
観心寺から楠妣庵へ
No.51.....2006年12月23日(土曜)
行く先の目次...
前頁...
次頁...
甘南備周辺...

これまでのテクテクで訪れた太平記にゆかりある場所を数えあげたら、案外に多い。地図の番号は、
- 四天王寺
- 葛城山・水越峠
- 信貴山・朝護孫子寺
- 高貴寺・平石城跡
- 東大寺・転害門
- 吉野山・吉水神社
- 笠置山
- 下赤阪城跡・建水分神社
- 上赤阪城跡
- 千早城跡
笠置山に行ったあとで、初めて吉川英治の「私本太平記」を読んだら、@〜Fが太平記にでていた。知らずに訪ねた津市の結城神社や山の辺の道の石上神宮近くの内山永久寺(跡)もゆかりがあることを知った。
吉川太平記は面白くて、楠木正成ゆかりのGHIを訪ね、足を伸ばして兵庫の生田神社・湊川神社・会下山・長田神社・宝満寺や真光寺・福海寺・福厳寺を訪れた。
「太平記ゆかり」とはいいながら、吉川太平記は後醍醐天皇・足利尊氏・楠木正成の3人が主人公であるから、この3人にしぼると、近場では、しだいに訪ねるところが少なくなってきた。
今日は
- 正成の首塚がある観心寺(河内長野市)
- 正成の妻久子が隠棲したという楠妣庵(なんぴあん)から
- 佐備川に沿って、東条まで歩いた。
河内長野駅前。河内長野は初めて訪れる。名張からは、近鉄電車で3度の乗換えが必要である、@大和八木(大阪線→橿原線)、A橿原神宮((橿原線→南大阪線)、B古市(南大阪線→河内長野線)
3度の乗り換えは時間の効率が悪い。名張を8時すぎの電車に乗って、10時前に着いた。

駅前に石碑がある。左は「天野山・金剛寺」、右は「観心寺」である。どちらも南朝(後村上天皇)の行宮となった寺である。この2つの寺は国宝・重文で満ち溢れている。
金剛寺には国宝が3点・重文が31点。境内は史跡名勝天然記念物に指定されている。
観心寺も国宝が3点・重文が31点。境内は同じく史跡名勝天然記念物に指定されている。
例えば四天王寺では国宝が6点、重文が29点であることを思えば、このニ寺のすごさがわかる。両寺とも、@平安期には高野山へ詣でる中継所の役割であった。A南朝の行宮であった、という理由で古いよきものが残ったのか。

駅前の商業ビル(上の写真の左側のビル)の裏に長野神社があって、この社殿は重文であるというので行ってみた。
もとは牛頭天王宮といわれ、素戔鳴尊(すさのおのみこと)を祀ってあるらしい。
案内板には「一間社流造。正面に千鳥破風と軒唐破風をつけた桧皮葺で・・・」とある。神社建築の様式については、まったくうといので調べてみた。家屋は単純にいえば、柱を立てて、柱と柱の間に壁をつけて四角に囲い、2面の屋根を「人」型に合わせてこの上に乗せている。
建物の四角のどちらを正面とするかで「妻入り」と「平入り」に大別できる。屋根が「人」型のほうを正面とすれば「妻入り」で、屋根が「□」に見えるほうを正面とすると「平入り」というらしい。
この神社は側面に「人」型の「妻」があるので、「平入り」である。(正面の△の屋根は「妻」ではなく、破風である)。「流造り」は「人」型の一方が正面に向かって長く伸びたタイプのものであるらしい。(この神社は、伸びた先が軒唐破風(のきからはふ)になっている。軒先を曲げて変化をつけてある。)
そうか、まず「妻入り」と「平入り」の区別をつけることが肝心なところだったのだ。ひとつエラクなった。

