大阪の近代建築A

    No.53.....2007年2月12日(土曜)


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大阪の近代建築@(堺筋)の続きである。 1日で、堺筋本町→北浜→中之島→肥後橋→御堂筋と歩き、近代建築物の実地研修をしたが、テクテクは2回に分けて書いた。ここでは「大阪の近代建築A(中之島から御堂筋)」についてまとめた。頼った本は前回も書いたが以下の5冊である。
  1. 日本の近代建築(上)・藤森照信・岩波新書
  2. 日本の近代建築(下)・藤森照信・岩波新書
  3. 建築MAP大阪・神戸・ギャラリー間・TOTO出版
  4. 図説・西洋建築の歴史・佐藤達生・河出書房新社
  5. 図説・大聖堂物語・佐藤達生/木俣元一・河出書房新社


右の地図の赤丸番号の順に歩いた。

前半は中之島、後半は御堂筋を中心とする。


大阪証券取引所の前には難波橋(なにわ)がある。前回はここまでの話だった。

土佐堀通りを西に進むと次の橋は栴檀木橋(せんだんのき)である。小さい橋である。信号機はついているが、車両の進入は禁止されている(土曜日だったからか)。

向こうは中之島。橋の下は土佐堀川。左に見えるのは大阪市庁舎である。そこより右手には、中之島図書館・中央公会堂が並んでいる。

水上バスがやって来る。


栴檀木橋を渡ると大阪市中央公会堂がある。これは側面である。公会堂の平面は「工」の字形になっていて、上部の「一」の字が正面(ファサード)である。写真は「工」の字の右から見ている。

鉄骨煉瓦造。遠目に見ると側面下部に白い石の帯が5重に貼られていて、これは辰野の東京駅と同じ。屋根は丸い青銅葺き。



橋を渡って建物の右に移動する。

地下部分はラスティカ(粗石積み)。窓の両脇に細いピラスター(貼り付けの角柱)があって窓枠となっている。

窓と窓の間の壁面には、太いピラスターがはまり、大オーダーとなる。どの柱の上部も石の装飾がある。

2階の窓の上部はペディメントを変形したもの。右側の出っ張ったところの窓の上部は弓型ペディメント(破風)である。

3階の窓も小規模ながらオーダーが取り入れられていて、2本の角柱で3面の窓に区切っている。

こういうところが目についた。初学者の分類では主としてバロック様式であると思われる。



公会堂の正面。目立つのは入り口のオーダーである。エンタブラチュアの上にはでかい半円アーチ。アーチ窓にも円柱が2本。

両翼の出っ張りを見ると、1階2階を通してピラスターのオーダーがある。1階の窓は内側のものはエディキュラ(祠)型である。これは正当の古典様式だが、外側の2階は窓の上のペディメントが丸くアレンジされてバロック調。

3階には丸窓が空けられているがこの左右にもピラスターがある。2本でセット(双柱)になっている。


その上にはドームが乗っている。おそらく8角形であろうと思われるドームの土台にもピラスターあり、ペディメントありで、歴史様式の宝庫だ。

公会堂は株式仲買人の岩本栄之助の寄付金で建てられたものである。岩本は日露戦争後の株式暴落でカラ売りをして巨額の利益を得たり、第一次大戦の勃発時には買い進んだが相場は暴落して大損したりと、波乱の人生をおくった人物である。

公会堂の一隅に岩本を記念する部屋があったので入ってみた。陳列物は少なく、アルバム・徴兵の出頭命令書・書き物などが並べられていた。

経歴を読んでみると、岩本は、単なる成金ではなく、海外へ視察に出かけるなど社会への貢献を強く意識していた人物のようであった。



公会堂の設計はコンペで募集され、岡田信一郎の原案が採用された。これに辰野片岡建築事務所が手を入れて実施した。竣工は大正7年である。

しかし岩本は竣工式に立ち会うことはできなかった。相場に負けてピストル自殺をしたからである。

岡田は歴史主義の第3世代である。大阪に辰野片岡事務所ができて以来、片岡は大阪で建築家の地位向上に尽力する。

たぶん辰野と片岡の関係は曽禰中條建築事務所の曽禰(第1世代)と中條(第2世代)の関係と同じであったかと思われる。大正に入ってからは第2世代が活躍するのである。片岡は大阪建築界のまとめ役・建築界の代表者になる。

