名張・赤目四十八滝

    No.43.....2006年3月25日(土曜)


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2度大阪へ出かけたが、訪ねた場所が道頓堀・千日前・南海通り・なんさん通りといった大阪でも有数のごちゃごちゃした町であったので、目が眩んだ。なにしろ看板は赤いし、チョウチンも赤い、きれいなビルもナンバ様式で派手である。

雑踏に加えて刺激的な色彩が氾濫している町は身の置き所がない。もう気が落ち着かない。今日は天気がよいので、どこでもよいから田圃か畑の道をのんびりと歩きたかった。

予定では大和高原の都祁(つげ)の地を歩くつもりだった。「大和飛鳥・美の巡礼」(栗田 勇)に、奈良市からこのあたりを通って室生寺にいくさまが書かれているが、いかにものんびりした情景であるようだった

だが、名張駅では2分遅れて電車に乗れず、榛原駅ではこれまた2分送れて都祁行きのバスに乗りそこねた。10:12の次のバスは12:12であるという。

都祁行きはあきらめ、電車で名張に引き返していたのだが、あまりに好天であるし陽気もよい。1つ手前の「赤目口」で下車した。11:20ころ。ここには関西では有名な「赤目四十八滝」がある。

大阪から近鉄電車に乗って名古屋方面へ向かうとき、まずは生駒山系の南端を大きく迂回する。やがて線路は山間部に入り「二上山」を右に見ているまに奈良盆地へ入る。八木駅手前の右には「畝傍山」があり、駅を過ぎるとすぐ左に「耳成山」。すこし進めば左に「香具山」。近鉄は大和三山のど真ん中、かつての藤原京の上を突っ切っているのである。

左手に甘南備山であるところの端正な「三輪山」があって、ここから再び山間部に入る。左に「長谷寺」のある初瀬山を見ていると、線路の両脇は樹木で覆われる。続いて長いトンネルに入り一層暗くなるが、抜けると榛原(はいばら)である。右手に「墨坂神社」の赤い楼門があり、左向こうに大和富士と呼ばれる「額井岳」が現れる。榛原は宇陀川をはさんだ小さな盆地である。


榛原を出ると三度目の山間部に入る。線路の際まで杉の木が立ち混んでいる。右手にちらりと「室生口・大野寺」の駅を見て、「三本松」駅までは、車窓からは樹木しか見えない。

突然に平地が展開するのが「赤目口」である。電車が左右を圧迫していた暗い杉木立を抜けると、そこは平らかな伊賀国である。 大阪から帰ってくるとき、田圃が広がる赤目の平坦地が目にはいると、いつも少し感激するのである。(すっかり名張の人間になってしまった。)

「赤目四十八滝」を目差して南下する。

名張市も他の小さな町と同じく農業は廃れたが、それでもまだ田圃は残っている。古来、名張川が氾濫するたびに耕作地が広がったのだろう。645年の大化の改新の詔では、「畿内」(首都圏)の東端は名張の横川(名張川)であるとされているから、このあたり一帯は、天智・天武・持統天皇の時期にはすでに飛鳥京・藤原京が支配する直轄の地であった。(直接に税を徴収されたという意味)



大化の改新以来すでに1350年ほどがたつ。平安京時代には誰某が国司となり、そののち寺院(東大寺)の荘園となり、鎌倉期には守護が支配し、鎌倉末期には守護の権利を蹂躙する「悪党」が出るが、一国を支配するほどの力ももたないそこそこの有力者の興亡があって、ようやく江戸期に藤堂藩が支配して安定したのが、この地である。


葱を作っている。自宅前に植えてあるから、自家消費用のものであろうか。


山に向かってズンズン進むと、向こうから耕運機がやってくる。私は小さいながらも町で育ったから、米作については何も知らない。調べてみると以下の手順になるらしい。
  1. 土づくり。稲刈りが終わった秋から冬にかけて土質改良剤や堆肥を加える。

  2. 耕起(こうき)。春4月に田圃を耕す。

  3. 代かき。4月上旬〜5月上旬。畦を作り、田圃に水を張る。

  4. 育苗。4月中旬〜5月上旬。田植えする苗を育てる。

  5. 田植え。5月中旬。

  6. 水の管理、雑草取り、病気の対策。6月〜9月。

  7. 稲刈り。9月中旬〜10月。


右手に真言宗豊山派極楽寺がある。ここは赤目町「一ノ井」という。

3月に東大寺二月堂では修二会(しゅにえ)が行われる。修二会は3月1日から14日までの半月間にわたる行であるが、12日〜14日「達陀(だったん)の行法」が行なわれる。そのあいだの13日未明に有名な「お水取り」がある。「達陀の行」では大松明を持った練行衆が堂内を駆け回り、火の粉が舞台の上から二月堂下に飛び、舞い散る。

