千早赤阪村

    No.47.....2006年8月26日(土曜)


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笠置山に登ったおり、立て看板に仕立ててあった「元弘の変」の絵物語を見て、「太平記」は面白そうに思えた。帰宅してさっそくアマゾンで吉川英治「私本太平記」(文庫本・8冊))を注文した。

すぐには読めなかった。丹羽文雄「親鸞」を読むのに手間取っていたし、そのつながりで「菩提樹」をさらに読んだ。

合い間に経済学者の野口旭さんの本を3冊(「エコノミスト・ミシュラン」「経済学を知らないエコノミストたち」「エコノミストたちの歪んだ水晶玉」)を読んでいたので、太平記は後へ後へと先延ばしになった。

8月に入ってようやく「私本太平記」を読んで、吉川版の太平記の全容を知った。太平記の主人公は基本的には足利尊氏であるが、ほとんど主役といってよいくらいの人物が数多く登場する。人物の描写が細かく肉付けされていて、どのくだりも面白い。感心した。

とくに得宗・北条高時、楠木正成は印象に残った。今日は楠公ゆかりの地である千早赤阪村を訪れる。


河内国と大和国を隔てる生駒金剛山塊の南部に葛城山(959m)と金剛山(1125m)がある。葛城山が西に流れ、やや勾配が緩やかになったところが「赤阪」である。金剛山は葛城山より大きく、また山塊の南端にあるので、山裾は西へ、また北に向かって流れている。ここに「千早」がある。

南河内郡千早赤阪村は、大阪府下唯一の「村」である。ここへ行くには近鉄富田林に行き、バスに乗る。

写真は近鉄富田林駅前。朝8:00頃。

大阪南部で育った人と話をしていると、小学校時代は「大和川で遊んだ」とか「遠足は金剛山に登った」とかの話がでてくる。金剛山はおなじみの山であるが、私はまだ登ったことはない。




戦前の歴史上の大スターは楠木正成が頂点であった。湊川神社を初めとして、楠公ゆかりの神社が多くできた。騎馬姿の大楠公の銅像が諸処に作られた。

南河内は正成ゆかりの場所だらけである。例えば千早赤阪の西(南側)隣の河内長野市にある観心寺は楠木正成の学問寺であり、正成の首塚があるところである。戦前の大阪の小学生はどれかの学年のときに観心寺に遠足に行くのが通例であったようである。(司馬さんも遠足に行っている。)

敗戦後はスターの座からころげ落ちる。今では楠木正成・新田義貞・名和長年・菊池武時といったかつての忠臣たちはほとんど見向きもされなくなっている。


太平記を読むと、楠木正成のなしたことに驚嘆する。その人生は魅力的である。しかし敗戦以来、世間は楠木正成については知って知らぬふりをしているようである。

私は団塊の世代であるので、楠木正成の事跡についてはうといが、それでもエピソードの少しは知っている。だが今の若者は例えば「桜井の別れ」などは知ることがなかろう。下手すれば千早城の攻防も知らないであろう。楠木正成は再評価されてしかるべきではないか。

バスを降りたのは「千早赤阪村役場前」である。


金剛山(標高1125m)は大阪府で一番高い山である。山裾には長々と伸びる枝山がタコの足のように広がっている。足と足の間に谷や川がある。

村役場は川筋から少し高い場所にある。30mかそこら坂を下ると千早川(写真)があった。流れる水はわずかである。この付近で、葛城山と金剛山の境にある水越峠から流れてきた「水越川」と上赤阪城の下を流れてきた「足谷川」が、金剛山から流れてきた「千早川」に合流している。

橋の名は「出合橋」。人が出会うのではなく川が出合うという意味であろう。


千早川と足谷川の間は小高い地である。 向こうに大きな楠が枝葉を伸ばしている場所が館の跡である。楠木正成はここで生まれたとされている。いまは千早赤阪郷土資料館が建っている。

近所に産湯を汲んだという井戸があったが、これは後からできた伝説か。


生誕の地がそのまま正成の館となったのであろうか。この地は千早川・足谷川・水越川が合流する地である。楠木正成は川を支配することで下流の農村を支配し、あるいは水を配分する見返りとして徴税したようである。したがってこの地からほかの場所にやすやすと移ったはずはない。

区域は広い。正成の館もこの規模であったと思われる。吉川本「太平記」 では、正成が後醍醐天皇の綸旨(りんじ)を受け、下赤阪城に籠もることになったときの様子を描写している。

