大阪・島之内近辺

    No.41.....2005年12月11日(日曜)


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大阪が大都市になるのは秀吉が大阪城を築いて以来のことである。秀吉は大阪城を築いたとき、外堀として「東横堀川」を開削した。江戸期に入り、東西に通じる「長堀川」と「道頓堀川」、南北に通じる「西横堀川」が掘られ、大阪は運河が東西南北に通じる水の都となる。

この堀を通って全国各地の米・特産物が大阪に集められ、値決めされて、全国の消費地へ向けて送られた。大阪は天下の台所となったのである。

大阪市の地図をみると、中心部に碁盤目のようにきれに町割りされた一画があることに気づく。北は大川(旧淀川)、東は東横堀川、南は道頓堀川、西は西横堀川に囲まれた区画である。

この部分は東西に掘削された「長堀川」で北と南に分けられている。北部は「船場」であり、南部は「島之内」である。

大阪の堀川は図の青線・空色線が主なものだが、道頓堀と東横堀を除いて多くは埋め立てられてしまった。しかし、船場・島之内の区割りはいまなお健在である。平安京の条坊制1200年の歴史にはとても及ばないが、大阪も太閤時代の区割りを400年間守ってきているのである。

今日は島之内を囲んでいた堀跡を巡る。堀には区割りにしたがっていくつかの橋が架かっていたし、いまも架かっているので、橋を巡るといってもよい。


歩くコースは
  1. 御堂筋にある近鉄難波駅から、御堂筋を200mほど北上して(F)の道頓堀までいき、これを右折(東へ)して、道頓堀川に今も架かっている橋を見る。

  2. 東横堀川に突き当たると、左折して横堀を北上する。東横堀川はまだ健在であるので、江戸期に架けられた橋の名残があるはずである。

  3. 長堀川に至り、ここで左折して長堀通りを西に進む。長堀川は埋められてしまい、いまは大きな通りとなっているが、ここには末吉橋・長堀橋・三休橋・心斎橋といった、今でも大阪人には「交通情報」でお馴染みの橋名が残っている。

  4. 四ツ橋は今日訪れるメインの橋(跡)である。ここは西横堀川と長堀川が十字型に交差していた。道路の交差点は珍しくもないが、堀(運河)が十字に交差している所はざらにはない。ここから左折し道頓堀川まで南下する。

  5. 道頓堀川に沿って(F)へ戻り、「島之内」の一周が終わる。
写真は(F)の地点。御堂筋を北に向いている。立っているのは道頓堀川に架かる「道頓堀橋」であるが、車で通っていると橋とは気づかない。もっともこの橋は江戸期にはなかったようである。


(F)から右折すると道頓堀。写真右には肉屋の「はり重」がある、その向こう隣りは「松竹座」である。道の向こうには「かに道楽」のおなじみのカニの看板が見える。時刻は11:30。

今日は少し下調べをしている。インターネットで「大阪細見図」という古地図(複製)を注文していた。弘化2年(1845年)の大阪の地図である。

10日間ほど、折につけ地図を眺めていたのだが、ナカナカ面白い。

堀が克明に描かれ、すべての橋名が記されている。公の建物はピンク色で、神社は赤色で、寺は黄色で、町屋は白色で、地図に掲げるほどでもない村は緑色で区別されてある。

現在殷賑を極めているキタの「梅田」は黄色で「梅田・墓」と記されているだけである。ミナミの「難波」はやはり黄色で「千日・墓」あるいは緑色で「難波村」とあるにすぎない。




御堂筋から入ったときの初めての橋は戎橋(えびす)である。ここは若者が昼となく夜となくたむろし、道行く人に声をかけて、男女のかすかな出会いを期待する。「ひっかけ橋」とも呼ばれている。

星野阪神タイガースが優勝したときには、この橋から何百人という若者が道頓堀に飛び込んだ。

その戎橋は架け替え工事をしていた。まずは左半分を造り、ついで右半分を作るようである。橋幅が狭くなっているので、たむろする若者たちはいない。




「くいだおれ」のチンドン人形と並んで記念写真を撮っている。何人も順番を待っているのである。




「中座」がある。道頓堀には、戎橋から日本橋にかけて道頓堀五座といわれる芝居小屋があった。時代によって芝居小屋の盛衰があり、出し物も変化しているが、中座・角座・朝日座・浪花座(竹本座)・弁天座が有名である。

