大阪・浪速区北部

    No.42.....2006年3月11日(土曜)


行く先の目次... 前頁... 次頁... 浪速区北部...


大阪市浪速区(なにわく)を歩いた。 司馬さんが少年期に通ったり、遊んだり、学んだりしたであろう場所である。

実は司馬さんの子供時代・学生時代について調べた本を手に入れた。「司馬遼太郎とその時代背景」(延吉 実 著)で「戦中篇」と「戦後篇」の2巻からなる。

司馬さんの子供時代の友達や、近所に住んでいた人にインタビューするなど、詳細に調べておられる(それでも不明なところは残るのであるが)。

これを読んで、私も司馬さんゆかりの地を訪ねてみようと思ったわけである。

地図上の番号は
  1. 上宮中学・高校(天王寺区)
  2. 生玉神社(天王寺区)
  3. 源聖寺坂(天王寺区)
  4. 日本橋公園(浪速区)
  5. 道具屋筋(中央区)
  6. 高島屋(中央区)
  7. 大阪府立体育館(浪速区)
  8. 鉄眼寺(浪速区)
  9. 難波八阪神社(浪速区)
  10. 難波養護学校(浪速区)
  11. 赤手拭い稲荷社(浪速区)
  12. 浪速公園(浪速区)
  13. 塩草小学校(浪速区)
  14. 鴎町公園(かもめまち)(浪速区)
  15. 今宮戎神社(浪速区)
  16. 広田神社(浪速区)


司馬さんが通った上宮高校・中学をスタートとする。上宮中学のことはかつて書いた。(大阪・上町筋

司馬さんの受けた教育歴は
  1. 1923年、浪速区西神田で生まれ(上記「司馬遼太郎とその時代」によれば違うらしいが)
  2. 1930年、難波塩草尋常小学校入学
  3. 1936年、上宮中学入学
  4. 1942年、大阪外語学校入学
  5. 1944年、陸軍四平戦車学校入学(入隊)
である。昭和11年に司馬さんは上宮中学に進学した。学校は上町台地の上にある。



長男が中学に進学する際に、上宮中学と隣にある清風中学のどちらにするか(合格したほうにしかいけないのだから選択の余地はなかったのだが)を決めるために、死んだ家内が学校説明会にいってきて、「校長先生は司馬遼太郎のことばかりいうてはったわ。」といっていた。

上宮中学は司馬さんが卒業生であることが自慢である。しかし司馬さんは学校の授業は苦手であったらしい。

中学1年1学期の英語の授業で、New Yorkの地名の意味を尋ねたら、教師にこっぴどくしかられた。授業妨害をしていると思われたらしい。次のように書かれている。

『まったく不愉快な思い出である。この日、家へ帰る途中、小さな市立図書館に寄って、司書の人に必要な本を出してもらって読むと、簡単にわかった。・・・・・図書館にゆけば簡単にわかることが、学校では教師とのあいだで感情問題になってしまう。私の学校ぎらいと図書館好きはこのときからはじまった。』(「風塵抄」の「独学のすすめ」の章)


上宮高校前の道をそのまま西へ進むと、すぐに上町筋に出る。信号の向こうは、もとの大阪外大(旧の大阪外語)である。年譜によると司馬さんはモンゴル語科を専攻し、ここで2年間学ばれている。

いまは国際交流センターになっていて、大小のホールとホテルがある。

学校は嫌いだったが、上町台地は好きであったらしい。戦後約40年たって、大阪城横にあった砲兵工廠の瓦礫が片付けられ、大阪城公園として整備され、環状線に大阪城公園駅が新設されたのは1984年のことらしい。司馬さんはこのとき「大阪城公園駅」という文を寄稿されている。

『私には、この地に対するやみがたき想いがある。この地とは、上町台といってもよく、大阪といってもよい。あるいはこの台地の向こうにひろがる海ともいえるし、その上にうかぶ雲ともいえる。さらにいえば、この地で営まれてきたひとびとのいのちへの愛しみともいえるかもしれない。』

と書かれている。

上町筋を北進する。上町筋には市電が通っていた。司馬さんの少年時代にも市電はあったろうから、上宮中学・大阪外語時代は徒歩で、ときには市電でこの筋を通って通学されたことであろう。