河内長野駅前から南海バスに乗る。「金剛山ロープウェイ前」行きである。12〜3人のハイカーの格好をした老人グループが乗っていた。
私ひとりだけが「観心寺」バス停で降りた。皆は金剛山を登るようである。
司馬さんの「街道をゆく 3」に「河内みち」があって、その1章に「蝉の宿」というくだりがある。
『南河内の金剛山麓に、観心寺がある。
観心寺にはさほど関心はなかったが、そのあたりの渓流に沿った林間に、建って百年ほどの村の宿屋があるときいていたので・・・・』
と書かれている。「関心はない」とあるが、これは何度も訪れていて、ことさらに寺を丹念に見てまわることはない、ということであろう。小学校の遠足で、観心寺にいったということを何かの本で読んだことがあるし、「私の好きな国宝一点」という特集では、「観心寺如意輪観音」を挙げておられる。

バスを降りると渓流があった。石見川である。覗き込んでみると清流である。水量は多くないが、岩があり、川は折れ曲がり、段差があって小さい滝のようになっていたりして、よい川である。
石見川は千早川の1本西(南)を流れている。ひと山越せば千早・赤阪に出る。この石見川が司馬さんいうところの「渓流」であろう。

さすれば、「建って百年ほどの村の宿屋」とは、写真の旅館であろうか。「松中亭」と看板がかかっている。もし食事だけをすることができるのであれば、そこで昼食をとろうと、出かける前に予定し、ちょっと楽しみにしていた。
「蝉の宿」は、宿ですき焼きをしていたら、鍋のなかに蝉が飛び込んでくる。部屋の蛍光灯を消し、プロパンガスの明かりで一杯やった。朝は室内の柱に止まっていた蝉の声で目覚めた。といった軽い話である。
石川に住み着いた渡来人のことから始まり、観心寺や楠木正成について述べ、宋学・水戸史観についてあっさりと書かれている。

勝手に思い込んでいる「蝉の宿」には人影がなかった。昼食はとれないようである。
宿からすぐのところに本坊があり、観光客はさらに川沿いに5〜60m進むように書いてあった。
広い駐車場があった。塀の外に楠木正成の騎乗の銅像がある。

銅像の先に山門がある。観心寺はもとは大きな寺である。箇条書きにすると、
- 701年、役小角(えんのおづぬ)が開き、
- 815年、弘法大師が本尊如意輪観音を刻ませて、観心寺とした。
- 正成が8才〜15才まで学んだ学問寺であり、
- 楠木一族の菩提寺である。
- 1333年に建武親政がなると、後醍醐天皇は正成に命じて金堂の外陣を造営させた。
- 正成はまた三重塔を建てかけるが、湊川で討ち死にする。
- 首は寺に送られ、正成の首塚が祀られてある。
- 1359年、一時南朝(後村上天皇)の行宮になり、天皇の陵は寺の裏にある。

山門をくぐると、拝観受付所がある。300円。
この拝観受付所の建物が実によいのである。本瓦葺きではなく平瓦であるので、寺院として建てられたのではないようである。
手前の棟の屋根は入母屋、奥は切り妻に軒瓦、さらに上には煙出しの小屋根がついている。壁は荒壁である。このバランスがすばらしい。

右隣に中院がある。「楠公学問所 中院」と彫られた石碑が建っている。説明板はない。
中院は正成の曽祖父が建てたもので、楠木一族の菩提寺となっていたらしい。ここは同時に正成やその子の正行(まさつら)あるいは正成の弟の正季(まさすえ)らの学問所でもあった。
正成は8才〜15才まで滝覚坊(りゅうかくぼう)について学んだという。
のちに霊宝館で、楠木家文書2通(重文)を見たが、1通は滝覚坊宛てのものであった。

参詣道を挟んで後村上天皇の行宮跡(あんぐう)がある。もとは惣持院があって、ここが行在所になっていたようだが、すでになく、今は池になっている。
1333年6月に後醍醐天皇が入京し、建武親政が始まった。ところが行われた論功行賞は、公卿に厚く武家に薄い。また阿野廉子派に厚く、大塔宮派に薄いという偏ったもので、不満が噴出する。
1336年5月湊川の戦いで天皇方は足利尊氏軍に敗退し、12月に後醍醐天皇は吉野に移り、南朝を開く。

