兵庫・新川運河の周辺

    No.49.....2006年11月18日(土曜)


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笠置山に行ったことで吉川英治の「私本太平記」を読むきっかけができた。その後、楠木正成の千早赤阪村を訪ね、前回は兵庫・会下山へ行った。ここで兵庫はなかなかの歴史を持つ町であることを知った。

兵庫についてHPで調べると訪れたい場所がまだまだあった。足利尊氏が楠木正成の供養をした真光寺を見損ねていたこともあって、連続して兵庫散策をすることになった。訪れたのは図の@〜Nである。
  1. ハーバーランド
  2. 和田岬駅(三石神社・和田神社)
  3. 薬仙寺・御崎八幡神社
  4. 真光寺
  5. 清盛塚・兵庫住吉神社
  6. 阿弥陀寺・南浜惣会所跡
  7. 兵庫城跡
  8. 能福寺・満福寺
  9. 柳原天神社・柳原蛭子神社
  10. 福海寺・福厳寺
  11. 来迎寺・岡方惣会所跡
  12. 七宮神社
  13. 竹尾稲荷神社
  14. 鎮守稲荷神社
  15. 湊八幡神社
A〜Nは、江戸期の兵庫宿および兵庫津である。@の「ハーバーランド」だけは兵庫区ではなく中央区である。これは15年ほど前に整備された新しい街で、まだ行ったことがなかったので、寄り道(一番先に訪れたのだが)した。(ちょっと欲張りすぎた)

JR大阪からJR神戸駅間の距離は33.1km。運賃は390円である。これが次の兵庫駅までいくとなると一気に540円になる。1.8kmほど遠くなっただけなのに、この運賃の違いはなんとしたことか。

神戸駅は東海道本線の終点であり、山陽本線の始点である。 東海道本線から山陽本線に変わるから、運賃が一気に高くなるというのではなかろう。たぶん大阪・神戸間は私鉄(阪急・阪神)との競争が激しいので、この区間の運賃は営業上、特に割安になっているのではなかろうか。兵庫からは通常の運賃体系に戻っているのだろう。(推測)


神戸駅(高架線路)は南北に伸びている。西側には湊川神社や繁華街の新開地があるが、東側にはつい15年前までは貨物駅である湊川駅があった。

その先は内航船の荷揚げをしていたのではなかったか。鉄道線路・貨物置場・あるいは荷揚げ用のクレーンがあり、コンテナが積まれて、赤錆た印象のある区域であった。

それが「ハーバーランド」という新しい街に変身しているという。

駅を東側に出るとどのピルも新しい。左手に前回知ったばかりの青い「クリスタルタワー」がある。奥のビルの上に赤いポートタワーが頭をのぞかせている。知っているのはポートタワーだけである。





国道2号線(上には阪神高速・神戸線)を迂回して渡ると、向こうに観覧車が回っている。左手の茶色い建物は神戸阪急百貨店が経営する「キャナル・ガーデン」である。

10時少し前であった。神戸港を一望するには、高いビルに登ればよいと思って来たが、まだ開店していない。なら観覧車に乗ろう。やや気恥ずかしくあるが、この時間だからまだ観光客は来ていないだろう。幸い観覧車は回っているようである。

そこは「モザイク」という一画だった。観覧車があるのはモザイク・ガーデンという小さな遊園地である。メリーゴーランドも小さなジェットコースターもあった。

ただし開園時間は11:00からであるという。園内では開園に向けて清掃をしている。観覧車を回しているのは点検のためであるらしい。





隣に3階立ての長いビルがあって、飲食街になっているらしい。ここもまだ開店前である。ビルには入れなかったがデッキ状の回廊があって、ここから神戸港を見ることができた。

中央は中突堤に立つポートタワーである。すぐ左にあるのは摩耶山(まやさん)。

右横にある白く高いビルはホテル・オークラが入るビルであるらしい。これは知らない。

その下の網を干したような格好の建物は神戸海洋博物館である。ここへは西宮にいるころ、子供を連れていったことがある。

うん?今気づいたが、中突堤の幅はポートタワーが立っているのがギリギリで、白いビルや海洋博物館が建てられるような場所はなかったのではないか。





神戸港はどんどん進化している。5年も見ないと港の景色は様変わりとなる。
  1. は昔の兵庫津(ひょうごのつ)である。

  2. 幕末、兵庫港が開港されたが、兵庫港とはいいながら港は神戸村に新設され、のちに神戸港という名前になった。 当初は突堤はなく、一番にできたのが(a)の中突堤ではなかったか。その東側にメリケン波止場が作られた。
    中突堤とメリケン波止場の間を埋め立てて、メリケンパークとし、海洋博物館ができたのが1987年であるという。

  3. 中突堤についで、(b)第1突堤、(c)第2突堤、(d)第3突堤、(e)第4突堤が作られたのは明治の終わりらしい。

  4. 港は東に拡張され、新港第4、第5、第6の突堤が大正年間に完成し、戦後も第7、第8の突堤が加えられる。

  5. さらに東側に摩耶埠頭がつくられたのは1967年のことで、私が大学2年生のころである。
    新港(今は小野浜町という)も摩耶埠頭も突堤が櫛状に海に向かって突き出ていたが、埋め立てられて櫛の歯は無くなっている。

  6. 1966年からポートアイランドの造成工事が始まる。私が大学1年のときのことである。六甲山に登って海を見ると海上に枠が画され、浚渫船や土砂運搬船が走り回っているのを見た記憶がある。


まことに神戸港の変遷は激しい。

南側(港外)方面を見ると、川崎重工のクレーンが並んでいる。(川崎重工の造船部門は、川崎重工から分社して「川崎造船」になった。この向こうにある。)

