大阪の近代建築@

    No.52.....2007年2月12日(土曜)


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今年になって、日曜日のPM9:00からTBS系列で「華麗なる一族」のテレビ放映が始まった。山崎豊子さんの作品は読んだことはないが、豪華キャストと巨額の製作費用をかけているという前宣伝であったので、初回の放送を見た。

昭和40年ころの神戸が舞台である。万俵大介(北大路欣也)は阪神銀行の頭取で万俵財閥を率いている。その長男の鉄平(木村拓哉)は阪神特殊製鋼の専務である。 どうやら旧の神戸銀行と山陽特殊製鋼がそのモデルであるらしいと推測できた。

ドラマでは40年前の時代の風景を映像にせねばならないカットがある。当時開通したばかりの新幹線こだま号の車中のシーンがあり、戦後初の国産航空機であるYS-11の機内も出てくる。市街では神戸大丸あたりかと思わせる場所が映されている。そこを走る車は当時の車種であり、路面電車も走っている。

私は、昭和41年から45年まで神戸で大学時代を送っていたのでこれらシーンは懐かしく、以来この番組を見続けているのだが、ただ阪神銀行本店の建物は立派すぎて違和感があった。石造の古典的な様式をもつ5階か6階建てのビルの上にドームがついているのである。これほどの建物は日本には残っていないであろう。

神戸銀行はすでにない。あったとしても昭和40年ころの建物は残っていないのではないか。

どうも日本人は木造家屋に住んでいるためか建物の寿命は短いという観念がある上、戦後の経済が急成長した体験から、建物は経済性とか効率性が重視され、非経済的であると判断されれば、あっけなくその建物は潰されてきた。

鉄筋コンクリート造だからといって建物の寿命まで生かされているわけではない。経済効率が問題なのである。建物に対する思い入れの感情が薄いのである。古い建築物は今見ておかなければ永久に見ることができなくなるぞ、とやや焦った。

悲しいことに私は建築についてはズブのシロートなので、以下の本を読んで予備知識を得た。
  1. 日本の近代建築(上)・藤森照信・岩波新書
  2. 日本の近代建築(下)・藤森照信・岩波新書
  3. 建築MAP大阪・神戸・ギャラリー間・TOTO出版
  4. 図説・西洋建築の歴史・佐藤達生・河出書房新社
  5. 図説・大聖堂物語・佐藤達生/木俣元一・河出書房新社

「日本の近代建築」には多くの建築家とその建物が紹介されている。読み進むうちに大阪には案外に歴史的な建物が残っていることを知った。巻末には本で掲げた建築名の索引と建築家の索引がついている。建築名の索引から大阪にある建物を探すと11の建物があることがわかった。

「建築MAP大阪・神戸」は、地区ごとの地図に建築物の位置がマークされ、建築物の写真と説明がある。説明は建築家がしたらしく専門の用語が使われているが、巻末に辞書のような用語解説があって非常にためになった。丁寧に編集された本である。

初心者の私としては、実物を見、本に述べてあることを参照するのが近代建築入門の一番の方法であろう。この2つの本から訪ねる建築物を地図にプロットしてみたら30か所を超えたが、中央区に限ったので、なんとか1日で回ることはできだろう。

スタートは堺筋本町である。堺筋を北上して中之島へ行き、御堂筋を南下するコースを取る。

地下鉄堺筋本町駅から地上にでると、すぐそこに目当ての建物があった。明治屋ビルである。

建築MAPの地図に載っている建物であるが説明はない。設計は曽禰中條建築事務所とあるばかりである。曽禰とは曽禰達蔵、中條(ちゅうじょう)とは中條精一郎のことである。この事務所は戦前最高の建築事務所であったと藤森さんは述べている。

たぶん昭和初期の建物だろう。角が正面である。1階にはローソンが入居しているのでコンビニ用に改造をしたようである。正面入り口はコーナーいっぱいまでガラスが拡張され、入り口の左側の壁面は取り払われて、ガラスの嵌め込み窓になっている。

左端の出入り口周りを見ると、1階はもとは石積みで あったらしい。全面ガラスになっているところには縦長の四角い窓が3つほどあったのではないか。


2階より上はタイル貼りである。窓の見込みは浅く、ビル全体は軽やかな感じを与える。だが最上部にある軒はやや深く厚みがあって、これがビルの輪郭をはっきりさせているように思われた。


藤森さんの「近代建築系統図」によれば、曽禰はイギリス派、中條は新歴史主義のヨーロッパ派に位置づけられるそうである。歴史主義とは古典の様式に範をもとめる設計の系統である。

