岩船寺から浄瑠璃寺

    No.45.....2006年7月8日(土曜))


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2週前に笠置山を訪ねた。今日はJR関西線の次の駅である「加茂」へいった。

笠置から帰って観光ガイドをみていたら「極楽浄土の世界が広がる浄瑠璃寺」のキャプションがついた写真が載っていた。「極楽浄土の世界」なのである。これは行って見ねばなるまい。

アジサイは梅雨時の花であるから、この花を見るためには、行楽途中で雨に合うことを覚悟しておかねばならない。


アジサイをとるか、雨に濡れることをとるか。加茂地区の天気予報は午前中は30%、午後は40%の降水確率だった。悩みつつやってきたのだ。

だが、JR加茂駅前は思ったより立派であった。バスがあり奈良へ通じているらしい。さらにはなんとタクシー乗り場もあるではないか。 急に心強くなった。いざとなれば、タクシーを呼べる。

バスの時刻表を見ると「エヌシーバス」というのがあって、加茂駅→岩船寺→浄瑠璃寺・・・→加茂駅に戻る路線のものは日に5便あった。今は10:40である。直前の便は10:15に出ており、次の便は13:15である。これはダメだ。予定している時間にまるで合わない。

両寺は奈良との県境近くにある。ひと山越えると若草山・春日山なのである。東大寺とは背中合わせといってもよい位置にある。

駅前から向こうに見える山が大和と山城の境であろうか。奈良から見ると、この地は「山の背」すなわち「やましろ」なのである。

タクシーは1台だけが乗客待ちしていた。


加茂町の人口は16000人。それも20年ほど前に住宅地が開発されて、一気に人口が倍増したらしい。新しく越してきた住民は、奈良・京都・大阪に通勤しているようである。

タクシーの運転手さんは地元の人であった。「加茂駅はJR大和路線の終点である。大阪まで1時間5分でいける。」とちょっと自慢したあとで、地生えの人間の立場から、「新しい住民は勝手である。もとからあったゴミ焼却場は、住民の反対運動によってなくなってしまった。だから加茂には焼却場がない。焼却場があるのを承知で越してきたのだろうが。」とぼやく。

ゴミはどうしているのかと問えば、「三重県に運んで処分してもらっているらしい。」三重県民である私としては迷惑なことである。自分のことは自分で始末しましょう。


「テクテクまっぷ」にあった「西畑口」バス停で降りた。タクシー料金は2010円。(上図)

向こうの小山に岩船寺があるらしい。


「六体地蔵」があると、まっぷにも道案内にもあったので、岩船寺への道を逸れる。山の斜面は段々畑。ナスが実っている。黄色い花を咲かせたばかりのものもある。


途中から山道となるが、軽トラックくらいは通れそうな道幅はある。ちょっと急坂になって、そこを登ると「六体地蔵」があった。

案内板に、「死者の霊が迷い苦しまないように墓地の入り口には、六体揃った地蔵尊がまつってあります。」とある。ははあ、ここは墓地の入り口であるのか。

六地蔵は多い。毛原廃寺を訪ねたときも「四辻の六地蔵」があった。京阪電車で宇治へいく途中に「六地蔵」という駅もある。地蔵はどうも6人のグループであるらしい。「日本昔ばなし」の笠地蔵も、今思えば6地蔵ではなかったか。

釈迦が涅槃に入って、56億7000万年後に弥勒菩薩が現れるまで、現世に仏はいなくなる。衆生は地獄道→餓鬼道→畜生道→修羅道→人道→天道の六道をグルグルと輪廻するほかはない。


それを救済するのが地蔵である。六道に応じて6人の地蔵があるのだそうである。(さっき調べた)

木の墓標が立ち並んでいる。「平成18年5月」と墨で書かれた新しいものもある。墓は同じ方向を向いている。その前に2体の石の地蔵があって、これを受け止めている。

地蔵が墓に向かって説教をしているようでもであり、墓が地蔵に救済をお願いしているようでもある。なるほど。無信心の私にも地蔵の役割がやっとわかった。



岩船寺に着いた。正式には、真言律宗・高尾山・岩船寺という。

入山料は300円。同時にパンフレットを頂いたが、ポケットに突っ込んでいて落としてしまった。

拝観中はパンフレットはザッと目を通すだけで、よくは読まないようにしている。自分が気づいたこと、感じたこと、記憶に残ったことだけが大切であり、あらかじめココを見るべしのガイドを知ると、「みなくちゃならん」の義務感が出ていやなのである。

