吉野山

    No.36.....2004年12月11日(土曜)


行く先の目次... 前頁... 次頁... 吉野近辺... 奈良県行政区分... ...てくてくまっぷ No.38


今日は吉野に行く。奈良県吉野郡は奈良県の面積の61%を占める。

もともと奈良県の面積は広くない。日本は1都1道2府43県(つまり47の都道府県がある)であるが、総面積は全国で40位。下から8番目である。

しかも61%を占める奈良県吉野郡は大山岳地帯であり、住む人は少ない。奈良県の可住地面積の割合はわずかに23%でしかなく、77%は林野である。

そのため可住地面積では全国47位。つまり人が住める面積では日本で最下位の狭さである。地図で狭まそうに思える香川県・東京都・大阪府よりも人が住むに適した場所は少ない。




吉野が歴史に登場するのは案外に多い。
  1. 役行者が蔵王堂を開基する。

  2. 大海人皇子はここより近江へ向けて出発する(壬申の乱の始まり)。

  3. 修験道の霊場となる。

  4. 義経は静御前とともに吉野へ逃避。

  5. 大塔宮護良親王が鎌倉幕府に対して挙兵。

  6. 後醍醐天皇が吉野の南朝を置く。

  7. 秀吉の吉野の花見。
など、盛りだくさんである。










吉野は山岳地域であるという先入観があるので、いかにも山深く隔絶された場所であるかに思っていたが、そうではない。

近鉄は大阪の阿部野橋駅から吉野駅まで直通の電車を走らせており、1時間10分でいけるほどである。(写真は橿原神宮駅)

しかも吉野川本流に合流する丹治川を5Kmほど川上に向かったところが吉野であるから、線路は高所を走るわけでもなく、急勾配を上り下りするわけでもない。

(このような地に逃げ込んでもすぐに追討されそうな場所であるように思うが)吉野という土地は日本の歴史において特別な場所であった。政争に敗れた支配者は吉野に逃げ込み、ここで捲土重来を期した。


吉野川だ。

橿原神宮を出発したときは、私がいた車両には15人ほどの乗客がいたが、多くは壷坂山駅で降りた。ついで下市口駅で降り、上市駅で降りして、写真の吉野川の鉄橋を渡るときには、私と老人の2人だけになってしまった。

終点の吉野駅に到着。名張駅で8:05分の電車に乗ったが、2度の乗り換え(八木駅と橿原神宮駅)をしたので、約2時間かかった。(運賃は大阪からでも名張からでも同じ950円である)

吉野駅は初めてである。向こうには線路はない。プラットホームを覆う建物もいかにも「終着駅」といった風情がある。

都落ちした源義経や後醍醐天皇が逃げ込んだことは「終着駅」に相応しいが、ここには修験道の根本道場である金峯山寺(きんぷせんじ)がある。吉野は修験道者が山伏の格好をして金峯山寺を出て、大峰山を巡って修行する「出発駅」でもある。

駅を出るとすぐに「ケーブル乗り場」があった。ケーブルカーではなくロープウェイである。3分ほどで吉野山に登れるようだが、「まっぷ」では徒歩1kmとあったので歩くことにする。