地図を見ると、司馬少年の住まいのあった浪速区塩草(旧・西神田町)は学校のほぼ真西(やや南寄りか)にある。上町台地を下る坂道は大阪・天王寺七坂 で歩いたが、古くは7つあった。(今は広い道ができている)司馬さんの通学路としては、源聖寺坂(げんしょうじ)か口縄坂(くちなわ)、当時あったのかどうかは不明だが学園坂(江戸期の古地図にはない)が考えられる。


生玉神社(生国魂神社が正式)横にある源聖寺坂に向かっている。向こうの赤いテントは「やまたけ精肉店」、向かいは近鉄百貨店(上六店)。


やまたけ精肉店のところで上町筋を左に折れると、生玉表門通り。生玉神社への参詣道である。



昔のレジャーは花見か潮干狩り、紅葉狩り、寺詣でか宮参りといったところだから、往時はこの通りも賑やかだったことだろうが今は静かなものである。

それでも生玉さんの夏祭りの日にはこの通りの両脇に屋台がずらりと並び、人ごみでごった返す。



生玉表門通りがさびれた原因のひとつは、生玉さんへの参詣道が谷町筋という大道路で遮断されてしまったからである。

谷町筋は道路幅40m(片側3車線・両側6車線)の南北へ通じる幹線道路のひとつなので交通量が多い。ために横断歩道はなく、写真のように歩道橋を上がり下りせねば生玉さんへ行くことができなくなってしまった。

私もこの歩道橋を渡る。




生国魂神社。神武天皇がヤマトに入らんとして難波津に上陸したとき、生島神・足島神を祀ったのが始まりであるらしい。

大阪・天王寺七坂 でもいったが、このあたりはラブホテルが乱立している。有数の神社があり、寺院が密集するこの地になぜ猥雑な建物が群れ建っているのか。悔しくも腹立たしくもあるのだが、どうも江戸期からの伝統であるらしい。

司馬さんが直木賞を受賞された1960年以前の小説は、時代物、大阪物のジャンルである。「竜馬がゆく」以降の長編小説のほとんどは読んでいるが、初期の時代物や大阪物(ユーモア物)は読んでいない。最近は初期の小説をネットで見つけると購入し読んでいるのだが、初期の小説には大阪が舞台になっているものが多い。



初期の短編小説の「難波村の仇討」の冒頭部分に、

『・・・そのお妙が、佐伯主税という、若い武士に、会ったその日から、生国魂の蓮池のそばにある出会茶屋で体をゆるしてしまった。』(「大坂侍」のうち)

と出てくる。どうも生玉さんの近所に「蓮池」があり、その周りには出会茶屋があったようである。今と同じである。ただし蓮池は今はない。

蓮池はどうなったのか。写真は生国魂神社の前の道であるが左側に結構広い生玉公園がある。道路より一段低くなっており、公園へは数段の石段を降って入る。ここが蓮池の跡であろうか。


道をそのまま南下すると、右手に小道がある。源聖寺坂に繋がる道である。「この先通り抜けぬけできません」「この先行き止まり」と2つも看板がでているのは、進入したもののUターンすることができないほど道幅が狭くなるからであろう。

近所の人が3人立ち話をしている。源聖寺坂の案内板の写真を撮ろうとしたら、一人のおばちゃんが他の2人に「写真撮るからどいたってや」と避けさせて、「わたしがモデルになったろか?」

それは願っていないことなので、私は文字どおり「それは願ってもないことです。」と答える。


ここから坂が始まる。源聖寺坂を司馬さんは「大阪八景」(「司馬遼太郎が考えたこと@」より)の1つにとりあげて次のように書かれている。

『奈良の町はずれに似ている。この物さびた風景が、大阪の中央にあるとは、これまた知るひとがすくないだろう。・・・・・江戸時代、船場の商家の若い手代たちが、人目をしのぶ恋をとげるために、この坂をのぼり、生玉の出逢茶屋へしのびやかに入った。とすれば恋の坂といえぬことはない。』