ここばかりは、40年前の大学時代とあまり変わっていないようである。


ハーバーランドを振り返ると、新しいビルが林立している。

左に半分だけ写っているのが神戸新聞社、右の白いビルはホテル・ニューオータニが入っているビル、隣がプロメナ神戸というビルか。

青いビルはクリスタルタワー。手前に広がっている茶と黄色のビルがキャナルガーデンらしい。どれもこれも初めて見るから、不確かである。



JR神戸駅の東側に地下鉄海岸線の乗り場がある。駅名は「ハーバーランド」である。この地下鉄は前回のテクテクで「新長田」から「駒ケ林」の1駅間を乗ったが、ずいぶん新しいようだった。駅員さんにいつできたのかを問うと、平成13年であると返事があった。

今日は「ハーバーランド」→「中央市場前」→「和田岬」の間を乗る。200円。


地下鉄の和田岬駅を出ると、三菱の工場建物が群立している。三菱重工神戸造船所があり、三菱電機神戸製作所があり、三菱病院がある。和田岬は三菱で占められている。

よって一般人は和田岬に立つことはできないし、そこにある勝海舟が作ったという和田岬砲台を見ることはできない。(平日に予約すれば見学できるそうであるが、土日祝日はダメ)

神戸にくると思い出話が多くなるが、ここ(三菱重工)には25年前にパソコン(当時はまだマイコンと呼んでいた)の講師として、2日ほど通ったことがある。

講義のあとで少しの見学をさせてもらった。そのときは「和田岬砲台」については知識がなかった。敷地内に敷設された鉄道線路やクレーンや係留されている潜水艦を見ただけで満足したが、今となっては惜しいことをした。


そのときの足はJR和田岬線に乗ってやってきた。兵庫駅から和田岬線が出ているのだが、駅は和田岬ただひと駅だけである。当然に終着駅である。

この駅は今もあった。乗客の全部が三菱に勤務する人であるので、朝夕の通勤時だけ電車が走る。無人の駅舎内に入って時刻表をみたら、8:55〜17:26までの間は見事に運行していない。

ここばかりは少しも変わっていない。変わっていないから安心するような、時代に取り残されてさびしいような。


昼間は無人駅ではあるが、プラットホーム脇には、白い菊、黄色い菊が植えられてあった。この駅に愛情をもつ駅員さんがいることがわかる。

JR和田岬線は兵庫駅からしか乗れない上、昼間の便数は皆無である。神戸駅あるいは新長田駅から乗れる地下鉄海岸線ができた今では、和田岬線の余命も尽きそうに思われる。




駅のすぐ近くに三石神社(みついし)があった。神功皇后を祀る小さな神社である。

石鳥居の両脇は玉垣で囲ってある。鳥居左の最初の玉垣に「三菱電機神戸製作所・制御製作所」の文字が彫ってあった。鳥居の右の玉垣は「三菱重工神戸造船所」である。三菱はそろって三石神社に寄付しているのは、ご近所であるためか。




また思い出である。1988年ころ制御製作所へ足しげく通ったことがある。

大きな駅にはディスプレーのついた筺体が置かれてあって、立ったままでタッチパネルを押して、観光案内や時刻表を見ることができる装置がある。

その株式チャート版を作り、証券会社に売り込むので、ソフトウェアを開発してほしい。という話が三菱電機から持ち込まれた。

筺体(と中のパソコン)は制御製作所、ソフトウェアは東研ソフト(うちである)、総代理店は西華産業である。初めはこの話は断った。ソフトの技術者をうちに派遣して、プログラムされるならば、技術的なアドバイスはいくらでもしますということにした。

しかし10日ほど社員が通ってきていたが、「時間がないのでどうしても作って欲しい」となって、しかたなく引き受けた。





図は境内にある神功皇后と皇后の子供の後の応神天皇を抱く武内宿禰の銅像。

よい勉強をさせてもらった。それまでは(今もそうだが)自分の考えたものを気ままにプログラムしていたのだが、そのときは三菱の仕様書(画面のデザイン・操作手順・機能)どおりに作らねばならないのでやや辛い作業だった。

ソフトを納入すると、三菱側は仕様書に基づいているかの徹底的なチェックとバグ出しをし、不具合がでるたびにこの和田岬までやってきた。(社員が自分の車で送り迎えしてくれた。多くは電車のない時間だったからである。それくらい三菱の社員はよく働いていた。)

いよいよ出荷となったとき、24時間だか48時間だかの導通テストをするから工場で待機して欲しいといわれ、詰めた。大企業はここまで品質にこだわるのかと感心した。








三石神社の隣は和田神社である。大きな赤鳥居がそびえている。

一方では西華産業が証券会社(多くは三菱系だったが)に売り込んでいて、販売は快調のようであった。

突然に、システムがダウンしたから来て欲しいの呼び出しがあって東京に駆けつけたこともあったが、夜は担当者と居酒屋で飲んだりして、決して苦痛ではなかった。

このシステムはバブル崩壊とともに売れなくなって、1991年ころに販売を終えたのではなかったか。

まだインターネットがなかったころの思い出である。



「七五三」の時期である。拝殿横には子供の喜びそうなキャラクターが立ち並べてある。

ミッキー、アンパンマン、ミニーマウス、バイキンマン。最後は熊のプーさん。



三石神社・和田神社前の道を進む。地図では北上しているはずである。今日は曇っていて太陽が出ていないので方角がよくつかめていないが、向こうに山が見えているので 、北から西に向かっていることは確かである。

