兵庫・会下山

    No.48.....2006年9月23日(土曜)


行く先の目次... 前頁... 次頁... 神戸市(中央区・兵庫区)... 神戸市(兵庫区・長田区)...


神戸市を訪れた。前回の千早赤阪に続く太平記ゆかりの地を見るのが主な目的である。

神戸は知らぬ土地ではない。大学は灘区にあったし、学生時代の4年間は東灘区にいた。結婚して10年間は西宮市に住んでいた。

だが住んでいた地は東部に偏りすぎている。知っているのはJRでいえば三ノ宮・元町・神戸までにしかすぎない。 兵庫区・長田区・須磨区は3度4度行ったことがあるだけで、垂水区は1度もない。

神戸はハイカラで、おしゃれで、センスがよいのイメージがあるが、これは国際貿易港であるところからきている。したがって港のある元町・三宮を知れば、これがすなわち神戸であると錯覚していた。

今度、兵庫区・長田区を訪ねて、なかなかの歴史がある町であることがわかった。



写真はJR三ノ宮駅(北口)。今日訪ねたのは神戸市地図に番号を振ってる順である。
  1. 生田神社(中央区)
  2. 兵庫県公館(旧県庁)(中央区)
  3. 花隈城址(中央区)
  4. 大倉山公園(中央区)
  5. 湊川神社(中央区)
  6. 大開(兵庫区)
  7. 会下山公園(兵庫区)
  8. 松本通り(兵庫区)
  9. 新湊川(長田区)
  10. 長田神社(長田区)
  11. 駒林神社(長田区)
  12. 宝満寺(長田区)



駅を北口にでると、生田新道(いくた)が西に向いている。飲食店を中心にした繁華街である。


200mほど進むと東門街が北に向かって伸びている。東門街とは生田神社の「東門」ということだが、この筋はほとんどが飲み屋である。

「月世界」といったか、大きなキャバレーがあったはずだが、今はどうなっているのか。


次の筋が生田神社(いくた)への参詣道。左のビルは東急ハンズ。

西宮市から名張に越して16年になる。その後神戸を訪れたことはない。特に1995年の阪神淡路大震災が起きてからは、訪ねることを躊躇していた。観光気分で訪れるのがはばかられたのだが、これは感傷というもので、逆にどんどん訪ねたほうが復興の役にたったのではなかったか。

震災で生田神社の拝殿の柱が折れて、屋根がぐしゃりと地面に落下しているテレビ画面を見たことがある。生田神社はどうなっているのか。


鳥居の向こうに楼門がある。立派に復旧されている。

ここで心許なくなる。楼門があったという記憶がないのである。この際だから楼門を新たに建てたということもないだろうから、もともとあったに違いないが、覚えていない。見ていないものである。


拝殿も新しい。かつては木造であったが、今度は鉄筋になっているようだ。拝殿の後ろは「生田の森」である。

生田神社は式内社である。歴史にも登場する古い神社である。

平家は都落ちした後、兵庫福原に結集し、西は一ノ谷、東はこの生田までの長い陣を敷いた。源氏方は生田方面には大手の源範頼軍5万が当たり、一ノ谷方面には搦め手の源義経軍1万が当たった。 義経は搦め手から離れて別行動をし、鵯越から逆落としに平氏を攻めて一ノ谷の戦いに勝利したことは有名である。


巫女さんが練習している。手前が先輩で、後ろが新米のようである。緊張して先輩の所作を見ている。

巫女さんの役割は神楽舞いとか、神饌のお供えとか、結婚儀式の手伝いとかであろう。破魔矢やお守りを販売するのは巫女の役割ではなかろう。

源平の時代が過ぎ、建武の親政期にも生田は登場する。

1333年6月、後醍醐天皇が隠岐島から京へ戻り、建武の親政が始まる。しかしそれは3年と持たなかった。1335年12月、足利尊氏は反旗を翻す。いちどは京を手中にするのだが、芦屋の打出浜で新田軍に敗退し、九州へ逃げ落ちる。

だが尊氏の再起は早かった。1336年5月には大軍をもって東上し、湊川で楠木正成を討ち、この生田で新田軍を破るのである。敗れた新田軍は京へ敗走し、後醍醐天皇とともに比叡山に逃れる。