ビルの屋上に石造の塔があるが、ここには小規模な「オーダー」らしきものがある。(オーダーはクラシック建築の基本であるらしい)

日本の近代建築は明治10年に英国人コンドルが来日し、工部大学校造家学科で教鞭をとったことから始まった。コンドルはそれ以前のお雇い建築家とは違って、建築に必要なすべての学識を持っていた。建築論・建築史・構造論を体系的に大学校で教え込み、明治12年から19年にかけて21人の日本人卒業生を世に送った。

この21人の卒業生に、留学によって建築を学んだ4人を加えた25人が日本建築界の基礎となったのである。藤森さんはコンドルから学んだ者たちや同時期の者たちを「歴史主義の第1世代」と呼ばれている。第1世代は明治末にその役目を終える。


堺筋を2丁ほど北上すると本町1丁目の交差点。道路左の白く高いビルは「りそな銀行本店」。

21人の中には辰野金吾・曽禰達蔵(イギリス派)、河合浩蔵・渡辺譲(ドイツ派。ドイツ派の重鎮の妻木頼黄は中退して留学)、片山東熊(フランス派。兵庫県庁を設計した山口半六は留学組)がいたが、次の世代に最も影響を与えたのはイギリス派の辰野金吾である。

辰野は大学校を卒業した後、英国に留学する。コンドルが学んだ同じ学校で授業を受け・同じ建築事務所で実技を習得する。

帰国後、明治17年にコンドルと入れ替わりに工部大学校造家学科の教授に就任し、明治35年までに56人の卒業生を送り出す。この卒業生が歴史主義の第2世代である。


りそな銀行本店の正面。

第2世代には、横河民輔・長野宇平治・武田五一・中條精一郎・野口孫市・桜井小太郎・松室重光らがいた。

第1世代はコンドルが教えた建築学をひたすら学びこれを応用したのであるが、第2世代は辰野が教えた建築学に加えて、米国からも多くのものを吸収し、明治末から大正年間に活躍する。

大正末から昭和に活躍するのは辰野から直に教わっていない第3世代である。渡辺節・安井武雄・岡田信一郎・長谷部鋭吉・渡辺仁・ヴォーリズなどである。

しかし「歴史主義」は戦後すぐに消滅する。モダンデザインが席巻するからである。

モダンデザインとは、藤森さんの表現によると「鉄とガラスとコンクリートで作られたツルツルピカピカした箱のような建物」のことである。現在のビルは全部これに当たる。



りそな銀行の向こう角を西に曲がると備後町通りである。この通りには繊維関係の会社が多い。瀧定・シキボウ・藤井毛織などがある。この通りの中に「綿業会館」が残っている。設計者は渡辺節。事務所に勤めていた村野藤吾が担当したという。

日本はコンドルからイギリスのクラシックおよびゴシックの建築様式を学んだが、19世紀末における世界で最も活気ある国は米国であった。

米国では19世紀末から鉄骨造の大型ビルが建て始められていた。オフィスビルにはエレベーターがつけられ、暖房設備や給水装置も必須のものとなった。それまでの石造や煉瓦造の手法では高層ビルには対応できなくなっていたのである。

かといって、デザイン面では米国の建物はモダン建築へと進んだわけではなく「アメリカン・ボザール」がもてはやされた。

ボザールとはフランスの美術学校の名前である。米国の建築家はボザールから学んだフランス古典主義をアメリカ風にアレンジし、この建築様式が1920年ころまでの主流となっていく。



鉄骨造を日本に初めて持ち込んだのは第2世代の横河民輔で、明治45年にアメリカ式のオフィスビルである三井貸事務所6階建を設計している。

大正に入ると大型ビルは鉄骨造か鉄筋コンクリート造となり、曽禰中條建築事務所は大正7年に東京海上ビルディング(7階建)、大正12年に郵船ビルディング(7階建)を建て、桜井小太郎は大正12年に丸の内ビルディング(8階建)を建てる。(いずれも現存しない)

どれも様式はアメリカンボザールである。藤森さんは、米国から学んだ様式を得意とした建築家を「アメリカ派」と呼んでおられる。

アメリカ派を代表するのが渡辺節である。大正9年に大型ビルの視察に渡米した渡辺はアメリカンボザールに引かれ、大正11年にも渡米してそのスタイルを吸収する。

この成果が大正11年の大阪商船・神戸支店、大正14年の大阪ビルジング、そして綿業会館(昭和6年)に結実する。


正面出入り口。若い男性がやってきて写真を撮った。近代建築について詳しいなら教えてもらおうと声をかけたが、そうではなく、大阪にある重文の写真を撮っているそうだ。綿業会館は重文である。これから「適塾」へ行くといっていた。