よって公会堂のような記念的な建物には片岡の監修が不可欠であったのかと思われる。公会堂は2002年に重文に登録された。




公会堂の西隣に大阪府立中之島図書館がある。この建物は古い。重文。明治37年の竣工で、設計者は野口孫市。煉瓦・石造2階建。(ドームを入れると3階)

住友吉左衛門が図書館の建築費および図書購入費を寄付してできたものである。

図書館前の説明板には、「全体としてネオ・バロック様式の傾向が見られるが、これをよく消化して独自の造形美を形成しており明治時代の日本人建築家による極めて水準の高い作品である」とあった。





写真では見えないが中心にドームがあり(次図にドームが写っている)、平面は「十」字型に広がる。十字のひとつが正面で、ここにはコリント式の大円柱が4本並び、エンタブラチュア(梁)とペディメント(三角破風)を支えている。堂々のオーダーである。

野口は図書館建設のために米国へ視察に出かけた。アメリカン・ボザールが流行った時期であった。野口は(アメリカンボザール様式の)ニューヨーク大学図書館を手本としたと藤森さんは指摘されている。

だから様式の基本はフランスの古典主義である。列柱奥の入り口の上にある半円形の窓、その両脇の装飾でネオ・バロックといわれるのだろう。

(クラシック様式の変遷は、@ギリシャ様式→Aローマ様式→Bルネッサンス様式→Cバロック様式→Dあらゆる過去の様式のリバイバル、となる。)




野口が建てたのは「十」字部分(これがメインだが)で、その後大正11年に野口の住友の後輩である日高胖(ひだか・ゆたか)が「十」字の両翼を増築した。(写真の右の建物が増築された右翼部)

当時、住友本店は本格的な本店ビルを建設するために建築家を集めていた。住友に入った最初の建築家が野口である。

日高は住友本店に入社し臨時建築部に配属され、野口とともに図書館の建設に携わっていたから、当初からの設計であったかのような違和感のない増築ができたかと思われる。

なお住友は念を入れて(?)、図書館起工後の明治34年に辰野金吾を建築顧問としている。




円柱の後ろには円柱と同じ大きさのピラスターがある。

住友は、辰野金吾を顧問として、野口・日高に中之島図書館を作らせ、子飼いの建築家を育成していく。住友のビルのすべては自社の建築家によって建設しようとしたのであろう。

住友本店臨時建築部はその後、日本の建築設計の主流へと発展していくことになる。



図書館北の堂島川に沿って御堂筋に出た。道路の向こうに日銀大阪支店がある。

建築MAPには、設計は辰野金吾+葛西万司+長野宇平治とある。説明はない。

辰野は明治29年に日銀本店を作り、明治34年に日銀大阪支店を作っている。

そうか辰野は日銀大阪支店をきっかけに、住友の顧問になり(明治34年)、辰野片岡建築事務所(明治38年)を開いたのか。



先に日銀本店の図を掲げる(娘が東京で撮ってきたもの)。

日銀本店の平面は「ロ」の字型である。ただし前面の「一」は単なる石塀で、建物は「コ」の字に建てられている。「コ」を左から見たのが正面である。正面は奥まっていて、両翼がズンと前に出ている。

正面の建物は石塀の中に入らねば見えない。外から伺えるのは両翼の建物である。写真は左翼。左翼のすぐ右に正面のペディメントが少し見える。右の松の木の後方が右翼。

藤森さんによると、この様式は『イギリス18世紀のネオクラシシズムの延長上に位置するデザイン』であるそうだ。


次図は日銀大阪支店。



また『イギリスのネオクラシシズムは、フランスにくらべ彫塑性や装飾性に乏しく、ドイツにくらべ力強さに欠け、どちらかというと地味で堅実』で、辰野にしては『無口な記念碑に仕上がった』とも述べられている。