坂道の始まる左右に2つの寺が向かい合っている。左は銀山寺、右は齢延寺である。司馬さんはどちらの寺についても書かれている。



初期の時代小説(短編)の「庄兵衛稲荷」は大阪鰻谷に住む庄兵衛のエピソードを綴ったものであるが、この人物は実在していたのか、あるいは司馬さんがこしらえたものに真実味を出すためか、

『・・・・この庄兵衛をまつるホコラが、だれがいつの時代にたてたのか、いまでも大阪市天王寺区寺町の浄土宗銀山寺の境内にある。』

と書かれている。境内に入ることはできないようだから確かめることはできない。私は司馬さんの創作であろうと思うが、近松門左衛門の「心中宵庚申」のお千代・半兵衛の比翼塚があると、先ほどのおばちゃんがいた案内板に書いてあった。これは事実である。だが私は「心中宵庚申」を知らない。


右手にある齢延寺。司馬さんは「一杯のコーヒー」(「歴史の中の日本」のうち)であらまし次のように書かれている。

大阪外語の蒙古語科の同級生は15人であった。『みな「少年客気」の男どもで、どの男も、まだ少年期がつづいている、というところがあった。つまり山中峯太郎氏の冒険小説にあこがれ、自分もああいう主人公になってみたいと、正気で考えている連中であった。・・・生死を超越せ にゃならん。友人がいうので、その男にさそわれて、寺町の禅寺へ参禅に出かけたりした。』

その寺が齢延寺である。この文の結末は、外語2年生のときに心斎橋の喫茶店でコーヒーを飲んで、ゴビ砂漠にいくとコーヒーも飲めない、と思った。山中峯太郎的な冒険へのあこがれは終わっていたと知ったのである。


『私自身気づかぬままに、私の少年期はおわっていたのかもしれない。(もう蒙古にいくまい)早稲田の支那文学科に転じようとした。しかしそう思っている間に、18年12月の学徒出陣にひっかかってしまった。兵士として満蒙にいった。』

司馬さんは外語2年のときに、

『・・・・文学づいていて、いやもっと正直にいえば、小市民的な悦楽にあこがれるようになっていた。コーヒー、カフェー、映画、小説。』

と気持ちが変わるのである。この後、出征し、敗戦をむかえ、その後の司馬遼太郎の考え方の方向性が決定的に決るのであるが、この坂道を毎日登り下っていたたころは、まだ少年期のたよりない考えをもっていたに過ぎない。


源聖寺坂を下り切り、松屋町筋を西に渡った。振り返って写真を撮る。坂の左側には源聖寺があり、右側には金台寺がある。

坂の上は上町台地である。この松屋町筋との高低差はわずかに20〜30mしかないが、上町台地は大阪市街で唯一の高地であり、この松屋町筋は昔は難波津の渚であった。


司馬さんが上宮中学の5年間さらに大阪外語の2年間の通学の帰途、毎日立ち寄ったという市立図書館(御蔵跡図書館)の跡に向かっている。

松屋町筋のすぐ向こうに高速道路があるが、ここはもう中央区。少し南(左)iは浪速区である。

高速道路高架をくぐり、左折れし、ついで右折れすると、中央区と浪速区の境目になる。このあたりは履物屋が多い。向こう(西)突き当たりは難波(南海難波駅)。

途中で左(南)へ曲がると、向こう右手に小公園がある。これが司馬さんが毎日やってきた御蔵跡図書館の跡である。

私がこれまで読んだ司馬さんの文からは、司馬さんが上宮中学校、大阪外語時代に入りびたった図書館の名前は知ることがなかったが、冒頭の「司馬遼太郎とその時代背景」を読んで、この図書館の名前がわかった。

御蔵跡図書館の名はいかにも歴史がありそうである。ちょうど大阪の人から電話があったので確かめたら「おくらあと」と読むのではなく「おくらと」といっていたらしい。


「御蔵」とは幕府が天領から集めた年貢米を収納した倉庫のことである。大阪・京都二条・江戸浅草にあった御蔵が三御蔵と呼ばれ最も重要な御蔵であった。

御蔵「跡」となるのは、大阪に新しい御蔵ができて旧の御蔵は不要になったためである。江戸末期の古地図では、すでにこの場所は「御蔵跡」と記されている。

新しい御蔵は古地図によれば今の南海電車の難波駅あるいはその南にある旧大阪球場(今は「なんばパークス」)のあたりにあった。


御蔵跡に市立図書館が建てられたのは大正年間である。司馬さんが通っていたころは蔵書が10000冊〜13000冊程度の小さな(建坪100坪)図書館であったらしい(前掲書)。学校嫌いの司馬さんは、

