四日市と一身田専修寺

    No.46.....2006年8月5日(土曜)


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三重県第1・2位の町である四日市市と津市を訪れた。

6月から7月にかけて、丹羽文雄の大作「親鸞」を読んだ。親鸞の教えは、いまいちしっくりとこず、よく理解できなかったのだが、巻末の解説に仰天したことは前回いった。

仰天とは、真宗の住職である丹羽さんの父の義母との不義、これを知った母の出奔、さらに続く父の不倫(檀家の妻女との密通)である。この父・母・祖母・幼年期の丹羽さんをモデルにした小説が「菩提樹」であることがわかった。

アマゾンで「菩提樹」を購入しようとしたが、新刊はなかった。古本(文庫)が1冊あったので購入した。20年前の本で定価が600円だが、古本でも580円の値がついていた。


丹羽さんは1904年(明治37年)11月に生まれて、昨年2005年4月に亡くなられている。なんと100歳である。晩年の10何年間は痴呆症で療養されていたようであるが、大変な長命である。

「菩提樹」の舞台は四日市市のはずれにある仏応寺。そこに住むのは、@月堂宗珠(父39才)、A蓮子(母30才)、Bみね代(祖母53才)、C良薫(本人8才)、その他に下男の松寿(先代の弟66才)、女中のお杉の6人だった。

物語は母が出奔して1か月後から始まる。周囲の大人らは母の出奔の原因を知っているが、子供の良薫は知らない・わからない、ただただ母を失ってさびしい。訪れたのは
  1. 四日市市立博物館
  2. アピタ(スーパー)
  3. 鵜の森神社
  4. 崇顕寺
  5. 諏訪神社
  6. 三滝橋
である。図の赤線がたどったルート。ピンク線は旧東海道。


近鉄四日市駅から2〜300mのところに四日市博物館がある。市民公園を囲むように博物館、地域産業振興センター、ララスクエアという商業ビルがあって、まだ新しい。

公園にはお祭りか盆踊りかのやぐらが設営されている。近々お祭りがあるらしい。

「菩提樹」では仏応寺(崇顕寺)は丹阿弥市(四日市)の街外れにあるとあるが、地図を見ると「外れ」どころか中心地にある。近鉄四日市駅からわずかに4〜500mに位置する。

これは四日市の中心街が戦前と戦後では大きく違ってきたためである。もともと中心街はJR四日市駅であった。

小説の時代は明治末から大正初期であるが、当時の四日市市は小さかった。確かではないが、北部の三滝川(みたき)と南部の鹿化川(かばけ)にはさまれた狭い地域が「旧四日市市」であったようである。

その後5度の市町村合併によって四日市市は拡大するのであるが、丹羽さんの幼少期はまだ「旧四日市市」であり、これによれば四日市市の「外れ」となる。



太平洋戦争末期に四日市は9度の空襲を受けて、市街地の半分が消失する。それからの復興によって四日市は変貌しただろうが、決定的に変わるのは、近鉄が現在の位置に「四日市駅」を移してからである。

もともとは近鉄はJR四日市駅に乗り入れていた。右図の逆S字の赤線(推測もはいっているが)が旧路線だったかと思われる。海山道(みやまど)駅を出て、線路は西に振れ、鹿化川(かばけかわ)を渡ってJR線に向けて45度東に向く。

JR四日市駅に隣接して駅舎があるが、ここから90度西を向いて進むと「諏訪駅」があった。諏訪神社の南である。ここを出ると、再び90度向きを変えて現在も同じ位置にある「川原町」駅に至る。

JR四日市駅に乗り入れるために、近鉄の線路は「海山道」駅から大きく左に振れ、右に振れ、再び左に振れるという、急カーブの連続であった。

カーブでは当然に電車は徐行しなくてはならない。津-名古屋間のダイヤを短縮することは近鉄の大きな課題であったようだ。この状況を打破すべく、名古屋線は「海山道」→「新正」→「近鉄四日市」→「川原町」のルートに変更される。近鉄はJR乗り入れをやめて、近鉄独自の路線を作り、諏訪駅を廃止して新たに「近鉄四日市」駅を作ったのが昭和31年(1956年)のことである。

