南河内郡・太子町

    No.50.....2006年12月10日(日曜)


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兵庫・新川運河を訪れたおり、最も感銘を受けたのは、真光寺の一遍上人廟所で、時宗信者が履物を脱ぎ裸足で墓参しているのを見たときであった。

帰宅して一遍上人についての本をアマゾンで注文した。
  1. 一遍上人-旅の思索者 (栗田 勇)単行本
  2. 捨ててこそ生きる (栗田 勇)単行本
  3. わが屍は野に捨てよ (佐江 衆一)文庫本
  4. 一遍聖絵 (聖戒 編・大橋俊雄 注)文庫本
  5. 一遍聖絵 (日本絵巻物全集J)画集
@は「芸術新潮」の昭和50年10月号から51年12月号まで連載されたものを単行本にしたものである。(20年前ころかと思っていたが、30年前だった)当時は毎月の連載を読んだはずだが、今度読み返してみると、ほとんど初めて読んだに等しかった。しかし図版の記憶は残っていた。

Aは5年前に出たもので、絵巻のカラー写真がふんだんに載っている。 Bは小説である。Cは絵巻の詞書(ことばがき)の注釈である。BCは新刊だが、@Aはすでに廃刊になっていたので古書を求めた。

@の栗田さんの書くところを読み、それに対応する絵巻の部分をAから探し、虫眼鏡で図版を丹念に見ていくと、さまざまなことを発見して見飽きない。1週間ほど虫眼鏡を通して絵巻の中に入り浸った。

@で述べている図が、Aに載っていないこともあったので、これは絵巻の全部が載っている画集を入手しなければならない、として追加注文したのがDである。

「一遍聖絵」(絵巻)は、一遍上人の没後10年目に、一遍の弟子でもあり異母弟ともいわれる聖戒 (しょうかい)の指導のもとで作られた。絵は円伊(えんい)の筆になる。

絵巻は12巻よりなる。各巻の長さは約10m。各巻には平均して4つの絵と詞書がある。全部で48の絵があるが、これは阿弥陀仏の48願に合わせたものであるという。

聖戒は絵巻を作るために、一遍と時衆が訪ねた(一部は聖戒も同行している)地を円伊とともになぞったらしい。円伊が現地に立ち、写生をし、構図を考えたようで、絵はリアルである。

前回訪れた真光寺は一遍の臨終の地とあって48枚のうちの5枚が当てられている。
  1. 11巻3段は、阿波で病にかかった一遍一行が、淡路を経て、真光寺前の浜に舟を引かれていく図である。浜は須佐の入江であろうか。1289年7月18日のできごとである。

  2. 11巻4段は、兵庫の観音堂(後の真光寺)で最後の説法をする場面。8月2日。

  3. 12巻1段は、時衆らに臨終を予告する場面。ここで所持していた経典を焼き捨てる。8月10日。

  4. 12巻2段は、西宮の神主が訪れたので、往生を先に延ばし、最後の十念を授けるという場面。

  5. 12巻3段の絵は長い。3m12cmある。絵の右は、一遍が往生する場面。8月23日。横たわる一遍の周りを弟子や武士や庶民らが取り巻き嘆いている。ここには130人以上の人物が書き込まれているのである。(138人までは数えたが、あとはこんがらがってわからなくなった)

    絵巻を左に進むと、一遍の死を悲しんで海へ身投げした信者(7人という)を浜へ引き上げている場面。つづいて一遍上人を荼毘した煙が立ち昇る場面。

    最後は墓所。堂の中に立つのは聖戒が見た一遍の面影か、あるいは急ぎ作られた一遍像か。
ため息がでるほどの絵巻である。国宝は当然だが、絵巻のうちのナンバーワンではなかろうか。


一遍一行は全国各地を遊行している。北は岩手県の江刺、南は鹿児島県の大隈正八幡宮。最も多く訪れたのは大阪の四天王寺で、3度ある。

伊予から遊行に踏み出して初めて行ったのは四天王寺である(1274年)。このときは一遍に同行するものは超一、超二、念仏房の3人の尼だけであった。

2度目3度目に訪ねたのは1286年のことである。すでに一遍の名は世に知れ渡っていた。踊り念仏は大ブームになっていた。一遍らは@四天王寺→A住吉大社→B叡福寺→C当麻寺→D石清水八幡宮をへて→E四天王寺に戻る。という遊行をする。

