沖縄・読谷村と久米

    No.38.....2005年10月8日〜10日


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発売しているソフトの大改造をしたため、今年は忙しかった。忙殺されたといってよい。6種類のソフトを順次新しいシステムに切り替えるべく、2月に着手した。

親ツバメが巣を作り、ヒナが巣から頭を出してエサを貰っていたのを目にしていたが、いつのまにか巣立っていった。夏の終わりには名は知らぬがやや大きめの鳥がブルーベリーの実を取り合いして、毎朝ギーギーと威嚇しあっていたが、実がなくなるとともにどこかへ消えていった。

窓からこういう様子を見ながら、プログラムし、マニュアルを書いているうちに夏は終わった。

1年間の予定が達成できそうなメドが立って、時間に少しゆとりができたのが9月の初め。小庭にでて背筋を伸ばしていたら、家の壁にカマキリがじっといた。この夏はお互いよく働いたな。やるべきことはやったな。


唐突に、長女と次女の3人で沖縄に2泊3日の小旅行をすることが決った。9月は3連休が2度あるし10月の初めにもある。どれかの3連休に旅行しようとなった。

急いでツアーの予約をしようとしたが、どこも既に締め切られていた。インターネットで探してようやく見つけたらホテルは国頭郡恩名村にあった。

訪ねたいところが特にあったわけではない。逆にホテルを起点としてコースを決めた。

インターネットで「むら咲むら」というのが近くにあることを知った。ここは1993年に放映されたNHK大河ドラマ「琉球の風」のオープンセットを元に作られたテーマパークであるらしい。

実際に訪れたのは右のとおりで、結構欲張った。
  1. (1日目)ホテルとタイガービーチ(恩名村・前兼久・おんなそん)

  2. (2日目)真栄田岬(読谷村・真栄田・よみたんそん・まえだ)

  3. 「むら咲むら」・水中観光船(読谷村・高志保)
  4. 座喜味城跡・読谷村立歴史民族資料館(読谷村・座喜味)

  5. 東南植物楽園(沖縄市)

  6. 「琉球村」(恩名村・山田)

  7. レストラン(恩名村・仲泊)

  8. (3日目)首里城(那覇市・首里金城)

  9. 「福州園」・波之上宮(那覇市・久米・若狭)




出発日の大阪は雨。沖縄の天気予報は、1日目が「晴れのち曇り」、2日目が「曇り時々雨」、3日目は「曇り時々晴れ」であった。

この予報から、1日目は海、2日目は那覇、3日目に「むら咲むら」と思っていたが、この期間は「那覇祭り」で市内の交通が規制されることをタクシーに乗って知った。

ともかくは海である。晴れていなければ沖縄の海を見てもつまらない。ホテルに着いてすぐに目の前にあるタイガービーチに行く。シーズンは500円の入浜料がいるようだが、10月からは無料だった。

隣のムーンビーチは水着姿で混雑していたが、ここには管理人のおじさんと米兵らしき人がいるだけである。むろん人がいないほうがよい。向こうに見える山は名護の八重岳であろう。


1日目はタイガービーチだけである。ローソンでビーチサンダルを買い、靴から履き変えて浜辺にいったのだが、「沖縄限定」の商品が多くあった。帰りにファミリーマートにも寄ったら、ここはローソン以上に「沖縄限定」品が揃えられていた。

飲み物は、シークァーサージュース・泡盛、カップ麺は沖縄そば、お菓子はちんすこう・紅芋パイ・サーターアンダギー、明治のマーブルチョコや森永のハイソフトさえ沖縄限定品である。おつまみはミミガージャーキー、レトルトにもラフティやテビチーがある。

驚いたことには、沖縄三線(さんしん)や胴を空き缶で代用したカンカラ三線まで置いてある。三線は入門用で20000円くらい、カンカラは6000円くらい。まあ土地の人は買わない。観光客用の商品である。(写真はローソン。)


