笠置山

    No.44.....2006年6月24日(土曜)


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今年も(忘れな草である)花水木が咲いた。

手入れをしないから、栄養不足になって年々咲く花が小さくなっていることが明らかであったので、昨年末に堆肥を施した。 今年の花は少し大きくなったようである。

うちの花暦はこうである。2月に水仙が白い花をつけはじめる。3月下旬に月桂樹が黄色い花を咲かせ、4月に入るとローズマリーが淡青色の小花を枝先に咲かせる。中旬には私が生涯で始めて手植えした木蓮が紫の花を7つ8つ咲かせた。



4月下旬からは次から次へ開花する。ローズマリーの根元のまわりにはハナニラが弱々しげながらも白い花を何十と咲かせる。(左図)

花水木が開花し始めるころ、テッセンが大きなつぼみを作ったと思ったら一気に白と紫の大輪の花を咲かせ、早々と散る。

花水木の花がせいいっぱいまで花ビラを伸ばすころ、葉も大きくなり、枝という枝は花と葉で覆い尽くされる。

驚いたことに昨年は咲かなかったチューリップが今年は咲いた。球根を掘り出すことをせず、放ったままだが、昨年1年かけて球根に養分を溜めこんで今年は開花することができたのか。チューリップが野草化したわけだ。



5月に入って、ラズベリーの白い小花が緑色の小さな実に変わると、なんという鳥かは知らないが、秋の結実を待たずに早々とやってきて、しきりに青い実をついばんでいる。秋にもやってくるのであるから、もう少し待ってはどうか。(右図)

花水木の花が落ちると、垣根に繁っているモンタナクレマチスが垣根一面に白い花をつけ、石垣下にあるツツジがピンク色の花で自らを埋め尽くし、これで春の花は終わる。

6月に入って、例のラベンダが野放図に茎を伸ばし、紫色の花をつけた。これまた例のコマルハナバチが毎朝やってきてぶんぶん飛び回っている。

近所に大きなアジサイの株があって、この時期には薄紫の花をいっぱいに咲かせていたのだが、転居された。不動産業者がやってきて、アジサイの株はきれいさっぱりと切られてしまったので、今年はアジサイを見ることができない。




どこかの寺に参れば境内にアジサイが咲いているに違いない。アジサイで有名な寺は多そうだし。

さてどこへ行くか。笠置寺(かさぎてら)に決めた。笠置寺はいちどはいってみたい寺であったのだ。行ったことがないので、アジサイが植えられているのかどうかは知らない。

「テクテクまっぷ」では、JR関西線笠置駅を起点にして、笠置寺から柳生に行き、布目川を下って木津川に出、これを下って笠置駅にもどる、という12Kmのコースとなっている。

だが梅雨どきである。途中で雨にあうと往生するから、今日は笠置寺(および笠置山)だけを歩くことにした。






笠置山は京都府相楽郡笠置町にある。京都府の最南端にあたる。

名張からここへ行くには、近鉄電車を2度乗り換えて伊賀上野駅にいき、近鉄電車と同じプラットホームにあるJR関西線に乗りかえる。(写真は伊賀上野駅) 近鉄伊賀線もJR関西線も単線であり、電車はワンマンカーである。





奈良あるいは京都に向いて5つめの駅が笠置駅である。(@伊賀上野→A島ヶ原→B月ヶ瀬口(ここから京都府)→C大河原→D笠置)

伊賀上野から27分で笠置駅に到着。





駅の改札口を出ると、駅前には面白いモニュメントがあった。

小山は笠置山であろう。山の上から弓引く武士があり、大岩を持ち上げて投げつけようとする法師がいる。

寄せ手である兵士が刀を上段に構え、矢に射られた兵士が倒れようとしている。

北条軍の笠置山攻めに対する天皇軍の防戦の様子をモニュメントにしたものらしい。「太平記」の情景である。これは面白い。

下にある説明板を読んで、弓矢の武士は足助次郎重範、怪力僧は般若寺の本性房であることを知った。



モニュメントから笠置寺の方向に歩きだしたら、向こうに長い看板があり、絵巻物ふうの絵が描いてある。なんであろうか。

近づくと(次図)笠置元弘の乱絵巻とある。絵の下には文がある。文末には、笠置寺所蔵の「笠置寺縁起絵巻」より、とある。寺が所蔵する絵巻を観光客用に立て看板に仕立てたようである。