金堂へ続く石段。
南朝の皇居のあった場所と時期は次のようになる。
- 1336年10月、後醍醐天皇は吉野で南朝を開く。
- 1338年5月、北畠顕家が戦死し、7月には天皇方の総大将の新田義貞が戦死。
- 天皇は1339年に吉野で悶絶する。すぐに後村上天皇が即位。
- 1348年1月、高師直は吉野を攻略し、天皇は西吉野の賀名生(あのう)に逃れる。賀名生には約7年いて、
- 1354年10月に金剛寺へ移る。5年近くを過ごす。
- 1359年に観心寺に移り、10か月ほどいて
- 1360年に攝津の住吉に移る。
- 1368年、後村上天皇は亡くなる。
観心寺や金剛寺に行宮があったのは、後村上天皇時代の1354年〜1360年の約6年間であった。

金堂へ続く石段の左右は段々に整地されており、今は林になっているが、往時は60の院や坊があったそうである。この石段の両脇にも僧坊があったことは想像できる
上の写真の右に白壁・瓦葺の建物があるが、その向こうに写真のような神社がある。訶梨帝母天堂(かりていぼてんどう)という。パンフレットによれば、後村上天皇が正行に命じて復興させた建物で、「一間社春日造、桧皮葺」。重文。
神社仏閣の規模は「桁行X間・梁間X間」で表される。桁行(けたゆき)とは建物正面(たいてい長い)の柱と柱の間の数で、例えば柱が6本並んでいれば「桁行5間」という。梁間(はりま)は側面(たいてい短い)の柱と柱の間の数である。
この鎮守堂の正面の柱は左右に2本あるだけ、側面も2本だけである。よって「桁行1間・梁間1間」となる。こういう神社を「一間社」と呼ぶらしい。
「春日造り」は、「妻」のあるほうが正面である(つまり「妻入り」)。ここに軒が張り出されているのが春日造りであるらしい。
先の長野神社は「平入り」で、この堂は「妻入り」である。
金堂にやってきた。国宝である。昭和59年に修復されているので新しい建物のように見える。
中に入ると、内陣は古いまま残っている。如意輪観音(国宝)が収まる厨子が正面にある。左右に不動明王・愛染明王があり、曼荼羅が描かれた板壁がある。(暗いのでよくは見えない)。
外陣から内陣を伺っているのであるが、外陣の天井を見上げると古色を帯びている。これは後醍醐天皇の命を受けた正成が造ったものなのか。(何度も修復されているから、たぶん正成時代のものではないだろうが)

金堂の縁側から建掛塔(たてかけ)を見る。正成は三重塔を寄進するつもりであったが、最下層ができた時点で湊川へ出陣する。
塔の工事はストップされ、仮に茅葺き屋根がのせられた。以来そのままである。重文。
正成の首は観心寺の中院に届けられた。中院には正成の妻久子や子供の正行・正時などがいたからである。
正成が桜井駅で、従軍を望む正行を諭して水分に戻したのは1336年5月21日のことである。それから5日目の5月25日に正成は湊川で敗退し、弟の正季(まさすえ)とともに自刃する。正成の首が届けられたのはいつだろうか。6月に入っていただろう。(旧暦なので6月は新暦8月にあたる)

建掛塔の下から見上げると、なるほど瓦屋根を支える組木までは造られているが、瓦を乗せる垂木(たるき)はない。代わりに丸太と竹を縄で縛って、茅を葺いてある。
設計図があり、それに基づいて製材され、組物が細工されて建てられた精緻な構造物の上に、おそらくは設計図ともいえぬ絵図を見ながら、丸太や竹を結び、長さが違えばその場で切りそろえる、といったようにして屋根を葺いたかと思われる。
本来なら統一された美しさはないはずであるが、実によい姿になって残っている。