このとき使われる松明は、極楽寺を中心とする一ノ井の「たいまつ講」が用意している。 もとはこのあたりが東大寺の荘園であり、その縁で松明を届けているのだと思っていたが、違うようである。

「たいまつ-松明-」というHPがあった。名張青年会議所が掲げているのであるが、このHPは実によくできている。目次を上げれば、@絵本でみる伝説・どうかん長者、Aたいまつのできるまで、B赤目一の井・極楽寺について、など詳しくかつわかりやすい説明がしてある。

これによれば、昔、一帯の9か村を統べる「黄の道観」という長者があって、ある日菩提心に目覚めた。極楽寺を再建し、平重衡によって焼け落ちた二月堂の再建に協力したうえ、死の間際には修二会で使う松明を毎年寄進するよう遺言を残したらしい。

興福寺・東大寺が平家によって焼失したのは1180年のことだから、道観長者の話はこの時期より少しのちのことであろうか。道観長者の子孫はおそらく残ってはいまい。とすれば750年から800年間に渡って一ノ井の「たいまつ講」は毎年毎年松明を寄進続けたことになる。大変なことだ。

田圃を掘り返している。これが「耕起(こうき)」という作業なのだろうか。

桜はまだ開花していないが、ふくらんでいる。


茶畑もある。

今日のテクテクの目的地は、赤目四十八滝の入り口(入り口では入場料を払わねばならない)としてる。

この道は「赤目街道」と呼ばれた古道である。赤目口には伊勢から長谷寺を経て桜井へ通じる初瀬街道があるが、これは大きな街道である。たぶん赤目街道は初瀬街道から分岐して室生へ通じる小さな街道であったようである。

赤目街道は赤目四十八滝のある滝川におおむね沿っている。滝川に接近した低い位置に自動車道がつけられてから、赤目街道は事実上廃道になっていたようであるが、最近、散策道として整備されたらしい。昔の道なので谷川からかなり上を通っている。

道観塚があった。

車道に出た。県道・赤目滝線というらしい。川は「滝川」である。1Kmほど上流に赤目四十八滝がある。


「赤目町長坂」という集落に着いた。地蔵石仏と丁石が並んで立っている。丁石には「龍口十八町」と刻まれているのか。

橋を渡れば赤目滝への近道である。右の「ハイキングコース」は旧赤目街道である。

手前に喫茶店と木製品の工房を兼営しているような店がある。店先に老人が腰掛けてコーヒーか茶を飲んでいたが、立ち上がってきて、「梅林祭りに来てくれたのか」と声をかけられた。

「長坂」では今日の1:00から梅林祭りが催されるらしい。

細い赤目街道を少し行くと梅林があった。山裾の斜面を利用して、道の下方・上方に梅林が広がっている。(そう広くはない)

「今年は寒くて、まだ梅は満開ではない」と先ほどの老人がいっていたが、4分か5分は咲いている。梅の枝の向こうは「滝川」。


おお、やってるやってる。

バーベキューをするらしい。飲み物も置いてある。楽器も据えられている。


さらに進む。

古街道であるので、路傍には地蔵仏がある。室町末から桃山期のものであるの説明板が脇にあった。

地蔵立像線刻磨崖仏というのもある(次図)。「まっぷ」に磨崖仏とあったので、大きなものかと思っていたが、柱状節理がはげ落ち、転がった四角い石へ線刻したものであった。地蔵は1m余り。

これも室町末から桃山期のものであると案内板にあった。この時期、赤目街道はけっこう人が通っていたようである。赤目街道は赤目口から「赤目四十八滝」までが主たる道だったかと思われるが、途中で西へ通じる道が分岐しており、こちらに進めば「竜口」という集落に着く。ここが街道の終点であったらしい。

(左図)線刻ゆえ、今となっては地蔵の姿はぼんやりとしかわからない。

「竜口」には百地三太夫の生家といわれる屋敷が残っているそうである。その子孫もそこで農業を営んでおられるらしい。

名張は伊賀国の南部にある。伊賀国北部には伊賀上野(今は伊賀市)があって、こちらは津・藤堂藩の支城(津の本城よりも大きい)があるなど伊賀国の中心地であるのでそれなりの歴史があるが、名張には目立つような歴史はない。

私の知る範囲では、名張が日本史に出てくるのは2度である。ひとつは672年に吉野に籠もっていた大海人皇子(天武天皇)は近江京にある大友皇子を討たんとして吉野を出立し、大宇陀・榛原を経て名張へ出てきた。これから美濃へ向かうのである。名張には夜半に着いた。従者らは大声で「皇子に加勢せよ。」と声かけて、兵を募ったが誰も一行には加わらなかった。という話を覚えている。


いま一つは、織田信長による伊賀国への侵攻(天正伊賀の乱)である。2度目の信長軍の大攻撃によって伊賀国に割拠していた地侍ら(上忍および下忍)は擂り潰すようにして殲滅させられる。