絵巻物は通常は右から左へ展開する。文も縦書きであるから、右から左へ行が変わるのだが、この看板は、駅からやってきた観光客が向こうに向かって絵巻を見、文を読めるようにと、左から右へ移る構成になっている。

縦書き文章を読むときはついつい右から左に視線を移してしまう。看板に合わせて左から右へ視線を動かすことは非常にくたびれたが、笠置山を舞台にした「元弘の変」の概要を知ることができた。



1331年5月、倒幕の企てが露見し、後醍醐天皇側近の日野俊基や僧文観らは鎌倉幕府に捕らわれる。

8月24日、後醍醐天皇はひそかに京都の御所を抜け出て、幕府と対峙せんとする。加勢をあてにしたのは比叡山延暦寺・奈良東大寺および興福寺である。

しかし延暦寺は早々と六波羅(幕府)軍に降伏し、奈良勢は幕府と対立する決断ができなかった。天皇はやむなく笠置寺に入る。




絵巻の始まりは、天皇が夢(南の枝が特に繁茂している下に御座の畳を高く敷いた空席があり、童子がここへ天皇が座るように招く)をみて、「南の木」すなわち「楠」であるとして、河内の悪党である楠木正成に加勢を頼むという図。


笠置に参上した正成は挙兵するの約束をして、地元の赤坂に戻り9月11日に挙兵する。

笠置では、北条軍(六波羅軍)7万5000騎をもって笠置を包囲する。戦端は「一の木戸」で始まる。天皇軍の足助次郎重範(あすけ)が寄せ手の2人を強弓で射殺する。

駅前にあったモニュメントの鎧武者である。(右図も同じ。絵巻には怪力の律僧・本性房も描かれている)


天皇軍は果敢に戦い笠置は落ちない。執権北条高時は20万7600騎の大軍を笠置へ向けて出発させる。が到着前の9月29日、風雨激しい夜半に笠置山裏手から幕府軍精鋭が笠置城内へ忍びこみ放火(右図)。これが契機となって笠置山は火の海となり、笠置は陥落する。


天皇は楠木正成の籠もる赤坂城を目差し脱出するが、敗走軍からもはぐれ、わずかの近習とさ迷う中で幕府軍に捕らわれる。(右図)

次図は捉えられて、京に拘引される図であろう。(看板の絵は絵巻とは逆の方向に向かっているので、馬に乗る武者の向かう方向が左を向いているが、看板の流れとしては右向きでないとおかしい。看板を製作した方もここは苦慮されたと思う)





絵巻の看板を過ぎるとすぐに観光会館があって、そこには図のような絵が掲げられていた。

大岩の上で騎馬するのは、天武天皇若きころの大海人皇子(おおあまのおうじ)である。皇子は1日、笠置で狩をした。夢中で大鹿を追っているうちに山頂の岩に駆け上り、ふと眼下を見ればそこは深い谷である。

瞬間仏に祈って崖下への転落を免れた。この報恩のために、その場に笠を置き、後日笠をおいた巨岩に弥勒仏を彫らせた(笠置寺の起源)。という話が今昔物語にあるそうである。

笠を置いた(笠置の地名の始まり)とはいっても、木が繁る山中では、小さい笠は目標物にはならない。後日、巨岩を探し訪ねるとき、笠を置いた場所へ先導したのは鷺であった。

