大宇陀町

    No.37.....2005年4月30日(土曜)


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奈良県宇陀郡大宇陀町を訪れる。

宇陀(菟田)は古い土地である。早くから歴史書に登場している。

古くは神武天皇の東征である。天皇は熊野から吉野山中を経て、宇陀を通り榛原に行き、ここから西に向いて桜井(磐余・いわれ)に入り、ヤマトを手に入れた。

大海人皇子(おおあまのおうじ)は近江京を出て吉野に籠もったが、天智天皇の没後、近江にある大友皇子を討つべく吉野を出立する。そのコースは吉野→宇陀→榛原→名張→伊賀上野→鈴鹿→桑名・・・である。



日本の(文献上の)歴史が奈良盆地から始まったことはいうまでもないが、今の奈良県をみていると「どうしてこの地が重要であったのか?」の疑問がわくほど、さほど魅力的な土地であったようには思えない。

明日香はさらに狭い。甘樫の丘から明日香村を見下ろすと、細い飛鳥川を挟んで、狭い平坦な地がある。この地でさえ天武天皇が湿地を埋め立てて平地にし、都を作ったというが、なんでこんな狭い場所を都にしたのか不思議に思うほどである。

明日香から山ひとつ南へ越えるとそこは吉野である。ここには飛鳥川とは比べ物にならないほど大きな吉野川が流れている。このほとりに天智・天武天皇の母である斉明天皇は離宮(吉野宮)を作っていた。

奈良の重要な場所は、以下のように移っていったらしい。
  1. 弥生時代(磯城郡田原本町。唐古・鍵遺跡がある)
  2. ヒミコ時代(桜井市・巻向の古墳群)
  3. 初期大和朝廷時代(桜井市・橿原市)
  4. 飛鳥時代(明日香村の飛鳥浄御原京)
  5. 藤原京時代(橿原市)
  6. 平城京時代(奈良市)
斉明天皇が吉野宮を作って以来、都はしだいに北上していくが、吉野は飛鳥の奥座敷、あるいは母親の子宮のような場所になったようである。飛鳥浄御原京が捨て去られて田圃に変わり、広大な藤原京でさえ跡形もなくなっても吉野は残った。

ことあれば政争に敗れた者たちが吉野に逃げ込んだ。あるものはここを出発点として権力を奪い返すことができたが、多くは中途で斃れた。


吉野に逃れた敗者が復活するさいにまず向かったのは宇陀郡榛原町である。ここに至って、歩を西にとれば奈良盆地(桜井)へ通じ、東にとればれば伊賀を経て美濃・尾張に通じる。神武天皇は西に向かって大和の王となり、大海人皇子は東に向かい、美濃・尾張軍を率いて近江軍を打ち破り、飛鳥に戻った。どちらも終点は大和である。

大宇陀は榛原に通じる街道のひとつ、それも飛び切り古い道である。今日は神武以来の古道である大宇陀町を訪れる。 近鉄名張から榛原までは電車で20分・340円。榛原駅前から大宇陀まではバスで20分・400円。


バスの乗客は少なかった。孫2人をつれたおばあさん、中年の婦人と一人の老人、そして私。

道は国道370号線である。この道は何度も通ったことがある。家内が吉野郡の実家に帰るときに使う道であった。

名張に越してきてから家内はひんぱんに実家に戻るようになった。家内の家族は4姉妹であったが、ほかの3姉妹は大阪や神戸に住んでいたので、吉野へ行くには相当の覚悟と準備がいるが、名張からは2時間足らずで実家に戻れるのである。

お陰でなにかあれば家内は(ばあちゃんが一人で住む)実家に呼ばれたようである。梅の実をもぎにこい、XXを買ってきて欲しい、家の蛍光灯が切れた、柚子の木を切りたい、こんにゃくを作ったので取りにおいで、などなどである。よい親孝行をしたが、私も3〜4回に1回は同行させられた。その道である。