コンビニでこれほど楽しませてもらえるとは思わなかった。ちんすこう・サーターアンダギー・ミミガージャーキー・沖縄限定マーブルチョコなどを少量買った。

泡盛の水割りを3種類。ミミガージャーキーをアテにして、飲みながら明日はどこへいくか。 テレビの天気予報では、明日は「晴れのち曇り」らしい。

フロントにおいてある観光パンフレットに「むら咲むら」で水中観光船の予約受付をしているとあったので、朝一番の9:00からの便を予約した。 タクシーは、「呼べば5分以内に来ます。」という。


日が暮れた。向こうの岬は真栄田岬(まえだ)らしい。さらに向こうに灯台の光が点滅しているが、これが残波岬(ざんぱ)で「むら咲むら」はここにある。

泡盛を飲みながら検討した結果、@水中観光船→Aむら咲むら→B座喜味城跡→C東南植物楽園 のコースを決めた。@Cは娘たち、ABは私の好みにあわせた(つもり)。


2日目は晴れ。真栄田岬がよく見える。

フロントでタクシーを呼んでもらったら2分でやってきた。

足には昨日買ったビーチサンダルを履いている。パンフレット・デジカメ・タオルを入れて持ち運びする袋はローソンでもらった買い物袋である。


運転手さんに「8:45分までにむら咲むらに着きたい。」と告げたら、「時間があるから真栄田岬へ寄ってみましょうか。」

海は東シナ海である。向こうは西である。この方向にまっすぐまっすぐ行けば福建省福州市がある。


岬へはさとうきび畑の間を通ってやってきた。帰りに車を止めてもらい写真を撮る。

娘たちも9月末に、明石家さんまと黒木瞳・仲間由紀恵・上戸彩など出演の「さとうきび畑の唄」を見ていたものだから、車から降りてきた。

ヘーっ。これがさとうきび畑かといったふうで、携帯で写真を撮っている。便利なものだ。


運転手さんが「まだ少し時間に余裕があるから残波岬公園にある沖縄一大きいシーサーを見ませんか?」という。

寄ってみた。当然に焼き物ではなくコンクリート製だと思うが、おおっ、沖縄である。

シーサーの足下に私がいる。




水中観光船は9:00に出て50分ほどで戻る。運転手さんは私たちの予定を訊いて、船が帰るまで待っていてくれるという。

行く先々でタクシーを調達するのも面倒だから、今日のタクシーは4:00まで借り切りましょうか、といえば大いに喜んで、「ぜひそうして下さい。」となった。運転手さんの名は比嘉(ひが)さんである。

「むら咲むら」で乗船の申し込みをして、小型バスで小さな漁港へ運ばれた。船名はマリンビュー号(丸?)である。

40人乗りということであったが、乗船客は私たち3人と若い母親と3歳くらいの幼児の5人だけであった。ぼうやのお父さんはスキューバダイビングに行ったらしい。


船は沖合い(2〜3kmだと思う)に出た。港の海は青緑色であったが沖に出ると群青色である。

ジンベイザメを飼っていて、これを船底の窓から見るのである。

ジンベイは円筒形の網で囲われている。ここには体長2.5mのものが1匹いるだけだが、別の網には4.5mのものと小型の2匹がいて、「ジンベイザメと泳ごう」とパンフレットにあった。

大阪の海遊館のジンベイザメもここから来たのか。

ジンベイはぐるりの回りと上下を網で囲われているが、魚は網の外側にいる。(網の目が大きいので、わざわざ網の中に入って、ジンベイに寄生している小判鮫もいる)

網の外にいる魚が散らばらないのは、1時間ごと水中観光船がやってきて餌を与えているためらしい。魚はここを離れなければ、毎日確実に餌にありつける。


「むら咲むら」に戻ってきた。10:00である。入園料は500円(割引で450円となった)

沖縄が本土復帰したのは1972年である。1992年は20周年ということで、1993年のNHKの大河ドラマは沖縄を舞台とした「琉球の風」を放映した。原作者は陳舜臣さんである。

