その知識が互いに関連していることを知り、知りえた知識をまとめようとすると幾分の努力がいる。断片的な知識の間を埋める新たな知識が必要になるからである。

東大寺はその気になれば、いくらでも知識が増える寺であるが、知識が増えるにつれ、それだけでは不十分であることがわかり、さらに本を読んで広い知識を得なければならない、というやっかいな寺である。これが気を重くさせる。

近鉄奈良駅には8:30に着いた。観光客がまだ少ない時間に大仏殿、二月堂・三月堂を見て、観光客が増えるころは転害門(てがい)・戒壇院・西塔跡を回る予定である。



南大門。運慶・快慶(とその一門)による仁王像がある。南大門は鎌倉初期(1199年)に再建され、仁王像は1203年に造立されている。

南に阿形像(次図左)、北に吽形像(次図右)がある。高さ8.4mという。私が持つポンコツのデジカメではフラッシュ光が届かないほどの高さである。家原寺で見た仁王像は門の正面右に阿形(あぎょう)、吽形(うんぎょう)があったように思うが、ここでは反対である。家原寺の阿吽を見間違っていたのか。左右はどちらでもよいのか。

ついでにいえばこの南大門の仁王像は向き合っており、正面を向いていないのは家原寺と同じである。信貴山は正面を向いていたように思うが、見ているようで見ていないものである。





南大門をくぐれば向こうに中門があり、中門に覆いかぶさるようにして大仏殿が見える。

(次図)拝観料は500円。朝7:30〜夕方5:00までが拝観時間である。朝7:30からというのがエライ。

大仏殿は大きい。誰でも驚く。この大きさは日常性からかけ離れている。聖武天皇は華厳を統治原理としたかったようである。

華厳学のエッセンスは「一即多・多即一」であるらしい。全宇宙にある微細な塵でさえ細かにみれば一個の宇宙である。塵が塵と結びついてより大きな宇宙となり、宇宙はさらに無限の結びつきをもっている。わけがわからないが、要するにフラクタルの世界であるらしい。この思想を具現するには、とにかく人々を圧倒する大きな仏・大きな建物が必要であったかに思える。






  1. 聖武天皇は、740年に河内国知識寺で華厳の本尊である廬遮那仏(るしゃなぶつ)を拝んで感動し、「朕も造り奉らむ」と思い、

  2. 741年に諸国に国分寺・国分尼寺を造営する詔を発し、

  3. 743年、廬遮那仏造営発願の詔を出す。当初は紫香楽宮の甲賀寺に造ると決定し、工事が着工されたが頓挫する。

  4. 745年、行基を大僧正に任ずる。このころ大仏は金鐘寺(こんしゅじ)に造営すると変更されたらしい。

  5. 747年、大仏鋳造および大仏殿の建設を開始。

  6. 749年はあわただしい。2月に大仏完成を待たずに行基が没す。同月、大仏の鍍金に必要な金が陸奥国で発見され、4月には都に献上される。7月、聖武天皇は退位し、孝謙天皇が即位する。10月大仏の鋳造が完了。

  7. しかしこれは本体だけのことである。この後、螺髪・台座・光背を作り、鍍金をして、752年4月9日に大仏開眼会が開かれる。

  8. 754年、鑑真が来朝し、東大寺にて聖武太上天皇・光明皇太后が受戒する。

  9. 756年、聖武太上天皇が没し、光明皇太后は遺品を東大寺に献上。正倉院の始まりとなる。

  10. 757年、大仏殿が完成。

  11. 789年、すべての東大寺の伽藍が完成する。
(「平城京の風景」千田稔)








東大寺廬遮那仏は高さ16m。顔の長さ5m・幅.3m。手のひら3m。銅500t、金440kgを使い、延べ250万人を使って作った。

ポンコツデジカメでは光が届かず、写真のごとしであるが、よくよく見れば右手の与願印がかすかに見える。

華厳経がどういうものかは知らないが、当時の唐・新羅での最先端の思想であったようである。

司馬さんは、街道をゆく24巻「奈良散歩」の「異国のひとびと」の章で、華厳が伝わった様子を生き生きと描かれている。これによれば、
  1. 金鐘寺を開いた良弁(ろうべん)は聖武天皇の護持僧的な存在であったが、まだ華厳学は知っていない。

  2. 736年に唐僧の道セン(どうせん・漢字は右下図のように書く)が華厳をもたらせたとき、『「めずらしいシステムが到来した」と良弁は昂奮したらしく思える。』情景が目に浮かぶようですな。さすがに司馬さんはう た」と良弁は昂奮したらしく思える。』情景が目に浮かぶようですな。さすがに司馬さんはうまい。