「古地図」によれば、戎橋南詰めから「大西座」「中座」「角座」「若太夫座」「竹田座」と記されている。この五座は隣り合わせに並んでいるから、それぞれが名を変えて残ってきたようである。

写真の中座である。江戸期には大歌舞伎の桧舞台の格式があったようであるが、浪速歌舞伎は廃れた。松竹が買収し、松竹新喜劇を演じていたが、それも閉館。2・3年前の工事中にガス爆発で燃え落ちた。このとき中座裏にある法善寺横町の飲み屋街も延焼したことは記憶にあたらしい。 いまは飲食ビルとして建て替えられている。


少し進むと行列がある。行列の向こうの白いビルは元の「角座」である。


この行列はいつものことである。角座の向かいに「大たこ」というタコ焼き屋の屋台がある。どういうわけかここのタコ焼きが大阪名物となってしまい、観光ガイドでは必ず紹介されている。道頓堀にやってきた観光客は行列に並んででもこれを買い求める。

たいしてうまくはないと思うが、まあ観光の記念だから。

このテクテクでは「大たこ」の左にある橋が目当てである。


太左衛門橋(だざえもん)。角座を開いた大坂太左衛門にちなむ橋であるが、簡略な造りで風情はない。

角座もスタートは歌舞伎小屋であったが、中座と同じく大正時代に松竹に買収され、松竹芸能(特に漫才)の演芸場となっていた。しかし吉本興業に押されて20年前に閉館。

カウス・ボタン、レッツゴー三匹、正司敏江・玲児、チャンバラトリオなどは松竹芸能ではなかったろうか、角座で酢昆布を食べながら観た記憶がある。


太左衛門橋から西を見る。向こうは戎橋。

戎橋まで道頓堀の両岸に遊歩道が完成しているが、遊歩道分だけ堀が狭まくなってしまった。大阪市は道頓堀をどんどん狭めて、ついには堀を無くしてしまうのではないか。

たぶんであるが、もとの道頓堀は、写真の遊歩道も堀であったのは当然として、さらに左右の岸にある建物も堀だったのではないか。「古地図」によれば道頓堀の川幅は写真に見るようなせせこましい川幅ではない。堂々とした大運河であったようである。


東向こうは相合(あいあう)橋。遊歩道の建設の真っ最中。


太左衛門橋を北に渡って、少し北上した。

筋の西側(左)に「高嶋」という小料理屋があるが、若いころの私は(フトコロ具合がよいときだけだが)ちょくちょくここで飲んだ。懐かしくて店の前にやってきたが、「移転します」の貼り紙があった。

「高嶋」の向かいの大きな建物は、元は「大和屋」で、江戸期から続いたミナミの格式ある料亭であった。(今のようにビルではなかった)

司馬さんが亡くなられた直後、多くの司馬遼太郎追悼の特集が組まれたが、そのなかに桂米朝さんが、「司馬先生も私も、いわゆるお座敷で飲むのが好きでして、晩年は主に南地の大和屋でした。」と書いておられた、ここで上方の伝承芸能についてよく語り合われたそうである。 その大和屋は廃業し、写真のビルも料亭であったが、ここも廃業したようであった。


引き返して、宗右衛門町を東に辿り、次の相合橋に。

橋を北から南へ渡る。橋は拡張されている。 相合橋の北詰めには、「盛り場を むかしに戻し はしひとつ」という句碑があった。

往時は、道頓堀の北岸の宗右衛門町にはお茶屋が並び、南岸には芝居小屋が並んでいた。船場あたりの商人は屋形船に乗って、ここへやってきて、お茶屋で料理を食べたあと、芝居見物をしたそうである。 屋形船に乗ることができない庶民は歩いて橋を渡ってやってきて、橋の上から往来する屋形船を見下ろしたり、あるいは夕暮れには橋の上で夕涼みをしたのであろう。