生田の森。往古は海岸線まで広がっていたそうだが、いまは狭く木立も大きくはない。

幕末、生田の森に「神戸海軍操練所」が置かれた。作ったのは海軍奉行の勝海舟である。4〜500人の練習生が集まった。坂本竜馬が塾頭役で、陸奥宗光・伊東祐亨らがいた。

ただし集まったのほとんどが尊攘の浪士であり、1年もたたぬうちに操練所は閉鎖される。竜馬はこれら残党を集めて、長崎にいき、海援隊をつくった。といったことを司馬さんが書かれている。

(「司馬遼太郎が考えたこと 2」の「神戸海軍操練所」の章)




生田神社の西側面に出た。 生田警察署のビル下にワゴン車が止まっていて、4人の警察官が座っていた。駐車取締りに出かけるようである。

これから太平記の楠木正成の最期となった地を訪ねるのだが、吉川本「私本太平記」に、足利軍の本隊が西国街道を通って湊川に攻め寄る記述がある。この「西国街道」がどこなのかわからない。

普通「西国街道」というのは西宮から京都へ向かう国道171号線のことである。西宮→伊丹→池田→茨木→高槻→山崎→長岡京→向日(むこう)→京都(東寺)と繋がっている。(あとで述べる荒木村重の勢力下にあった土地である)

その西国街道が、長田・兵庫を通っていた(いる)らしい。交通課の警察官なら詳しいだろうと思って、ガラス窓越に尋ねてみた。 「この先の山手幹線が、昔の西国街道でしょうか?」

4人ともに知らなかった。西国街道とは西宮-京都間の国道であるという。



山手幹線に出る。

うち一人だけが、「そういえば、このあたりで西国街道の標識をみたことがあったな。こんなところにも西国街道があったのかと意外だった。」といったが、それがどこであったのかは覚えていないそうだった。

西国街道が山陽道と同じものならば、まあ国道2号線になっただろうと、心もとないが、そう推測していた。

山手幹線に直交して南北(やや西にかたむき加減で)に伸びるトアロード。

十字架のある建物は学校。さらに奥の白いビルの頭上の山に神戸市の市章がある。十字架に隠れて見えないが隣には「イカリ」のマークがある。夜になると発光して、ここに神戸市があると表現する。


右側の茶色のビル群が兵庫県庁である。

ついでながら、兵庫県章は「兵」の字を図案化したものである。あまり工夫がない。

神戸市章のほうは半円が斜めに交差している。半円は扇で、神戸港と兵庫港を象徴する。ずっとよいデザインだと思っていたが、神戸市のHPを見ると、扇港(センコー)の意味もあるが、神戸(カウベ)の「カ」の字を図案化したものであるともあった。

この説明にはややがっかりする。「カ」だったのか。


県庁前の道路の南に「兵庫県公館」があった。元の県庁である。ルーブル美術館のようでありますな。

今は迎賓館および県政資料館として使われているらしい。


周りは公園風の庭になっていて、ブールデルのプロンズが据えられてある。台座のプレートに、「アダム」1889年の作、とあった。

ブールデルである。ロダンの弟子である。「弓引くヘラクレス」はよく知られている。

こういうものは美術館にしかないものだと思っていたが、あるところにはあるものである。

公館の正面。

公館を出て西に向かう。すぐ近くに花隈町(はなくま)があるはずである。

神戸においては坂道を下れば浜(南)、上れば山(北)と思っておけばよい。だがこの場所は下り坂ではあるが、この先は浜(南)ではない。向こうの直交している道路も左に向かって下り坂になっている。この道が南北の道である。

坂の傾きだけを南北の基準にしていたので、少し道に迷った。

花隈はかつては色街であったと聞いたことがある。今はその面影といえば、少し残っている料理屋とレストラン、何軒かのホテルくらいのものであるが、においとしては下町風である。


左に折れると花隈城跡があった。小さい石垣は工事中である。(この下に駐車場があるらしい)

信長の時代、摂津国を支配したのは荒木村重であった。伊丹城(村重の本城)、尼崎城、花隈城を持ち、配下の高山右近に高槻城、中川瀬兵衛に茨木城を守らせていた。村重は明智光秀と同様に信長からその能力ないしは西国街道を押さえているという地の利を買われ、新参ではありながら摂津一国の総大将を任せられていたのである。