  3. 道センは大安寺に入るが、ここには新羅僧の審祥(しんしょう)がいた。

  4. 940年、聖武天皇は知識寺で廬遮那仏を礼仏して感動し、司馬さんの書くところでは、『当然、良弁をよび、「華厳を学べ」という一幕があったと考えていい。』ということになる。このあたりも司馬さんの筆力である。

  5. 良弁は大安寺を訪れ、審祥に金鐘寺で華厳の講義をすることを願う。講義は740年から3年間にわたった。



大仏(毘廬遮那仏)の両脇には、左に虚空蔵菩薩、右に観音菩薩(写真)があった。大きな脇侍仏であるが、まるで記憶がない。どころか四方には四天王像もあった。前2回はまったく何を見ていたのか。大仏殿には大仏だけがあったものと思い込んでいた。

華厳(学)が日本にもたらされてまだ3年・4年のことである。聖武天皇は司馬さんいうところの「めずらしいシステム」に飛びつき、華厳世界を具現する行動を起こした。

インド僧菩提僊那(センナ)は道センと同じ船で来朝したようである。行基がセンナを難波の津に出迎えたくだりは感動的であるが、同船していた道センに対するあつかいはどうであったのか。これについての文献は残っていないようである。

この時期、金鐘寺(国分寺となってから金光明寺となった)には良弁、喜光寺には行基、大安寺には飛鳥にあった同寺を奈良に移した道慈、唐僧の道セン(どうせん)、新羅僧の審祥(しんしょう)、インド僧菩提僊那(センナ)、らがいたのである。

(少し遅れて753年に鑑真が来朝する)








ともかく聖武天皇・行基・良弁・菩提僊那・道センの顔ぶれがそろい、752年に大仏開眼会が盛大に執り行われる。(行基はすでに亡かったが)開眼導師はインド僧センナ、呪願師は唐僧道セン。

聖武太上天皇・光明皇太后がメインである。孝謙天皇は文武百官を率いて行幸し、招請された僧10000人が参加。歌舞が盛大に催された。

テレビでこれを再現したのを見たことがあるが、大仏から紐か綱が何本も引かれている。参列者はこの綱の一端を握り、ほとけの慈悲を得ようとするのである。晴れ晴れしくもちょっと哀しい開眼供養会であった。





大仏のうしろに創建時の大仏殿と西塔・東塔の模型が展示してあった。天平当時の大仏殿は桁行11間(86m)であるが、現在は桁行7間(57m)である。左右(東西)は2/3に切り詰められている。高さ46m、梁行50mは変わっていない。

大仏殿は過去2度炎上している。一度は1180年の平重衡により、二度目は1567年の松永久秀による焼き討ちによってである。 一度目の炎上後の復興は早かった。俊乗坊重源(ちょうげん)の勧進によってすぐに(1184年)大仏は開眼。源頼朝の援助を得て、大仏殿、南大門などが再建される。二度目の炎上は戦国期であるが東大寺を復興するほどの有力支配者はいなかった。ようやく125年後の1692年(元禄期)に少し小さくなった大仏が開眼し、1709年に大仏殿が再建された。


大仏殿の姿はあまりよくないと思っていた。高さに対して東西の巾のバランスがよくないように思われる。それに正面の唐破風(というのか)の曲線の屋根がまずい。これがあるために江戸期の建物であるという主張が強くなっている。日光東照宮の陽明門のイメージが出てくる。天平の建物を偲ぶことが難しいのである。

だが今日は違った。これでいいのである。唐破風は江戸期の大仏殿再建に尽力した時代の証しである。古き偉大なものを再建したとき、今様のデザインを追加したといって責められるものではない。天平以来の歴史を受けつぎ、後世につないだのである。

平城京は捨てられて50年後には田畑になったというが、同じ時期の東大寺・興福寺・薬師寺・唐招提寺は残った。これを維持してきた後継者(僧)にもよるが、基本は各寺に残る仏のありがたさが残したといえる。


中門から出て、前の道を東に向かう。その先には手向山八幡宮(たむけやま)がある。



(下写真)右手に鏡池をみて進むと森がある。木立の葉がよく繁っているので薄暗いほどであるが、漏れた光が部分的に地面を照らしている。群れから離れた鹿が1匹立ち止まっている。