昭和33年(1958年)にジャスコの前身である岡田屋が駅前に出店し、昭和35年(1960年)に近鉄みずからが駅前に近鉄百貨店を建てるにおよんで、近鉄四日市駅は四日市の中心街になる。(四日市在住のIさん方に問い合わせたらジャスコはもうないということだった)



市立博物館に行ったのは、四日市についての概要がわかればというつもりである。開館は9:30からで、着いたときちょうどガードマンが扉を開けた。

夏休みとあって昆虫展「虫・ムシ大集合」を開催しており、これには別途料金がいるようであった。写真は2階から1階入り口あたりを撮ったもの。昆虫展のため、トンボやハチが高い天井から吊り下げられている。

受付で常設展だけを見たいというと入場料は210円。 ざっと見ただけだが、四日市に固有の展示は、@中世の「市」の成立、A江戸期の東海道53次の宿場としての発展、B戦後 のコンビナートと公害 の3つのようであった。小1時間館内を廻る。


博物館を出て、隣にあるアピタで帽子を買った。3000円の30%OFF。

帽子を被り慣れていないものだから、頭が蒸れるのではないかと危惧していたが、今日のテクテクでは、蒸れず、頭皮にたいした汗もかかず、日差しを感じなかった。帽子の効用はたいしたものだということがわかった。

アピタの入り口に、「8月5・6日 御諏訪神輿渡御」のポスターが貼ってあった。これは運がよい。諏訪神社のお祭りを見ることができるか。

今日(8月5日)の渡御スケジュールを見ると、12:00受付開始、14:00宮出し とある。午後2時には四日市にはいない。神輿を見ることはできないが、神社はそれなりに賑やかであろう。


博物館から200mのところに鵜森公園および鵜森神社がある。小説では「鷺の森」となっているが、良薫と友達のよき遊び場であった。

丹羽さんは書いている。『家々から1キロほどはなれた鷺の森は、田圃の中の島のように見える。菜の花時には、黄色の海の中に浮いた緑の島となった。』

鵜の森は、昔は城であり、周りには堀が掘ってあった。そのころはすでに埋まっていたが、それでも歩こうとすると大人の胸のあたりまで沈んでしまう。

『5000坪ほどの鷺の森は、良薫の感覚に、はかり知れない深い山を連想させる。森の中には、丘あり、谷あり、広場があり、良薫と友達と3人がかりで漸く手を回すことのできる杉の木が何本となく、空を蔽っていた。』

良薫たちは、斜めに立っている杉の幹を駆けのぼる遊びをした。4〜5m駆け上って、上昇力がゼロになった瞬間にくるりと体の向きを変えて駆け下るという遊びである。しかし今は公園を見渡しても杉の木はないようである。


丘には乙女椿の大樹があって、ここに登って椿をもぎとって花の蜜を吸った。『次から次に乙女椿をつまみとり、吸いあげ、軽く噛んではすてながら良薫は、家出した母親を思い出す。』

丘は見当たらない。公園は平地である。椿の木もない。(帰宅したあとで、公園内に丹羽文雄の歌碑があることを知ったが、これも目にはいらなかった。)

写真は鵜森神社。小説の中で『祭礼のときだけ丹阿弥の神社(諏訪神社のことである)から神主が出張した。』とあるが、今もそのような感じである。祭神は天照大御神が主神。


御霊社として田原忠秀以下4名を祭ってある。

石碑が立っていた。田原忠秀が1470年にこの地に浜田城を築き「浜田」を名乗った。街を作り、東海道をずらし、市場を開き、今日の四日市の基礎を作った。とある。

浜田家は100年後(1575年)の織田信長の伊勢侵攻によって滅ぼされ、浜田城の歴史は閉じた。ともあった。

これから行く崇顕寺(小説では仏応寺)は浜田町にある。浜田と名がつく町は、浜田町・中浜田町・北浜田町・西浜田町・南浜田町があって広い。室町期の築城当時から丹羽さんの子供時代まで、浜田地区の多くには田圃が広がっていたのだろう。