(次図)防波堤に突き当たった。写真中央の山は摩耶山(まやさん)であろう。






防波堤は高い。背伸びして見ると、運河である。地図にある「新川」がこれであろう。

写真は北を向いて撮ったもの。 正面の運河に架かる3重のアーチの橋は大輪田橋。

運河にはブイが浮かんでいて、その上で黒い水鳥(鵜だろうか)が休んでいる。


東を見る。向こうの橋をくぐると外海(といっても瀬戸内海だが)に出る。



新川は「川」ではなく「運河」である。「カナル」である。明治の初め(1875年)に、地図のピンク色部分が掘られ、舟入場あるいは台風時の船の避難場所となった。

今立っている位置は(A)である。新川運河は(B)の島上町まで伸び、結果として(C)が島のようになって、その名も「中之島」という町名になっている。

古地図をみると、新川は今出在家町から御屋敷(旧県庁)・同心屋敷のあったあたりを堀下げてできたようである。

明治30年代に赤線部分に兵庫運河が掘られ、新川運河と繋がった。兵庫運河は(D)のところから北へ伸びて、JR兵庫駅近くまで通じている。

また(D)から南へ伸びて外海に出ている。兵庫運河によって和田岬全体は陸続きから切り離され、大きな島のようになっている。



新川運河の両岸には道があるが、その道沿いに薬仙寺があった。この寺は時宗(じしゅう)である。

浄土宗の法然は1212年に亡くなる。時宗の開祖の一遍は、1239年に生まれているから、法然と同じ時間を共有したことはない。 一遍は法然の孫弟子から浄土宗(西山義)を学ぶ。直弟子である親鸞の浄土真宗は思念的であるが、一遍の時宗は行動的である。「踊り念仏」である。

一遍上人については、栗田勇さんが芸術新潮に「一遍上人絵伝」(国宝)を掲げて、連載されていた(20年以上は前だと思う)。これを読んで上人についてのわずかな知識を得たつもりだったが、時宗の寺を見たことがなかったものだから、その知識も失せてしまっている。 今日初めて時宗の寺を見た。



この寺は行基が創ったという。時宗に転じたのは南北朝時代であるらしい。 境内にはいろいろの石碑がある。「踊り念仏連名」の石碑は時宗らしくある。

「萱の御所跡」の石碑は、平清盛が福原に遷都したおり、後白河法皇を幽閉した建物が近く(新川運河になっている)にあったらしく、その場所にあった石碑をここへ移したとある。

「後醍醐天皇御薬水」の石碑と井戸がある。行基はこの井戸から薬師如来像を見つけ、ここに寺を開いたという。また隠岐に配流されていた後醍醐天皇が船上山から兵庫津に戻ってきたとき(今日訪ねる福厳寺に3日ほど宿泊)、病にかかったが、この井戸の水を飲んで快癒した。とかが案内板にあった。


行基(奈良)、清盛(平安)、後醍醐天皇(南北朝)と歴史ある寺であるが、建物は新しくコンクリート造りである。これは空襲と今度の大震災によるためか。

薬仙寺を出ると、はす向かいに御崎八幡神社がある。


道路の向こう先(北)が登り坂になっているのは兵庫運河に架かる清盛橋である。


清盛橋から西は兵庫運河である。


清盛橋から東は兵庫運河の終わりで、新川運河と繋がっている。


清盛橋を渡り切る。正面は北。正面のとがった山は再度山(ふたたび)だろうか。

手前の交差路をまっすぐ行けば真光寺があり、交差路の右手に清盛塚がある。


真光寺。湊川の戦いに敗れた楠木正成は自刃するが、その首は「魚見堂」に運ばれ、足利尊氏が首実検をする。首は1日湊川の河原にさらされた後、尊氏は真光寺において正成の大供養会をとりおこない、首は正成の本拠地の河内の水分(みくまり)に届けられた。

そういうことが私本太平記に書いてあったので、この寺を訪れたかったのだ。しかし前回のテクテクでは地図を探しても見つからなかった。よほど小さな寺かと思っていたがそうではない。



大きな寺である。古地図をみると先の薬仙寺と真光寺は兵庫で最も広い敷地をもっている。しかも真光寺は一遍上人が没した寺であるという。私が無知であっただけのようである。

一遍は遊行の僧である。寺を持たず、時衆を引き連れて全国を行脚し、「南無阿弥陀仏」の札を配り、各地で踊り念仏を催している。遊行16年にして病に倒れ、この地にあった観音堂で亡くなる。

写真中央が観音堂である。震災後に立て直したと、境内を掃除している方から聞いた。




一遍は生前に自らの著作物を全部捨てている。死んだら墓は作らず、亡骸は野に捨てて、けだものに施すようにいっていたそうである。調べたら時宗の宗歌は

旅ころも 木の根 萱の根 いずくにか
身の捨てられぬ ところあるべき

だそうである。「捨てる」ことは一遍にとって最高に重大なことだったようである。しかし一遍は信者の手によって荼毘にふされ、墓に埋められた。写真の五輪塔がそれである。

墓前に老人男性1人と女性3人(うち1人は若かった)がいて、リュックからなにやら取り出したのは数珠であろうか。老人が若い女性に、おそらくはお参りの作法か儀式の手順かを説明している。老人は素足であった。

