大和青垣・龍王山

    No.40.....2005年11月5日(土曜)


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10月の土曜日曜の天気は悪かった。朝の天気予報では、九州を除いて晴天だが明日は雨になる、とのことであった。

「まっぷ」をめくって天理市の石上神宮の東にある大国見山を登るつもりだった。布留川沿いに登山道があり、道中は滝を見、石仏や磨崖仏を見ることができる。名水を飲むこともできそうである。 大国見山は498mの高さであるが、足にやさしい登山道というのがなによりである。

天理へ行くには、近鉄桜井駅で下車し、隣のJR桜井駅から天理まで行けばよい。近鉄桜井駅の改札口を出ると、「てくてくまっぷ」の「山の辺の道」と「多武峰・飛鳥の里」が置いてあった。「山の辺の道」の裏面は「竜王山展望コース」である。


山の辺の道B日目を歩いたときに、いつかは龍王山に登ってみたいと思ったので、「竜王山展望コース」の「まっぷ」を頂戴し、ポケットにしまった。

JR桜井駅で天理までのキップ(230円)を買って、いったんはプラットホームに降りたのだが、20分ほど待たねばならなかった。ここで気が変わった。

晴天ではあるが、三輪山を見るとやや霞んで見える。水蒸気が多い。「まっぷ」には、「大国見山からの見晴らしは抜群。キツイがそれだけのことあり。」とあったがおそらくこの天候では遠くを見晴らすことは難しいだろう。同じことならより高い龍王山(586m)に登ろうと決めた。


JRの改札口を出ようとしたら、乗車賃を返してくれるという。JRは親切である。

近鉄桜井駅横にコンビニがあったはずなので、弁当を買いにいったが既に店は無くなっていた。少し向こうのローソンに行き、お茶と「おにぎり弁当」を買ってきた。龍王山頂で食べるつもりである。霞んでいて見晴らしが悪くても、青空の下で弁当を食べることができればよいではないか。

駅前に戻ってバスに乗った。バスは62系統といって、国道169号線を走って天理駅に到る。「山の辺の道B日目」ではタクシーに乗って柳本まで行ったが料金は2000円を超えていたと思う。バスなら350円である。



バスが発車して停留所に止まるにつれて、このバス路線はすごいコースであることがわかった。日本国誕生のコースなのである。

図は長岳寺横にあった案内地図であるが、ここに主なバスの停留所を赤丸でつけた。


バスのアナウンスはこうである。

「次は三輪明神参道口。XX最中の△△菓子舗はここでお降り下さい。」

大神神社(おおみわ)は日本で最古の神社である。写真は三輪山と大神神社の大鳥居。

「次は、箸中(はしなか)」

ここには卑弥呼の墓ではないかといわれている箸墓がある。(写真は撮り損ねた。なにしろバスの窓越しに撮っているので、バスがうまい具合に止まってくれるとは限らない)

「次は、相撲神社前。」

相撲神社のほうがとおりがよいが、相撲神社は穴師坐兵主(あなしにいますひょうず)神社の摂社である。

「次は、渋谷(しぶたに)。景行天皇陵前。」(写真)

景行天皇は記紀にいう第12代の天皇でヤマトタケル(日本武尊命)の父親であるとされている。

「次は、柳本。崇神天皇陵前。黒塚古墳はここでお降り下さい。」

天皇の名前に「神」がつく天皇は、神武天皇と崇神天皇しかいない。神武天皇については何も解明されておらず、文献から確定できるのは、この崇神天皇からである。


「上長岡(かみなんか)。長岳寺へはここでお降りください。」

ここで下車した。

このままバスに乗っていれば、どのようなアナウンスが聞けたのか。例えば「成願寺」バス停では、「衾田陵(ふすまた)、西山古墳へはここでお降り下さい。」というのであろうか。

「次は、大和神社(おおやまと)。大和神社へはここでお降り下さい。」というのであろうか。

今から1600〜1700年前の古代日本の風景が、このバス路線沿いにあったのである。


東に向いて長岳寺へ歩く。向こうの山が龍王山(竜王山)である。


この道は山の辺の道である。山の辺の道 A日目で帰りに通り、山の辺の道 B日目でスタートした道である。


柿畑がある。収穫のピークは過ぎているようだ。木に残った実は熟しているか、水分が抜けて皮が固そうにみえる。


龍王山への道標があった。ここで山の辺の道を外れ、いよいよ龍王山頂を目差す。4.0kmとあるから2時間もあれば登ることができるだろう。


飛鳥 A日目で橿原市の「増田岩船」を訪ねたとき、松本清張さんの「火の路」という小説のことを思い出したが、たしかこの本の中に「龍王山古墳群」のことが書かれてあったはずである。盗掘者が古墳で盗掘作業中に落盤にあい命を落とすという場面があった。