「宇陀の道の駅」が終点である。

当時はこの道や宇陀については何の知識もなかったが、一度わが家の全員が乗って通ったときに、ここで「わらびもち」を2箱買って、ばあちゃんへのおみやげにしたことを思い出した。

「道の駅」の制度はいつできたのか。調べてみた。平成5年にできたらしい。一般道路に@休憩機能、A情報発信機能、B地域の連繋機能、を目的としている。現在では全国に785駅、近畿では90駅、奈良県では12駅があるようである。

奈良県の道の駅を見ると、吉野郡が圧倒的に多い。@大塔村、A上北山、B杉の湯、C黒滝、D大宇陀、E十津川、F室生、G針、H大淀が吉野郡にあり、そうでないのはIふたかみ(当麻)、Jへぐり(平群)、K伊勢本街道(御杖)の3か所だけである。ほとんどが過疎地の振興を目的としているようである。




「道の駅」の隣に「阿騎野(あきの)新鮮野菜直売所」があって、野菜や花や苗木を売っている。

直径20cmの筍が300円。花水木や石楠花、牡丹の苗木を1000円前後で売っていた。

今年は、生まれて初めて苗木を植えた。木蓮である。紫色の花が咲くらしいが、それは3年4年先のことだろうか。小庭には母が植えた南天がある。妻が植えた月桂樹・花水木・ラベンダ・柿木・ラズベリ・柳がある。この木蓮は私の形見となるはずである。





車で通り過ぎるばかりで知らなかったが、室生あたりで見る川幅にくらべてずいぶん細くなった宇陀川が北向きに流れていて、その東に旧街道がある。街道を挟んで江戸期以来の旧い家並みが続いているのである。ここが大宇陀の一番の観光名所であるらしい。

街道の名前はなんといったのか。榛原と吉野を結ぶ街道である。吉野からは大峯山を経て紀州熊野へ通じているから、大峯山へ、洞川温泉へ、あるいは熊野詣をする旅人がとおった道である。

街道を北上している。





造り酒屋がある。玄関先に吊り下げられた杉玉には大神神社(三輪さん)の短冊がぶら下がっている。








吉野葛を売っている店があった。店の脇に立つ石柱には「史跡・森野旧薬園」の文字があり、写真手前の石碑には「行幸記念碑」とある。

薬園とは薬草園のことである。370号線にある案内板には「Morino Medical Harb Garden」とあった。

徳川家康は薬になみなみならぬ興味を持っていたようである。その嫡子2代将軍秀忠のとき、幕府は江戸に北薬園(高田馬場・牛込)と南薬園(麻布)の2つの薬園(1万6000坪と1万8000坪)を造り、薬草の栽培を始めたのであるが、じきに寺や御殿が建設されて薬園は廃止される。

5代将軍綱吉は小石川の館林藩下屋敷内に1万4000坪の小石川薬園を造るが、薬草の研究はあまり進まなかったようである。

8代将軍吉宗は、産業振興としてのサツマイモやサトウキビの栽培を始めたほか、医薬に強い関心を持ち、朝鮮人参の国産化を計った。1721年小石川薬園は4万4000坪の規模に拡張され、朝鮮人参の栽培が試みられた。しかしうまくいかなかった。朝鮮人参は冷涼な地でなければ育たないことがわかり、日光に栽培地を変えて国産化ができたのである。

広い小石川薬園には代わって多種多様の薬草が栽培されることになった。吉宗はお庭番で薬草に詳しい植村左平次を諸国に派遣して薬草の探索を行わせた。(「日本植物研究の歴史」大場秀章 編 より)



吉野葛本舗で見学料300円を払って、吉野葛の工場(晒し場)の脇を通って、森野旧薬園へいく。薬園を作ったのは森野藤助である。家業が葛粉の精製であったから植物には詳しく、薬草木の研究が好きであったようである。