藤森照信さんの「日本の近代建築」から得た知識を整理するつもりで書いているのだが、悲しいことに建築のシロートの私には理解できないことが多すぎる。

藤森さんは『歴史様式は部分を単位とし、その「造形」「組合せ」「比例」の良否により全体の質が決まる』と述べられているが、歴史様式の「部分」とは何であるのか。

クラシック系の「部分」とは、@オーダー(列柱と梁)、Aペディメント(三角破風)、Bアーチ、Cエディキュラ(祠)、Dピラスター(壁に密着した角柱)、Eピア(アーチを支える柱)、Fラスティカ(粗石積み)、Gドーム、かと今のところ理解している。


この綿業会館は、
  1. 1階がラスティカ仕上げになっていること、

  2. 1階にあるアーチ窓、

  3. 正面2階の窓上にテラコッタの装飾がある
のがアメリカン・ボザール(歴史主義)かと思うが、アメリカンボザールの様式はこれだというものがわからない(むろん私の知識不足からであるが)。

だが均整がとれていて、落ち着いており、奇矯なトガッたところがない、よい建物であるの感じはする。




堺筋に引き返して、北上を続ける。

茶色いビルの北隣に「旧第一勧業銀行・堺筋支店」があるはずである。建築MAPには、設計は渡辺節建築事務所と書いてある。

藤森さんの「日本の近代建築」に、渡辺節の日本勧業銀行(昭和4年)の写真が掲載してあったが、この建物は堂々の大オーダーが中心になっている。しかも円柱が2本セットになったイオニア式の双柱である。

綿業会館ではよくわからなかったが、銀行の建物なら私にも「部分」がわかるかも知れない。続けて渡辺節が見れるとは楽しみだ。

茶色いビルの裏(東)には高層ビルが建っている。「タワーシティ」というビルらしい。

若いころ北浜で働いていたので、堺筋は比較的詳しい場所であるが、それは30年前のことである。当時あった建物は経済効率性の原理によってなくなったものが多い。

(次図)茶色いビルの北隣に旧第一勧業銀行・堺筋支店があるはずだったが、なかった。渡辺節のビルは跡形もない。日本土地に売却され、11階建てのビルができるそうである。 残念。来るのが遅かったか。

私が大学を卒業したのは大阪万博のあった昭和45年である。友人の多くは銀行に就職した。

当時の銀行界は、@興銀・長銀・勧業銀・日債銀・東京銀・商工中金といった利付き債や割引債を発行して資金を調達する昔の国策銀行と、A都市銀行、B信託銀、C地方銀行、D相互銀行の区別があった。

都市銀行の預金高の多い順は、1)富士銀、2)三菱銀、3)住友銀、4)三和銀、(以下の順番は不明)、5)三井銀、6)協和銀、7)第一銀、8)東海銀、9)神戸銀、10)拓殖銀、11)埼玉銀、12)大和銀、13)太陽銀 くらいを思い出す。(太陽銀は相互銀から都市銀行になったばかりだったと思う)

「華麗なる一族」の阪神銀(神戸銀)は初めは三栄銀(三井銀)との合併を思っていたようであるが、先週の話では相手を大同銀(協和銀)に切り替えたようである。


生駒時計店(生駒ビルジング)は健在であった。平野町1丁目の交差点西南角地にある。建築MAPによれば設計は 大倉三郎+脇永一雄、竣工は昭和5年とある。

(その後メールで、このビルは宗建築事務所の宗兵蔵の作品であるとのご指摘を頂戴した。大倉はビルの一部を担当しただけか、その後改装をしたとかなのかも知れない。)

タイル仕上げの5階建て。2階のアーチ窓は1階のショーウィンドウや出入り口と一体化していて垂直志向かと思うと、3階から5階には帯が巻かれている。1階ごとに3本の帯があるから水平志向が強調されている。

1・2階で上に伸びたと思うと3・4・5階がギュッと縮められてしまったという印象である。


装飾が多いのもこのビルの特色である。

正面の3階から5階にかけて縦に長くテラコッタの意匠が並んでいる。各階に2つずつある。聖火なのか燭台なのか剣なのか正体不明の意匠であるが、最上部にある「生」だけはわかる。生駒の生である。