建掛塔から金堂を振り返る。金堂は、桁行7間・梁間7間(つまり7間四方)の入母屋造りである。

境内にある建物はどれも形がよい。
写真は阿弥陀堂。3間四方の寄棟造りである。正方形の寄せ棟は、4つの棟が中心に集中しているので、特に「四注造り(しちゅうづくり)」と呼ばれているそうだ。

その隣に御影堂があり、これも3間四方の四注造り、平瓦葺きである。
行者堂も3間四方の四注造り。こちらは銅板で葺いてあり、軒を伸ばして瓦で葺いてある。
写真にはないが、その隣の広い敷地に開山堂があり、これも3間四方の四注造り。こちらは桧皮葺きである。

開山堂の右手に正成の首塚があった。開山堂の一角はそこそこ広い平坦地であるが、平坦地の北側は山の斜面である。この斜面に首塚がある。
塚の前の平坦地は柵で囲まれていて、柵から内には入れないようになっている。柵の先に石が積まれ一段高くなったところに石門(というのか)があり、その向こうに、もう一段高い石垣があって、その上に墓がある。柵がじゃましてよくは見えないが五輪塔らしい。
(次図)帰宅して、上の写真の五輪塔婆の部分を大きくしてみたら、五輪塔の下
は小石が積み上げられていることがわかる。土饅頭の上に丸石が葺かれているのか。

吉川太平記の巻末に、松本昭さんが「私本太平記の旅」という小文を4回にわたって書かれている。その(ニ)に観心寺を訪れたときの「石子詰めの墓のナゾ」という章がある。
これによれば、石子詰めの墓は山伏の墓の様式であるらしい。観心寺の開祖である実恵の墓も石子詰めの墓であるという。
つまり正成は観心寺の開祖と同じ扱いで葬られているのである。これは楠木家が観心寺の大檀那であるとともに、山伏つまり高野行人らの統領であったことの証ではないか。そうであればこそ、山岳ゲリラ戦に強く、千早赤阪での籠城が成功したのだろう。といったことを書かれていた。
「石子詰め」の墓とはこのようなものだったのか。

驚いたのが新待賢門院(しんたいけんもん)の墓である。なにげなく案内板を読むと、新待賢門院とは阿野廉子(あのやすこ・れんし)のことなのである。
阿野廉子は、
- 後醍醐天皇の寵愛を受け、
- 天皇とともに隠岐へ配流され、
- 建武の親政になってからは准三后となり、
- 天皇とともに吉野へ逃れ、
- 天皇亡き後は、わが子である南朝第2代の後村上天皇を北畠親房とともに助けた
吉川太平記の女主人公である。ここに墓所があったのか。しかし石柵の向こうには何もない。ただ土が少し盛り上げられ、3〜4本の木が植わっているばかりである。