私に気づいて会釈されたが、どうもこれから墓参するから信者でない者は遠慮して欲しい。という感じを受けたので廟所を出た。




(当たり前のことだが)時宗の信者がいるのか。そこで境内の落ち葉を掃いている男性に尋ねたのである。「今でも踊り念仏をするのですか?」

するそうである。廟所ですることが多いが、大規模なときは本堂前の境内でするらしい。

「一遍上人絵伝」に遊行僧(時衆)が輪になってぐるぐる回りながら、念仏を唱えている絵がある。

その顔つきは笑いではじけ、体は欣喜雀躍しているのである。そういうことが今でも行われているのを知って、ちょっとした感銘である。





清盛塚にきた。塚の前の案内板を見ると、9代執権北条貞時が建立したとある。十三重の石塔である。台座に弘安9年(1286年)と刻まれているそうであるが見落とした。

塚は元は南西11mほどのところにあったが、この地に移された。その際に調査したところ遺骨はでてこなかったそうである。

清盛が死んだのは1181年というから、没後105年目に作られた塚である。建立当初から遺骨は埋められてなかったのではないか。

清盛は日宋貿易で財貨を得た。その中心拠点の大輪田泊(おおわだのとまり)の港湾施設を整備した。人工島も作った。これが経ケ島で、今の島上町ではないかとされている。



もし島上町が経ケ島であるならば、そこが大輪田泊だったことになる。清盛塚は島上町から少し離れている。

清盛塚の前に架かる大輪田橋を渡る。東へ向いている。

島上町と離れているのに大輪田橋と名づけられているのはなぜか。清盛塚がこの地にあるのも不思議である。大輪田泊はこのあたりにあったのではないか。

とはいっても、兵庫運河と新川運河で掘り返されているから、今となっては不明なままであろう。(後でわかった!)




大輪田橋は新川運河に架かっている。橋を渡ると、出在家町あるいは中之島である。中之島には中央市場がある。

江戸初期まで兵庫は尼崎藩領であったが、兵庫津が賑わいだしてから召し上げられて天領にされた。天領は一般には代官が支配するが、兵庫の町方は大阪町奉行の管轄下にあった。交易による口銭を吸い上げるためであろう。

町方は、岡方、北浜、南浜の3つの地区に分かれていた。中之島は南浜である。ここに「南浜惣会所跡」の石碑があるというので、行ったのだが容易に見つからなかった。尋ねても知らない。見たことがないという。

しかたがないので阿弥陀寺を訪ねた。ここに誰かいれば尋ねようと思ったからである。




境内にある案内板に「楠公供養石由来」とあった。文は

「建武3年(1336)5月25日、湊川の戦いに大捷した足利尊氏が、須佐の入江の奥にあった魚御堂で、楠木正成公の首改めをしたと言われる礎石である。」

中央の赤い石がそうである。かなり大きい(高さ1mを超えている)。魚御堂(太平記では魚見堂とあった)にあった庭石だろうか。尊氏はこの赤石の上に置かれた正成の首に対面したのか。

依然として魚見堂の場所を知ることをできないでいるが、「須佐の入江」は清盛塚あるいは真光寺あたりまで来ていたようである。真光寺近くであるなら、尊氏がここで供養会をしたことがうなづける。

あるいは新川運河は元の須佐の入江のあったところに掘られている(明治期にも入江があったなら、これを拡張したか)から、このとき無くなってしまったのか。




思わぬところで「魚見堂」に縁があるものを見た。昔なら墓守りとでもいえる老人が寺の敷地内にある墓の掃除をされていた。魚見堂の場所を聞いたが知らないという。

もういちど「南浜惣会所跡」を探す。道路に面して漁業組合連合会といった小さなビルがあって、ここではないかと道路前をよくよく見たのだが、ない。

まさかと思いつつ、ビル(水産会館というらしい)の横の細い空き地を奥に入ってみると、あった。

石碑ではなく、石のプレートだった。ビルに埋め込まれている「定礎」の石板のごときである。わからなかったはずである。南浜惣会所は今は漁業組合連合会になったのか。



(次図)大輪田橋を引き返して、清盛塚から北を向くと、新川運河沿いにタイルが敷かれた散歩道がある。「キャナルプロムナード」というのだそうである。向こうの橋は入江橋。







入江橋に向かって200mほど先に「兵庫城跡」の石碑があった。

花隈城は前回訪ねたが、この城は織田軍の池田信輝・輝政によって攻め落とされる。池田氏は兵庫を拝領し、花隈城の遺材を使って縄張りしたのが兵庫城である。往時は140m四方の城であったが、江戸期には尼崎藩の陣屋になり、天領となってからは大阪町奉行所に属する与力・同心の勤番所になった。と案内板にある。

城が陣屋になり、(与力・同心というから)幕臣ではない役人の勤番所になったのか。今は新川運河の下である。



入江橋には平相国入道(清盛)のマスコットが置かれてあった。

兵庫にとっては大恩人である。太い眉、八の字髭をつけながらもニコニコ顔である。ニコニコは兵庫の気持ちであろう。



マスコットの反対側から北を見る。新川運河は向こうで島上町に突き当たり、右(東)に折れて外海に出る。

写真右に家が建て込んでいるのは船大工町。

私は古地図を見て、この場所が大輪田泊であると思っていた。正面に3階建てのビルが2つ並んでいる。その右側のビルの右隣は来迎寺である。またの名を築島寺という。築島とは経ケ島のことだという。つまり来迎寺が建てられているのは人工島の上である。

人工島は大輪田泊を整備するために作られたのであるから、ここが大輪田泊であるとするのが自然な考えである。

だがそうではない。左側のビルの手前に木が植えられているが、この木の下に大輪田泊は別の場所であるという証拠が置かれていることをのちに知った。



古地図に新川運河と兵庫運河を書き入れてみた(まったく雑ではあるが)。立っている入江橋は●の位置にある。
  1. ここに古くは舟入り場があったことがわかる。(これを大輪田泊だと思っていた)

  2. 真光寺は大寺である。
  3. 近くに「須佐の入江」がある。入江に流れ込んでいる川は逆瀬川。この須佐の入江を利用して新川運河が作られたのではないか。
  4. 新川運河によって「御屋敷」は無くなってしまった。