正成の妻は久子といった。久子が正成の許に嫁いできたとき、1本の柿の木の苗を持って来た。これを庭先に植えた。子供が生まれた。後の正行(まさつら)・正時(まさとき)・正儀(まさのり)である。子供が成長するにつれて柿木も成長した。






初めて柿が実をつけたとき、正成は笠置山における後醍醐天皇の挙兵に応じて下赤阪城で挙兵するのである。下赤阪城に籠もるとき、正成の館には自ら火をつけ、すべてを焼き払う。

他家に嫁した女が子供を産み、子を育て、子供が成人し、自分は老い、そして死んだときに、柿木は切り倒される。その幹や枝木は荼毘する薪となる。柿木は嫁した女と一生を共にし、その最期まで見守る木であった。

吉川「太平記」では、ちゃんと柿木は別の場所に移され、正成の久子に対する愛情は強かったことを述べてある。






楠公生誕地を出ると、(上図)東側に山が連なっている。写真左端(北側)に遠く生駒山(642m)がある。左1/3のところに二上山(512m) 、写真の継ぎ目は岩船山(659m)。右端は葛城山(959m)。





(右図)葛城山は南で切れ、ゆったりと大きな金剛山(112 5m)が始まる。葛城山と金剛山の境の鞍部が水越峠(みずこし)である。

道の反対側(西)を見ると、足下に足谷川が流れ、いったん小高くなって、その向こうに千早川が流れている。そこから再び地形が盛り上がって台地となる。その上に白っぽい赤阪中学校の建物が見える。

赤阪中学校のすぐ裏に、楠木正成が初めて鎌倉幕府に反旗を翻した下赤阪城があった。

古代、川を支配する一族が流域の支配者となった。例えば古墳時代の奈良においては、秋篠川流域の秋篠氏・菅原氏、岩井川流域の春日氏、地蔵院川の大宅氏、菩提山川の栗田氏、高瀬川の柿本氏である(千田稔・平城京の風景)。

鎌倉期でも異ならない。平地に水田が広がりだすのは室町期以降、多くは江戸期にはいってからのようである。それまでは棚田が主流である。山から流れてくる水を最も高い棚田に引き、次の棚田に落とし、より低い棚田に落としして、水は順次高い田から低い田へ引いた。

歩いている道路は台地であるが、この高いところにも水が引いてある。今はパイプだが昔は木や竹の樋を通していたのであろう。

振り返ると富田林のPLの塔が見える。ずっと向こうまで棚田が続いている。

地図を見ると、南河内には無数といってよいほどの川が流れている。東から千早川・足谷川・水越川。千早川の西には東条川・佐備川・石川がある。これらの川は富田林で集まって石川になり、石川は柏原で大和川に合流する。


建水分神社(たけみくまり)に行こうとしている。正成は水分神社の氏子総代とでもいう地位にあったのであろう。1333年に建武の親政がなった翌年に後醍醐天皇の命によって、神社を大規模に再建している。

吉川太平記によれば、後醍醐天皇の側近の日野俊基が河内であてにしていたのは、@水分の楠木、A錦織(にしごり)の判官代俊正、B石川の散所太夫(さんじょだゆう)義辰であったという。

錦織は石川の上流にある。散所太夫のいる場所は南河内の川が石川に集まった喜志のあたりか。少し下れば交易で繁栄した古市がある。





道を進んでいくと橋があった。川は足谷川である。「?」。 建水分神社は水越川の近くにあるはずである。川一筋を間違って来たようだ。

地元の方らしい中年男性が橋を渡ってきたので尋ねると、やはり間違っている。ここは「二河原辺(にがわらべ)」であり、上赤阪城への登り口である。建水分神社はここから1kmほど北であるという。

予定では、@正成誕生の地→A建水分神社→B下赤阪城→C上赤阪城(これは遠望するだけ)→D千早城の順に回るつもりだった。これが正成が活躍した年代順あるいは本拠地の水分から遠くなる順であるのだ。

下赤阪城は、笠置挙兵に呼応して戦った城である。この城は10日ほどで陥落し、正成は逃亡する。それから1年あまりののちに戻ってきて、下赤阪城を奪回し、上赤阪城・千早城など峰から峰を連携する山城を築き、ここで圧倒的に多勢の幕府軍と対峙する。2度目の戦いのときの城である。