植村左平次が大和の薬草を採集に来たとき、藤助は大和代官の推挙によって御薬草見習いとなり、植村に従ってほうぼうへ採薬の旅をする。初めは室生山へ、次に宇陀の山を巡り、金剛山まで足を伸ばすという4か月の探索となった。朝鮮人参が始めて栽培に成功した年(1729年)のことである。

3年後には同じく植村に随行して近畿・北越を、その後も鈴鹿・美濃・近江の山々に入り採薬の活動を続ける。幕府はこの献身に対して、官園(小石川薬園のことであろう)にある貴重な薬草木を藤助に与えた。

森野藤助は自宅裏山に各種の薬草を植え、私的な薬園を作るのであるが、次第に幕府の補助機関になっていったようである。藤助は隠居して薬園の中に山荘を建て、ここで薬草栽培をしながら「松山本草」10巻を完成する。



葛粉は、@冬、葛の根を掘り出して、A砕き、B冬の寒冷な水に晒し、C沈殿すれば水を換えることを何度も繰り返すと、D純白のでんぷん質になる。Eこれを日陰で乾燥させたものが葛粉である。

上の写真は乾燥中のもので、右の写真は葛を晒すプールである。

前回吉野にいったときに、吉野葛を売っている店のおばさんが、晒している最中は匂いがとてもキツイ。といっていたが、たしかに異臭がする。乾燥しきってしまえば、匂いはなくなるのか。



向こう(東)の裏山が薬園である。裏山は古城山に続いている。古城山には戦国期に作られた山城があったようだが、江戸初期に入封した織田家はこの山裾に陣屋を構え、古城山の下に城下町ができたようである。




薬園への坂道を登る。ここには250種類の薬草木が植えられているそうである。小石川薬園以来、各地に薬園が作られたようであるが、明治維新によってこれを維持できる主(藩)が無くなった上、西洋医学が主流になったためにほとんどは絶滅した。

森野旧薬園は享保以来270年間これを管理維持してき、今は史跡となっている。相手は植物である。1年草もあるであろう。これを絶やすことなく維持してきた代々の森野家の努力はすごい。




植物ごとに名前と薬効が掲げてある。「ツルドクダミ」は9月に開花し、根は整腸に効能があるらしい。





「アマチャ」は6月に開花し、葉は甘味料として利用される。


石楠花が花を咲かせている。鑑賞のためかと思ったら、これも薬効がある。強壮・強精・利尿だそうだ。どこの部分に薬効があるのかかは見逃した。葉か実か根か樹皮か。




(次図)薬園からは大宇陀の旧い家並みが見える。





石の坂道を登りつめると、平坦な地になっていた。主に薬草を植えているようだ。ききょう、クコ、くちなし、こがねばな、はまなす。むろん朝鮮人参もある。アセビやヤブケマンという木には「毒薬」と書かれていたりする。

逆に毒薬と思っていたが、トリカブトの根はリュウマチ・神経痛の沈静に、トネリコの樹皮は通風・尿酸の排泄に効くらしい。

(植物に明るい人にとってはずいぶんと面白い場所であるのだろうが、暗い私には猫に小判である。)

タンポポも薬草である。根には「健胃、催乳」の薬効があるとある。タンポポの根を煎じて飲めば母乳がでるのか?

アオキの葉は「苦味、健胃」である。タンポポと同じであるが、陀羅尼助の原料とある。吉野の陀羅尼助丸はこれからできているんだ。

平地の奥に隠居所である桃岳庵があった。左の4畳半は茶室である。中央が母屋?で右が納屋風のコンパクトな山荘である。今は使われていないようでやや埃がたまっていたが、なかなかよい建物である。

森野藤助(号は賽郭(さいかく))はここから薬園を眺め、手入れに精出し、こつこつと「松山本草」全10巻を書きあげた。

展示してある一部を拝見したが、精緻な写生に彩色が施された、みごとな植物図鑑であった。(牧野富太郎もここを訪れていた)