専門家が見るとそういうことになるらしい。







大阪支店は本店に比べて少し派手になっているのではなかろうか。初めに目につくのは正面の角型ドームである。フランスのバロック風である。2階の棟に小型のペディメントがあり、その左右には小塔がある。これも装飾的。

目を下げると2階の窓はペディメントをアレンジしたもの。1階の窓の上には装飾が貼られている。

正面に角柱と円柱をセットにしたオーダー、エンタブラチュアの上には弓型ペディメントを崩したものがあり、楕円の装飾が乗っている。

日銀本店は、人を拒絶するような冷たい印象を受けるが、大阪支店はややにぎやかで明るくなっている。これはシロートが受けた印象である。

専門家の藤森さんは、『日銀大阪支店はパラディアニズムがベースの1つとしてあ』り、『日銀の扁平でぎこちない姿』(を中之島図書館は凌いでいる)と書かれている。初学者としては、どこがパラディアンなのか、ぎこちないのかがわからない。

(次図)南の淀屋橋から見た大阪支店。 長野宇平治はどのあたりを受け持ったのだろうか。




日銀大阪支店の前は大阪市庁舎である。1985年竣工。設計は大阪都市整備局+日建設計。

この建物は出来たときから、なんとはなしによいデザインだと思ってきた。今回読んだ本によるわずかな知識を駆使して、どういうところがよいのかを考えてみると、

@正面は2本の角柱と両脇の見ようによってはピラスター(片蓋柱)に見える柱で、2階上部のエンタブラチュアとでもいえる梁を支えている。大オーダーに当たる。

A3階から7階の窓と窓の間は角柱の角をカットしたような柱に見える。下の大きな柱や窓横の小柱(?)の最上部には、梁を受ける「頂板」のようなデザインがある。そうなら3階から7階は小オーダーである。

B8階は前にせり出していて、大きくみればこれがエンタブラチュアといってもよい。

と書いてはみたが、これはシロートの妄想かも知れない。たぶんそうであろう。



日銀の南側の遊歩道から西を見ると、土佐堀川の左に住友ビルジングがある。黄土色の低いビルである。

左手前は住友ビル(住友信託銀)で、右向こうの高層ビルは同和火災のビル。(今はニッセイ同和火災)

大正末期から昭和初期にかけては特に「大」の字をつけて「大大阪時代」と呼ぶ。立役者は第7代大阪市長の関一(せきはじめ)である。

建築MAPの記事によると、大正3年に助役に就任する。関に求められたのは都市政策であった。大正12年に関東大震災が発生。同年、関は大阪市長になる。大正14年に大阪市は近郊を合併して面積が3.5倍・人口は211万人に膨れ、東京を抜いて日本一の市になる。

関はそれまで進めてきた都市計画を一層強化する。御堂筋の拡張と地下鉄の建設である。この時期に大阪の街が整ったのである。




振り返って淀屋橋を撮る。 淀屋橋はアーチ橋である。

大大阪時代に中之島も整備された。パリのセーヌ川にあるシテ島を手本にした。だから景観を重視し、費用をかけて架けられた橋である。

アーチ橋には、アーチの上に道路がある上路式と、アーチの下に道路がある下路式があるそうである。

上路式(東京は日本橋・両国橋、大阪は淀屋橋・難波橋など多数)は道路が一番高い位置にあるので眺望を邪魔するものは何もない。

下路式(東京では永代橋、大阪では桜宮橋)はアーチの下に道路があるのでアーチが視界をさえぎる。

日本のシテ島をめざした中之島にかかる橋はほとんどが上路式ではなかろうか(全部知っているわけではないが)。







(次図)住友ビルジングの前に来た。これから橋を渡って向こうへ行くのだが、ここからのほうがよく全体が見通せる。 設計は長谷部鋭吉+竹腰健造である。昭和5年に竣工。住友の中枢部であった。5階建て(その後6階に増築)