    ここまではすでに訪ねたところ。以下がこれから行くところ。

  5. 清盛ゆかりの能福寺。
  6. 兵庫宿の西の入り口の「柳原惣門」と尊氏ゆかりの福海寺、後醍醐天皇に縁ある福厳寺。

  7. 西国街道を東へ進み、「札場の辻」へ。
  8. ついで北上し、最後には東からの入り口の「湊口惣門」にいくのだが、
  9. 寄り道をして高田屋嘉兵衛にゆかりある七宮神社や
  10. 西出町に行く。


能福寺。門を入ると正面に大仏が鎮座してある。大仏脇の案内板を読むと、この寺も実に立派な歴史がある。

@伝教大師最澄は唐留学からの帰りに和田岬に上陸し、堂を建立して「能福護国密寺」とした。能福寺である。すなわち大師の我が国最初の教化霊場である。とある。

A平清盛は能福寺において剃髪し入道する(1168年)。1180年の福原遷都時には「福原寺」と称した。 1181年、清盛は京で死ぬが、遺骨は能福寺に埋められた。

B大仏は「兵庫大仏」と呼ばれ、日本3大仏の1つである。しかし古くはない。できたのは明治初年である。その後、戦時の金属供出によって大仏は消えた。今あるのは15年前にできた2代目である。高さ11m、(地上からは18m)、重さ60トン。


清盛の墓所である。1181年に能福寺寺領内にあった八棟寺に「平相国廟」が造立されたが、平家滅亡時に能福寺ともども灰燼に帰した。これは能福寺の言い伝えである。

実際のところ各種の古文書には、@経ケ島、A大輪田の法華堂、B能福寺の北東に埋骨、と3説があるようである。

時の日本一の権力者が、島やお堂に埋骨されることはないだろう。能福寺のいい伝えが最も説得力がある。自然である。


それにしても、兵庫は奥が深い。清盛の墓所がどこにあるかなどは少しも思ったことがなかったが、兵庫であるのか。

さらに驚いたのが、写真の「月輪影殿」(つきのわ・えいでん)である。「月輪」は京都東山の地名である。

歴代の天皇陵の場所を調べると、室町末期から江戸初期にかけては「深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)」が多い。江戸期には決まったように「月輪陵(つきのわのみささぎ)」になる。

108代後水尾天皇(1596〜1680)から121代孝明天皇(1831〜1866)まで14代の御陵は月輪陵か後月輪陵である。どちらも東山区今熊野泉山町にある。東福寺の東にある山である。

古墳は別として、いわゆる墓としての御陵に行ったことはない。案内板によると、月輪陵には九条家が持つ拝殿があって、「月輪影殿」と呼ばれているらしい。墓参りはここでするのか。その拝殿を1953年に宮内省および九条家から下賜されたのが、この建物であるらしい。どうして兵庫の寺にこのように大層なものが下賜されたのか。別の案内板に「院家(いんげ)」の説明があった。

@能福寺は、京都5門跡の1つの青蓮院門跡の旧「院家」である。
A院家とは、門跡が幼少のとき教育をする役職である。門跡不在のときは門跡代理を務める。
B能福寺は京都以西では唯一の旧院家である。

ということである。



北風正造の顕彰碑がある。

司馬さんの「菜の花の沖」を読むと、高田屋嘉兵衛が淡路で育ったこと、兵庫に出て堺屋という廻船問屋で働いたこと、その時期の兵庫を代表する大豪商が北風家であったことを知る。

嘉兵衛は北風荘右衛門から難破船をもらって初めて船を持ち、船持ち船頭になる(司馬さんのつくりごとかも)。恩人である。

北風正造は幕末から明治にかけての北風家の総領であり、やはり豪商であった。新川運河開削の発起人でもある。

この寺に顕彰碑があるのは、北風家は能福寺の檀徒であったからであるらしい。



能福寺には畏れ入った。

最澄・清盛・九条家・北風家との繋がりができたのは大輪田泊・兵庫津のおかげであろう。

西国街道の西からの兵庫宿への入り口「柳原惣門跡」に向かう。

右の玉垣は柳原蛭子神社(やなぎはらえびす)である。



えべっさんの総本社は西宮神社である。

大阪では今宮戎、京都では堀川戎、兵庫は柳原蛭子か。

石のえべっさん。鯛を釣り上げてにっこり。


柳原蛭子神社の角に「柳原惣門跡」の碑があった。道は西国街道である。左側の塀は福海寺のもの。この福海寺から柳原蛭子神社の間に惣門と呼ばれる門があった。

池田氏の兵庫城築城時の名残である。当初はいくつかの門があったが、江戸初期尼崎藩領になったとき、柳原惣門と湊口惣門だけを残した。と案内板にある。

兵庫は天領になってからは大阪町奉行所の管轄下にあった。司馬さんの書かれるところでは、幕府は天領にはわずかの人数の役人しか派遣しない。同じ天領であった西宮は町奉行所から派遣された与力1人と現地採用(事実上は代々が相続した)の同心3人で差配していたらしい。兵庫も同じだろう。

通行の取り締まりをするには人手が足りなさすぎる。単に門があり、その横に高札場があるだけだったのではないか。



福海寺。門の脇に「開基 征夷大将軍 足利尊氏公」の石柱が立っている。

門扉にある紋は「二引両」(にひきりょう)。足利家の家紋である。

新田義貞の新田は「一引き両」で、足利は「二引き両」である。新田と足利は仲が悪かった。新田の紋は○に一字であるから「鍋の蓋」であるが、足利は○に二字であるから「釜の蓋」である。どちらが重いか重要か。と足利の家臣がいうくだりが私本太平記にあった。釜の蓋は厚く重い。