後村上天皇の檜尾陵(ひのお)へ行く。開山堂や首塚の上方の山間にある(200mか300m離れているか)。低い石段を登る。
後醍醐天皇には多くの親王があったが、笠置山から建武親政までの時期、最もよく働いたのは大塔宮こと護良(もりなが)親王である。天皇が笠置山に籠もったときは比叡山で旗揚げし、隠岐へ配流されたときは吉野山で旗揚げする。正成の千早籠城の折も背後から助けている。
公家方では第一等の勲功者であり、建武親政では征夷大将軍になる。しかし大塔宮は罪を着せられて鎌倉に幽閉され、足利直義によって殺害される。
阿野廉子にとって大塔宮は邪魔な存在であったらしい。大塔宮の失脚は廉子の画策によるものだという。廉子は3人(だと思うが)の親王を生んでいる。大塔宮亡き後の皇統の重要な位置にはすべて廉子の子供が就く。
恒良(つねなが)親王は後醍醐天皇の皇太子。次の成良(なりなが)親王は、足利と和睦したさいに受け入れた、後醍醐天皇の次の天皇となる光明天皇の皇太子にと決まっていた。しかし2人は亡くなる。3番目の親王は義良(のりなが)親王で、後村上天皇となる。
後村上天皇は先に書いたように行在所を何度も変えている。吉野で即位し→西吉野の賀名生→河内の金剛寺→観心寺→攝津の住吉、である。
阿野廉子が59才で亡くなったのは1359年4月というから、金剛寺か観心寺の時代である。天皇は住吉で亡くなったが、母親の菩提所と同じ南河内の地に葬られた。
後村上天皇の一生は可哀そうである。建武親政がなったとき、北畠顕家とともに奥羽の多賀城に派遣されたのだが、それはわずか5才のときである。
尊氏が反旗を翻したため顕家とともに一時京に向かうが、1336年には再び顕家とともに奥羽に戻る。8才のときである。この年の末に天皇は吉野で南朝を開く。
翌1337年、顕家とともに奥羽を出て京に向かう。だが1338年2月に顕家軍は奈良で敗れ、親王は吉野に逃れる。10才にしてようやく天皇と母親のもとに戻ることができた。しかし幼い親王が兄のように慕い頼っていたであろう北畠顕家は、5月に和泉の石津(摂津の阿倍野ともいう)で戦死する。

観心寺の境内は広い。写真は恩賜講堂。名前からすれば皇室から下賜された建物のようである。
顕家が戦死してまもなく、7月には新田義貞も越前で戦死し、南朝方の兵力は激減する。
そこで9月には東国をまとめるべく、義良親王・北畠親房・結城宗広らは、伊勢の安濃津から出航するのであるが、嵐によって親王と結城宗広は伊勢に吹き戻されてしまう。
結城宗広はこの地で病死する。宗広は親王にとっては「じい」のようなものであった、と吉川本はいう。親王にとって家族のように心許せる者は奥羽で一緒に過ごした北畠顕家と結城宗広だけであったらしい。
かつては僧坊が建っていたであろう敷地には楓が植わり、また梅林があったりで、観心寺は広々としている。
1339年3月、義良親王は伊勢から吉野に戻ってくる。ところが8月に後醍醐天皇が亡くなり、親王は南朝2代目の後村上天皇として即位する。11才のときである。
以来、行宮をいく度か移し、入京寸前までに勢力を取り戻したこともあったが北朝を討つことは果たせなかった。天皇が住吉で亡くなったのは1368年、40才である。
後醍醐天皇という権威と強烈な個性を持つ子供に生まれたのが、後村上天皇の不幸のもとであった。
(次図)山門前に下りてきた。拝観受付所と中院が見える。正成の首が届けられたのは、この中院にである。正成の首を前にして、妻の久子が、長男の正行が、正時・正儀が、桜井駅で正行とともに水分を守るようにと戻されていた者らが並び座り、法要が営まれたことであろう。
吉川本によると、湊川での自刃の際に、正成は神宮寺ノ正房・安間了現・八木ノ入道・岸和田ノ弥五郎らに落ち延びるよう命令する。この者たちもすでに水分に戻っていたのか。中院は抑えきれぬ嗚咽の声でつつまれたに違いない。

観心寺の山門を出ると茶店があった。来たときに気づかなかったのは、その時刻には暖簾がまだ出てなかったからだろう。ちょうど昼時である。
「阿修羅窟」という大変な名前の茶店である。土曜日曜祝日だけ営業しております。という「口上」が入り口に貼ってある。入ると、店と厨房を分ける間仕切りに小窓があいていて、向こうにあるじらしい老人が座って新聞を読んでいる。
ジロリと眼鏡ごしに私を見て「いらっしゃい」。偏屈そうだ。
古い民家を改造したようだ。もとは土間だったらしい所が椅子席で、ほかは座敷席になっている。土間からは上がり框(かまち)があって、廊下があり、その奥が座敷である。火鉢には豆炭が赤く燃えている。きれいな座敷である。窓の下には渓流(石見川)が流れているはずである。よい店だ。ただしメニューはわずかである。ぜんざい、にゅうめん、雑煮、甘酒、にごり酒。これだけである。
すまし汁の雑煮を注文した。店内には亭主の著作物が20点ほど展示してある。密教に関する書物であった。亭主は学者か密教研究者のようである。
雑煮を食べながら、亭主に声をかけてみた。「ここから楠妣庵(なんぴあん)は遠いですか?」「車で?」「いえ、歩いて」。親切に道を教えてもらった。話はしだいに観心寺に移り、いくつかのことを教わった。会話はするものだ。偏屈なあるじがいる茶店の印象のままで帰るところであった。
教えてもらった道を行く。この道の先には小吹台という団地があるが、団地の入り口の手前に幅1mくらいの小道があって、これを下ると楠妣庵の下に出るそうである。