釈迦がブッダガヤの地で悟りをえたのち、鹿野苑(ろくやおん)で初めての説法をしたというが、鹿野苑とはこのような場所であったのか。






この場所には東大寺の東塔があった。東大寺の伽藍配置は「東大寺式」といわれ、典型の1つであるらしい。

飛鳥時代の伽藍は、だいたいが塔と金堂が回廊で囲まれている。塔はひとつである。飛鳥寺・四天王寺までは塔は寺の中心にあったが法隆寺からは塔と金堂は同価になり、左右に並立する。

白鳳・天平期になると、金堂が中心建物になり、回廊が金堂を取り巻く。薬師寺は回廊の中に2つの塔(東塔・西塔)があるが、興福寺・東大寺になると塔は回廊の外に造られている。

東大寺の東塔・西塔は七重塔であった。大仏殿で模型を見たが大仏殿のほぼ2倍の高さほどあった。塔跡(写真)にいってみた。基壇部分が1mほど盛り上げてあったがその面積は広い。ちょっとした寺の金堂ほどの広さである。






手向山八幡宮は右の境内図のように、大仏殿の回廊の中門を出た東西の小道の真東にある。手向山八幡宮への道はゆっくりした登り坂である。八幡宮の北には、
  1. 三月堂(法華堂)
  2. 二月堂
  3. 開山堂
  4. 四月堂(三昧堂)が固まってあり、

    ここから西へ下ると、
  5. 鐘楼
  6. 俊乗堂
  7. 行基堂が固まってある。

    二月堂前に引き返し、中性院・宝珠院前の道を下ると

  8. 大湯屋があり、北上すると

  9. 食堂跡があり、西へ回ると

  10. 講堂跡がある。
この順に巡った。




まずは手向山八幡宮。東大寺建立のときに、宇佐八幡を勧請した。元は鏡池の傍にあったが、鎌倉期にこの場所に移ったと案内書にある。



八幡宮の北門から出ると、西に校倉造りの経蔵がある。重文。

写真の経蔵の向こうにある僧院は観音院である。門扉は閉じられていて観光はできないようだったので、特に注意をせず見過ごした。

帰宅して司馬さんの「街道をゆく.24巻」の「奈良散歩」を読んでいたら、「雑司町界隈」の章に、当時サンケイ新聞京都支社の記者であった司馬さん(25・6才のころ)が、観音院をたずねたおり、上司海雲師は

『初対面の若僧に、当時としては入手しがたい本をくれたのである』

と書かれていた。

本とは「東大寺史」である。上司海雲さんのことについて司馬さんは「奈良散歩」のあちこちで書かれている。(「雑司町界隈」のほかに「二月堂界隈」「光耀の仏」「過去帳」など随所で触れられている。)上司海雲さんは東大寺あるいは仏教についての司馬さんのありがたい教師であったようである。





北には三月堂(法華堂)がある。作務衣姿が堂前の芝生の雑草を毟っている。まわりを鹿がウロウロしている。

三月堂は良弁が開いた金鐘寺の堂(羂索院)のひとつであるが、いまでは唯一残る当時の建物である。

拝観料500円を払って堂内に入ると、中央に不空羂索観音が立ち、両脇に日光・月光菩薩、四隅には四天王、などなど16体の仏像があって、うち14体は天平期のものである。さらには12体が国宝、4体が重文である、と寺で貰ったパンフレットにあった。

国宝を目の前にしていうのもなんだが、どうして寺にはかくも多種多様な仏があるのか。不空羂索観音(ふくうけんじゃく)や菩薩像はよいとしても、梵天・帝釈天があり、金剛力士があり、四天王があり、秘仏執金剛神がありである。




三月堂はもとは2つの堂であった。

写真の左側の4間分が正堂で寄棟造り。746年に建立された東大寺最古の建物である。ここに諸仏が安置されている。

右は礼堂で元は2間の入母屋の小さな堂であったが、鎌倉期に正堂と礼堂の間を繋ぎ、中屋根をつけて一棟としたらしい。

観光客のガイドさんが、別々の堂であったことが棟木の形に残っています、と説明していた。




三月堂の北隣は二月堂である。毎年3月1日から15日まで修二会(しゅにえ)が行われる。良弁のよき補佐役であった実忠(じっちゅう)の創建になり、本尊は十一面観音。

修二会は十一面観音に対して悔過(けか)の礼拝を、毎日6回、14日間にわたって行われる。(「平城京の風景」・千田稔)

