津市街と阿漕浦

    No.39.....2005年10月30日(日曜)


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津市を訪れることにした。10月の土曜日曜の天気は全敗だったが、今日(30日)は久しぶりに晴れていた。急遽どこへ行くかと検討した。

ためておいた近鉄の「てくてくまっぷ」をめくっていたら、「城下町・津 散策コース」の地図に「津名物うなぎの蒲焼き。町のあちらこちらに。」と書き込んである。津の名物が蒲焼とは知らなかった。

津は三重県の県庁所在地ではあるが、小さな街である。何度か訪れているが、見所は何もないと結論していた。だが蒲焼に釣られた。丹念に見て回れば知らない津が発見できるのではないか。




朝になって散策先を決めたものだから、自宅を10:00に出た。名張から津までは近鉄特急で30分余りで行ける。11: 00に津駅についた。

写真は近鉄とJRの合同の津駅前。「三重・畿央へ首都機能移転を!」のたて看板が立てられている。首都移転の話はバブル期に出たが、バブルが崩壊したいまではもう夢物語である。

全国の県庁所在地のうちで津市は最も人口が少ない。現在のところ16万5000人である。かつて最も少ない人口であった山口市は昨年10月に4町を合併して19万1000人となって、長年の最下位を抜け出した。かわって津市が最下位となった。



写真は県庁前公園の前の広い道路。

人口が少ないことは不名誉なことではないが、人口の最も多い都市に行政機能があったほうが便利ではある。県庁を初めとして議会・裁判所・県警・大学・美術館・博物館は津市にあるが、三重県で最も人口の多い四日市市にとっては不便なことになる。

しかし、津市も考えたらしい。 来年1月1日に1市・6町・2村を合併して新しい津市となるようである。新人口は29万人。現在の津市の人口の1.7倍となる。そのかわり面積は7倍と広がる。




津の四天王寺である。奥に鐘楼門があって、津のなかでは最も古い寺のようであるが、鐘楼門以外は新しい建物のようである。

昔、三重県立博物館に行って、その建物の小さなこと、陳列物の貧弱なことにがっかりした経験がある。藤堂藩32万石のお膝元であれば、寄贈があったりしてかなりのものが残っていてしかるべきではないか。

文化庁の統計資料では、三重県に4点の国宝がある。その内訳は書跡が3点、考古が1点である。(書跡のうち2点は専修寺にある親鸞聖人の書物)。建造物・絵画・彫刻・工芸はゼロである。


調べついでにいうと、国宝が多い順は、@京都(255点)、A東京(233)、B奈良(206)、C大阪(60)、D滋賀(55)、E和歌山(36)、F兵庫(20)、G神奈川・広島(19)、I栃木(16)である。

兵庫は姫路城、神奈川は鎌倉、広島は厳島神社、栃木は日光があるので点数が多いのであろう。




一方少ないほうを見ると、北海道・群馬・徳島・佐賀・宮崎・沖縄の6県が0である。沖縄は0であるが、戦前の国宝は首里城を初めとして20点ほどもあったと聞いている。愛知の9点も少なすぎる。

今次の戦争で焼失した国宝が多いのかも知れない。美術工芸品は安全な場所に運べるが建物は移せないからなあ。

写真は塔世橋。流れている川は安濃川(あのう)。





文化庁のHPによれば、「我が国にとって歴史上、芸術上、学術上価値の高いものを文化財とし、重要なものを重要文化財、世界文化の見地から特に価値が高いものを国宝に指定している」

それにしても三重県の国宝の少なさである。もともと少なかったのか、昔はあったのだけれども残らなかったのか。伊勢神宮とかは国宝の対象にはならないのか。

塔世橋を北から南に渡ったところがやや広げられていてベンチが据えてある。説明板が立ててある。写真の石の囲いは昔の塔世橋の手すりであったという。

津市は終戦の年に大規模な空襲を受け、市街地の73%だかが灰燼に帰した。写真の手すりに欠落や穴があいているのは、このときに被弾したものである。というようなことが書いてあった。





はあ。空襲というのは東京・横浜・大阪・名古屋・神戸といった大都市が受けたものであると思っていたがそうではなかった。津のような小都市でさえも空爆されたのか。

帰って調べたら、空襲の回数が多かった都市は、@神戸(128回)、A東京(73)、B名古屋(56)、C大阪(33)、D横浜(29)、E浜松(28)、F川崎(19)、G日向(17)、H大分(15)、I立川・静岡(13)のようである。どれも軍需工場や基地があったところ。