そういう風情を復活しようと、相合橋を拡張したのだろうが、実態は自転車置き場となっている。大阪人の行儀の悪さである。


道頓堀に戻って、堺筋へ向かう。向こうの直交する道路は堺筋である。

戎橋にある「かに道楽」は日本橋にも店を構えている。道頓堀の東西を押さえているわけだ。



南から北向きに見た日本橋(にっぽん)。車が走っているところが橋である。

堺筋は名のとおり泉州堺へ通じる重要な道である。「古地図」をみると、普通の橋は白色で描かれているが、特に重要な橋は黄色で塗ってある。黄色い橋は9つある。

まずは大川(旧淀川)に架かる@京橋、A天満橋、B天神橋、C難波橋である。京橋・天満・天神の3つは大阪城へ通じているので戦略上重要な橋とされたのであろう。難波橋は(当時はひと筋ずれているが)堺筋に通じる橋である。

堺筋を南下すると、長堀川に架かるD長堀橋、道頓堀川に架かるE日本橋が黄色である。難波橋→長堀橋→日本橋と黄色い橋はひと筋に繋がっているのを見れば、江戸期は堺筋が最も重要な道路であったことがわかる。

最後は東横堀川に架かる橋である。北からF高麗橋、G本町橋、H濃人橋の3つである。高麗橋は大阪城に通じる北端の道であり、本町橋は大阪城の追手門に通じる。(濃人橋が黄色であるわけはわからない)



たぶん黄色い橋は幕府(大阪城代)が管理する橋ではなかったろうか(推測)。心斎橋・淀屋橋・太左衛門橋といった人名ではないし、炭屋橋・瓦屋橋・木綿橋といった職業を表す名前でもない。

道頓堀は向こうの高速道路までである。そこから堀は高速道路に沿って北に向けて曲がる。

「コテ屋」の看板がある。左官道具を作るか、卸しているようだ。登録商標「二ツ井戸」というのがよい。

写真に見える高速道路の下には、「二ツ井戸」があったそうである。ここには井戸が2ツ並んでいた。一方の井戸は名水であり、遠くから貰い水にやってきたらしい。

二ツ井戸は今はもうないが、「コテ屋」のブランドとして残っているわけだ。



東横堀の1つ手前にある下大和橋(しもやまと)。これが道頓堀に架かる東端の橋となる。


下大和橋から東横堀を見ると、道頓堀川は左(北)に折れ曲がっていることがわかる。堀川が折れ曲がると東横堀川になる。


下大和橋を北に渡って東に進むと、上大和橋がある。 この橋を東に渡り、少し坂道を登ると高津宮に至る。

高津宮は以前に訪れたときは仁徳天皇のことだけしか思いが至らなかったが、あとで落語に「高津の富(籤)」があったことを思い出した。富くじの抽選の日には、この橋を渡って大勢が宮に集まったことだろう。

抽選は番号が書いてある木札を箱に入れておき、錐がついた棒で突き刺す。棒を引き上げると、先に突き刺さった木札があらわれてくる。一等賞大当たりである。桂米朝さんの落語でなかったか。


上大和橋から北を見る。向こうは瓦屋橋。

東横堀川である。この堀も往時よりだいぶと狭くなってしまったようである。堀を狭くして、空いたスペースに木が植えられ、遊歩道か小公園になっているようだ。

東横堀川の西側の道を北上している。ここは島之内2丁目である。

この道こそが東横堀川に面した道であり、写真の道の右側の建物はもともとは無かったように思われる。おそらくは幅広い横堀があり、岸は上図のように垂直ではなく石が階段状に積み上げられていたのではないか。

いまでも古い漁港に行くと船着場は石の階段になっているのを見ることがある。潮の干満によって水位が上下するから、岸が固定した高さであっては、人力による荷揚げ・荷積みに支障をきたす。どのような水位であってもスムーズな作業をするためには、岸が階段状になっていなければならない。