(今日のテクテクから帰宅して、インターネットで「火の路」(文庫本・上下2巻)を注文し、再読したが、やはりそうであった。)


まだ道は緩やかである。車も通れるようである。

「まっぷ」によれば、龍王山古墳群は6〜8世紀にかけての古墳である。円墳と横穴をあわせて約600基があり、その半数は未開口であるらしい。

未開口の古墳が多いのは、@王族の墓ではないので貴重な副葬品があるとも思われず、盗掘が少なかった。A風化が激しく落盤の危険が高いので、盗掘者も躊躇した。B崇神天皇陵・景行天皇陵・箸墓・黒塚古墳といった大規模古墳に比べれば、研究価値がないとして調査されていない。ということだろうか。


ようやく車が通れない細道となるが、なお緩やかな道である。

それにしても600基の古墳の数は多い。高貴寺と近つ飛鳥で訪ねた「一須賀古墳群」は約100基であった。柏原市・安堂付近で訪れた「高井田横穴古墳群」は200基であった。

清張さんは、龍王山古墳群について書かれた章には「死者の谷」とつけられていたが、「まっぷ」には「お墓の団地のよう」と書いてある。



案内板があった。古墳群とはどのようなものであろうか。「一須賀古墳群」や「高井田横穴古墳群」のように。道を歩けばそこここに古墳を見ることができるのであろうか。


道は急に悪くなる。石がごろごろしているし、湧き水でぬかるんだところもある。

一須賀古墳群を歩いていて思ったのだが、たぶん古墳(当時は墓であるが)の立地は水はけのよいところが第一であったのではなかろうか。山ひだの凹部には雨水や湧き水が流れこんでくるから適さない。古墳は南面した山ひだの凸部にある、と思われた。

石につまずかないように下を見つつ、左右に目をやって古墳があるかと探すのだが、見当たらない。道の左右は雑木や草が繁っているだけである。


この登山道沿いに古墳が連続しているとは限らない。道を離れてブッシュを掻き分け、道なき道を歩かねば古墳は見つけられないのかもしれない。

例えば写真の場所である。登山道ではないが誰かが通った形跡がある。道を逸れてみようかとも思ったが、片手には弁当をいれたローソンのビニール袋を下げ、片手にはポンコツデジカメを握っている。笹や小枝を払いながら進むことはしんどいであろう。


1つくらいは登山道沿いにあってもよかろうに。と思って登っていたら、道の左手の1mほどの高さに発見した。

岩は天井の石のようで、穴を覗きこむと下に石室がある。むろん何も残っていない。



今度は右手にあった。道から4〜5m離れ、2mほどの高さのところにある。ブッシュが生えていないからわかったのであるが、ブッシュが繁っていると見つけることはむずかしい。

登ってみると、天井が陥没している。あまり近づかないほうがよい。穴に近づけば再度の陥没となる危険がある。「火の路」の盗掘者の運命と同じことになる。

陥没の危険がないと思われる位置から見下ろすと、石室の高さは3mほどもあるようだった。小さい名も無き古墳とはいえ、これを作ることは大作業である。一般庶民が納まる墓ではない。




土地の有力者か官吏でないと無理であろう。山の辺の道 B日目で柿本人麻呂の

  衾道(ふすまじ)を      引手(ひきて)の山に
  妹(いも)を置きて     山路をゆけば
  生けりともなし

の 歌碑を見たが、引手山はこの龍王山のことであるらしい。人麻呂の妻もこのような古墳に入っているのであろう。

写真は蛇いちご(?)。死者への供物である。


登山道からは結局3基の古墳を認めることができただけであった。ここからは勾配が急になり、何度も立ち止まって息を入れた。

後日、宅配便で本が届いたので、「火の路」を再読したのであるが、この本のテーマは2つあった。

@飛鳥の奇妙な石(酒船石・猿石・亀石・二面石・益田岩船など)は、斉明がゾロアスター教の司祭設備を造ろうとして頓挫したものであるという清張説を打ち出すもので、このテーマの主人公は高須通子という30才前の大学助手である。

Aもうひとつは、若いころは優秀な歴史学者であった60才前の男が、学会を追放され、古墳の埋蔵物を盗掘させ、これに手を加えて美術品の贋作を作るまでに転落していった謎を追う。その男は海津信六という。龍王山古墳群はこちらのテーマのときに出てくるのであった。