左はケーブルの乗り場、右が登り道。紅葉が落葉して登山道を覆っている。歩けばかさこそ音がして、足裏によい感触である。豪華な山道を歩けることだ。


すぐに車道に出た。「七曲がり坂」という。車道ではあるが車はほとんど走っていない。

行政区分でいえば、ここは「吉野郡吉野町吉野山」である。この場所は名前からしても奈良県の半分以上を占める吉野郡の中核であることがわかる。

ただし、まだこのあたりの山は低い。

写真は「吉野駅」を見下ろしたもの。たぶん左の山は太平山(330m)、右が城山。正面にやや霞んで見える山は高取山(583m)ではなかろうか。

高取山を越えると「明日香」である。この地に天武天皇の飛鳥浄御原宮があった。吉野と飛鳥京はいわば山ひとつを隔てただけの位置関係にある。

黒門。金峯山寺(きんぷせんじ)の総門であり、吉野山への入り口でもある。大きくはない。

国宝仁王門。これは大きい。重層入母屋造りの姿よい楼門である。通常はこのように大きな門は南大門としたものだが、この門は北面している。

脇の案内板を読むと、この門から修験者は大峰山(おおみねさん)に向かって出発するが、大峯山の「峯入り」には「順峯入り」と「逆峯入り」の2コースがあるらしい。

「順峯入り」は熊野→大峰山(山上ケ岳)→吉野山(当地)のコース。「逆峯入り」はこの逆で、仁王門は「逆峯入り」の入り口である、とあった。


ここの仁王は正面を向いている。


本堂の蔵王堂(国宝)。桁行7間・梁間8間・高さ34m。東大寺大仏殿に次ぐ大きさの木造建築物である。

重層入母屋造りは仁王門と同じであるが、こちらは桧皮葺。室町中期に再建され、1591年に秀吉が大修理した安土桃山期のスケールの大きな建物である。

本尊は3体の金剛蔵王権現。


6月に「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録された。

霊場とは、@吉野・大峯山、A高野山、B熊野三山であるが、@は修験道、Aは真言密教、Bは修験道と神道、とそれぞれに特色がある。

参詣道とは、@吉野蔵王堂→大峯山→熊野本宮大社への「大峯奥駈道」、A高野山町石道、B熊野詣での道は4本あって、1)大辺路(おおへじ)、2)中辺路(なかへじ)、3)小辺路(こへじ)、4)伊勢路 である。

世界遺産登録を記念して、蔵王堂では1年間にわたり秘仏本尊をご開帳している。(それを近鉄駅構内のポスターで見たので、やってきた)


役行者(役小角)が大峯山中で修行を続けているうち蔵王権現を感得した。その姿を桜の木に彫り、これを蔵王堂にまつったのが金峯山寺の始まりである。以来蔵王権現は金峯山寺のご本尊であるのだが、これが開帳されている。拝観料は500円。

蔵王権現像は、来る途中でみたポスターのごときであると思っていたが、違っていた。
  1. 3体が蔵王堂に正面に収められてある。

  2. 中央(釈迦如来)が7.3m、左(弥勒菩薩)が5.9m、右(千手観音)が6.1mの大きさである。

  3. 大きすぎて右手に握っているであろう三鈷杵(さんこしょ)は見えず、振り上げてあるだろう右足も定かではない。

  4. 秘仏とされていただけあって、蔵王堂再建(1592年)当時のものであるのに彩色は鮮やかに残っている。
なにもかもが想像を超えたスケールであった。(3体とも重文)

予想外のことはほかにもあった。役行者(えんのぎょうじゃ)の像がないのである。修験道の開祖であり、世界遺産になった大峯奥駈道を開いた行者である。

葛城山と大峯山に岩橋を架けようとし、葛城一言主神を葛でグルグル巻きにして谷底へ突き落とし、讒言されて伊豆に流されながら富士山へ登り、空中を飛び回り、ついには日本に愛想をつかして老母を連れて唐土へ飛んでいった、という伝説をもつ役行者である。

ややさびしかった。ついでにいえば山伏姿にお目にかかれるかと思っていたが、一人も見えず。シーズンオフであるためらしい。


蔵王堂の前庭(?)には4本の桜の木が植えてある。この場所は、大塔宮護良親王(おおとうのみや・もりなが)が鎌倉幕府を撃たんと挙兵する際に、出陣の杯を交わしたところである、とある。



蔵王堂を出る。蔵王堂のあたりは「中千本」と呼ばれている。「吉野駅」からロープウェイの「吉野山駅」までは「下千本」。後で行く吉野水分神社のあたりが「上千本」。今日は行かないが、さらにその奥に金峰神社や西行庵があって、そこは「奥千本」と呼ばれている。

春、桜は下→中→上→奥千本と順次に開花し、約1か月間はお花見でができるという桜の名所である。

向かっているのは「上千本」である。路の両側には、寺院・宿坊・旅館・土産物屋・食堂が軒を連ねている。



山伏姿を初めて見たのは、結婚して2〜3年後のことだったと思う。死んだ家内が夏に吉野郡の実家に子供を連れて里帰りした。仕事があったので私は一緒に行かなかったが、その週末だかにバスに乗って実家にいった。