このことは初期の司馬さんの忍者小説に何度もでてくる。例えば「梟の城」の主人公の葛籠重蔵(つづら・じゅうぞう)は天正伊賀の乱で父母弟妹を殺され、自身も敗走し、信長への復讐に燃える。というところから物語が始まるのである。

赤目滝橋に着いた。


舗装されたゆるやかな坂道を進むとバス停がある。近鉄赤目口からここまでバスが通っているのだが、まだシーズンではないのでバスの便数は少ない。

あれ。顔なじみのタクシー運転手さんがいる。声をかけたら「名張駅前は客が来ないから、今日はこちらで客待ちしています。」

「帰りに乗るわ。」と返事して時計を見るとまだ1:15である。 ついでのことなので四十八滝も見ることにした。



バス停の少し先に、やや勾配のある坂道があって、登り口に「天台宗・延寿院」の石柱がある。いってみる。

赤目滝は修験者の行場であった。この寺は「役行者」が開いたとされるが、残っている記録では、寺の創建は1122年のことであるらしい。




15世紀(室町期)に山岳仏教が系統だてられ、天台の聖護院が 山伏を統括した。

ついで16世紀には真言の醍醐寺三宝院が別に山伏をまとめ、さらには吉野山の金峯山寺が統括する派もできた。

このことは吉野山へ行ったあとで調べて知った。ここは天台であるから聖護院派であるのか。

寺は元は「青黄竜寺」といい、8つの坊を持つ大寺であったが、天正伊賀の乱(1581年)の折、観音堂を除いてことごとくが焼かれた。

その後、坊の1つであった写真の不動院だけが再建されたとある。

不動院の本尊はいうまでもなく不動明王である。目が赤いので「赤目不動」と呼ばれているらしい。(不動像は見なかった)





このあと行く四十八滝の一帯は延寿院の所有地であるそうだ。上図の石灯篭は鎌倉期のもので重文。中央の桜木は枝垂れ桜で、推定樹齢は350年と説明板にあった。

司馬さんは作家として書いた小説は「梟の城」より後のものであるとの想いをもっておられたようだ。「梟の城」は1958年4月から59年2月まで「中外日報」に連載され、同年9月に単行本化。翌1960年2月に直木賞を受賞。司馬さん35歳のときである。

「梟の城」以降しばらくは忍者ものを連作されている。
  1. 1959年、「梟の城」、@「下請忍者」

  2. 1960年、A「最後の伊賀者」・B「飛び加藤」

  3. 1961年、C「果心居士の幻術」・D「伊賀の四鬼」。このあたりで一応忍者ものは打ち切り。

  4. 1962年からは新撰組物「新撰組血風録」が始まる。「竜馬がゆく」「燃えよ剣」の連載を開始。
最近これら初期の短編を読むことが多いが、忍者ものには伊賀の地名が多く出てくるので地図を参照しながら読むことがある。あるいはテクテクで訪れた地が舞台になっていることもあって、その場所を思い出したりもする。




四十八滝の入場口近くにきた、この先に入場券売り場があって、料金300円を払って赤目滝に入るようになっている。

例えば「果心居士の幻術」では、果心という幻術使いが主人公である。果心は初め信貴山城にある松永弾正に組したが、弾正は信長によって討たれる。その後は伊賀国「喰代(ほおしろ)」の百地丹波のもとに身をよせたが、同じく信長の伊賀攻めに遭遇する。

1581年の天正伊賀の乱の最終局面では、(司馬さんの書くところによれば)赤目の「柏原」の砦に伊賀勢の上忍438人・下忍1200人が籠もり、信長軍に抗戦するのだが、果心は大和郡山から進軍してきた筒井順慶に柏原砦の地図と引き換えに助けを請うのである。

柏原砦が陥落したのち、果心は順慶のもとに出入りしていたが、秀吉の命によって大阪城に呼びだされて殺害される。粗筋を述べれば実もふたもないが、司馬さんの手になると、実に面白く読めるのである。



四十八滝の始まり。



これは「行者滝」、落差5mほど。いうまでもなく役行者が修行したとされる滝である。


「霊蛇滝」。

案内板には、『赤目の由来は「役の小角(えんのおづぬ)」がこの地に来た折に、滝に向かって行を修めると、不動明王が牛に乗って出現。その牛の目が赤かったので、この地を「赤目」と名付けた。そして小堂を建てて、不動明王をまつったのが、今の不動院と伝えられる。』とあった。