司馬さんは修二会について、「奈良散歩」の「修二会」「東大寺椿」「過去帳」の章で、詳しく述べられている。

準備期間から始まり、11人の練行衆(れんぎょうしゅ)の構成、事務局の仕事などなど、部外者には伺い知れぬことまで調べ上げてある。東大寺には、司馬さんが二十歳台から親交を持った方々が大勢あったからできたことである。






二月堂にあがる。回り廊下というのか、舞台の上から西の大仏殿を見る。向こうの山は生駒山。手前下には良弁を祀る開山堂がある。





二月堂を下ると「お水取り」をする若狭井がある。3月12日深夜に咒師(しゅし)が練行衆を引率し、ドッドッドと石段を駆け下りて、本尊に供える1年分の香水を若狭井に汲みに行く。

修二会クライマックスはこの後で、二月堂において「達陀(だったん)の行法」が行なわれる。大松明を持った練行衆が堂内を駆け回り、火の粉が舞台の上から二月堂下に飛び、舞い散る。

この様子は毎年テレビのニュースになる。




二月堂から三月堂へ戻ってきた。三月堂の前(西)には四月堂(三昧堂)があり、 その隣に茶店風の建物がある。四月堂とこの茶店風の間は下りの石段になっていて鐘楼・俊乗堂・行基堂へ通じている。


司馬さんは「二月堂界隈」の章で、下ノ茶屋のことを 軽い表現で書かれている。冒頭にいったように、今日東大寺にくることは迷った末に決めた。寝る前に「奈良散歩」を読み返していて、「二月堂界隈」の章を読んだところで眠ったのだが、あらまし次の記憶があった。

@茶店の名は「下ノ茶屋」ということ。
A屋根は本瓦葺きで、屋根の中ほどに鐘馗(しょうき)の焼き物が立っていること。
B店内は古く、明治か大正の趣きであること。
C近所の上司海雲さんの院に集まった文化人らが、ある夜、うどんの食べ比べを始めたために、茶店のあるじは何度も岡持ちを持って走り届けたこと。 などである。

屋根に鐘馗の焼き物が乗っているならすぐにわかるだろうと思っていたが、この茶店を探すために時間をかけ、結局は不明なままで帰ることになった。


初めに目についたのは上の店であるが、@名前が違っているようである。A屋根は確かに本瓦葺きである。B店はしかし新しい。C上司海雲さんが生前住んでおられた塔頭(たっちゅう)が観音院であることを覚えていなかった上、隣にある寺院が観音院であることも認知していなかったので、これは手掛かりにならなかった。

A本瓦葺きはあっているが、@Bは違う。屋根の上を見ても鐘馗像はないようだし。石段を下ってみた。

土産物店が4軒並んでいたが、どれも平瓦である。(本瓦葺きとは、寺院の屋根のように、平瓦と丸瓦が交互に並んでいる) むろん鐘馗像も見当たらない。


鐘楼までやってきた。この前にも土産物兼茶店があるのだが、手掛かり@ABに該当する店はない。

鐘楼に吊り下げてある大きな梵鐘は東大寺創建当時のものである。鐘楼・梵鐘はともに国宝。

鐘楼の向こうの大きな建物は俊乗堂。俊乗坊重源(ちょうげん)を祀る堂である。1180年、平重衡の南都征討によって東大寺は炎上するが、重源の勧進によって1184年に大仏開眼、大仏殿も天平期と同じ規模で再建される。



金鐘寺を開いた良弁は開山堂に、東大寺を再建した重源は俊乗堂に祀られている。良弁と並び東大寺創建に貢献した行基が祀られているという行基堂はどのようなものかと見れば、実に小さい堂である。

家に帰ってから司馬さんの「奈良散歩」の「過去帳」の章を読んでいたら、修二会の5日目と12日目の終わりに過去帳が読み上げられるとあった。過去帳には東大寺に縁の深かったひとたちの名前が記帳されている。

読み上げられる第1番は聖武天皇、2番目は光明皇后である。3番目は行基菩薩、4番目が孝謙天皇であるらしい。藤原不比等、橘諸兄、良弁僧正、実忠和尚、源頼朝も読み上げられる。『天平のころの人は、ほかに鋳物師や大工さんなども出る。』そうである。

そういう位置づけにしては、小さな行基堂であった。




まだ下ノ茶屋を気にしている。鐘楼から石段を下ると、大仏殿の東面に行けるが、その手前に2軒の土産物兼茶店がある。向こうの茶店で一服した記憶があるが、15年前のことだったのか、30年前のことだったのか。