帰宅して、パンフレットをじっくり読んで、そうだったと思いだすのが楽しみである。見落としていても、そう惜しくも悔しくも思わない。 ただ今日はパンフレットをもとに、振り返ることができないので残念だ。



アジサイはまだ咲いていた。

この寺には@三重塔(室町期)、A本尊の阿弥陀如来坐像(平安期)、B厨子入り普賢菩薩像(平安期)、C十三重石塔(鎌倉期)、D五輪石塔(鎌倉期)、E石室不動明王 、の6つの重文がある。

向こうの三重塔も重文であるが、新しく修復したものらしく、色鮮やかである。


石で作ったお堂の正面に、不動明王が彫られている。これも重文。

その左右の壁というべきところに、5つ6つの人形ようのものが並べておいてある。

土でできた不動である。神社の絵馬のようなものか、お礼参りに納めたものかは知らぬが、高さ5cmほどのマスコットのような不動である。

本堂。

寺の縁起はたいそうなものである。天平期、聖武天皇が発願し、行基に「阿弥陀堂」を作らせたのが始まりである。平安になっては弘法大師の甥である智泉が報恩院を建てた。とある。

往時は39坊を構える大寺であったようだが、1221年の承久の乱で伽藍は焼失し、その後復興するも、本堂と三重塔だけの規模になったらしい。

本堂前の池には睡蓮が水面を埋め尽くしている。白い花がぽっぽ、ぽっぽと咲いている。



蓮は浄土の花である。泥中に根を張り、水面に葉を広げ、白い花を咲かせる。シャガのように清流でないと咲かないわけではない。泥の中から清らかな花が生まれるのをみて古代のインド人は感心した。これぞ仏の世界に咲く花であると。

あるいは、孔雀が毒虫や毒蛇を食っても死なないことに驚き、孔雀明王とした。これは司馬さんがなにかで書かれていた。(ついでに大乗仏教が発生していく過程について書かれていたのだが、面倒なので今日は調べない)

アジサイの路は、三重塔の横を通って、さらに山に向かって伸びている。お年寄りのまじった参詣客が多かった。老いると体が縮む。歯は抜け、腰も曲がり気味となる。老夫妻とその母親であろう、さらに小さくなった老婆の3人がアジサイの坂道をゆっくりゆっくり登っている。

老夫妻は寡黙である、老婆だけがあれこれと話しかけ、自分で納得しては笑っている。老家族である。わたしはさっさと追い越したが、明日はわが身だ。

承久の乱で焼けたというから、岩船寺は後鳥羽上皇に味方したのであろうか。

源頼朝が平家を討ち、鎌倉に幕府を構えたがまだ平安期の気分や公家の秩序が残っていた。幕府は単に関東を治める軍隊の位置づけであり、朝廷はなお日本を統べる最上位の位置にあった。

後鳥羽上皇は鎌倉幕府に匹敵する荘園をもっており、幕府を討つ力もあると信じていた。頼朝が亡くなったあと、幕府執権の北条義時追討の院宣を発する。

だがすでに公家の時代は終わっていた。幕府軍に応じる兵は19万騎にのぼったという。後鳥羽上皇は隠岐へ流され、持つ荘園は没収される。ここで幕府と朝廷の立場は逆転し、鎌倉幕府は国の統治権を得る。

本堂には平安期(946年)に作られた阿弥陀如来がある。

阿弥陀如来としては早い時期に作られた仏像ではなかろうか。この後訪ねた浄瑠璃寺でもらったパンフレット(これは実に簡略かつ適切にまとめられていて、よいパンフレットだった)によれば、
  1. 946年、岩船寺に阿弥陀如来を造る。
  2. 985年、源信が「往生要集」を著す。
  3. 1047年、浄瑠璃寺創建。
  4. 1052年、末法に入る。宇治・平等院鳳凰堂が完成。
  5. 1120年、中尊寺金色堂が完成。
  6. 1185年、平家滅亡
とある。死後の世界に「地獄」があると脅したのは源信である。この世は穢れている。人は悪行によって地獄に落ちる。地獄に落ちずに極楽浄土にいくにはひたすらに念仏を唱えるほかはない。そう説いた。