三重県に限れば、空襲の回数が多いのは@伊勢市(9)、A四日市市(6)、B津市・鈴鹿市(4)、D桑名市(3)、E松阪市(2)、F上野市(今は伊賀市)・明野町(1)である。上野市のような軍事とは無関係そうなところまで空襲があったとは驚きである。

上図は国道23号線。片側4車線の広い道路である。津市の幹線道路であるが、道沿いに建つビルは3階建て程度で低い。そこまで高いビルを建てる必要がないようである。これも人口が少ないためか。




向かっているのは「津観音」である。ここは東京浅草・名古屋大須と並び日本三大観音と称せられたところである。津観音の門前町である大門町は観音詣での客で賑わったという。

向こうに商店街のアーケードが見える。そこへの道は車が早く走れないように曲げられ、道の真ん中に樹木が植えられたりしていて、なかなか手を掛けてある。




商店街は「ダイタテ」というようだ。入るといきなり踊りが始まった。「マツケンサンバを別に振付けました」とかがスピーカーから聞こえた。しかし観客はわずかである。

肝心の商店であるが、日曜日の昼どきだというのにシャッターが下りている。道路の中央や端には、イーゼルがいくつも立てられていて売り物の絵が飾ってある。絵葉書を売る屋台の店も出ている。似顔絵描きも3組ほど出ている。

どうやら絵画を中心にしたフリーマーケットというか、昔はやった歩行者天国のようなことを開催しているらしい。




商店街の突き当たりは津観音(観音寺)の仁王門である。大門町というくらいだから、昔はそれなりに大きな門であったのだろうが、今は小さい。また新しい。



正面は観音堂、左に五重塔。写真には写っていないが右に鐘楼がある。まあ到底三大観音とはいえぬ規模の建物であった。

観音堂横に資料館があっった。戦前の津観音などがパネル表示してあるというので入ってみた。入館料は500円。

二階の一室が展示室になっている。陳列物はわずかである。江戸期に書かれた徳川家康・藤堂高虎の画幅、何代目かの藩主の書が数点、豊臣秀吉・徳川秀忠・家光の朱印状が数点。あとは戦前の写真パネルが20枚ほど。

5分でひと回りできるほどであったが、受付の女性が「今、お茶をお持ちしますから」というので、もう一周した。

帰りには「のび〜る孫の手・耳掻き」のお土産を貰った。展示物の割には入館料500円は法外であると思っていたが、お茶・お土産つきで帳尻を合わせているらしい。



戦前はまずまず賑わっていたようである。しかし空襲で全部焼けた。(観音堂と阿弥陀堂は戦前の国宝であったという。)

焼け残ったのは写真手前の銅製灯篭と、向こうの地蔵坐像および鐘だけであったらしい。こういうところから寺を再建することは難しい。よほど信者や有力者からの寄進がなければ無理である。

パンフレットを見ると、室町期には足利義教が三重塔を寄進し、江戸期には歴代将軍家および藤堂家の祈願所であった。また観音寺の隣にある大宝院は歴代天皇の勅願寺であり、本尊の阿弥陀如来は伊勢神宮の本地仏であったことから「阿弥陀に詣らねば片参宮」といわれていた、とある。

江戸期には伊勢参りが周期的に大流行した。多いときは年間に400万人とも500万人ともいう参詣客が伊勢をめざしたのである。この伊勢参りの多くが津観音に詣でたことを想像すれば、その賑わいはたいしたものであったのだろう。



戦後は、津観音の復興が思うようにいかず、伊勢参りは廃れてしまうしで、今に至っているようである。伊勢神宮あっての津観音であり、津観音あっての大門町であったが、このよき連繋は無くなった。

商店街(正式には「pure DAITATE」という)はかつての賑わいを取り戻そうと努力したようである。商店街はきれいである。先に見た催し物も積極的に開催しているようである。しかし人は集まらない。

津市の人口の少なさである。

「ダイタテ商店街」のアーケードが尽きたところが、フェニックス通りである。

「フェニックス通り」は堺市にもある。国土交通省はヒマというか「日本の道100選」を選定しているが、堺市のものは100選に選ばれている。フェニックス椰子を道に植えるというのはどういうことなのか。フェニックスという名前も理由だろうが、あまり手入れがいらないからでもあろうか。