屋根には鐘馗像はなく、平瓦であるから違う。

来た道をたどって二月堂の下まで戻る。このあとは大湯屋をみて、食堂跡、講堂跡にいく。

二月堂下の若狭井の裏手から坂道を下ろうとしたら、あれっ、向こうの民家の屋根の上に茶色いものが乗っている。

近づいて見れば、鐘馗のようでもある。これならんか。しかし平瓦であるし、茶店ではない。建物の造りは商家風であり隣に土蔵が建っている。瓦は新しいようであるから、その後葺き直したのか。

確か屋根のてっぺんの両端に、「鬼」ではなく「桃」の意匠の鬼瓦を乗せてあるのを茶店のあるじが自慢(?)する場面の記述もあったが、桃が3つ重ねているようにも見える。

「二月堂下ノ茶屋」であるから、ここは二月堂に最も近い。初めに推測した店はどちらかといえば、「三月堂前ノ茶屋」といえそうだし。

決められないままに坂道を下った。

土塀が左右にある石畳の道は絵になりやすいのか、3人4人がスケッチをしていた。ひとりは油絵具で描いていた。

(写真は坂道を振り返って撮った。)


大湯屋。広い屋根の上に小さな小屋根が乗っているのは水蒸気を逃がす換気口だろう。今の銭湯の建物もこういう造作がある。

実忠が修二会という『独自で、ふしぎな行法でありすぎ』る行を始めたのは大仏開眼供養会と同じ年(752年)であるという。以来1250年間、修二会は初期の作法というかプログラムどおりに連綿と実行されてきたらしい。

修二会の期間中、練行衆は大湯屋の隣にある参籠宿所に宿泊する。大湯屋と同じ棟には湯屋宿所があり、練行衆を支える事務方約50人が泊まるようである。

家に戻ってから再読して知った。あとで知ってもしようがない。現地で「ははあ、これがかの湯屋であるのか」という感慨をもたねばだめである。司馬さんの「街道をゆく.24巻」の「奈良散歩」は東大寺を訪れる前の必読の書物である。ちゃんと読んで東大寺を訪れるべきであった。





大湯屋から5分も歩けば、東大寺講堂跡に着く。大仏殿の真北にあたる。

東大寺造営において最も急いだのは、大仏(毘廬遮那仏)の鋳造であった。749年に完成している。大仏開眼供養(752年)を経て、それを入れる器である大仏殿が完成したのは聖武天皇が亡くなった1年後の757年ころのようである。

東大寺の伽藍が一応の完成をみるのは789年(造東大寺司が廃止された)といわれるから大仏開眼から40年近くにわたり東大寺の造営が延々と続けられた。

789年といえば、すでに都は長岡京にうつっている。794年には京都に遷都するのであるから、奈良の都が衰退への一歩二歩を踏み出した時期に東大寺が完成したわけである。

その指揮はおおむね実忠がとったようである。 行基もそうだが実忠も長命である。90歳を過ぎ平安京遷都後20年後となっても生存している。






講堂(写真の向こうの屋根が大仏殿)は、1180年の平重衡による消失後すぐに再建されたが、1567年松永久秀による炎上の後は再建されなかった。

礎石を勘定してみると10個ほどが数えられたので桁行9間ということになる。現在の大仏殿の桁行7間よりは大きいが、当初の大仏殿の11間よりも小さい。としても巨大な大仏殿につりあう講堂の規模であったようだ。

東大寺伽藍は空前絶後の規模を誇ったが、その最盛期には奈良はすでに都ではなくなっていた。大仏と大仏殿はサイズを小さくして再建されたが、七重塔は消え、講堂も消えた。ただ 鎌倉期に再建された南大門だけは納められた仁王像によって却って名声を得た。


天平の創建時から残った建物は正倉院(写真は東宝庫)、三月堂(の正堂)、転害門だけのようである。


756年に作成された「東大寺山界四至図(さんかいしいしず)」によれば、東大寺の門は西面する3つの門だけが記入されているようである。(「平城京の風景」千田稔)南大門はまだなかった。東面は山であるから門は作られなかったらしい。

西には平城京があったので、西側だけに寺域を示す塀が築かれ、3つの門を構えたようである。3つの門とは北から佐保路門・中門・東大寺西大門である。佐保路門は佐保路に続く門という通称で正しくは転害門(てがいもん)という。


東大寺は平城京の外にあった。西側の3つの門が平城京の外京に接していた。平城宮の中心部から始まる一条南大路を東に辿れば転害門につき当たる。 西大門は平城宮の玄関口である朱雀門前を通る二条大路がつき当たったところにある。