「欣求浄土(ごんぐじょうど)」「厭離穢土(おんりえど)」である。徳川家康の旗印はこの文言である。

急速に阿弥陀如来信仰が高まるのが、末法に入ったとされた1052年の前後である。藤原頼通は巨費を投じて、宇治川縁りに平等院・鳳凰堂を建立する。阿弥陀如来を作り、鳳凰を模した類例のないお堂に収めた。堂は朱漆で塗られ、内部は豪華絢爛の絵が描かれてあった。臨終にあたっては阿弥陀仏と本人の指を糸で結び、西方極楽浄土に生まれ変わることを願った。



本堂。中央に阿弥陀如来、それを囲む四天王がある。

阿弥陀如来は一木造りであるという。如来像は「半丈六」の高さである。丈六とは1丈6尺=16尺=4.8mである。半丈六とは丈六の半分で2.4m である。これほどの大きさの仏像を掘り起こすほどの巨木は、簡単に入手できない。その大きさだけでも価値がある。

四天王の右横に「興正菩薩」の像があった。興正菩薩とは奈良・西大寺の叡尊のことである。像は灯明や線香の煙で燻されて真っ黒であるが、眉が八の字に下がった特徴ある顔つきをしておられる。

本堂脇に岩船寺の写真やお守りを販売する一角があって、ここで軽やかに参詣客の質問に答えられているのは、住職と見受けられた。「興正菩薩というのは、西大寺の・・・・」と言いかけたら、住職は、「叡尊です。このお方はずいぶん多くのお寺を復興なさいました。」と答えられた。

ここでも叡尊が活躍している。ついでのことなので「不動明王の際に小さな人形のような不動明王が並べられていましたが?」と問うと、「それは土鈴(どれい)でしょう。そこにあります。」思わず買った。

(左図)不動は憤怒の表情ではなく狸のようである。振ればコロコロと音を発する。




岩船寺を出て、寺の南へ迂回する。石仏を巡る山道となる。右は「三体地蔵」。大きな石の上部に3体に地蔵が彫ってある。

前回のテクテクの続きである。吉川本「親鸞」を読み終えて、丹羽文雄の「親鸞」を読んでいる。丹羽本を読み始めて、吉川本は「小説」に力点を置いたためか、あまり史実にもとづいていないことを知った。

ストーリーの展開のために、脇役として架空の人物を登場させるのはよい。しかし親鸞ご本人のことについて、事実を曲げるのはどうか。

吉川本には、親鸞の初婚の相手は先の関白である九条兼実の娘であるとしてあった。九条兼実の弟は天台座主の慈円である。




慈円は「愚管抄」の著者である。さきほど書いた承久の乱についても詳しく(年月日つきで)記述しており、鎌倉初期の第1級の歴史文献となっている。

吉川本を読んだとき、親鸞はこれまたすごい地位にあった人々と縁戚関係にあったのだなと思ったが、これは真実ではない。

丹羽本によれば、慈円によって親鸞は得度しているが、先の関白九条兼実とは無縁である。(吉川本は「親鸞聖人正統伝」から九条兼実の娘としているが、室町期にできた伝説にすぎないと丹羽さんは書かれていた。)

少し登り坂を喘いだが、下り道が大半であった。やがてバス道に出た。

丹羽文雄は初めて読む作家であるが、感心している。史実をよく調べてある。調べすぎて、原典からの引用が多すぎて、やや難解な箇所もあるが、これは私が無知なせいである。




「弥勒の辻」にある弥勒の磨崖仏。1274年に笠置の磨崖仏を写したものであるの案内板があった。

丹羽本「親鸞」は膨大な資料を基にして、物語はゆっくりゆっくり、ただし大河が滔々と流れるように進行する。

丹羽文雄の実家は、三重県四日市市にある浄土真宗高田専修寺派のお寺である。幼児より親鸞にはなじんでいたのだから、この大作「親鸞」が書けたのかと思うと、違う。

親鸞は妻帯の僧であった。妻帯すること(人間が根源的にもつ愛欲)と、仏に帰依して往生すること、の矛盾に苦しんだようである。


「正覚」というのは悟りを得ることである。正覚し、如来になったのは釈迦しかいない。行基は菩薩である。叡尊も菩薩である。

「悟り」を得るには難行道を歩まねばならないというのが聖道門である。難行苦行を経て人間の煩悩を捨て去ることによって、サトリを得て安心立命する。

丹羽本によって知ったのであるが、法然上人に敵対した旧仏教側の最大の理論家である明恵上人は、女犯を怖れて自らの耳を切断したという。


「まっぷ」に従って歩いている。まっぷには道々にある石仏の書き込みがある。岩船寺を出てからは、@三体地蔵、A首の欠けたお地蔵さん、B弥勒磨崖仏、Cわらい仏、D一眼不動明王、Eカラスの壷、F地蔵ニ面磨崖仏、G地蔵三尊磨崖仏・・・である。