「菩提樹」の仏応寺以外の主な登場人物は全部檀徒である。D檀家のうちで最も資力のある山路茂輔、E理知的な共産党員の館要助、F山路に囲われている美しい小宮山朝子。

他に愛欲の諸相を表現するために、説教僧に心を奪われる未亡人のお松、浮気で一時手当てをだしていたが、別れ話から憎しみ合う会社役員の伊福部とその相手の未亡人の鶴子、宗珠に茶を習うことに執心する置屋のおかみの「なか」、宗珠の後妻に納まりたい出戻り娘の種子。女性のどれもが未亡人あるいは離婚者である。

境内に神社整備の費用を出した奉賛者の木札が掲げられていた。「山路」という名前が4人あった。それも大きな札であったので、浜田では山路という家は有力な家系であるのかも知れない。「丹羽」の姓も目についた。「館」もあった。丹羽さんは馴染んだ地元の名前を小説で使っている。



鵜森神社の鳥居前の道を300mほどまっすぐ進むと旧東海道に突き当たる。四日市は53次の43番目の宿場である。江戸から京にのぼるには、名古屋熱田の41・宮宿から船に乗り→42・桑名宿→43・四日市宿となる。

宿場は53次だけではない、53次の宿場と宿場の間にも宿場があって、やや廉価に宿泊できたようである。図の看板には、四日市宿から京へ向かって、日永(ここが東海道と伊勢参宮道が分岐する追分)→小古曽(おごそ)→采女(うねめ)の宿場が表示してある。


崇顕寺は東海道沿いにあった。「仏法山 崇顕精舎」の石碑が立っている。石碑の左面には「丹羽文雄生誕之地」、右面には吉川英治の揮毫であるの文言が彫ってある。どちらも「親鸞」の作者であるからその縁か。

小説によれば、山門は東海道に面して建っていたようであるが、今はない。奥にあるのは庫裏のようである。本堂とは思われぬ建物である。

「菩提樹」によると、山門のうしろに本堂があった。御所風の3坪ほどの玄関を構えた庫裏があって、本堂と庫裏、庫裏と奥書院が廊下で繋がっていた。

本堂の内陣には須弥壇に本尊の阿弥陀如来像が収まる厨子があり、また親鸞像の厨子があった。内陣の左右にある余間の床には、右に2副の文字の軸、左に真宗の7高僧(源信、法然など)が描かれた2副の軸が架けられていた。



寺の裏は国道1号線である。本堂か庫裏だか判然としないが、その向こうに3階建ての建物があって、「浜田保育園」とある。

境内には滑り台や乗り物の形をしたジャングルジムようのものが設置されている。建物の窓際には小太鼓が10個ばかり並べてあったから、園児は鼓笛の練習をするのであろうか。

推測するに、保育園の建つ場所に本堂があったのではないか。

小説の主人公の月堂宗珠の生家も寺である。仏応寺は住職が亡くなり、母子2人が残されていた。宗珠は学生時代に仏応寺の娘蓮子の婿となるべく養子となるが、母親の誘惑に負けて関係を持つ。娘が20才になったとき式を挙げ、良薫が生まれるのだが、義母との関係は続く。20年近く続いている。妻はようやくにしてこの事実を知り家出する。



東海道に戻り諏訪神社へ向かう。向こうのアーケードは四日市きっての商店街で「表参道・スワ栄」とある。

宗珠は浄土真宗高田派の末寺の住職である。200軒の檀家を抱えている。檀徒からは「ご院さま」と呼ばれている。義母との醜い関係を白状したい衝動もある。しかし檀家から見放され、僧の位置を失い、世間から抹殺されることを怖れた。

妻の出奔から半年たって、檀家もその関係にうすうすと気づいてきたが、ご院さまには面と向かってはいえない。檀家は再婚を勧めるようになる。




JR四日市駅と近鉄四日市駅をむすぶ広い道路を渡る。道路には特に名前はなく「70m道路」と呼ばれているらしい。正面の高いビルが近鉄百貨店。

このころ小宮山朝子が檀家になりたいと仏応寺を訪れる。朝子は仏応寺に掛かる費用の半分を負担するほどの有力檀徒である山路茂輔の囲われ者である。

山路は証券会社を経営しており何につけても即物的である。朝子に対しても手当てを出している以上、自分の思い通りのことができ、従順に仕えるべき女だと思っている。

宗珠は月に1度朝子の家に月まいりにいくうち、朝子に心を奪われるようになる。朝子も山路の傲慢さから逃れたいの気持ちから宗珠に引かれていき、とうとう二人は告白し合うのである。