当時の信長は大坂石山本願寺を包囲している最中である。新参の村重と信長の譜代である林通勝がこれにあたっている。


石垣は南面だけで、北側は坂道である。背後から攻められると、すぐにこの城は落ちてしまうだろうと思われるほどの地形であり、城の狭さである。

花隈城を築いたのは、毛利勢が海路大坂石山に兵糧を補給するのを妨げるためである。

だが村重の謀反の噂がでた。毛利方と内通しているのではないかというのである。信長は懐柔しようとして明智光秀を伊丹に遣わせるが失敗に終わる。秀吉は播州三木城を取り巻いて兵糧攻めをしている最中であったが、ここより黒田官兵衛が村重を説得しようとして伊丹に出向き、囚われてしまう。このあたりのことは司馬さんの「播磨灘物語」に詳しく書いてある。


結局、村重は高山右近・中川瀬兵衛に背かれ、信長軍に攻められて伊丹城に1年近く籠城することになる。毛利の援軍をあてにしていたのである。しかし来ない。村重は数人の従者だけを連れて伊丹城を抜け、尼崎城に逃げ込む。浜辺の尼崎城のほうが海から来るであろう援軍に近いと思ったか。妻子や重臣や士卒は置き去りにされた。

置き去りにされた城代らはなお2か月も伊丹城を死守したがついに開城する。城代は、伊丹城に人質となっている妻子の命と引き換えに尼崎城・花隈城を開城せよと説得するために、村重のいる尼崎城に出向く。

しかし村重は城門を開かない。信長方の使者となっている城代に会わない。手ぶらで戻れば織田方によって殺されるであろうことを怖れて城代は逐電する。村重もいつのまにか尼崎城から消え去る。当然の報いとして伊丹城にあった人質数百人は尼崎の七松で処刑された。 なんともなさけない摂津国主の行動であった。


山手幹線へ戻りつつ、西に向かって歩いている。橋がかかっていた。「宇治川」とある。だが川下を見下ろすと、そこには水が流れていない。

この橋を境に、川は突然に消えている。


川下には宇治川商店街がある。もとは宇治川であったところである。川は地下にもぐって流れているらしい。地下河川である。


川上を見ると、その向うは川である。土手がある。水門のような設備がある。

地下河川というのは、土管と同じである。川の上に蓋をした格好であるので、家屋を建てたり公園にするなどの利用ができる。しかし大雨が降って流水量が多くなると排水が追いつかず、水は地上にあふれ出る。ましてや地下河川に土砂が流れ込めば排水能力は激減し、普通の洪水より始末が悪いことになる。

水門は地下に流す水量を調整するためか、あるいは砂防のためなのか。


大倉山公園があって、


神戸大付属病院がある。


付属病院の前に神戸文化ホールがあった。ホール前の公園はヨーロッパ調である。刈り込んだ低木の垣根のなかに丸い池。中心に彫刻を施した噴水台があるがここからは水は噴出していない。

池の中から噴水が水を上げている。


この公園もまた、まわりに彫刻が置かれている。



このあたりは楠町である。公園の隣からワーワー歓声が聞こえたので、行ってみると楠中学校の運動会であった。

「楠」である。中学校の南には小学校があって、こちらは湊川多聞小学校という。

赤阪水分(みくまり)時代の楠木正成は「多聞兵衛(たもんのひょうえ)」である。建武の親政に功があってからは河内守に任ぜられたが、当時の「兵衛」は名前だけのものである、正式に位階を受けたわけではない。 「楠」「湊川」「多聞」とくれば、いよいよ楠木正成に近づいてくる。




文化ホールを出て南下する。湊川神社はすぐそこにある。写真は振り返って撮った。右手は市立中央体育館。歩道にはこれまたブロンズ像が立ち並んでいる。10mか15mおきに据えてある。

神戸市はすごいですなあ。街を彫刻でいっぱいにしようとしているかと思われる。またその彫刻がよい。 市が街路に彫刻を配置すると決定したとき、並の市なら子供に迎合して、ゾウさんクマさんキリンさん像を置くかも知れない。あるいはステンレスで作った抽象の作品か、町にゆかりのあった人物像か。

ここにあるブロンズはそうではない。堂々とした美術品である。まがい物はいらない。子供であっても本物を見て育つべきだという芯の通った考えがあるらしい。



道を下って、多聞通りに出た。国道28号線である。


湊川神社は多聞通りに面している。

神社横に案内板があった。これによると、 祭神はいうまでもなく楠木正成(まさしげ)。これが主神で、配神は正成の長男の正行(まさつら)、弟の正季(まさすえ)以下一族16柱。および菊池武吉(たけよし)。