バスの窓から山伏がたむろしているのが見えた。初めて映画・テレビ以外で山伏を見た。異様であった。額に結ぶ頭巾(ときん)や、鈴懸けの衣装、法螺貝と金剛杖というのは知っていたが、よく見れば尻に鹿皮(引っ敷き)をぶら下げているし、なんと小刀(ナイフであろう)を差しているものもある。

翌日、吉野神宮駅から大阪まで特急電車で帰ったのであるが、ここでも山伏集団とめぐり合わせた。座席の半分に山伏の頭巾がのぞいて見えた。

吉野というところはなんというところであるのか。こんなのがまだあったのか。

吉野の名物は、食べ物でいえば「吉野葛」「柿の葉すし」「茶粥」であろう。

柿の葉すしは大阪のデパートでも売っているし、駅弁にもなっているからいまや有名であるが、吉野のばあちゃん(家内の母)は何かあればこれを作る。

この夏は家内の4度目のお盆であったが、義母は家内が死んでから初めて我が家にやってきた。(足が衰えて一人では来れない)、柿の葉すしを4折おみやげに貰った。「柿木はどこに植えてあるんかな?」と尋かれた。

花水木と柳のあいだにある大人の背丈ほどの小木の葉っぱが柿のようであったので、「あれかな」と指差すと、そうであるという。

家内は庭に柿木を植えて、義母がやってきたときわが家でも(義母が)柿の葉すしを作れるように、と思ってしたらしい。そのことを義母に告げていたようである。ばあちゃんにとっては柿木は親を思う娘の名残りであった。それにしても「桃栗3年柿8年」というから、8年かけて親孝行をするつもりであったとみえる。


法螺貝も売っている。中ぶりなのが48,000円。大き目が65,000円。

もうひとつ吉野の名物があった。「陀羅尼助丸」である。店をのぞくとなぜかは知らねど、大きな蛙の置物が真ん中においてあった。


吉野の和紙も名高い。



吉水神社の鳥居があった。いったんは路を下って、また登るようである。鳥居の下に白木の杖が数本立てかけてあって、「お参りのあとはお返し下さい」と書いてある。なかなか行き届いている。


路を下って、山門まで登る。この坂道も面白い。中央に石段があり左右はスロープである。自動車は石段を跨いだ格好で山門へ到着することができる。事実登ってみると山門前に2台のタクシーが待っていた。

ここの神主さんはアイデアマンであるらしい。


吉水神社は元は吉水院という僧坊であったが、明治の廃仏毀釈のおり神社になった。

神社の祭神は後醍醐天皇である。右の建物が社殿で、後醍醐天皇・楠木正成・吉水院宗信法印の3柱が祀られている。

左の建物は驚くべし、なんと南朝の皇居であったのである。(一部は拝観受付所、祈念受付所、護符販売所になっているが)



NHKの大河ドラマで「太平記」が放映されたのは何年前のことであったか。(1991年)。南北朝時代あるいは室町時代についてはほとんど知識がなかったので、1年間欠かさず見た記憶がある。

配役もよかった。調べてみると、足利尊氏(真田広之)、足利直義(高嶋政伸)、高師直(柄本明)、新田義貞(根津甚八)、北条高時(片岡鶴太郎)、後醍醐天皇(片岡孝夫)、楠木正成(武田鉄矢)、名和長年(小松方正)、佐々木道誉(陣内孝則)、北畠顕家(後藤久美子)である。

名を挙げていると思い出す。後醍醐天皇の片岡孝夫、足利直義の高嶋政伸、高師直の柄本明あたりは適役であった。ただ残念ながら、今日のテクテクで何度もでてきた大塔宮護良親王役は堤大二郎とあるが、思い出せない。


拝観料400円を払って元皇居に入る。拝観受付には吉水神社の神主さんが正装して座っておられた。なんというのか知らないがちゃんと烏帽子を被り、狩衣ようの装束を着けておられる。白衣に袴という簡略ないでたちではない。

鳥居下の白木の杖、山門への登り石段、この装束。(おそらくは案内板の文言や書院の説明のテープも神主さんの考えからでたものであると推察するが)これらは神主さんの「吉水神社」を守っていこうという強い意思の現れのように思われた。