1987年〜1990年にかけて、ほぼ毎年私は沖縄に来ていた。(仕事なのでだいたいが1泊か2泊しかしなかった。)1993年はまだ沖縄に馴染みがあったので、このドラマは半年間毎回欠かさずに見た。


1609年に薩摩藩は沖縄を侵攻し藩の支配下に置く。この前後の琉球についての話である。ドラマは端折っていたが、原作の「琉球の風」のテーマは多い。

@琉球側の動き、A薩摩の動き、B徳川幕府の思惑、C明国との冊封・進貢の関係、D鎖国前の海外との交易状況、E明国が崩壊する様子、F福州のこと、Gさらには鄭成功まで登場するなど、当時の国際情勢も詳しい。

ドラマでは多くが国内を中心に進行したが、それでもほとんど知らないことばかりであったので、興味深くドラマを見た。


話は1606年から始まる。このころには琉球側も薩摩が侵攻してくるであろうことを強く予想していた。当時の琉球王は尚寧王(しょうねい・沢田研二)である。大臣は明国派の謝名親方(江守徹)、薩摩派の名護親方(橋爪功)、中間派の浦添親方(知らない)の三司官である。

主役は架空の人物の啓泰(けいたい・東山紀之)であるが、謝名親方(じゃなうぇーかた)が中心人物であり、陳さんもこの実在した人物が最も好きな感じであった。

写真は琉球の武家屋敷。琉球士族の身分については皆目知らないが、門の脇にある説明板をみると、 王子家は本門・中門・小門があり、按司(あじ)・親方(うぇーかた)は正門・小門があり、平士の家は正門だけである、とあったので、王を筆頭にしてこの順の身分であったようである。


この建物はドラマでは謝名親方の屋敷として使われた。実際の謝名親方の屋敷は那覇の久米にあった。「琉球の風の」メインの舞台は首里城と久米・波之上の地である。

今は「謝名亭」という料理店になっている。昼11:00〜15:00までは沖縄そばを、午後6:30からは琉球舞踊を見、三線を聴きながら沖縄料理を食べることができる。とパンフレットにあったので、ぜひどちらかを食してみたい。

まだ10時を回ったところなので雨戸は閉じられている。

11:00 からの謝名亭そばを食べることにして時間をつぶす。園内にはカンカラ三線を作る、ゴーヤチャンプルを作る、シーサーに色付けする、薬膳茶をブレンドする、琉球藍染めでバンダナを作るなどの体験家屋が軒を並べているのであるが、ここは興味がなかった。

尚寧王が即位した後、明に請封使(せいほうし)を出して、明からの冊封使(さっぽうし)を待たねばならない。明から冊封を受けてはじめて尚寧王は明への朝貢ができるのである。

請封使が舟出し、冊封使がやってきたのは那覇港である。 那覇港の南側には屋良座森城(やらざもりぐすく)という要塞があり、北側(久米村の前)には写真のような三重城(みえぐすく)があったそうである。倭寇の備えとして作られたらしい。

今の那覇港には三重城は残っていない、ドラマのためにこの地に作られたものであるが、12年も経つと古さびて、風景に溶け込んでいる。

そろそろ謝名亭そばの時間だろう。

道々にはハイビスカスが咲いている。

謝名亭の雨戸は開けられていた。しかし人影はない。勝手に上がるわけにもいかないので、しばらく玄関口に腰を下ろして人の気配を待った。

この座敷はどうだ。解放的である。座れば南国の風が通り抜けていくのではないか。琉球の庭を見ながら沖縄そばを食えるとはたまらんなあ。

賄い所で物音がしたので、声を掛けると料理人らしき人が出てきて、11:30から開店であるという。あと20分ほどあったが待つことにした。本物ではないといえ、中城御殿(王子の屋敷)を再現した建物でそばを食えるのだから待つ価値はある。