しかし近道を見つけることはできなかった。地図にある自動車道を20分ほども歩いたか。道は下りとなって、眼下に農家が見えた。屋根には「煙出し」がある。
テクテクを始めるまで「煙出し」は知らなかったが、奈良の田圃を歩くうちに気づいた。その形からして煙か湯気を排出するためのものだろうとは思っていたが、東大寺を散策したとき、大湯屋の巨大な屋根の上に小屋の1軒分もあろうかという煙出しがあるのを見て、イメージが沸いた。
煙出しの下では火を焚いているのだ(当たり前である)。それは竈なのか、囲炉裏なのか、風呂の焚きつけ口なのか。見てみたいものだと思ってきたが、実は今日見ることができた。それも観心寺の拝観受付所のものをである。
声をかけたら、見せてあげるという。もとは土間(今はコンクリを流してある)で、大きな竈が3つ並んでいた。釜の蓋は菊水のデザインである。見上げると煙出しがあった。煙出しの下には竈があるのか。
甘南備(かんなび)へは1時間もかからなかった。観心寺から北向きにやってきたが、甘南備で合流している東向きの道に変えて10分ほど歩くと楠妣庵の下である。
道をそのまま行けば千早川に出る。上赤阪城のあたりである。歩いても1時間ほどの距離だろう。
1348年1月に四条畷において正行・正時兄弟は高師直・師泰軍に敗れ、刺し違えて自害したといわれる。楠妣庵は、夫についで2人の息子を失ったとき、久子が隠棲した場所である。
もとの建物はとっくに廃れてしまっていたが、大正年間に復興され、今は楠妣庵観音寺という禅宗の寺になっている。
自動車道に大きな看板がでていたので、その道標にしたがって登ってきたが、それは霊園のための案内であったらしく、どうやら裏門に着いたようである。
門の右上にある白壁の建物が再建された楠妣庵。
楠妣庵は小さい。板戸が閉じられていて内部は伺えないが、2方に濡れ縁がついた4畳半ほどの座敷に、右手にある引き戸の出入り口をくぐると2〜3畳分の土間があるだけではなかろうか。たぶん竈はなく、食事は運ばれたか別の棟に食べにいったのではないか。
正成の首が観心寺の中院に戻ってきたとき、長男の正行(まさつら)はまだ10才の少年である。桜井駅で父に諭されて戻ったのはつい先日のことである。正行は座を離れて、父の遺品の小刀をもって自刃しようとする。気づいた久子は正行に「生きよ」と諭す。
それから10年。6人の遺児を育ててきたが、兄弟は夫と同じく南朝軍の先頭にたち、破れ、死んでいったのである。なんのために育ててきたのか。
楠妣庵の横に観音堂があり、その隣に久子の墓地がある。久子は観音堂に十一面観音を祀り、バタバタと死んでいった楠木一族の菩提を弔ったという。
庵は境内の小高い位置にあって、本堂を見下ろすことができる。本堂には緑色字の「非理法権天」の額が掲げられていた。
「非理法権天」は理屈の世界である。楠木一族はこの理屈によって南朝に味方し、負けを承知しながら出陣し、滅んでいったのである。久子はこの理屈を貫き通した夫や子供を誇りにしたに違いあるまいが、それを喜んだわけではなかろう。
入ってきた門よりも立派な山門を出ると長い石段が下がっていた。観心寺前の茶店で教えてもらったのは、ここへたどり着く道だったようである。石段を下ると脇に「正行を諭す久子」の像があった。
楠妣庵のある甘南備は久子の生まれ故郷である。20才のとき甘南備から水分(みくまり)の正成に嫁ぎ、6人子をもうけ、13年後には夫を失い、25年後には長男と次男を失う。
久子は隠棲してからは「敗鏡尼」と称したそうである。敗けたのである。久子は何に敗けたと思ったのか。
菩提のためなら観心寺に楠木家の菩提寺である中院がある。生まれ故郷に隠棲したのは、「非理法権天」の理屈や大義の世界から身を引きたかったのではないか。私の勝手な推測である。