まずは庭から拝見。広くはない。冬場のせいか手入れもあまりなされていないようである。


庭(60〜80坪ほどか)の北に「北闕門(ほっけつもん)」というのがあった。門とはいいながら、どこへも通じていない。門の向こうは谷底である。後醍醐天皇はここから北の京を望んで「身はたとえ南山(吉野山)の苔に埋むるとも、魂魄は常に北闕(京)の天を望まんと思う」といわれたと案内板にある。

1331年倒幕の企てが露見した天皇が三種の神器とともに笠置山に籠もったのが8月末のこと。9月初め、これに呼応して楠木正成が赤坂城で挙兵。しかし9月末に笠置山は陥落。赤坂城も10月に陥落して正成は逃亡する。

翌1332年3月、後醍醐天皇は隠岐へ配流される。これで鎌倉軍は反幕府勢力を平定したかにみえたが、11月に大塔宮護良親王が金峯山寺で挙兵した。その場所は先ほど見て来た。同時に楠木正成が赤坂城・千早城で挙兵。

1333年2月赤坂城が陥落、正成は千早城に籠もる。吉野山も陥落。しかしこのころから流れが変わる。後醍醐天皇は隠岐から脱出。4月足利尊氏が鎌倉幕府に反旗を翻し、5月新田義貞も倒幕軍として挙兵し、鎌倉が逆に陥落。大逆転である。 6月、天皇は京へ戻り建武の親政が始まる。護良親王は征夷大将軍に。

1334年11月、天皇は護良親王を拘引させ鎌倉へ移送。1335年この後北条軍の巻き返しがあって足利直義は護良親王を殺害して逃亡。足利尊氏と天皇の対立が激化。

1336年11月尊氏は室町に幕府を開き、対立する天皇は12月に吉野へ移る。この後も尊氏が南朝に味方したり、再び離反したり、今日の味方は明日の敵の泥沼状態になる。




(下図)北闕門から北を望むが京は遠い。見えている山は高取山であろう。



後醍醐天皇が吉水院に移って南北朝時代が始まるが、すでに天皇の威勢は下降の一途であった。

この吉水院に玉座が残っている。上段の5畳、これが玉座。下段の10畳、これが南朝の首脳が座る場所であったのか。ともかく合わせて15畳の狭さである。供の者はいったいどこで起居していたのか。

ただし書院からの眺めはよい。右下は崖である。その下には細流(瀬古川)があるようで、天皇は

     花にねて
  よしや吉野の吉水の
  枕の下に石走る音

と詠まれた、と案内書にある。よい歌であるな。

吉水院には源義経と静御前が頼朝の追っ手を避けて潜んだ「義経潜居の間」があるが、これは後醍醐天皇の玉座の間と背中合わせである。

吉水院は1594年に豊臣秀吉が吉野の大花見の宴を5日間にわたり催したときの本陣でもあった。秀吉は関白秀次、徳川家康・前田利家・伊達政宗らを従えてこの場で、歌会・茶会・能会を開いたとある。

たいしたものです。

このとき秀吉は後醍醐天皇の玉座を修理し、桃山時代の豪壮な壁画・襖絵が描かれたようである。

陳列物は多く、ちょっとした宝物殿のようであった。その中になつかしや吉野にきて初めて見る役行者像である。これがなければ吉野は始まらない。


上千本のバス停があった。このあたりから「上千本」になるようだ。「上」というだけあって、急な登り坂となる。

吉野山は、「春は桜からは新緑、夏は蝉しぐれ、秋は桜もみじ、冬は荘厳な冬景色。」と「まっぷ」に書いてある。今はもみじの時期が終わったばかりで、吉野山を遊行するものは稀である。

人影が見えぬと、この見渡す景色は全部が自分のものであるような気がして気分がよい。

車道から分かれるように散策道が作られていた。「大峯奥駈道」とある。今度の世界遺産登録を期に整備しているようだ。

なにしろ「奥駈道」(おくがけどう)である。大峯山の奥深くまで駈けていく道なのである。

山伏らが山道を列をなして、「六根清浄、六根清浄」と唱和し、先導する山伏が小高いところから法螺貝をボーボーと鳴り響かせる。そういう情景が目に浮かぶような、よい名前の道である。