驚いたことに湊川神社は、1872年(明治5年)の創建であるという。「太平記」は40巻による大作だが、そのうち30巻は太平記の主役のひとりである足利直義(ただよし・尊氏の弟)が読んだそうであるから、まだ戦乱の当事者の生存中に書かれたわけである。

楠木正成のことは「太平記読み」によって、このころから知られていたはずで、したがって規模は小さくとも正成を祭る神社は古くからあったものと思っていた。



銅葺きの拝殿がある。この拝殿は阪神淡路大震災にもつぶれなかったようである。

湊川神社は、たぶん小学4年生の正月に訪れている。ほぼ50年前のことである。

広島(三原市)から母親と(今推測すると六甲あたりに住む)母親の友達宅を訪れて、一緒に初詣にいったようだ。正月の3日目くらいではなかったか。神社は押し合いへし合いで、身動きできぬほど混雑していた。



狛犬は陶製である。

12年前に死んだが、母は若いころ花隈にあった着物の仕立て学校に入学した。卒業してからも学校に残り、師範の免状をもらっていたが、まあていのよい「お針子さん」であったのではなかろうか。そのお針子さん仲間を訪ねたようである。

戦後まだ10年あまりしかたっていない時代であったが、神戸には地下鉄があった。阪神電車か阪急電鉄に乗ったのであろう。「ああっ!これは地下鉄じゃ」。そういったのか。友達のおばさんは「うん。そやで」と答えたか。地下鉄は漫画雑誌でしか見ることしかできない乗り物であった。その地下鉄に乗っている。自分の顔が暗い車窓に写っていた光景をいまでも覚えている。

神戸大学に進学したのはもちろん私の学力相応ということもあったが、「楠公さん」への初詣の記憶がいくぶんかは、その決定を左右したと思う。


拝殿では結婚式が行われていた。垂れ下がる鈴緒の前のマークは「菊水」である。右端には「非理法権天」の旗印も立ててある。

ここの「菊水」は普通に知られているものと異なる。菊の上半分の9弁はよいとしても、下の流水は逆S字ではない。渦を巻いている。それも大小2つである。

「渦巻き」の意匠はやや違和感がある。なめらかに水が流れるという情景ではなく、渦を巻いているのである。水は流れ行く先がない。低いところは地下の穴しかない。そこに向かって水が集まり、ぐるぐると旋回して水を排くという感じである。なにかゆわれがあるのであろうか。

正成の墓碑。1692年徳川光圀によって建立されたと案内板にある。

「嗚呼忠臣楠子之墓」と刻してある。

ここの「菊水」は流水が逆S字である。思うに「二つ渦」の菊水は湊川神社の紋であるのか。

湊川神社を出ると地下鉄「高速神戸」駅の出入口がある。(向こうの本瓦葺き)

神戸市には私鉄4社が路線を持っている。@阪急電鉄、A阪神電車、B山陽電鉄、C神戸電鉄である。路線の起点と終点は各社によって違う。40年近く前の大学時代を思い出すと、阪急の終点は三宮駅、阪神は元町駅、山陽は西代か板宿(?)、神戸電は湊川(?)ではなかったか。

路線は連絡していない。阪急に乗って元町にいくことはできないし、阪神に乗って須磨に行くことはできない。阪急・阪神・山陽では神戸の北にある鈴蘭台には行けない。

この4社の路線の終点(起点でもあるが)を集約したのが「神戸高速鉄道」である。各社は「新開地駅」に向かって地下路線を延ばし、ここで4路線の乗り換えができるようになった。1968年(昭和43年)4月のことである。


「高速神戸」駅は地下街になっている。

神戸高速鉄道の駅は東から、高速神戸駅→新開地→大開(だいかい)→高速長田→西代 である。



「大開」で降りた。湊川神社の下にある高速神戸駅は中央区であるが、ここは兵庫区である。



大開駅から北西方向が山である。湊川の戦いで楠木正成が布陣した「会下山」(えげやま)があるはずである。 吉川太平記を読んで、この地をぜひ訪れたいと思っていた。

もともとゆるい坂道であるが、向こう先から坂道の勾配がやや急になっているのは、いよいよ会下山であるらしい。

1336年2月、芦屋の打出浜で新田軍に破れた足利尊氏は九州へ逃げ落ちる。しかし1と月もたたぬうちに九州勢は尊氏の指揮下にはいるのである。いかに建武の親政に不満があったかがわかる。 4月、尊氏は大軍を率いて東上を開始する。