軒下にも模様が連続している。壁面も単にタイルを貼っただけではなく、各階を分ける部分には「×××」の模様が浮き上がるようなタイルを使っている。



1階の石造りの庇の上には鳥の彫刻がある。鷲であるという。入ってくる客を見下ろす目線である。羽を広げているから獲物を狙っているのかも知れない。獲物とはこの場合は客である。まあ福助か招き猫の役割か。

建築MAPによれば、ここで使っているタイルは「スクラッチタイル」と呼ぶのだそうだ。表面を櫛で掻いて平行な筋があるタイルであるらしい。それでツヤがなくしっとりと沈んだように見えるのか。


生駒時計店から1丁ばかり北上すると、東側にコニシの木造家屋がある。コニシは接着剤の「ボンド」のメーカーである。壁が黒いので烏御殿とも呼ばれていたらしい。登録文化財に指定されたそうだから、今後も残る建物である。

コニシの北隣には三越の大阪店のビルがあったはずだが、空き地になっている。昭和10年に御堂筋が拡張されるまでの大阪は、筋では堺筋が一等地で、通りでは高麗橋通りが一等地であったという。三越は高麗橋と堺筋の交差点の南東角にあったから大阪随一の場所に店を構えていたのである。

しかし堺筋は御堂筋にNo.1の地位を譲った。堺筋にあった松坂屋と三越はしだいに営業不振となっていく。松坂屋は京阪天満駅のターミナルデパートたらんと移転したが盛り返せず、大阪店は閉店した。三越も閉店し、堺筋組は全滅したのである。


その三越と高麗橋通りを挟んで対面していたのが、三井銀行・大阪支店である。昭和12年竣工。曽禰中條建築事務所が設計している。

正面はオーダーである。4本のイオニア式円柱が並び、梁(エンタブラチュア)を支える。(やっとわかりやすい建物に当たった)

建築MAPの地図には「さくら銀行大阪支店」と書き込んである(説明はない)。建築MAPの奥付を見ると1999年に初版が出ている。1999年当時はさくら銀行だったのだ。

大学時代の友人たちが就職した銀行は、富士銀・東京銀・三和銀・神戸銀・協和銀などであったが、これら銀行はすでにその名前がない。

富士銀は興業銀+第一勧銀と統合されてみずほ銀になった。東京銀は早い時期に三菱銀と合併し東京三菱銀となった。


正面入り口の上にはペディメント(三角破風)が乗せられている。堂々の新古典主義の建物である。しかし「三井住友銀行」の文字だけが新しく、ちょっと浮いている。

三和銀は東海銀と統合しUFJ銀になったものの、最終的には東京三菱銀に統合され、三菱東京UFJ銀となった。

「華麗なる一族」の神戸銀の変転はめまぐるしい。まず都銀としては新参の関東の太陽銀と合併し、太陽神戸銀となった。ついで三井銀と合併し太神三井銀(タイシンミツイ)となり、さくら銀に行名を変更する。その後さくら銀は住友銀に統合され、三井住友銀となった。神戸銀行の名は消え、三井の名が復活した。

協和銀は埼玉銀と合併し、あさひ銀となっていたが、大和銀と合併し「りそな銀」になった。


南面にもオーダーがあるが、こちらは円柱ではなく四角く、しかも壁にくっついている。これはピラスターという。

曽禰中條建築事務所の曽禰達蔵は第1世代である。「日本の建築界の母」といわれるコンドルは明治14年に上野博物館、16年に鹿鳴館を建てたあと、17年に工部大学校の教授の席を辰野金吾にゆずる。

コンドルはイギリスに帰国せず、日本に永住することを決意する。明治20年から設計事務所を開き、主として三菱の仕事をするのである。

2月22日の日経新聞に「三菱1号館」が2009年に復元され美術館として再生するの記事がでていたが、これはコンドルが設計したもので明治27年に竣工したビクトリア様式の煉瓦造りである。

三菱(管理しているのは三菱地所)は「三菱1号館」を解体保存していたのである。これはすごい。よくぞ保存していたものである。復元されれば重文に指定されるに違いない。

曽禰達蔵は工科大学校を卒業して7年間の官庁勤務(7年の就業が義務づけられていた)を終えた後三菱に入り、コンドルとともに働き、その後、辰野に教わった中條精一郎と組んで曽禰中條建築事務所を立ち上げる。つまりコンドル→曽根→中條へとイギリスの古典主義は受け継がれるのである。