私も「奥駈道」の端っこを登ってみよう。(ただしすぐに整備された道は終わっていた。)

大峯山(おおみねさん)という山はない。吉野山から南の熊野にかけて標高1700m級の山岳が連続しているが、これを「大峰山脈」とよぶ。この山脈全体を総称して「大峯山」と呼ぶ(らしい)。


大峯山は修験者の修行の場である。全山が霊地であるといってよいが、吉野山の蔵王堂を出た修験者は、高城山(690m)→青根ケ峰(857m)→四寸岩山(1235m)→大天井ケ岳(1438m)→山上ケ岳(1719m)と進む。山上ケ岳の頂上付近には大峯山寺があり、山上蔵王権現が祀られている(そうである)。

吉野山の蔵王堂から山上ケ岳までは約30km。これを毎日千日間続けて往復する修行を「千日回峯行」という。 回峯行については司馬さんが「街道をゆく・16」の「叡山の諸道」の中で詳しく書かれているが、これは比叡山(天台)の行である。


写真は、佐藤忠信の「花矢倉」の跡。(名高いようだが知らない)

蔵王堂拝観の折に頂戴したパンフレットに「修験道大結集・祈りの大護摩供」の章があった。2005年6月まで修験道に関係する各寺院において護摩供養が次々に催され、最後の6月30日に全国の修験者が金峯山寺に結集するようである。

それに対して各寺院からのメッセージが寄せられていたが、これを見て修験道の宗派のようすが少しわかった。

司馬さんは「街道をゆく・4」の「洛北諸道」の中で山伏についてのいくつかのエピソードを書かれている。戦後まもなくのころ、京都・丸山公園に山伏が結集した(たぶん上記のような護摩供のために集まったのか)ことがあるが、そのときの進駐軍(MP)と聖護院のやり取りのくだりやアメリカ兵(GI)が山伏のしぐさにビックリしたというところは、読むたびに吹きだすほどである。したがって山伏の総元締めは聖護院であると思っていた。


「花矢倉」からの展望。

山伏は各宗派に属しているらしい。メッセージが掲載されていたのは、@薬師寺(南都修験咒師本部)、A園城寺、B聖護院(天台系の山伏)、C醍醐寺三宝院(真言系の山伏)、D元山上犬鳴山(葛城修験根本道場)、E大峯山寺。

どうやら山伏には、@南都六宗系、A天台宗系、B真言宗系、C金峯山寺系、D葛城山系 などの系列があるらしい。

さらには大峯山寺の住職には「年番住職」の肩書きがあった。山上ケ岳の上にある大峯山寺は年ごとに当番で住職を務めるのか。山の上の生活は辛いからなあ。と思ったりする。


向こうに鳥居が見えた。下から登ってきたのでひどく大きな鳥居に感じられたが、吉野水分神社(よしのみくまり)であった。よいではないか。古社の雰囲気がある。

石段の途中に鳥居があり、石段を登ったすぐに楼門がある。楼門を備えた神社はそうあるものではない。これだけでもこの神社はただならぬことが知れる。

境内に入ってみた。右が本殿、左が拝殿。奥が幣殿のようである。拝殿と本殿の間には巾5〜6間ほどの空間があって、桜の木やシャクナゲが植えてある。

山の中腹であるから広い土地はない。わずかの平坦地に4つの建物を建ててあるから、狭苦しさを感じないわけにはいかないが、「古式ゆかしい」という雰囲気に満ちている空間である。

水分神社(みくまりじんじゃ)といいながら、近くには川はない。もとは吉野川畔にあったとか、この地の奥にある青根ケ峰山頂にあったともいわれているらしい。


水分神社は水をつかさどる神を祀り、五穀豊穣を祈念し、実りに感謝する神社であるが、 この水分神社は「子守り」の神様として知られているらしい。

秀吉が先に訪れた吉水院を本陣にして吉野の大花見会を催したときに、この水分神社を訪れて祈願した。

そのおかげか秀頼という嫡子を授かった。1604年(というから、関が原で西軍は破れ、江戸に徳川幕府が開かれ、秀頼は大阪の一大名になっていた時期であるが)に秀頼は水分神社にいくつかの寄進をする。すなわち眼の前にある、楼門・拝殿・幣殿・本殿のことごとくである。これらはどれも重文。