よって笠置寺の山号は「鹿鷺山」という。シカサギ→カサギ、ということであろう。

向こうの山が笠置山。思ったより低い山である。

5分ほど歩くと登山口である。左を登れば笠置山。右すれば柳生の里である。


登山コースは2通りあって、一方は車で登れる新しい道、他方は「笠置山古道」とある。当然に古道のコースを選ぶ。


古道とはいっても、ここは東海自然歩道に指定されているので、道は整備されていて、この石敷きの道なぞは、どこかの広い庭園か公園にある道のようである。


町石に「二丁」と読めたが、この後笠置寺へは40分ほどかかったから、「二丁」であるはずはない(十五丁はあった感じ)。

ここへ来るまでに倒れた町石があって、ここには「一丁」と彫ってあったから、目的地までの距離ではなく、登山口までの距離を表しているのかもしれないが、それは常識的ではない。(2つの町石とも読み間違うことはないと思うが)


平安から鎌倉期にかけて、笠置寺は最も栄えたようである。参詣道には「笠置形燈篭」が並んでいたが、現在はひとつとして残っていない。

笠置寺の住職が探したところ、どこだかの石屋に図面が残っており、これを復刻したのが写真のものである。(笠置駅構内に据えてあった。)


元弘の乱では、石灯籠も含めてなにもかもが失われたようである。

急な石段が続く。空は明るいし、そろそろ山頂が近いのではないか。


車道に出た。そこに「一の木戸跡」の案内板があった。絵も描いてある。 山上から弓を引いているのは、駅前のモニュメントの足助次郎重範ではないか。足助の左側には大石を抱え上げた僧があり、これは本性房である。

「一の木戸」というには、この場所に笠置寺を城と見立てれば、初めての門があったのであろう。つまりは敵はまずここへ攻め寄せてきて、足助次郎が敵を射た。戦さの始まりである。

射られた敵兵の名も残っている。荒尾九郎・弥五郎の兄弟である。

立て札の位置から下を見ると、登ってきた石段が見える。

荒尾兄弟はアジサイの咲いているあたりまで来て、足助次郎に射られたのか。

すぐに車道と古道がわかれていて、古道の石段を登る。


石段を登り、登って笠置寺の山門に到着。

左の黒御影石に「天武天皇勅願所、後醍醐天皇行在所(あんざいしょ)・笠置山寺」とある。正式には「笠置山寺」であるらしい。

左の石には「笠置山寺縁起」が書いてある。要旨は
  1. 奈良時代は修験行場として栄え、

  2. 平安時代は末法思想の流行とともに、本尊大磨崖仏の信仰を受ける。

  3. 鎌倉時代、解脱上人が当寺から宗教改革運動を展開し、信仰の寺として全盛を極める。

  4. 元弘の乱では後醍醐天皇の行在所となり、幕府との攻防1か月の後、全山は焼亡する。

  5. 以後室町時代にわずかに復興したものの、江戸末期に荒廃し、明治初年は無住寺となる。

  6. 明治9年から寺の復興が始まり、明治中期に山容が整う。
である。


拝観料は300円である。入ったところに笠置寺の全容を描いた大きな案内板があって様子がわかった。笠置山山頂付近を右から回るらしい。

笠置山寺縁起にある解脱上人(げだつ)は、最近その名を知ったばかりである。

物置を整理していたら、4年前にほとんどの本を処分したつもりだったが、なおダンボール箱5つが出てきて、約200冊の本があった。

その中に吉川英治の「親鸞」(3冊)と丹羽文雄の「親鸞」(4冊)を見つけた。奥付からすると20年前に購入したものらしい。「ふーん。こういう本を読んでいた時期があったのか。」と思うだけで、内容は少しも覚えていない。