福海寺がなぜ足利の紋であるのかである。

1333年10月に建武の親政がなってからちょうど2年後の1335年10月、尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻し、翌年1月に尊氏は入京する。しかしすぐに新田義貞・北畠顕家軍に打ち破られ、丹波を通って兵庫まで敗走する。

2月。兵庫の魚見堂を本営に陣を建て直し、反攻しようとしたが、ふたたび芦屋打出浜において楠木軍・新田軍に敗れ去る。



(上図)絵は敗走する尊氏(左端の背を向けた武者)である。それまで「二引き両」の旗印を掲げていた味方は、二の字の中ほどを塗りつぶして「一引き両」にして裏切ったという。

追われる尊氏が逃げ込んだのは針ケ崎観音堂(のちの福海寺)。ここで命拾いした尊氏は兵庫津から九州へ向けて落ちる。(このとき北風の先祖が足利方の船を追って、大いにかき乱した。新田義貞は当主に「喜多風」の姓と「貞」の一字を与えて「貞村」と名乗らせた。ということを司馬さんが「菜の花の沖」で書かれている)



しかし尊氏は3月後の1336年5月に、数万の大軍を率いて兵庫に戻り、楠木軍・新田軍を破って再度の入京を果たすのである。

幕府を開いた尊氏は、報恩として1344年に福海寺を作る。これは前回訪れた宝満寺への尊氏の恩返しと同じである。尊氏という人は、このあたりがキチンとしていて、さすがに武家の統領に担がれただけのことはある。


福海寺の隣り(同じ道に並んでいるのではないが)は福厳寺(ふくごんじ)である。隣り合わせながら南北朝期では対象的な寺となった。福海寺は足利尊氏ゆかりの寺であるが、福厳寺は後醍醐天皇ゆかりの寺である。

吉川本「太平記」にも福厳寺が出てくる。 1333年4月に尊氏は丹波で挙兵する。敵は京都を支配する鎌倉幕府の六波羅探題である。5月7日、六波羅軍を破る。

同じ5月8日、新田義貞が挙兵し、2週間後の5月22日に鎌倉をせめて北条氏は滅亡する。

後醍醐天皇は六波羅陥落の報を聞き、また楠木正成の千早城の大捷を聞いて、5月23日、籠もっていた船上山(鳥取)を出て、輿に乗って京へ向かう。兵庫の福厳寺に着いたのは30日である。 ここへ新田からの使者が鎌倉陥落の報を伝える。





西国街道は2号線で2か所が分断されている。高架下の向こうの明るいところが向こう側の西国街道。

鎌倉陥落の報を聞き、寺中は歓声につつまれたことであろう。尊氏や赤松円心らの働きによって京の六波羅から幕府軍はいなくなったが、鎌倉陥落はまだまだ先のことだと誰もが思っていたのである。

夜は境内で酒宴が開かれた。6月2日に出立。福厳寺には赤松円心が500騎を連れてはせ参じていた。兵庫を出たとき、千早城を守り抜いた楠木正成軍(誇大に7000騎という)が駆けつける。

西国街道をたどり、千種忠顕・足利尊氏らが待ち受ける京に入ったのは6月5日。後醍醐天皇の生涯一番の感激の日であったろう。


船上山(鳥取)から兵庫まで天皇の移動は輿によったらしいが、兵庫からは牛車になったのではなかろうか。西国街道なら牛車が通ることが可能である。

左手にあるのは神明神社。


西国街道はここで直角に曲がる。ここまでは西から東(海側)に向かっていたが、向こうへ曲がって南から北(神戸方面)に向かう。

この曲がり角には高札が掲げられたので「札場の辻」といわれている。


札場の辻を曲がった先の西国街道である。

今は曲がらず、写真右手(海側)にまっすぐ歩き、築島寺に行く。


50mほど歩くと新川運河に突きあたる。11時ころから細かい雨が降ったりやんだりしていたが、雨粒が見えるほどの降りとなった。写真の大きな石(長さ1.3m・幅0.6mくらい)の横に枝を広げた木があったので、しばらく雨宿りした。

大きな石の横に案内板があり、次のようなことが説明されていた。
  1. 昭和27年に新川運河を浚渫したとき、このような巨石が20数個でてきた。また一定間隔に打ち込まれた松杭が発見された。

  2. このあと、巨石があったところから北西250mの芦原通り1丁目から、奈良から平安時代中期のものと推定される、大溝と建物の一部が発見された。

  3. 2つのことから、巨石は防波堤または突堤の基礎材の「石椋(いわくら)」であり、建物のあったところが大輪田泊であると推定される。


おおー。そうだったのか。案内板にある航空写真に発見場所が表示されている。

「石椋」20数個が発見された場所は、初めて新川運河を見たあたり(薬仙寺の前)ではないか。また芦原通り1丁目とは清盛塚のすぐ南、真光寺から100mほど南である。

清盛塚は後に11mほど移動されたとあったから、清盛塚は大輪田泊に建てられていたわけである。

古地図によれば、このあたりは「須佐の入江」である。須佐の入江が大輪田泊であったのだ。



「石椋」の置かれているところから築島寺(来迎寺)はすぐである。 門には「二条天皇勅願所」「平相国開基」の銅版が嵌められている。

寺は島上町にある。「島」とは「経ケ島」である。 境内にある案内板によると、経ケ島および築島寺のいわれは以下のようである。
  1. 平清盛は、良港を築くために海岸線を埋め立てる工事に着手したが、潮流が早く、埋め立てが完成する目前に押し流されること2度におよんだ。