写真は近鉄・橿原神宮前駅から畝傍山を撮る(この山はすきだから)



訪ねるのは聖徳太子廟がある叡福寺である。

「橿原神宮前」から「古市」に行き、河内長野線に乗り換えて1つめの「喜志」駅で降りた。920円。訪ねた先は
  1. 六枚橋
  2. 孝徳天皇陵
  3. 竹内街道歴史資料館
  4. 小野妹子の墓
  5. ニ子塚古墳
  6. 推古天皇陵
  7. 用明天皇陵
  8. 叡福寺
  9. 源氏3代の墓
  10. 通法寺跡
  11. 壺井八幡宮
@〜Gは大阪府南河内郡太子町、H〜Jは羽曳野市にある。

なお南河内郡は「太子町」「河南町」「千早赤阪村」の3町村からなるが、「河南町」は高貴寺と近つ飛鳥で、「千早赤阪村」は千早赤阪村で訪れた。



喜志駅前に停まっていた金剛バスに乗る。

初めて乗る路線は不安である。バスの最前席に座り、地図を広げてバス停を確認する。6つ目のバス停「六枚橋」で降りる予定である。

写真の川は「石川」、橋は「河南橋」か。正面に二上山が見える。二上山の右の鞍部が竹内峠である。

途中で左手に叡福寺があったが、通りすぎ、「六枚橋」で降りた。260円。

降りたところに小川といった程度の川があったが、これは飛鳥川らしい。この川に架かっていた橋が六枚橋であったろう。今は舗装道路になっているので橋があるとは気づかない。

この道は片道1車線ではあるが、国道166号線である。向こうの信号を右に行くと「当麻」とある。まっすぐに行くと、古道の竹内街道である。むろん竹内街道を進んでも竹内峠にたどり着き、峠を下れば当麻寺に行ける。(地図を見るとそうなっている)

竹内街道を進む。

一遍上人一行は、舟で難波津か兵庫津に着き、四天王寺へ参り、南下して住吉大社にいっている。そこから堺はすぐである。

竹内街道は奈良の当麻町長尾を起点とし堺を終点にする。堺からくると→堺市大小路→堺市金岡→松原市→羽曳野市古市→太子町→竹内峠→当麻町長尾→飛鳥京(明日香)のルートであるらしい。

一遍一行は堺市金岡で竹内街道に入り、古市を通って叡福寺に参詣し、竹内峠を越えて当麻寺に行ったようである。

街道脇に溝があって水がすこしばかり流れて来ているのであるが、写真のように堰き止められているところがあった。

下りの石段があるから、ここに降りて溜まった水を使うのだろう。野良仕事の後で手足を洗ったのか、あるいは米を研いだり野菜を洗ったのか。

孝徳天皇陵に向かっている。太子町は「王陵の谷」と呼ばれている。この地に@聖徳太子廟、A敏達天皇陵、B用明天皇陵、C推古天皇陵、D孝徳天皇陵、王族ではないがE小野妹子の墓もあるからである。

4つの天皇陵があるが、だいたいは29代欽明天皇の一族である。30代敏達天皇、31代用明天皇、32代崇峻天皇は欽明天皇の皇子であるし、33代推古天皇は皇女である。用明天皇と推古天皇の母は蘇我稲目の娘の堅塩姫(かたしひめ)である。聖徳太子は用明天皇の子供であり、推古天皇の甥であることはよく知られている。

32代崇峻天皇の陵は桜井市倉橋にあるという。蘇我馬子によって殺害されたためか、兄弟でただ一人この地に葬られていない。もっとも用明天皇は初めは桜井市の磐余池上陵に葬られたのちに、この地に移されたらしいので、兄弟の陵はこの地にするとあらかじめ決まっていたわけではない。

「竹内街道歴史資料館」の看板があった。太子が「いらっしゃい」をしているので入館した。200円。

竹内街道についての資料館であり、太子町の歴史館ではない。よって叡福寺や陵墓についての陳列はわずかである。30分ほどいた。

途中で見た洗い場は「浅井戸」というらしい。炊事や洗濯に利用されていたらしい。街道の川沿いには多くあったが、今では先の場所に残っているだけであると説明があった。

ついでに「六枚橋」は、「南無阿弥陀仏」の6文字になぞらえて、飛鳥川に6枚の板を渡していたからその名がついたともあった。板1枚ごとに「南」とか「無」とか「阿」が墨書されるか彫ってあったのであれば面白いが、土足で渡るにはもったいないか。