『・・・・こんな調子だったから、旧制中学5年の3学期は病気届けを出して、学校から1キロ離れた図書館にいた。』(「風塵抄」の「聴くと話す」)

しまいには図書館にあるほとんどの本を読破したようである。だが御蔵跡図書館は司馬さんが出征する前の昭和17年に廃止されて託児所になり、昭和20年3月の空襲で跡形もなく燃えてしまったらしい。

終戦前の1〜2年の大阪は、通天閣が鉄材供出のために解体されて300屯の鉄材になったし、天王寺動物園の動物は空襲による猛獣逃亡の危険があるので毒殺された。

松坂屋(たぶん次の写真の高島屋東別館が旧松坂屋であったようなことを聞いた記憶がある)の屋上にはB29を撃墜すべく高射砲が設置されるという事態になっていた。





大阪市立御蔵跡図書館は今は日本橋小学校および日本橋公園になっている。

大阪の公園はホームレスの住居である。生玉公園には10戸?ほどの青色テントが立てられていたが、この公園にも5〜6戸のテントがあり、子供が使うスベリ台の横には毛布が干されてあった。

ひどいものである。パブリックな場を数人の住民税すら払わない無責任者が台無しにしている。とうてい若い母親が幼子を連れてきて、ブランコに乗せたりスベリ台を滑らせたりして遊ばせることはできまい。




日本橋小学校は堺筋から1筋東の場所にある。50mほど歩けば堺筋にでる。写真は高島屋東別館。

ここは日本橋3丁目である。ここから戎町にかけて約800mほどは堺筋の両側に電気店がびっしりと軒を連ねている。家電製品をはじめとして、照明器具専門店、オーデオ専門店、これに関連してビデオ・CD店、ファミコンソフト店。

電気部品屋も多い。例えばクリスマスツリーに飾るイルミネーション、夜間の道路工事現場に立ててある警告灯なども売っている。






日本橋3丁目交差点を左折して南海電車難波駅に向かっている。

電気屋街で売る商品はどんどん変化する。初めはラジオであり無線機、ついで炊飯器・洗濯機・テレビ・冷蔵庫、ついでオーディオ・クーラー・電卓。15年前からはパソコン・ファミコン、今は薄型テレビ・携帯電話。

新しい電機製品が生まれるたびに電気店が増え広がる。写真は「なんさん通り」だがここはパソコン店が密集している。司馬さんの少年時代にはこのような電気屋街はなかった。戦前の日本橋(にっぽんばし)は東京神田に匹敵するほどの古本屋街であったらしい。

なんさん通りの途中に道具屋筋がある。北へ向かって伸びる細い筋であるが、ここには飲食店が必要とする食器・包丁・道具・厨房設備などのいっさいが売られている。

南海難波駅は、ここから100mもないのだが、ちょっと寄り道をする。

例えば「お好み焼き屋」を始めたいとすると、この店へくればよい。

鉄板・ガス調理台・クーラー・お好み焼きを焼くための大コテ・食べるための小コテ・トレー・コップ・ソースのビン・取り皿、お好み焼き商売に必要なものの一切合財が揃う。

店の前に暖簾がほしければ、この店で出来合いのものを買うこともできるし、注文して作らせることもできる。


チョウチンも要るか。縁起物の招き猫も大小取り揃えてあります。

道具屋筋を抜けるとNGK(なんばグランド花月)がある。ここは吉本興業の中枢で、このビルの4階に本社がある。


今日(3月11日)の出演者は誰かとみると、今いくよ・くるよ、中田カウス・ボタン・中川家。笑福亭仁鶴は12日と13日とある。


NGK近辺は人でいっぱいである。たこ焼き屋が道の右に左に何軒も出ている。ここへうどん屋がありラーメン屋がある。ソースやら油やらダシやらの匂いが入り混じって、まあ臭い道である。