これだけを残して他の本は処分し、吉川本のほうから読み始めていたのだが、そこに解脱上人のことが少しでており、記憶に新しかったのである。

解脱上人は興福寺で法相宗・律宗を究め、法相教学を再興した鎌倉期の名僧である。

右の鐘は元弘の乱で全山が消滅したおり、唯一残った鐘で「解脱鐘」という。この鐘は東大寺大仏殿を復興し、南大門を作ったあの俊乗坊・重源(東大寺に俊乗堂が残る)が作らせたもので、これを紺地金泥の大般若経600巻とともに、笠置寺に隠棲した解脱上人に寄進したのである。

鎌倉期は新仏教が数多く起こった。法然の浄土宗、これを受け継ぐ親鸞の浄土真宗.。栄西の臨済宗、道元の曹洞宗、少し遅れて日蓮の法華宗、一遍の時宗。

これに対して旧仏教側の高僧には、京都高山寺の明恵上人、笠置寺の解脱上人、西大寺の叡尊があった。



新仏教のなかでも、易行念仏を説く浄土宗・法然への旧仏教側の反発はすさまじかった。その代表が明恵と解脱である。

吉川英治は、明恵について

『この上人はそこらにざらにあるいわゆる碩学とは断じてちがう。満身精神の人だった・・・(栂尾の上人がこういった)といえば、その一言は、思想界をうごかす力があった。』

と書いておられる。

解脱については

『(邪教をつぶせ)と、波瀾のうえに波瀾をあげてきた一派がある。奈良の興福寺の衆徒と、その衆徒が当代の生き仏と仰いでいる、笠置の解脱上人とであった。』

とある。

ここから修行場めぐりが始まる。向こうにあるのは大師堂。(笠置寺はいまでは真言宗智山派となっている)



左手には巨岩、右手は崖の小道を進むと、見えてくるのは本堂である。

巨石の向こうへ回ってみると、その下に十三重の石塔がある。鎌倉期のもので重文。


十三重塔の右手頭上に大きな岩がある。写真では大きさがわからないが、大きく見上げるほどの巨岩である。

夢中で大鹿を追っていた大海人皇子(天武天皇)は気がつくとこの巨岩の上にきてしまっていた。転落寸前に仏に祈り、危うく転落を免れる。

後日の再訪のために岩に笠を置いて目印にした。ということは先に知ったが、この岩こそが「笠置石」である。


その右手にあるのが笠置寺の本尊、弥勒大磨崖仏である。その前に建つのが本堂。またの名を正月堂という。元弘の乱で焼けたが室町期に復興されたとある。ただし礼拝堂としてであり、元の正月堂とは異なるようである。

磨崖仏が彫られている石は高さ20m。光背の高さは15m。彫らせたのは東大寺別当の良弁(ろうべん)あるいはその弟子の実忠(じっちゅう)で、彫ったのは渡来人らしいとある。弥勒信仰というのは新羅で盛んだったということを「大和飛鳥・美の巡礼」(栗田 勇)で読んだことがあるから、新羅人が彫刻したのか。


残念なことに、正月堂が焼失したとき、火勢によって、線刻の弥勒大磨崖仏も表面がぼろぼろになり剥落してしまった。

今は光背の輪郭が残るだけである。

ただ、それ以前に模写した絵が京都・仁和寺に残っていて、図のような姿であった。中央に弥勒菩薩、左に文殊菩薩、右は薬師如来であるらしい。

3年前に大野寺に参り、川向こうの柱状節理に彫られた磨崖仏・弥勒菩薩を眺めたが、この手本は笠置の弥勒菩薩であるとも説明してあった。


本堂の右手に下り坂の小道があって、降りていくと、正月堂は懸崖造りであることがわかる。正面に弥勒大磨崖仏があり、この全容を見るためには本堂は少し離れていなければならない。しかし離して建てると本堂は崖の上にせり出してしまう。ために懸崖造りとせねばならなかったのだろう。

本堂には住職のお願いが掲げてあった。それは、笠置への観光客は年間70万人、うち笠置山へ登山するものが5万人、入山料300円を払ってこの磨崖仏まで来るもの1万5000人だそうである。