宗珠は義母との関係を、朝子は山路との関係を解消しようと決心するのであるが、なかなかそうはいかない。 義母は逆上し、20年近く続いた2人の関係を檀徒にぶちまけるであろう。

宗珠は檀家から見放され追放されるだろうし、朝子は山路と絶縁すれば月々の手当てを失うことになるのである。告白し合ったその日から新たな苦しみが加わる。

諏訪町商店街。写真の筋に直交する2〜3本の商店街から成っている。ジャスコの前身の岡田屋もここに店舗を構えていたという。

「岡田屋の前に私の店がありました。岡田卓也さんとも昔は声掛け合ったものだが、いまは大きな会社になってしまいました。」と電話口でIさんがいわれる。




諏訪神社。今日は諏訪神社のお祭りであるが、時刻が早いのでまだ露店の準備をしているところ。

「菩提樹」に、諏訪神社のお祭りのことがでてくる。たぶんに丹羽さんの思い出を書きたかったがための章である。

『丹阿弥(四日市)の祭日は、3日間ある。最初の1日は各町内だけの祭りで終わるのだが、2日目は、東西南北と4つに分けられた、それぞれの区域を、祭屋台がねり歩く。・・・・最終日には、市の中央部にある丹阿弥神社(諏訪神社)に奉納の意味で、各町から祭屋台が結集した。』








博物館に練り物・山車の模型が陳列してあって、「明治期の各町内の出し物」というパンフレットがあったので貰ってきていた。諏訪神社の祭日であるなら、ひょっとして山車の1台でも見ることができるかと期待していた。

小説では、良薫の町の祭屋台は4台あって、初めの1台は造花の桜の大木、残り3台には、直衣(のおし)姿の老人、同じく直衣姿の壮年、十二単の女の人形、とある。

パンフレットの明治42年の出し物を見ると、「北浜田町」は和歌三神の飾り物(柿本人麻呂、山部赤人・衣通姫)とある。良薫の見た、老人は柿本人麻呂、壮年は山部赤人であろう。

衣通姫(そとおりひめ)とは誰のことだろうか。調べてみると玉津島姫がそうであるらしい。むろん玉津島姫のことを私は知らない。




良薫と特に仲のよい信ちゃんの町は「富士の巻き狩り」である。源頼朝以下名だたる勇将に扮し、狩衣裳をつけて練り歩く。信ちゃんは大猪の背に後ろ向きにまたがりこれを仕留めたという仁田四郎(にたんのしろう)の役である。の記述もあった。

パンフレットでは南浜田町が「富士巻狩り」とある。ほかに南納屋町・北納屋町・東袋町がそれぞれに「鯨船」、樋の町が「大入道」、南町が「天の岩戸神楽」などなど28町の出し物が掲げられていた。

もし丹羽さんの幼年時代と同じなら、今日は祭日2日目であろうから、東西南北の4ブロックで練り歩いているはずである。

しかしここまで歩いてきて、その1つも見かけることはなかった。この出し物はなくなってしまったのか。山車は空襲で焼けてしまったかも知れないし。

お化け屋敷の小屋があった。まだ開業してはいない。




諏訪神社の南では、東海道は1号線の西側にあるが、北は1号線の東側にある。

東海道を江戸方面に向かって北上しているのは、「なが餅」を買うためである。幅2〜3cm・長さ10〜12cmほどの薄っぺらい餅で、やわらかい餅の中にこれまた薄く粒餡が入っている。これを焼いて焦がしてある。

東海道四日市宿の名物である。表皮が香ばしく、餡も上品な味で、なかなかおいしい。出かけるときに「なが餅を買ってくるから」、と娘たちに告げて出てきた。






「なが餅」のメーカー笹井屋。本店である。近鉄電車の主だった駅、例えば名古屋・四日市・津市の売店では「なが餅」を売っている。売店で買えばテクテクの道中で持ち運びをしなくてもよいのだが、せっかくだから本家本元の店先で求めたかったのだ。