  2. 占いによって、30人の人柱と一切経を掘り込んだ石を沈めよ。ということになった。

  3. このとき清盛の侍童である松王丸が、30人の人柱に代って沈められることを申し出た。

  4. 1161年7月13日、千僧読経の中、松王丸は海底に沈み、築島工事は完成した。

  5. 二条天皇は、このことに大いに感動され、松王丸の菩提を弔うために寺を建立した。



松王丸の供養塔。長い時間の風雨によって石の角が丸くなっている。相当に古いものと思われる。

築島寺から清盛塚までは600m〜800mほど離れているであろうか。大輪田泊が大規模なものであったなら、経ケ島も大輪田泊の一部と考えてもよい。

あるいは大輪田泊は外航船のための湊で、築島は内航船のための湊の役割分担をしていたのかも知れない。

ともかく「経ケ島」が作られたことは確かなことである。松王丸の伝説も本当であろう。


札場の辻まで引き返し、西国街道を北上する。右手の木立は本町公園、左手の3階建てのビルは「神戸市 岡方会館」である。

岡方会館はどういう施設であったのかは知らないが、現在は使われていない。無人のビルである。隣の2階建てのビルも神戸市が所有していたようであるが、不動産会社に売却されたのか「売り物件」の看板が出ている。

岡方会館があったところに「岡方惣会所」があった。先にもいったが、与力1人・同心3人の合計4人で兵庫宿・兵庫津を支配しているのである。当然に十分なことはできない。ほとんどのことは町方にゆだねられた。



西国街道は再び2号線で分断される。まっすぐ進めば、兵庫の北の入り口 である湊口惣門跡に着くが、寄り道する。

町方は岡方・南浜・北浜の3地区に分けられ、それぞれの地区の名主が交代で町政を執り行った。 重要なことは惣会所に集まりここで合議し決定した。

兵庫は西国街道の宿場町であり、北前船・樽廻船・檜垣廻船など大型船が出入りする港町でもある。

推測するに、「岡方」は宿場、「北浜」は大型船(外洋)に関係する問屋・水主・船大工など、「南浜」は小型船や漁業に関係することを決めることが多かったのではないか。



寄り道して七宮神社(しちのみや)に来た。

北浜惣会所は鍛冶屋町にあったという。鍛冶屋町は本町公園のすぐ東隣であり、ここに北風家の邸宅があった。西出町には店・倉庫があった。と「菜の花の沖」に書いてある。

高田屋嘉兵衛が1500石船の辰悦丸に乗って帰港したときは必ず北風家(船を持たぬときは西出町へ、船持ち船頭になってからは鍛冶屋町へ)に挨拶し、七宮神社に参っている。

神社前の石柱に「縣社 七宮神社」と彫ってあるから兵庫津では最も格式の高い神社であったろう。 



兵庫には神社が多い。しかし神社は小さい。ここまでにいくつの神社をみたことか。(三石・和田・御崎八幡・兵庫住吉・柳原天神・柳原蛭子・神明・七宮)の8つ。さらに(竹尾稲荷・鎮守稲荷・猿田彦・湊八幡)の4つを回る予定である。

多くあるのは港町だからであろう。海上安全を願うための神社が多い。神社が小さいのは個人(豪商だろうが)で勧請した神社が多いためではないか。


七宮神社は国道2号線と高松線(一般道路)が分かれる位置にある。西に行こうとすれば2号線が邪魔をし、東に行くには高松線が邪魔をする。

高松線(正しくは西出高松前池線)は和田岬駅まで南下し、そこから西に向いて前回訪ねた駒ケ林神社の前を通って、須磨で2号線に合流する。

写真のまっすぐな道路が高松線、左の高架下が2号線。高架は阪神高速。 高松線は和田岬あたりでは4車線になるが、このあたりは6車線である。人は歩道橋で高松線を乗り越える。(面倒なことだ)

七宮神社から高松線を越えたのは西出町にいくためである。


七宮神社の前に北風屋敷があり、ここでは船頭や水主(かこ)らが、いつ訪ねても食事(銚子1本つき)を振舞われ、湯に入ることができたそうである。むろんタダである。神社の前とは西出町である。

高田屋嘉兵衛が初めて所帯を持ち、店を構えたのも西出町である。「菜の花の沖」で司馬さんが書かれている。

道路を進めば川崎重工・川崎造船があり、さらに進むと一番最初に訪れたハーバーランドに出る。

写真の道路の右側が西出町である。


歩道橋を下って少し歩くと「竹尾稲荷神社」の看板が見えた。

嘉兵衛の顕彰碑があるという。



竹尾稲荷は家一軒分の敷地しかない小さい神社であった。ここで雨脚が強くなった。

神社の祠(としかいいようがない)の軒先で雨宿りしていると、中年の女性が自転車に乗ってやってきた。お参りである。私が祠前に立っていることに気づいて「あら、どうしよう」というふうであったので、いったん神社を出た。

女性が去ってからまた神社に入って案内板を読みながら顕彰碑を見る。

顕彰碑は古いものではなく、昭和28年に建てられている。碑の文字を揮毫したのは、当時の神戸市長の原口忠次郎であった。

多くの土木工事を手がけた原口市政は有名である。昭和24年から44年までなんと20年間も神戸市長であった。5選ということになる。私の学生時代も原口市長であった。

この人が神戸港(ばかりではないが)を大変化させた。新港も摩耶埠頭も、ポートアイランドの着工も、ポートタワーができたのも全部原口時代である。

竹尾稲荷は親切である。神社の右には隣の家が隠れるほど大きな案内板を掲げてあり、神社の由緒や嘉兵衛の略伝などを細かく説明してある。

嘉兵衛の略伝は以下。
  1. 1769年 淡路島の都志(つし)で生まれる。
  2. 1790年 兵庫に来て樽廻船の船子になる。
  3. 1792年 船頭になる。
  4. 1795年 独立。辰悦丸(1500石船)を建造し廻船業に乗り出す。
    同時期、蝦夷地経営に乗り出す。
  5. 1801年 エトロフ島の開拓に成功し苗字帯刀を許される
  6. 1812年 国後島でロシアのリコルドに捕らわれる。
  7. 1818年 郷里の都志に隠居。
  8. 1827年 死亡