ところがしばらく後に先の料理人が現れて、「仕込みが遅れてしまい、12時ころになります。」


結局別のレストランでランチバイキングを食べることになった。食事をして「むら咲むら」を出ると、比嘉さんが待っていてくれた。

近くにある座喜味城に行く。

2000年12月に「琉球王国のグスクおよび関連遺産群」は世界遺産に登録された。登録されたグスク(城)は5つある。北から@今帰仁城(なきじん)、A座喜味城(ざきみ)、B勝連城(しょうれん)、C中城城(なかぐすく)、D首里城 である。


陳舜臣さんの「沖縄の歴史と旅」という本によれば、15世紀までの琉球は北山・中山・南山の三山が覇を競っていた。

1416年に今帰仁城を本拠地とする北山を破り、1427年に南山を征して琉球統一をなしとげたのは尚巴志(しょうはし)である。

この家臣(といっても娘は尚巴志の妃である)に護佐丸(ごさまる)があり、今帰仁城攻略のほうびとして読谷村を与えられ、ここに座喜味城を築いた。

尚巴志亡き後、勝連城にある阿麻和利(あまわり)の謀反がわかり、これを牽制すべく護佐丸は中城を築くのであるが、急襲されて護佐丸は自害する。護佐丸は琉球史上、最も高名な武将であるらしい。 世界遺産になったグスクは全部護佐丸と関係があるのである。

城の側にある読谷村立歴史民族資料館を見学した。200円。村立資料館であるから、見るべきものは多くない。無いが、亀甲墓の模型があって、この中を覗いたり、戦前の復元された民家の座敷に座ったりして、結構面白いのである。




このあと沖縄市にある「東南植物楽園」(左図)に行った。当初から歩いて植物を愛でようという気はなかった。園内を巡るトラムカーに乗って見て回わればラクだろうという横着さであった。

おまけににわか雨が降り出して、トラムカー車両の周りには透明ビニールのカーテンが引かれたものだから、見通しが利かなくなった。

面白くないので半分ほど見て出た。ほとんど記憶に残らなかった。






今日の観光予定は全部終えたがまだ2:00である。しかしこういうこともあろうかと思って、ホテルの近くにある「琉球村」を補欠候補としていた。 「琉球村」の売りは「伝えたいむかし琉球」なのである。旧家を移築し保存してあるらしい。

読谷村資料館で見た復元された民家が気に入っていたので、ここへ回ることにした。

入村料は840円。入口を入ると、旧仲宗根家がある。読谷村座喜味より移築とある。





これは玉那覇家。恩名村塩屋より移築。築120年の一般的民家だそうだ。

家の前には道が突き当たっていて、魔よけの「石敢当(いしがんとう」がある。T字路やL字路のように道がまっすぐに通じていない道端にある家には、石敢当の文字が刻まれている。

悪霊は道を横行するが、猪のように真っすぐにしか進めない。T字路では悪霊が家にぶち当たって入り込むのである。これを防ぐための「お札」のようなものであるらしい。

ホテル(恩名マリンビュー)の前の道にも石敢当があって、これを初めて見た長女は石敢当を見るたびに写真を撮っていた。何枚撮ることができるのか。

ここは西石垣家。八重山石垣市より移築。

沖縄の古い家は寄せ棟造りである。寄せ棟というのはだいたいが奈良期の古寺に多い。平安期になると大きな建物は、切妻と寄せ棟を折衷した「入母屋造り」が多くなる。

この民家をみて「ああ、いいな。」となつかしく思うのは、ここ3年のテクテクで奈良時代の寺院をいくつかみてきたからかも知れない。古い沖縄の民家はとにかくなつかしく、こういう家に住み、死んでいきたい。と思わせる。


昔の沖縄の一般家屋は図のようであったらしい。
  1. 門を入ると、これまた魔よけの「ヒンプン」(石の衝立)がある。女性はヒンプンの左側から入り、男性は右側から入る。