登り坂途中から浜側を見下ろす。

そのころ正成は河内・水分(みくまり)に戻っていた。尊氏が敗走したあとで、「新田義貞では武家を統率できない。武家に信望厚い尊氏こそを武家の統領とすべきである」と進言したが、その意見は容れられず、河内国に戻らされていたのである。

尊氏東上の報が入って、天皇軍の総大将・新田義貞は生田の森に陣を敷いた。

正成の作戦としては、先に成功したように天皇は比叡山に遷座し、足利軍を入京させておいてから兵糧を絶つ。そうすれば前回と同じく足利軍は自滅するであろう。というものであった。だがこの策は退けられた。

正成は生田の森で天皇軍(義貞軍)に合流した。(この途中で「桜井駅の別れ」があった。)軍議では、次の地図のような布陣をとることになった。



足利軍は陸上で3隊に分かれて進軍している。山手は斯波高経軍(しば・たかつね)、浜手は少弐頼尚軍(しょうに・よりひさ)、大手は西国街道から来る足利直義(ただよし)軍である。各軍1万人。

足利尊氏は数千艘を率いて海上を進んでいる。いつでも有利な地点に上陸するためである。

迎え討つ新田軍は2万人。楠木軍はわずか1000人である。軍議において正成は会下山に陣を敷くと決めた。

会下山は標高90mの小山ながら孤立している。山手から来る斯波軍はこの山の北または西に出てくる。主力の直義軍は会下山の南へ出てくる。正成が斯波軍を牽制し、かつ直義軍を引きつけている間に、新田軍が直義軍を攻めて挟み討ちにしよう。という作戦であった。

海上の尊氏軍はどこに上陸するかは不明であるので、和田岬には大館氏明軍を、兵庫港(経ガ島)には新田義貞の弟である脇屋義助軍を配置した。


会下山(えげやま)の登り口。今は会下山公園になっているので公園への入り口である。

会下山は標高90mとも80mともいわれている。(あまり低い山なので地図には標高が記されていない)この入り口の標高は60〜70mはあろうから、山頂へはあと20〜30mくらい登れば着くだろうか。


山頂。平らで結構広い。正成はここに菊水の旗と「非理法権天」の旗印を立てた。

「非」は「理」にかなわず、「理」は「法」にかなわない。「法」でさえ時の「権」力には負ける。しかし「権」は「天」道には勝てない。天を欺くことはできない。という意味である(私本太平記の脚注に書いてあった)

1336年旧暦5月25日。新暦7月12日のことである。


千早城は立て籠もるための山城であったが、今回は違う。この高地に立って敵味方の動きを見定めて、機あれば一気に攻めるための陣である。

北側の眺め。山すそには神戸電鉄が走っている。向こうの町は「夢野」である。左手の山は「鵯越え」で名高い「ひよどり」か。

山手の斯波軍はこの方面か会下山の西(左側)にでてくるはずである。

南側の眺め。兵庫から神戸方面。中央の最も高いビルがJR神戸駅前にあるクリスタルタワー(32階)。青空を映してビルも青く見えている。

右端の木立の境目にクレーンが数基立っているが、これは神戸港にある川崎造船所のものだろう。

正成はここから和田岬あるいは兵庫港に上陸せんと船を寄せた尊氏軍の動きを見たはずである。

尊氏軍のうち数百艘は和田岬と兵庫港(経ガ島)に上陸しようとしたが待ち構えていた大館・脇屋の両軍によって破られ上陸できない。尊氏は上陸部隊を引き上げさせ、いったん船団を沖合いに出し、和田岬沖を過ぎて生田川方面に向かうように命令する。

公園の南に「大楠公湊川陣之遺跡」の石碑があった。

尊氏率いる水軍の動きについて、正成と新田義貞は別々の判断をした。正成は船団が岸から離れたので、ひとまず尊氏軍の上陸はない。いまこそ直義軍に向かって討って出るときである。新田軍がこれに呼応すれば、大手軍の大将・直義の首が取れる。と判断した。

新田義貞は違った。新田軍7〜8000人は西国街道を迫る直義軍に対峙するために「二本松」(たぶん新開地の付近であろう)に陣を敷いていたが、尊氏軍が背後の生田方面に上陸すると見た。正面の直義軍と背面の尊氏軍に挟撃されるては勝ち目はない。背後を突かれないために、軍を生田の森まで後退させねばならない。と判断した。