正面の山が上赤阪城があった山である。橋の右手に立つ看板と見比べるとそっくりの山容である。看板は最近描かれたものであるらしい。

中央最も奥の山上はやや平らである。右に本丸(350m)があり左に二ノ丸(340m)がある。橋を渡ったところに大手口があり、城坂(じょうざか)と呼ばれる尾根道を登って山上に達する。

途中には「一の木戸」「二の木戸」「三の木戸」「四の木戸」があり、「二の丸」下には出丸という張り出し(曲輪・くるわ)があった。本丸下には塹壕が掘られていた。(すべて看板の絵による)








訪れる予定地はあらかじめ地図で調べていた。下赤阪城と千早城はバス道に近く、しかもバス停からすぐの位置にあったが、上赤阪城はバス道から遠く離れた山上に凸マークが表示されていた。容易には登れないだろう、この城は遠くから見るだけだと思っていた。

道を間違えたおかげで、上赤阪城に登ることができる。

先に場所を尋ねた人は、ぶどうのひと房をぶら下げ、一粒もいでは食べながらやってきたのであるが、「もっていきや」と少し残った房をくれた。赤阪村のひとはひとがよい。わたしもぶどう粒を食べながら歩く。(種はなかった)


上赤阪城は足谷川と千早川に挟まれた山の上にある。山は金剛山の枝山である。

登山口にあった看板を見ると、西の千早川から本丸にかけての斜面は急である。東の足谷川から二の丸への斜面も急である。この2方面からの攻撃は難しい。

南の山は金剛山に連なっているから次第に高くなっている。ここから攻められるとまずい。したがってこの稜線に、桝形城→不本見城→猫路山城→国見山城→千早城を築き、南方面からの攻撃を防いでいる。

もし桝形城以下の城が落ちたとしても、上赤阪城の南面には長い空堀を穿ち、何段もの曲輪を造成してあって、寄せ手を撃退するように備えてある。

北面が問題である。ここ4年のテクテクによって、山に登る道は尾根道が多いという当たり前のことを知った。勾配がゆるい尾根は絶好の登山道である。大手口から二の丸へ通じる山道は砦を築く前からあった道であろう。ここには4つの木戸を設け、途中に堀を切って敵の攻撃に備えたようである。


「三の木戸」あたり、登り口の「一の木戸」から250mのところ、と案内板にある。尾根道の左右は傾斜が急である。この急斜面を攻め登ることは難しい。尾根道を伝ってきて木戸の守りを攻撃するほかはなかろう。

急な坂はほとんどない。道が続いていると敵の進攻が容易になるので、道を崩して堀を穿ち、橋(そろばん橋)を架けてあるところがあった。敵が迫ったときは橋を落として応戦したのか。

二の丸と本丸の中間点に「茶碗原」という平たい場所がある。ここは陣屋があり、炊事場があったという。茶碗や皿のかけらが出てくるのであろう。


本丸跡に着いた。

楠木軍は1332年12月に下赤阪城を奪回する。同じ時期にこの地に上赤阪城を築く。上赤阪城は楠木城といわれるように本城である。千早城は詰め城である。

戦国期・江戸期の大和国でいえば、大和郡山城が本城で、高取山にある高取城が詰め城である。本城が落城したら、詰め城に籠もって防戦するのである。




本丸跡に立つと、河内ばかりではなく大阪平野が一望できる。

右手には聖徳太子・推古天皇・敏達天皇・用明天皇の陵がある「王陵の谷」が見える。正面やや左手は大阪である。

PLの白い塔のさらに左には大阪湾があり、その向こうに正成の最期の地である兵庫・湊川がある。






本丸の崖下を覗くと平坦地がある。本丸の周囲に設けられた曲輪(くるわ)である。

1332年11月、大塔宮護良(おおとうのみや・もりなが)親王は吉野で強兵する。これと連動して正成は赤阪・千早で挙兵。翌年1月には赤松則村が播磨で挙兵する。

「太平記」によれば幕府は軍勢80万人を派兵し、吉野・赤阪・千早の3手に向けたとあるが、吉川太平記では5万人くらいではないかという。

上赤阪城の攻め手は、総大将は阿曽治時、軍奉行は長崎高真。「太平記」では総勢8万騎というが実際は1万人くらいか。一方守り手は大将平野将監、副将は正成の弟の楠木正季で兵力300余人。