大阪の「日本の道100選」は御堂筋であるそうだが、ここは銀杏が植えてある。秋の銀杏並木はそれは美しいが、道にはイチョウの落ち葉が散乱するし、ギンナンがボタボタと落ちていて、きつい匂いがただよう。ために大阪市はしょっちゅう道路の清掃をしなければならない。 御堂筋は手間のかかる道路なのである。


フェニックス通りを突っ切って南進したところに「旧町名 分部町」の石碑があった。現在の町名は「東丸之内」である。ここへ来るまでにもこの種の石碑をいくつか見かけていた。つい100m前には「地頭領町」その少し前には「宿屋町(しゅくや)」の石碑があった。

町名にはその歴史がこもっている。「宿屋町」は大門の隣りである。伊勢参りの途中で津観音に立ち寄り、多くの観光客が宿をとったのである。昔はこのあたりに宿屋が軒を連ねていたであろうことが偲ばれる。「地頭領町」は鎌倉期のこの地を治める地頭の領地であったのかの想像もできる。

町名の変更というのは、その町の歴史を消すことである。軽々と町の歴史を消すようなことをして、今になって「旧町名」の石碑を建てるというのは、市の行政としては失敗ではなかろうか。


さて旧・分部町(わけべ)である。分部町は東西に伸びていて、いまではややさびしい商店街となっているが、立てられている夜光灯には「分部町」「唐人の街」と掲げられている。「東丸之内」ではない。

分部町は「唐人踊り」の伝統を受け継いでいる。「まっぷ」に「唐人踊り資料館」と記されていたのでやってきた。

ところが長くはない商店街を往復したのだが見当たらない。すだれ屋のおじさんに聞けばなくなったという。どうやら個人が運営していたようである。その収納物は4・5軒先の呉服屋さんが預かり、一部を店の中に展示しているという。写真はその呉服屋さんのショーウィンドウである。

店内には人がいなかったので声をかけると年配の店主が現れて「どうぞ見て下さい。」いまは東京汐留でパレードがあるので、衣装や道具の多くを発送していて少ないということである。パンフレットを頂戴した。

唐人踊りは藤堂藩2代目の藤堂高次が、各町に費用を与え、各町独自の形態で津八幡宮の祭礼に参加させたのが始まりであるらしい。分部町は南蛮衣装でもって参加したらしい。その後「朝鮮通信使」を手本にして現在の衣装・旗・楽器などが決ったようである。写真で見るようにその衣装は中国・朝鮮・南蛮をミックスした独特のものである。

朝鮮通信使は江戸期に将軍の代替わりや嫡子誕生の折に李氏朝鮮国から派遣された総勢500人にのぼる一大外交使節団である。これが対馬から下関を経て大阪に上陸し、東海道を下って江戸に行く。街道にはこの大イベントを見物するために多勢が集まった。

津は東海道からは外れているし、東海道53次のうちの四日市や桑名は海路があるために通信使一行は通らなかったようであるから、分部町の町民は草津か名古屋かへ出かけて見物したのであろうか。ともかく異国の珍しい衣装を見て「唐人踊り」を完成したのであろう。



分部町を東に進むと寒松院がある。ここは藤堂家歴代の墓地である。写真で見るように大寺ではない。土塀すらなく生垣である。

もとは藤堂家の菩提寺であるから寺領として400石が与えられ、18の末寺を持つ大きな寺であったようであるが、戦災ですべての建物は焼失した。堀も埋め立てられて写真の道路になった。と案内板にあった。



寺の裏(北側)には津藩の支藩であった久居藩(ひさい)の歴代藩主の墓がある。本家に遠慮してやや小ぶりの五輪塔であるが人の背丈の2倍はありそうな大きなものが一列に並んでいる。



藤堂高虎の五輪塔である。さすがに立派である。これだけ大きなものはざらにはない。津藩10代の藩主の墓が境内の西側に並んでいる。

寒松院の本堂であるが、次の写真のように実に小さい。村のお堂に近い。

空襲で灰燼に帰した跡には五輪塔だけが残ったのである。五輪塔自体も無傷ではなかった。被弾して破損した塔もあった。空爆を受けてそのまま立っていたとも思えないから五輪塔は崩れてごろごろとしていたのかも知れない。

まずは墓である五輪塔をきちんと立て直し、さて寺の再建となったのであろうが、菩提寺の哀しさである。藤堂家に復興する資金がなければ再建できない。

文化財として県なり市なりが援助することもできたかとも思えるが、文化財の対象たる寺院が焼失していては、難しかったのか。藤堂家個人の墓であるとなれば税金を使うこともできないし。