写真のような神輿も2つ寄進している。街中のミコシと違って宮中風である。四角ではなく八角である。

神社のひとは誰もいない。4.5人の老人グループが皆で写真を撮り合った後で、奥に声をかけたら、神官の奥さんであろう老婦人がやってきた。老人のうちの夫妻が、是非お守り札が欲しいといっている。「2〜3日で生まれるんだ」と関西言葉ではない言いようでお守りをもとめていった。

世継ぎに恵まれなかった秀吉が子をえたのだから、それはご利益があろう。3日あとには元気な孫が誕生である。

お賽銭箱はどこならんと探したが見つからず。それぞれの社の前にお盆状の板があって10円玉や100円玉が載っている。ここへお賽銭を出すのか。庶民的な神社にはつきものの鈴(と鈴緒)も見えないし。やはりこの神社は並みの社格ではない(式内社である)。

内庭には2本の桜の木が植えられているが、中心にある木はまだ植えて30年も経っていないように思われた。しかし正殿の真正面にあるし、枝に今年収穫した稲穂が吊り下げてあるのは、新嘗祭といった行事があったばかりであるようだ。

11月23日の勤労感謝の日は古くは「新嘗祭」が執り行われる日であると聞いたことがあるから、たぶんそうであろう。

この場所が礼拝の正しい位置であろうと勝手に決めて、お賽銭を500円。

先ほどの神社の老婦人がこられたので、大きいほうの桜の木は200年になりますかと問えば、「とてもそんなに経ちません」。苔が生えて古木のように見えるがと聞けば、「吉野は湿気が多いのですぐに苔が生えます。建物の痛みが早くて困ります。」

グルリの建物は全部重要文化財である。すべての屋根は桧皮葺きである。これを管理・維持していくことは大変である。先の吉水神社もそうであったが、維持していくだけの人手も金も足りないといった感じである。これを引き継いでいくひとたちはそれだけで人生の意義があるな。

晴れ間が見えてきた。


吉野水分神社から山を下っている。

道の脇に30坪ほどの平らな草地があった。山村の農家が近くの土地に自家で食べる野菜をつくっている畑といった感じの場所であるが、ここに歌碑があった。 この場所は「御幸の芝」であるという。歌は、

  ここはなほ
  丹生の社にほど近し
  祈らば晴れよ
  五月雨の空

である。天皇が吉水院にあるとき、近習をつれてここまでやってきたときに雨になった。雨宿りしながらこの歌を読まれたところ、雨がやんで空が晴れ渡った、という話らしい。

格段どうという歌であるようには思えないが、雨宿りをしたといわれる社も小さければ、「御幸の芝」も狭い。どこにでもある山道の途中の風景なのである。こういうところを歩き、歌に詠む後醍醐天皇であったのか。一時の栄華があるだけにその凋落した境涯は寂しい。


最後は後醍醐天皇の御陵がある如意輪寺へ行く。如意輪寺は中千本にある。そのために吉水神社近くまで道を引き返す。静御前が僧兵に捕らわれて舞いを舞ったという勝手神社前にある道を北にとる。

蔵王堂のある峰(尾根)と如意輪寺のある峰は別である。間に谷(丹治川)があり、蔵王堂からいったん谷底へ降りて、如意輪寺へ登らねばならない。

向こうの山に見えるのが如意輪寺の多宝塔。


遠回りをすれば如意輪寺に着く車道があるようであるが、昔の道を歩きたかった。紅葉の落ち葉を踏んで小川を渡る。

もともとが大きくない丹治川の上流であるから、架かっている橋も庭園にある小橋と変わらない大きさである。


坂道となる。ここは石畳である。やはりこれが如意輪寺へ参る正式の道であろう。


着いた。長い石段の上に山門がある。

如意輪寺は後醍醐天皇が吉野に南朝を開いてから天皇の勅願寺となった。(天皇は加持祈祷が大好きであったらしい)