瓦屋橋。向こう(東)は瓦屋町である。名のとおり江戸期には瓦職人の町であった。

東横堀川に船が着いて荷揚げされた貨物は、まずは道路に積み上げられたようである。道路で荷を分けて、商家や作業場に運ぶ。つまりは道路は公道ではなく、一時倉庫であり、梱包し、梱包をほどく作業場であったらしい。

もっともこの道を維持し修理し、橋を架けたのは町方の力であるから、道は公道であり私的に占拠してはいけないという考えは生まれなかったのかも知れない。

その伝統が、橋の上の駐輪や大阪名物の不法駐車に引き継がれているのか。

古地図にはない東堀橋(ひがしぼり)があった。

東堀橋から九之助橋(きゅうのすけ)を見る。アーチ型をした鋼鉄の橋であるようだ。


ここは島之内1丁目となる。島之内は1丁目と2丁目だけである。この1丁が昔の1丁を表すのであれば、島之内の南北は2丁、すなわち約220mの長さであることになる。地図を見ると、島之内の東西は南北の3倍ほどの長さのようであるから、だいたい600mほどか。

筋や通りを見ると建物こそコンクリートであるが、往時の商家の家並みを想像することは難しくない。

九之助橋の西詰めに、珍しいことに大阪市が案内板を立てていた。これによれば、秀吉が東横堀を開削した直後にこの橋はできていたようだが、その名前のいわれは不明であるらしい。

説明文の下に、大正15年(1926)に架け替えられた橋の設計図が掲げてあった。図がそれである。現在の橋はこの大正期の橋の原型を留めるように改修しているそうである。

アーチの両側に橋脚が4本ある。そこから岸に向かっては階段状になっている。上図の現在の橋はアーチ部分だけがあるようである。橋脚部分は埋め立てられて遊歩道になり、両岸の階段状部分も埋め立てられてビルが建ったという推測は当たっているようである。


九之助橋西詰めから北西方向を見る。案内板には「九之助橋西詰北側には、住友家の銅吹所があり、鋳物屋・鍛冶屋などの工業の町であった。」ともある。

この方向がそれであるが、どのあたりに住友の銅吹所があったのか。(写真右端にある大きな白いピルがそうであると、あとでわかった)

九之助橋から末吉橋を見る。

九之助橋を東へ渡ったのは、デジカメの電池を買うためである。


九之助橋を東へ渡り、松屋町筋へ。

松屋町筋は玩具や駄菓子と人形の問屋の町である。

20年ほど前までは、駄菓子の卸問屋も数多くあったが、駄菓子屋がなくなった今ではほとんど消えた。玩具もそうである。

小売に転じた人形店だけが、残っている。

この時期は羽子板を店の前に並べているが、メインは桃の節句の雛人形である。3月が過ぎれば武者人形や鯉幟が並ぶ。

その後は季節の人形はない。あとは長寿を祝う「高砂」の老男女の人形とか「藤娘」といった季節には関係のない人形を並べる。

夏場は商いに敏い店では花火や昆虫採集器具を並べて夏場を過ごす。

15年ほど昔のことだが、松屋町に縁のある方にお願いして100本ほどのクラッカーを頂いた。長男が小学生のころである。小学校のテストで100点をもらってきたらクラッカーを1発鳴らして励まそうというつもりだったが、それは20発ほどで絶えた(親の根気が続かなかった)。そのあとは子供たちの誕生日のたびににパンパンパーンと派手に鳴らして使い切った思い出がある。


東に向いて空堀商店街。空堀(からぼり)は秀吉時代の大阪城の外堀であったという。写真向こう(東)を向いては上町台地に向かっての登り坂となる。登り坂であるから堀に水を溜めてはおけず、したがってもとから空堀であった。

大阪冬の陣の後、和議によって大阪城外堀は埋められた。このときついでに三の丸・二の丸の堀も埋められてしまい、大阪城が裸城になったのは有名な話である。この空堀も埋められ、今は商店街として残っている。