正成はチャンスと見、義貞はピンチと見た。義貞は生田の森での打ち合わせを反故にして後退する。楠木軍は会下山に取り残された。


会下山を降る。

直義軍1万(それ以上か)は会下山の南を埋めた。会下山にある楠木軍は6〜700人であったが、決死の覚悟がある。いっせいに崖下に向かって突撃する。局地の戦いは人数の多寡ではないようである。地の利もよかった。駆け降る楠木軍は直義軍を蹴散らすのである。狙うは直義ただ一人。直義は長田の蓮池まで敗走する。

山手の斯波軍には楠木正季が当たった。手勢は400人足らずである。(あとで行く)長田神社の北方に大日寺があるがこのあたりにいる敵を北から追い落とした。坂道を下へ下へと敵を追って、長田神社まで下る。 正成軍と正季軍は会下山の西で合流したというから、神港高校あるいは夢野台高校のあたりで会ったか。残った兵は合わせて500騎ほどである。


会下山の下を東西(やや南向き)に「松本通り」があった。この歩道には人工の小川が設けられている。「せせらぎ歩道」というのだそうである。この道は実によかった。

尊氏軍は生田方面に進路を変更したが、尊氏は船団から離れて、少人数で駒ケ林に上陸していた。長田神社の真南にある長田港である。そこから近くにある宝満寺を陣とした。

正成は尊氏が宝満寺にいることを知る。会下山からわずかに1.5km先である。尊氏の首を取るチャンスである。


「せせらぎ」のあるところは浅くなっていて、水草が浮かび、水仙の鉢が置いてある。写真のように水車もある。

いったん退いた直義軍は須磨口にいる。蓮池には高師泰(こうのもろやす)の一隊がいる。これらが尊氏の許に駆けつける前に尊氏を討ち取ることが残された唯一の方策である。

500騎でもって一目散に宝満寺に向けて駆けた。だが敵方の防戦にあって寺へ至ることができない。あと一歩というときに直義軍・師泰軍が駆けつけてきて万事は終わった。追われて会下山へ向かって逃げる。残ったのは7〜80騎である。

しかし会下山は斯波軍によって占拠されていた。南から直義軍、北には斯波軍、東からは細川定禅軍。死に場所を探すしかない。正成の最期の地はわかっていない。吉川本では旧湊川の上流に向かったとしている。ここで野小屋か道場かといった建物を見つけ、一族51人(28人ともいう)が自刃する。


「せせらぎ」の別のところはやや深く緋鮒が泳いでいる。

正成の首は尊氏が新たに本陣とした魚見堂(うおみどう)に運ばれた。尊氏は正成の首を湊川の河原に一日曝しただけで、すぐに真光寺に運ばせ、楠木一族の供養を営んだ。施主は尊氏である。

供養が終わると、正成の首は河内の水分にある正成の館に送られた。首は河内長野市にある観心寺に埋められ、今でも首塚としてあるそうである。

尊氏は正成が好きだったようである。


「せせらぎ歩道」が尽きて、北(北西)の山側に向いて歩く。写真正面の小山は会下山である。その下に煉瓦を積んだトンネルの出口がある。

手前の川は新湊川。つまり新湊川は会下山の下に掘られたトンネルをくぐって流れてくるのである。

正成のころの湊川は会下山の向こう(東)を流れていた。兵庫区役所の近くに湊川公園があり、ここに大楠公の銅像が建っているらしいが、湊川公園はもとの湊川の跡である。南の新開地を通って兵庫港に向かって流れていたらしい。


山から海に向かって一直線に流れる川は危ない。多量の雨が降れば短時間に土石流が溢れ出し、一帯に甚大な被害をもたらせる。

南東方向に流れていた湊川は南西方向に向きを変えられ、山の傾斜が緩やかになった長田から南に方向を転じて海へ出されている。

新湊川に沿って下ると長田(ながた)に出る。



長田橋に着いた。



向こうに見える杜は長田神社である。会下山から神社までは約1kmというところか。

楠木正季が足利軍をここまで追ったというが、このあたりの道路は平らである。もう少し先に行けば坂道があるのか。



長田神社も古く、式内社である。生田神社と同じく神功皇后にゆかりがある。三韓出兵からの帰途、この地に寄って事代主命(ことしろぬしのみこと)を祭ったのが初めだそうである。