長谷部は藤森さんの分類によると「歴史主義の第3世代」であり、「新感覚派」である。住友ビルジングの全体は整然と窓が並ぶ装飾のない建物で、現在のモダンデザインに繋がるかと思われるが、歴史主義たるゆえんは正面のイオニア式のオーダーである。


錦橋を渡って、土佐堀通りに出たら、目の前に巨大なビルが聳えている。同和火災のビルである。

視界に入るのは写真にある範囲でしかない。ビルの本体に密着した太い柱から傘を広げたかのような筋が広がり、2階以上の巨大なビルを支えているのである。


削った鉛筆を地面に突き刺したかのようである。大丈夫かいな。ぽっきりと折れることはないのか。

しばらくして、これはゴシック建築の「線条要素」をイメージしたものであることに思い当たった。ゴシック建築の構造はアーチの連続・組み合わせである。天井もアーチおよびリブの組み合わせで支えられている。1本の支柱からリブが朝顔の花のように広がって別の支柱に繋がる。アヒルの水掻きを連想してもよい。丸く細いリブが足の骨で、水掻きの膜が天井である。

このビルの線状の広がりはそれをデザインしたものであろう(シロート考え)。


住友ビルジングにやってきた。なるほど窓廻りにはいっさいの装飾はない。モダニズムである。ただ一か所、正面にはクラシック建築の中心であるオーダーを構えている。

(次図)円柱はイオニア式である。柱頭は渦巻きである。ただ円柱には溝彫り(フルート)はない。外壁にあわせてすっきりとさせたかったのであろうか。

近くでみると壁面の石(竜山石。たつやまいし)はザラザラしていることがよくわかる。

藤森さんは『平坦な壁面は黄土色の軟石をノミで削って陰影深く仕上げられている。ドイツ表現派は、力動的なマッス(量塊)と毛深い表面仕上げを特徴とするが、このセンスを長谷部はクラシック様式に取り込んで住友本店という傑作を生み出した』といわれている。






右側の側面に回ってみた。正面の平坦な壁面とはやや異なっている。 窓の上にはエンタブラチュア的な梁があり模様が浮き彫りされている。その上には半円のメクラ窓のようなものがつき、半円と半円の間には円形の飾りがある。

ビル全体が平板なモダンデザインというわけではなかったのだ。

建築MAPの囲み記事によると、野口時代に住友本店臨時建築部であった組織は大正10年に住友工作部と名称を変え、住友ビルジング建設中の大正末には所員は100名を超えていたという。


だが1929年の米国の株式大暴落に端を発した世界恐慌が始まる。日本でも昭和5年から昭和恐慌となる。さすがの住友もこたえた。工作部は縮小される。 このとき工作部の主要なメンバーは独立し、長谷部竹腰建築事務所を開くのである。

長谷部竹腰建築事務所は、戦後組織変更を重ねて、わが国最大の設計組織である「日建設計」になる(昭和25年)。

錦橋まで戻り、さらに肥後橋まで行こうとしている。写真の橋は錦橋。右の建物(扁平なものと隣の12〜3階建のビル)はフェスティバル・ホール。角が丸い落ち着いた雰囲気のビルは朝日新聞社。高くそびえる銀色のビルは中之島三井ビルディング。

肥後橋を北に渡って朝日新聞ビルの北角までやってきた。向こうは堂島川にかかる渡辺橋(高速道路の下)である。渡辺橋を渡ると中之島ではなく堂島になる。

高速の向こうの左側のビルはサントリーの本社であるが、右側に建つビルはなんだろうか。ツインタワーというのはあるが、これはトリプルである。3つ同じ形のビルが並んでいる。