17個入り1500円の箱を求める。以後「なが餅」の入った紙袋を提げてのテクテクとなった。(帰宅したら、手提げの部分が汗でくたくた。掌で擦れてぼろぼろになっていたが。)


笹井屋は三滝橋の南詰めにある。川は三滝川である。江戸から上ってきて三滝川を越すと四日市宿の始まりである。

ここらあたりが古くは四日市の中心地であったことは、残っている町名からもわかる。 三滝橋から北町・西町・元町・中町、ついで中部・西新地・諏訪町・諏訪栄町・栄町。

写真の向こう右側に四日市港があるが、そこにある町は浜町・北納屋町・蔵町・南納屋町などである。往時は蔵や倉庫が立ち並んでいただろうことが想像できる。


三滝川の土手道を歩いて、近鉄四日市駅に向かう。だいたい1kmほどある。

四日市から津市にある浄土真宗高田派本山・専修寺に行くためである。


駅近くに「諏訪太鼓」を載せた車が走っていた。ここは太鼓だけでなく鉦の音も入っている。諏訪神社を出たところで「諏訪太鼓・翔」のオレンジ色の幟を立てた太鼓があったが、ここは大太鼓と小太鼓の組み合わせであった。いくつもの流派(?)があるらしい。

つごう4か所で諏訪太鼓を見た。聞いた。

あとでIさんに聞いたら、諏訪神社の祭りと同じ日に、市や商工会が主催する「大四日市祭り」が開催され、ここにわずかの出し物がでるらしい。諏訪神社は今は諏訪太鼓に変わってしまったそうである。


専修寺(せんじゅじ)は津市駅から2駅ほど四日市寄りにある「高田本山駅」で降りる。各駅停車しかないので、四日市→白子→白塚と小刻みに乗り換え、39分かけてやってきた。

1207年に「念仏停止(ねんぶつちょうじ)」の命が宣下され、法然は土佐へ、法然の主だった弟子6人も流罪となる。親鸞は越後に配流された。親鸞35才のときである。

竹の内草庵(新潟県上越市)を拠点にして専修念仏の布教をし、この地で2人目の妻を迎え子供を得る。配流5年目に法然の死と赦免を知り、その2年後東国へ向けて出立する。42才。

直接には稲田(茨城県笠間市)からの招きによったのだが下妻(茨城)に3年ほど滞在し、坂井草庵・三月寺草庵を拠点にして布教する。 稲田(茨城)へ移ったのは45才のときである。稲田草庵を中心にして東は笠間(茨城)・水戸・那珂湊・鹿島へ、南は下妻(茨城)、西は高田・宇都宮(栃木)で布教した後、1335年妻と5人の子供を連れて京へ戻ったのが63才。



東国は親鸞の教えを最もよく受け入れた土地であった。ここで多くの弟子ができる。筆頭は高田の真仏と顕智、横曽根の性信、鹿島の順信、水戸の唯円などである。親鸞が京に去ってからは、教義上の疑問がでると、高田門徒・横曽根門徒・鹿島門徒らはそれぞれに親鸞に文を送り、あるいは訪ねて、親鸞の言葉や文章を貰い受けた。

写真の一帯は「一身田(いしんでん)」と呼ぶ地である。

東国では親鸞が去ったあと小さな教団がいくつかできた。このうちで最も大きな門徒集団が高田であった。真仏が中心になって専修寺を建て、室町期になって伊勢の一身田に移る。移したのは10世真慧(しんね。1434〜1512年)である。



写真の川は毛無川。用水路である。正面遠くの茶色い建物の左に大屋根が白く光っている。これが専修寺であろう。

親鸞の末娘覚信尼は親鸞の死後(1262年)、小野宮禅念と再婚し、その敷地内に親鸞の廟堂を建て、子孫がこれを守ることとした(留守職)。その8世が蓮如(1415〜1499年)である。この時代に本願寺は爆発的に飛躍する。

真慧と蓮如は初めは共同で布教拡大していたようであるが、途中から関係が絶たれる。どういういきさつであったのかは知らない。


毛無川の水はきれいだと思えないが、鷺がいる。


専修寺は環濠で囲まれている。囲まれた区域の大半は寺域であるが、残りは町屋である。つまり「寺内町」である。水は毛無川から引いている。写真は毛無川にかかる黒門。この川より向こうが寺内町である。