まるでオリエンテーリングである。石仏を発見するたびにスタンプをもらうようで、面白くない。

前には若い男女のカップル、後ろは10人ほどの女性集団の間にはさまれてしまった。先を急げば男女がいて、カメラを向けるとどの画面にも姿が入る。歩を遅らすと10人の集団がばらばらと追いついてくる。集団とは3度・4度と挨拶を交わした。「また会いましたね」。


「笑い仏」があった。大きな石の下段に彫られてある。中央が阿弥陀如来。右は観世音菩薩、左が勢至菩薩である。

阿弥陀如来はわかるが、観世音菩薩や勢至菩薩はどこで判断できるのか。私の無知なところである。

「わらい仏」は彫刻当時とは違って、左に、さらに手前に傾き、船底で荒波に揺られているようであった。船酔いなさらぬように。

丹羽さんのことである。丹羽本「親鸞」の巻末に驚愕の解説(大河内昭爾)があった。 これによれば、 丹羽さんの母は浄土真宗高田派の寺の娘であり、ために養子縁組をした。ところがその夫(丹羽さんの父)は女性にだらしがなかったようである。

言うのも気分が悪いが、義母と不倫する。母はこのことを知って 出奔するのであるが、それは旅役者のあとを追ってである。 父の乱交は続く。檀家の妻女と不倫を重ねたすえ、父は亡くなる。

うーむ。たまらんなあ。自分を生んだ父・母が、よりによって、親鸞が悩んだ(それは妻帯という今ではなんでもない問題であったのだが)愛欲の10倍・100倍・1000倍の醜さを息子の文雄氏の眼前に投げ広げるのである。

丹羽文雄の「親鸞」に対する問いかけは激しかったに違いない。この母を、この父を、親鸞聖人はどう思われるのか。

義母と不義密通することも、寺を捨てて旅役者を追いかけるのも、煩悩である。この煩悩を「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と、心の整理をすることは常人には難しい。

右は「一願不動」。大岩の下部1/3のところに彫ってある。

まっぷのとおりに進む。次図は阿弥陀仏。この道にある石仏は、地蔵か不動か阿弥陀仏のどれかである。





阿弥陀仏は西方極楽土を統べる仏である。平安後期に世は末法の時代となった。人は死ねば生前の悪行から地獄に落ちると人々が信じたのは源信の「往生要集」からである。極楽に行くにはどうすればよいか。源信は念仏を唱えるべしと説いた。

法然は、さらに進めて、救われるには雑行を捨てひたすら念仏をとなえよといった。専修念仏である。

親鸞は念仏をとなえれば、なぜ救われるのか。そのシステムを追求した。丹羽「親鸞」は読みかけであるので、今のところここまでのことを知っただけだが、丹羽さんはこのあと答えを用意してくださっているに違いない。

図は小川にかかる石橋。一枚の大石をかぶせて橋としている。




阿弥陀仏。 これでオリエンテーリングは終わりとする。多くの石仏を見た。

石仏が作られたのは鎌倉期以降のことである。この時期から仏教は民衆のものとなったからである。

その扉は法然がこじ開けた。


浄瑠璃寺であろうか。

バス停があって、時刻表を見ると13:49と15:59の2本がこの時刻の便である。今は12:30。13:49の便で帰ることに決める。

予定ではこの先にあるいくつかの石仏を見るつもりだったが、オリエンテーリングには飽きていた。雨には遭わなかったが、その代わり蒸し暑く、体が汗でべたべたである。


浄瑠璃寺への参詣道。2軒の土産物屋と2軒の食堂がある。

右手にある「塔尾茶屋」で昼飯にする。店内は広く、団体客のために40〜50席もあるかと思われたが、客は誰もいなかった。 南北にある一面の窓が開けられていたので、風が入ってくる。ひと心地ついた。

首には汗取りのためにタオルを巻いていた。テクテクでタオルを持参したのは初めてだが、これは正解だった。奈良・京都の市内を観光するにはタオル巻きはやや気恥ずかしいが、ここは「当尾(とうの)」である。タオル巻きでも平気で歩ける。