写真は社門(前拝というらしい)で、奥に拝殿。ここも震災によって半壊したそうであるが、すでに復興されている。新しく建てたのか修復したのは知らない。



神社前のせんべい屋で、瓦せんべいを買った。神戸の菓子といえば、モロゾフのチョコ、ユーハイムのバウムクーヘン、風月堂のゴーフル、ドンクのパン、ヤマシタのアイスである(大手だけ)が、瓦せんべいを軽くみてはいけない。瓦せんべいを焼く店はいくつもある。

写真は30枚で1000円の箱入りである。小さい店である。主人がせんべいを焼き、奥さんが販売をしている。 どうして楠木正成と瓦が結びついたのか不思議であったので、尋ねたが知らないという。

菊水総本店のHPに「社殿建立の際に、瓦を寄進する慣わしにちなみまして、正成公の勇姿を焼きいれた瓦せんべいを発案しました。」とあった。正成と瓦とは何のつながりもないようである。

各店によってせんべいに押す焼印の図案は異なるが、「菊水」はどの店も入れているようである。写真の「桜井駅の別れ」も多い。大楠公の騎馬姿のものもある。


1:30になってしまった。予定では、@尊氏が上陸したという駒ケ林、A尊氏が正成に攻められた宝満寺、B尊氏が正成の供養をしたという真光寺、を訪ねたかったが、どれも昔は海辺だったところだから、ここ長田からは少し距離がある。地図で目測すると4kmくらい離れている。

長田駅近くの鮨屋でチラシ鮨をアテにしてビールを飲む。店の主に駒ケ林へはどのようにいけばよいかを聞くと、高速長田→新長田に行き、ここで市営地下鉄に乗り換えると、次の駅が駒ケ林である。ということだった。

で、やってきたのが駒ケ林神社である。駒ケ林とは「高麗が返し」のことであるらしい。つまりは古代、高麗国からの出入国の検問の場所であったようである。


今、気づいたのだが、駒ケ林神社の拝殿は特異な建物である。正面に丸い唐破風があるのはよい。たいていの神社の拝殿の正面は「唐破風」である。

ところがその屋上にさらに屋根があり、そこには三角の破風があるのである。屋上屋を重ねるというのはこのことであろうか。二重の破風が小さい神社を堂々の神社建築物に見せているのである。 どういうことで二重の屋根を構えたのか。「屋上屋を重ねる神社」は、これ以外にあるのであろうか。興味深い神社である。

神社のすぐ前に漁港がある。長田港であるらしい。足利尊氏が上陸したのはここであろう。


上陸した尊氏は宝満寺に陣を置いた。ここにいるとき、楠木軍に襲われ、あやうく退けたという寺である。

駒ケ林神社からは1.2kmくらい離れている。そこへ向かっている。道は国道2号線。高架は阪神高速神戸線である。


東尻池町に宝満寺はあった。寺門の脇にある案内板によれば、
  1. 弘法大師が開創した。
  2. 平清盛が福原に都を造ったときに、現在地に移転した。
  3. 一の谷の合戦で、伽藍の大部分を消失したが、
  4. 亀山天皇の勅命によって再建された。
  5. 足利尊氏によって修復され、同時に寺領を寄進された。
  6. 荒木村重に寺禄を取り上げられ、伽藍を焼き討ちにされて衰退した。
という歴史を持つそうである。

尊氏は兵庫に上陸したとき、この寺に迷惑をかけているので、寺領を寄進したのは当然だが、荒木村重までが登場するとは意外だった。しかも焼き討ちをしたというから、村重らしい。


正成の菩提を弔った真光寺は地図で探してみたが見つからなかった。今は存在しないのかも知れないとして帰ることにした。JR兵庫駅まで歩く。

山陽線・兵庫駅→環状線・鶴橋駅の運賃は690円である。思ったより安い。しかも鶴橋で近鉄に乗り換えると、名張へはカンチューハイを飲みながら帰ることができる。

そのとおりにして帰った。帰ってHPで調べたら、真光寺は現在もあることを知った。しかもこの寺は一遍上人が没した寺であるという。場所は兵庫駅から南へ700mほどのところである。これはもったいないことをした。ちょっと悔やむ。

万歩計は25400歩だった。


行く先の目次... 前頁... 次頁... 神戸市(中央区・兵庫区)... 神戸市(兵庫区・長田区)... 執筆:坂本 正治