私は無信心な人間だから仏教についてはほとんど何も知っていない。仏典を読んだことはない(読みかけたことはあるが頓挫した)。毎年のお盆と何年に1回のX回忌の法事で真言宗のお寺と接触があるだけである。

仏教についての関心は、司馬さんの著作を読んだとき瞬間的に生じることもあるが、それは信仰へ移行するほど持続しない。


さすがに寺内町ともなると銀行も瓦葺である。左の道路を進めば専修寺。

司馬さんは親鸞が好きである。「街道をゆく」のあちこちに親鸞および浄土真宗の話がでてくる。例えば
  1. 「街道をゆく.4 郡上・白川街道と越中諸道」の「やまぶどう」の章における妙好人「赤尾の道宗」のくだり。
  2. 「街道をゆく.16 叡山の諸道」の「法限さん」の章における「お荘厳」について。
  3. 「街道をゆく.18 越前の諸道」の「永平寺」の章における「親鸞の無教会主義」について。
  4. 「街道をゆく.21 芸備の道」の「三業惑乱」の章における「本山の学説の異安心」について。「高林坊」の章における「寺くらべ」について。
  5. 「街道をゆく.27 因幡・伯耆のみち」の「鳥取のこころ」の章における妙好人「因幡の源左」のくだり。
  6. 「街道をゆく.33 赤坂散歩」の「最古の東京人」の章における「真宗高田派の寺」のくだり。
  7. 「街道をゆく.34 大徳寺散歩」の「念仏と禅」の章における「善人・悪人」について。


かつては門前町であったろう道を進む。門前町であれば参詣客をあてにした、みやげもの屋や食堂や旅館が並んでいたはずだが、その名残がない。

八百屋・酒屋・米屋・魚屋・菓子屋・文具店・ヘアーサロン・洋品店など普通の店が並ぶ。門前町ではなかったのか。

仏壇店が2軒あって、本山の足許にある町であると心細く主張している。


仏壇店を外から覗くと、真宗様式の仏壇が陳列されている。全面に金箔が貼ってあり、細かな彫刻があって、表現すればひとことで尽きる。派手である。

「歎異抄」の中で、 「親鸞は、父母の孝養のためとて、一辺にても念仏申したること、いまだ候はず。」 また「親鸞は弟子一人も持たず候ふ。」 の2つの言葉がある。

親鸞は先祖の供養をすることや教団組織を持つことには否定的であったが、 『無教会主義の思想家を教祖としてかつぎあげては、後世、本願寺教団などという大教団は成立しがたかった。』(「街道をゆく.18 越前の諸道」)

このため本願寺では明治になるまで「歎異抄」は僧俗に見せてはならぬ秘密の書とされていた。


山門が見える。 真宗の仏閣や仏壇の派手さ(「お荘厳」)について、司馬さんは以下のように語っておられる。

『親鸞の信仰が教団のかたちになって世間に瀰漫するのはふつう言われるように蓮如(1415〜99)からで、親鸞の罪ではない。 その蓮如の室町期にも、荘厳はさほどではなかった。

仏壇やお堂の内景を金色にぬりつぶし、彫刻や彫金の装飾を盛り沢山にして悪趣味のかたまりにしたのは、江戸期の美的風潮(日光東照宮造営による造形感覚の変化)やそれをよろこんだ真宗僧侶、さらにはそれを提供した江戸期の荘厳商業資本のせいであろう。』

( 「街道をゆく.16 叡山の諸道」)

(それでも仏壇を据える門徒の美意識が異なれば、このように非美的な、派手な、大阪のおばちゃん風の仏壇が普及したとは思えないが。)




山門は大きい。山門に沿って東への道をとる(写真は振り返って撮ったもの。進行方向とは逆に見ている)

『仏教の目的は、解脱にある。解脱とは煩悩から解放されることであり、煩悩とは人間の生命と生存に根ざす諸欲をさす。とすれば、生きながらにして人間をやめざるえない。』

(「司馬遼太郎が考えたこと・14」の「蓮如と三河」)