しかし中條はすべての古典様式に精通していたようである。藤森さんは『様式はイギリス系を基本とするが、必要とあればアメリカ系、アールヌーヴォー、セセッションのようなモダンデザインも十分にこなした』と述べておられる。たぶん明治屋ビルやこの三井銀行・大阪支店はアメリカンボザールを採用したのではないか。(シロートの判断)

藤森さんは続いて『しかしどんな様式を選ぶ場合でも、決して自分たちの持ち味を忘れることはなく、・・・アメリカンボザールふうの彫が深くて豪華で大味な印象はたくみに避け、平明で緻密で堅実な印象を得ている。』といわれる。


旧三井銀行・大阪支店の対面には「高麗橋野村ビルディング」がある。設計者は安井武雄。昭和2年の竣工。

建築MAPには『東洋的、土着的な雰囲気の建築が堺筋でひときわ異彩を放つ。東南部のコーナーのカーブとストリングコースに嵌め込まれた瓦、それにともなう壁面の微妙な傾斜が特徴であるが、それらの印象を決定付けているのはモルタル掻き落としの褐色の壁面である』。とある。

藤森さんもこのビルには注目している。『斜めに傾きながら水平に走る壁面のデザインはドイツ表現派だが、入り口周囲の装飾はまたまた古代どこそこ文明ふう』。ようするに建築の専門家でも、このビルの様式を決めかねている。


建築MAPの囲み記事には『「彼は歴史様式とモダニズムとを問わず、既成の造形言語を拒否し、自分ひとりの方法をとろうとする』。また『時代の趨勢にとって異物のようでありながら、今の目から見ると「趨勢」を作っていた人間よりもむしろ時代の特質をよく表現している。』とある。

よほど安井武雄という人はつかみどころがない、定型のタイプに分類できない人でありその作品であったようである。

藤森さんは安井を「新感覚派」と分類されている。こうである。『19世紀末に発生したアールヌーボーを口火として20世紀にはいるとヨーロッパでは歴史様式を否定するモダンデザインが盛んになり、・・・こうした新しい動きに対し歴史主義の陣営は3 つの方向にわかれる』。


ひとつは歴史主義を堅持する立場で、渡辺節のようにアメリカンボザールを導入する。あるいは曽禰中條建築事務所のように用途に応じた様式を採用する立場である。もうひとつはモダンなセンスを取り込み、モダンなセンスの歴史主義を生み出す立場で、これを「新感覚派」とよぶ。

藤森さんの分類によれば新感覚派を代表するのは、安井武雄・長谷部鋭吉・佐藤功一の3名であるという。

安井が際立って違うのは、長谷部・佐藤が『元ネタの歴史様式に表現派のセンスを自分の方法で取り込んだのに対し・・・』、安井は自分独自の様式を作り出したことである。

なるほど、そういう視点でみると。上図の正面入り口の両脇に立つ柱(彫刻)の柱頭は三日月である。これは過去の様式にはない。だが柱を細かく見ると、ギリシャ古典の円柱を分解したものではなかろうか。下から四角いペデスタル(柱台)がありドリス式の円柱があり、さらに細くなった円柱があって三日月の下にエキノスと呼ばれる丸餅形の円盤があるように見える。安井式の円柱といえる。(シロート考えである)

角部の写真をみると、建築MAPのいう「ストリングコースに嵌め込まれた瓦、それにともなう壁面の微妙な傾斜」、藤森さんのいう「斜めに傾きながら水平に走る壁面のデザイン」がよくわかる。

1階部分のストリングコース(壁面の階と階を仕切る蛇腹)の傾斜が最も強く、階上になるにつれて傾斜がゆるくなり、5階では傾斜がゼロになっている。下は開き上に行くほどにしぼんでいる。指摘されなければ気がつかないくらいの傾斜である。安井はこの傾斜をつけることでどういう視覚効果を狙ったのだろうか。


堺筋を道修町(どしょうまち)まで2丁ほど南にバックして、道修町を西に進む。角のビルは小野薬品の本社である。

薬のメーカーのほとんどは大阪が地盤である。タケダもタナベもフジサワもシオノギも大阪である。細かいところでロート・仁丹・改源。

東京の製薬メーカーとしては山之内・大正製薬・中外製薬くらいかと思うが、山之内はフジサワと合併したし、中外は外資系となった。依然として日本を代表する薬品メーカーの基盤は大阪である。その本社は道修町という一本の通りに集中しているのである。


堺筋から道修町通りを西へ2丁進むと武田道修町ビルが見える。赤煉瓦の端正な建物である。メインは4階建て、一部は5階建てである。

遠目に見ると3階部分までの壁面が少し飛び出ている。壁面を飛び出させるということは、その部分を強調したいということである。つまりその部分がファサード(正面)であろう。