左折すれば南海通り。この通りも飲食店街である。立ち飲み屋・鮨屋・ラーメン屋・豚まん屋、テッチリ屋、甘栗屋、ハンバーガー、フライドチキン。それぞれが独特の匂いをアーケードの下に吐き出しているものだからたまらない。

南海通りを通り抜け高島屋大阪店前へ出るとほっとする。

難波に着いたところで、江戸末期(1845年)の古地図を見る。(携行していたわけではない。帰宅してからのことである。) Aは東横堀川、Bは長堀川、Cは西横堀川、Dは道頓堀川で、この枠組は今も変わっていない。Aの上には阪神高速環状線が作られ、Bは埋められて長堀通りになり、Cも埋められて四ツ橋筋となった。健在なのは道頓堀だけである。このことは前回のテクテク(大阪・島之内)でいった。

Cの西横堀は道頓堀までだが、実は道頓堀から南に向かって難波入堀川(難波新川ともいう)が延びている。約800mある。突き当たりは「難波御蔵」である。幕府の天領から徴収した年貢米はここへ集められた。今は埋められて道路になり、上を阪神高速1号環状線が走っている。



上図の番号は、
  1. 源聖寺坂(黄色線)
  2. 御蔵跡(市立図書館があったところ。現在は日本橋小学校と日本橋公園)
  3. 高島屋東別館(堺筋に面している)
  4. 難波橋(なんばばし・黄色線・今はもうない。難波入堀川(これも残っていない)に架かっていた)
  5. 高島屋大阪店
  6. 南海電車難波駅
  7. 難波御蔵(今はない)。明治末は専売局のタバコ工場、昭和25年からは南海ホークスの根拠地である大阪球場になった。その球場もなくなり、今は「なんばパークス」になっている。
  8. 大阪府立体育館(これからいく)
  9. 鉄眼寺(てつげんじ)
  10. 難波村。難波八阪神社
  11. 鼬川(いたちがわ・今は埋められて道路になっている)
  12. 塩草小学校


Dの高島屋の西には難波橋が架かっていた。「難波橋」といえば堺筋を北上すると中之島(堂島川と土佐堀川)に架かるライオン像のある立派な橋を思い浮かべるが、これは「なにわばし」である(大阪・上町筋 )。

こちらは「なんばばし」と読む。江戸期のナンバ橋は土橋であったようである。

Dの高島屋を少し南にあるいてEの南海難波駅の高架下の道を西へ渡る。

200mほど歩けば府立体育館がある。明日12日から大相撲大阪場所がここで始まる。

「朝青龍関」ののぼりがある。琴欧州もあるぞ。

そこから100m先に国道25号線が走っている。元町2丁目交差点。写真の右は北。

手前の府立体育館がある町名は「難波中」で、25号線より向こう(西)は「元町」である。上の古地図に緑色で塗られた「難波村」が今の元町である。

目的地の塩草はまっすぐに西へ向かう、あるいは左折れして南下してから西へ向かうのであるが、右折して北へ150mほど寄り道する。


そこには鉄眼寺があるからである。大阪には珍しい黄檗宗の寺である。建物は中国風である。司馬さんの初期の小説「難波村の仇討」の中に次のような文がある。

『千日前から南へくだると、もう一面の菜の花畑である。陽炎に滲んだ黄色い色調のなかに、わずかに鉄眼寺の黒い雄勁な構造が、春の摂津の野を引き締めていた。』

難波村の北側ののびやかな風景である。

元町2丁目交差点へ引き返し、そのまま200mほど南下すると元町3丁目である。

3丁目交差点を右折すると、右手に木立が見える。難波八阪神社である。(「八坂」ではなく「八阪」)

さきほどの「難波村の仇討」の続き。

『鉄眼寺の東側に素戔鳴尊(すさのおのみこと)を祀った八坂神社の森があり、宮居の東の空き地で、きょうの決闘が行われる。佐伯主税の住む谷町から急ぎ足で歩いても、難波の土橋まで、たっぷり半時間はかかった。』

古地図の番号でいえば、@源聖寺坂をくだり、A御蔵跡を左にみて西に歩き、C難波土橋を渡って、H鉄眼寺を見、I八阪神社へやってきたということになる。(鉄眼寺の東側に八阪神社があるとあるが、南側が正しい。)