孝徳天皇陵は知らずに行き過ぎていたようである。引き返す。

左の何層かの屋根がある家は「大道旧山本家住宅」である。瓦葺と茅葺を併用してある。(最も上の屋根が茅葺)大和棟といわれているらしい。(資料館で知った)

ここは河内であるが、竹内峠の向こうの大和の影響のほうが強かったようである。

(次図)孝徳天皇陵からの下り道、王陵の谷を眺める。(つい左下に旧山本家住宅の茅葺屋根が見える。瓦葺屋根の勾配に比べてかなり急な傾斜である)



小野妹子の墓に向かっている。(本当は石灯籠から左折れすべきだったが、そのまままっすぐ進んだので、道に迷った。)

小野妹子の墓であろうか。立派すぎるように思えたので、地元の人らしい老人に尋ねると、「あれは推古天皇。妹子の墓はずっと登ったところです。」

写真の左手は葛城山塊である。そちらに向かって登って行け、目印はあの建物である、と指差された。孝徳天皇陵から南東に向かうところを南に向かっていたらしい。

推古天皇は613年に、難波〜飛鳥京に「大道(だいどう)」を置いた。日本初の国道である。竹内街道は大道の一部(半分以上)である。この道は飛鳥京から難波へ、さらには朝鮮・中国大陸を結ぶ重要道路であった。

例えば607年に小野妹子を遣隋使として派遣し、翌年は隋の答礼使がやってきた。国交ができて、高向玄理(たかむくのくろまろ)や南淵請安(みなぶちのしょうあん)らが留学生として大陸へ向かったのも、この「大道」を通ってである。

写真は科長神社(しなが)。

神社のすぐ左に小野妹子の墓への長い石段があって、野球部の子らが石段を駆け足で登り下りしている。

感心なことに「こんにちは」と声かかけてくる子がある。どこの高校かと聞けば、「上宮太子高校です。」「がんばってや」「はいっ」のやりとりをしただけながら、この子らは礼儀正しい。大阪の県大会では遠くながら応援するぞ。

妹子の墓。方墳なのか円墳なのかよくわからないが、大きくはない。

墓の周りはきれいである。銀杏や楓の落ち葉が積み重なって、黄色い敷物のごときである。


見晴らしもよい。

西やや南向きの眺めが富田林の市街である。中央にPLの塔が聳える。

妹子の墓の石段を降りて西へ向かう。西へはゆっくりとした下り坂である。二子塚古墳が見える。

写真の古墳下の道を歩むのは老夫妻であった。よほどゆるゆると歩いているとみえて、じきに追いついた。ご主人が脳梗塞かなにかの後遺症によって、足がやや不自由と見うけられた。リハビリのための散歩をされているようである。奥さんは手押しの車を押して、主人の後を追っている。

追いついてあいさつをするとともに、二子塚古墳に登ることができるのかを問うた。ご主人のほうが「ちょと戻って横の坂道を登れ」と答えてくれる。

坂道を登ったとき、散歩は終わったのか二人が引き返してきた。坂の上から手をふると、二人が手を振り返してくれる。妹子の墓を尋ねた老人といい、この夫妻といい、太子町の人は気立てがよい。気持ちがよい。

二子塚古墳から推古天皇陵を見る。推古天皇が崩御したときは早死にした竹田皇子の墓(場所は不明)に合葬されたが、のちにこの地に改葬されたそうである。

天皇陵を見てもたいして面白くはないが、せっかく「王陵の谷」にやってきているのであるから、用明天皇陵までは見ることにした。


用明天皇陵は道路に面している。手前の民家は道一本をはさんでいるが、用明陵の向こうは道を挟むことなく民家が建っている。 「うちは用明さんのお墓のお隣りですわ」と民家の主人がいえば、面白い。

31代用明天皇から35代皇極天皇までの5代は蘇我氏の時代でもある。29代欽明天皇の皇后は石姫である(石姫の子が30代敏達天皇)。ここへ蘇我氏(稲目)は2人の娘を天皇の后として送りこんだ。