「赤目」の由来は、延寿院の不動明王の目が赤いからとも、赤目の牛だからともいうが、まあ地名だから定説はない。


なお役行者の像には前鬼・後鬼が左右に配置されていることが多いが、前鬼の名前は「赤目」、後鬼の名前は「黄口」というらしい。

「赤目」というのは五色からきたものであろう。延寿院の元の寺名の「青黄竜寺」にも青と黄が入っているから、どうも赤色が先にあって、赤目へ結びつけたのではなかろうか、とこれはシロートの推測。

「不動滝」、落差7m。


「乙女滝」。水はぬめりと岩肌をすべる。

「八畳岩」。滝ではなく岩の大きさを見る。

「千手滝」、落差15m。

弘法大師が護摩を修したといわれる「護摩の窟」(崖にある洞穴)。


「天狗柱岩」。室生一帯にある高さ30mか40mほどの柱状節理である。その前は滝壺で、そこには







「布曳滝」、落差30mがある。最もスケールが大きい。






「竜が壷」。ここは滝ではなく滝壺を見る。

これはまた滝というにはおとなしい。と思ったら、

次の落差の大きい、男性的な滝とセットにして「陰陽滝」というらしい。

水は澄んでいる。流れがゆるいところや滝壺には魚が群れている。なんという魚か。


滝も2つ3つまでは面白く見ることができるが、これほど連続すると見飽きてしまう。 赤目四十八滝とはいうけれど、実際にはそれ以上の滝があって、全部を見ようとすれば、右図のように2時間ほどかかる。

今は下流から上流へ向かっているが、かつて山越えして滝川の上流に出て、そこから下って全ての滝を見物したことがある。今日は時間がないので、全行程の1/3ほどのところにある「百畳岩」まで行って折り返すことにしていた。

もう少しでその地点である。

道の左手は渓谷。右手は見上げるばかりの柱状節理の崖である。

見えた。広い岩盤の上に売店がある。

(次図)おでん(こんにゃく・タマゴ・ゴボ天)をアテにして缶ビールを一口二口。


売店のおばちゃんが話しかけてきた。毎日、缶ビールやラムネを背負って、この場所まで出勤しているのだそうである。 「雪の日は通うのがかなわんで。昨日までここには雪が残っていたくらいや。そやけど毎日歩くと血圧も下がるし、健康にはええわ。」

森林浴は、樹木が出すフィトンチッドに加えて、渓谷から発生するマイナスイオンがあればさらによいらしい。毎日この地へ通っていれば、おばちゃん、それは長生きできるに違いない。


「七色岩」。四角い岩の上に松・つつじ・楓など7種類の木が自生しているのでこの名がついた。

今日はここで終わり。

折り返す。来る途中で5人ほどの方が道の掃除をされていた。声をかけて追い越してきたのだが、まだ清掃は続いていた。

これからの観光シーズン(夏と秋)に向けて、堆積した枯葉を掃き出しているのである。

お陰で、このように道はきれいになっていた。落ち葉で滑ることもない。ありがたいことである。

入口は出口でもある。出たところに土産物屋がある。ここでは「へこきまんじゅう」というユニークな食べ物を売っている。

「たいやき」と同じように、鉄型に小麦粉を溶いたものを流して焼き上げるのであるが、そこへ入れる餡が違っている。サツマイモをふかして、潰して、濾して作るのであろうか。なめらかで黄色く小甘い餡が入っている。

サツマイモを餡にしたのは、この店のあるじの創案である。餡の原料がサツマイモであるので「へこき」と名付けたらしい。「登録商標出願済み」とある。

2年半前に長女を伴ってここへ来て、へこきまんじゅうの名前を笑いながら喰い、二女へのおみやげにしたのだが、おいしいと好評だった。今日もみやげとする。


1つ120円である。10個入りを頼み、もしかして先のタクシーの運転手さんが待っていてくれたら差し上げようと思って、4個入りを追加した。

これから赤目滝へ入場しようとする2組の親子づれが店前を通りすぎた。娘が「へこきまんじゅう?これなに?」と母親に尋ねている。私が店のあるじ(つり銭の計算で頭を悩ませていた)に代わって、「アンコがサツマイモやからおいしいで。」

へこきまんじゅうを各自1つずつ、計4つ注文して、食べながら歩いていったのだが、すぐに「あっ。これ、おいしい」と小学生らしい娘が声を出した。母親二人が「XXちゃんのおみやげに買うて帰ったろ。」と引き返してきた。


しかしそれにしても単刀直入なネーミングである。「へこき」である。「おならまんじゅう」「おスカシまんじゅう」、「プーさんまんじゅう」、「はずかしまんじゅう」、「お芋まんじゅう」。しゃれて「スイートポテトまんじゅう」としてはインパクトがないな。やはり「へこき」には負けるか。

タクシー乗り場に行ったら、なじみの運転手さんはいず、別のタクシーが止まっていた。名張駅前でこれこれの運転手さんに会ったら手渡してもらえないかと「へこき」4つ入りの箱を預けた。

万歩計は14800歩であった。


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