(次図)正面にはオーダーがある。柱は独立した円柱ではなく、壁面に貼り付けられた角柱(ピラスター)である。古典に様式を求めている歴史主義の建物である。建築MAPには設計は松室重光とあるだけで説明はない。


松室は辰野の教えを受けた歴史主義の第2世代に属する。第2世代はアメリカンボザールの洗礼を受けているから、この建物の様式はそれであると思うが、渡辺節と違うのは煉瓦を貼っていることである。このためシックで落ち着いた感じを与える。辰野のイギリス派の影響が残ったということか。

建築MAPには竣工の時期が記されていないが、昭和初期のものだろう。しかし、建物がきれいすぎる。煉瓦は古びていない。あるいは壁面の修築がなされたかと思われるが、確かではない.

オーダーによって強調された面が窓というのも不思議である。オーダーの中に窓があるという例はないではないが、それはオーダーが多くあるときである。オーダーがひとつの場合はそこが出入り口になるのが普通ではなかろうか( シロート考え)。

このビルの出入り口はオーダーの左側にあるが、ここには何の装飾もない。思うにオーダー部の中央に出入り口があったはずで、改築によってオーダー部分は単なる窓になったのではないか。


武田製薬の西隣は大日本住友製薬の本社である。大日本製薬と住友化学の薬品部門がつい最近(2年前)合併して大日本住友製薬となった。この場所は大日本製薬があったところであろう。

今のビルは新しいが、旧のビルの一部が保存されていた。窓はアーチ窓である。脇に貼り付け柱があり柱頭に彫刻が載っている。人面なのかライオンなのかよくわからない。


その先、はす向かいにシオノギの本社がある。

ビルの1階には角柱が前面に6本。それぞれの後ろにまた6本の角柱が並ぶ。これはオーダーをアレンジしたものであろう。



正面の脇に、古いペデスタル(柱台)が置かれていた。これは先代のビルで使われていたものだろう。先代の上部にあった巴の模様はなくなっているが、新ビルもこれと同じ形のペデスタルを引き継いだわけである。

タケダ、大日本住友、シオノギは古い時代の建物の一部を記念に残している。


シオノギから東へ50mほどバックして道修町2丁目交差点を北上する。

すぐに右手に古い建物2棟が見える。

手前にあるのは浪花教会。尖頭アーチ形の縦に長い窓はゴシック様式である。建築MAPには設計は竹中工務店とあるから、竹中が設計し施工したようである。

近づくと壁面は石である。シロートの悲しさで、鉄筋コンクリートの表面に石を貼ったのか、石造であるのかの判別はつかない。定礎に昭和5年の竣工であると彫られていたし、竹中の施工であるから鉄筋コンクリート造ではないかと推測する。

建築入門者のわたしにとってはゴシック建築のよい教材である。「図説・西洋建築の歴史」(佐藤達生著)によれば、ゴシック建築は、@壁を薄くし、A窓を広げ、B天井を高くする方向を目指したという。
薄い壁に広い窓や出入り口が開けられては、壁だけで大きな建物を支えることはできない。そこでフライング・バットレス(飛び梁)という構造が発明される。教会の周りに控え壁と呼ばれる四角い高い塔を建て、教会と塔を半アーチで接続する。教会建物はこのフライング・バットレスによって前後左右から支えられる。

この建物は低いし、おそらく鉄筋コンクリート造なので、フライング・バットレスはないが、右の窓と窓の間にある四角い柱に三角の屋根が載っている装飾は「控え壁」をイメージしたものではないか(シロート考え)。

ゴシックでは、もともと薄い壁を膜のように見せるのだそうだ。その視覚効果のために、『壁のあらゆる部分がシャフトや小円柱や刳り形などの丸くて細長い棒状の要素(線条要素)によって分割され、あるいは縁取られる』と佐藤さんは述べられている。

シャフトや小円柱は教会内部にあるものなので外からは見えないが、写真の高窓(クリヤストリー)の縁が3段にへこんでいるのを「刳り形」というのだろうか。 クリヤストリーもトレーサリーによって分割される。写真の窓も鉄製かと思われるトレーサリーで分割されている。



浪花教会の北隣は「旧大阪教育生命保険ビル」である。いまは「シェ・ワダ」というレストランになっている。

設計は辰野片岡建築事務所。片岡とは片岡安(やすし)で、明治38年に辰野金吾のパートナーとして大阪に事務所を開いた。辰野が工科大学長の地位を捨て、東京で設計事務所を開いたのは明治36年である。