城は守りやすく作ってある。戦いは高い位置にあるほうが圧倒的に有利である。敵の動きは手にとるようにわかるし、高い位置から矢を射、よじ登る敵を蹴落とすことは容易である。

10倍20倍の人数の寄せ手が繰り返した攻撃のことごとくが失敗した。1度の攻撃で500人600人の死傷者がでるのである。

幕府軍は水の手を断ち切る作戦に出た。籠城中に使う水はどこから入手するのか。おそらくは南の金剛山方面から水を引いているに違いない。

探索すると約6m下の地下に水路(樋)が見つかった。これを遮断する。

守り手は12日ほど耐えたが、大将平野将監らは水に飢えたあまり降伏し、楠木正季は千早城に逃げる。上赤阪城は落城する。はっきりとはしないが攻撃開始から15日〜20日で落城したのではないか。




来た路そのままをたどって下山した。建水分神社(たけみくまり)に向かっている。

正面の山は葛城山。右には金剛山があるが写真には写っていない。鞍部は水越峠である。



水越峠は河内の水分(みくまり)と大和の御所(ごせ)を結ぶ重要な峠である。街道にそって水越川が流れている。河内側に流れる川は「水越川」であるが、御所に流れる川も「水越川」と呼ぶ。東西で流れは逆方向だが同じ名前である。

橋(楠水橋)から下流に向かう水越川。正面の森の先に建水分神社がある。




建水分神社の鳥居。鳥居をくぐると50段ほどの石段があって、石段を登ったすぐ前に拝殿が建っている。上は狭い。

拝殿の奥にある本殿は春日造り。左右に流れ造りの社殿がある。三つの社殿が渡殿で繋がる独特の建築物で、重文であると、ガイドブックにあったが、木立が密集してほとんど見えない。

起源は古く、式内社である。


横に南木(なぎ)神社がある。1336年5月、楠木正成・正季は湊川で足利軍に破れ、自刃する。後醍醐天皇はその死を悼み、正成の子の正行(まさつら)に命じて作らせた神社であるという。

ただ1336年12月には後醍醐天皇は吉野に脱出し、南朝を開くという窮地に追い込まれた時期である。神社を新たに建てよ、の命令がだせたかどうか。

一説には後醍醐天皇の次の後村上天皇が、金剛寺(河内長野市)にあるとき、正行に命じて正成の木像2体を造らせ、1つは金剛寺に、1つは南木神社に納めたとある。

勝手な推測だが、正行は後村上天皇の時代に活躍しているから、後醍醐天皇の命ではなく後村上天皇の命によって小さな社を建てたのではないか。



楠公生誕地へ戻っている。この路は水越川から少し西に離れている。 道路の脇には水が流れている。金剛山の山襞から流れてきた水であろう。

用水路とも呼べぬほどの溝であるが水量はそこそこある。この水を小型ポンプで吸い上げている。庭の草花に散水するのであろう。

ポンプにかかる電気代のほうが安いのか、水道から直接に水撒きしたほうが安いのかは知らないが、この台地では水を粗末には扱わないの気分があるのだろう。


さらに降ると、用水路に堰(単なる板であるが)を作って、右の田圃に水を引いている。 私は農家の生まれではないので、灌漑については疎いが、今日ようやくわかった。堰止めて水位が上がった分だけの水を田圃に引くことができるのである。

水路の傾斜が緩やかであれば、1つの堰(せき)で広い田圃に水を引くことができる。水路が急であれば、1つの堰は狭い範囲の田にしか水は引けない。少し下がった田圃にまた1つの堰を必要とする。

結果、山の斜面の勾配によって幅広い田圃や幅の狭い田圃ができる。全体は棚田である。このことは上赤阪城の曲輪にもいえる。山容が急であれば曲輪は幅狭く、緩やかであれば曲輪の幅は広い。山城としては曲輪の幅が狭いほど急峻であり攻略は難しくなる。



上赤阪城に登って汗をかいた。喉が乾いている。生誕の地の一画に「道の駅」があった。休憩所に座りこんでペットボトル一本の茶を一気に飲みほした。

山は葛城山。

バス道に戻る。初めに下車した「千早赤阪村役場前」を過ぎ、次の「赤阪中学校前」へ向かう。そこに下赤阪城跡がある。

後醍醐天皇の倒幕の密謀がもれて、僧・文観、日野俊基らが捕らえられたのは1331年5月(元弘の変)であった。8月24日、天皇は女房車に乗って御所を抜け出る。笠置山に入山したのが27日。