難波八阪神社は難波村の氏神さまであるが、綱引神事は難波村のみならず大阪を代表する祭りであるらしい。(大阪市の無形民族文化財に指定されている)


1月には八岐大蛇(やまたのおろち)に似せた綱を引き合うのである。

写真は大獅子殿。獅子頭が大口を開けた形をした奇抜な建物である。獅子の下アゴの上にある茶色く長い綱が、今年使った藁綱であるらしい。

司馬さんの少年時代、この難波八阪神社が氏神さまであった。おそらくは宮参りや初詣はここへ来たのであろうし、なによりもここは子供時代の遊び場であったようである。

しかし昭和20年3月の大阪大空襲で、八阪神社はじめ、この一帯(大阪市街はほとんどだが)は全部焼失した。今の神社にある全ては戦後に復旧されたものである。

「司馬遼太郎が考えたことE」の「石鳥居の垢」に以下の記述がある。


『9月になって故郷の町に帰ってみると、家も町も空襲で灰になっており、かろうじて町内の氏神の石鳥居だけ残っていた。

石鳥居は御影石でつくられていたが、焼け焦げたためか、ひっ掻くとボロボロと垢のように、石の皮のような物質が落ちた。

そのことから、いま過ぎたばかりの昭和前期に日本というのはあれは本当の日本だったのかどうかということが気になってきて、・・・・』

このときから司馬さんは歴史に関心をもつようになったのではないかと、自身でいわれている。




司馬さんが育った塩草(旧・西神田町)へ向かう。そこは難波村を西に外れたところである。古地図の番号Kのあたり。イタチ川が3筋にわかれた低地で、いかにも田圃や畑が広がっていたと思われる場所である。

「司馬遼太郎が考えたことB」の「年少茫然の頃」の書き出しに、

『明治のおわりごろまで、難波の土橋から南は茫々のねぎ畑で、だからねぎの隠語をナンバというのだという。鴨ナンバというのは鳥肉とねぎの入ったかけうどんのことである。

第一次大戦の好況のおかげでこの難波村がにわかに人口の密集地になった。・・・・』




交差点に出た。ここまでは「元町2丁目」で、交差点の向こうは「塩草1丁目」となる。区切りはこの道路であるが、道幅はやけに広い。ここにはJR関西線の線路が走っていたためである。(今は地下にもぐっている)






元の線路はならされて平らになっている。向こうに旧湊川駅いまは「大阪シティ・エアターミナル(OCAT)」が見える。線路跡地は都市整備計画では公園になったり、ビルが建てられるそうである。

「司馬遼太郎とその時代背景」(延吉 実)によれば、関西線の東の八坂神社を中心とする元町に地主が住み、関西線より西にある田圃を埋め、貸家を建て、これを貸したようである。

昭和40年代に京阪電車に乗って京都に向かう途中、守口・萱島・大和田といったところを車窓からみると、文化住宅がびっしりと密集し、各戸がテレビアンテナを高く立てているものだから、一種異様な光景であった。同じようなことが、大正から昭和にかけてこの地に起きていたようである。

個々の地主がてんでばらばらに貸家(長屋)を建つのであるから、きちんとした町はできるはずがない。道路は細く、複雑に入り組んでいただろうことは想像できる。


JR関西線跡を渡るとすぐに難波養護学校がある。元の塩草高等小学校である。その向こう隣は塩草小学校(元の難波塩草尋常小学校)である。


なにわ筋へ突き抜けた。向こうは北。道路右手に難波中学校がある。

もっとゴチャゴチャした町並みかと思っていたが、道路もまっすぐで整然としている。細い道はない。 空襲で全焼し、戦後の復興あるいは都市整備によって浪速区は戦前とはまったく違う町に変貌したようである。戦前にあった道は残っていないのではないか。道が残っていなければ場所の特定は難しい。

司馬さんが育った「西神田町」だけが手掛かりであるが、昭和50年だかに町名が変更されて西神田町・三島町・小田町といった町は「塩草」に統一されているのである。

ただしその名残は残っている。地図を見ると、塩草住宅、神田住宅、三島住宅、小田町保育所の名前がある。


写真はなにわ筋と大浪通りの交差点東南角にある塩草住宅。このあたりか?