渡辺橋は渡らずに、左折して堂島川に沿って進む。そこには渡辺節の設計した「ダイビル」があるはずである。

日銀から住友ビルジングまでは中之島の南側の道を歩いたが、今歩いているのは北側の道である。堂島はビル建設のラッシュである。


田蓑橋の南詰め(東側)にダイビル本館がある。正しくは「大阪ビルジング」。大阪建物が所有するビルである。設計は渡辺節、大正14年の竣工。

堂島には「新ダイビル」というビルもある。これも大阪建物のビルであるが、こちらは村野藤吾が設計したものである。(立地のよい「新ダイビル」のほうがはるかに有名であるが)

渡辺のモットーは「安く・良く・早く」であったと建築MAPにある。なんか吉野家の宣伝文句のようであるが、工期を短縮することが最も経済的であると思っていたようである。100万円の費用で2年かけて建設するよりも、150万円かけても1年で完成するほうがよいとした。発注者の側からも、1年で完工すればその分だけ使用することが早くなり、結果として安くつくことになる。

このモットーにプラスして、アメリカンボザールの華麗な様式を武器とした渡辺の設計事務所は、当時大阪で最も有力だった片岡事務所を凌いだという。


全体は平板である。窓の見込みも浅く陰影はない。だが1階はデコレーションでいっぱいである。石の柱が壁面から飛び出ており、その上に庇(?)が出ている。庇(エンタブラチュア?)には連続した模様が掘り込んである。

正面は異様である。両脇に濃厚な彫刻がされた角柱と半円柱が立つ。その上にこれまた過剰な装飾が施されたアーチがあり、その上に女神らしいレリーフがある。

建築MAPによれば、この装飾は東京美術学校出身の彫刻家である大国貞蔵が手がけたものであるという。



角柱のひとつ。「8」字型の綱模様の中に3つの彫刻がある。上から馬、キューピッド、鳥のようだ。

各柱の横には大きな植木鉢が置かれ、「駐輪禁止」の看板が立ててある。よくみると角柱の角は自転車に当てられたのか、ほうぼうが欠けている。大国貞蔵の作品も大阪のおっさんの自転車やバイクで傷だらけである。

大阪建物は渡辺節の作品をここまで残してきたのであるから、1階前には柵を立てるかして、彫刻が破損しないように防護したらよいかと思う。

しかし1階部分はアルミ製のショーウインドウらしきものを付け加える改造をしているから、大阪建物はとしてはまずは商売が大事であり、渡辺節の作品だからこれをそのまま保存しようとは思っていないのかも知れない。



1階の彫刻は???であったが、建物全体の姿は美しい。

側面を見ると、6階と7階の境に帯が巻かれ、最上部の軒下は模様で飾ってある。


(次図)模様はアーケードのようである。アーチとそれを支える柱(ピア)が連続している。これはローマのコロッセオのアーケードをイメージしたものではないか(シロート考え)。

この意匠は渡辺節がしたのだろう。正面の大国貞蔵による彫刻とは異質で、古典的なよい感じである。






右図は岡田信一郎の明治生命館(東京)。昭和9年竣工。アメリカンボザール様式のビルである。今は重文になっている。

岡田は中央公会堂にみるように、イギリス風のクラシック建築を設計したが、大型のオフィスビルとなると当時は米国から学ぶしかなく、学べばどうしてもアメリカンボザールになったようである。

アメリカンボザールの第一人者である渡辺節も日本興業銀行(大正12年)や日本勧業銀行(昭和4年)のように明治生命館に匹敵する大建築物を手がけているのだが、今は残っていない。

時代に敏感な銀行の建物は残りにくく、テンポの遅い保険会社は残りやすかったというだけのことである。もし渡辺の日本興業銀行が現存していれば、当然に重文に指定されていたことだろう。



ダイビル本館を南に下って筑前橋を渡る。写真は筑前橋から中之島を振り返って撮ったものだが、中之島もこのあたりまで来るとビルばかりではなくなる。土佐堀川に面して木造の古い民家が残っているが、このあたりにも再開発の波が押し寄せているから早晩このような木造民家はなくなってしまうのであろう。