司馬さんは「街道をゆく」の26巻「嵯峨散歩」の中で、 親しかった中国学者の藤堂明保氏(故人)が、「明治維新というのはすごい革命ですな」といわれたことについて書かれている。

『藤堂さんの家は伊賀上野城代だったが、維新後、何一つ家に残るものはなかったという。大名・社寺というような領主階層の特権が、ひとひらの法令で一空に帰したのである。』

維新後の藤堂家が菩提寺の面倒をみることは難しかったに違いない。


津市は何もなく隙間の多い町であると思っていたが、その原因は空襲によって多くのものを失ったからであることがわかった。

しかし戦災にあった都市は多くあったし、それなりの復興をしてきたのである。大阪城は立替えられたし、同じく戦災にあった大須観音は再建されて大須の町は賑わっているようである。

津ばかりが、なぜ津観音が廃れ、門前町である大門町がさびれているのか。貧弱な津城としてしか残せなかったのか。

写真は阿古木橋から岩田川の河口を撮る。

津の中心部は北に流れる安濃川と南に流れる岩田川に挟まれた区域である。ここは「橋内」と呼ばれ、津城を中心にした城下町が形成されていた。安濃川より北は「橋北」であり津駅はここにある。岩田川を渡れば「橋南」である。下町といったところか。

「橋南」を東に向かって歩いている。東は海(伊勢湾)である。津市内には海水浴場がいくつかある。市の中心部から15分も歩けば海水浴ができるという県庁所在地は珍しいのではなかろうか。

阿漕塚というのがあった。津市観光協会の案内板によると、以下の話であるらしい。

昔、阿漕浦が神宮御用の禁漁区であったころ、病気の母親をかかえた平治という漁夫が、病に効くという魚の矢柄(やがら)を密漁して、母親に食べさせていた。ある日平治と書いてある笠を浜に置き忘れたために露見し、平治は簀巻きにされて阿漕浦沖合いに投げ込まれた。その後夜な夜なこの恨みが沖で網を引く音となって聞こえるので塚を建てて供養した。

とまあ親孝行譚と慰霊の話である。これは江戸期に脚色された話のようである。より古くは能(謡曲)に「阿漕」がある。それは、

旅の僧が伊勢参宮の折に、年老いた漁夫と出会い、密漁をして沖に沈められた物語を聞く。この老人こそが平治の亡霊であり、漁労(殺生である)の罪と、禁漁の罪への救済と供養を頼むという筋であるらしい。


辞書で「あこぎ」を引くと「飽くことのない欲張り。三重県津市の地名の阿漕が浦。たびたび密漁を重ねていた漁夫が捕らえられた伝説から。」とある。

どうも平治の孝行話ができる前に「あこぎ」の言葉は生まれたようである。だいたいが母親一人に魚を食べさせるために「網を引く」というのはやりすぎではないか。多くの魚や海老・たこを獲って売っていたからこそ、このような意味が「あこぎ」にこめられたのではなかろうか。勝手に思うだけだが。

「まっぷ」にはないが、その阿漕浦を見たくなったので、海に向かっている。


阿漕浦にはヨットハーバーと海浜公園があった。

公園は交通公園とでもいうのであろうか、道路や信号があり、標識も立てられている。子供たちは車の替わりに4輪の自転車で道路を縦横無尽に走り回っている。


阿漕浦は思っていたよりきれいであった。海は伊勢湾である。

真東には遠く知多半島があるはずであるが、ここからは見えない。あいだにひとつとして島がないからきれいな水平線である。


ここで阿漕の平治は魚を獲り、その沖に沈められたのか。

海はおだやかである。小波が寄せては引き、寄せては引きの繰り返しをしている。市内に見るべき物を残していない津市としては、この海を守ることが第一であるように思われた。


阿漕浦から南下して結城神社に行った。南北朝時代に南朝方の忠臣であった結城宗広が祀られている。

結城氏は奥州白河の名門豪族である。北畠親房のように特に伊勢の地とは関係があるわけではない。

1336年に足利尊氏は京に幕府を開き、後醍醐天皇は吉野にあった。

1337年、奥州を地盤とする北畠顕家・結城宗広軍は京へ向けて出陣し鎌倉を占拠したが、1338年からは敗色が強くなる。5月北畠顕家が高師直軍に敗れて戦死。7月新田義貞が越前で戦死。