ついでに「司馬遼太郎とその時代背景」に書いてあった赤手拭稲荷神社を訪ねた。往時は北門と南門がある大きな神社であったようだが、今は小さい。

司馬少年もこのあたりで遊んでいたらしい。


大浪通りへ引き返す。塩草住宅の東隣は浪速公園である。野球場もある。この場所も旧・西神田町の候補であるが、戦前の地図を入手しないことには特定は無理である。

まあだいたいこのあたりであろうとあきらめた。


400mほど南下して塩草小学校へ行く。「司馬遼太郎が考えたことB」の「年少茫然の頃」の続き。

『この一帯に小学校が八つばかりあって、私が就学したのはそのうちの難波第五塩草尋常小学校という、レンガ敷きのそれこそ猫のひたいのようにちっぽけな運動場をもつ学校だった。』

なるほど狭い運動場である。100m走は絶対にできない。校庭一杯に円を描いて100m走れるかどうか。運動会はここでするのだろうか。無理だろう。


塩草尋常小学校の南には鼬川(いたちがわ)という細い川があったそうである。「司馬遼太郎が考えたこと@」の「わが愛する大阪野郎たち」に、

『生家のある浪速区西神田町にもどってみると、その町は電柱さえなく、見わたすかぎりの焼け野原のなかに、私のでた小学校のまっくろな残ガイと、遠くに湊町の高い陸橋の骨がみえるだけで、・・・・

私は、川筋に出た。どぶのような川だが、私の少年時代には、この川が唯一の遊び場所だった。』

古地図にもイタチ川は記されている。東の広田神社の北を通り、難波村と木津村の村境となり、難波村を出て3筋に広がっては再び1筋にまとまり木津川へ出ている。


イタチ川は終戦前に埋められたそうである。この道が元のイタチ川ではなかろうか。戦後の都市整備でできた道ならまっすぐであってよいだろうに、道は曲がっている。

元のイタチ川をたどれば広田神社に行ける。広田神社と今宮戎神社は近い。そこを今日のテクテクの終点としよう。


イタチ川と信じて進んでいる道路の南側に小道が並行してある。そこに小公園があった。「鴎町公園(かもめ)」である。


ここには2つの石碑があった。1つは公園前に「勘助橋」が架かっていたというもので、1つは「折口信夫生誕地」である。はあ知らなかった。折口信夫はここで生まれたのか。(実際はもう少し南にあるらしい)

歌碑もあった。

十日戎の日には、これから行く今宮戎とすでに通ってきた御蔵跡までの十丁の間に屋台店が並んだとある。


勘助橋の石碑があるところからすれば、イタチ川はこの道路になるのか。

向こうの高いビルは「クボタ」の本社ビルである。


残念なことにイタチ川は高速道路の出口や南海電車高架によって分断されている。イタチ川に沿って広田神社に行くことはあきらめる。

向こうに通天閣。


今宮戎神社。若い頃、友人に連れられて十日戎にきたことがあるが、人群れに押されに押されて、拝殿も本殿も見た記憶がない。

見ると建物は比較的新しい。戦後すぐに焼失して、昭和31年に復興したらしい。有名なわりには小さい神社である。


戎神社の右の道路を少し北へいくと広田神社がある。今宮村の氏神さんであったらしい。往時は「広田の杜」と呼ばれるほどに樹木が繁っていたそうであるが、今は写真のとおり。


西へ1本筋を変えると南海電車の高架である。これに沿って北へ進めば難波に着く。


高架は鳩のねぐらなのか休憩所なのか、何十羽もの鳩が一列に並んでいる。


戻ってきた。なんとか司馬さんが通学したらしい道をたどったかと思うが、浪速区塩草・稲荷は、司馬さんの少年時代とは別の町になったようであり、塩草小学校を除いては往時をしのばせるものは何もなかった。

疲れた。ヘトヘトである。(今宮戎と広田神社へ行ったのは余分だった。)万歩計は18400歩だった。


行く先の目次... 前頁... 次頁... 浪速区北部...      執筆:坂本 正治