辰野は東京で活動したであろうから、大阪の事務所は片岡安が取り仕切っていたかと思われる。


この建物も初学者の私には難しい。辰野の設計になる東京駅が竣工したのは大正3年である。

右図は東京駅。娘がちょうど東京に遊びにいくというので撮ってきてもらったもの(東京駅・日本橋野村ビル・日銀・明治生命館の4つを依頼した)だが、東京駅とこのビルはよく似ている。

赤煉瓦からはゴシック系のようだが、両者とも@水平に白い石の帯が埋められている(東京駅は建物の上から下まで帯が重なっている)。A教育生命保険ビルの正面入り口にはクラシックのオーダー的な柱が立つ。東京駅にはポーチ部分と2階部分に明瞭なオーダーがある。B両者ともに2階の窓はクラシックのペディメント(三角破風)がついている。



C教育生命保険ビル(左図)の角に塔状の飾りがあることや正面の軒の上にメダリオンがあるのはバロック風でもある。東京駅の正面の軒も丸い。

何様式とも決めかねるが、藤森さんの本によれば、 このようなクラシックとゴシックの中間的な様式はクィーンアン様式と呼ばれ、イギリスでは1870年から20年近く流行ったという。

辰野は英国留学中に流行っていたクイーンアン様式を持ち帰り、すぐには使わずに設計事務所を開いてから使った。よって本場イギリスではもうこの様式は流行らなくなっていた。(東京駅が竣工した大正3年は1914年のことである)





1丁ほど北上すると八木通商のビルがある。旧大阪農工銀行である。設計は国枝博。昭和4年竣工。

建築MAPによれば大正7年に辰野片岡建築事務所が建てた銀行建物に国枝博が改造したとある。どこを改造したかというと外観の全部である。

国枝はアールデコの建築家であるらしい。1925年(大正14年)パリで開催された博覧会を契機にして、アールデコという新しい様式が確立した。


藤森さんによると『アールデコはそれまでの煉瓦や石に代わり、外壁においてはテラコッタやタイル、インテリアにおいてはガラス、陶磁器、合金、合板といった近代的な工業製品が多く使われ・・・』というのがアールデコなのだそうだ。

さらに『昭和初期に作られたビルでタイルやテラコッタを外壁に使うのはたいていアールデコがかっているといってもよい』ともいわれている。

軒下や入り口上部また窓の周りに緻密な模様が入っている。建築MAPによれば、この模様はテラコッタ(外壁に用いる装飾用の素焼き。半光沢の釉薬をかけたものもある)である。

この建物のテラコッタは素焼きのようであるが、生駒時計店のテラコッタは釉薬がかけて焼かれたようでツヤがあった。あっ、生駒ビルディングはアールデコだったのか。

八木通商ビルに到着したとき、残念なことがわかっていた。このビルの対面には三和今橋ビル(旧鴻池銀行本店)があったはずであるが、空き地になり工事の防護塀が建てられていた。

三和銀行は戦前に鴻池銀行・山口銀行・三十四銀行が合併し「三和銀」となったのだが、中心となったのは鴻池銀であったかと思う。いわば三和銀の聖地のような場所である。三和今橋ビルとして残っていたのもその理由からであろう。

しかし三和銀はなくなった。三菱東京UFJとなった今では、三和銀の前身の鴻池銀の建物を残すのに特別な理由はなくなったのだろう。UFJ銀として残っていたならばそうはならなかったのではないか。

というのは、三和今橋ビルは建築MAPにも藤森本にも載っているほどの重要な建物なのである。設計者は長野宇平治。竣工は大正13年の鉄筋コンクリート5階建。

建築MAPには以下の説明と写真が載っている。『初層を彫りの深いラスティカ積み、2層目を彫りの浅いピラスターの列柱が覆い、最上層は半円アーチ窓という構成。最上層北側はペディメントと半円形の窓がアクセントを与えている・・・・古典主義建築の名手・長野宇平治の力量を十分に堪能できる作品である。』



まったく惜しいことだ。長野は歴史主義の第2世代である。藤森さんによれば、長野ほど古典主義を極めた人間はいないそうである。大阪では長野宇平治の手になる建物は皆無となったのではないか。

八木通商を西に折れ、北上し、東に折れと1丁ずつ歩いて大回りにUターンする。

手前の塀は愛珠幼稚園、先の白壁の木造は緒方洪庵の適塾(重文)。その向こうの大きな白いビルは旧日商岩井本社で、今はトレードピア淀屋橋となっている。このまま進めば堺筋に突き当たる。