  2. 部屋の配置を見ると、家屋の左端には土間がある。突き当たりには台所がある。女性がヒンプンの左から入るはずである。

  3. 男性は右から入ると、正面に一番座がある。客間である。ここには床間がある。

  4. その左手には二番座と呼ばれる居間があり、仏壇がある。

  5. 一番座・二番座の裏には「裏座」と呼ばれる板の間があって、ここには炉があった。
ようするに2DKか2LDKである。



ここは旧玉城家。高級官僚の与那原親方の邸宅であった。築200年の武家屋敷である。200年前となると1800年ころの建築物である。当時は一般人は瓦葺きの家屋には住めなかった。

門を入るとヒンプンがある。屋根はL字型に曲がり、一般の民家に比べてやや複雑である。これが江戸期の高級官僚の家の規模であったようである。

「むら咲むら」で見た謝名亭は王子邸を復元したものであるから、やや立派な作りになっているが、謝名親方の家もこのようであったのだろう。

精糖工場があった。精糖とはいってもできるのは黒砂糖である。第一の作業はさとうきびを搾ることである。絞るためにはサーターグルマをまわさねばならない。

皮が堅いさとうきびを絞るには力がいる。水牛をグルグルと追って、3連のサーターグルマを回し、石車と石車の間にさとうきびを突っ込んで搾り汁をとるのである。

実にのんびりとした風景であった。牛を追うおばあさんに訪ねると、水牛は3歳であるという。時々おばあさんに甘えて擦り寄っている。

「琉球村」は見ごたえがあった。私が小学生くらいまでは、母方の実家にいけば、牛小屋があり牛が切り藁を食べていた。まだ牛は農家にとっては貴重な労働力であった。

いつから牛が不要になったのか。クボタがヤンマーがイセキが牛を駆逐したのは40年前か30年前か。そう古いことではない。この戦後60年の時間は革命的であったことがわかる。


4:00前にホテルに戻った。ホテルから街を見下ろすと赤い瓦の家はほとんどない。昭和30年代からコンクリート住宅に変わっていったらしい。

太平洋戦争で沖縄の中部から南部が壊滅したことは存じている。米軍が30年近く占領し、町がアメリカナイズされたこともわかる。しかしこうまでもあっさりと住居の伝統が無くなってしまうものか。

2日目が終わった。小瓶入りの泡盛2本を飲んだが足りない。これまで飲んだうちで最も口に合うと思われた「久米仙」の中瓶をコンビニで買ってきたが、さすがに瓶半分を残した。

(3日目)今日は最終日である。昨日1日付き合ってもらったタクシー運転手の比嘉さんとは馴染んでしまった。比嘉さんは今日は非番だが「誰かと替わってもらい出勤して案内します。」

今日の訪問先は那覇市にある首里城と福州園である。8:00にホテルを出た。比嘉さんは「今日の料金はメーターどおりでよいですから」といって高速道路をすっ飛ばしたものだから、首里城には早く着いた。

「守礼門」前に着いたのは8:30である。もっと時間があれば、明あるいは清の冊封使が那覇港に着いて、首里城に至るまでの道順をたどってみたかったのだが、これは半日がかりとなるだろうから無理である。


首里城はなにもかもが復元されたものである。戦前にあったものは何ひとつ残っていない。

沖縄戦では首里城地下に総司令部が置かれていたため、米国戦艦から3 日間にわたる猛砲撃を受けて城は焼失した。さらに戦後は首里城跡地に琉球大学(米国軍政府立)が建てられ、首里城は完璧に消滅していたようである。

今はともかくも城壁が築き直され、門が復元され、正殿・北殿・南殿などが建てられている。

首里城の復元は沖縄県民の悲願であったようである。いくつかの観光案内を見たが、復元の歴史が誇らしく列記してある。


1957年 園比屋武御嶽石門を復元
1958年 守礼門を復元
1972年 日本復帰
1974年 歓会門を復元
1977年 玉陵を復元
1980年 琉球大学が西原町へ移転
1984年 久慶門復元
1989年 正殿の復元に着工
1989年 南殿・番所・奉神門の復元に着工
1992年 正殿の復元が竣工 復元には膨大な費用がかかる。1972年に第一次沖縄振興計画が出され、復元できたのが1974年の歓会門である。