龍王山古墳群を抜けてからは急峻となった。何度も立ち止まって息をついだ。

だがゴールはあるものである。山上近くの車道にたどりついた。山の辺の道 B日目は柳本をスタートして石上神宮に行き、天理市内に下ったのであるが、スタート地点の柳本まではタクシーに乗った。このときの運転手さんとの会話で龍王山へは車で登ることができることを知っていた。

これがその車道であろう。この地点から龍王山頂へは4〜500m程度の道のりであるようだ。


すぐ藤井田龍王社という小さな祠があった。別の場所にもうひとつ柳本龍王社があるらしい。龍王社が山頂近くにあるので龍王山と名がついたようである。

龍王社であるから祠の前には小さな池が穿ってあり、傍には水道の蛇口もあった。ただし「飲料用ではありません」とある。

雨は天より降る。水請いをするには、より天 に近い高所で行うのが正しい。そのために竜王社はだいたいが山上近くの水の出ずる場所にある。

同じ水の神さんの水分神社(みくまり)と竜王社はどちらが古いのであろうか。「龍」という文字自体が中国(隋・唐)からやってきた字である。それは仏教伝来時ないしはその後のことであろう。さすれば水分神社のほうが古いのか。

どうでもよいことを考えながら龍王山頂をめざす。

山頂に着いた。龍王山の標高は586mである。大和青垣というのは、その名のとおり奈良盆地を取り巻く、比較的でこぼこのない平らな山並みを指す。

盆地の東側の青垣の高い山は 、南から順に竜門岳(904m)→音羽山(852m)→三輪山(467m)・巻向山(567m)→龍王山(586m)→高峰山(633m)→城山(529m)→高円山(432m)→若草山(342m)といったところである。(奈良の山々地図

音羽山は高いが、奈良盆地の南部にある飛鳥を見下ろす位置にある。龍王山は盆地の南北の中央に位置しているから、ここから奈良盆地全体が見渡せるはずである。楽しみだ。

(次図)写真は真西からやや南の方向。中央少し右に二上山がある。目を手前の平地に戻すと柳本の町である。さらに視線を下に移すと、手前の山裾には崇神天皇陵が見える。その左には景行天皇陵が半分見える。




(次図)真西から南東方角を見ると、中央の平地部分に箸墓が小島のように浮いている。その右上には(霞んでいるが)耳成山があり、その左上には畝傍山がかすかに見える。その遠くには葛城山がある。







すごいなあ。この地こそが日本という国が生まれ出でたその場所なのである。

ローソンで買ってきた「おにぎり弁当」(399円)を食べた。

こうして高い位置から古墳を俯瞰すると、箸墓の存在は比類がないように思える。 崇神天皇陵や景行天皇陵は規模は大きいが、元は龍王山の端山部分を切り取り、分離して陵としたものである。

しかし箸墓は違う。平地に土を盛り上げて作ったものである。その造営は大変であったろう。「昼は人が造り、夜は神が造った」陵なのである。その葺き石は二上山の向こうの大阪山から手渡しで運ばれたという。

巨大な崇神天皇陵の造営に比べて3倍5倍の労働力を必要としたに違いない。




山を下る。

思えば大和盆地は女性の地である。箸墓は倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の陵墓である。百襲姫は卑弥呼ではないかともいわれている。

飛鳥の地では推古天皇が、斉明(皇極)天皇が女帝であった。藤原京では持統天皇・元明天皇の女帝が出て、平城京では元明天皇・元正天皇・孝謙(称徳)天皇あるいは光明皇后といった女性がトップに立つのである。

古墳時代から奈良期の約200年間は女系の時代であった。それゆえかこの盆地は母親の胎内のように思えて、大和は実に懐かしい。

母親の子供に対する思い入れは、男にはとうていかなわないものがある。

赤子がカゼをひいて鼻を詰まらせると鼻に口を当てて鼻汁を吸引するのである。便秘であるとわかれば肛門をさすって排便を促がすのである。深夜に熱が出ればいかなる障害があっても救急病院に運びこむのである。

(今、死んだ家内のことを思い出しているのであるが)子供が疾病して入院したときには泣きながら連絡してくるのである。






南に三輪山が見える。

(写真左の大きな丸い山は巻向山(まきむく) (567m)。中央右よりの小枝がかかっている山が三輪山(467m)。)





龍王山への道は3つあるようである。最も楽なのは山頂手前まで来ていた車道である。これは天理ダムから天理市に通じているようである。登ってきたのは「崇神ルート」であるがこれはややしんどい箇所もあった。