甘南備は富田林市に属する。北へ向っている。
佐備川が道に寄ったり離れたりして流れている。一帯は佐備川を中心にした集落である。
往時は楠木一族の支配する地であったらしく、太平記に頻繁に出てくる地名がある。

龍泉というバス停があった。正成の弟の正季は「龍泉殿」と呼ばれているから、このあたりに館があったのか。
(次図)ここも龍泉。手前の茶色の丘の向こうには下赤阪城や建水分神社があるはずである。そのはるか向こうには左に葛城山、右に金剛山、中央に水越峠がある。

橋の上から佐備川を見下ろす。流れは緩く、水は清い。
正行が戦場にあった時期は1347年8月から1348年1月までの約5か月でしかないが、連戦連破の目覚ましい活躍をしている。朝廷は吉野にあり、南河内は南朝方の最前線になっていた。当然に南河内を本拠とする楠木一党が最前線の任にあたった。
1347年8月から南朝の総帥である北畠親房は動きだす。正行もその命を受けて出陣し、河内池尻→河内八尾→河内藤井寺で細川顕氏を破り、天王寺では7千騎といわれる山名時氏・細川顕氏を破る。
この勝利に自信を得た親房は京都へ侵攻しようとした。一方幕府は一気に南朝を滅ぼそうと、6万の大軍を送る。

1348年1月、四条畷には高師直が率いる2万が布陣する。本陣である。背後にある飯盛山には県(あがた)下野守が、南にある生駒山の麓には佐々木道誉が布陣している。3〜4万の幕府軍がここに集中した。
南朝方の軍勢も2万余りあり、河内東条に本営を置いていた。幕府軍にどう挑む作戦だったのか。
吉川太平記では、南朝の主力部隊の布陣は不明であるとしている。ただひとつ明らかなことは、楠木正行の率いる数千の軍勢が、師直軍2万に真っ向から切り込んだということだけである。
寡兵をもって大軍に向かい玉砕したのは、父正成の湊川の戦いと同じである。正行は22才であった。
河内の「東条」はどこなのか。地図で探したが地名は見つからなかった。字は異なるが「東條小学校」を見つけたので、そこへやってきた。「龍泉」バス停の次のバス停である。
写真の、小学生が登下校時に渡るであろう歩道橋に「明日に残す 私の東条」とあるから、このあたりが河内東条であろう。南朝方の本営は小学校(歩道橋の上にある白い建物)のある場所にあったのかも知れない。

近鉄富田林駅に着いた。
正行が戦死した翌日、南朝方は吉野を捨て、西吉野の賀名生(あのう)に逃れる。以後7年間ほどは賀名生が南朝の都となった。
賀名生(五條市西吉野町和田)に行くには、河内長野から国道310号線を走り、五條で国道168号線に入ればよい。310号線は観心寺に行ったときのバス道である。観心寺から賀名生は20kmほど離れているだけである。
南朝はどこまでも楠木一族を頼ったようである。
万歩計は16200歩だった。
行く先の目次...
前頁...
次頁...
甘南備周辺...
執筆:坂本 正治