一人は堅塩姫で31代用明天皇と炊屋姫(かしきや)を生む。もう一人は小姉君(おあねのきみ)で、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひと)、穴穂部皇子、32代崇峻天皇を生む。穴穂部間人皇女は用明天皇の皇后となる。


欽明天皇時代から蘇我氏と物部氏は対立していた。敏達天皇が31代天皇に即位した後、蘇我氏は炊屋姫を皇后として送り込む。敏達天皇が亡くなった後、32代用明天皇が即位する。ここで蘇我氏は天皇の外戚になるとともに、炊屋姫は皇太后になるわけである。

用明天皇は即位2年にして没する。次の天皇は穴穂部皇子と崇峻天皇の争いとなった。物部は穴穂部を、蘇我は崇峻を主張し、戦さが始まる。厩戸皇子(聖徳太子)は蘇我陣営にあり、物部守屋を討つとき四天王の加護を念じ、事成ってから四天王寺を建立したということはよく知られている。

首尾よく32代崇峻天皇が即位したが、崇峻は蘇我馬子と対立するようになり、馬子は崇峻を殺害する。


一度はバスで通り過ぎた叡福寺に向かっている。

崇峻天皇亡きあと、炊屋姫が33代推古天皇として即位する(592年)。初の女帝である。同時に厩戸皇子は皇太子になり、翌年摂政となって国政を任せられる。太子19歳のときである。

「飛鳥-水の王朝」(千田 稔)によると、蘇我馬子は堅塩姫系を重視し、小姉君系を排除したようである。小姉君系の穴穂部皇子が討たれ、崇峻天皇は殺害される。一方堅塩姫系の推古天皇の在位は36年におよぶ。

聖徳太子は2系統からは微妙な位置にある。父は用明天皇であるから堅塩姫系ではあるが、母は小姉君の子供の穴穂部間人皇女である。馬子は小姉君系の太子よりも推古の子供の竹田皇子を次の天皇にしたかったようである。しかし竹田皇子は推古天皇が即位してまもなく亡くなった(らしい。没年は不明)。

推古天皇時代の出来事は
  1. 592年 推古天皇即位
  2. 594年 四天王寺を建立
  3. 595年 太子は高句麗の僧彗慈(えじ)について仏法を学ぶ
  4. 600年 遣隋使を派遣する
  5. 603年 冠位十二階を定める
  6. 604年 十七条憲法を制定する
  7. 605年 太子斑鳩宮へ移る
  8. 615年 三経義疏を著す
  9. 620年 天皇記・国記を編纂する
  10. 622年 太子没
  11. 626年 蘇我馬子没
  12. 628年 推古天皇崩御
である。605年に斑鳩宮へ移ったのは馬子との対立があったのではないか、斑鳩宮は反馬子勢力の拠点でなかったか、と千田稔さんはいわれている。

叡福寺の南大門。叡福寺は真言宗である。境内には弘法大師堂がある。しかし同じく聖徳太子廟もあるので「太子宗」を名乗っているそうである。

一遍一行は、四天王寺、住吉大社を経てここへやってくる。

正面は太子廟。杜は太子・母の穴穂部間人皇后・太子の后の3人が眠る古墳である。

左手(西)には、金堂と多宝塔がある。一遍聖絵にも多宝塔が赤く描かれている。ただしその後(天正年間)寺は焼け、豊臣秀頼が再建したそうである。

建物は気品があって凛としている。よい建物だ。

右手(東)には本坊らしき建物がある。その屋根越しに見えるのは二上山。

二上山の向こう側の山裾には、このあと一遍が訪れる当麻寺がある。

御廟の正面である。墓は50mの円墳だという。

一遍聖絵(8巻5段)を見ると、現在のように立ち木が茂っておらず、はっきりした円墳の上に疎林が描かれている。いまは石の玉垣で円墳のぐるりが囲われているが、聖絵では赤い玉垣である。

聖絵では、この写真の前で一遍がうつむき加減に手を合わせている。斜め前に一遍のほうを向いて座るのは他阿弥陀仏・真教であろう。一遍の後ろには12・3人の僧が廟に向かって念仏している。墨衣は同行の時衆で、一人薄青色の衣をつけているのはこの寺の住職であろうか。