写真は歓会門を入った次の門である瑞泉門。


沖縄振興計画は10年単位で立てられ実行されている。 第二次沖縄振興計画は1982年に出された。ここで首里城一帯の整備が織り込まれ、1984年の久慶門復元から正殿の復元へと弾みがついたようである。

写真は奉神門。ここまでは公園であるから無料で時間の制限もない。奉神門からは有料(800円)である。開館時間は9:00からであった。15分ほど待たねばならない。

9時になると門前に3人の門番が出てきた。左右に紫色はちまきを巻いて棒を持つ2人、中央は黄色い帽子(冠?)を被る琉球官吏らしい人物。中央の黄色がドラを叩き、左の紫色が「御開門」のような声を発した。(「うけーじょー」といったらしい)

奉神門が開かれ、待っていた観光客が少し押し合いするかのように入った。



正殿。木造3階建て。間口28.8m、奥行き17.0m、高さ16.0m とパンフレットにある。

手前の広場は御庭(うなー)で、ここで「冊封の礼」が執り行われた。

正殿前に臨時の建物が建てられ、ここに冊封正使と副使が立ち、跪く新王(「琉球の風」では尚寧王)に向かって、「なんじを封じて琉球国中山王となす。」と宣言する。

これによって新王は琉球王になり、明国(のちに清国)への進貢ができるのである。陳舜臣さんの本に書いてあった。

右に南殿と番所があり、左に北殿がある。北殿は冊封使一行を歓待する場所である。2000年の九州・沖縄サミットでは晩餐会の会場となったらしい。




正殿は焼失前の設計図が残っていたので、形は原型近くまで復元できたようであるが、素材・模様・彫刻・色などの復元は困難であったようである。

番所・南殿・北殿は残っている写真や礎石から復元したようで、したがって内部は復元できていない。これらは展示室になっている。

正殿の向こうには王や家族が住む御内原(おうちばら)があったが、これはまだ復元できていない。

番所→南殿→正殿→北殿と巡って出てきた。坂道の門は右掖門(うえき)。御内原への通用門であったらしい。




石畳を下れば久慶門である。右掖門に繋がっているから当時は御内原に仕えている女官たちが利用した門である。今は観覧順路の出口となっている。






久慶門を出ると比嘉さん(白シャツ・ネクタイ)が手を振っている。

これから最後の訪問地である那覇市久米に行く。久米は「琉球の風」の主な舞台である。そこには「福州園」がある。



琉球の黄金時代は15世紀後半〜17世紀前半までのようである。明から冊封を受け、進貢による交易によって大きな利益が得られたためである。

このきっかけは明がもたらせた。1368年に朱元璋が明を建国するとすぐに近隣諸国へ冊封関係を結ぶように使者を出した。琉球はまだ三山時代であったが、中山王(祭度・さっと)がこれに応じ、息子の武寧が明国より冊封を受けたのが1372年のことである。

琉球からは馬・硫黄を進貢し、見返りに何倍もの価値がある絹織物・陶磁器を下賜された。明国は元の残存勢力と戦うために馬を必要としていたので、琉球に期待したものは大きかったようである。

船を無償提供したり、福建の航海技術者(36姓)を琉球に下賜している。 琉球にやってきた36姓のうちには帰国する者もあっただろうが、多くは久米村に住みつき、その子孫たちは明国との交易・外交に不可欠の存在となる。



交易のために福建省福州には琉球人が住む琉球館があり、冊封使は福州より出航した。福州-那覇(久米村)はごく親しい近隣関係にあった。

1981年だかに那覇市は福州市と友好都市になり、その10周年を記念して作ったのがこの福州園であるそうだ。

那覇市立の公園であるので、入園は無料である。そのかわりパンフレットはない。陳さんの本によれば、福州にある双塔・東冶堂・欧冶池などの景観を縮尺しているそうである。

さすれば手前の池が欧冶池の縮尺版か。






鯉がいる。亀もいる。

入り口に鯉の餌の自動販売機があったので1箱買ってきて、鯉に餌を投げたら、亀が一生懸命に泳いで来る。 鯉はすばやく泳いで来て、大口を開けてパクパクと吸い込むから、亀がやって来たときにはもう餌は残っていない。