同年、結城宗広は北畠親房らとともに奥州勢を味方につけようと、伊勢大湊より船出するが暴風雨に遭遇して安濃津に漂着。この地で死去する。

この縁でここに結城神社があるということらしい。

写真は伊勢街道である。街道であったことを偲ばせるのはこの場所だけであるようだ。

うなぎの蒲焼である。2:00を回っていたがちょうど小ぎれいな鰻屋を見つけた。蒲焼を食べるのが目的のひとつでもあったので、特上の鰻丼を注文した。

津市は人口の割合からは全国で一番鰻屋が多いそうである。特上を頼んだことでもあるし、期待して待っていた。

ところがいけない。調理場で調理人と洗い場の店員とが大声でふざけ合い始めた。ビールを飲んで待っていようと声をかけるが、聞いてくれない。ようやく丼が出てきた際にビールを注文し、鰻をアテにしながら飲んだが、鰻は焦げが強くてうまくない。口の中で焦げがじゃりじゃりする。

半分残して店を出た。


幹線の国道23号線に出た。ここから北に向き、市の中心部に戻る。

向こうに見える12階建てのビルは百五銀行の本店である。銀行本店の割にはマンションか病院のごとき軽い建物である。

このビルが商業ビルとしては津で最大ではなかろうか。空がやけに広く見えるのはビルが低い上に密集していないからである。お陰で町が明るいのであるが、県庁所在地としてはさびしい。


津城跡に着いた。左の石垣は本丸である。道路はもとは内堀であったが埋め立てられている。



津城本丸跡は「お城公園」になっている。建物といえば次図の三重櫓があるだけであるが、昔どおりに復元したものではないらしい。

公園に入ると津城および城下町についての説明板があった。縄張り図を見るとさすがに32万石の大名の城である。北は安濃川近く、南は岩田川まで外堀を巡らし、中に内堀を掘って「回」字型をしている。

現在の道路や建物が赤線で記されてあるが、まあ大胆に城を潰したことである。外堀は完全に埋め立てられている。内堀も9割方は無くなっていて、西の丸の前がわずかに残されているだけである。この堀の前には道路を挟んで津市役所があるから残したという感じである。

津城は平時の城であり、一朝事あれば伊賀上野城に籠もるという考えであったらしい。よって石垣が極めて低い平城である。石垣が低く城外との高低差も無かったようであるから埋め立てが容易であったのだろうか。国道23号線は城の上を通り、元の藩校であった有造館はNTTになっている。

本丸(堀なし)が公園に、西の丸が庭園(一部堀あり)になって残っているだけである。



公園入り口にある三重櫓であるが、何もかも壊し、堀を埋めた後で、申し訳程度に建てたという感じである。

とにかく車道のすぐ横に櫓があっては趣も何もない。やはり堀の向こうに石垣があり、櫓が聳えていなければ。




公園内の隅に藤堂高虎像があった。身長が180cmを超える偉丈夫であったという。知略すぐれ名築城家であった。

高虎が築いた城には、宇和島城・今治城・伊賀上野城・津城、修築した城には伏見城・江戸城・大阪城・二条城・篠山城などなど多くがある。

これらどれもが相当な規模で残されている(宇和島・今治の2つは見たことがないが)のに、居城であったこの津城の貧相な残り方である。

銅像の兜は伊賀上野城にあるそうである。津は高虎についての何も残していないように思われる。空襲で焼けたためか。勘ぐれば藤堂家は領主として好かれていなかったのかとも思うほどである。


わずかに残る堀である。石垣はかように低い。



残った堀の前には津市役所がある。手前は「お城西公園」で、元の西の丸があった場所である。

市役所に3枚の横断幕が吊り下げられている。一番上は「平成18年1月1日 新・津市 誕生」とある。二番目の幕は「全日本選手権 津競艇」である。三番目はよく覚えていないが、海上から中部国際空港へアクセスしている「津なぎさまち」の幕であったかと思う。

津競艇場は阿漕浦の南端にある。空港アクセスのターミナルは阿漕浦の北端にあるヨットハーバーから岩田川を挟んだ対岸にある。

津市にとって阿漕浦はかけがえのない宝物であるように思われる。その北にターミナルがあり、南に競艇場があるのである。阿漕浦がきれいなままで保たれるのかやや不安になる。



安濃川を渡って津駅に向かう。

川には白鷺がいる。向こうは海である。

空が広く隙間が目立つ津市であった。


行く先の目次... 前頁... 次頁... 津市街...      執筆:坂本 正治