このときばかりは「南無阿弥陀仏」の口称だけが廟に響いたはずである。

廟の横に古い墓所がある。これは代々の寺の住職のものか。さらに西には広い墓地があって、一般人の墓が並んでいる。今年亡くなった方の遺族であろう、何組かの墓参者が見えた。

1274年に伊予を出たとき、従うものは3人の尼だけであった。一番に訪ねた四天王寺の西門前で、参詣者に「南無阿弥陀仏」の札を配る(賦算という)のである、札を受け取ることを拒絶する者もあったが、多くは「なむあみだぶつ」と称えて受け取ってくれたのである。

ここから遊行が始まった。だが一遍の名が高まり、時宗が広まるにはなお10年を要した。

1274年に京都にいったときは一遍はまるで相手にされなかったが、1284年の再度の入京では熱狂的に受け入れられるのである。

このたびの遊行は10年前の境遇とは異なる。四天王寺では一遍の姿を見たい武士・庶民らに取り巻かれた。太子廟に3日参籠したとあるが、このときはおそらくは叡福寺が僧堂を提供し、手厚く接待したのではないか。

太子廟の東に良忍の廟所があった。良忍は一遍より約150年前に、天台の念仏を始めた上人である。1人で念仏するより多勢で念仏するのがよい。中のひとりが念仏せずとも全体では念仏が満ちている。自分のための念仏でもあるし他人のための念仏でもある。つまり「融通」である。

同じ「南無阿弥陀仏」ではあるが、一遍は法然・親鸞の系統とは異なる。一遍は、遊行し、賦算し、民衆の中で踊り念仏を広めた。行動的である。

当時、大衆に広まっていたのは融通念仏と太子信仰であったようである。栗田勇さんは、一遍は融通念仏と太子信仰の根拠地を巡っていると指摘されている。なるほど。四天王寺がそうだし、この叡福寺もそうである。次に向かった当麻寺もそうである。


叡福寺前のバス停から金剛バスに乗って「太子四ツ辻」へ引き返す。ここから北上したのは、源氏3代の墓を訪れるためである。

「源氏3代」とは源頼信・頼義・義家のことである。「てくてくまっぷ41」は太子町近辺のガイドであるが、ここに源氏3代の墓と壺井八幡宮が記してあった。3つの墓の名前を見て驚いた。「八幡太郎こと源義家の墓」とある。

源氏は東国、平家は西国というイメージがあったので、この墓も後に分骨されたか、石碑のようなものかと思ったが違うようである。正真正銘の源義家ら3代の墓であるらしい。




系図はこの後訪れた通法寺の前にあった案内板である。調べると、源満仲に3人の子供があり、長男の頼光は摂津の多田を根拠地とする「摂津源氏」、次男の頼親は大和の宇野を根拠地とする「大和源氏」、三男の頼信は河内の壺井を根拠地とする「河内源氏」の祖となったとある。

頼信→頼義→義家の系統を下ると、義親→為義→義朝→頼朝→頼家・実朝に繋がる。源氏の嫡流である。

実朝で河内源氏の系統は終わったといってよい。これに代るのが義親の弟の義国の系統である。義国の子供は新田義重、足利義康と名乗り、新田・足利の祖となり、義国から9代目・義康から8代目に足利尊氏が出る。



墓地の端に「源氏墓」の道案内がある。墓地の管理者が立てたかして、手書きである。

高橋克彦さんの小説に「炎(ほむら)立つ」がある。これは岩手県を中心にした「奥六郡」の興亡の歴史を書かれたもので、NHKの大河ドラマにもなった。

ドラマは見なかったが、小説(文庫本5冊)で読んだ。ちょっと興奮するくらい面白い小説であった。興奮したのは馴染みのない岩手の歴史を知ったためでもある。

物語は、奥六郡の俘囚の長である安倍頼良(よりよし)を、陸奥守である藤原登任(なりとう)が攻めるところから始まる。安倍頼良には貞任(さだとう)・宗任(むねとう)の兄弟があり、陸奥守に対して反抗する。「鬼切部(おにきりべ)」で陸奥守勢を完膚なきまでに打ち破り、藤原登任は陸奥守を解任される。