親鸞は「解脱」する努力に疑問をいだき、『弥陀の本質は本願にある。弥陀はひたすらにひとを救うという誓いをたて、その光明とその名によってひとを救済しつつある。親鸞においてはひとびとはそれを信じ、感謝するだけでいい』という真宗の根本思想に行き着く。




写真は太鼓門。3層の楼門である。

したがって『仏師が刻んで鍍金した阿弥陀如来像を拝む必要はなく・・・・絵像もないほうがよいので、もし心もとなければ南無阿弥陀仏と書いておけばいい』

(「街道をゆく.21 芸備の道」)

『浄土真宗の自覚的なお坊さんは、靖国神社には参らないし、お稲荷さんにもむろん参りません。それはつまり浄土教は多神教じゃないからです。いまはお盆をやりますが、お盆は一種の迷信ですから、それも浄土真宗はやりませんでした。』

(「浄土-日本的思想の鍵」)

真宗は迷信を徹底的に排除したようである。
『なにしろ名だたる安芸門徒の地ですから、民話が残っていないのです。』

(「街道をゆく.21 芸備の道」)






太鼓門の横手から境内に入った。右は宗務院。向こうに御影堂(みえいどう)。

『民話というのは・・・・鬼が出たとか龍が昇ったとか、筍が厳冬にあがったとか幽霊がでたとか何々が祟るとか、あるいはそれを旅の僧がきて御祈祷し消滅したというものであろう。さらにいえば墓の方位がどうだとか家相がどうこうであるとかおみくじをひくとか、あるいは手相、人相にいたるまで民話の発想になる。

ところが「極楽に往生するには絶対者である阿弥陀如来に絶対的帰依すればいいので、いっさいの雑行は要らない」 とするのが浄土真宗の思想的立場で、民話の土壌と正面から対立している。』

(「街道をゆく.21 芸備の道」)






宗務院と御影堂のあいだに御対面所がある。

司馬さんは、かろうじて残った「寺くらべ」という民話を紹介されている。

むかし、吉田(広島)の近在の小さな村に寺が二か寺あったが、わずか戸数60軒では維持できないために一か寺を整理することにした。一か寺は空海を祖とする真言宗であり、一か寺は親鸞を祖とする浄土真宗である。

村人たちは、僧の力量をためして選ぼうと思い、手も浸けられないほどの熱い風呂を仕立ててどうするかときいた。

真言宗のほうは密教僧であるだけに法力をもっていたのか、生身でその熱い風呂に入り、いい湯加減だといったので、村人たちは驚嘆した。

真宗のほうは村中の据風呂をもってこさせて熱湯をわけ、水でうすめてほどよい湯加減にし、「私はただの人間です。皆さんにできないことは、私にもできないのです。せっかくですからこの風呂にみなで入りましょう」といったという話である。



休憩所ですら寺院建築で、しかもでかい。

村人は真宗の僧を選んだ。

『この民話は、自力の聖道門と他力門との思想的本質のちがいをみごとに説話化している。・・・村人たちは真言僧が傑出していることをたたえつつも、しかしこういう偉い僧がもし死んだらあとはどうなるか、それよりも真宗がいい、なぜなら超人的でなくても真宗僧ならつとまるのだから、・・・』

(「街道をゆく.21 芸備の道」)

と書かれている。

さすがに司馬さんである。このことで、浄土真宗がどういうものであるのか、がわかった気がする(気分だけだが)。






御影堂(みえいどう。重文)。親鸞は1262年に90才で亡くなる。丹羽さんの「親鸞」の最期の場面の描写はちょっとグッとくる。

親鸞の部屋には自筆の「帰命尽十方無碍光如来」の軸がさがっているだけで、そのほかにはなにもなかった。死の2.3日前から念仏の声がきこえなくなった。呼吸が乱れるようになった。それは精神的なものではなく生理的な現象であった。

11月28日、『吸い込むだけのかすかな音がつづいた。そのあとで、ひとつ大きく息を吸い込んだ。喉がつまったような声がきこえた。それがこの世に残した最後の音になった。親鸞の呼吸はまったく絶えた。炎が消えていくのに似ていた。さっぱりとした臨終であった。・・・・奇跡はおこらず、善法院は静まりかえっていた。』