亀の目の前に餌を投げてやればどうか。

亀もなんとか餌にありつけるのではないか。


餌を投げると、鯉がいっせいに集まってきて、亀の甲羅に乗り上がって餌をとる。

亀は鯉の群れにのしかかられて沈没した。

大いに愉快だったので、餌をもう1箱買ってきて餌を与えた。


中国式の回廊である。本場ではなんというのか。

「琉球の風」に尚寧王が明国から冊封を受けるまでの過程が詳しく書かれてある。尚寧王は第二尚氏の7代目の王である。国内では1589年に即位しているが、明国は冊封を授けるまで琉球王としては認めない。

500人の冊封使一行が4〜6か月も滞在するのである。その準備は大層なものとなる。琉球が冊封使を要請するための請封使を派遣したのは1594年のことである。

要請を受けた明国側も準備が必要である。1606年にようやくやって来た。なんと即位して17年目のことである。(1592年から1598年まで明は朝鮮で秀吉軍と戦っていたのも遅れた理由である)




冊封使一行は那覇港に着く。港には迎恩亭(げいおん)という建物があり、三司官以下の高官が勢ぞろいして一行を迎える。(迎恩亭は「むら咲むら」に復元されていた)

ここから一行の宿泊所である天使館へ向かう。

『琉球側の先導、音楽、儀杖などを先頭に、琉球王府高官、そして竜亭、綏亭に続いて、輿に乗った冊封正・副使、騎馬の文武官と、長い行列が天使館まで続くのである』
と陳さんは書いている。

竜亭(りゅうてい) とは詔勅、祭文などの冊封使文書を載せる輿の一種で、綏亭(さいてい)は冠服その他の下賜品を載せる輿。きらびやかな飾りつけがしてあるそうだ。




「天使館」は当然に残っていない。(「むら咲むら」に復元されていた)調べてみると、久米1丁目に天妃小学校があり、ここが天妃宮跡で、その隣の東町に天使館があったらしい。

首里城の陳列室(北殿・南殿)では10月いっぱいは「琉球と冊封使展」が催されていて、パンフレットを貰っていた。これによると冊封使一行が滞在する半年の間に「冊封七宴(さっぽうしちえん)」といわれる7度の宴が行われたそうである。

行事で重要なのはまず「諭祭(ゆさい)」で、先王を弔う。この後にあるのが諭祭の宴。次に最も重要な「冊封」が御庭で行われ、新王が琉球王に任命される。この後にあるのが冊封の宴。

その後5度の宴があって冊封使一行は福州を経て北京に帰っていく。





この度重なる宴のために琉球の音楽や舞踊の芸能が磨かれてきたらしい。沖縄から芸能人が輩出するするのも、冊封使のお陰である。

久米村の福建人の子孫は琉球王府に仕官するものも多くいた。また 久米村の官吏だけが明・清への留学ができた。徳川時代の長崎の唐通司のようなものである。琉球の外務省がここにあったと思えばよいか。

福州園を出ると道路を挟んで「松山公園」がある。ここに久米村発祥地の石碑がある。碑の上には石の舟が載っている。






このあと「波之上宮」にいったが印象は薄かった。釈迢空(折口信夫)の歌碑があった。

帰りの途中の交差点には「久米南」と表示があった。福建36姓(36姓だから36人というのではないらしい)が住みついて以来、琉球王朝を支えてきた人々が作った久米村である。しかし今ではその面影はまったくない。


帰る。出発前の天気予報はあまりよくなかったが、幸運なことに3日間、青空の下で観光できた。

名張へ戻ると雨だった。


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