山芋とろろ定食を食べた。


浄瑠璃寺。

山門は北面している。門をくぐる(すなわち南に進む)と、正面に池があり、右手(西側)に阿弥陀堂(本堂)がある。池を挟んで左手(東側)には三重塔がある。

先にもいったが浄瑠璃寺のパンフレットは秀逸である。これによれば「顕教四方仏」というのがあって、@東に薬師如来、A南に釈迦如来、B西に阿弥陀如来、B北に弥勒如来、の浄土があるらしい。

浄瑠璃寺は、この考えによって、東に薬師如来を祀る三重塔、西に阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂を構えている。


西の阿弥陀堂である。ここにはなんと9体の阿弥陀如来が勢ぞろいしてある。




阿弥陀堂の前から東を見れば、池(宝池)があり、向こうに三重塔がある。東の薬師如来、西の阿弥陀如来が池をはさんで向き合っている構図である。

境内に入るのは無料である。阿弥陀堂に入るときに拝観料300円を払えばよい。

国宝の三重塔、これまた国宝の阿弥陀堂、そのあいだにある宝池。これらは一体となって平安期にイメージした極楽浄土を表現しているのである。(ついでに言えばこの寺全体が国指定の特別名勝・史跡である)

境内に入るだけで参詣料を払う値打ちがあるように思えるが、浄瑠璃寺は鷹揚である。




九体阿弥陀仏(国宝)を拝観する。

下駄箱の上の花瓶には桔梗の花が投げ入れてあった。浄瑠璃寺のかたがたの気遣いである。藍色の桔梗を見るだけで、この寺の品格が知れる。

隣にトトロの人形がおいてあったが、これはこれで花を生けたひとの人柄がしのばれる。小さな子供さんがいる(いた)のでしょうなあ。






九体阿弥陀如来である。うなった。

撮影は禁止である。あまりにもよかったので、パンフレットに載っている小さい写真を撮ったもの(手ぶれがひどいが)を掲げる。中央に大きな(丈六の)如来があり、その左右に各4体の如来がある。9体の阿弥陀如来が勢ぞろいして東を向いている。

9体の阿弥陀如来があるのは、往生のしかたには9つのランクがあるからであるらしい。すなわち、ここへ来て拝めば、どのランクの者でも極楽へ往生できるのである。


阿弥陀堂を出て、宝池の脇を過ぎようとしたら、人の気配を察して鯉が寄ってきた。

ここでは麩を売っていないから、餌をあげることはできない。すまんな。


池の傍に手水鉢のようなものがあって、睡蓮の花が開いていた。小浄土である。


三重塔(国宝)は東側にある。東方にあるのは薬師如来が教主であるところの浄瑠璃浄土である。

瑠璃とはラピスラズリのことである。青あるいは藍色の宝石である。油絵の具でいうウルトラマリン色である。

中国の宋あるいは元時代の染付け(そめつけ)は白磁に藍色の絵付けがしてあって、これは焼き物のうちでの最高傑作であると思っているが、藍色はラピスラズリを擦り潰したものである。鮮やかで気品がある発色をする。

寺で頂戴したパンフレットには「薬師仏は東方浄土の教主で、現実の苦悩を救い、目標の西方浄土へ送り出す遣送仏である。」とある。

またこうも書かれている。

「まず東方の薬師仏に苦悩の救済を願い、その前でふり返って池越しに彼岸の阿弥陀仏に来迎を願うのが本来の礼拝の形である。」


振り返って阿弥陀堂を見る。池の手前では10人ほどがスケッチをしている。池の向こうからこちらの三重塔を向いてイーゼルを立ててスケッチしている人がある。向こうの「画家」たちは3人ほどである。阿弥陀堂のほうが人気があるようである。

スケッチブックを広げていると、雨が降ってきたことがいち早くわかるとみえて、「あっ。また雨が降ってきた」と「画家」が仲間に声かけた。大降りになればかなわない。浄瑠璃寺を去ることにする。



13:49のバスに間に合った。バス賃は310円。

バスを降りて気づいたが、バスには三重塔が描かれてある。浄瑠璃寺の三重塔のようである。




阿弥陀堂内で線香を売っていた。4種類ある。どれが人気が高いのかと尋ねたら、800円の「吉祥」であるという。9体仏の中央の丈六仏の左側に吉祥天女の厨子(像は平時は非公開)があり、右側には地蔵菩薩立像があったが、どちらも重文である。吉祥天にちなむ線香のブランドらしい。

1000円の「瑠璃光」を求めた。今年のお盆はこれを使う。

万歩計は9700歩であった。


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