後ろの銀色の楕円の建物は大阪市立科学館である。




筑前橋を渡ると西区になる(肥後橋から東は中央区、西は西区)。

ヴォーリズの設計した日本基督教団大阪教会である。鉄骨煉瓦造、大正11年竣工。

藤森さんのいわれるところでは、米国のアメリカンボザールの影響を受けた日本人は歴史主義第2世代の横河民輔・野口孫市・長野宇平治・桜井小太郎、第3世代の渡辺節などがあったが、米国人がアメリカンボザールを持ち込んだ例もある。

その代表者がヴォーリズ で、牧師兼建築家であった。彼は帰化して日本で死んでいる(コンドルと同じ)。牧師であったからといって教会だけを建てたのではない。関西学院、神戸女学院などのミッションスクールの校舎や個人の邸宅、外国人向けのアパートなども手がけている。今日は行かないが大阪ミナミの大丸デパートもそうである。


正面にはバラ窓がある。出入り口は壁面からせり出している。石造のアーチがあり、それを煉瓦のピアで支える。

ロマネスク様式ではあるが、入り口部分だけを見るとクラシックの様式も伺える。例えば1階と2階の堺のストリングコースはクラシックのエンタブラチュアではないか。1階に当たる壁面に浮き出た直線はオーダーをイメージしたものではないか。出入り口の上部の半円 のアーチ窓の上の「ヘ」型はペディメントを崩したものではないか。と思われる(シロート考え)

だが部分はそうであっても全体はゴシックの前進であるロマネスク様式であることは間違いない。クラシック的な部分はヴォーリズが持ち込んだアメリカンボザールの要素であろうか。


東に向かう。御堂筋を目指している。

途中に立派な板壁をめぐらせた日本建築の家屋があったので注目したら、金光教の教会であった。


四ツ橋筋にでたら円柱が林立している建物がある。「おやっ」と思ったが、結婚式場であった。

少し建築様式に過敏になっている。


四ツ橋筋を越えて中央区に戻る。住友ビルジングの1本南の通りを行く。両側のビルはどれも住友のビル。

向こうの茶色いビルが目的とする「大阪倶楽部」である。

大阪倶楽部の側面。設計は安井武雄、大正13年にできた鉄筋コンクリート造の タイル貼り。

側面はなかなか変化に富んでいる。手前の出入り口は裏口であろうが、これはアーチである。アーチの上にある窓は1階と2階の中間また2階の上部についているので、ここには階段があるのだろうか。

アーチの向こうには横幅がある窓がある。窓の上には装飾があり、この一角は外に飛び出している。何のためにこの一角を強調したのか。

1階2階の窓を見ると手前の2階の3つの窓の上には半円の飾りがあるが、向こうの5つの窓には飾りはない。その替わりに1階の窓に半円の飾りをつけている。


正面。1階には5つのアーチが並び、2階はこれに対応する5つの角窓。この上部には模様の入った庇がついている。3階は単純な5つの角窓。4階は変化して3つのアーチ型の窓と2つの角窓。ただし窓と窓の間にはアーチ型のメクラ窓のようなものが4つあって、アーチの中にはテラコッタの装飾が貼られている。

4階部分は3階部分よりも後退しており、3階の上部に模様を入れた目立つ軒がある。軒の両端には壷のような彫刻物が据えられている。


安井は満州に就職した後、帰国して大阪の辰野片岡事務所に入るのだが、当時人気のあったアメリカンボザールには背を向け、特定の様式に依存しない独自のスタイルを打ち出す。

建築MAPには『大正13年の大阪倶楽部では、濃密な装飾性と粘っこい量塊感によって、まったく新しい建築的個性の出現を告げた』とある。

同年、安井は独立して、高麗橋野村ビルを手がける。




藤森さんも『安井の自信作を前に、建築界では首をかしげる人の方が多く、「笑われもし、罵しられもし」た。既存の建築知識では間尺に合わない表現に満ちているのだからしかたがない』といわれる。