再び街道を歩く。奈良漬・米麹の看板がでている。


どうやらこの街道筋で残っている旧家は、薬種商、造り酒屋、吉野葛粉、旅館、和菓子屋のようである。

写真は山辺家。案内を読むと果たして薬種商であった。紀州の殿様がここを陣屋としたとかの記述がある。



さらに進むと、大宇陀町立の「薬の館」があった。




街道に面した間口はさほど広くはないが、昔の商家の常で奥行きは深い。

元は細川という薬種商の店であったが大宇陀町がこれを譲り受け歴史文化館としているらしい。「天寿丸」のメーカーでもあったようで、立派な看板が屋根の上に掲げてある。300円を払って入ってみた。

案内の方に聞いたら、細川家は400年続き、薬種問屋としては200年の歴史を持っていたそうである。

座敷は陳列室になっている。薬のこととて現物は残っていないが、古い看板が何十枚もある。木彫りもあればホーローのものもある。宣伝用に造られた明治のカレンダーや団扇がある、薬効を書いたパンフレットがある。

奥の間に進めば座敷蔵が2つ並んである。中は展示室になっているが、藤沢薬品の社史がメインのようであった。「はて?」



タタキの台所へ降りて裏庭に出るとここにも蔵があって「細川家ゆかり展」と「藤沢薬品展」の表示がある。藤沢薬品とはあのフジサワのことであろうか。掲示物を読んで見ると、驚くべしそのフジサワなのである。

明治の初め、細川家の娘(名は忘れた)が名張の福守某と婚姻し、男子が授かった、男子は母の実家で成長した。(受付の人は離婚したからといっていた)

子は8歳だったかのときに大阪は道修町の薬商「田辺屋」田端某のところに丁稚として出された。細川家は大店であるから商売を覚えさせるために修行に出したのだろう。

名は友吉といった。田辺屋で勤めに励んだ。この間に医師の藤沢家の養子になり、28歳のときに独立し、同じ道修町に間口2間の小さな薬商を開業するのである。藤沢友吉、藤沢薬品の初代である。

(この4月1日に藤沢薬品は山之内製薬と合併してアステラス製薬となった。なお田辺屋はあのタナベであるとも受付の人がいっていた。)



この大宇陀から大成功者がでたことである。

写真は「松山西口関門」。大宇陀町は合併してこの名前になったが、その前は松山町といった。

1615年に織田信長の次男の信雄(のぶかつ)が3万余石を封ぜられ、以後4代80年間は織田松山藩であった。しかし4代目のときに不始末があって、織田家は2万石に減らされて丹波の柏原へ移封させられる。以後、松山は幕府の直轄領となった。(だから幕府から植村左平次が派遣されて先の森野旧薬園ができた。織田藩であればそうはいかない。)

松山西口関門は織田家時代の唯一残る構築物であるらしい。



宇陀川を西へ渡る。かつて榛原の墨坂神社前の宮橋の上から宇陀川を見下ろしたら、大きな鯉が10匹ほども群れていたが、このあたりではかような細川である。





これから織田家4代の墓がある徳源寺へ行くのだが、あまり気が乗らない。

写真は織田氏以前の松山城があった古城山(ふるしろ)。(織田の2代目の領主のときは2万8000石であるので、城は作れず陣屋であった)右の下に森野旧薬園がある。

大宇陀は織田の城下町であったことよりも、森野旧薬園を持ったことのほうが誇りであろう。

北を見ると材木置き場にあるクレーン車の先に額井岳が見える。榛原の町は近い。








徳源寺への石段。

織田信長には多くの男子があったが、本能寺の変の当時信長の手足となって働いていたのは長男信忠、2男信雄、3男信孝の3人であった。

長男信忠は信長から家督を譲られ、尾張・美濃を任せられていたが、本能寺の変の際に明智勢に攻められ二条城で自刃する。

2男の信雄と3男の信孝が信長の跡目を狙うが、信孝は柴田勝家と組んで、信雄と組んだ秀吉にうち破られる。信雄は織田家の有力者となったはずだが秀吉と不和になり、領地を没収されてしまう。