もっと多くの人に来ていただきたいというのが住職の願いなのである。

国や府からの補助もあるかと思うが、300円×15000人では年間450万円である。これでは山道の整備も満足にできないであろう。一時は無住寺であったことを思えば、檀家も少ないことであろう。解脱上人(貞慶ともいう)や後醍醐天皇のゆかりある歴史のある寺である。これを維持していかねばならない住職の嘆きがよくわかる。


「千手窟」という。奈良期、実忠はこの千手窟で修行し、修ニ会の行法を定めたと案内板にある。東大寺の実忠といえば、二月堂で修ニ会を始めた僧である。東大寺の大仏を造るときは、東大寺別当の良弁のもとで実務をこなし、頭塔を造ったのもこの人である。

実際のところ、初めての「お水取り」は笠置で行われたし、二月堂・三月堂・四月堂は東大寺にあるが、正月堂は笠置にあるのだそうだ。

笠置寺は初めは東大寺系であったが廃れ、解脱上人によって興福寺系として復活し、室町・江戸期はどうだったのかは知らないが、いまは真言宗智山派というから京都・智積院に属するわけだ。

弥勒仏は変わらねど宗派は変わる。

千手窟の右隣にこれまた巨石が並んでいる。太古は1つの岩であったようだが半分に割れて、右側の岩には虚空蔵菩薩が彫られている。

こちらは近くに建物がなかったせいか戦火にも焼けず、きれいに残っている。

高さ約10m。弥勒仏と同じく奈良期に彫られたらしい。


虚空蔵菩薩の下を左にまわると、「胎内くぐり」がある。ここをくぐって抜ける。長さは3〜4mほど。

見えるのは「太鼓石」である。3つの大石があるが真ん中の石(太鼓石の柱がある後ろの石)

ある部分を叩けば太鼓のごとく音が出るそうである。叩いてみた。特に叩く部分に目印はついていないから、適当な箇所を叩いてみたが、べたぺたと掌の音がするだけであるし、手が痛い。

ところがポンポンと音を発する箇所があるではないか。心なしか叩いた掌が跳ね返るような感触もある。岩の一部に空間ができているのか、確かに音がでる。木魚のポクポクに近い。大満足して去る。

住職は絶対に音の出る位置にマークをつけてはならない。位置を探すことが面白いのだから。

太鼓石の下をくぐって、向こうへ出ると登りの石段となる。

奥向こうの2つの石は「ゆるぎ石」。石は1mほどの長さであったか。底面が丸く、ちょうど重心が真上にあるので、石を押せばゆらゆら動くそうである。

やってみる。しかし動かない。石の下に土がたまっているのかも知れない。この石は元弘の乱のおり、本性房が崖上から敵に向かって石を投げたように、敵兵を撃退するためにこの場所に運ばれたものであるという。

しかし笠置勢は敗走し、使われずに放置された。1331年のことだから、勘定してみると675年ほども昔のことである。土も溜まるだろう。


ここからは木津川の眺望がきく。北東の方向である。川を上れば大河原、月ヶ瀬、島ヶ原、次が伊賀上野である。川の左にある道は旧伊賀街道、今は国道163号線。

また石段を登っていくと、これはまあ笠置山で一番の巨石である。


「平等石」というらしい。寺で貰ったパンフレットには「ここからの眺めは最高」とあるが、この岩を這い登るにはちょっと勇気と体力が要りそうである。

ここで月見をしたともいうから、数人が座って「月見で一杯」としゃれたのか。一人くらいは酔ってころげ落ちたかも。


平等石の端っこは割れ目ができていて、この間を通り抜けるのである。割れ目はそれほど大きい。石はもっと大きい。この割れ目を「蟻の戸渡り」と呼ぶ。蟻が一列になって進むように、人も一列になって割れ目を抜けていくのである。

(それにしても、くぐったり、通り抜けたりが多い道である。)