もっと面白いものを見つけた。「文化文政時代の当地区周辺図」が掲げられてあった。文化文政は1804年〜1830年である(調べた)。嘉兵衛が活躍した時代である。

地図には、この神社のすぐ前に嘉兵衛の住まい(高田屋)が記されている。もっとも神社と高田屋との間には入江がある。沖に着いた大型船の積荷は小型船に積み替えてこの入江に入り、高田屋あるいは北風に荷を運んだのだろう。

入江の奥は佐比江(さびえ)である。最も奥に湊八幡神社があって、ここが兵庫宿の入り口である。佐比江の周りは色町であった。

佐比江には橋が架かっていたようである。橋の西に七宮神社があり、東に鎮守稲荷が記されている。


神社境内から向こう(東)を撮る。古地図では前の道路は入江である。あるいは道は当時もあって、前に建っている工場のような建物が入江であったのか。荷揚げをする必要上、道は当時もあったとしたほうが素直か。ともかく高田屋の兵庫の根拠地はこのあたりであった。

嘉兵衛について司馬さんは「菜の花の沖」(文庫本で6冊)を書かれているが、1巻は淡路時代、2巻は独立までのこと、3巻から蝦夷地開拓(松前・函館)、4巻は根室からエトロフ、5巻はロシヤの事情、6巻が捕囚のことについてである。 兵庫が出てくるのは主に2巻目である。

嘉兵衛は4番目の弟の金兵衛に家督を譲り、1827年に死ぬが、1833年に高田屋は取り潰された。

竹尾稲荷を出て右(南)に向かう。江戸期、廻船問屋が軒を並べていたであろう西出町はどうなっているのか。

正面に船が見える。ここはもう新川運河ではなく瀬戸内海である。

北風家は隣の鍛冶屋町の浜寄場の屋上に船見張りのやぐらを設けていた。ここから見張り役が望遠鏡を覗いて、和田岬を回ってくる千石船を見張っていた。船影を認めると、船の帆印(屋号)を確認し、沖に向かって迎えの小船を出すのである。


小船には酒樽が積んである。千石船の無事の着船を祝うためである。北風の手船でもないのに迎え船を出すのは、北風が積荷の荷捌きをしたいためである。荷揚げと同時に北風の店先には積荷が並べられて売りに出される。売れなかったものは北風が所有する倉庫に運ばれて保管する。

北風は積荷の売り上げの何割かを取り、倉庫の保管料を取る。こういうわけで、兵庫湊に入る船および船頭・水主(かこ)は大事にされた。

司馬さんは「菜の花の沖」で、以上のようなことを書かれている。ある程度の想像ができる。

(次図)左手(東)に赤茶けた船があると見えたが、しかし船の上にはクレーンが据えられている。ドックだ。





ドックには古い船が入っていた。

西出町は造船の町になっているようである。「神戸ドック」という会社の前で雨宿りする。

(次図)西を見る。鍛冶屋町あたりである。白い船の向こうに茶色いビルがあるが、北風があったのはあのあたりか。




雨は止まない。次第に大粒になってくる。

歩道橋を渡って2号線の西側にでた。猿田彦神社は見つかったが、鎮守稲荷神社は見つからなかった。早く帰らねばと気が急いている。

観光案内の地図では2号線から一筋西の筋にあるように思えたが、実際は2号線沿いにあった。写真左手の鳥居がそれである。


ここには嘉兵衛が奉納した石灯籠があるのだそうだ。鳥居の左右に対で置かれてあった。(雨に急かされて、歩き止まらずに撮ったらしい。ピンボケになった)

石灯籠を奉納したのは嘉兵衛が淡路に戻ってからのことである。神主が淡路まで頼みにいったのか。嘉兵衛が神社の改修の話を聞いて、申し出たのか。

灯籠の横には「海上安全」、後ろには「文政七年 高田屋」と彫ってあった。嘉兵衛の文字はなかった。


湊八幡神社に着いた。ようやくゴールインである。

神社左手が西国街道で、ここに兵庫宿のもうひとつの出入り口である湊口惣門があった。

神社の西角(図の左手)に湊口惣門の説明板があって、当時の惣門の絵がある。(次図)


門の前の小さい流れは「オトイト川」であろう(竹尾稲荷にあった「文化文政時代の当地区周辺図」にでていた)。西宮・御影・生田方面からやってきた旅人たちが、門内(兵庫宿)に入ろうとしている図である。右手の塀は湊八幡神社か。門の左にあるのは高札か。

説明文によれば、元は惣門の内に番所と高札があったそうである。その後、番所は無くなり、高札は(絵のように)惣門の外に出されたらしい、とあった。


神社からJR神戸駅までは500mほどか。雨に濡れないようにJRの高架下を歩いて神戸駅に着いた。

今日はほうぼうを訪れた。距離はたいしたことはない。万歩計はちょうど20000歩だったが、見るべきものが多すぎた。兵庫の歴史の積み重なりのすごさである。

しかも行く先々には親切な案内板が設置されている。神戸市のHPの神戸市文書館のHPもすごい。今日のテクテクの訪問先のほとんどはこのHPに紹介されているものである。

神戸市都市整備公社の西国街道まわり道のHPも実によい。地図はこのHPにあるものを印刷して携行した。

歴史もさることながら、神戸市の歴史・文化に対する力の入れ方にも感心した。


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