織田の時代は完全に終わった。

だが運は残っていたようである。大阪夏の陣で豊臣を滅ぼした家康は、織田の後継者として信雄に大和松山(3万石)と上野小幡(2万石)あわせて5万石を与えた。信雄の没後は、松山と小幡(群馬県)の2系統の織田家が小さいながらも大名として生き残ることができた。

織田家4代の墓を守る徳源寺である。元はそれなりの建物であったに違いないが、いつ消失したのか。いまは普通の民家風の建物になっている。丹波の柏原に移った織田家としては、旧領地にある菩提寺の再建には手をかけることができなかったようである。

織田家4代の墓があった。それだけのことである。

徳源寺から南へ下っていくと阿紀神社がある。

671年12月に天智天皇は近江京で没する。翌年6月、大海人皇子は近江京にある大友皇子を討たんとして吉野を出る。従うものは鵜野讃良(うののささら)皇女、草壁皇子(くさかべのおうじ)・忍壁皇子と舎人20人、侍女10数人。総勢40人足らずである。

この手勢を核として近江朝に対する反乱を起こそうというのである。



同日昼に宇陀吾城(うだのあき)に到着し、ここで土地の者から昼食を受ける。初めて天武方に味方する人間が出てきたわけである。

壬申の乱で勝利を得て天武天皇となる第一歩がこの地であった。


阿紀神社のすぐ近くに小高い丘がある。「かぎろいの丘・万葉公園」と名づけられている。登ってみた。



丘の上は少し傾斜があるがほぼ平坦で、芝が植えてあり、休憩所もある。


この場所で、柿本人麻呂は万葉集の中で最もよく知られている歌を詠んだ。

  ひむがしの  野にかぎろいの
  立つみえて  かえりみすれば
  月かたぶきぬ

である。大宇陀町のHPを見ると、692年(持統天皇6年)陰暦11月17日の早朝に軽皇子(かるのおうじ)の狩に随行した人麻呂が、狩を始める前の払暁の情景を歌ったものである。といったふうなことが書いてあった。

「かぎろい」とは「かげろう(陽炎)」ではない。冬に陽炎はない。「かぎろい」とは厳冬のよく晴れた日の夜明け前に明るくなる最初の陽光である。ともある。

そうだったか。東に陽炎が立ち、西に残月があるという情景ではなかったのか。しかし万葉集というのは読み下すことは難しすぎる。この歌の仮名は、

「東野炎 立所見而 反見為者 月西渡」

なのである。「月西渡」は「月かたぶきぬ」となるのか。


「ひむがし」の方向である。東は古城山で、ちょうど森野旧薬園の方向に当たる。

かぎろいの丘を下ると、柿本人麻呂公園があり、馬上から東をみる人麻呂の像がある。








軽皇子(のちの文武天皇)は草壁皇子の子であるが、父の草壁が吉野を抜け出てはじめてたどり着いたこの地で狩をした。人麻呂は草壁によくつかえていたらしい。草壁亡きあと遺児とともにゆかりの地にやって、「ひむがしの・・」を詠んだ。

「東のかぎろい」は、軽皇子の新しい時代が始まるのだなあという思いが入っているのか。「西に傾ぶく月」はかつて親しくつかえた草壁皇子の思い出を重ねているのか。「返り見すれば」の言葉が実によい効果をあげている。


「道の駅」に戻った。万歩計は12900歩だった。2時半である。

バスの発車時刻まで20分ほどあったので道の駅の土産物屋で葛餅を買った。525円というから本格の和菓子ではなく、新幹線車中で販売にくる「岡山名物きびだんご」のごときものである。

なんで包装紙に義経・弁慶・静御前が描かれているのかわからないが、吉野葛→吉野→義経逃避行のつながりか。


冷蔵庫で冷やしてお召し上がり下さい。とあったので冷やして食べた。精製され結晶状になった葛がまぶしてあって、おっ、案外なことにうまいではないか。

森野旧薬園のことを思い出した。



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