そのまま松屋町筋を北上し、ローソンで電池を買い、末吉橋の東詰めにやってきた。

末吉橋(すえよし)を東から西へ見る。この幅広い道路は「長堀通り」である。もとは「長堀川」である。大きな運河であった。


長堀の東端。ここで長堀川は南北の東横堀川と繋がっていた。

写真では左右が東横堀川、手前から向こうへ長堀川である。交差点の向こう(西)には安綿橋(やすわた)が架かっており、これが長堀の東端の橋であった。

長堀に沿って西へ歩こうとしたら、左手に明治期のものらしい古い建物が見えた。

. (九之助橋を東に渡らず、そのまま島之内を北に向っていれば、簡単にこの建物が見つかったはずだが、松屋町筋に出たために気づかなかった。重要なものを見落とすところだった)

ここが住友銅吹所跡であった。木造の建物は住友家のビリヤード場であったと案内板にある。それにしてもビリヤード場の後ろに聳えている大きなビルは何であるのか。

ずいぶん立派なビルである。南側の道からぐるリを一周してみることにした。だが南面と西面には建物の名前の表示は何もない。

北面へ回って、ここが住友家の旧本邸であったことを知った。ビルの北面には陳列窓が設けられていて、資料が展示してある。

写真は昭和初期の住友邸である。前の川は東横堀川。


江戸期の住友銅吹所の絵もある。東横堀に面したところが銅吹所で、600坪の規模であった。この奥(西)に600坪規模の住友本店および住友家本邸を構えたのが1690年のことである。

銅吹所では日本の銅の1/3を生産(精錬)したという。明治8年に住友本店は堂島に移り、9年には銅吹所の操業を止め、この地は本邸だけとなる。その折に建てたのが先のビリヤード場であったらしい。

その後大正期に本邸は京都に移り、この地は本店でも本邸でもなくなっている。住友家の私的な場所であるので、XXビルの表示がされていないのかと思っていたが、後で調べると三井住友銀行の事務センターになっているらしい。


長堀に戻る。

長堀川は昭和35年から埋め立てが始まり、昭和48年に完成したという。今は地上は長堀通り(国道308号線)になり、その下には地下駐車場あるいは地下商店街になり、さらにその下には地下鉄(長堀鶴見緑地線)が走っている。

道路を見ている限りではここに大きな堀川が流れていたことは想像もできないが、今から30年40年前には確かに堀川があったのである。

長堀川が東から西へ流れていくスタート地点のここには安綿橋(やすわた)があったが、この橋は1686年、安井九兵衛と綿屋某が共同で架けたものである。当時は21間半(42.6m)、幅1間半(3m)の長い橋であった。


長堀の埋め立ては大規模な工事であったらしい。長堀通りには往時架かっていた橋の説明板がところどころに立ててあり、大いに参考になった。

今日は西横堀川があった四ツ橋通りまで行くのであるが、説明図を見ると、東の安綿橋から西横堀川西の吉野屋橋(よしのや)まで11本の橋があったらしい。以下、安綿橋を1番として順次写真を掲げる。


2番。板屋橋(いたや)。当時の長さは不明、幅1間半(3m)。昭和3年に長さ29.7m、幅9.1mとある。

3番。長堀橋。古地図では黄色で示されているので重要な橋であり、また橋幅も広かったと思われるが説明板はなかった。

道路は堺筋である。向こうは北。北上すると難波橋にでる。難波橋の南詰めは北浜である。緒方洪庵の適塾があるのは北浜3丁目。

手前に南下すると日本橋に通じる。


埋められた長堀川の一部(長堀橋から心斎橋の間)は地下商店街になっている。名前を「クリスタ長堀」という。地下に降りてみる。

クリスタ長堀は単独の地下商店街としては日本最大の規模である。1997年に大阪市も出資した第三セクターである。資本金は19億円(うち大阪市出資分は8億円)。商店街は長さ730m、幅11m。店舗数104店。駐車場は1030台が収容できる。

事業費は440億円あまりである。資本金と国の補助金および入店保証金に加えて300億円ほどの借入金をもって開業した。しかし開業以来営業損益は赤字が続き、昨年(2004年)に債務超過となって破綻した。