降りは「長岳寺ルート」をとる。「まっぷ」によれば「距離は短いがややハード」とある。

「長岳寺ルート」は「崇神ルート」ほどには整備されていないようである。坂がきついためにこのコースは人気がないのか、道は細くブッシュが道を覆っている箇所もある。

少し降れば「長岳寺・奥の院」があるはずである。地図に卍のマークが示されている。龍王山のふもとにある長岳寺から奥の院の卍マークまでは3.3kmほどの距離である。




室生寺の奥の院は室生寺から山道を歩き、最後に700段とかいわれる石段を喘ぎながら登ったところにあった。今日は仮に急坂があったとしても下りであるから、喘ぐことはなかろう。

長岳寺の奥の院の建物はなかった。道から2mほど高いところに10坪ほどの平地があって、不動明王の石像があるだけである。

土地の一部分は石積みされていたから、昔は小さなお堂があったかに思われるが、今は草木が繁り、うかっとしていれば見過ごしてしまうかもしれない場所にある。

「まっぷ」によれば鎌倉期の石仏であるらしい。なるほど形もよく彫りも深い。だが7〜800年の間風雨に晒されてきたにしては原型をとどめすぎている感じである。鎌倉期の作というのはどうだろうか。






龍王山頂は、戦国期に地元の豪族の十市氏が築いた山城であったそうである。そこは南城と呼ばれ、1.3km先には北城もあったらしい。

予定では北城まで行くつもりだったが、山頂に登った時点で足が張っていた。いったんは北城に行きかけたが中止した。ひょっとして足が痛んで降れないかも、と用心したのである。



不安は現実のものとなった。坂は急であった。一歩足を下ろすたびに膝に響く。崇神ルートと異なり、このコースは山登りそのものを楽しむためのものであるようだ。山登りのシロートの私にとっては荷が重い道である。

途中に一服するためのベンチが据えてあった。ありがたい。座って足を揉む。

地図を仔細に見ると、この道のところどころに石仏があるらしい。上から順に不動(これはすでに見た)→不動と石箱仏→地蔵→地蔵、の4つがある。


石仏にたどり着くたびに休憩をすることにした。

写真は不動明王と石箱仏。石質にもよるが4〜500年も風雨に晒されていれば、写真のように風化するのではなかろうか。この不動に比べて奥の院の不動明王石像が新しいことはあきらかである。


膝が痛む。右足を下ろし、同じ位置に左足を下ろし、して降る。左右の足を交互に下ろすことができない。

またベンチがあった。腰掛てあたりを見るとドングリが落ちていた。

まだローソンのビニール袋を提げている。中にはおにぎりが入っていたプラスチックの空容器とお茶が入っていた空のペットボトル。 汗をかいたので上着を一枚脱ぎ、まるめてビニール袋に入れているから袋は丸く膨らんでいる。



ビニール袋を枕にしてベンチに寝ころがった。

仰向けになって見上げると空は青い。足は痛いし、お茶は飲み干した。いったいふもとまで降りることができるのであろうか。


うむう。すごい段差のある岩道である。ここばかりはロープが下げられていて、ロープを握って登るようだ。こちらは下りであるが、やはりロープがなければ岩盤に足を滑らせて転落しそうである。

急段差を降りてから写真を撮った。

「まっぷ」には記されていない石仏があった。地蔵であろう。

道は暗くなる。石が露出して歩きにくい。


地図にある地蔵仏があった。杉が植林されているからにはふもとに近いのではないか。「まっぷ」を見ると長岳寺へあと800mのところである。

木立が切れ、明るくなって、石仏を見つけた。「まっぷ」には地蔵さんと記されているが、これは地蔵ではないのではないか。坊主頭ではないし、錫杖をお持ちでないようだし。

足がつっぱる、膝が痛むといいいながらも、ともかくは里へ降ってきた。嬉しい。


柿木畑である。


長岳寺へ出た。

長岳寺の前には売店がある。天理市商工会が出す店である。店内には地元の果物・野菜が並べられている。

店先にはオデンの角鍋も置いてあるが、今日は煮ていないようだ。「チジミ」の貼り紙もある。天理はチジミ(韓国お好み焼き)も名物なのか?

缶ビールを買った。店内にやや熟し過ぎて売り物にならない柿がザルに盛ってあって、無料である。 1つ頂戴して、柿をアテにしてビールを飲む。店の前に小道(山辺の道である)をはさんでベンチが置いてあるのである。

20分も腰掛けていたか。山辺の道をハイキングしたグループが何組も通りすぎていく。



(次図)さあ帰ろう。明日はもっと足が痛むだろうが、ともかくは龍王山に登ることができた。万歩計は14500歩だった。





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