「天皇ご謀反」ということで、各地から郷武者らが笠置へ駆けつけるが、これといった名のある武士はいない。天皇は河内の水分(みくまり)にある楠木正成に参陣するように勅使を出す。使者は中納言・万里小路藤房(までのこうじ)である。


赤阪中学校への坂道。下赤阪城への登り口でもある。

正成は笠置山で天皇に拝謁したあと水分に戻り、この地に砦を築く。 丘の麓に空堀を掘り、出た土をかき揚げて斜面を急峻にする。山上には数十か所に櫓を立て、陣屋を建て、山斜面から切り出した丸太や大石を運びあげた。 だいたい20日程度で造った即席の砦である。砦ができたとき、山上に菊水の旗が掲げられた。笠置拝謁の折に下賜されたものである。

「この城三方は岸高くして屏風を立てたるがごとし」と太平記にあるそうだが、小高い丘のようにしか見えない。先に見た上赤阪城と比べるとその防御力には大人と幼稚園児くらの違いがある。


坂道を登りつめると運動場があり、校舎が2棟並んで建っている。運動場はそこそこの広さがある。ここには陣屋があったことだろう。兵士が交代で眠り、怪我人の手当てをし、炊き出しをし、戦略を合議した場所であるかも知れない。

校舎と校舎の間に一般人が通れる道があって、10mほどのゆるい坂を登ると山上であった。「史跡・赤阪城址」の石碑がある。

笠置山を取り囲んだ幕府軍は2万人。笠置は9月28日に陥落する。南河内から笠置に駆けつけていた錦織の判官代俊正、石川の義継らは討ち死にする。

10月初め、笠置を落とした幕府軍2万は赤阪へ歩を進め、下赤阪城を取り巻く。


山上は平らである。楠木勢は500〜600人がここへ立て籠もっていた。

丸太を組んで矢よけの板壁を張り、あるいは土塀を築き、櫓を立てていたのか。

ここから寄せ手に向かって矢を射り、岩石を投げ、丸太を転げ落とし、熱湯を撒きかけたのである。




山上から西側を見下ろすと意外なほど山斜面は緩やかである。高さも高くない。

吉川太平記では「三方は200尺から300尺の断崖」とあるが、周りは緩やかな棚田である。ここを駆け上って左に迂回し、山上を駆ければ攻略は簡単なように思える。

しかしこれは今の山姿である。籠城のときは、空堀を穿ち、掘り返した土を掻き揚げて急斜面を造っていたのである。向こうの丘の崖のようであったのではないか。

寄せ手が崖をよじ登ろうとしても、手につかむべき草木は生えていない。足をかけるところもない。崖は土である。乾燥した土に滑ってよじ登ることができないのである。




水はどうしたか。上赤阪城は水の手を遮断されて落城した。

石碑のある場所から20mほど南へ行くと、ザワザワと水の流れる音がする。下赤阪城は金剛山から伸びた枝山の端っこにある。タコの足の先っ緒である。水は南の山(高塚山)から流れてくる。

それにしても、ここは山上である。尾根である。こういうところにまで水が引かれているのである。





水路をたどって南へ歩いてみた。棚田が山襞に沿って伸びている。斜面は急である。一段の田圃の稲の列はわずかに7列か8列のようである。

いくらタコの足とはいっても、山は順序よい高低差があるわけではなかろう。低いところには樋を架け、高いところは掘り返し、あるいは樋を埋めして高さを調節したに違いない。川を支配するということは、これら灌漑工事をも含んでのものだろう。

10月21日、兵糧が尽きて下赤阪城は陥落する。吉川太平記によれば、正成は2か所に大きな穴を掘らせ、敵味方の屍を埋め、ひとすじの菊水の旗をそえた。正成が自刃したと思わせるためである。すべての陣屋に火をかけ、混乱の中を脱出する。


千早へ行くバスは1時間に2本ある。「金剛登山口」で降りた。バスは金剛バスである。

左の山が千早城のある山である。奥は金剛山頂に繋がっていて、元気なハイカーはここから金剛山を目指して登る。

大阪の子らの遠足ではここから登るのか。あるいはもう2つ先のバス停は「金剛山ロープウェイ前」であるから、ロープウェイに乗って登るのか。


千早城は金剛山が千早川まで山裾を広げていった最後の端にある。地図に見るように西は千早川、北は北谷川と風呂谷(だと思う)、南は妙見谷が切り込んでいて、ここの傾斜は急である。