開業当初、見物にきたことがある。心斎橋に近いところを歩いたので、店舗は高級感あふれ、ちょっと店に入りがたい感じであった。(長堀橋に近いほうはあまり客足が伸びなかったようである)


地上にでる。4番。藤中橋(ふじなか)。長堀橋の西隣の筋に架かっていた橋である。(古地図には載っていないので、江戸期にはなかったようだ)


その西隣の筋の、5番目の中橋(なか)。

隣の6番目の三休橋(さんきゅう)。

(気がついたが、昔、橋が架かっていた筋には必ず交通信号がある。)

向こうの筋は丼池筋(どぶいけ)であるが、ここには橋は架かっていなかった。したがって手前から向こうに向かっての道はなく、交差点ではない。

丼池筋から北に長堀を渡ろうとすれば、西隣の心斎橋を渡るか、東隣の三休橋を渡るしかない。これは江戸期も今も同じである。

7番。心斎橋。心斎橋筋の名前は、京都伏見の商人岡田心斎が町を開いたことにちなむ。橋手前を南に下れば戎橋に通じる大阪随一の繁華街である。

写真の手前右(心斎橋南詰め東)にはソニータワーがある。


心斎橋の一部は歩道の左右に保存されている。

大阪の大商人は、岡田心斎のように京都からきた者が多い。住友本家ももとは京都の薬屋である。大阪に進出し銅精錬を基盤として豪商となった。大丸も元は京都の松屋呉服店である。心斎橋へ「丸に大」の字の商号で店を出し、のちの大丸百貨店となった。




御堂筋(国道25号線)。現在の御堂筋は大阪随一の堂々たるメインストリートである。

しかし古地図を見ると、東に心斎橋、西に佐野屋橋があるが御堂筋には橋は架かっていない。江戸期の御堂筋は道幅はさして広くはなかったのである。

御堂筋がこのような大道路になったのは、昭和12年(1937年)のことである。それまでの道幅はわずかに6mであったが、当時の大阪市長の関一(せき・はじめ)は幅44m、長さ4kmに拡張し、地下には地下鉄を開通させた。

この都市大改造計画はたいしたもので、道には銀杏を植え、道路沿いに建つビルは一律30mの高さに揃えられたという。

この交差点は「新橋」という。おそらくは御堂筋の拡幅工事をしたときに橋を架け、新橋と名づけたのであろう。8番目の橋である。




9番。佐野屋橋(さのや)。案内板によれば、当時の長さは17間半(32m)、幅1間半(2.8 m)とある。

長堀川の北岸、心斎橋と佐野屋橋の間には石屋が密集し、各地から集めた石や石灯籠・石鳥居・石臼などが山積され、石屋浜と呼ばれていたそうである。(江戸期のこの界隈の絵がクリスタ長堀の長堀橋下の壁面に拡大して飾られていた)

また西には大坂屋銅吹所があり大坂屋の浜と呼ばれて、長堀川東端の住友銅吹所とともに銅生産がさかんであった、との説明もあった。






10番。四ツ橋(よつ)である。写真の左右(東西)方向の道は長堀通り。左下隅から右(南北)方向の道は四ツ橋筋である。

四ツ橋筋は西横堀川を埋め立てて作った新しい道路である(昭和39年から着工し昭和46年に完成している)。

江戸期には東西に伸びる長堀川と南北に伸びる西横堀川がここで交差していた。道路が十字路になっているのは当たり前だが、運河が十字に交差しているのは珍しい。古地図を見ても堀が交差しているのはここしかない。


この交差した堀には4つの橋が架かっていた。現在の地図に記せば左のごとくである。西横堀の東には炭屋橋(すみや)、西には吉野屋橋(よしのや)、長堀川の北には上繋橋(かみつなぎ)、南には下繋橋(しもつなぎ)である。

(四ツ橋筋=西横堀川だと思い込んでいたが、西横堀川は高速道路(地図の青いところ)の位置にあったとの指摘があった。西横堀川はもっと運河の幅が広かったようである。となると炭屋橋は高速のさらに右(東)に架かっていたらしい)