1339年、天皇は吉水院で病床に伏し、「魂魄は常に北闕(京)の天を望まんと思う」と遺言して亡くなり、如意輪寺の裏山に葬られた。塔尾陵(とおのお)である。やはり北を向いているという。

その後の南朝は後村上天皇(1339〜1368)→長慶天皇(1368〜1383)→後亀山天皇(1383〜1392)と続き、後亀山天皇のときに南北朝は合一される。

南朝は後村上天皇の後は極度に衰退し、長慶天皇の即位式があったかどうか不明なほど財政は窮迫していたらしい。後亀山天皇が三種の神器を携えて京都に戻るときの従者もわずかに数十人ほどで、侘しい行幸であったようである。(「歴代天皇総覧」笠原英彦)



如意輪堂(本堂)。

吉野に皇居があったのは後村上天皇の1348年までである。

楠木正成の子正行(まさつら)は足利軍の高師直(こうのもろなお)と河内の四条畷で決戦する前(1347年)に、吉野の皇居を訪れて後村上天皇に別れを告げ、ついでこの如意輪寺にある後醍醐天皇の御陵に参拝する。

このとき如意輪堂の扉に辞世の歌を鏃(ヤジリ)でもって刻み、それが今に残っている。(扉は別に保管されていた)

1348年正月、正行勢は四条畷で足利軍と会戦するが、多勢に無勢、たちまち粉砕される。その翌日、高師直は間髪をいれず吉野を攻略し、後村上天皇は吉野から逃げ落ちる。ここで南北朝時代の吉野の役割は終わった。

戦前は如意輪寺は脚光を浴びたのだろう。なにしろ後醍醐天皇の御陵があるし、小楠公正行の辞世の自筆の歌が残っているのである。



本坊は改築中であった。本坊には拝観受付所があるが人はいない。ベルを押して下さいと書いてある。横の硝子戸には「狐が出入りするので、戸を閉めて下さい」ともあった。

宝蔵の拝観を頼んだら若奥さんといったひとが出てきた。狐がうろうろしているのだそうである。如意輪寺の周りには一軒の民家もない。如意輪寺だけが孤立して建っている。買い物はどこでするのか。


ほどなくして若奥さんは外出した。寺は無人である(本坊を直している大工さんはいた)。

私と同じ年代かと思われる夫婦がやってきて、ベルを押すが誰も出てこない。「せっかく来たのになあ。」と慰めあっている。

「そこに拝観料400円を2人分置いて、この中に入って拝観すればどうですか?」。誰かが言ってあげねば夫妻も無断での拝観には踏み切れまい。「そうしようかしら」といって入っていった。



吉野のテクテクはここで終わりである。再び谷へ降りる。

登ってきた石畳の道に舗装された車道が繋がっていたが、登ってきた道は細いので、せっかくの車道もここで行き止まりである。

その車道を道なりに降ると近鉄吉野駅に着く。駅まで20分と道標にあった。

ブルックナーの第9交響曲・第1楽章は20数分を要する曲である。お寺には悪いが、私にとってのお経はブルックナーの第9番交響曲・第1楽章なのである。死ぬときはこの曲を聴きながら、葬式にはこの1曲を流してもらえば十分であると思っている。

私には音楽の素養はないから、門前の小僧が耳学問してお経を暗誦するように、ブルックナーを何千回と聴いた。今では25分の曲のほとんどを頭の中で演奏できる(主要なパートだけだが)。

夜、寝つけぬときはおおかたこの曲を演奏しつつ、いつしか寝入るのである。

曲をほとんど覚えたといったが、日によっては同じ部分を繰り返したり、飛ばしたりして、ちゃんと最後まで(頭の中で)演奏できることはあまりない。しかし今日はうまくやれた。ブルックナーとともに吉野駅まで下ってきた。

駅前の土産物屋で缶ビールを買って特急に乗った。この車両は喫煙車両である。乗客は誰もいない。近鉄も球団を手放さざるを得ないわけである。

これから橿原神宮駅までは約40分。ビールを飲み、アテ(つまみ)のちくわをかじり、合い間にタバコを吸いつつ、今日訪ねたところのパンフレットを読み返し、その情景を思い出しながら帰る。

万歩計は20600歩だった。


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