南東部には谷はなく、金剛山に繋がっている。標高は673mであるが麓の千早川から本丸までは200mの高さである。ということは等高線からして、三方は深さ200mの谷で囲われていることになる。

正成はここに千早城を築き、金剛山頂にある転法輪寺を搦め手とした。


千早城へは石段で登れるようになっている。案内板によると約550段あるらしい。登り始めの石段からしてすでに急である。50〜60段ほどがまっすぐ上に伸びている。

どうやら石段は上の地図の紫色線のような道筋になっていたかと思われる。

1333年2月に楠木正季が守る上赤阪城が陥落し、正季らは正成がある千早城に詰めることになる。閏2月に大塔宮が籠もる吉野山も陥落し、最後の抵抗は千早城だけとなる。

上赤阪城を攻めた阿曽治時、長崎高真の軍勢が千早城に殺到する。吉野を攻略した二階堂道蘊(どううん)軍、大仏貞直軍も結集して、千早城を5〜6万の大軍が取り囲むのである。




石段を100段登るごとに一息入れる。麓の自動販売機でペットボトルのお茶を買ってきた。 300段のところからの眺めであろうか。

吉川太平記によれば、敵軍が数を頼んでよじ登ってくると、矢を放ち、槍で刺して撃退する。さらに寄せてくるなら岩石を投げ、丸太を横ざまに転がして崖にある敵兵を一掃する。

数度の仕掛けによる寄せ手の死傷者は城兵の比ではなかった。

太平記では「四方の坂より転び落ち、落ち重なって死する者、一日がうち6000人にも及べり」。軍奉行の長崎高真が死傷者の実検をしたところ、「執事12人にて、昼夜3日の間も、筆を措かず、死者の名を注せりとぞ」とあるそうである。




尾根にそって折り曲がる急な石段を登ること546段(たぶん勘定違いをしているだろうが)、ようやく山頂に着いた。

(次図)ここは四の丸だったところである。かなりの広さがある。整列すれば兵士2〜300人が集まることができそうである。











二の丸跡に千早神社がある。

四の丸から南東方向に直線で三の丸、二の丸、本丸がある。距離は340mというから、千早城は赤阪城よりも広い。正成は初めからこの城を最重要拠点と考えていたことがわかる。

籠もる兵は、金剛山頂の搦め手勢の200人を入れても1200〜1300人であったようである。籠城となると、まずは食糧・水の準備がいる。吉川太平記では、城兵が1日に6合の米を食べるとすれば、1000人で17俵の米俵が消えていく、という。

初回の下赤阪籠城のときは十分な準備が整わず、すぐに兵糧が切れたが、今回はできる限りの備蓄をしていた。



本丸より一段下にある「出丸」の跡だろう。

楠木正成は、籠城が1日もてば1日の勝ち、10日持てば10日の勝ち、あと100日保てば北条軍は自壊するであろう、と思っていた。だが食糧の補給がなければ、1日持てば1日分の食糧が消えていくのである。勝てば勝つほど苦しくなるわけである。

食糧が尽きかけたころ、後醍醐天皇が隠岐から脱出(閏2月24日)し、名和長年を頼って船上山に籠もった、の報が届いた。 城兵の意気は上がる。食糧も大和から間道を伝って届けられた。さらなる籠城が可能になった。

4月27日、足利高氏が丹波篠村より挙兵。5月7日京都・六波羅探題が陥落。

六波羅が落ちたの知らせが幕府軍に届くや、幕府軍は総崩れとなる。先を争って自国へ戻っていったのである。 正成が千早城に籠城して170日、幕府軍との攻防100日ほどの日がたっていた。







千早城は杉木立がじゃまをして下界の見通しがさっぱりきかなかった。山上から下30mまでに生えている樹木を刈れば、本丸下にある帯曲輪や出丸などの往時の千早城の輪郭がはっきりするだろうし、なによりも山上から千早川を見下ろすことができる。そこに数万の幕府軍が陣を張っていたことが容易に想像できるに違いない。

四の丸まで引き返す。また550段の石段を降りる。登りもつらいが、降りは膝に衝撃を受けるからもっとつらい。今日の万歩計は22300歩だった。最近になくよく歩いた。


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