向こうに大阪証券取引所。正面前に五代友厚の銅像が立つ。

4年前にテクテクで適塾を訪れたときは、大阪証券取引所は解体されかかっていたが、新ビルができている。正面(ファサード)は昔と同じデザインである。解体しておいて復元したのだろう。

旧の大証の設計は長谷部竹腰建築事務所である。長谷部とは後に行く住友ビルジングを設計した長谷部鋭吉であり、竹腰は住友時代に長谷部を補佐していた竹腰健造である。

今は取引所には行かずに右に曲がって堺筋を少しだけ南に下る。

取引所の南西斜め向かいに新井ビルがある。元は報徳銀行・大阪支店で、河合浩蔵の設計になる。

河合は歴史主義の第1世代で、妻木頼黄(つまきよりなか)を代表とするドイツ派である。妻木頼黄が設計した横浜正金銀行(明治37年)はドイツバロックの名作品で、今は神奈川県歴史博物館になっているらしい。

河合のものはあまり残っていない。大阪ではこの建物が唯一ではないか。

明治新政府はコンドルが工科大学校の教授の職を辞したあと、東京の官庁集中化プロジェクトを思い立ち、ドイツからドイツ建築界の大物であるエンデとベックマンを招聘する。逆に日本からは妻木頼黄・河合浩蔵・渡辺譲の3人の建築家をドイツへ派遣する。明治19年のことである。

ドイツ本場で学んだ3人がドイツ派になるのであるが、明治20年にはプロジェクトは消えてなくなり、ベックマンらは帰国する。ドイツ派は身近に教えを請える先生がいなくなったのである。



私には、ドイツ派のどこに特徴があるのかは理解できていない。

藤森さんは『地味なイギリス、華やぐフランス、武張ったドイツ』といわれる。

1階はラスティカ積みである。中央にオーダーがあるが、円柱はアレンジしてある。円柱に筋が彫ってあるが上部だけで、下部の溝は省略されている。

壁面は煉瓦のようにも見えるがタイルかも知れない。ビルの最上部にある楕円形のメダリオンがバロック風である。




大証まで引き返す。大証前の道路は土佐堀通りである。この通りは土佐堀川に沿う道だが、土佐堀川と土佐堀通りの間に少しの土地があって、奥行き20mほどのビルが軒を連ねている。写真の左側の茶色いビルや白いビルがそれである。

茶色いビルは昔「西田三郎商店」という商品先物取引の仲買店があったはずである。白いビルの場所には端株専門の廣田証券の古びた建物があったと思う。それが今はない。

建築MAPには「西田三郎商店」設計者は不明。竣工は明治末〜大正初期。煉瓦造2階建。と写真を掲げて説明してある。ここには何度かいったことがある。床は板張りで、歩くと軋んでギシギシ鳴っていた。



行ってみた。茶色いビルは西田三郎商店ではなく、「北浜XXXビル」となっていた。白いビルは廣田証券であった。

茶色と白色ビルに挟まれて小さいクラシックな2階建て建物が残っていた。今は「北浜レトロビル」と愛称されているそうだ。

となりの西田三郎商店や廣田証券のほうがはるかに大きかったので、この建物の記憶はまったく残っていない。この場所であるから、昔は証券か商品先物の会社だったろうと思うが、今は喫茶店になっている。

出入り口と左右に配された窓は変形したオーダーである。4本角柱の支えられているエンタブラチュア(梁)は丸みをつけてある。その上に紋章らしい飾りがある。

2階の窓周りにもオーダーがある。中央の窓の上には半円窓があり、軒上にはペディメントを崩したような破風が乗っている。まあバロック風(ネオバロック)といえるのだろう(シロート考え)。




難波橋(なにわ)から天満方面を見る。

今日は堺筋本町→北浜→中之島→肥後橋→御堂筋と歩いて、近代建築物の実地研修をしたのであるが、見た建物が多すぎたし、 知らないことばかりなので、本(「日本の近代建築」・藤森照信、「建築MAP大阪・神戸」・ギャラリー間、「図説・西洋建築の歴史」・佐藤達生)からの引用が多くなった。

テクテクは2回に分けることにし、とりあえず前半を「堺筋を中心にした大阪の近代建築」に限ってまとめた。

万歩計は19100歩だったが、市街の舗装道路だけを歩いているので疲れはなかった。ただし帰宅してから話をまとめるのに手間取り、大変疲れた。初めて学ぶことはしんどいことである。


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