どちらも重要な路であるが、大路のうちで最も重要なものは二条大路、ついで三条大路ではなかったか。東大寺の玄関口は西大門であり、勝手口が転害門であったようである。

転害門の下に立って西を見ると車がすれ違いできるほどの細い道路が見える。これが一条南大路の名残りである。大路の道巾は20m(側溝も入れると28m)だったといわれるから、ずいぶん狭くなったものである。



転害門(写真右の広場)を西に出るとバス道が南北に通じている。今は369号線だが、その昔はここより西が平城京内で東の京極であった。バス停には「手貝町」とあった。


転害門からバス道を4・5分南下すると中門跡につく。


再び東大寺境内に入り、道標に従って進むと土塀で囲まれた場所に着いた。向こうの建物が戒壇院らしい。

若草山が見える。


鑑真は日本に渡らんと5度の渡海を試みて失敗。6度目にようやく実現するが、決意してから11年の歳月が流れたうえ鑑真は失明していた。平城京に入ったのは754年2月のことである。4月には東大寺大仏殿の前に戒壇を設けて聖武太上天皇・光明皇太后をはじめとする400人に戒を授ける。翌755年に孝謙天皇は戒壇院を建立し、恒久的な授戒の寺ができる。

759年になり唐招提寺を賜り、ここを戒院とする。戒壇院の性格は授戒という一種の儀式の場であり、唐招提寺は戒律を学びこれにしたがって修行するという学校の場であったようである。

東大寺はその大きさから、儀式を執り行うには最高の舞台を提供できた。戒壇院は当然に東大寺境内に建立されるべきであった。


戒壇院を出て東を向くと大仏殿が見える。右手の小橋をわたって南へ進む。そこには東大寺西塔跡がある。

東大寺には東塔と西塔があった。いずれも七重塔である。西塔は大仏開眼のころには既にあり、高さは約100m。東塔は西塔ができて12年後に建てられたらしい。東塔の高さは94m。西塔に比べて少し低いが、東大寺境内は東側が小高くなっているので、先端の高さは等しくなっていたと思われる。

100mの高さである。興福寺の五重塔は50.8m、日本一高い東寺の五重塔が57mである。2倍近い高さである。現在の塔では 大阪の通天閣がちょうど100mである。桁違いに高い塔であった。

しかし今では塔の礎石さえ見当たらない。別の寺院の礎石として流用したのか、持ち運んで庭石にでもしたのか。東塔・西塔ともに礎石はひとつとして残っていない。

東塔跡には鹿の糞を見つけただけだったが、西塔跡の回りでは瓦や土器の破片が随所に見受けられた。灰褐色の焼き物は平瓦の破片ではなかろうか。厚さは2・3cmほどあるようである。西塔は炎上後は再建されることはなかったから、もしそうであれば創建時の瓦である。ここに天平の瓦が1200余年の時を越えて、じっとある。(ホンマか?)

再び境内を出て369号線にそって南下する。南下して4・5分で西大門跡にきた。一条南大路の転害門から二条大路の西大門までまっすぐに歩けば8・9分といったところだろう。大路と大路の間隔は530mということだから、歩けばこんな時間である。

向こうの塀は東大寺の塔頭のひとつかと思っていたが地図をみると天理教とある。東大寺の西側は侵食されている。

東大寺の境内は多くは雑司町であるが、そうでない町名もある。芝辻町・水門町・押上町などがそうであるが、だいたいは民間の私有地になっているようだ。


西大門跡から登大路を見る。右手のピルは奈良県警、向こうに興福寺の五重塔が見える。

登大路に出た。まだ12:30であるが、これ以上テクテクを続けることは大儀であった。東大寺は古く大きい。歴史を積み上げ、それにかかわる事物を残している。



ふと目についた小さな建物でさえその由来が古い文献に残っている。ガイドブックをみると「大仏殿前の金銅八角燈籠(国宝)もお見逃しなく。」などと書かれていれば、あれもこれも見なければならない。見落としはないかと気にかけなければならない。見れば見たでその歴史を知ることを強要される。とにかく東大寺は疲れる寺である。

万歩計は14100歩だった。たいして歩かなかったがくたびれた。近鉄西大寺駅から名張駅への直通の特急電車をわざわざ時間待ちして、缶ビールと缶チューハイを飲みながら帰った。


行く先の目次... 前頁... 次頁... 奈良市内... 東大寺境内...      執筆:坂本 正治