丹羽さんが想う親鸞の最期である。親鸞らしい死の場面である。


如来堂。御影堂と渡り廊下で繋がっている。

2012年は親鸞が亡くなって750年に当たる。 京都の西本願寺もそうだが、親鸞聖人の750年大遠忌に向けて御影堂は修復中である。

丹羽「菩提樹」に戻る。告白し合った宗珠と小宮山朝子は、月に1度の月まいりで顔を会わすだけでは我慢できなくなっている。

新年1月に本山で報恩講があり、末寺の宗珠は1日だけ出仕せねばならない。二人はこの場所で逢引きすることを決める。



どうでもよいことだが、小説にある場所を推定してみる。

御影堂の余間に詰める宗珠と内陣の正面にある外陣あるいは大間(おおま)にいる朝子は互いがどこにいるのかわからない。

二人が会うのは「書院風の玄関に宗珠があらわれた」とあるから御対面所に近いところであったか。

「二人はそのまま楼門に向かった。」これは太鼓門から出たらしい。

「専修寺に法要があれば、その時だけは活気がつくという、しもたやの多い町並み」は仏壇屋から銀行にかけての道であろう。この道を寄り添って歩く。



唐門。

二人は駅に着いた。「ここは各駅停車場である」から「高田本山」駅だろう。丹阿弥(四日市)行きの切符を買う。

「電車が比較的大きな駅に着くと、朝子は出口に向けて歩きはじめた。宗珠は追った。」降りたのは白子駅か。ここで旅館に入り、二人はとうとう「禁断の木の実」を食べるのである。

御影堂は間口42m、奥行33mという巨大な建物である。(西本願寺はもっと大きく、62m×48mある)

修理には膨大な費用がかかるであろう。唐門の横に「御影堂平成大修理懇志芳名」の木札が掲げてあった。末寺が納めたものである。末寺は当然檀家に寄付の割り当てをしたに違いない。



唐門を出て駅に向かう。

その金額に驚く。普通で100万円、はずんで300万円、思い切って500 万円というところである。

崇顕寺は「はずんで」いた。「街道をゆく.33 赤坂散歩」に出てくる澄泉寺は「思い切って」いた。

澄泉寺は東国の真宗本場の下野(栃木)から江戸桜田村(家康の入府前だから江戸とはいわなかったか)に出てきたが、江戸城を拡張するときに赤坂に移された。

というようなことを司馬さんが書かれていた。桜田というから今の警視庁あたりにあったのか。住職の姓も「桜田」であったので記憶していた。



駅に向かっている。写真は高田幼稚園。もとはXX寺かXX院であったろう。

「菩提樹」の結末はここでは書かないが、私にとっては「なーんだ。何も解決したことにはならないではないか。」の思いがした。

真宗門徒は裕福であったようである。専修寺はたかだか600か寺の末寺を抱えるにすぎない。真言宗長谷寺は末寺3000寺というが、専修寺ほどの規模ではない。西本願寺となると、蓮如の後、朝廷に多額の寄進をして「門跡」となったそうだから、門徒の経済力もそれだけすごかったわけである。


司馬さんは『外村繁さんという作家がいました。・・・外村さんはお寺の子ではなく門徒の子です。奥さんとのエロチシズムを書いていますが、やはり浄土真宗の文章です。つまり煩悩を大肯定しているわけです。・・・・

三重県の寺の出身の丹羽文雄さんの初期の作品、とくに母親のことを書いた作品は人間の煩悩というものを書いており、やはり浄土真宗のなかから出た文学だろうと思います。』(「浄土-日本的思想の鍵」)と書かれている。

浄土真宗と「煩悩」か。そういえば司馬さんも小説を書き始められた当初(1958年ころ)「白い歓喜天」という小説を発表されている。夫婦の愛情が冷え切って、互いを責め合うばかりの司馬さんらしくない小説であった。(この本はなかなか手に入らない)


(次図)専修寺に行くときにも見た古い寺が、青い稲穂の向こうに見える。寺の前の道を通ったらどうも無住のようであった。なんでも遠くから眺めると美しい。近づいて深入りするから煩悩の種になるではないか。





笹井屋の「なが餅」である。

今日の万歩計は13700歩だった。私にとっては相変わらず、とらえようがない正体不明の浄土真宗めぐりであった。


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