十字路に架けられた歩道橋のようなものである。歩道橋から道路を見下ろしても面白くもなんともないし、排気ガスで気分が悪くなるだけだが、堀にかかる四ツ橋は風情があったったであろう。

橋上に立って見下ろすと、長堀川や西横堀川に遊興の屋形船、大阪の堀川の運送の独占権をもつ上荷船・茶船が東へ西へ、南へ北へ往き交っているのである。

夏ともなれば橋の上は絶好の夕涼みの場所となる。

  涼しさに
  四ツ橋を四つ
  わたりけり

という句碑が高速道路下にあった。4つの橋のどこからスタートしても橋を4つ渡れば、元の位置に戻れるわけである。

その四ツ橋の模型が道路の中央分離帯にあった。

もとの西横堀川である四ツ橋筋を南下し、道頓堀へ向かう。

古地図には四ツ橋の1つの下繋橋(しもつなぎ)を入れて、道頓堀までは4つの橋が描かれている。


古地図にあるミイケ橋のあった場所か。

手前から向こう(西)への道は旧の堀江(運河)であろう。

左右(南北)の西横堀川のこの場所には橋はなかったが、向こう岸は堀江によって南北を区切られていたために橋が架かっていた。信号の下あたりであろう。橋は単純に堀江橋という。


東を見ると、あれえ、ビルの屋上に自由の女神像らしきものが立っているではないか。なんということか。こういうセンスは、ホテルかパチンコ屋であろうと思って行ってみた。

そこは若者の町、アメ村であった。若者がたむろしている右の木立は三角公園である。

昔は人通りも少なく、タコ焼き屋の屋台が出ている程度で、道路左側には小さい酒屋やかき氷屋があったと記憶している。

しかし当時はフォークソングが流行っていたので、三角公園に若者が集まり、ギターを鳴らしていた場面も覚えがある(ような、ないような)。 ともかく今は雑然とした派手な街になっている。


この歩道は木綿橋(もめん)が架かっていたところであろう。

四ツ橋筋の南向こうに変な形のビルがある。これは知らない。

道頓堀川に 架かるこの橋は、深里橋(ふかざと)である。古地図にはないから、四ツ橋筋を作ったときに出来たのか。

深里橋から道頓堀を西向きに撮る。

妙な形のビルは「リバープレイス」といって、大阪市が作ったコンサート施設であった。

若者の文化の発信拠点となるべく、設備はポップス・ロックのコンサートなどに対応する最新のシステムが導入されているという。


若者のホールであるリバープレイスから四ツ橋筋(左右)・道頓堀川を見下ろす。道頓堀の北岸には金屋橋(かなや)橋があったはずである(金屋橋は阪神高速の下に今もある、とメールを頂戴した)。

それにしても、大阪のミナミはすっかり若者の街になったらしい。アメ村なぞは25歳を超える人間は気恥ずかしくて歩けないであろうし、このリバープレイスもジーパン姿の若者ばかりである。


道頓堀の南岸には波吉橋(なみよし)があったはずである。

西道頓堀。

西横堀川から道頓堀に入った初めての橋は大黒橋(だいこく)である。

写真の煉瓦の橋が昔のもので、ここは階段があるので歩行者だけが渡ることができる。車は隣接した手前の鋼鉄の橋を走る。


大黒橋の上から東を向いて撮る。向こうの橋は新戎橋である。(古地図にはない)

戎橋は今宮戎(いまみやえびす)への参詣道であるから「戎」と名づけられたが、大黒橋は大黒神社(大国主神社)への参詣道であるために名づけられたらしい。

大黒神社がどこにあるのかは知らない。地下鉄四ツ橋線に「大国町」という駅があるから、そのあたりだろうか。



新戎橋を北向きに撮る。(古地図にはない)


御堂筋に出た。向こうには「はり重」「松竹座」が見える。


道頓堀を跨ぐ道頓堀橋を北へ渡る。 グリコの看板が見える。

これで島之内を囲むすべての橋ないし橋跡を全部見届けた。巡った橋は29。

万歩計は18400歩であった。


行く先の目次... 前頁... 次頁... 大阪市街... 大坂の堀川      執筆:坂本 正治