例えば写真のアーチの間にある柱である。これは壁面に貼り付いているのではなく独立柱である。アーチとアーチの間に半円柱や角柱がある例は多いが、その柱はアーチの上部にある梁を支える形になっている。梁がなければ柱は不要である。

この柱は支えるものが何もないのだから柱としての意味はない。単なる装飾である。寺の本堂の前にある石灯篭のようなものと思ってもよい。

独立柱の上には彫刻が載っている。見たときこれはシャチホコではないかと感じたから魚の彫刻らしい。




御堂筋に出る。写真は日本生命の本社ビル。長谷部鋭吉が設計し、昭和10年に竣工している。

住友ビルジングと同じく正面出入り口にクラシックな様式を残し、全体は平板である。6階と7階の境にストリングコースがあってアクセントになっている。




御堂筋を南を向いて撮る。

御堂筋の向こう側に立つビルは左から順に、日本生命本館→日本生命南館→日動火災→三菱東京UFJ→三菱UFJ信託であるが、ビルの高さはほぼ同じである。

これは関一(せきはじめ)の御堂筋の拡張整備の名残りである。当時、御堂筋沿いに建てるビルは一律30mの高さにするように義務付けられたという。パリのシャンゼリゼ通りを見習ったのであろう。

今は、三菱UFJ信託のビルの先を見ればわかるように、ビルの高さは揃っていない。大阪一のメインストリートに7階や8階ビルを建てたのでは採算がとれないからである。その分だけ御堂筋は崩れていっている。



「大阪ガスビル」。設計は安井武雄、昭和8年竣工。8階建。 安井の代表作であるという。

1階と2階は黒御影石が貼ってある。3階から上は白い壁。ただし各階には、1階2階にあわせた黒く深い庇がついていて平坦ではない。

安井は大阪倶楽部(大正13年)や高麗橋野村ビル(昭和2年)といった独特の装飾を施した建築を経て、次図の日本橋野村ビル(東京。昭和5年)を設計する。ここでは過剰な装飾はなくなり、モダンデザインに近くなっている。

この後建てたのが大阪ガスビルディングである。



藤森さんは安井の日本橋野村ビルまでの時期を「新感覚派」とし、大阪ガスビル時代を「後期表現派」と分類される。また後期表現派を代表するのは村野藤吾・安井武雄・渡辺仁であるといわれる。

モダンデザインは、1)箱型の、2)平坦な、3)白い壁面が特徴の、4)合理的・機能的な建物、である。「新感覚派」は歴史主義にモダンデザインを取り入れたものであるから、部分に歴史様式が残っている。「後期表現派」は歴史様式を取り除いたものである。ならモダンデザインではないかというとそうではない。

モダンデザインでは、大阪ガスビルのように1階2階の黒御影石と3階以上の白壁のような変化はつけない。庇もつけない。ここが「後期表現派」と分類されるゆえんであろうと思われる(シロート考え)。

藤森さんは『村野はじめ後期表現派は、モダニズムに刺激されつつも、モダニズムが主張する白い仕上げと直角の細部だけは認めるわけにはいかなかった。たとえ古いと思われようと、仕上げの味と細部の面白さが人間と建築をつなぐ回路である。と確信していた。』と書かれている。





大阪ガスビルディングが今日のテクテクの終点である。

何々派といわれたのも戦前までのことである。戦後のビルは全部がモダンデザインとなって、藤森さんのいわれる「ツルツルピカピカした箱」が林立するようになる。

今回のテクテクは近代建築についてのよい勉強をさせてもらった。知識が乏しいために自分の判断が下せず、本からの引用に頼ったが、しだいに知識は増えていくだろう。間違って覚えたことも多いだろうが、これもだんだんに矯正されるだろう。今後も好奇心をもって建物を見ていくことである。


行く先の目次... 前頁... 次頁... 近代建築訪問順路...      執筆:坂本 正治