河内源氏の祖・源頼信の墓。

藤原登任の後任の陸奥守が源頼義である。

頼義と息子の義家は、陸奥守の配下にあった亘理(わたり)の藤原経清(のちの奥州藤原3代の初代藤原清衡の父)が安倍方に加担したこともあっって一度は大敗するが、出羽の清原勢の助けを得て安倍氏を討つ。前9年の役である。

源義家も陸奥守(頼義から2〜3代後に)になり、清原氏の内紛を鎮める。これが後3年の役。

高橋克彦さんは盛岡市の生まれで、なお盛岡に住んでおられるようであるから、安倍ひいきの視点から書かれている。安倍貞任や藤原経清らの人物像はほれぼれするほどである。



源義家の墓。広い敷地はクヌギの落ち葉で敷き詰められている。空間はシンと澄んでいて、よい墓である。

小説のおかげで、岩手の地名を覚えた。奥六郡の南に平泉、すぐ北に貞任が戦った衣川柵がある。さらに北上川を上ると胆沢城があった江刺郡(一遍上人もここへ来ている)。その奥は盛岡で、この近くに最後の抗戦場となった厨川柵があった。

衣川柵にはぜひとも行ってみたいと当時(10年前か)は思ったが、いまだに出かけられずにいる。岩手はひところ、私にとってあこがれの土地であった。




源頼義・義家親子は奥六郡に手を突っ込んでかき混ぜるために来たようなものだったから、この親子にはよい印象を持っていなかった。

しかも義家から5代目の頼朝が藤原経清の子孫(であると高橋さんはしている)の奥州藤原氏を滅ぼすのである。岩手は源氏嫡流によって滅ぼされたといってよい。 源氏3代は、私にとっては敵役であった。

急な坂道を下ると写真の場所に出た。前に案内板が立っているところを見ると、ここから登るのが見学のルートであるらしい。



源氏3代の菩提寺であった通法寺の跡。

源義家は前9年の役、後3年の役によって武門の統領の地位を得、東国に地盤を築くのであるが、武家の台頭を恐れた朝廷は河内源氏の勢力を押さえつけることになる。義家の時代から源氏の力は衰え始め、代って平家がのし上ってくる。

義家の子の義親まではこの地に本拠があったようであるが、為義以降の義朝→頼朝→頼家・実朝は、河内とは無縁である。



河内源氏2代目の源頼義の墓。



壺井八幡宮。周りは掃き清められていて、端正な神社である。

前9年の役から河内へ戻ってきた頼義は石清水八幡を勧請し、ここへ壺井八幡を建て、河内源氏の総氏神とした。

また東国に進出した頼義は、鎌倉に壺井八幡を勧請し、これが後の鶴岡八幡宮になったそうである。







壺井八幡の石段を降りて、近鉄「上ノ太子」駅に向かう。今日のテクテクは終わりである。

源氏3代の墓、通法寺、壺井八幡宮は羽曳野市にあるが、ここにも飛鳥川(大和の飛鳥川ではない)が流れており、太子町とこのあたりが「近つ飛鳥」と呼ばれる地のようである。

だらだらと坂を登る。あたり一面はぶどう畑である。丘や小山はビニールシートで覆いつくされている。ぶどうは穫り入れられて、ぶどうの古木のまわりには枯葉が積もり、収穫時に使ったかと思われるプラスチック箱が散乱し、何のためか布団が乱雑に散らばっていたりする。

稲刈りが終わったあとの田圃はそれなりに美しいが、ぶどう畑はいけない。醜いといったほうがよい。


(下図)坂の上にくると眺望がいっきにひらけて「二上山だ」。




上ノ太子駅についた。

今日は墓地ばかりを歩いた感じである。墓に納められていたのは、@孝徳天皇、A小野妹子、B推古天皇、C用明天皇、D聖徳太子、E良忍上人、F源頼信、G源頼義、H源義家。

墓にもよい風情があることがわかった。小野妹子の墓は銀杏の葉で一面が黄色く塗られていた。義家の墓はクヌギ(だと思う)の落ち葉で茶色になっていた。義家の墓が好みでは一番だったか。

万歩計は18200歩だった。


行く先の目次... 前頁... 次頁... 太子町...      執筆:坂本 正治