「笠置自然公園」があったのでいってみる。

そこにあったのは「貝吹き石」。これも大きい。岩のてっぺん付近に、4〜5人が座れそうである。 貝とは法螺貝である。この岩上で法螺貝を吹いたのは、修験行者であり、笠置寺に立て籠もった天皇軍である。

立て籠もった天皇軍は2500人。山を包囲する幕府軍は75000人である。地形を利用して当初は善戦した天皇軍も疲れ、9月28日に笠置は陥落する。それも50人ほどの手勢を引き連れた陶山義高の奇襲によってである。

各所から火の手が上がったとき、天皇軍は大軍による大襲撃と錯覚して大混乱となったようである。 天皇は楠木正成のいる赤坂城へ向けて脱出する。



貝吹き石から西を見る。木津川を下ると加茂。次が木津。

8月24日、京都の御所を女房車に乗って脱出した後醍醐天皇は、奈良街道を南下し、木津へ来て、木津川に沿った伊賀街道を進んで笠置に来たのであろうか。そのときの移動は牛車によったに違いない。笠置山へ登るときはどうだったのか、輿に乗って運ばれたのか。

しかしこのたびの敗走は天皇みずからの足で逃げたようである。護衛する兵らとはぐれ、わずかの近習らと潜んでいるところを捕らえられてしまう。


後醍醐天皇の行在所跡への石段。行在所跡は笠置山の山頂であるようだ。

逃げ惑っているとき詠んだ歌は、

  さしてゆく  笠置の山を
  出てしより  天が下には
  かくれがもなし

である。差していく傘がないのに(笠置)山を出ていかねばならない。どこにも隠れる場所がない。どうすればよいのか。後醍醐天皇はここで初めて現実的な逆境・逆風に出くわすのである。


行在所跡。ここで「南の木」の夢をみて、楠木正成を笠置に呼んだ。正成ははじめて天皇に拝謁し、赤坂での挙兵を誓った。その場所である。

脇から入ってみると、100坪かそこらの広さでしかない。

行在所の前にある大きな石が歌碑となってある。

  うかりける    身を秋風に
  さそわれて   おもわぬ山の
  紅葉をぞ見る

これは笠置山に行幸したばかりのときの歌である。行幸したのは8月27日。新暦では9月であろう。もみじが紅葉していたかどうかはわからないが、「思わぬことになった」の想いである。

それから1か月後が先の「かくれがもなし」の歌である。

スタート地点の大師堂に戻ってきた。笠置山頂付近をひと回りした。

帰りは車道を下る。ゆっくり下って35分ほどで駅に着いた。


駅の連絡橋から笠置山を振り返る。山は標高288mの高さでしかないが、 駅前にあった元弘の乱の絵巻によれば、

 笠置の城と申すは
 山高くして 一片の白雲 峰を埋み
 谷深うして 万仭の青岩 路をさえぎる。

となる。漢詩調の大げさな表現である。ではあるが異例の人、後醍醐天皇が初めて幕府軍と戦った場所である。

捕らえられた天皇は翌年3月に隠岐へ流されるが、この後、大塔宮・護良親王が吉野で挙兵、ついで楠木正成が赤坂城を奪還する。

翌々年(1333)に天皇は隠岐を脱出し、足利高氏が天皇方について挙兵、新田義貞が鎌倉を陥落させる。という大逆転がおきる。これは吉野山に行ったときに知った。


JR関西線は1時間に1本の便である。2時20分の列車に間に合った。(1車両だけの運行だから列車とはいわないか)

笠置寺はなかなか面白かった。参詣客が少ないと嘆かれていた笠置寺の住職だが、大丈夫、笠置寺にゆかりある歴史上の人物は大物がそろっている(大海人皇子、良弁、実忠、解脱上人、後醍醐天皇)し、岩場めぐりもほどほどの距離で愉快だった。しだいに観光客は増えるにちがいない。

今日の万歩計は7700歩。これまでで最も少ない歩行数だった。


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